はてなキーワード: オリジナリティとは
さてみなさんごきげんよう。
ブロガーの僕ちんになぜか「アフィリエイター同士で呑むのですが、一緒に同席どうですか?」とDMをいただいたので、「ぼかぁブロガーなんだけど」と思いつつご一緒することにしました。
僕が入るとどうしても話がシモの方に行きがちなんですが、店に入る前の会話は「アフィリエイトはもうオワコン」という超真面目話題だったらしいので、シモの話を交えつつそのへん掘り起こして自分なりにその話をまとめてみました。
というところでしょうか。ああっ、石投げないでっ!当たり前の結論で申し訳ないです。
ブロガーでもサイト主でも自分が持っているサイトをメディアとして意識することが非常に大事になってきましたね。メディアってのは大層なもんじゃなく、いわばポジショントークなんですが、いかにオリジナルの立ち位置を確保し、「こんな彼がこういう思想のもとに主張するわけです」という顔を確保することが必要ですよ。
今はまだ3ケタ万円稼げる世界かもしれませんが、5年後10年後を考えた時に、Googleのアルゴリズムとの果てしない戦争を考えるよりも、俺メディアを確立してソーシャルで枠を広げていくことに全力を注いだ方が、後々大きな差になって生き残れるような気がしてきましたよ、と。
あれ?となるとイケハヤ大勝利じゃないっすか。定期炎上メソッドで、ネガティブでもいいからネットのあらゆるところからリンクをかき集め、最強のドメインを作り上げた後にアフィリエイトの暗黒面に堕ちる(笑)ご自身と奥様にものすごい精神負荷がかかりそーなメソッドですが、たしかに大勝利ですね、誰もが真似できるもんじゃないですけど。
すんません、アフィリエイターの世界よくわかってませんけど、アフィリエイト、将来オワコンになってもいいじゃないっすか。
この経験を元にまた企業に潜り込めるでしょう。オウンドメディアは非常に大事だし、企業風土にあったメディアを企業内から提案していきましょうよ。
それか、広告代理店じゃなく販売店側にクラスチェンジしちゃうか。代理店よりも販売までカバーしたほうが利幅は高くなるわけです。楽天やヤフーに出店して永遠に金を吸い上げられるよりも、裸一貫で勝負し続けたアフィリエイターさんならその辺、楽勝だと思うんですがいかがでしょう?
生まれてきて、大人になって、暮らしを営んでいることに幸あれと本当に思う。碌でもない出来事が日々石ころのように転がっていて、それを道から除けるか、避けて通るか、人それぞれなんだけど、なんというかその、道があることが愛おしい。僕らはみんな生きている。生きているからすごいんだ。
世を苦行だと捉えるのが一般的な仏教の根本原理だ。聖なき衆生が業のもとに救いなく永久に続く苦行を生きる煩悩の有様を目に見える世界だとする。解脱とはメタ世界への移行でその業の世界からの脱出を意味してそれを神聖視するわけだけど、そもそもの動機は業からの逃避な訳で。ものを食って、うんこしてる身で。要は、苦行してるお坊さん方は、世の中から逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。だから糞下流には混じり合わず、己の世界の内でしんどいことをやり続ければ報われる、というのが原始仏教。こいつらくだらねぇな、つきあってられねぇな、なんて、分かりやすいエリート意識。
しかし、苦しい世だからこそ、そこに生きることが尊いのではないか。そこで泥水をすすり、愛欲に溺れ、駆け引きを駆使しながら己と子を護り、肉を喰らって、眠りと朝日を保障する。おい、ねえ、すごくない?俺できないし。というのを愚直に見つめた男がいる。それが親鸞だ。
教義としてのオリジナリティは法然にあるのかもしれないが、親鸞は事実、泥水をすすりセックスをし、酒を飲み肉を喰らいながら、そんな俺が信じてるよ、と阿弥陀の救いを説いた。私が知る、あなたたちをこそ救わずして、何が仏か、と。
ここからは俺の独自の解釈。かつて僧という「形」のために頭を剃った愚行を「愚禿」と表わし、今現に業を一身に背負うこと=菩薩行を積んでいる目の前の人々をこそ、哀れまず慈しまず尊んで、己より行を達した者とし、敢えて同じことをした。世は、かき集めた金をつぎ込んで寺を建て、加持祈祷をさせれば徳=得の時代。そのような儀式、「計らい」は要はショートカットであり邪であるとし、業に直面しながら苦しみ生きることこそ解脱の道であり尊い行いだと、己の身をそこに投じた上で彼は知って、そして説いた。
