はてなキーワード: 学費とは
久しぶりに飲み会行って酔いの勢いで書く。
30才を少し過ぎたころ今の夫と知り合い、36歳のときに結婚して38最近で第一子を奇跡的に授かった。
子供はまもなく2歳になる。
年齢的なこと、夫も私も中間管理職でそこそこ仕事が忙しいこと、不動産などの資産や、現金の貯金があまりないこと、また高齢出産のリスクも考えると第二子を望むことは現実的に難しい。
けれど保育園で上や下にきょうだいがいる親子を見る度に、「いいなぁ」と思ってしまう自分がいる。
しかし私がこれから子を授かったとして、高齢な両親は子供も嫌だろうし、今の収入では満足に2人分の学費を工面できるかもわからない。
シリアスなシーンのはずなのに、この主人公の格好は滅茶苦茶シュールやな…。
オチ、というか「ミクロではなくマクロに働きかける」という最終的な過去改変の方法はなかなか捻りが利いてるな……まあまあ面白かったやで。
1作目は観たけど、前作から4年も経ってるとほぼ忘れてるな…。
この『花楓』って子が今作のメインヒロイン? 主人公の妹なんか……前作に出てたっけ?
あー、不登校してて学力が足りてなくて、それでもお兄ちゃんと同じ高校に行きたいと。滅茶苦茶勉強してる……健気な子やな…。
……あ、この不穏な電話は、まさか……あああ、そんな……あんなに頑張ったのに……でも、自分も不登校の経験があるから解るわ……え、2年間記憶を失ってた…? そうやったんか…。
……また電話が…。……え? …いやいやいや、そんなことってある…????? 花楓、それでもお前は…お前ってやつは…。
……こ、このエンドロール曲は……こんなん泣くわ……久保ユリカ凄すぎひん???
映画で、自分の人生史上かつてないぐらい感情をグチャグチャにされてしまって、映画のストーリーに至るまでの花楓が気になりすぎたのでTVシリーズを履修するやで……。
……え、この子は花楓……じゃなくて『かえで』? あー、日記帳の表紙の名前がひらがなだったのはそういう…。ものすごくリアルな「今どきの女子中学生」だった花楓とは打って変わって、かえでは天真爛漫でお兄ちゃん大好きっ子で、「ザ・ラノベの妹」って感じの子やな…。
あー、いじめが原因で不登校になって、思春期症候群が発症して……しかし他のヒロインの「存在が認識されなくなる」「同じ日を繰り返す」「二人の自分が同時に存在する」「二人の姿が入れ替わる」という超常的な症状とは違って、花楓/かえでのは(体に突然現れるアザは別にすれば)「別の人格が現れて、それまでの記憶もなくなる」という、現実でも解離性同一性障害として起きそうな症状やな…(性格や言動が幼くなってる気もしたけど、知能や一般常識は年相応みたいだし、「幼児退行」とは違うんかな…?)。
……お、かえでのエピソードはTVシリーズの最後なんやな。おお、あんなにお家大好きっ子だったかえでが、外に出たい、動物園に行きたい、学校に行きたいと…。咲太が次々と新しい女を家に連れ込んだ(←言い方)のが良い方に影響したんやな…。しかし、咲太もかえでが言うことを絶対に頭ごなしに否定したりせずにちゃんと聞いてくれる、いいお兄ちゃんやな…。
……あああ、家の外に出るだけでそんなに……でも、自分も不登校の経験があるから解るわ…(2回目)。
…本人の決意と咲太の支えで外には出られるようにはなったけど、やっぱり学校はハードル高いか……でも、自分も不登校の(略)。
……え、ここは……かえでが行きたがってた…咲太、お前ってやつは……洗ってないなすのの臭いwww 良かったな、かえで……からの、え、ここは……かえでが行きたがってた…咲太、お前ってやつは…(2回目)。
明日はきっと……って待て待て、この展開はどう考えてもフラグ……あああああ、やっぱり……。かえで……かえで……。
そりゃ咲太も、それまでの40日間(10/16~11/26)必死に頑張ってたのをそばで見てた、そしてそれまでの2年間一緒に過ごして、自分が誰なのかも解らず不安に押しつぶされそうな状況なのに「妹になってくれた」『かえで』のことを思うと喪失感が大きくて、単純に「『花楓』が帰ってきた!」という気持ちにはなれないよな…(父ちゃんはわりとそういう感じだったが……まあ2年間妻の看病のために咲太・かえでとは別居してたし、それはしょうがないのか…)。
