はてなキーワード: 不利益とは
必ず「近づいてったほうが悪い」「そんな目にはあったことがない」「真面目に生きて一生懸命やってたら体を求められるような悪質なセクハラは受けない」みたいなことを言う女ってかならずいるじゃないですか。
増田だから言いますけどそういう人って容姿が残念なんですよね。
容姿が残念なのは不運だしかわいそうだと思いますけど、だからってセカンドレイプしていいわけじゃないんだぞ。
いやです、やりません、お断りしますって拒否しても不利益がないようにすることが、容姿の残念な人も生きやすい社会になることなんだぞ。ひがんで足引っ張ってどうすんだお前。
追記しました。
元増田です。追記とごめんなさい。
https://anond.hatelabo.jp/20171223191520
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話題のセクハラ問題でずっと感じているもモヤモヤを吐き出したくて書く。
表立っては言えないけど、私は「権力を持っている男性に便宜を図ってもらおうと近づいたらセクハラ・パワハラを受けた、私は被害者だ」と主張する女性全般にとても納得のいかない気持ちを抱いている。「セクハラ・パワハラ」部分をレイプに置き換えても同じだ。彼女らは女性性を利用し便宜を図ってもらうことで、正当な手段でガチで戦うつもりで勝負の土俵に上がった他の女性(および男性)から不当に権利を奪おうとした人間だからだ。不正なチートプレイヤーということだ。
私は就職や仕事の場で女性性を武器に使ったことは無い。それは卑しく不正な手段であり、自立した知的な女性は自分の能力で正当に、正面から男性(および他の女性)と競争すべきだと信じている。たまに「ブスは女の武器を使えないから学歴や職歴を磨かないといけない」みたいな馬鹿げた言説を見るけど、モテるかどうかなんて関係ない。どんな女も自分の能力で正当に勝負に勝てるように準備するべきだ。その先にしか男女平等な社会なんてあり得ないと思っている。
そうやって正当に戦ってきた人間から見ると、自分の能力の不足を権利者に便宜を測ることで解決しようとした人間は悪でしかない。そのポジションにつくための公正なレースで勝つ能力が無いのに、言わば贈賄でポジションを奪う人間だ。能力順で上位5人がポジションを得るレースなら、「女の武器」を使って序列に割り込んだ女性が1人いれば、5人目から6人目へ不当に落とされてしまう人間がいる。彼女たちは正当な権利者から不当にポジションをかすめ取っている。カンニングで大学の入試を突破する人間と同じだ。たまに男性社会で女性は不利だから「女の武器」は積極的に使うべき、というこれまた馬鹿な意見を見るけど、男性に比べて女性の大学入学者数が少なかったら女性のカンニングが正当化されるのか。そんな訳はなくて、カンニングする奴は全員滅ぶべきである。彼女たちが椅子を得ることで代わりに椅子を失うのは男性の場合も女性の場合もある。「女の武器を使って女性が社会進出している」のではなく、正当な権利を有する人間が一人、権利を剥奪されているだけだ。
だから、チートをした女性が「肉体関係を求められた」「肉体関係を強制された」と主張することは、越後屋が「お代官様に贈賄しようと持ちかけたらその10倍の金をとられた!酷い悪代官だ!」と言っているように見える。勿論悪代官は悪いが、こっちは越後屋に公正な競争を破壊されているのでどっちも悪に見える。ただ贈賄側の考えた賄賂の水準と、収賄側が期待した賄賂の水準がマッチしなかっただけじゃないのか。そう思っているところに、チートをした女性本人が「正当な努力をしていたら裏切られた」ように振舞ったり、周りの人間が彼女をジャンヌダルクのように担ぎ上げているのを見ると拒否感が強い。
一点、彼女たちを純粋に被害者と思える点があるとすれば、彼女たち以前に、あるいは同時期に、「肉体関係の提供を自分からオファーした」あるいは「肉体関係の提供のオファーを納得して受けた」チート女性による被害だと思う。体を使う覚悟もせずに云々というショッキングなフレーズは、その覚悟を持った女性が他にいたから出てきたと思うのだ。過去にお代官様に1000両貢いだ商人がいたから、お代官様は越後屋に「なんでお前は10両しか持たずに来たのか、なぜ1000両貢ぐ覚悟がないのか」と言ったということだ。この点で見ると、10両で商談成立になると思って赴いたら1000両強奪された越後屋はちょっと可哀想ではある。
特定の業界で酷いセクハラが日常的になっているというのは、越後屋間で贈賄の過当競争をやっているのだと思う。なら全員いっせいのせで一切の贈賄をやめるべきだ。悪代官を産んだのも、増長させたのも越後屋だ。いくら悪代官を排除したところで、贈賄をオファーする越後屋がいればいくらでも新たな悪代官が生まれるに決まっている。悪代官を消すには越後屋が全滅して全員等しく公正なレースをするしかない。贈賄の相場を低く抑えましょうっていう話なら勝手にやっていてくれ、巻き込むなと思う。自分を性的に提供しないと仕事ができないのは狂っているが、それは権利を持った人間が強制するからじゃなくて、他のプレイヤーがそれを提供するから自分もやらないと競争力を持てない、自分が提供すると他のプレイヤーもしないといけなくなる、そういう仕組みだろう。
いずれにせよ真面目に正面から競争してきた一人の女性として、チートしようとして被害を被った女性を自分たちの代表のように担ごうという気には全くなれない。というか基本的に滅びてほしい。そう言うと「女の敵は女」とか言われるのかもしれないけど、これってそういう問題じゃないと思うんだよな。じゃない?
