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はてなキーワード: 学校生活とは

2019-12-15

他人お下がりはさすがに。

中学入学時、親が近所の卒業生にもらってきた他人お下がりアルトリコーダーを使わされていた。

制服も、カバンもその人のお下がり

全くサイズの合っていないぶかぶかのジャケット、引きずるように長いスカートを腰のところで折り返して三年を過ごした。

私服は親がもらってきた近所の既婚女性若い頃に着ていた洋服

お小遣いは月に1000円。同級生には「それでなに買うの?」と馬鹿にされた。

当時は、うちは貧乏から仕方ない、我慢しなくちゃいけない、と思っていた。

親にもなにも言えなかった。

実際は、うちは年収2000万越えの比較的裕福な家庭。(大人になって源泉徴収を見て気がついた)

わたし一人っ子

決して、買えなかったわけではないと思う。

母は節約好き、というよりもケチで。電気水道など大した意味もないのに執拗に消して回るタイプ

子供学用品までもそんなに節約たかたか

わたし平穏学校生活よりも自己満足のための節約大事だったか

時々思い出して、「リコーダー」「他人お下がり」とかで、検索してしまう。

兄弟間のお下がりで悩んでる人はいても、さすがに他人の唾液のついたリコーダーを我が子に使わせようとしている親は見かけない。

そんなにあり得ないことなのかと、今更傷つく。

子供にはわからない、だから大丈夫

そう思っても、大人になって反芻した時に傷ついたり、怒りがこみ上げることもある。

子どもに接する時は、今だけじゃなくて大人になってからどう思うかも視野に入れるべきなんだろうな。

2019-12-13

女になれた私

27歳 女 身長180センチ

日本男性平均身長より高い。

物心ついた時から周りより頭ひとつ分以上背が高く、小学6年生で170センチを超えていた。

さな頃は年相応にセーラームーンキティちゃんなど可愛いものが好きで、よく身につけていた。

だが、自分可愛いものが似合わないのではないか、と気づき始めたのは幼稚園の時。

発表会で笠地蔵をやることになったのだが、その中に狐の役があった。

黄色いふりふりの衣装がとても可愛らしく見え、私はその役に立候補した。

だが、他にも複数候補者がおり、1人狐役を諦めなければいけない。

本来ならジャンケンなどで決めるのだが、そのとき私にはそれすら選択にはなかった。

なぜなら当時の担任直々に「狐役は諦めて欲しい」と言われたからだ。

衣装サイズ問題や、おばあさん役の方がぴったりだからと言われた。

そのとき、ふと目の端に見えた狐役の子たちは皆平均身長でとても可愛らしく見えた。

そのとき私は「背が高いと可愛いものは選べないんだな」と思うようになった。

幼稚園児が考えることなのであまりにも極端だと今は思うが、己の顔立ちやそもそもの体型なども、幼いながら人より劣っていると気づいていたのだと思う。

それから少しずつ可愛いものに興味を示さなくなった。だって、似合わないものを身につけてもダサいだけだし、と。

気付いたら女らしさ皆無な子供に育っていた。

うぜぇ、だまれカスなど口走るなんとも可愛げのないクソでかい女の子誕生していた。

また、中学スポーツ系の部活に入ったことにより、髪の毛もベリーショートに切り、服のサイズメンズしかなかったため、見た目はどこからどう見ても男にしか見えなくなった。

デパートなどの女子トイレに入ればすれ違うひとに驚かれトイレマーク確認されることは毎回のことなので慣れた。

制服姿や少しでも女らしい服装で外を歩けばみんなが振り返る。

最初は気のせいだと思っても、それは気のせいではなかった。

友達から「今あの人あなたなのとみてたよ、すごくびっくりしてた」と毎回報告されていたからだ。

(中途半端田舎からっていうのも1つの理由だったのかなと思う)

学校生活ももちろん私を女として扱う男子はいなかった。

恋愛対象で見られることは皆無だったが友人としては仲良くやれていたので特に気にはしなかった。

見た目も言葉遣いも男になった私だったが、心は女の子

少女漫画少年漫画と同じくらい読んでいたし、こっそりと片思いもしていた。

けど、振り向かれることはないとわかっていたので告白も何もしなかったけれど。

そんなこんなで大学生になったある日。

スカイプという存在出会った。

掲示板もあり、投稿すると沢山の人からアカウント申請が来た。

カメラ通話さえしなければ顔を見られることもない。

見た目さえわからなければみんな私を1人の女の子として接してくれることにとても感動した。

それからは毎晩寝る前にいろんな人と話をした。

みんな優しくしてくれたし、声を少し高めに話すと可愛いと褒めてくれた。

今まで体験できなかったことが沢山体験でき、自尊心が満たされた。

ある日、数歳年上の男性出会った。

その男性はとても話が面白く、不思議自分のことも話せた。

今まで相手には身長のことすら言えなかったのにその人には話せた。

それでも引かれることはなく、魅力の1つと言ってくれた。

大学生になっても、私の服装は相変わらずでダボっとしたパンツTシャツパーカーばかり着ていた。

そのことを話すと、彼は

「なんで女に生まれたのに女を捨ててるの?」

質問してきた。

だって似合わないし、背が高くてサイズもないし…と伝えると

「好きでその格好ならいいけど、女らしい服装をしたって良いんだよ」

「似合う似合わないじゃなくて、似合わせようとするんだよ」

と。

あ、と思った。

本当にあ、と。

可愛い格好してもいいんだ。

面長で重たい一重。

鼻も高くない。

その身長があるならモデルになりなよとみんな言うけど、頭身もないし腕も足も短い。

から女の子らしいは似合わないから、みんな変に思うから、楽なメンズ服に逃げていた。

そうなんだ、別にいいんだ。

馬鹿から、言われるまで気づかなかった。

それから少しずつ女らしさを取り戻していった。

といっても、完全に女として生きていけるようになったのは社会人になってからなんだけど。

田舎から都会へ引っ越して、人の視線を感じることが少なくなったのも1つの要因だった。

アイプチをしてメイクをした。

スカートもロング丈や膝下くらいのものなら履くようになった。

ヒールの靴も痛いからあまり履かないけど、6センチヒールを履いて出掛けたこともある。

少しずつ、少しずつ。

気付いたら前よりも女の子扱いされることが多くなった。

ご飯を食べに行くとお会計を出してくれる。

性の対象にすらみられてなかったのにそういう目で見られるようになる。

可愛いと言ってくれる。

髪の毛長い方が似合うよと言ってくれる。

何やり、結婚して欲しいと言ってくれる相手出会えた。

もちろん、モテているわけではなくて基本的には友人としてしかみられないこともあるし、この身長ドン引きされることも多々ある。

けれども私は女になった。

ずっと女になりたかった。

ここまで拗らせるには他にもいろんな要因があって、自分に自信をなくして、自分を男に見立てることに逃げていたけど、もうそんな自分にはならないだろう。

スカイプの彼とは大学在学中にさよならをしたが、感謝している。

1人の女性として扱ってくれて本当にありがとう

2019-12-02

anond:20191201092809

声がでかい、これはマジでいじめられない学校生活を送るのに必要

あとは断定で発言できる

日本人じゃない

こんばんは。初登校です。

誰にも話せないのでここで話させて下さい。

私は現在高校2年の女です。

先日、クラスメイト事故に遭い入院したと聞いて同じクラスのみんなで鶴を折ることになったのですが、その際に私だけ鶴のが折れなくて

皆んなにドン引きされました。

そして「お前日本人じゃないわw」「やばいよそれw」

と言われそれがショックでその後の学校生活でも馬鹿にされるんじゃないかとビクビク怯えています

鶴折れない人って他にもいますか?