……いや、それはわかるけど、病室の『花楓』と父親を置き去りにして雨空の下を走り回るのはちょっと…。『花楓』はわりとあっけらかんとはしてたけど、気がついたら2年経ってるっていうし、自宅も引っ越してて、両親とは別居してて…という状況に戸惑わないわけはないんだからそばに居てやれよ……(という感想を自分が持ったのは、映画2作目→TVシリーズという順番で観たからなんだろうな。普通にTVシリーズから観てたら、『かえで』のことはよく知ってるけど、それまで劇中でほとんど描写がなかった『花楓』の方に感情移入することはなかなか無いだろうから…)。
…からの、翔子さん。咲太をよしよししてあげるのはいいとして、かえでの日記帳を勝手に読み上げるのはどうなんだろう…と思わなくもない。
いやしかし、この日記は泣くわ……。目が覚めたら記憶がなく、自分が誰なのかも解らず、父親も状況を受け止めきれず、母親に至っては心を病んで入院してしまった。そんな状況で唯一、咲太だけは自分のことを認めてくれて、一緒に暮らしてくれた。さっき『かえで』が「妹になってくれた」って書いたけど、それ以上に『かえで』にとっては咲太が「お兄ちゃんになってくれた」ことが救いだったんやろうな…。
そして、『かえで』の最後の日のことまで日記に書かれてる…。動物園と夜の学校に行って、翌朝目覚めた『花楓』が筋肉痛を感じるほど肉体的な疲労があったはずなのに、帰宅してから寝るまでの間に日記を書き上げたということは、『かえで』は、これが自分に残された最後の時間だということを解ってて、咲太に自分の想いを伝えなければいけないと思って、力を振り絞って……うう……。
翌朝、とりあえず立ち直って再び見舞いに訪れた病室で「退院したら動物園に行くぞ」と『花楓』に言ってしまう咲太さん…。なんか「元カノの面影を今カノに見てる」みたいな…。まあ、ちゃんとしたお別れもできないまま行ってしまったから、気持ちはわからなくもないが…。
…からの、麻衣さん。撮影の合間を縫ってわざわざ金沢から駆けつけるという理想の彼女ムーブ。…からの、翔子さんの書き置きが見つかって修羅場…。で、怒ってトンボ返りした麻衣さんを追いかけて金沢まで行ってしまう咲太さん……いや、そんなことしとる場合か!!? 言い訳と謝罪は後日にして! お前は!! 今は!!! 『花楓』の!!!! そばに居てやれ!!!!!(自分が麻衣さんというキャラクターに対してそれほど魅力を感じないので、このへんの咲太の行動に対してあまり共感できなかった…)
花楓、登場シーン数は少ないけどちゃんと出てたんやな…(当たり前)。
注目すべきなのは、美容院で髪を切るシーン。咲太、お前、もうちょっと感慨とかないんか…? 髪型が変わって、またひとつ『かえで』の面影が薄くなってしまうシーンやぞ…。(まあ「TVシリーズの続き」ではなく「1本の映画」として考えると、本筋とは関係ないそういう描写を入れるとブレるからしょうがないのかもしれんが…)
しかし、髪を切ったあとの「ど、どう…? 調子に乗ってるように見えない…?」というセリフ、いじめに遭ってた花楓の過去を考えると結構重いセリフではあるよな…。
1回目に観に行ってもらってたやつ。……あああ、これこれ! このエピソードが読みたかった!! 咲太と花楓(と麻衣と豊浜)が動物園に行くやつ!!!
行ったのは映画2作目のあと、3月ということだけど……まあ、そう簡単に『かえで』のことを忘れられるわけはないよな、咲太…。一方で、いつまでも『かえで』の面影を『花楓』の中に見てしまうのは、『花楓』に対してどうなんだ…?と思わなくもないし……う~ん……。
最近はずっと、かえでと花楓のことを時折考えて、そのたびに泣きそうになってしまう…。これは『かえで』ときれいな形でお別れができなくて、咲太も未だに未練があって、でも『花楓』を受け入れていないわけではなくて……という複雑な心情が続いていて、(少なくともアニメで描かれた範囲では)解決していないからだと思う。咲太、お前、『花楓』を動物園に誘ったのは、もしかしたらそれをきっかけに『かえで』が帰ってくるかも…という期待が、ほんの僅かでもあったんじゃないのか……?
