はてなキーワード: 電脳とは
すてきなかっこで街練り歩く
ピチピチジーンズはじけそう
皮下脂肪率は50%
すっぱい臭いがその真髄
36010人並ぶ
幼稚園児さえ射程距離
モニター画面に大噴射
GO GO GO GO GO GO GO GO GO GO GO GO GO GO GO サンボ
萌えるファットに撮るファット
高い金払ってコーヒー飲んで
店員の前で奇妙な行為
乳乳尻尻うなじ鎖骨足へそ
カメ小の扱いもなれたもん
同業者を叩いてご満悦
強気になりゃいいってもんでもないぜ
300*300キャンパスに
全精力傾けエロ絵描く
それでも戦う奴等は神
2D2DTO3D
ひらぺったいあの娘今や3D
リアル女なぞもういらねえ
肉製のブスと フィギュアレディ
どっちっかっつったら シリコンボディ
こうなりゃ貫け純潔ボディ
近親相姦レッツゴー
大股開きでKOだ
やっぱり僕らはMSX
最強PCMSX
SCREEN7のスプライト
32Kのメインラム
MSX3はまだか
俺は待ってるぜ西和彦
ここにいけば何か見えてくるぜ
ヤオイの姉貴も手ほどきくれるぜ
化粧を覚えてモテ路線
取り戻せ僕らの失楽園
直接を受けてはこれ。
http://fanfiction-novel.com/archives/544
ただし、別に反論とかそーいう代物ではないです。
http://lightnovel.g.hatena.ne.jp/REV/20100128/p2
も参考にしてます。
web小説のVRMMORPG物とかが書籍でまであふれていて、いくつかのそういうラノベの状況への批評を読んで、そういうのに対してもにょもにょとした感覚を持ってたのだが、アウトプットしてないなと。で、アウトプットしたいなという感覚がとっても大きくなってしまったので落書いてます。
で、自分の領域だと ?D も ?H も Tw も読む人が皆無なので、自分のところよりは読む人が多いであろう増田借ります。
結局のところ独りよがりなチラシの裏なので、嫌いな方はページを閉じてください。
また、ねたばれを平気で入れます。
よござんすか?
よござんすね?
そんじゃ、チラシの裏を徒然なるままに。
ぽすてぃぶさんが
としていたのですが、これの SAO を疑問に思いました。
SAO の最初は、ゲームの仮想世界に閉じ込められて、命がけのデスゲームを行うというものです。
そこで、確かに世界の作り方は SF なのですが、では「物語の世界」を考えると、これは「ファンタジー」の方が近いのではないかと考えています。
ぽすてぃぶさんが持ち出した SAO の要素として
とあるのですが、作中でこれらのギミックが「SFとして」活用され始めるのは、少なくともアインクラッドを抜けた後になります。ユイのボディを現実につくるためには?など。
そう考えたとき、少なくとも最初のアインクラッドでは、彼らの世界はファンタジーと同一の代物でしかありません。行き過ぎた科学により魔法と見分けがつかない代物です。そして彼らにとっては、それだけが「世界」です。
ダンジョンの中に閉じ込められ、クリアするまでログアウトできない。ゲーム中の死はそのまま本人の死につながる。
作中のスキルは「ゲーム」という設定なので「SF」ではありますが、キャラクターは世界にとらわれいることから、ゲームの中だけが知覚できる「世界」になっています。そしてその「世界」の中には SF ギミックは問題ではありません。
これらに比べてログホラで違うのは「キャラクターの死」が「プレーヤーの死」と直結していない、というルールが典型でしょうか。
しかし、作中キャラクターにとっての「世界」とは何か?を考えたとき、彼らの世界はもともとの現実と全くつながっていない、「世界」はいま生きているそこだけ、という意味では、同じになります。
このように設定された「世界」であるのではないかと考えています。
となると、これらはすべて「貴種漂流譚」の系譜とみるべきではないかと最初に思いつきます。
しかし貴種漂流譚とした場合、物語の類型としては明らかに違うものがあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E7%A8%AE%E6%B5%81%E9%9B%A2%E8%AD%9A
VRMMORPGやMMORPGの場合、主人公は貴種というわけではなく、また、多くの同様の他人と一緒に異界に漂流しています。
これは明らかに貴種漂流譚とは違う特徴です。そもそも貴種漂流譚は神話の類型で、英雄譚のいくつかにみられる特徴なので、そのまま当てはまるものではありません。
となると、他に近い分類を考えると、「行きて帰りし物語」というのが出てきます。
http://hiki.cre.jp/write/?YukiteKaerisiMonogatari
これは乱暴な言い方ですが、貴種漂流譚から「貴種」の特徴をとっぱらったものといえます。
結果残るものは
多くの場合、冒険に駆り出される理由は「日常からの欠落」が起き、「冒険の中でその欠落したもの、あるいは替わるものを見つけ」「日常に帰ってくる」というものです。スターウォーズなんかこれの典型ですね。
ここまで来ると、物語の類型であり、一方で物語論として「読者に受ける物語とは何か」という話にもなってくるのですが、そちらの論は話の方向性が微妙に違うので割愛。
さて、では素直に「行きて帰りし物語」の類型としてまとまるでよいのでしょうか?