変じゃないですよね? 

2019-11-09

今日の夢(11/9)

覚えているところからだと、

学校生活を送っており、テストをしたので各自の答案を返されてた。ボロボロの校舎で後ろに黒板のある教室ではなくて掃除道具入れのロッカーの隣にはドアがあって各自更衣室みたいになっており、自分用のロッカーがあってボロボロのクセには立派な学校だなと印象を受けた。

で、どうやらハロウィンが浸透してて「今日は行くんだろ!?」と会社上司(お互い気軽に話せる間柄)が出てきた。上司同級生になってて笑ったけど、仮装剣道着を忘れたので柔道着でもいいかと思ったけどダメだなと判断して、普段持ってるジャケットTシャツを着てシティーハンター風になって出ると、片思いしてた人(諦めちゃったが)待っており、食べかけのぽたぽた焼きを「食べる?」と言って差し出してきた。オレは食べかけのものを(というか親しい人からでも食べかけは嫌だし)食いたくないのだが、その時は嫌な顔をしつつ「じゃあ…」と言って食った。しけってた。

片思いしてた人と一緒に談笑しつつ街に繰り出すと、結構賑わっていた。地元で嘗て賑わっていた繫華街で、今現在は変な建物が建って無理くり繁栄してますという末期な街だが、夢の中ではずっと繁栄してるようでメインシティみたいになってた。けど治安が悪い感じになってて、東京の(に住んでいる人間には悪いけど)駅前の薄汚れたところにグラフティーがぐちゃぐちゃと描かれてて、ストロングゼロの空き缶がジュースのごとく詰まれゴミ箱があった。少し歩くとまた会社の同僚(親しく話せる女性)が待っており、3人で探し物をした。若干熱を出してた(この前風邪をひいてた)らしくて「熱あるの?」と同僚がおでこをオレのおでこに当ててきた。恥ずかしくて顔真っ赤になったところで目が覚めた。

多分仕事疲れたんだろうな、と思った。

あと良いかいかのどっちの夢かというと、悪夢だな。テスト返されて、あんま興味の無いハロウィンに参加してて、食べかけのぽたぽた焼き食って、おでこ当てられ恥ずかしくなるとか。

2019-10-28

なんだかよくわからないうちのはなし

全然まとまってない、ずっと誰にも言わなかったことを誰かに見て欲しくなってそのままのテンションで書いている。面白みもない。嘘も混ぜている。よくある家族ネタだしつまらないので途中で読むのをやめてもいい。

うちの家は父 母 兄 自分の4人家族で3人暮らしだった。物心つく頃から父親は家に住んでおらず、週に1回〜月1くらいで家に顔出してた。頻度はまちまち。稀に泊まった。友達の家や漫画テレビに出てくる家庭では父親は同居しているか不思議だった。母に聞くと仕事しか言わなかったので足りない頭で出張が多いと思っていた。姓は全員父親と同じだったので、普通の家とちょっと家族のあり方が違うくらいにしか思ってなかった。あまり顔を合わせないので父親自分と兄には優しめで、車で遊びに連れ出してくれたことも結構あった。親同士は普通に会話していたけどよく口論になる。別に仲良い雰囲気はない。でも全然不満とかなかった。ちょっと母親は神経質でヒステリックだったけどそれは自分が悪いことしたときぐらいのことだったから気にならなかった。

小学校卒業までそんな感じ。中学から父親が買ったマンション引っ越したが新しい家に父の部屋はなかったので引き続き3人暮らし父親仕事母親パート。しばらく平和だったけど兄が3つ上で高校受験大学受験が重なったり、兄が浪人決定したり自分思春期だったりで家がどんどん殺伐としてくる。母親は常にイライラして、他の人間を家にあげるのを嫌がった。

更に父親会社経営難?で家が差し押さえられそうになってたっぽい。実際売りに出されたり家財が持ってかれることはなかったけど、よくわからないうちにその騒動は終わった。

自分はというと中学卒業後、高校適当に近い公立に決めてしまった。安いしいいかと思った。ただその後に何したいかは考えてなかった。学校生活を送ればいいと思っていた。いずれ大人になって働くことが全く想像できてなかった。高校でやりたいことも勉強したいことも見つけられなかった。当然やる気もなく勉強にはついていけなくなった。あれよあれよと月日が流れせっかく入った高校は3年生で不登校気味になってしまった。学校は行ったり行かなかったりで行ったとしても遅刻ばっかり。母親は驚き怒っていた。不登校気味になってから毎日布団で寝ていると母親が部屋に入ってきて、学校に行け勉強しろ、恥ずかしい ちゃんとしないからこんなことになる 生まなきゃよかったと言っていた。大学受験をしない気なら身体を売って生活でもしろと言っていた。なんとか学校へ行っても母親の声が聞こえてくる気がした。よくわからないけど母親学校電話して担任にキレ散らかしていたらしい。色々限界になり父親に連絡し、消えたい死にたいと話した。

そうすると謎のお金持ちパワーが発動して、あっというまに自分だけ引越しすることになる。正直びっくりした。家は貧乏だと思ってた。だって差し押さえられてたし、公立行ったのもちょっと気を使ったからだしこんな裏技人生にあるのかと思った。家賃光熱費も全部父親お金だ、夏休みから一人暮らしだ。でもうつ病になって毎日泣いて暮らしていた。

なんとか高校卒業すると父親から連絡があってこれまたびっくりしたのだが、結婚すると言ってきた。子供が生まれるんだとも言った。父親はいつの間にか新しいウクライナ人奥さん結婚していた。奥さんの方には連れ子もいるらしい。情報過多すぎて感情が追いつかなかったことだけ覚えてる。いつの間にか離婚したことは誰からも一切知らされていなかった。

なんとなくこの家の人を書いて終わる。

自分

半年前まで働いてもう辞めた。貯金で生きてる。高3の夏休みから一人暮らしだった家は出た。

看護師仕事介護系だった気がする。誕生日を知らなくて誰も祝ったことがない。春だった気がする。たぶん60代後半。離島出身

自営業 。この人も誕生日からないけどたしか1月。たぶん70くらい、東北出身ウクライナ奥さんとこに3人子供がいるらしい。

3個上 自分以外の家族で唯一誕生日はっきりわかる。頭良い大学卒業したあと派遣で働いてたはず。ほぼ片親状態の家であそんだり面倒見てくれてあんまり子供っぽくなかった気がする。小学生とき性的ないたずらされてたこと思い出してから連絡とってない。