かえでと花楓、2人が(何らかの形で)直接会うことができれば、一番いいわだかまりの解消になると思うんだけど……まだアニメ化されてない原作小説にそういう展開があったりしないのかな……と気になって、Kindleで全巻ポチってしまった(まだ読んでないけど)。今まで電子書籍ってほとんど買ったことなかったんですよ…。
それだけじゃなくて、コミカライズ版、BD全巻、OP、ED、サントラのCD、前売り券の特典についてたグッズ、劇場販売グッズ、予約受付中の花楓のフィギュア……この数日間で一体何万円を使ったただろうか? でも後悔なんてしてない、するわけがない。
特定のアニメ作品にハマったことは何回もあったけど、あるキャラクターを実在の人物のように感じたのは初めて。
今はそう……藤沢に行きたい。かえでが生きた、花楓が生きてる街の空気を感じてみたい。それと上野動物園に行って、洗ってないなすのの臭いを嗅ぎたい。
今まで「聖地巡礼」って「ふーん、世の中には物好きな人がいるんやな」くらいの冷めた感じで見てたけど、こういう気持ちやったんやな…。
……薄給だし、休みもあんまり取れないけど……。…新幹線で片道○時間、切符代が×万円…。日帰りだと流石にしんどいので1泊…いや、2泊…。となると宿泊費も…。
それを捻出するためには、今の支出を見直して…。買うだけ買って積むだけだった漫画や書籍、Steam、利用頻度の少ないサブスク、
それほど興味がなくてもわりと頻繁に行ってた映画……いや、でも青ブタと出会えたのはそのおかげだし…うーん……。
それと、かえでと花楓があんなに頑張ったんだから、自分ももう少し頑張って、今のただれた生活をなんとかしなきゃな…と思っている(部屋めっちゃ汚いんです…)。
(おしまい)
教室にカメラが効果あるかないかで言えばそりゃあ、セクハラ講習よりかはある。
ただ、わかりやすいのは教師二人のほうだが、じゃあ教員二人を、今の教員一人の給料で雇うのかい
どうなんだい、という問題があるよね。
で、そこまでして「効果がある」投資をして、学校での性犯罪がゼロパーセントになったとしましょう。
でもその「ゼロパーセント」っていうのは、100年に1件あった事件が、1件減りましたなんじゃねーのかい。
そのために学費は2倍になったのかい。それだと、そもそも学校に来れない生徒が増えてるかもしれねーよな。
これはだいぶ誇張した話だが、監視カメラも似たような問題あると思うよ。
そもそも全教室対象の投資額や更新の問題、あとカメラって性犯罪以外の普段の生徒たちも映るし。
俺が気にしているのはそういうことだ。
先日娘が生まれた。
私と妻共に初産で、互いの両親から離れた地方都市で、新生児の娘と3人で暮らしている。
強い違和感を覚えたのは、娘の出生後に私の両親が訪れた際のこと。
ミルク育児を選んだ妻に対して、「母乳でなければ健康な子供が育たない」「愛情が育まれない」などと平気で悪態をつく。私が居ればその場でフォローするなり嗜めるなりのことは簡単なのだが、私が赤子の世話で外している時に限って言ってくるのでタチが悪い。
母親はミルク育児に理解はあり、妻の味方になってくれようとはするが、その場で強く父親を否定できない様子だったそうだ。
その時点では妻もそんなに気にしていない様子だったが、問題は続く。
幸いにも無事に娘が生まれたことは、互いの両親や親戚に祝福され、様々なお祝いもいただいた。妻の両親にとっては初孫ということもあり、日頃の感謝を伝える意味でも「みてね」という写真共有アプリで、互いの両親に日頃の娘の成長を共有している。結論から言うと、これが良くなかった。
動画と写真を共有を開始してまもなく、私の父から「母親に笑顔がないので赤ちゃんが不安になります」「ミルクは太りやすいです」などのクソリプが、連日私や妻の投稿した写真や動画に紐づいたコメントに投稿されるようになってしまった。コメントは妻の両親も見られる仕様になっており、私が「娘は妻のことが大好きなので何も問題ないです」「余計なお世話😎」と応戦するも、まるで意に介さない。さすがの妻も気にせずにはいられない様子で、次第に娘の状況を報告することが少なくなっていった。
私の父親は典型的なSNSをさせてはいけない部類の人間で、ネットリテラシーはおろか、普段のコミュニケーションでも相手の状況や価値観などを想像することもなく、思いついたことをその場で発言してしまう。無論本人には悪気はなかろうが、故にタチが悪い。離れて暮らすには支障は無いが、親戚や、特に奥さんの両親や親族のいる場所に出してしまってはいけない人。
増田諸兄も同様の経験はないだろうか。Twitterで晒しあげられるクソリプ見て、一体どんなやつが投稿しているのやらと笑っていたら自分の親だったという絶望感を味わったという話だ。
以上で話はいったん一区切り。この状況について、今すぐにどうこうする気はないし、対処療法的な策は少し考えれば思いつく。その気になれば父親のアカをBANすることも容易い。いったんはそれで解消する程度のいざこざである。
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一言で言えば、私は父親との関係をミスっている。振り返れば関係構築の機会が十分に与えられることがなかったのかもしれない。
父は高度経済成長期の只中に生まれ、首都圏の大学卒業後にメーカーの営業一筋40年間。定年まで勤め上げ、高校卒業後に専業主婦となった母親と共に3人の子供を育てた。何せ企業戦士という言葉がポジティブに使われていた世代よろしく、私が小学校に入学して以降は単身赴任で全国を転々とし、思い返せば思春期以降にまともに話をした覚えがない。そして、私が高校を卒業後に家出同然で地方へ移住してしまって以降、その機会は完全に奪われてしまった。