真面目に競争してきても避けられずにバンバン遭遇するセクハラって、おっさんとかがコミュニケーションだと思って投げつけてくる下ネタだ。だから私としてはそっちを世界から滅亡させたい。でもそこに越後屋から「それはセクハラではないので」「今は問題にすべきでない」とか言われている。本当、そもそもそっちで勝手にやっててっていう話なのに、正当に戦ってきた私たちの受けている被害を存在しないものと認めろという。控えめに言って最悪だと思う。
熱くなって攻撃的な文章を書いてしまった。不快にさせてしまった人にはごめんなさい。
(追記)
色々あるけど、1つだけ。私は直属の上司や、どうしても担当しなければいけない顧客に向こうからセクハラを仕掛けられ、断れなかった人のことは純粋に被害者であると思います。決してチートとは思いません。私がチートだと言っているのは、直属の上司ではなく部署も違うが人事権を持っていそうな人、に取り入りって便宜を図ってもらおうと新人が自ら近づくといった種類の行動です。セクハラは撲滅されるべきです。暴力団と同じで反社会勢力であり、潰すためには誰も応じてはいけないんです。暴力団に金を払う店があるから「ここで商売したかったら金を納めろ、みんな払ってるぞ、払わないとわかるな?」と脅される店が出てくるんです。私は同じ部署の力を持った人から色々と誘われたことがありますが、不利益を被ることを覚悟で全て断りました。もし私が応じていたら、私と競争するためには自分もセクハラに応じないといけない他の女性を生んでいたことでしょう。相手から近づかれた人は、自分の力で断るか、無理なら他の人の力を頼って拒否する。間違っても自分から利益供与を求めて近づかない。それが大切だと思います。
はあちゅうの身に降りかかった事は気の毒だと思うしそれで彼女が声を上げるというのは当然の権利だし好きにすればいいと思う。巷に溢れている女性へのハラスメントの一被害者として声を上げるだけならそれはいい。
だがはあちゅうははあちゅうなのであって、奴のこれ迄の言動からすればまーた注目を集めた事により調子づいて何かやらかす危険は極めて高く、奴を一被害者以上の者として扱うのは世の中に不利益しかもたらさないであろう事は想像に難くない。極一部の関係者は儲けるかもしれんけれども。
だから、はあちゅうの表明は一被害者の声それ以上でも以下でもないという扱いに留めるべきだ。
「はあちゅうの事は嫌いだが今回の件でははあちゅうを支持する」
と言ってる人々がいるがそんな事はせんでいい。大体君らはあちゅうの事を何となく嫌いなんじゃなくて何かしら明確な理由があって嫌っているだろう。なら態々支持なんかしなくて良い。はあちゅうは自分で加害者と闘い、他の被害者は私も私も!と声を上げればそれでいい。よりにもよってはあちゅうを中心として連帯はするな。いくらはあちゅうが使い勝手よさそうに見えてもだ。
どんなしょーもない小者でも乗せられた御輿が思いのほかよければとんでもない荒神に超進化し、世の中に災厄をもたらしてしまう事がある。
先に結論から書くと、ここは岸と電通を攻めるべきではないだろうか。
女いっぴき攻めて自分や男性の正義のために言葉を振りかざしてしまうと他の密告者や勇気ある独白に歯止めをかけてしまう結果となり、
健全に生きる人たちが不利益こうむる他の事象に対して勇気を振り絞って正そうとする存在が現れなくなる。
変えたい、変わってほしいと思ってることが一つでもあるなら、「今は」はあちゅう攻めてる場合じゃない。
また本件の差別的な批判の根っこは岸にあると考えるのが妥当だと思う。差別的な批判の連鎖反応だと思う
岸氏に痛ぶられる前のはあちゅうは、そこまで男性に嫌悪感なかったんじゃないのだろうか。
はあちゅうに痛ぶられた君がいま、はあちゅうが岸にしたように攻め立ててる。
争いの連鎖を請け負っているのが分かるか。
いまこの無駄な連鎖を止めるのは、最後に「悪者」になったやつだけで
本件のはあちゅう批判の火種は電通関係者か岸のファンかその周りの人だと願いたい。
それらを日頃にうっぷんを抱えた人たちがフォローしてしまっただけだと願いたい。
はあちゅうが嫌なやつなのかも知れないけど、
今回彼女のキャリアが安全圏にはいったからいまこそ清算しようとしたのかもしれない。
その清算を叩いたら、荒ぶって失言して続ける彼女もまた稚拙だけど
大きな顔してる女はクソだけど、今回のは許してマイナーなことよりもっとメジャーなもののために主張してほしい。
結構まじで願ってる。
ハラスメントというのは、特定個人または閉じた集団内で、反論や抵抗できない、またはしづらい状況で不快な発言や行動、強要等があり、それによって精神的、肉体的、物理的被害を受けるようなものを言うのであって、ネット上で不特定多数に向けて不快な発言をする程度のことをハラスメントと呼ぶのはハラスメントの拡大解釈である。この拡大解釈は、むしろ真のハラスメントの問題を矮小化することにしかならい。
例えば不特定多数の集団に対する誹謗や差別発言によってその集団が実際に社会的不利益を被ったのであれば、それはハラスメント問題として扱ってもよいだろう。しかし実際にはそのようなことはない。単に不快と感じた、という程度の問題だ。社会的な圧力を伴った強要、強制、また言動や行動によって業務や学業、生活の円滑な遂行を阻害するような問題とは切り分けて論ずるべきだと思う。
はあちゅうの童貞いじりを童貞たちが中心になって批判し、謝罪に追い込んだという。恩知らずにも程がある。はあちゅうこそが、お前たち童貞に居場所を作ってくれたのだ。
まず、童貞が生物として劣った存在であるということは誰もが納得すると思う。もちろん病気などの理由で性行為ができないとか、性同一性障害とか、人里離れた孤島などに1人で住んでいる場合などの事情があれば別である。そうではなく、生殖行為に必要な男性機能を有しているにも関わらず童貞である人のことだ。
たしかに現代社会では童貞にも等しく人権が保証されているから、社会生活で差別的な措置を受けることはない。たとえば童貞は社会への貢献が足りないという観点から税金を課すなどの対策は考えられるが、童貞かどうかを機械的に判定するためのチップを埋め込む技術などが普及しない限り、運用は困難だろう。
そうは言っても、自らが童貞であることを他人に知られるのは極力避けなければならない。自らが属するコミュニティから生物として劣っているとみなされることで、童貞からの脱出がますます困難になるからだ。童貞はこうした抑圧を受けることで、実質的に「童貞税」を払っているともいえる。そこに救いの女神として現れたのがはあちゅうだ。