生きよ、生きよ、生きよ。あなたたちは尊い。何が何でも生きて生き抜く中で、だからこそ届く念がある=救いがある。「南無阿弥陀仏」とは、何者をも超越した阿弥陀仏に帰依いたします、という意味だけど、きっと多分なんでもよくて、怒られるかもだけどアーメンでもきっと全然良かった。念仏なんて要するにお題目でしかない。生きよ、あなたたちは間違っていないと、そのためになんか支えが要るならとりあえず南無阿弥陀仏っていっとけ、それを親鸞は言いたかったのだと俺は思う。
結果いろいろあったんだけどね。親鸞だって所詮エリートだ。パンピーとは頭の出来が違うし、思想の落としどころも多分違う。阿弥陀の前に人は平等まではいいけど、衆を集めて暴力的人権運動が起こせまでは多分思ってなかったろうし。いやまあ、どうなんだろうそこのところはまだ腑に落ちてないんだけれども。
ああ、酔っぱらって書いてるから面倒くさくなってきた。誰か、増田にも真宗の門徒いんだろ。西でも東でもいいや、門外漢のお説に捕捉してくれ。
『さんかれあ』という漫画がある。とても面白かった。面白い物を読んだら、その面白さについて語り合いたい。だけど俺にはそんな気の利いた友達は居ないから、いつもはネットで他の人の感想文を読んで満足することにしている。だけど、『さんかれあ』については、ちょっと検索した程度では語っている人が見つからない。だから俺が書くことにした。増田に。この感想文を読んで、一人でも多くの人が、この作品を手に取ってくれたらいいな。
では早速『さんかれあ』の魅力を語って行きたいのだが、ネタバレなしで語ることはできないので、そういうのが気になる人は先に『さんかれあ』を読み終わってから続きを読んで欲しい。
などと言うだけで本当に本が売れるなら苦労はないので、まずは立ち読み感覚でこの物語を紹介をしようと思う。
主人公はゾンビが大好きな男子高校生。死んだ飼い猫を生き返らせようと、廃墟で夜な夜な怪しい書物を元に蘇生薬を調合していた。その夜も薬の調合に精を出していると、同じく人に言えない秘密を抱えたヒロインと出くわす。ヒロインは良家のお嬢様なのだが、父親の偏狭的な愛から来る過度な束縛と、性的虐待ともとれる行為に打ちひしがれ、しかし誰にも相談できずに、ただ古井戸に向かって内心を叫ぶことで心のバランスを保っていた。彼女も主人公の作っている蘇生薬に惹かれ、二人は薬を作るため深夜に密会するようになる。それを知ったヒロインの父は二人の仲を引き裂こうとするが、逆に不慮の事故から彼女を死なせてしまう。だがなんと、主人公の作った蘇生薬を飲んでいたおかげで、彼女はゾンビとして生き返ったのだった。これは人の道を外れ、やがて腐り果てる体となりながらも、ゾンビとして刹那の人生を楽しもうとするヒロインと、その期望を叶えながらも、彼女を救う道を模索する主人公が織りなす、ボーイ・ミーツ・ガールな、ちょっとラブコメで、だいたい妖艶にエロくて、けどちょっと物悲しい、そんな青春物語──
さあ、続きが気になるなら即Amazonでポチろう! アニメにもなってるからDVDもいいぞ!
では、以降は『さんかれあ』を読み終わったことを前提にして語っていこうか。この物語は難病系の一種である。サナトリウム文学って奴である。俺は『世界の中心で、愛をさけぶ』とか『イリヤの空、UFOの夏』とかも好きだ。我ながら分かりやすい消費傾向である。パターン一緒じゃん。けど好きなのだから仕方がない。
しかしその二つと違って、『さんかれあ』は読んで号泣してしまうような物語ではなかった。端的な表現をするならば、読めば自然に目に涙が滲んで、でも流れない。そんな物語だった。思うに、これは登場人物に感情移入できないことが理由ではないか。だって俺はゾンビっ娘に萌えないし、好きな人を食いたくなって葛藤することもないし、千紘にも礼弥にも感情移入は難しい。だから、自分事ではなく他人事として物語を眺めることになるし、きっとどこか遠い世界でこんな美しい物語があったのだろうかと思うと、憧れや寂しさが複雑に混ざり合って、心臓の裏側と背骨の間にシンシンとした冷たい痛みを感じるのである。ああ、たまらない。
ひとまずは物語の全体の流れを振り返ってみることにする。『さんかれあ』は全11巻の物語で、展開はわりとはっきりしている。序盤はヒロインの家庭関係における悩みが原動力になって物語が進み、一応の決着を得る。中盤はいよいよ難病物の顔が現れてきて、主人公たちの奔走も虚しく終盤に悲劇が訪れる。