様子がおかしいこと自覚したのは、父の定年後に久々に実家に帰ったときのこと。父は大概リビングで無言でスマホをいじっている。何をしているのかと思えばyoutubeで右翼コンテンツの類をヘビーリピートしているのだった。ちょうど『ネット右翼になった父』というwebメディアの記事がバズった頃。当時の私にとってはそのことがひどく憂鬱で、同世代の友人にそのことを共有したりしてとりあえず笑うことにしたのだが、父とは特にコミュニケーションすることはなかった。
家族を経済的に成立させるという点において、父は立派な人間だった。子供の頃はよく遊んでもらったし、海外旅行や外食はほぼ無かったが、進学費用をはじめ経済的に苦しかった記憶は無いし、不倫やDVなど、いわゆる毒親と呼ばれる要素は皆無だったので、総合すれば素晴らしい父親に恵まれたと今でも思う。一方でコミュニケーションに難があり、また、個人の思想やライフスタイルの多様性が尊重される時代において、価値観をアップデートする機会に恵まれなかった結果として、前述のような問題として表面化してしてしまったと感じている。
勝手にアプデ済ませとけと思う一方で、父にとって最も身近な若者である私と兄妹が、その役目を果たすことができなかったことに責任の一端を感じないでもない。父同様に、これまで私も父との会話をサボってきたのは事実なのだから。
こうした問題を世代間における価値観のギャップと切り捨て、ともすれば縁を切れと脊髄反射で発言する輩がいるが、私はそれをサボりたく無いのだ。現実的には、両親のサポートが必要な場面は今後も生じるだろうし、観念的には、そうした家族の面倒ごとは大袈裟に言えば私のアイデンティティそのものに関わってくる問題だと思う。こういう事象をサボった結果として、自分が将来娘と絶縁する世界線もないとは言えない。無論、努力した結果絶縁されるのは仕方ないとして、それをせずに絶縁するのは違くない?と。
少し極端な物言いになってしまったが、要するにアプデに失敗した老人の暴走という問題として片付けたくはなくて、家族のコミュニケーション不全を見直す良いきっかけにしたいと思っている。昭和の終わり〜平成の初めにかけて生まれた人間にとって、同様の問題を抱えている人は多いと思う。死ぬほどだるいしムカつくけど、一緒に頑張っていきましょう。
最後に妻よ、私と父親のサボりによって被害を被ってしまって本当に申し訳ない。時間はかかるし、今後も問題は起こるかもしれないけど、少なくとも今よりは改善できるよう努力します。
娘よ、私の至らぬところで君の祖父という人間について、希薄な情報しか残すことはできないかもしれないけれど、父ちゃん頑張るので許してくれ。
関東のどこか知らないけど、東京都内や政令指定都市の真ん中に住んでるんでない限りは、家買えるなら買っとけと思う。
・子育て世帯は家持ってるのが普通すぎる。しかも、だいたい新興住宅地に集中して暮らしている。持ち家がある者同士でコミュニティが作られているから、今の疎遠社会でも子供達がご近所さん同士で仲良くなれるし、集団で登下校もできて防犯にもいい。
・賃貸の民はだいたい地域活動の類いを免除されるので、その点楽ではあるのだが、地域内で孤立しやすい。単純、近隣の人に会う機会がないのだ。
・子育て世帯が賃貸で暮らすのが普通じゃないので、物件が少ない。アパートが単身世帯向けばかりだったり、あっても周り全員外国人一家でしかもそのそれぞれが別々の国出身の人で話が全然通じないとか、ある。あとお年寄りばかりとか……基本的に気さくだけど、子育てについては面倒臭い小言言ってきたりもするよ。
・賃貸物件の立地が悪い。大概陽当たりが悪い。日照時間の長い地域なのに、コインランドリーに晴天の日にも利用者が多く集う。賃貸だと洗濯物を干して乾かせるひなたがないから。
南側が遮られてる賃貸物件には下着泥など制犯罪者がよく現れるし。
・賃貸だと子供が家に友達を連れて来にくい。招けないなら招かれもしない。子育て世帯多い地域なのに我が家だけ孤独ってことにもなりがち。
・短期で出て行くと思われがち。大家さんが代替わりすると面倒臭いかも。法律上は追い出されはしないにしても。
子供の進学のタイミングで引っ越し出来たら理想ではあるが、進学費用と一家分の引っ越し費用を工面するのは難しいぞ。そこはローン返済で否応なしに計画的にお金を使わざるを得ない人の方がちゃんとしてるし忍耐強い。
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「お前が呑気に実家暮らしの女学生の身分で音楽などやっていられるのは誰のお陰だ」
という言葉は、学費と生活費を人質にとった恫喝だとも思った。口喧嘩なんかしたくもないから細心の注意をはらって生きてたのに。
大学を休学し、女子大生というアドバンテージを使って水商売で働けば一人暮らしの生活費と、あと1年分の学費を貯めることなどチョロいだろう、そう思っていたが、その見通しは甘かった。
そもそもコロナ禍で飲食業は店を閉め、風俗業も同様で客足が途絶えていた。そして少ない客を奪い合っていたからか、働き始めたキャバクラでは現実の厳しさを味わっていた。
売上No.1の嬢は女王様として君臨し、それに付き従う子分の女がいて、悪口、陰口、ちょっとした意地悪、接客の妨害といった小さな棘のような攻撃を女王様と子分からチマチマと食らうのに辟易していて、周りの女たちも庇ってくれることはなかった。