というか全員と連絡取れない。これでおわり。

2019-10-24

潜在的根暗だったのか、サッカーきっかけだったのか

デービッド・アトキンソン先生の本を読んで思い出しました。

僕が根暗になるまでの話です。


僕には年の離れた兄がいます

運動でも勉強でも、なんでも器用にこなしてしまう兄です。

学校でも人気者の兄は僕の自慢でしたし、憧れでした。

そんな彼が地元サッカークラブ所属していたこともあり、僕もサッカーを始めます

が、これがてんでダメ

僕はサッカーが全く上手ではありませんでした。

するとどうでしょう

とりあえず試合には出してもらえるのですが、ベンチのコーチから試合中に大きな声で幾度となく叱咤を受けることとなります

『〇〇(僕の名前)、なにやってんだ!!!!』

『あ~、だめだよ、だめだよ、〇〇ちゃ~~ん…』

という具合に。

初めこそ「上手いプレーで見返そう!」と何とか食らいついていました。

しかしそれすらも上手くいかず、徐々に心がすり減ってゆき、結局は委縮してしまいました。


常にコーチに見られている。

自分が何かするたびにコーチの"がっかり"が伝わってくる。

自分プレーへの自信なんか当然無い...。


結果、人の目を異常に気にする癖だけがつきます

正直、試合の勝ち負けやなんてどうでもよかったです。

サッカーへのやる気なんて言うのも消え失せてしまいました。

そして"その場しのぎ"を覚えたのもこのあたりです。

怒られたくないかボールに近づかない。

怒られたくないかボールが来てもスグにパス

サッカーノートも怒られたくないから書いておく。

とにかくコーチに怒られたくありませんでした。

理解してもらえないかもしれませんが、これに関して印象的なエピソードがあります

一度だけ、どうしても試合中にウンチに行きたくなってしまいました。

普通ならば「おなかが痛いです」ってベンチに駆け寄って一旦交代で済む話なんでしょう。

でもコーチ性格上、『試合前に行っとけよ...』なんて言われるのは目に見えていたので、どうしても言い出せなかったんですよね。

言っている側の内心では「まぁしょうがいか」程度に考えての言葉しょうが、当時の自分はその一言を受け止められるだけの余裕がありません。

無事を祈りながら試合終了の笛を待ちました。


そんなダサイ状況ですから普段学校生活なんかにも影響が出てきます

一度でも他人自分をどう思っているのかを気にしだすと、何もできなくなっちゃうんですね。

今までは大好きだった体育の時間、ウケたくて熱心な準備をしていた帰りの会での一分間スピーチも。

どれもこれも無難にこなしはじめます

この頃にはだいぶ日本人らしくなってきましたね。

そうしてだんだんコミュニケーションが下手になっていくのを感じてました。

自分が殻に閉じこもってる様子がはっきりと自分で見えていました。

そうして時間無為にしている自覚と共に、その場しのぎを繰り返してきました。

何もできないし、とことんネガティブ自分にどんどん嫌気が差していきます

こうしてる間に立派な根暗オタクとなってしまいました。


特筆すべき特技なんかありません。

彼女なんかいません。

ちょっとできた勉強でさえも、大学ですっかり自信を失ってしまいました。


自分場合サッカーでしたが、他の根暗達は運動会やいじめなんかがキッカケだったんだと思います


なんで経済系の本を読んでこんな事を思い出すのか。

それはこれ以上根暗を増やしてはいけないからです。


さもなくば根暗よって国全体の生産性が押し下げられてしまう。

2019-10-16

anond:20191016203938

それは学歴社会だとか学校生活の風紀だとかの兼ね合いがある。

共同生活は何がなんだろうがクソなのがデフォ

学校生活でさんざんひどい目にあってきたことをもう忘れているのか人間ども

避難所が快適なわけが無いんだよ

2019-10-08

20年間発達障害者として生きてきた私の話2

はじめに

はてな匿名ダイアリーにおいてパート2というのはアリなのでしょうか…? 文化が分かりません。もし痛々しいようでございましたら申し訳ございません。

以前投稿した記事https://anond.hatelabo.jp/20190926105149)にて私見を交え自分の持つ症状について解説いたしました。が、「タイトルイメージが違う」とのご指摘がありそういえば元々は自分人生について書いてみようとしたのだということを思い出しました。前振りだけでいい具合にまとまったのでそれで良しとしてしまっていました。

というわけで本題の発達障害者である私の自分語りをさせていただきます自閉症多動症を持って生まれた私がいかように生活してきたのか、振り返って書き連ねていきます。詳しい症状につきましては省略いたしますので、不明点がございましたら上述の記事を参考にしながらお読みください。

幼少期 -既に変な特徴はあった-

出生の頃から追って話しましょう。さすがに私の記憶は流石に薄れていますが、当時から私が育てるコツのいる子であることは母には察しがついていたようです。

目を合わせて話さない。集団行動ができない。特定のモノに極めてこだわる。このような特徴が見られたようです。もちろんこれらは赤ん坊であるならば持っていても変ではない特徴も含まれますが、私の場合幼稚園年長くらいまで続いていたらしく「他の子とは明らかに違っていた」と言います

集団行動の苦手さを表す具体例としては、前回の記事にも書きました幼稚園から脱走していたことが主だったモノとしてあげられます。とにかく放っておくといなくなる。あまりにいなくなるものから、見失わないように私だけ違う色の帽子を被せられていたり園長先生が抱っこして確保していたり特別措置が取られていました。「差別的ではないか」と保護者会で話題になったとか。まぁ当の両親は正しい判断である先生にいたく感謝をしていたようですが。

まぁ幼い子であれば”ひょうきん”だとか”手のかかる子”という表現だけで済むのです。迷惑はかけましたが面倒な問題にはなりませんでした。

ここであげておきたいことが”目を合わせて話さない”という点とそれに対する母の対策です。

子供は成長しながらコミュニケーション能力を身に着け、その一環で「目を合わせて話す」ということの重要さを学ぶものです。大人の真似をし、後々意義を理解するというのが発達の基本ですからコミュニケーション能力もそうやって身に着けるのでしょう。

ただ私はとにかく誰かが話しかけてもそちらの方を見ないし、私が誰かにしかけるときこちらを見ない。私には会話中に相手の顔を見るという発想がなかったらしいのです。おそらくですが、やる意味は分からなかったのでしょう。「そういうものからそうする」とか「みんなそうしてるから」といった発想は私には薄いのです。ゆえに真似をせず、発達が遅れる。この性分が字のごとく発達への障害になっています

今思えばこちらを見ずに話しかけるサマというのは、やや気味の悪いように見えたことは想像に難くありません。

この悪癖を放っておいたらいけない、と母が実践したことが「とにかく自分から顔を見て話す」ということ。

子は親を見て育つ、それで覚えないならもっと見せていくしかないという発想のようです。とにかくちょっとした会話でもしゃがみ込んで目線を合わせる。呼びかけられたら自分から私と目が合う位置に移動する。意図が分かりやすいよう、たまに口でも「目を合わせて話してね」と言う。母の行動は徹底していました。

そうしているうちに、私は目を合わせて話すようになったんだとか。

つまるところ、覚えが悪い子もちゃんと教え込めば理解できるようになるのです。特に口で言うことは大事です。「こっち見てくれないと誰に言っているのか分からいから」など理由もつけましょう。意義が理解できればやるようになります。言い過ぎると逆効果という例もありますから、難しいところではありますが…。

こういったことが母の育児論です。

また今更なのですが、ハッキリ言って私は親に恵まれています。「うつ病ブログ見てたら”恋人が助けてくれて~”とか書いてあった」とか「食費節約記事見てたら”米は実家から送ってもらって~”とか書いてあった」などに近い事案かもしれません。ご了承ください。うつ病患者にとっての恋人とか、米を送ってくれる実家みたいな存在自分がなるんだという気持ち知識をつけることにこの記事が役立ってくれるなら幸いです。