各巻ごとにもうちょっと詳しく展開を追うと、1巻目は起承転結の起で、千紘と礼弥の出会い、礼弥のゾンビ化という物語の中核を担う事件が起こり、暗に陽に物語の今後の方向性が示される。2巻目ではこの作品におけるゾンビの設定を読者に紹介しつつ、ヒロインの父親と対決し、勝利する。3巻目ではダリンからゾンビの運命が告知される。4巻目で礼弥に症状が発症し、5巻目で奇跡的な回復から小康状態を楽しみ、呑気にラブコメなんてやって、ずっとこのままでいられるかと思わせておきながら、6巻目ではばーぶを使って、千紘に生な体験としてゾンビの宿命と礼弥の未来の姿を見せつける。7巻目から8巻目でZoMAに出向いて謎の巨大な組織との戦いを経験しつつ、新たな希望を提示して、9巻目から10巻目で残っていた謎に説明を着け、その間にも礼弥の病状は深刻化し、ついに日常は崩壊し、11巻目でバッド・エンドかと思わせながら、どんでん返しでハッピー過ぎないハッピーエンド、となっている。
俺は何かと戦う姿を書いた物語が好きである。戦うとは、今の自分の境遇を少しでも良くしようともがき苦しむことである。結果として自分も人も傷つくかもしれない。だが止めるわけにはいかない。そういう、どうしようもない衝動の事である。
『さんかれあ』には主に二種類の戦いを描いた物語である。一つは自分を取り巻く周囲の人間関係との戦い、そしてもう一つは死別という生命にとって避けられない運命との戦いである。物語の始めから終わりまで、一貫して千紘は死別と戦っている。普通の難病物では、死にゆく人を死なせないために戦うのであるが、この物語では既に死んだ人を取り戻すために戦うのが、オリジナリティであり哀愁を誘う仕掛けである。一度死んだ者に仮初の生を与え、やがて失う事の決まっている仮初を、どうにか逃すまいともがくのである。生きる者は全て死ぬ。その絶対的な運命を一度回避してしまった代償に、二度目の死別はより悲劇的で凄惨な物として描かれている。
この戦いの周囲を彩るように登場人物の様々な戦いが描かれる。礼弥は父の強すぎる愛情と戦い、わんこは恋敵と戦い、ダリンは父の気を引くために戦い、じーちゃんはあらゆる死別と戦い、戦い、戦い疲れて引退している。
面白いのはこの物語に描かれたぞれぞれの戦いは、全部バラバラに並列に起こっている戦いであり、基本的に全員が自分の戦いは自分でケリを着けているところである。千紘は他の登場人物の戦いに巻き込まれはするものの、せいぜい手を貸すといった程度で、最終的な幕引きは必ず本人が行っている。例えば序盤に大きなウェイトを占める礼弥とその父との戦いだが、千紘は父側に拉致されたために巻き込まれる形になったが、本人が積極的に散華邸に乗り込むようなことは無かった上に、父の妄執を断ち切ったのは礼弥自身である。千紘が能動的に行動するのは、自分がゾンビにしてしまったばーぶや礼弥に関してのみである。これらの戦いがその時々で出たり引っ込んだりして、作品全体の緊張感を一定に保ちながら物語は進行する。
分析してみると、俺はこういう、死別と戦う話が好きなんだなぁと改めて思った。
さて、物語の骨格を分析してみたけれど、ちょっと理屈っぽくて退屈な感じになってしまったから、今度は物語の肉にあたる部分を見ていこう。いくらご大層なテーマがあっても、作品に魅力が無ければ読まれやしない。この物語を読者に読み進めさせる魅力は、やはりヒロイン、散華礼弥がとびっきりかわいいからだ。壮絶に色気を醸している。まじやべえ。
彼女は死のメタファーである。第1話の1ページ目からして腹から腸はみ出させている。まじやべえ。次の登校中の登場シーンではありきたりな、つまらない美少女キャラかな? と思うが、千紘が蘇生薬の調合なんつー怪しい作業をしている雰囲気の中で再び現れ、傘から死んだような顔をのぞかせて、何をするのかと思えば井戸に向かって大声で愚痴を叫びだす。この落差にくらくらする。静から動の変化。死から生への変化でもある。しかも、実の父親に裸の写真を撮られているらしい。アブノーマルで背徳的で、ひたすらエロい。エロいが見た目は清純キャラだ。というか彼女はエロくない、ただの被害者だ。同情すべきだ。だがしかし、劣情をかきたてられるのは、いたしかたない。
そんで、胸チラしながら千紘と一緒に蘇生薬を作りたいとか言い出す。死体をゾンビとして生き返らせる薬なんて、イケナイ物を作る作業を、一緒にやりたいとか言うわけだ。背徳的だ。こんなの絶対に二人だけの秘密だ。美少女と誰にも言えない秘密を共有? たまらんがな。優越感と自己肯定感をかきたてられる。羨ましいな!
そしてこの短いやり取りの中に「死んで別の人間に生まれ変わりたい」「実験台になってくれよ」「私がゾンビになったら」などと不穏なセリフが散りばめられている。第1話の最後のページも、可憐な笑顔と不吉なモノローグが対比して、どえらい色気なのである。なぜだろう。スイカに塩をかけると甘くなるのと似た原理かもしれない。うん、やっぱ影のある美少女っていいよね!