常連客の威張り散らして自慢話ばかりの禿げた社長に「寂しいから会いに来て」とLINEするのもアホらしくてやってられず、旅館の娘なのにサービス業がまったく向いていなかった。そもそもそれほど器量が良い方ではないということも改めて思い知らされた。
結局、職場と住処を幾つか変わり、大阪、東大阪のスナックでカウンターレディとして働いていた頃には大学を休学し実家を飛び出してからニ年ほどが過ぎていた。それでも大学に戻るつもりではいたから、何度失ったって取り返してみせるよ、と思っていたし、偉そうな社長が高級腕時計を見せびらかしながら話すねちっこいエロ話より工場労働者の陽気なシモネタの方が笑えて楽しかった。アパートから近鉄電車で二つ向こうの駅には司馬遼太郎記念館もあった。
京都時代は実名で活動していて、雑にピックアップを埋め込んだアコギを掻き鳴らして電子的に変調した爆音ギターにのせてフォークを歌うというスタイルだったが、休学して一人暮らしを始めてからは音楽どころではなかった。
一度、東京のハードコアバンドにVoで誘われたこともあったが、パンクというものは中央にいてはならぬ、周縁にいて少数派として生きねばならぬ、と頑なに思っていたのでそれも断ったのだ。
だが、遂には名前を変え「東大阪半日夢想沿線」という名で電子楽器によって幻想的で悪意のこもった電子雑音を奏でるスタイルで活動を再開した。激しいライブアクションのせいで機材はすぐに壊れてしまうから楽器は日本橋の中古屋で安物ばかりを揃えた。
再開した音楽活動は客こそ少なかったが手応えはあった。しかし名前を名乗るとギョッとする者もおり、また年配の人物に「極左テロリストの名前などを元ネタにして、被害を受けた人や家族が知ったらどう思うのか」と指摘され、己の軽率さを悔い、この名前を名乗ることも音楽活動も中断してしまったのだった。
そんな折に近鉄布施駅の近くで垢じみてうずくまっている女がいるのを見掛け、若いのにホームレスだろうかと目が釘付けになっていると、その女がこちらを見つけて「金を貸して欲しい」と近付いてきた。よく見ると女は女王様に金魚のフンのようにくっついていた子分の女、ジュリだった。
話を聞くと、女王様は客だった起業家と名乗る男に入れあげてしまって、男が何をしでかしたのかフィリピンに逃亡すると女王様も後を追って行ってしまったのだという。女王様がいなくなるとジュリはたちまち他の嬢からいじめられるようになり、店を辞め、あれやこれやがあって住む家もなくなってしまったのだった。
散々意地悪された女だったが、彼女が弱さゆえに強い者に媚び付き従っていたことや、色んなことを我慢している女は強くて奔放な女に憧れてしまうことをアキコは薄々知っていたから哀れに思い、数日なら部屋に居てもよいと伝えた。そういう女は痛みにとっても弱いから。ジュリは泣きながら今まで自分がしてきたことを侘びた。
ジュリは意外と生真面目で、アキコが仕事から帰るときちんと部屋を掃除してくれていて、冷蔵庫にあるもので食事なども用意してくれた。そしてある日、部屋に帰るとジュリは開け放った窓に向かってアキコのギターを爪弾いていて、それはラジオからよく流れてくるOfficail髭男dismの曲だった。
アキコは脳内で火花が散って、ジュリにバンド結成を持ちかけた。バンドをやるならまだ部屋にいてもいいと交換条件もつけた。ジュリは喜んで同意し、よくよく話を聞くと中学時代は軽音楽部であったらしい。そして中学を卒業してから家を出て働き始め、ひょんなことから女王様と知り合い水商売で働くようになったのだという。隠し事だらけ継ぎ接ぎだらけの一人で心細く生きていた女が筋の悪い人物をメンターだと思い込むことはよくあることだ。そして年上だとばかり思っていたが、ひとつ年下だということもようやく知ったのだった。
早速近所のハードオフに行ってエレキギターとベースを見繕って一番安い激安の物を購入した。ジュリがヒゲダンを爪弾いていたことから、今度はポップなものをやってやろうと思い、それらしい曲を捻り出したが、アキコはベース初心者でジュリもギターはブランクがあり、リズムは安物の電子楽器だったので、劣化したビッグ・ブラック、初期の少年ナイフからも百万光年離れているような、やさぐれパンク以下の酷い感じにしかならなかったが、それは初期衝動ゆえであると宣言することで自分たちを納得させた。バンド名もOfficial髭男dismの名前を反転したような、公式に対して無法、髭に対して女の装飾の象徴である爪、そしてダンディズムという一流の男に対して二流や二等、二級品という意味を冠して、Lawless爪Second-Classと名付けた。何事もうまくいっていない自分たちにはお似合いの名前だと二人で笑いあった。
数曲をでっちあげ、今度はPOPなロックをやるのだと意気込んで、アングラ凶悪バンドが演奏しないような阿倍野にあった小洒落たライブハウスのオーディションを受けた。
「まあええんちゃう?」という曖昧な判定だったが、出演はさせてもらえることになった。
阿倍野のライブハウスに出入りするようになると、女二人だと色んな男が声をかけてくる。なぜならカワイイ系のアクションがジュリはとてつもなく上手かったから。でも音楽好きやバンド仲間だと思えば話も弾むが口説かれたりするのは面倒だった。しかしこっちはキャバで修行した身だ。うまくかわしていたし、ジュリはその辺りの身のこなしも上手かった。それでも面倒くさい人物もいた。