はあちゅうは童貞をいじることで、童貞であることを笑いに変えるというコペルニクス的転回をやってのけた。ここに童貞はキャラとして成立した。生きる意味を与えられたのだ。今では飲み会の席などで誰もが自分が童貞であることをカミングアウトできる。童貞を理由に降格されたり、閑職に追いやられたりする社会的不利益を被ることもない。
これに対していまだにアンタッチャブルな存在が「処女」である。社会通念上認められる年齢を超えた処女は極めてセンシティブな問題になり、飲み会の席などで気軽に触れられる話題ではなくなる。なぜなら、万が一自分は処女であるというカミングアウトがあった場合、それを笑いに変える文脈が存在しないからだ。
はあちゅうに童貞いじりをやめさせれば、何が起きるか想像してほしい。童貞はキャラなどではなく、少子高齢化や人口減に苦しむ人類が直面した解決すべき社会問題の1つとなる。やがてペナルティとしての童貞税を課された童貞たちは、はあちゅうが童貞をいじることで作ってくれたあの居場所の温もりを思い出すことになるだろう。
はあちゅうさんが、岸勇希氏から「電通」でセクハラやパワハラを受けた
この件が話題になるにつれ、はあちゅうさんが過去にTweetした
「童貞いじりの件」(彼女Twitterでの言葉を採用し、この言葉を使うが、わざわざ逆撫でする言い方をしなくても良いのにとは思う)
これはどうなっているんだ、これもセクハラではないのか、と批難の声があがっている。
感情に流されない識者は、岸勇希氏からのセクハラやパワハラと、「童貞いじりの件」は別箇に議論されるべきであって、
今回の彼女の告発は、相対化されるものではないとコメントしている。
まったくその通りだと思う。
はあちゅうさんが、「私は電通の考え方に染まったのから『童貞いじりの件』をTwitterに書いた」といえば味方できるのに、というのも、この二つの件を混同している典型に思える。
一番問題なのは、「理想の被害者ではないと声をあげてはならない」と、被害を被っている側、被害者の相談を受ける人が内面化することだろう。
しかし、この二つのことを一緒くたにしてブーメランだとか、語る資格はないと語る人がいる。なぜか。
「童貞いじりの件」という言葉は、女性から男性へのセクハラ、同じセクハラという言葉の定義に抱括されてしまうからだ。
Wikipediaのセクシャルハラスメントのページ(いろいろ見て回ったがWikipediaがわかりやすかった)を参照する。
セクハラは、対価型セクハラと環境型セクハラに分類できるそうだ。
今回のはあちゅうさんが「#metoo」のハッシュタグで告白したものは、対価型セクハラに分類される。
一方、はあちゅうさんの「童貞いじりの件」は、分類するならば、環境型セクハラに分類されるっぽい。
(あくまで私の私見である。きっとこのように綺麗に分類できるものではないし、セクハラにあたるのかもわからない。私は専門家ではないので、専門家に詳しい解説を願いたい)
どうも、この対価型セクハラと環境型セクハラをセクハラという大きな言葉で括っていることが
要はセクハラと言ってもいろいろなモノがあり、そのひとつひとつの拾い上げて検証する必要があるのではないだろうか。
対価型セクハラと環境型セクハラという分類も、大雑把な分類だがこの性質はまったく違う。さらにその中でも発信される場所などに対しての考慮も必要だろう。
対価型セクハラは、権力を持つものが、セクハラもしくはパワハラをその権力を笠に行うので、セクハラ・パワハラ被害を訴えにくい。
対価型セクハラは、声をあげ辛く、議論の俎上にも載せにくい。なぜなら声を上げるだけで不利益を被る蓋然性が高く。匿名で訴えたとしても、信憑性にかけると判断される可能性もある。
一方の環境型セクハラも職場や学校など限定された環境であれば、声をあげるのは難しい。
しかし「童貞いじりの件」は、インターネット上の発信であり、批判の声を発信者に届け、議論の俎上に載せることは容易である。
そもそもはあちゅうさんが、童貞に対して(語りかたが不愉快だから)何も語る資格を持たないというのも、冷静に考えれば妙な話であり、
さらに言えば、はあちゅうさんの今回批難されているTwitterの「童貞いじりの件」は、概念としての童貞を語っており、誰か個人を晒し上げているわけでもない。
そもそもセクハラなのか、これは環境型セクハラに分類しちゃって良いのだろうか(専門家の意見求む)。どうもビミョー臭い。
本人が堂々と公言している童貞、ヤリマンをコミュニケーションネタとしていじることや下ネタとセクハラは違うと思うんですけどねー。明るく楽しく笑えるものが自粛になるのは嫌だなー...。
と、いうはぁちゅうさんのコメントは、童貞をタブー視することこそが問題なんじゃね?と彼女なりの考えがあっての発言にも思える。
彼女の言い回しに対して違和感がないわけではないが、言わんとすることはわかる。
すべての、セクハラという言葉で定義できるものをシステマティックに片付ける社会は嫌だけど、許せないことはある。これは矛盾しない。
私はセクハラやパラハラの専門家ではないので、発言を控えるべきだとも思った。
しかし、かつて酷いパワーハラスメントにあい「言ったとて、どうにもならない」と言い出せず、悔しくて、惨めな思いを味わったこともあり、
今回の#metooの動きで声にならなかった言葉が可視化されて、今後「私だけじゃない、これは怒っていい奴だ」と声をあげやすくなるのは、
とても素晴らしいことだと感じ、考えを述べた。
### なぜ私の研究はつらいのか
最近,研究がつらい.終わって欲しいというよりはやっていて楽しくない,苦しいという気持ちに近い.
最近はつらいつらいとTwitter(の鍵垢)で呟いていることも多い.
しかし呟いたところで何も変わりはしないので,なぜ研究がつらいのか,自分なりに考えてみた.
一時は研究をやっている意味がわからないだとか言っていたけれどよくよく考えるとそれは副次的なものであることがわかった.
その結果を以下に述べる.
なぜ小中学校時代の話なのかと思われた方も多いだろう.理由は,研究がつらい原因を探った結果それは自分の人格と大きく関わっていることがわかったからである.読みたくない方は飛ばしてもらって構わない.