もーこれだけでもノックアウトなのに、第2話もエロかわいい姿を見せてくれる。特に千紘にゾンビとして生き返らせてくれと頼む時の表情はたまらない。何かを思いつめているわけだが、一度死んでゾンビとして生き返る、なんて眉唾であまり気分の良い話じゃないものを真剣に頼む様子に、やはり死のイメージを感じる。紫陽花で作った蘇生薬をばーぶに飲ませるが、生き返らなかった。そこには静かな、ただただ静かな死が表現されている。そして夜出歩いていたのを父に見つかり、自宅での軟禁生活が決まった彼女は、その夜、涙を流しながら紫陽花の毒で自殺を試みるのだ。なんともいじらしい。
そしてついに事は起こり、彼女は崖から転落死する。そのシーンがまた凄い。彼女は落下の途中に腹部を木の枝に引き裂かれ、血まみれになりながらも立ち上がり「責任取って…下さいね…」と来るのである。言うまでもなくこれはセックスを暗示する。しかも処女喪失である。暗示されているのはセックスなのに、しかし実際に描写されているのは腸のはみ出た死体である。ここで脳の認識野が多少の混乱をきたす。この混乱の結果生まれるのが、ゾクゾクするような壮絶な色気である。今まで丁寧に積み上げられてきた描写が、この血まみれの満面の笑みに集約して、散華礼弥というキャラクターを固定する。読者は完全に恋に落ち、もはや彼女から目が離せなくなる。
こうして『さんかれあ』という作品の最大の魅力が作られたというわけである。ゾンビになった彼女はむしろ生き生きとして、短くてもいいからささやかな幸せを楽しみたいと言う。いい娘すぎる。いじらしい。かわいい。それでいて、意識の混濁したゾンビとして、欲求に素直な妖艶な姿を見せたりする。たまらない。また、この表現は楽しい時間が限られている事を否応なく読者に思い知らせ、切なさを一層かきたてる。この思いは彼女の体に、癒えることのない傷が増えていくに従って強くなる。彼女は必ず失われるのだ。ああ、悲しい。切ない。彼女と一緒にいる、今この時が尊い。
もちろん魅力的なキャラクターは彼女だけではない。千紘の幼なじみにして姉さん女房役のわんこは、生のメタファーである。ゾンビとなった礼弥とは対称的な存在である。生きた生身の女なのだから当然である。それだけでなく彼女は千紘や礼弥が落ち込んでいたり、物語の分岐点で、彼らを引っ張り上げる役割をする。死の世界から救い出してくれるのである。
ダリンは患者に病状をつきつける医者の役割をする。甘い事を一切言わない恨まれ役でもある。だが間違った事も言わない筋の通った人間である。
じーちゃんもまた、いい味を出すキャラクターである。最初に蘇生丸を調合し、全ての物語の元凶となった人物。一番最初に礼弥を見た時、彼女を貞と呼び、「わしが悪かった」と謝っているが、後になってこのような細かな伏線がきちんと回収されるのが心地よい。普段はボケているのに時折見せる鋭い視線にも魅せられる。いくつもの死別を乗り越え、傷つかなくなっているのではなく、傷を飲み込み共に生きる事を覚えた成熟した男を思わせる。最期に元妻のゾンビと一緒に逝くシーンは思わず涙ぐむ。
書ききれないが他にも魅力的なキャラクターが満載である。このキャラクター達が魅力的な物語を作っているのである。
さて、長々と語ってかなり満足した。『さんかれあ』面白いからみんな読むといいよ! ああきっと、紫陽花を見る度にこの物語思い出すんだろうなぁ。
先日親類の墓参りに行った。
新しめの霊園で、その親類の墓は
自分にとっては一般的な「○○家代々の墓」ってタイプのだったんだけど
「絆」とか「感謝」とか書いてあるのをちらほら見かけて面食らう
誰がこんな墓にするんだろう。洋式墓ってなんかモダンでいい感じ
それにしたって「絆」とか「感謝」って、J-POPじゃないんだし
今どきは墓までキラキラかよと、正直心のなかで思った。
今まで「死」という現象を全く意識してなかったんじゃないのかなあと。
で、突然我が子の死に対峙して色々悩んで泣いて悔いて責めてとか色々あったんだろうと、
でも、主に時間的な、次に予算的な数々の妥協を受け入れていく中で
どこにでもある何者でもない感じで切ない
我が子にオリジナリティのある命名をしたつもりが
常日頃から思っていたけど、墓というのも
とても恐ろしい。
自分の死んだ後ってのも気になるんだけど
それよりもまず、親しい人たちを今後どう見送るべきかってのを
記録
はてなブックマーク - パクリ画像で約300万稼げるらしいですよ - 今日も得る物なしZ
http://b.hatena.ne.jp/entry/kyoumoe.hatenablog.com/entry/20150321/1426864233
一時期2chで炎上していたワセジョこと「wasejo_tjkn0123」について、kyoumoeが「パクツイ画像で数百万稼いでいる」と煽って再び炎上しそうな勢いだ。以前の炎上では個人情報が完全に特定された状態になっていても、twitter垢とNAVERまとめ垢を消去させるには至らなかったが、今回はどうか。kyoumoeの記事にはいくつもの誤謬があるので今回も難しそうだ。
元画像は「すさ@許すまじ検非違使 @makkuro_megane」がtwitterに投稿したもの。それをフォロワー数万の「sakamobi @sakamobi」がキャプションを誇張して転載した。その画像リンクに「ツイッター速報 @twi_tenkomori」が、「元女番長が~」という「ボケて(bokete)」のようなキャプションを追加しツイートした。
つまり、画像をパクったのは「sakamobi @sakamobi」であり、「ツイッター速報 @twi_tenkomori」でない。「ツイッター速報 @twi_tenkomori」は「sakamobi @sakamobi」が投稿したパクリ画像のURLを投稿しただけ。「ツイッター速報 @twi_tenkomori」のツイートに画像が表示されるのは画像URLが自動的に開くtwitterの仕様。「ツイッター速報 @twi_tenkomori」のツイートの画像をクリックorタップすれば「ツイッター速報 @twi_tenkomori」が参照した「sakamobi @sakamobi」のツイートに行き付き、「女番長が~」云々の部分がネタと分かる。
パクツイ画像批判でよく見かける光景として、画像を自分のアカウントに転載している投稿と、元画像のURLを貼っているだけの投稿との区別がつけられていないものをよく見る。無断リンク禁止なんて唱えたら昔のはてなじゃ袋たたきにされて嘲笑の的になっていたものだが、twitter文化ではリンク禁止が常識で今の主要なはてなユーザーは誰も疑問に思わないらしい。
kyoumoeは「ツイッター速報 @twi_tenkomori」のNAVERまとめアカウント「wasejo_tjkn0123」のまとめを問題視していた。しかしリンクは貼られていないので今日萌えブログの読者は検証できない。公平性のため、ここにそのリンクを貼っておくが、そんなにアクセスさせたくなければ、魚拓なりキャッシュなりのリンクを貼っておけばいいのに。パクリ批判のエントリで魚拓を取るのは矛盾してると思ったのかも。その矛盾を感じる気持ちは正当であり認めたい。しかしGoogleのキャッシュリンクや画像キャプによる引用でも構わないだろう。
kyoumoeはtwitterでのパクツイ行為と、NAVERまとめでまとめる行為を相関させて、同じ「パクリ」と断罪している。いや、読者が断罪できるように書いている。しかし、実際にそのNAVERまとめの記事を見ると、画像をパクリ転載しているわけではなく、全てtwitterが正式に提供する外部サイトへのツイート埋め込みシステムを利用して掲載しているにすぎないことが分かる。転載されたツイートをNAVERまとめに掲載する行為に何ら問題は発生していない。これが問題だというのならTogetterやブログによるツイートまとめも同時に問題にしなければならない。