そのライブハウスに出入りするベテランのブルースマンで、最初は何かと世話を焼いてくれる風に近付いてきたが、だんだんと遠慮がなくなってきて、あれやこれやと説教をするようになっていった。相手をしているとイライラしてくる。なぜこうなのか。ワガママ放題大人たち。どうして若い女は何も知らないと思っているのか。
ある日、演奏を終えて楽屋に戻ると、当日は出演者でもないのに例のブルースマンが楽屋でくつろいでいて、アキコとジュリの楽器を値踏みし
「もっと良い楽器を使わないとだめだ」みたいなことを言い出す。そしてなぜか自分の黒いギターを持ってきていて、それを引っ張り出し
「50sのフェンダー・ストラトキャスター、クラプトンもこのモデルを使っている」などとウンチクをたれ始めた。
もう鬱陶しくて堪らなかった。怒りがふつふつと湧き起こってアキコはそれを抑えきれなくなり、そのストラトを奪い取るとネックを持って大きく振りかぶり思い切り壁に叩きつけてやった。その場にいた他の人間も唖然として誰も声を出せず、壁の石膏ボードには大きな穴があき、ストラトのネックは折れて弦だけがブラブラしている。アキコも放心状態で、これは殴られるなと覚悟した。
しかしジュリが咄嗟にアキコの腕を掴んで強引に引っ張りそのまま駆け出した。そしてそのまま店を出て走って、ずっとずっと走り続けて、ひた走る道路にはもう街灯さえないけれど、新今宮の駅の辺りまで走り続けて、やっともういいだろうと立ち止まって、息が切れて苦しかったけれど二人で顔を見合わせて死ぬほど笑った。嘘じゃない泥だらけの笑顔。ギターもベースも置きっぱなしだったけれど取りに行くつもりもなかったし、大して惜しくもなかった。
その後ブルースマンはアキコを訴えて、結局アキコは和解を受け入れた。調停の場でブルースマンの代理人弁護士に
「無法なんて名乗っているけれど法は法なので、賠償金の支払いはお願いしますよ」
と嫌味を言われたのが忘れられない。アキコは感情のないアイムソーリーだけを告げた。
もう大学に戻ることはないと薄っすら思っていたが、なんだか心の拠り所のようではあったので貯金はしていた。けれど、破壊したビンテージギターのせいで全てが消え失せてしまった。
しかし、やがてその話は噂になって、どうやら凶悪な女パンクのバンドがいるらしい、他人の高価なビンテージギターをぶち壊して平然としているような奴らしい、以前「東大阪半日夢想沿線」という不埒な名前でやっていた話の通じない女らしい、とその他あることないこと尾ひれ背びれもついて伝わっていった。まるで魔法のように簡単に広まってく噂話。お陰で奇特な人やバンドから少しばかり対バンの話も貰えるようになった。
アキコは今も近鉄電車の傍のアパートに住んでいて、ジュリも未だにアキコの部屋に居候している。貯金もなくなり、もう大学に戻ることはないだろうし、カウンターレデイの仕事は先の見通しもなく、何も状況は変わっていなかったが、それでも二級品なりになんとかやっていくしかないとアキコは思っていた。
アメリカは自腹が当たり前。
子の悪口をSNSで言ってはいけない理由だわ
これからもっとこう言うことが増える pic.twitter.com/ukv1aN7f8z— あーちゃん (@gazooai1) June 20, 2023
1991年、高校3年だった私はバブル崩壊のニュースが騒がれていても何も考えていなかったし危機感もなかった。
生まれてから株価や地価が上がり続ける好景気のニュースや、良い時計、良いブランド、良い車、お洒落な都会の暮らしと浪費を煽るTV番組しか見てこなかったので
経済が右肩上がりなのは1+1は2だというのと同じくらい揺るぎない当然の事実だと刷り込まれていた。
だからバブル崩壊なんて聞いても一時的な大騒ぎだと思っていたし歴史の教科書に載るレベルの事が今起きているなんて実感は全くなかった。
もちろん、後から我が身を以て知る事になるのだけど。
大学は都会の人、お金持ち、頭のいい人が行くところという認識。女性の大学進学率は身の回りの体感で2割以下だったと思う。
就活は東京に行くと良い。交通費がもらえるから面接のスケジュールを何社もうまくまとめれば数十万になる(関東は飛行機の距離)
知り合いがクルーザーを貸し切りでコンパしていたらしい。タクシーが捕まらなすぎるから札束を見せて止めるし、もちろんチップも弾むらしい。
あと高校生でも高確率でヴィトンの財布持ってた。コンビニでたむろしているヤカラ系の人たちも、上下スウェットでヴィトンのポーチが定番だった。
金を稼いでブランド物やいいものを買う!時代の空気がそんな感じだったから、流されやすい私も高校生の時はバイト三昧で稼いでは散財していた。
私は広告デザイナーに憧れていた。頭の出来は悪かったけど絵をかくのは好きだったし
弟妹に比べてあまり可愛がられてこなかったので、おしゃれな都会でかっこいい仕事をしている自慢の娘として褒められたかったのだ。
それでデザインの専門学校へ進学した。生活費と学費はバイト三昧でどうにかしたが、絵の課題の物量とバイトの両立は難しくて卒業はギリギリだった。
クラスで一番絵が美味かった友人はデザイン業界には就職できずにパチンコ屋に就職した。
運よく個人のデザイン事務所に就職できた友人は手取り13万で会社に泊まり込むような毎日だと言っていた。
私は朝も夜もバイトしながらの就活がつらく、20社ちょっとで圧迫面接されたタイミングで早々に心折れてしまった。
でも今思えば1994年なら私もまだなんとか職種を選ばなければ就職できたのでは?広告業界はかなり厳しかったけど。
スキルも勉強も微妙な成績で、顔も微妙だからやっぱり厳しかったかな?