小学校入学 -いじめ先生の劣等生認定-

問題が徐々に起き始めるのはこの頃からです。先生から露骨に出来ない子という扱いを受け、いじめを受けたりいたします。もう”ひょうきん”で済む年齢は終わってしまったのです。

実際私は色々なことができませんでした。運動は大の苦手で、漢字テストは毎回落第し、常識はずれな行動も多く、そして正直に色々言い過ぎます。私としては何がなんだか分からないまま先生に怒られ続ける日々でした。本当に何がいけなかったのか分からないので、具体的な問題の例を挙げられません。ただ先生から見たらよほど出来の悪い子だったのでしょう。そんな私がクラスメイトに標的にされるのは自然なことでした。

いじめトドメになったのは噛み癖があったことです。どうも私は触覚に安らぎを覚えるようで、自分のモノは噛みたくなるし顔にこすりつけたがります鉛筆他色んな所有物をよくかじっていました。正直言って、これに関してはいじめられる側の原因と言えます

私に触れることはアウト、私の触ったモノはアウト、しっかり拭けばセーフになる。他の生徒からはそのような扱いを受けていました。

さてまぁ壮絶な過去に見えますが、我ながらこの時期はずいぶん気丈に過ごしています

まず絶対親にこのことを言いませんでした。というのも、大事な人が傷つくのは嫌だったのです。偉いとか優しいとかではなく、それが破ってはいけないこだわりの一つだったのです。

学校いかように過ごしていたかと言えば、とにかくクラスメイトに話しかけました。嫌な顔をされたりするのは当然ですし、拒絶された記憶もいくつかあります

なぜそんなことをしたかと言えば、話していい人と悪い人を判断するためです。クラスメイトが全員いじめに参加していましたが、それが全員の本心というわけでもないのです。心底私が嫌いな人、みんながやっているかいじめに参加している人、実はほぼ嫌悪感を持っていない人など色々います。なんというか、これが分かっていないと学校生活で困るのです。分からないことや授業中など、学校生活では会話は必ず必要になります。ですからこの人は話しかけていい、この人は絶対ダメという判別をする必要があったわけです。給食の配膳なども私が配るものを受け取る人受け取らない人がいるので、それも覚えていた方がスムーズでした。

それで大丈夫だったのかなんて思う人がいるかもしれませんが”私に触ることはアウト”なので殴る蹴るは絶対にされないわけで、だから私もこのような行動をとっていました。ちなみに話しかけていい人にも必ず距離を置いて話していました。これらのおかげで嫌悪感をぶつけられることも減りましたし、触らなきゃ話せる相手もできたので大成功だったと言えるでしょう。

今思うと自分でもやや呆れる行動ですが、このような割り切った行動ができるのは発達障害者の強みだと理解しています

ちなみにダメージが無かったかと言えばまったくそんなことはなく、ストレスが振り切れて”触ったらアウト”をということを使って逆襲したりもしました。本気で泣かれたことがよりショックで私も泣きました。発達障害者も人なのです。無関心でいられるのはよかろうとも嫌悪精神的に来ます

はてさてそんなのが一年ほど続いて、私の噛み癖も抑えられた上にクラス替えいじめウヤムヤになった頃の話です(子供いじめなんてそんなものです)。

いじめが無くなったとはいえ、私が色んな事が出来ない状況は変わりありません。未だ先生心証は良くなかったようで、三者面談では母が怒りかけるほど小言を言われたそうです。

これではいけないと判断した母は育児について調べ初め、発達障害について知るやいなや私を児童精神科に連れていき、正式に診断を受けることになりました。診断結果を話した結果、先生対応は一変。連絡帳を通してたくさんの配慮をしてくれるようになったそうです。

診断を受けるということは自分が症状を理解することはもちろん、相手配慮を求めることにも役立つのです。

私の母などもそうですが、先生の態度について色々思うことがある人もいるかと思います。ただ実際にいじめを目の当たりにしてできることはあまりにも少ないですし、しつけのなっていない子が存在するのも事実です。ですからやはり自分自覚して問題を起こさないためにも、ただ出来ない子と思われないためにも診断は大事ことなのです。診断には強い説得力があります。少なくとも小学校教師になれるほどの英才の方であれば、医師判断の重大さは分かるはずです。

中学時代 -自分を見つめまくる日々-

さて通院や教師配慮を通して自分が他の子とは違うことを十分に理解し、列から抜け出さないとか家に勝手に帰らないだとか当たり前のことは覚えながら成長していました。大人の方はみなそうですが、私の問題を挙げても存在否定はいしませんでした。今自分のことが大好きなのはこのおかげであると考えております

中学生になった頃には自閉症的な特徴がプラスな要素になることも多くなっていました。他人に無関心という点などは特に強かったですね。

なにせ中学校はけっこう面倒な社会です。どこのグループにいて、誰と誰が喧嘩して、あいつはどこに受験して、あの先輩はあんなことしてて…などなど。面倒です。そして誰もが面倒と思っているのに、多くの人はこの面倒な風評を気にしてしまます。ただ自閉症患者としてはこれは本当にどうでもいいことなんですよね。立ち位置とか気にするの面倒なのです。知らんわ。

そういうわけで私は特定グループにいることはなく、基本的面白い人なら誰だろうと話しかけていました。それのおかげか誰とでも平等に話すなどと評価されることが多かったです。よく気軽に話せるなどと言われました。あとは趣味偏見がなかったのも大きいでしょうか。バント小説アニメスポーツ、変わったところではジャニーズなどの話を聞いていました。自分が知っているわけではないものも多くありましたが、楽しく話せる分には何でも歓迎でした。しがらみがない人間というのは中学校においてはとても貴重な人材だったのでしょう。ゆえに”他人に無関心”はお気に入りなのです。健常者に自閉症マウンティング取れますね。

また他人からしてみれば強烈に個性的に見えるようでけっこう人気がありました。良くも悪くも目立つ人だったのでしょう。

さてかなり上手いこと発達障害個性にできたと書けば見栄えは良いようですが、決して楽なだけではありません。

とにもかくにも自己分析を続ける日でした。「お前は客観視ができない」と両親からひたすら言われ、客観視とはなにかからまり自分がどういう特徴があるのかズラズラ考え続けていたものです。あるモノにどういう特徴があるか知る時の基本は、他のモノと比較することです。障害の本もいくつか読みましたが、自分は平気でやるが他人がやろうとしないことを色々見て知ることが一番客観視につながったのだと今では思います。まぁおそらくそんなことは小学生の頃にやっておくのが一般的なのでしょうが…。

意義が分からない限りやらないのが私でございます自分理解しないと人に迷惑をかけることになると知って、ようやくこういったことを始めたのです。

まず自分が失礼なことをたくさん言う人である理解いたしました。ウケ狙いとかではなく、何とも思わず指摘するのだからタチが悪い。特に女性容姿については言うべきではないと学びましたね。

それに自分は集中すると周りが見えなくなるし、やると決まったことは徹底的にやるし、陰口は言いたがらないし、ツッコミで強く手を出しやすい方だし、婉曲な言い方が理解できない。こういうことをとにかくたくさん知りました。この記事を書くこと自体客観視の一環ですね。