そして、kyoumoeとは関係ないがついでによく見かける誤解に基づく批判として「Togetterは自分のツイートが勝手にまとめられていても自分で消すことができる。NAVERまとめはできない」と喚く人がいるが、NAVERまとめでも自分のツイートがまとめられていて消したくなったら自分で消すことができる。何ら変わりない。あとTogetterは自分のAmazonアフィを貼って、NAVERまとめと同じように儲けることもできる。
kyoumoeは「底辺で1ポイント0.2円なんです。で、ポイントをview数に換算するとさっき言った100view1円になるんです」としている。1ポイント0.2円はその通り。しかしこのポイントの加算の仕方はNAVERまとめの中でめまぐるしく変わっている。今は右上のview数とほとんど相関しないという自分の印象。現在NAVERまとめはSNSからの流入数にもとづきインセンティブの起訴となるポイントを決めている。はてブ、FB、twitterでどれだけ広まったかが重要になる。
そして「このパクリ野郎の月間アクセスから考えるにこいつのランクはS」と書いているが、これも疑問に思う。度重なるNAVERまとめへの批判記事により、ランク制の審査の基準も次々と変更され厳しくなった。こういうオリジナリティのないまとめしか作っていないユーザーがSになることはないだろう。よって「実際は291万の5倍で約1500万稼いでることになります」なんてことはない。その直後に「そんな単純計算ではない」と書くなら「実際は」なんて書かなきゃいいのに。
かといってNAVERまとめのインセンティブの場合、ランクによる報酬アップの他に、定番まとめによる報酬アップ制度というものがあり、継続更新していて毎日一定数のviewが集まるまとめが優遇されて通常より1ポイントの換金レートが高くなる。「Twitterで話題になっている画像テンコ盛り」の場合はこちらが適用されている場合がある。3年くらい続いている長期まとめなので数百万稼いでいるとみられるのは否定しない。そしてkyoumoeの知名度と拡散力からいえばはてなブログをやめNAVERまとめで継続的に炎上まとめ記事を作り続ければ月10万円以上は確実に稼ぐことはできるだろう。
NAVERまとめのまとめに関しては、twitterの提供するシステムにもとづきツイートを利用し、NAVERまとめのシステムにもとづき報酬を得ている。そのことに何の問題もない。
パクツイという指摘に関しては、画像へのリンクを貼っただけで、パクリではない。リンク先がパクツイかの確認を取らなかったというならその通り。
問題となることは、画像を提示して「女番長」と嘘の情報を加えて報じたことで、名誉毀損になる。パクリかパクリでないかは問題ではない。
ほとんどの場合、ラノベにヒロインは必要不可欠であると水島や飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である。
このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自の単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から非日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである。水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合、ヒロインが傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。
一部の例外を除いて、ヒロインは主人公に惚れなければならない。榎本はヒロインが主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れの場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。
突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。
クーンツは登場人物の個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為を描写することの方が好ましい、という指摘である。
作中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機が必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。
従って主人公はヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。
さらに、この指摘は主人公がヒロインに惚れることについてもまったく同じである。美少女である、ツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。
水島は登場人物にオリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。
西谷は次のような指摘をしている。
ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクターの名前だけを変えて自分の小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです
五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島は意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島は特に踏み込まないが、この点で大塚は既存のキャラクターを抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。
確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚はオリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見」なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。
一方、様々な属性をランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着と巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性やオリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。
繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題と関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナルな属性」に価値は無いと言っていいだろう。
プロットについての学術的定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロットの定義を明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。
よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事の配列」と定義することとした。
さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。
プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから。
このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツはプロットに関して次のように述べている。