本当に怒られることが嫌いな人間だった.学校の規則は絶対に破らないし,「人が嫌がることはやらない」を過度に解釈してほとんど能動的に人とは関わることはなかった.(能動的に人と関わるとフレーミング問題並みに人が嫌がる可能性を考える必要がある)
ここから分かることは,どうやら自分はクズなほどに『傷つけたくない』しそれすなわち『傷つきたくない』らしいのである.飛んだエゴイズムである.
受動的な自分でも,部活に入ったりすれば友達ができるものである.さらに4年間同じクラスという都合上能動的に働きかけられる友人も増えていった.
さて,大学に入学すると,これまで受動的に生きてきた私にとっては試練の連続である.成り行きで何もせずとも友人ができていたため,友人の作り方がわからない.サークルに入ろうとも編入という微妙な立ち位置のせいで疎外感を感じ辞めてしまった.
しかしここで変わろうと決意したのだろう.学科の控え室に引きこもり,会話になるべく参加しようと試みた.おかげで会話に参加することには慣れ,初対面の人とも会話ができるようになってきた.
しかしここで結局は「傷つけたくない」「傷つきたくない」自分に悩むことになる.初対面の人とは話せるものの,話したことがある人との距離感がわからないのである.この人は話しかけられる距離なのか,この人がご飯に誘っているときについていっても良い距離なのか,この人はご飯に誘っても気分を害さずに来てくれるのか,この人は課題のペアに誘ってもいいと言ってくれるか,この人にリプライを送っても違和感はないのか,などが全くわからずにまた病むことになってしまった.ちょうど1年前の話である.
これまで長々しく人生を振り返ってきたが,鍵となるのは『傷つけたくない』『傷つきたくない』自分である.これらが呪いとなって自信を蝕むのである.
研究がつらくなった流れを振り返ってみる.
きっかけは11月,先輩方にテーマについてのアドバイスを伺った時であったと思う.
長い時には1時間以上ずっとテーマのダメなところについてツッコミをいただいた.
ここで自分が強い人間なら(まともな人間なら?)そのアドバイスに従ってテーマを改善していた(この場合大きくテーマを変えていた)だろう.
『ツッコミをいただいたのはテーマであって,テーマが悪いのである.自分が否定されているのではない』と意識ではわかっているつもりだった.
しかし私の無意識下には人を「傷つけたくない」論理,いわゆる『この世の全ての不利益は当人の能力不足』という論理が存在するらしく,次のように解釈されてしまったらしい.
こんなクズみたいな論理のせいで,『傷つきたくない』自分は大きなダメージを負ってしまった.もちろん先輩方は何も悪くないし先輩方こそが正しいのである.そのアドバイスを勝手に悪く解釈し凹んだ自分こそが悪い.
これで終わればまだ良かったものの,研究が手につかなくなり進捗は発生しないしMTGすらサボってしまった(遅刻ということにしたけれど)あたりからエスカレートしていく.その次の週のMTGが決定的で,ほとんど進捗がなかったことと先週の遅刻に加えて,このままじゃ卒論終わらないよと先生から指摘をいただいたのである.自分から見た先生はめちゃくちゃ怖かった.
自業自得そのものである.進捗を生まなかった自分が悪いしさらにはMTGをサボった自分が究極に悪い.このMTG後は涙目で実装の参考にする論文を読みながら退学する妄想が止まなかった.
この後は研究が非常につらくなった.自分のテーマが穴を抱えているという時点で(卒論提出まで時間がなく変更がきかない(と自分では信じ込んでいる))その欠点をいつ突っ込まれるかとビクビクしながら実装をしている.
最近は毎日のルーチンが面倒くさい.風呂に入るのも面倒だし入ったとこで出るのも面倒.寝つきも良くはないし朝起きれない妄想がつらく寝るのも面倒だし,朝はもちろん起きれない.
こんな状況もあってか2度目のMTG遅刻(=サボり)をしてしまった.もう半分先生には見放されてるんだろうなという気もする.どこまで被害妄想なのかはわからないけれど.
#### まとめ
すなわち,研究をつらくしているのはクズみたいな自分の人格なのである.
これを読んだ方は何も参考にならず自分語りをしているこの記事に失望したかもしれない.人を失望させる方がよっぽど人を傷つけているはずなのになぜこの記事を公開したのだろうか.
まあどんな卒論でも卒業はできるらしいので少しづつ進めていこうと思う.メンタル回復のため美味しいご飯を食べるようにしてみてもいいかもしれない(最近これが食べたいという食欲も沸かないけれど…).睡眠もしっかり摂るようにしてみよう(家が遠いので進捗を生むためには睡眠を犠牲にする必要があるけれど).もう一つ?知らない子ですね(そもそも同期とのコミュニケーションすら不安がっている自分にそれ以上ができるはずがない)
アドバイスができるとすれば実装前にテーマについてどこまでも議論しようということである.アイデアを出す段階ではテーマが否定されてもダメージは少なかったので,その時期にどこまで穴を無くせるかが勝負なのだと思う.
#### +α
そもそもこの人格では研究やっていけないどころかエンジニアとしてもやっていけないと思われた方も多いだろう(し自分もそう思っていて病みをエスカレートさせていた)
あるエピソードを紹介しよう.自分がとある企業に5日間のインターンシップに行った時である.機械学習周りでいくつか上司の方に言われた通りに実装を行った.ところが,最後の報告会で技術部のトップのような方からめちゃくちゃツッコミをいただいたのである.この時も涙目になりながら頷いていた. しかしこの後「絶対にもっと強いエンジニアになってやる」という気持ちが強く湧いてきたのである.
なぜ研究がつらい例とこの事例では最終的な結末が異なるのか.これはまだ私もわかっていない.卒論を終わらせたら何か分かることがあるかもしれない.ならば進捗を産むしかないだろう.いつかそれが分かる時が来ると信じて.