しっかり向き合ってみれば結構分かるものです。ただまぁ前回の記事の通り「~~という特徴であるらしい」とか上手く自覚の出来ない特徴も多くありますが。ただ、これを知るだけでも行動は変わるものです。怒られたり驚愕されることはずいぶん減りました。

月並みではありますが、大事なのはとにかく障害に向き合うことです。なんでも知っておけば「あっこれやったらダメかも」と分かるモノです。「これはしちゃダメ!あれはしちゃダメ!これはしろ!」といったようにルールを決めるのではなく、特徴を知ってその都度対応しましょう。ルール決めが必要な時があったとしても、第一優先はそこではありません。

ここまで書いて気付きましたが、中学校でのエピソードに欠けていますね。強いて挙げるなら友人がバカにされてハチャメチャに怒ったことでしょうか。

やけに他人を見下す阿呆がいまして、彼奴が私の友人を散々に罵倒したと聞いて教室に殴りこんだことがあります。結局ロクな解決にもなりませんでしたが、他人に無関心というのは「他人がどうでもいい」のではなく「自分が好いている人以外がどうでもいい」のだと知ったキッカケです。友人は他人に入らないらしく、むしろ思い入れが強いのかもしれません。

前回の記事発達障害者ストーカーになったなどと反応がありましたが、なるほどと少し納得いたしました。

おわりに

高校時代についても書こうと考えましたが、エピソード不足でありますし少し疲れたのでここで筆をおきます

さて前回にて「アスペで友人がいるなど詐欺だ」などという反応がございましたが、実のところ私も不思議に思っていた時期がございます。おそらくはとにかく正直で、フラットで、好きな人にはそれなりの接し方をしていたからではないか結論付けています20年生きてきて分かりましたが、正直は美徳と言うわりにそういった人は案外少ないものです。外面を固めるのが上手い友人が私の前では豹変したようにドサドサとキツイ言葉を吐くサマは中々愉快でございます。私が楽しいから友人といるのと同じく、彼らも私といて楽しいからいてくれるのでしょう。友人への敬意と多少のユーモアがあれば、あとは個性として楽しまれるのではないでしょうか。

記事の中では母についてはいくつか触れましたが、父の出番はありませんでしたね。というのも父は私のことを本当に放っておいたのです。好きなことをしていればそれでいい、とそれだけは言っていましたが強く干渉することはありませんでした。実際に父も自分の好きなことをたくさんしていました。食事が大好きで今ではメタボなほどですが、誰の忠告無視してまだ食べ歩きを続けています。子は親を見て育ちます。私が自分に正直に、好きなように生きているのは父が影響しているのでしょう。結局両親ともども私のために色々してくれたのです。

ご参考になれば幸いです。

追記:どうも前回記事とのツリーになってしまますね。治し方が分かりません。

2019-10-07

anond:20191007171652

社会経験の無いやつがベテランになりまた若い衆を教えていく

終わりの無い他の世界を知らない学校生活をずっと続けていく

何かが変わるわけがない

2019-10-04

まだ戦後にいる

父親が殴るひとなのはなんでなのかな、とずっと考えてきた。

うちの父はひとでなしではない。

ごく一般的良心正義感くらいは備えている。

やさしくされたことくらい、いくらでもある。

ただ、怒りで我を忘れたとき、自制がきかなくなるだけだ。

その不安定さと、不安定である自分を黙認できてしまう狡さはどこから来るのか。

わたしはずっと疑問だった。

父は保守的田舎で育った。

そして体罰普通に罷り通っていた時代学校生活を送った。

自身自分父親や周囲の大人に殴られて育った。

実際、なんでもない思い出話として、虐待しか言いようのないエピソードを聞いたこともある。

殴ることへの罪悪感の薄さは、きっとごく普通に殴られながら育てられたことによって生まれた。

当然のこととしてきた常識を、父は疑っていないだけなんだろう。

当然と思わなければ、きっと生きていかれなかったから。

なるほど、理屈としては理解できる。

でも感情は納得しない。

わたしは再び、なぜと繰り返した。

なんでうちの父は殴られて育ったの。

誰のことなら責めてもいいの、とその問いの意味は同じだった。

わたし知識を蓄え、考え続けた。

そして、ある推察を得るに到った。

父を殴って育てた、祖父の推察だ。

祖父は早くに父親を亡くした。

若者というだけで召集令状が来るような頃、祖父は同年代より早く正真正銘家長となっていた。

から赤紙は、祖父には遅れて届いたらしい。

家父長制的な配慮祖父には行われた。

遅れて兵隊にとられた祖父は、内地出世した。

階級的にはたかが知れているだろうけど、ともかく内地で新兵の訓練に当たった。

祖父はどんなふうに訓練をつけたのだろう。

当時の軍隊では体罰が横行していたと聞くけれど、祖父も殴っていたのか。

殴れる立場になる前に、祖父も殴られただろうか。

そうして、お国のために玉砕しろと言って、新兵を戦地へ送り出したのか。

そもそも、友人たちが次々に出征していくのを、祖父はどんな思いで送り出していたんだろう。

赤紙が来たとき果たして祖父はどんな感情に襲われたのか。

今となっては分からない。

祖父戦争のことを語らないまま死んだ。

祖父内地終戦を迎えて家に帰ったけれど、祖父と同年代の友人たちはほとんど誰も帰らなかったそうだ。

その状態で、待たせていた妻と幸せ家族を築けと求められことは、どんな気持ちになるのか。

祖父はひとでなしではない。

孫にはやさしい祖父だったし、昔のひとには珍しく体調不良祖母に代わって父の弁当を作ることもあったそうだ。

自分だけ生き残って、未来を生きていくことを、祖父はどう感じたのだろう。

耐えがたく、許されないことに感じられたとしてもおかしくはない。

祖父戦争の話をしなかったのは、できなかったから。

罪悪感が祖父の口をつぐませたからだと考えれば、筋が通る。

祖父戦地に行かなかった。

凄惨戦場経験していない。

から戦闘撤退戦過酷さが祖父沈黙を強いた訳ではない。

そのくせ、出世話で自尊心を満たし、死を免れた我が身の幸運をひけらかす道を祖父は選ばなかった。

復興していく日本、生まれる我が子。

祖父の目にはどう映ったのか。

幸せ自分からぶち壊そうとするしかできない夜。

殴って、殴った自分を許容させて、ほら俺は悪いことなんかしていないと自己正当化したくてたまらなくなった夜。

そういう夜があったとしても、理解はできる。

酒に溺れ、妻子に手を上げた理由を察することができる。

サバイバーズ・ギルトPTSD

今ならば祖父に何が起こっていたのか説明してくれる言葉がある。

当時はなかった。

PTSD最初に診断されたのはベトナム戦争帰りの兵士だ。

第二次大戦が終わったばかりの日本で、戦争精神的な後遺症は見逃された。

少なくとも、祖父は見逃された。

誰も祖父を、父を、救わなかった。

父を殴った教師なかにも、きっと救われなかったひとはいる。

かつてカミナリ親父と呼ばれた年配男性日本中にいただろう。

その情緒不安定さのどれだけが戦争の招いたものだったのか。

誰もそんなことは追求せず、もはや戦後ではないと言われ、時が流れた。

わたしは殴られて育った。

もはや戦後ではないんだろうか。

本当に、戦後ではないんだろうか。

それなら、なんでわたしは殴られたの。

この身を苛む恐怖はなんなの。

ねえ、わたし、誰のことなら責めてもいいの。

誰のことも責められないで、わたしが悪かったのかと疑いながら生きていくの。

責任を負う立場に誰もいない。

わたしはせめて戦争暴力を憎む。

戦後まれの、戦争を知らない平和ボケした日本若者であるらしいわたしは、せめて戦争暴力を憎む。

2019-09-25

https://b.hatena.ne.jp/entry/4674890190561069026/comment/snare_micchan

話がごっちゃになってる。天下りマネージャーが撲滅しようとしているのは開発途中のソフトウェアバグ。一方でいじめ学校生活という本番環境で起きてるバグ。同列に扱おうとして破綻してる記事