ただ、今よりは派遣も幅を利かせてなかったから バイトで頑張って正社員!という流れも現実的で、だからとにかくいろいろバイトしまくろうと考えた。
コンビニ、ビル清掃、ファストフード、新聞配達、アパレル、カラオケ屋、居酒屋、パン工場、食品加工工場、弁当屋、デパート、ラーメン屋、ゲーセン
最低賃金は600~700円の時代。掛け持ちで250時間/月くらい働いて手取り15万以下、賞与も有給も無し。家賃は5.5万円。
新聞やテレビでは「最近の若者は責任感がない」とか、「フリーターという自由な働き方!」とか好き勝手言って
親にもいつまで根無し草でいるつもりなのかと責められた。好きでやってんじゃねーよ。
結局バイトから正社員のルートは3年やってダメで、バイト先の先輩が就職したIT企業に誘われて、やっと正社員として就職できた。
この時の親の喜びようといったらヤバかった。花束送ってきたもんね。
大手の孫請け・曾孫請けくらいなので単価は安いし、すでに炎上している案件を受けることが多かった。
1ヶ月連勤とか、朝方家に帰って9時にまた出社するとか、片道の航空チケットを渡されて「今から飛べ。バグを直すまで戻ってくるな」なんて事もあった(2ヶ月かかった。仕様バグだった)
しかも名前だけ役職だったので、10時間を超えた分は全てサービス残業なのだ。賞与もまともに貰ったことない。
あんなに親が喜んだのに辞めるなんて言えなかったし、若いうちは体力もあったのでなんとかなった。
でも30を超えて疲れが蓄積して部屋の掃除ができなくなり、食事もコンビニばかりで、美容院行ったり化粧品買いに行く時間もなく
そもそも仕様書ができてないから想像で作るしかなかったコードレビューで毎日詰められて、17時以降にも1人月分のスケジュールが割り当てられ
今はなんやかんや縁があって地方都市のホワイト企業で働いて生きている。
この会社でも同年代は絶望的に少ないので、団塊とバブル世代が定年を迎えたら部長・課長のなり手がいない。
初の女性課長代理やらないかと言われているが、バブル世代の後始末を彼らよりずっと安い給料で、課長以上の成果を求めるくせに課長代理止まりなのだ。
断るつもり。
世の中を恨んでいるし、特に団塊とバブル世代の勝ち逃げ組は呪いたいくらいだ。ぜひとも来世はブラック企業で使い潰されて欲しい。無償で!
実家は太くなく、偏差値は55くらい。顔面偏差値は47くらい。コミュ力は中の下。人より強いと感じるのは不本意だが「我慢する事」
理解のある彼くん無し。それでも穴はあるとか言われるだろうが、穴として使う人と人間同士の信頼関係を構築するのは難しく、私には無理だった。
そりゃめちゃくちゃに頑張ったり美人だったり頭良かったり運が良かったり、何かに突き抜けていれば同じ年代でも勝ち組にはなれたかもしれないので、能力も頑張りも見た目もそうでもない自分がダメだったのは自業自得かと思ってた。
でも私のような中くらいより少し下の人間が、中くらいより少し下のままでもそこそこに生きていける時代になったらいいねって思う。
そしてその為には、私達は救われないまま死んでいった方がいいのだとも思う。
ググる気ないなら、bingちゃんやChatGPTちゃんに聞くと良いと思うの
上記「1.高等教育の修学支援新制度」の対象とならない本学の学生(研究生,聴講生及び科目等履修生を除く)で,以下のいずれかに該当し,授業料の納付が著しく困難であると認められる場合,選考のうえ,授業料の全額又は半額が免除される制度があります。
(1) 経済的理由により入学料の納付が困難であり,かつ学業優秀と認められる者。
(2) 申請者若しくは学資を主として負担している者が風水害等の災害と受け,授業料の納付が著しく困難であると認められる者。
(3) その他,やむを得ない事情があると認められる者。
社会人とは言え、大学進学にかかる学費の支払いは大きな障壁。ですが、社会人も対象に含めた支援制度がある大学もあります。今回は社会人でも受けられる奨学金や給付金、案外知られていない授業料免除制度について紹介します。
これ自分もだ
学費と生活費を自分で払ってる学部生だけど「学部生が独立家計なのは認めない(院生は条件付でOK)」と言われて給付金と学費免除が申請できなかった
東大お前のことだよ
誰でも良いから教授のところに行って, その身の上話聞いてもらって, ちょっと学費払えないから貸してほしいって頼めば1000万円くらいなら貸してくれると思うよ. その価値が増田にはある.
全然難しくない.