このブクマを見て思ったんだが、
自分は別に法律の専門家でも何でもないが、今回のケースで「夫の子と推定」すること自体はまあそこまでおかしくはない、妥当な範囲ではないかと。
訴状などによると、男性は2004年に女性(46)と結婚し、11年、体外受精により男児を授かった。13年10月ごろ、2人は別居したが、女性は体外受精をしたクリニックに保存されていた受精卵を、男性の同意を得ずに使って妊娠、15年春に女児を出産した。その翌年、2人の離婚が成立した。
男性は、自分の同意なく女性が単独で妊娠・出産しており、自分は一切関与していないと主張。女児について、生物学的には自分の子どもかもしれないが、その理由のみで法的な親子関係が認められるものではないと訴えていた。
とある通り、夫が生物学的に子の父であることは夫も認めているわけだ。
そもそも生物学的に血がつながっている子を「自分の子ではない」と拒否する事は、今の法律ではできないのではないか?
そもそも「自分の意思で生まれた子ではないから」という事情をいちいち汲んでいたら、じゃあ誰がその子の親になるのかという問題が発生し、子の利益を保護するため、まずは血縁関係があれば子としているという部分があるのではないだろうか。
もちろん血縁関係がなくとも養子縁組等で法的に親子とする事はある。また特別養子縁組で血縁関係があるにも関わらず生物学上の親との親族関係がなくなる事はあるが、それはあくまで「そうした方が子の利益にかなうから」という考え方だろう。
親にも事情はあるだろうけれど、まずは子の利益のためには誰かが親になる事が必要であり、子の利益のために親側に不利益が生じても仕方がないという考え方があるのではないだろうか。
そこで「では誰を親とするか」と考えた時に基準となるのはまずは血縁関係となるのだろう。なぜなら基準を「実際に養育しているかどうか」等にした場合、じゃあ捨てられた子の親は誰になるのかという問題が発生する。子を養育しているという意味での親がいないということは有り得るが、生物学的な親がいない(死去したとか生き別れたという意味ではなくそもそも最初から存在しない)という事はありえないからだ。
子の両親は誰かを決める際に、そもそも母親はどのように決まっているかと言われれば、まず生物学上の母、その子を産んだ女性を母としているわけである。反例でも「母の認知をまたず分娩の事実によって当然に発生する」としている。もし子を産んだ女性が「自分が欲しいと思って、望んで産んだ子じゃない」と思っていたとしても、その後その子を手放す事があったとしても、まずはその子を産んだ女性を母としているわけである。女性本人の意思や同意は関係なく母とさせられてしまう事だって、今までも起こっていただろうし、それによりその女性に不利益が生じる事もあっただろう。
例えば性暴力被害に遭い妊娠に気づいた時には中絶をできない状態だったとか(被害に遭ったのが女性本人も子どもと言われる年齢である場合等)、そこまでではなくとも、女性自身は子どもは一人でいいと思っていたが親族などの周囲の圧力でもう一人子どもを産むことを半ば強制されたとか、そのよう「自分の同意がない」「知らない内に子どもができていた(妊娠していた)」場合でも、まずは誰かを親としなければいけないから
有無を言わさず、まずは「その子を産んだ女性を母とする」というルールでやってきたのである。
そして「父親が誰か」を決める法律上の規定は「妻が婚姻中に妊娠した子は夫の子と推定する」という嫡出推定になるが、「母親が誰か」を決める物は何かと言われれば
「妻が婚姻中に妊娠した子は夫の子と推定する」という民法の嫡出推定の規定も、法律ができた当初は「誰が父親か」を確実に判定する手段はないが、おそらく妻が婚姻中に妊娠した子は生物学的に夫の子である場合が多いから、という判断もあり血縁関係を一つの基準として決めてきたのではないだろうか。
未婚の男女の間に生まれた子の場合、男性側が「確かにやることはやったかもしれないが、妊娠したことや子どもが生まれていた事までは知らなかった。自分は子どもなんてほしくない、自分の意思や同意なく生まれた子だ」と主張する事もそれこそよくる事なんだろうが、その場合でも今では血縁関係が認められれば強制認知という形で、法律上の父とならざるを得ないというルールでやってきているわけだ。強制認知にまで至るような事例だと男性側は意思に反して父親になる場合も多かっただろうが、それも子の利益を優先するという考えの元のルールなのではないのか?
だから誰を親とするかという法律上の規定には、そもそも親側の意思だとか同意だとか子どもが生まれる事を知っていたかとか望んでいた子かどうかとか一緒に暮らしてないとか、そういった親側の事情は関係がないのだ。
嫡出推定自体も、誰かはその子の父親にならないといけないからとまずは女性が妊娠していた時の夫を父とすると決めるという、子の利益を保護するための規定として現状運用されているのだろう。
そもそも今回の場合夫が生物学上の父であることは本人も認めているわけで、これで「夫の子とは推定しない」という判決が出ていたらその方が現状の運用からかなり逸脱した判例だと思う。
あとこれはあくまで今回のようなケースも夫の子として推定したという判決であって、女性の行ったことがどう裁かれたかという判決ではない。
受精卵を勝手に使用し妊娠・出産した元妻に対し、元夫が損害賠償などの裁判を起こしたとか、そういう内容の裁判ではない。(一部ブコメを見ていて少し気になった。)
まあ現状の「誰を親とするか」という法律の運用がすべて正しいとは思わないが(DVで夫と別居中の女性と、夫以外の間に生まれた子も夫の子にされてしまうとかは問題だと思う)、
今回の判決自体は現在の法律の運用を考えるとまあそのようになるだろうなという判決だと思う。
ブコメにも「嫡出推定は女性や子に不利に働くことが多いが今回は男性側に不利に働く結果だった」という反応があったが、まさにその通りで現状の運用では女性が不利益を被ることも男性が不利益を被ることもある
ということなのだろう。
自分のあずかり知らぬ所で生まれた子や自分の意思に反して生まれた子にも養育の義務が発生するのであれば、それは男性にとって著しく不利な事だという反応もあったが、