かに学校生活は本番で、テスト環境再現性も無い。

「じゃあ全く別の話だ」

というわけではなく、

「開発途中のバグを無くすことが不可能であるのと同様に、学校いじめを無くすのも不可能

という共通点がある

そして、

不可能目標を掲げると実態を隠すようになり、数字実態乖離し、適切な対策が行われなくなり、状況は悪化する」

という流れも同じ

ほとんど記事で言ってることの言い直しだけど

2019-09-23

(追記)貧乏だけど子供産みたい

インターネット貧乏人は子供産むなっていう主張溢れすぎてしんどい

賢くないので彼らを納得できるようないい感じの言葉反論できそうにないか増田に長々と書くよ。

誰になんと言われようが子供欲しいし産むけど、貧乏の私が妊娠してしまうと、貧乏人はセックスしか娯楽がないのかと彼らから嘲笑されたり、生まれてきた何の罪もない子供は彼らから哀れみの目で見られるのか……なんて想像してしまうと腹が立つ。目の前で言われたら助走をつけて殴ってやるが、インターネット上の発言でなおかつ私や私の子供に直接投げかけられた言葉ではないのでどうすることもできない。

勿論、彼らの中には、貧困DQN家庭や貧困毒親家庭など貧困以外の問題もある家庭を指して「貧乏人は子供を産むな」と言っている人もいるのだろう。

でもやっぱり「貧乏人は子供を産むな!」と言われちゃうと、DQNでもないし毒親にならないように学びと注意を怠らないように努力したいと思っていても、金が無いだけで大罪だ!と責められているように感じてしまうので辛い。

今は共働きだが、私は殆ど零細企業かつ拘束時間の長い業界に勤めているので、育休なんてとれないか妊娠したら辞めるしかない。

出産後の再就職も朝から働いて定時が20時なのが当たり前の業界からフルタイムでの勤務は家事育児との両立が難しく感じるので子供が一人で留守番できる年になるまではパートで働くことになるだろうし、そもそも保育園競争率も高い様子なので預け先が見つかるのかもわからない。

業界就職するにも、非大卒の30歳の子持ち未経験が雇ってもらえる会社なんてあるのか……?

なので、子供ができると私の収入ゼロになるので、しばらくは夫の収入のみで生活することになるが、大学中退して中小企業に勤めている手取り20万程度の夫のお給料でどこまで人間らしい生活ができるのだろうか。わからない。

私の実家貧乏で、諦めないといけないこともたくさんあったし、親は自分の都合で暴力を振るうし、日常的にブス等の暴言も吐かれていた。いつもいつもクラスメイト自分環境を比べては陰鬱気持ちになり、性格情緒おかしくなって散々な青春時代を過ごした。

もちろん、今でも親のことはあまり好きではないが、恨んでも無駄だし、幼少期のアルバムを見るに全く愛されてなかったわけではないので、適切な距離を置いて関わっている。親も歳をとって若干丸くなったしね。

ともあれ、それでも私は、貧乏人は子供を産むななんて思ったことはない。

お金があったらなあ

暴力の無い家だったらなあ

もっと愛されたかったなあ

そしたらもっとクラスメイトとも仲良くなれたかなあ

楽しい学校生活を送れたかなあ

大学にも行きたかったなあ

そしたら今よりも福利厚生がきちんとしてる仕事に就けたかなあ

もしもを考えるとキリがないよ。

……でもこれから人生はどうにでもできるし!

お金がなくても今の所は健康だし、産めるうちに産んでおこう!

賢くないからわからないけど、今お金がなくても宝くじが当たるかもだし、お金がなくても子供幸せにしてあげる道を探す努力はできるはず!

理由はわからないけど、自分の子供をもたない人生は私は嫌だ!

貧乏な家に産まれちゃう子供には気の毒だけど、ゴメン!

でも、子供だけにかかわらず、人の幸・不幸を他人勝手に推測して決めつけるなんてすごく失礼じゃない!?

お金には恵まれてなくても、生まれてくる子供ちょっとでも幸せに恵まれるように私は努力したいし、そうすることしか出来ないなと思う!

頑張るから貧乏人は子供を産むなっていう人たちも気が向いたら応援してくれると嬉しいなあ

ーーー(9月23日追記)ーーー

無名アラサー稚拙な文に、あまりにも多くの反応を頂き恐縮です。

連休中にヤケ酒した勢いで書いてしまったので、もっと色々ときちんと真面目にしっかりと書いておけば……なんて後悔もしますが、励ましやアドバイス等をたくさん与えて頂けたので書いてみて良かったなと思いました。

職場環境イマイチで、働き続けることにマイナス感情しかなく辞めることばかり考えていましたが、何が何でも育児休業給付金をもらえるように、職場を頼りにせずに自力知識書類完璧にすることを頑張りたいと思います

心配頂いていたので後出ししますと、3K仕事内容で低賃金待遇事業所が少なくない業種ですが、一応国家資格は所持しているので選ばなければ働き口には高齢にならない限りは大丈夫かな…?と思っています。(看護師ではないです)

夫は、高収入ではないものの、いつも元気で明るくて素直でとにかく最高だし、義家族も全員尊敬できる素晴らしい人たちなので最高です。

貧乏ネガティブ根暗で卑屈だった私が、少し前向きに人生を歩めるようになったのは夫とその家族のおかげかなと思います

あとは宝くじ等のギャンブルは、1年に3000円使う程度なのでお許しいただければと……

否定的意見もやはりありましたが「ネット意見に惑わされるな!」とのことなので真摯に受け止めつつも、あまり気に病まないようにします。はてなSNS以外の趣味を見つけないとですね(ネット中毒者なので…)

追記が長くなってしまいましたが、親のエゴ以外の理由で生まれ子供なんてそんなに(ほとんど?全く?)いないと思うので、そのことを忘れずに、未来のまだ見ぬ我々夫婦の子供に愛情を注ぎたいと思いますので!よろしくお願いします!

が!まずは無事に授かれるかが問題!!