俺は昔から医者になりたかった。中学生のときにはもう医者になろうと思っていた。
しかし現実は非情であった。俺が高校1年生に上がった頃、俺を女手ひとつで育て上げてくれた母がぽっくりと逝ってしまった。
そこで北海道の祖母の元に預けられることになったのだが、祖母はすでに70歳を超えており、さらに軽度の認知症であった。
必然的に高校は転校か退学を迫られたわけだが、祖母の強い要望により俺は高校を退学して働くことになった。
これが10年ぐらい前の話だ。
祖母の友人のパン屋にて最低時給で働きつつ、少しづつ大学進学資金を貯め、高校卒業認定試験に受かった。
しかし19歳のころ、今度は祖母が死亡。俺は天涯孤独の身になった。
20代も半ばに過ぎたころ、ついに生活に余裕が出てきたので俺は念願の医学部受験に挑戦することにした。
俺はことさら不幸自慢をするつもりはない。と言うか、自分が不幸だと感じたことはない。俺と同じ待遇でのたれ死んでいるやつは確実にいるはずだし、これが俺の標準だからだ。自分の状況に文句を言っているだけでは、明日の飯も食えない。
さて、医学部受験の話に移る。俺は北海道に住んでいたので、道外の大学に行くことは資金的に不可能であった。
北海道では大昔から医師不足が叫ばれ、コロナ前から自然に医療崩壊していると指摘されて久しいが、その割には医学部が3つしかない。北海道大学、札幌医科大学、旭川医科大学の3つだ。
これが首都圏だったならば私立の医科大学という選択肢が視野に入るのだろうが、資金的に無理だった。私立医科大では受験料に10万円近くかかるし、そもそも受かったとしても授業料を借金だけでは賄えない。この仕組みを知った時、「そりゃ、医者の息子は医者になるわ」と思った。俺のような貧乏人は受験料すら払えないが、彼らはガンガン払える。スタート地点からして違うのだ。
俺は北海道大学の医学部医学科を焦点を当て、ついには受かった。1年間集中して勉強に捧げたため、生活費はとっくに底をつき、受からなければ首を吊るしかないという状況であった。
当然、入学費や授業料が自前で払えるわけがないので、日本学生支援機構に借金をして入ることとなった。
さて、ここでぶち当たったのが「給付奨学金制度」というやつだ。
これは比較的最近生まれたもので、生活の苦しい学生に学費を給付するという制度だ。
さらに、「給付奨学生」になると国公立ならば大学の授業料が無料(!)になるというおまけ付きだ。
なんという良い制度であろうか。
俺は早速申し込んだが、却下された。
というのも、この給付奨学金制度では「高校卒業2年以内(20歳以下)」でないと対象外になり、問答無用で失格となるのである。
俺は高校卒業認定をとっていたが、これも「1 8歳から5年以内(23歳以下)」でないと対象外。どれだけ貧しかろうと、どれだけ生活に困窮してようと、23歳以上に給付奨学金は絶対的に出ないのである。
「それならば仕方がない。なら給付奨学金は要らないので、授業料を免除だけしてほしい」と言ったところ、これも却下であった。
なぜならば「給付奨学生」でないと「授業料免除」には該当しないのである。
それならば給付奨学金が無い時代の授業料免除はどうなっていたのか?それは大学が独自に学生の収入を元に授業料を免除できていたのだ。
その頃には20代、30代だろうが、収入が少なければ授業料免除になる可能性が高かった。
しかしながら「給付奨学金制度」が出来たことにより、「授業料免除制度」は「給付奨学金制度」の一部分扱いになり、20代は問答無用で借金をしなければいけなくなったのだ。
俺は愕然とした。
というのも、ほとんど俺と同じ待遇で医学部に入った5年生の先輩と話す機会があったからだ。
その先輩は給付奨学金制度がない時代に20代後半で大学に入り、大学独自の授業料免除制度でなんとか大学に入ることができたのである。彼が卒業するまでは免除対象であるという。
国は「学び直し」を声高に叫んでいるが、これが今の実態である。
謎の線引き、謎の境界線。
まるでヨーロッパ人に勝手に国境を引かれたアフリカ人のような気分だ。
追記:
「給付奨学金」は経済的困窮者が大学に行けるようにするための制度だが、果たして高校を卒業してから2年以内に大学に進学しようと決められる困窮者が大多数なのであろうか?
経済的困窮者は高校を卒業後、「大学に行く」というメリットがありつつも、働かなければ生活がままならない者が多いはずだ(俺は高校すら行けなかったが)。
そういった人々が成人を迎え、「大学に行こう」と決めても、国が一律かつ絶対的に決めた「高校卒業から2年以内まで」という謎の縛りで困っている人はたくさんいるはずだ。そんな気持ちでこの記事を書いた。
国に問い合わせて見ると、「卒業から2年以内」を変える予定は無いようだ。「どうして卒業後3年や4年や5年以内ではなく、2年以内なのか」と質問しても「そう決まっているから」としか言われなかった。俺たちは制度の中で生きているので、制度の内容によって人生は大きく変わるし、それは納得できる。しかしながら、「なんとなく」で決められた制度に人生を大きく左右されるのはキツイ。
追記2:
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