女性の場合でも知らない内に妊娠し出産まで追い込まれることや自分の意思に反して子どもが生まれる事はあり、その場合も女性には母親としての義務は課せられているのだから、いつも男性だけが損をしているということもないだろう。女性の場合わけもわからないまま出産に追い込まれたからと言って子の養育を放棄した(というかどうすることもできず結果をして子を放置した)場合でも下手すれば保護責任者遺棄等の犯罪者になることもある。自分の手には負えない場合特別養子縁組で子を手放す事はできるとしても、子を手放す決断をする必要はあり、子を手放すまではやはり母親として養育の義務を負わざるを得ないだろう。
こういう言い方もアレかもしれないが、母親が生物学上の子の養育を放棄すると最悪お縄になるが、実際問題養育費を踏み倒す父親も多いし、養育費を支払わなかった所で現状捕まるわけでもないから、父親にさせられたばかり損しているというわけでもないんではないかな。
この辺の法律にはおかしい部分や時代にそぐわない部分、現状とかい離している部分もあるが、実際望まれて生まれたわけじゃない子もある程度はいるし、生殖行為を行うという事、その結果生まれてきた子に対し
原因をつくった当事者である生物学上の父母と思われる者をまずは法律上の父母とするというルールの原則自体は、子を保護するという意味ではそんなに的外れでもないと思う。
生物学上の父母が責任を果たせない場合のセーフティネットはもっと整備されるべきだとは思うが。
もし「男性の意思に反して生まれた子は、血縁関係があっても法律上はその男性の子とはみなさない」となると、それこそ男性の意思で避妊もせず、結果子どもが生まれると「別に俺は子どもなんてほしくねーし、あんたが勝手に生んだんだろ」という男性がさらに好き放題することになり、生まれた子の利益が保護されないという事態が悪化する事も目に見えてるんじゃないだろうか。
あと以下は蛇足だが、「子どもなんてほしくなかった、自分が妊娠するなんて思わなかった」という女性に対しては「やることやってたのに何言ってんだ」「軽はずみな事をするから」「被害に遭ったのなら自衛が足りない」と言い出す人も現れるが、今回の夫には「やることやってたのに」「自営が足りない」とか言う人はいないんだな。
先天性心臓病患者。先天性心臓病患者で手術で健常者と同じ健康を取り戻した人は、ほとんど障害者手帳を持ってない。
LGBTは数がいるからいいよね。心臓病患者なんて、テレビドラマでいつも、すぐ死ぬ役が割り当てられて、揶揄されてる。お陰で、普通の人は、先天性心臓病患者が人口の1%程度いて、しかもその半分以上は運動制限などを除けば健常者と同じように生活できることを知らない。
健常者は、我々が健常者にまぎれて生きてることを知らない。
LGBTはいいよね、生命保険にも海外旅行保険にも入れるでしょ?先天性心臓病患者は基本的にどっちもできない。医学的には、寿命も生活も健常者とほぼ変わりないのに。
LGBTは独身であることだけ受け入れれば、経済的なハンデはない。我々先天性心臓病患者は、幼少時に手術すれば、薬も治療もしなくても一生健常者と変わりなく生活できる人が沢山いるのに、幼少時に手術したという理由だけで、経済的な不利益を受ける。そして、手術で健康になったからという理由で、障害者にもなれない。
LGBTのあなたは、我々の経済的ハンデを取り除く活動を何かしてくれた?してくれてないよね、十中八九。だから、僕も、あなた達の活動を支援しない。
結局、数が多い人が勝つんだよ。少数派に生まれた時点で負け組なんだよ。そのマイナスを打ち消すだけの金なり学歴なりを手に入れる方にエネルギー注いで、自分の弱点については、できる限り隠して生きる方が得だよ。LGBTは、われわれに比べれば数が多いから、多数派に打ち勝てるように錯覚してるのかも知れないけど、そうじゃない。
結局、少数派に生まれた時点で、マイナスなんだよ。不利なんだよ。多数派には理解されないんだよ。だから、ほっといて自分が生き延びることだけを考えて生きたほうが得だよ。俺はそうしたよ。
「自宅でプリンタ持ってるくせに」
ひがみかよwwビンボー人
いや?自宅にプリンタ本体を置きたがるくせにインク消耗に文句言う時点でサイコーにバカ。あらゆる製品はその利益不利益双方を受け取るものであり、
お前が言ってるのは「寒いからファンヒーター買ったけど灯油代が高い!」とか「寒いからカーボンヒーター買ったけど電気代が高い!」とか喚いてる輩と同レベル。
そりゃあカネがかかるもの買ってんだからカネがかかって当然だろ。
コンビニプリンタの300円程度の出費にすら尻込みするビンボー人には似つかわしくない代物、というわけだな。わかったか、バカ。
ひがみかよwwビンボー人
インク消耗が尋常じゃないから文句言ってんの。理解力ゼロのバカかお前は
へー、できないんだ。
へー……w
この記事について
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171203-00010000-yomidr-sctch&p=1
きちんと理解していない人が的外れな意見で炎上させているの、見ていられなかったので書きました。
できる限りわかりやすく平易に書こうとしていますが、そのために誤解を招く表現が生じた場合は適宜修正を加えます。
三点あります
③やめてほしいこと
まずそもそも発達障害かどうかというのは医師にしか「診断」できません。臨床心理士がそうでない人間がそうかもしれないと思うのはあくまで「推測」です。そして発達障害に理解のない人間が「あの人発達障害なんじゃない?」と言うのは悪口になります。
発達障害であると「診断」されている場合、その人あるいはその人の保護者は困っている可能性が高いです。どちらかでも困っていなかったらわざわざ医者にいって診断などしません。困っている原因が発達障害であるとわかれば対処法がわかってうまく付き合っていくことができるかもしれません。この診断はレッテル貼りのためのものではなく、今後「発達障害によって困っていること」をうまく対処していくためのものです。
くだんの記事は決してレッテル貼りをしたいわけではなく、単にケースの話をしています。
「発達障害でない人間」は通常、他者への発話の際に波風をたてない言い方を把握しています。また、相手によってもそれを変化させることができます。「めんどくさいから一人で行くわ」という発言に嫌な気持ちにならないグループもあるでしょうし、仮に思うことがあっても相手を攻撃しないグループであれば、同じ内容の発話であっても話は全く違うでしょう。しかしこの記事にこの事象がケースとして乗っているということは、この女子中学生はこの発言の後「仲間はずれにされて部活にいづらくなって」います。