作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である。
ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。
ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。
しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。
まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿をキングは6週間寝かせるが、それは「プロットやキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。
確かにキングはプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかしキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。
宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。
このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。
以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。
練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。
従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。
キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルなプロット作成手順を提案しており、そのメリットはスケールの大きい物語ができること、デメリットは時間がかかることだとしている。
他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語の構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。
水島の提案はこの西谷の後者の説に類似しているが、「ヒロインと出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである。
榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件、葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的にプロットが作成できるとしている。
大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカード(オリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロットが作成できるとする。
割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為者モデル(主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語は構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。
これ以外ではさらに物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアをカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後に1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。
プロット・カードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家がアイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のものは現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。
ラノベ作家陣によるプロットの構造に対する言及は曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。
いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品と差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及は特にない。
水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。
あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーンの最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。
確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。
さて、榎本は次のような構造をプロットが持つことが望ましいとする。
クーンツもまた、古典的プロットの成功パターンとして以下のようなプロットの構造を推奨する。
念のため触れておくとクーンツはミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルのプロットの必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンルの必要十分条件の最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。
大塚はプロットの構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロットの本質的構造はアラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復を目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさらに抽象化したものだと言いうるだろう。
ところでクーンツの主張するプロットの構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥の風姿花伝における序破急の概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本の原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚や乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。
フィールドはプロットの理想的な構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。
フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。
PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。
映画脚本における理論であることから、フィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。
クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。
なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画「マトリックス」におけるMidPointはネオが救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しかし物語をこれまで動かしてきた大前提が崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47
今年ももうすぐ終わりなので、仕事中にBGMとして聞きまくった、トランス・ハウス・エレクトリックポップのピコピコ系ミュージック Tune of the year と、仕事が終わってから飲みまくったビール達の Beer of the year を発表する。
Gareth Emery feat. Bo Bruce - U
https://m.youtube.com/watch?v=jF7qGaKKD4M
何処までも続く一本道を走るような爽快感。
Mark Knight - The Return Of Wolfy
https://m.youtube.com/watch?v=iOA7NUI9Xhw
ギラギラ感が素晴らしい。
TODD TERJE - Delorean Dynamite
https://m.youtube.com/watch?v=U9H5WTTOUfg
アルバム「It's Album Time」収録の前曲、Standberから続けて聴けば、洗い物中の台所であっても、そこはもうフロアだ。
RAC - Ready For It [feat. St. Lucia]
http://www.amazon.com/Ready-For-feat-St-Lucia/dp/B00J58FCCE
波のように襲ってくるサビにドキっとする。
Tune of the year 2014
Kyau & Albert - Down
https://m.youtube.com/watch?v=OrHcBRLJBgs
浮遊感ある綺麗なメロディーは雨上がりの午後の様。
ロースト麦芽の広がる香りが名前の通りチョコレートを連想させる。
混ぜ物なしでこの豊かさ。素晴らしい味わい。
強めの苦味としっかりボディにネーブルの皮の香りがベストマッチ。
重さと飲みやすさが高度に融合。
海外のビールとも互角に戦える、それでいてオリジナリティ溢れた異色の一杯。
それでいて、バランスに油断なく、全てにおいて「丁度いい」。
Beer of the year 2014
梅錦ビール ブロンシュ
トロピカルフルーツの様な香りと伊予柑の渋さ、酸味、スパイシーさが渾然一体となって口から喉に駆け巡る、至福のビール体験。
これこそ今年の一杯。
前から気になっていたんだが、こういう人間ってどれくらいいるんだろうか。
同じようにこじらせた人も多いんじゃないかと気になった。
今年で30、来月には31だ。
独身、彼女いない歴=年齢。モテ期は幼稚園の時に1回あった(ような気がする)。
無職・・・ではない。一人暮らしでも今はなんとかメシは食えてる。
酒は飲むようになったが、他にこれといって金をつぎ込む趣味もなく、地味な生活。
遥か上空から細長い鉄の塊が飛んでくる。
1枚は槍に変え、1枚は宙に浮かせ、1枚は懐に仕舞う。
敵が降りてくる。けむくじゃらの悪魔。俺に向かって炎を吐く。
その間に俺は槍を手に取り、敵に向け
・・・と、青信号だ。俺は交差点の中央をにらみながら歩き出す。
概ねこんな感じ。
電車に乗ればライフルを取り出し、あるいは時々天使(女の子)を呼び出す。
パターンは少しずつ変わっているが、大体何かの影響だ。
時にはゲームのボスをそのまま登場させもする。オリジナリティも糞もない。
冷静に考えるまでもなく、この癖は弊害が大きい。
妄想の中ではヒーローだしヒロインもいるから、身だしなみも全然気を使わない。
独り言も最近増えた。そのうち素でブツブツ呪文唱えださないか心配だ。
今更治せるとは思えないが、このまま続くとも思わない。
同じようにこじらせた人はどれくらいいるんだろうか。
こじらせていた人はどう脱出したんだろうか。
ここまで読んでくれた方ありがとうございました。
10年以上も前の話です。
まさに中二病でした。
同時に一人身も寂しいので彼女もほしいなと思いました。
言い寄られた女性も困ると思っていました。
どうすればいいかさっぱりわからず、
そんなとき、speedstarさんが書いた「俺が彼女の作る方法を伝授する!」という
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Toys/8642/index.html
ここを読みながら、目から鱗が落ちました。
なるほどそういうことだったのかと。
自分なりにオリジナリティを加えつつ真っ当な人間に戻ることができたのです。
そして、ここに書いてある内容は今でも十分通用するどころか
これ以上に洗練された正当な彼女の作り方についてまとめたところはないと思います。
最近のネット界隈を見ると彼女の作り方に対する需要はあるものの
こんな優れたテキストがあるのに誰にも見向きもされず埋もれていくのかと。
過去の自分と同じように、彼女を作りたいけどどうしたら良いかわからないといった
人が少なからずいる。
私はそのように考えていたので、なんとかこの知識を公開できないかと思案していました。
また、私はネットのおかげでこうして真っ当になれたので
そんなわけで、ちょっと一念発起してこの文章を書いてみました。
到底、私はspeed starさんには及びませんが、speed starさんが
当たり前で常識として切り捨てていたところを元オタなりに
マニュアル化して補完してみました。
これ以上嬉しいことはありません。
cya
彼氏がいないと言われたら
http://anond.hatelabo.jp/20140902201630
彼氏がいないと言われたら 続
http://anond.hatelabo.jp/20140903101818
http://anond.hatelabo.jp/20140904152824
リアルでは吐き出す所がなく、狭い世界で世の中の殆どの人に伝わらないだろうけどここに記します。
ニコニコ動画で好きなminecraft実況者がいて、先月その投稿シリーズが終わったところから始まる話。
以前より実況動画を作ってみたかった自分は、その人に触発されて動画を作成することに決めた。
どうすれば面白いものができるかを研究し、オリジナリティを大事にしてMODの組み合わせた企画を考え
パート1においては実況プレイに入る前の導入部分ということで絵コンテも用意し、MOD導入も済ませて
キャプチャーソフトと動画編集ソフトを揃えて、あとは動画を撮るだけだった。
次の休みを利用して撮ろう、そう思った矢先だった。
その好きな実況者が全く同じコンセプトで新シリーズを開始したのだ。
自分が好んだ実況者だ、嗜好が被っていうという点で可能性は0ではなかったが
独自のものを作りたいという思いからネタは被らないように頭を捻ったつもりだった。
しかもその動画は面白く、案の定次の日にはランクインして既に10万再生。
残酷な偶然を呪った。
好きな実況者が作りたかった企画の動画を作ってくれてるというのはある意味理想かもしれないけども。
一応もの作りで食ってきたのでプライドみたいなものがとても複雑な気持ちにさせてくれる。
今度はその実況者を超える企画を考えて動画を作りたい。
実際「オリジナリティ」にそもそも果たして庇護すべき価値を見出す必要があるのか? という特許に関わる根本問題はずっとあるからなぁ。
人間のすることは、全てが以前見たことの模倣でしかない、ってのも真理で、じゃあそもそもオリジナリティという幻想がどこまで市場に有効に関わるのか? 無価値なのか? しかしコピーが簡単なものが増えていくと、オリジナルを作るだけ損ではないか? 損だったとして人は何かを次々作ってしまう以上、コピーの元は尽きず、むしろ良いものがそく広まって更なる改良が行われるので、有意義ではないか?