2019-09-21

anond:20190921165436

だよね

教習所入校条件は2浪までで偏差値は65以上で男子学生下駄をはかせる

全寮制にして卒業までに学費1500万円を要求して

水没した時の脱出訓練や谷底に転落しても耐える訓練を自衛隊かどこかで合格してもらおう

6年の学校生活と2年の研修を経て苦節8年でようやく普通運転免許

2019-09-11

私が某漫画作品を嫌いになった理由

作品のものに罪は無いため名前は伏せますが、私は昔、ある漫画作品が好きだった時期がありました。なぜ嫌いになったのか……その作品が好きだという人達嫌がらせされたためです。

私は生まれつき発達障害を持っていて、まだそれが分かっていなかった幼稚園小学校低学年の頃はよく周囲とトラブルを起こしていました。障害が発覚して中学から特別支援学級に入りましたが、知的障害身体障害以外の障害認知度が低い時代で、「わがままなだけなのに特別扱いされている」と周囲には思われて嫌がらせされていました。そして田舎の小さな小学校故に学年が上がってクラス替えが行われたとて標的が移ることも起こらず、中学に上がってから小学校の頃のことを知っている人達面白半分で言いふらしたことにより嫌がらせが沈静化することはありませんでした。教員対応もクソとしか言えない杜撰ものでした。

そうした学校生活を送っていた私は友達がいない、というよりも友達というものファンタジー存在だと当然のように思っていました。でもそれでも、幼稚園の頃から11年ずっと無害な存在だったある人だけは、少なくともコイツ自分を害することはないだろう、という程度には信用してはいました。なのにソイツは裏切って、周りが嫌がらせしてきたところに一緒になって嫌がらせしてきやがりました。この時は相手の方が悪いことをしたというのが教員から見ても明らかな状況だったため、一応後になって注意が入り、謝罪はされました。でも、その数日後にまるで何事も無かったかのように平然と話しかけてきました。その連中の中には一定の信用を置いていたやつもいましたが、そいつも纏めて拒絶しました。そうしたらそいつらは「コイツしつこい」みたいなこと言って去り、孤立しました。拷問されろ。その後も数年は年賀状そいつから送り付けられてきました。全部ゴミ箱。楽に死ぬな。

高校は「不登校経験者が多く来る場所」とオープンスクールで言っていたところを選びました。痛みを知る人達なら、少なくとも危害を加えてくることは無いだろうという判断でした。建前死ね

かに半分は不登校経験者でした。話しかけてきてくれた人もいました。数ヶ月後のもうグループができてしまった時期に、姉に似ていてコンプレックスが刺激されるから無理と拒絶されました。その姉とは関係ねーこっちからすれば「は?」としか言いようがなかったけども、いざ再び独りになってみると楽なこと楽なこと。移動教室も昼休みも一々誰かに合わせて行動するのが窮屈で、一人の方が気楽だってことを自覚しました。グループに入ることができなくなるタイミングだったことも気にならなかった。

生徒達の半分の一団、その高校しか入るとこがない成績のDQN共に目え付けられましたよえぇ。ただ、そいつらはウザったいけど大して問題はありませんでした。ちょっと髪がカラフルなだけのニヤニヤしながら通せんぼするぐらいしかできねえ小心者共なんざ、中学の頃嫌がらせしてくるやつの主犯と拳で語って殺意が生まれる(友情じゃない) ような関係だった私からすりゃ自分じゃ何もできないくせに囃し立てるだけの野次馬連中と同程度。目にかける価値もない。

問題はある二人の女生徒でした。そいつらは最初普通にしかけてきていて、害が無かったか普通に返事してました。某漫画作品好きかと問われれば好きだと答え、どのキャラが好きかと聞かれればあのキャラが好きと答えました。なんてことないただの会話で、互いの好きなキャラ同士に特に接点もなかったこともあり、特にその作品ファン同士として盛り上がることもありませんでした。

それが一転して嫌がらせをされたのは、体育の授業中のこと。バドミントンの2vs2の授業で相手はその話しかけてきていた2人で、私は組む友達がいないか先生と組んでいました。先生バドミントンに慣れているのはまあ仕方ないでしょうが、そうは言っても私も運動神経はまあ普通よりは少しいい方で、小さい頃お母さんに教わった戦法を駆使して勝ちました。視線を向ける方向とは反対の位置に打ち込んだり、思いっきり振りかぶっておいて前に落としたり。試合形式なんだから当然です。

それをあろうことはあの二人は、先生と組んでるからそっちはその時点で反則だだなんて言い出して。その上悪口を言いまくった後反論すれば「それは先生に言ったんだ」「自意識過剰挙句の果てには「せっかく話しかけてあげたのに」

最後一言が何よりも許せなかった。私は独りでいることが気に入っていたのに勝手に独りだから可哀想と決め付けて、恩を売っているつもりになって気に入らなければこちらのせい。

人間不信人間嫌いになった決定的瞬間で、同時に某作品を嫌いになった瞬間でもありました。

アイツらと同じ作品が好きなのが嫌で、僅かでもアイツらと同類な点を持つ自分気持ち悪くて、それで嫌いになりました。

からどうしろとは私は言いませんし、誰かにこうしてほしいなんて望みももっていません。誰かの好きを消さないためにも嫌がらせなんてしないであげてーなんて言うお綺麗な心なんざ小学生の頃にドブに捨てました。嫌がらせ? 私にしないなら勝手にすれば? 自分みたいに不幸な人間が他にいないとか気分悪いし。ただし私を巻き込むな。

2019-09-10

anond:20190910060915

輪講とかゼミとか言ってるあたり文系だろ、学校勉強を表面だけなぞって暗記して受かったとこに行ってそう

文系だろとか言ってるあたり理系だろ、学校のお勉強だけして碌な学校生活送ってなさそう

世界の理どころか自分人生にも大して興味なさそう

世界の理が好きな自分が大好きそう

元増田からムチャクチャ頑張って話を引き出してもすごい浅い話題と浅い知識しか出てこなくてクソほどつまんなそう

増田からムチャクチャ頑張って話を引き出すと関係ない話題の深い知識()しか出てこなくてクソほどつまらないうえにアスペうんざりしそう

女は浅い話のほうが好きだから女にはそれほど困らなそう、あるいは自分が女

浅い話をする男はモテると思ってるのか知らないが、増田が浅い話()をしても全くモテなさそう、あるいは元増田自分選民意識のある女

つかきっしょいな。悪いこと言わんからもう増田はやめたほうがええで。お前はキモすぎる。イキリ高校生みたいや。お前がいくら世の理に興味を持ってるアピールをしてもそれ自体にはなんの評価もないのが社会やで。

2019-09-06

思い出の整理

匿名日記を書いて世間自分のことを書きなぐれるなんて、なんていい時代になったんだろう。

なんていうか、間もなく私は結婚するんだけど、その前に何か、書きたかったんだろうな。

きっかけは10年以上前に使っていたメールアドレスアカウントに、当時の会話がごっそり乗ってて、懐かしいやら、恥ずかしいやら、、、てな感じで

昔話を知り合いとかじゃなくて、だれもない「誰か」に見てほしいと思い立って、今こうして書いてるだと思う。

頑張って当時の事思い出して書くけど、微妙に思いで補正きらきらちゃう部分はご愛嬌

まぁ、よかったら見てってよ。僕の、甘酸っぱくて、恥ずかしくって、楽しかった青春の思い出の整理を。

青春時代と思い出したくない黒歴史がたくさんたくさんなのは主に中学生から高校生のころの話だ。

特に中学生って第二次性長期の影響なのか、人格不安定で、感受性豊かなもんだから、いろんなもの(僕は主にアニメ)の影響承けちゃったりなんかしちゃって、思い出すと枕にんー!!!!!!!!って叫びたくなるようなことばっかりだったと思う。みんなも多少覚えあるやんね?笑。