・その後女子中学生は仲間はずれを受けて困った
この場合、怒るべきはこの記事を書いた人ではなく、「めんどくさいから一人で行くわ」という発言に対して許容せず排除するような環境がつくられていることではありませんか? また、この女子中学生でない他者が似たような発言をしてそれが許容されるかどうかは、この女子中学生には全く関係のないことです。
その発言をしても許されるかどうか判定のできる人間とは違い、このこの女子中学生は仲間外れになりました。「なじみたい」のに「なじめない」という時点でこの女子中学生は困っています。これがエスカレートするといじめに発展する場合もあります。女子中学生って、異端に対して厳しいですよ。「自分は別に平気だった」という人もいれば、平気じゃない人もいます。平気だと主張する人は平気なのでしょうが、それを当事者に押し付けるのはおかしいんじゃないかと思います。
誤解しないでほしいのは、私はいじめの原因が発達障害者にあると言いたいわけではありません。いじめをするのはいじめる側が悪いです。そしていじめを許容する社会の歪さを表しています。しかし、女子中学生が「発達障害」であることによって「一般的な社会性に欠けた言動をすることがある」「その相手がどう思うか気持ちを考えられないことがある」ことで女子中学生が不利益を被っている場合、純粋に支援するべきです。
また、発達障害に対して理解が進んでいないことについては、ケースの女子中学生の発言に対して仲間外れを決行することからもわかります。記事に対するネガティブな反応が仲間外れをする側でなく発達障害のケース自体に向いていることも「ああ理解がすすんでいないんだな」という印象を深めました。発達障害者でないならこの記事のケースに自己投影するのはおかしなことです。
基本的に前提として発達障害者、またはその保護者が困っている以上、支援する必要があります。
この症例においてはすでに女子中学生はおそらく発達障害と「診断」されていています。あなたが医師でもなんでもなく、女子中学生の他の言動をみたこともないのであれば、あなたが彼女を発達障害であるかどうか決めることではありません。そして女子中学生の発言の一つのみを見て「自分もこれぐらい言うしこんなの発達障害じゃないじゃん」と思い込むのは、発達障害に対する偏見を表しています。
もしもあなたに発達障害者は奇声を発したりブツブツ言ったりするものだという思い込みがあるのだとしたら、それは数多くある例のうちの一つでしかないと言わせてください。
→あなたが発達障害でないなら発達障害と言うのは絶対にやめてください。冗談だとしても迷惑になります。この記事はあなたが発達障害であるかどうか診断するものではありません。あなたが普段このように言うことがあることと、記事の女子中学生がこのように言うことは別の事象です。あなたが本来憤りを感じるべきはこの発言をしたことでその女子中学生がその後いじめられたであろう環境にあるべきだと私は思います。
・職場でいじめを受け、発達障害だとレッテルを貼られ退職に追い込まれた。しかし診断結果は発達障害ではなかった。
→大変な思いをされましたね。しかしそれはその職場の人間があなたに対し行ったことであり、この記事はあなたがに対してレッテルを貼るものではありません。同一視してまるで自分がこの記事によって攻撃を受けたように言うのはやめてほしいです。
この世界でのコミュニケーションはだいぶ部分が「発達障害でない人間」で構成されています。そのため広汎性発達障害の人たちがコミュニケーションの場にいるとき、発達障害出ない人間らしく発話や行動することによって「発達障害でない人間」から異質なものに受け取られることが多々あります。「発達障害でない人間」がコミュニケーションをとるときにはある程度相手がどこまで許容するのか何がアウトなのか把握し、会話のなかで「相手を傷つけないであろうと思われる語彙」を無意識に選んだりすることが「できる」ことがほとんどです。場面などによって「できるがしない」場合もあるでしょうがそれは「できない」ではありません。
ここが一番重要なのですが「本人または周囲が困っていること」「対処法がわからずうまく付き合っていけないこと」がトリガーですので我々が「え~〇〇ちゃん/くんは別に発達障害っぽくなくない?」などというのは本当に的外れです。この手の発言はむしろ迷惑であることを知っていてほしいです。あなたにとってそれは発達障害者に対するいわゆる「誉め言葉」なのかもしれませんが、本人がそのことについて本当に困っている場合、無理解を悟って悲しくなります。「○○ちゃん/くんって発達障害なんじゃない?」というレッテル貼りと同等にやってほしくないことです。本人が困っていることについて、主治医でもなんでもない他者が判断することではありません。
もしもあなたがこの記事に対して疑問に思うことがあったなら、まず広汎性発達障害についてきちんと調べてみてください。なぜそれが「障害」だと言われているのかについて考えてください。当事者が困っていることについて、「障害じゃない」なとどいうのはやめてください。当事者が困っていなければ、それが「障害」と定義されることはありません。
中国アゲサゲに連なってみます。どちらかと言えばやはり中国アゲかもしれませんのでご留意ください。
私は日本人ですが、縁があって数年前から中国の会社の日本支社の経営を任されています。
(少しだけ業種に触れますと、貿易関係、旅行関係、IT関係ではないです)
そのため、中国に住んでおりませんし、先の増田のように訪問したばかりでもありません。
ただ、毎日中国人と過ごしていますので、テクノロジーではない以下の点を中心に触れたいと思います。
1、英語に対する耐性
2、政治体制に対する考え方
3、給与水準について
1、英語に対する耐性
会社は世界中に1500人ほど正社員を抱えておりますが、日本人は私だけです。
オフィスの中では中国語が飛び交っていますが、私と雑談するときは、全員日本語で話してくれます。
少数の日本人である私に基本的には中国人スタッフが寄せてきてくれているというのが現状です。
その他外国のオフィスにいる中国人とは英語でやり取りしています。
その英語のレベルは控え目に申し上げても、日本人の平均レベルを大幅に上回っています。
私過去に外資系大手、内資大手、どちらも3年以上務めたことがありますが、ヒラ社員までここまで英語ができる日本オフィスはありませんでした。