ってのが、それこそオープンソースやらなんやらの発達に繋がったり。
でもじゃあ、企業としてそれで果たしてやっていけるのか? って言われるとケースバイケースで難しかったり。
簡単に答えが出る問題ではないというね。
常時俺Sugeeeeeeeee状態の勘違い十代
野心を持ち「俺は新しいものを生み出すんだ」と息巻く二十代
口だけで何もしない奴も、努力して成果を出す奴も、環境に恵まれて勝ち組街道を行くボンボンも、圧倒的な天才も、
三十代に入るか入らないかになり結婚して子供を作ってからは判で押したように新しいことを全くやらなくなるんだよ。
「俺はやってる!」という奴でもこれまでの蓄積の延長線上でちょっと工夫した、みたいなことしかやらなくなる。
絶対に勝てる見込みが立つことしかやらなくなる。リスクを取ることが可能な環境であってもだ。
そのうち実力が減衰していき、よくわからない業界のご意見番みたいな立ち位置に収まって上から適当なこと言うだけになる。
三十代前半くらいの頃は焦燥感もあるようだが、決まって言うのは「吾唯知足ですね」という文句。
お前それあたかも真理を見たみたいなドヤ顔で言ってるけどクソテンプレだぞ。
「田舎に移住して自分らしく生きます」とか「仕事ばかりの生き方はダメだと気づきました」とか「アンチ・反社畜」とか、
新しいライフスタイルみたいな雰囲気出して語りだす奴も増えるが、それ自体がテンプレなんだよ。同じこと言ってる奴どんだけいんだよ。
どいつもこいつも生き方が同じなんだよ。下手なマンガみたいに次に何を言い出すか完全に読めるんだよ。
もっとオリジナリティのある奴はいないのか?昔お前らがドヤ顔で語ってたような生き方してる奴はいないのか?
少しは夢見れるようなことやってくれよ。
たまたま一発あてる作品があると、その類似品がどわっと出てきて(オリジナル作の)ジャンルが死ぬ。という現象はしょっちゅうだけど
これが流行!なんて物は見たことがない。
一発あてる作品は大抵、流行外でみんなが飽きていない所で流行るものだから流行だから流行ったわけじゃない。
言い方を変えると、流行のジャンルはみんな飽きているわけで・・・そこに新作を出しても買いたくない。
ようするに、流行じゃない新しい感性が欲しくて、ライトノベルを読んでたのに、わざわざ流行モノを出すようになれば
いわゆる流行に乗るタイプだったら、アキバ系なんてやってなくて、リア充になってるだろ。ライトノベルに払う金で服でも買ってるよ。
流行ってるジャンルのライトノベルの新作はいらない。それを買うならそのジャンルをはやらせたオリジナルを買う。
http://anond.hatelabo.jp/20140515140411
はてな民のメインユーザ層は25~35歳のITに関わる仕事をしている男性なので
よい記事が書ければ一番のびるジャンルです。
過去の増田ブックマークランキング1,3,5,7,8、9位はこのジャンルに属します。
とするとみんなの共感を得られるのか伸びやすい傾向があると思います。
このタイプの記事の特徴としては、ブックマークの割にコメントが少ないことがあります。
増田ではこのネタが一番多いので並大抵の記事ではホットエントリ入りできません。
ただネタはいくらでもあるので、いかに面白おかしく興味をそそる文章にできるができるかが試されています。
自身に語れる体験談が無かったらフィクションでも問題ありません。
ベンチャー企業社長の話・大起業のしがらみ・ブラック企業の悲惨さ暴露
新人教育・だめな上司・プロジェクトの炎上体験・新人の女の子がかわいい
このジャンルでは特に、ユーザに男が多いことを意識して記事を書きましょう。
男受けしそうなネタまたは男の敵となるネタを意識してください。
大まかな傾向としては、幸せなネタよりは不幸なネタのほうが伸びます。
まじめに政治ネタを書いてもまず伸びません。
最近だとSTAP細胞問題や美味しんぼ問題に関するところでしょうか。
一般の風潮と対立する主張の立場の記事を書くと伸びやすい傾向があります。
何かのニュースに対してソースをまとめるだけでもホットエントリ入り可能です。
ただ最近では、2chまとめブログや実名ブログやニュースサイトでも同様のことやっているので
オリジナリティを出すのはなかなか大変です。
最後に、増田は糞記事書いてもすぐ流れるので実行あるのみです。
それではよい記事を期待しています。