小学生から中学生に上がり、当時僕はめちゃくちゃ悩んでいた。

何に悩んでいたかといいますと、、、、、そうなんです。僕は女子からいじめに悩んでいた。

もともと小学生時代、暴虐武人喧嘩っ早く、人よりませていてエロいこと大好きだった僕は、女子から奇異な目で見られることが多かった。

ちんぽの毛も生えそろっていないような小学生のうちは、女子にどうこう思われるより男友達が笑ってくれたり、盛り上がったりする方が圧倒的に楽しくて、とにかくあほなことばかりしていた。

保健体育の授業はたぶん誰よりも好きだったし、プールの授業とか裸になって走り回ってちんちん見せびらかししてたしなぁ。

そんな感じのくそませがき野郎だったから、当然女の子からの印象は最低。

廊下女子とすれ違おうものなら「きもい」やら「くさい」やらとにかく悪口を言われた。

書いてて悲しくなってきた。

当時よく耐たえてたな。笑

然しながら悩みの本質悪口を言われ気分が悪いとか、無視されて悲しいとか、そういう部分じゃあなかった。

「こんな自分でよいのだろうか?」

ライトノベルが大好きな僕はいろいろな物語を片っ端から読み漁っていた。

ゼ○の使い魔、○眼のシャナ、涼○ハルヒの憂鬱などなど上げ始めたらきりがない。

基本的かわいいおにゃのこが出てくるようなライトノベルは、主人公モテたりだとか、最終的にヒロインとくっついたりだとか、

こいつのために世界をかえてやるあぁ!!!みたいな勢いで恋してたりする。

ライトノベルで「恋愛」というものを学んだ僕は、そんな学校生活にあこがれて、自分青春したいぜ!!!と思っていた反面絶望していた。

いやいや、無理っしょwwwだって女子にこんなに嫌われちゃってるんだからww

草を生やしてみたものの、そうなの、現実って厳しいの!!

今までの自分の行動や言動反省しつつ、考えてみた。

「こんな自分でよいのだろうか」

2019-08-30

anond:20190830102116

私もくせ毛だからわかる

伸ばすと逆に落ち着くよね

親は少し毒っぽいかも…??

乗り越えて、学校生活楽しんでね。

2019-08-29

自分意思が無い人

ずっと耐え続ける人生だった。小中高と一貫してイジメられる側で、別に自殺までは考えないけど

物を隠されたり、酷い言葉を浴びせられたり、少し殴られたり蹴られたり、土下座させられたり、パシられたりした。そんな学校生活の中でヒエラルキーの最下層に自分存在するんだと嫌でも自覚した。人生においてやる気を削がれた、もう常にどうでも良くて勉強に身が入らなくて女子にも嘲笑されて教師問題にはしなかった。

家庭に戻れば、両親がいつもお金のことで喧嘩していた。父は父親を投げ出したいらしい。母は父の愚痴毎日私に言う。私はおどけて見せて二人の喧嘩仲裁をした。いじめられているんだけどって恥ずかしくて、情けなくて言い出せなかった。短大を出て地元工場就職した。短大はいじめられなかったけど勉強について行けず、周りが経験してるような体験が私にない事を必死に隠した。就職活動が一番苦労した。今まで耐えに耐えてただ生きてきた。あなたの夢は?やりたい仕事はと聞かれて何も浮かばなかった。私はただ生きているだけでした。心理相談先生になぜ私は働いて生きなけれならないんでしょうか?と尋ねたら、何を言っているんだ。そんな事言ってるような人をどこも欲しがらないぞ。あぁそうか私はこの世に必要とされない人間存在しない幽霊なんだと考えるようになった。

それでも、なんとか面接マニュアルを見て就職できた。仕事が始まってから、はじめて彼女ができた。だけど好きじゃなかった。告白されたか何となく付き合った。1年くらい付き合って、好きじゃないのが薄々バレて振られての繰り返し。

最近結婚したが、本当に好きなのかと言われたら

そうでもない。嫌いでもない。だから迷惑かけると思う。酷い無神経な事を言うと思う。

何で流されてばっかりなんだろう。嫌だったら嫌だって言えばいいのに。嫌われても生きていけるのに、その場その場で相手調子に合わせて生きている自分に腹立たしい。自分の心の声を無視して本音を言わないからこういうことになる。

八方美人をやめたい。嫌だ。拒否したい。

拒絶したい。 好きな人に好きって言いたい。

暴言吐きたい、殴りたい、今の仕事やめてノマドワーカーになりたい。離婚届突きつけたい。

自由奔放に生きて笑っている人に嫉妬して卑屈になって批評するのやめたい。

2019-08-23

anond:20190822233353

「その人がその当時の社会にどう関わっていた世代か」によって、その、大して進歩していないかどうかは全く違ってくるように思う。

俗な言い方になってしまうけど、その10年間でガラケーで用が足りてた退職後の年金生活の年配者と、学校生活積極的ケータイ使いこなしてた思春期青年期の青少年とでは・・・

2019-08-02

anond:20190801161129

定職を持ち、長く住む場所が定まり精神的な余裕がある人間以外は子供を持ってはいけない。当たり前の先人のアドバイスを繰り返すだけになってしまった。

自分が小さい私立大学に職を得たのはようやく40歳目前で、それ以前から妻子を置いて移転を繰り返し、50代目前まで長く単身赴任だった。精神的余裕は当時も今もないけれど、結婚したこと子供を持ったことは自分にとって悪いことではなかった。辛いことはいろいろあったし、妻ともかなりこじれたが、それでも家族を持ってよかったと思えるのは、妻が私の仕事の仕方を受け入れてくれたからだと思う。どこで折り合いが付くかは分からないけれど、根っこの信頼が二人の間にあるのなら、答を急がなくてもいいかもしれない(上手く言えなくて申し訳ない)。

家事子供身の回りの面倒を見る大人が2人ではなく1人になるというのは、子供にとっては不幸では?

また、自分父親の顔を覚えていない子というのは、たとえば学校生活父親の話をするときに、気まずい思いをするものではないのか?

我が家場合子供たちと私がともに過ごしたのは5年程度しかない。数ヶ月に一度、週末に帰省して、あとは夏休み春休みに2週間ずつぐらいだったか

直接聞いていないが、彼らはこの状態をあまり不幸だとは思っていなかったように思うし、父親不在が彼らの友人関係にひびを入れたというほど大きな影響はなかったようだ。もっとも、妻が子供らの気分を上手くサポートしてくれたのかもしれない。ただ、今はスカイプのような手段もあるし、遠距離に離れていることは昔ほど心配しなくて良いのではないか

片親状態が辛いのは、子供が片親状態を負い目に思うかどうかではなくて、育てる側の親が生活育児に余裕がなくなり、精神的肉体的に疲労して、子供にその悪影響が出ることだ。家事育児のしんどさを核家族内で抱え込まないようにしたほうがいい。そして自分反省を込めて言うが、離れる側は、育てる側の親の悩みをよく受け止めてあげることだと思う。離れる側にもしんどさはあるけれど、育てる側はとにかく大変だし、その精神状態子供に直結しているので。

2019-08-01

anond:20190801161129

父無し子の不幸の例が「たとえば学校生活父親の話をするときに、気まずい思いをするものではないのか」って想像力貧困過ぎん?

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