英語公用語の日本の会社には在籍していませんが、スタッフの英語力が上がったというよりは、外国人を受け入れやすくなったというのが結果だったと聞いているので
そういう意味でも、たかだか1500人規模の会社でほぼ全員であるノンネイティブが英語で十分に仕事ができるという環境は
英語ができる人が日本の人口の15%だとしたら、その割合が同じまま中国にあてはめられるようになり、実際の人数は日本の13倍存在するという証左です。
英語を話すのは中国人も日本人と同じくらい苦手なので、そこは安心してください。
また、一方で全ての中国人が英語が話せるわけではないことも十分承知しています。(中国オフィスにも定期的に訪問しています)
中国を一人で旅するにはまだまだ中国語が理解、話せた方が良いです。
英語は思っている以上に伝わりません。
トイレの使い方とかも、まだ少し田舎にいけば独特の場所が多いです。
案内板が複数言語で設置されていることもまだ少ないように思います。
外国人の一人旅行しやすさという点においては、まだまだ日本が勝っていると思われます。
2、政治体制に対する考え方
一党独裁で情報統制された不自由さを思い出す日本人も多いかと思いますが、
Wechatは超便利だし、くまのプーさんが検索できなくてもなんの不利益もないぐらいローカルサービスが充実しているため
中国語で検索することができれば、別にGoogleがなくても問題ないです。
中国はこの20年、ざっくりみればずっと経済が右肩に上がり続けているので、昔を知る50代以上の中国人は体制にも不満は少なそうです。
圧倒的に過去より今が良くなっているので。
一方で裕福になってから生まれた若い20代のスタッフは、やはりくまのプーが検索できない国はおかしいと疑問を抱いているようです。
昔より良くなったんだからいいんだ!という50代スタッフと、日本みたいになれてないじゃん!という20代スタッフはよくケンカしてます。
3、給与水準について
そんな環境なので、基本的に中国絡みでスタッフを採用することが多いです。
日本語と英語ができる中国在住の人、または日本に在住している英語が話せる中国人がメインターゲットです。
採用活動をしていますと驚くのが、一定のレベル以上の管理職は既に日本の大手企業以上の年俸を貰っているということです。
経験6年以上で肩書がついたエンジニアを採用することが多いのですが、
日本で優秀な中国人が就職してしまうと、日本人でないという理由から採算性の低いグローバルプロジェクトに参加させられ、給与も低めが多いのに対して
中国でグローバルプロジェクトに参加できるレベルであれば、同い年でも3倍ぐらい中国の方が貰ってます。
もう少し具体的に言いますと、日本の企業で働く中国人を採用したときは、前職年俸450万でした。
中国で働く日本に来たい中国人は前職年俸1200万でした。(年齢と学歴はほぼ一緒)
なぜ日本支社の面接を受けたの?と彼に聞いたらば、子供が生まれたので空気のいいところで生活させたいと。
中国語と英語の両方が堪能なので、非常に採用したかったのですが、日本語しか話せない日本の顧客の相手ができない(つまり、中国にいるときと同じパフォーマンスが発揮できない)ので
また別の方はやはり日本大好きなので、日本で生活できるなら何でもすると、中国での給与より低い年俸で日本オフィスに来てくれた人もいます。
日本語は必要ない仕事の場合は、中国での前職より高い給与で(通常の転職ですので)引き抜いたこともあります。
全体としては、中国人は日本はいい国で(空気だけでなく、日ごろ英語を使って仕事をしていると思っているそう)、給料もアジア一高いはずと思っているが
日本人のイメージより相当高い給与を既に受け取っていることも多いし、昇給がまれかつ低水準であることに驚かれるという日々が続いています。
もちろん今も中国の新卒給与は日本の半分ほどですが、20%UPが半年に1回とか普通にあるので、中国の方が給与が安いは新卒から数年間に限った話ではないでしょうか。(成長産業でない業界はわかりません、ごめんなさい)
4、労働について
なかには怠け者のイメージを持つ人も多いかと思いますが、前述の通り給与が上がるので、めちゃめちゃよく働いてくれます。
特に弊社の場合は、締め切りを必ず守るをポリシーにしているので、締め切り前は仕上げるまで残業を厭いません。
自分の分だけ終えていなくなる米国人よりずっとチームワークを大切にしています。君が仕事終えるまで僕もオフィスにいてあげるよ、みたいなやり方で後輩の面倒をみてくれています。
また、質の方も悪いということはないです。猪突猛進な感じはあるので、途中で方向転換するのは難しい時もありますが、理由を説明して納得してくれれば曲がってくれます。
正直、具体的な理由もなく、回答までもうしばらくお待ちください。と待たされる日本のやり方にはフラストレーションが溜まるようです。
好景気なせいか、どこの会社も社員全員で旅行に行くとかチームビルディングの活動に力を入れています。そのため、一旦は給与に釣られて転職しても、出戻るパターンをしばしば見かけます。
特に中国人でも若い人はお金だけでなく、生活の充実を望んでいますので、高い給与で激務より、そこそこの給与で楽しくを選ぶ傾向があります。
たいていの日本人は三国志も西遊記に親しんでいますので、共通の話題も多く、普段トラブルはありません。
ただ、南沙諸島の問題や南京の事件などに関しては、たぶん教えられている内容の大前提から根本的に違うんだるな、と思うほどかみ合いません。
正しいと思っている者同士のバトルなので不毛な感じになりますが、じゃあどう決着をつけるのがいいかという所になると、落としどころは普通に話し合えるので
日本の文化として残っている多数のものが中国由来であるため、時々何もかも中国由来、中国が先!ってうるさいよ(でも事実)と思うこともありますが、逆に日本にしかないもの
(酉の市で熊手を買ったらそれ何ですか?と驚かれました)を見つける楽しみもあるので、違いは楽しむべきものだと思います。
学校の勉強の濃度については競争化社会の中国の学生にとても太刀打ちできないので、素直に称賛します。
勉強して新しいことを覚えるという姿勢が体に染みついている感じなので、安心してこちらも新しい仕事の機会を与えてあげられます。
このような猛烈に勉強する隣国に対して、日本でのんびり生まれ育っているわが娘に、何を与えてあげれば20年後彼らと共に生きることができるのか悩む日々です。