ところがここでも問題が、行きて帰りし物語の場合、冒険に投げ出されるのは「主人公」とかその周辺がせいぜいです。
また、「日常に帰ってくる」というのも重要になります。ログホラの場合、ゲーム中に行われている冒険では「日常に帰ってくる」のですが、「現実世界」の意味では帰ってきていません。
では、さらに共通項をと考えた時に残ってくるのが「集団漂流物」というジャンルになります。
個人的に思い出すのは、空飛ぶ!竜峰学園(ラノベ)とか、勇者110番(NG97)とか、かなりマイナーどころになるわけですが。
ということでもう一度元に戻り、SAO、ログホラ、.hack で考えてみた場合
という分類になるのではないか……と考えたのであります。
なお SAO ですが、実際には細かく変わっていて
異界へのギミックや、異界で使う技術は「ゲーム」がベースであるため、一見 SF なのですが、実際なところはあれらは「魔法」と物語上ほぼ変わらないものがほとんどです。
となると、物語の類型を見る場合にはもっと重要なギミックがあるのではないか?ということで、このような分類を夢想しています。
ここで気になったのが、では「ゲームという題材が特殊なのか?」ということです。
で、最初の方に戻る。
web 小説や、そこから現実の書籍になったものが、いろいろと「似通ってるな」という印象は、はたして「本当なのか?」。そして「似通ってるな」と思ったものは「何か?」。
個人的に多くなったなと感じているのに、確かに VRMMORPG に取り込まれるってのがあります。そして俺TUEEEEE。
しかし同様に、異界漂流物も多くなってるなとも思うわけです。ファンタジー世界で「生まれ変わる」とか「召喚された」とか。そして俺TUEEEE。
で、これらを考えた時、ある意味昔っから変わってないのではないかと思うわけです。ファンタジー世界に行って無双っての。ゲートも戦国自衛隊をファンタジーにしただけだ、と乱暴に切り取ってみたり。
結局「無双の理由づけ」に何を使っているのかという部分で、VRMMORPG というのが身近になったのかなと。
そもそも「コンピュータを用いたゲーム的異世界」で冒険というのであれば、いろいろと話は出てきます。
それこそ、最初は「ジャックイン」でしょうか。ニューロマンサー('84)。これのジャンルだと SF のサイバーパンクですね。この場合、マトリクスは現実世界の裏にある(人工)異世界という視点で見れば、ファンタジーの一種とみることも不可能ではありません。
同じくサイバーパンクで電脳世界があるもので、漫画で有名になったのがサイレントメビウス('88)でしょうか。
他、こちらはハビタットのような電脳街という感じの世界ですが、BOOMTOWN('92)という漫画もあります。AI が住み、自己増殖する電脳の世界に入り込み、バグ退治を行います。表現は SF 側です。
そして、ゲームといっても電源不要で東京N◎VA('93)なんかが思い浮かびます。サイバーパンクなTRPG。
一方、完全にゲームの味付けでは、クリス・クロスが '94、クラインの壺だと'89ですね。
そしてこの「ゲームな味付け」で「異世界」となると、コンピュータを捨ててファンタジーにぐっと寄ったものとして思い出せるのが遥かなる異郷ガーディアン('90)。死亡無し、バイト感覚でファンタジー世界で魔王を倒そう!という話です。あるいは、日帰りクエスト('93)なんかも近い代物でしょうか。これらは日常の延長として異世界でちょっと冒険してくる代物ですね。
これらと .hack が似てると思ってて、ギミックに「異世界」が絡む程度なんですよね。物語世界の構築法の話であって、物語としてはその異世界は重要なのですが。
そして、完全にファンタジーに話を持って行ってしまえば、作品は一気に広がります。
個人的には魔法使いになる方法(ダイアン・デュアン著)を持ってきたいです。翻訳がまた止まった……。こちらは、現実世界の「裏」にある世界なので、ナルニアのように現実の世界の「隣」にあるのとは違っていますが。
ここで VRMMO を題材に使っているのを考えてみますと。
VRMMO は現実世界の「隣」にしかなれません。アクセルワールドのように現実世界を模した世界であっても、現実世界に影響は与えていません。
その中で主人公やプレーヤー集団が「命」であったり「記憶」であったり「思考」であったりの影響を受けるという、世界以外が対象になります。
となるとこれは別にゲームではなくファンタジーであっても同じなので、ここの類型からは考慮しないでも済みます。
一方、魔法使いになる方法では、魔法使いだけに見える世界というのは、現実の世界と表裏一体です。魔法世界で変化があれば、それは現実世界にも影響を及ぼします。
これは電脳世界を用いた場合でも同じギミックがあるように作ることもできます。
このような違いを見るに、ようするに「VRMMO などに見えるゲーム世界・異世界」というのは「現実に影響を与えない箱庭」という概念でくくれるように見えます。
異世界漂流のファンタジーもその多くは「現実に影響を与えない箱庭」的世界です。
このように、完全に切り離されている異世界かどうかというのが重要なポイントなのかもしれません。
「無双の理由づけ」です。
VRMMO 、あるいは「ゲーム的ルールがある異世界」を用いた場合、「俺 TUEEEE」に対してこじつけが作りやすいのが、この分野が氾濫している理由なのかなと思ってみたりしてます。
どういうことか?
多くの場合、対象となる異世界は、技術的文化水準が現代より低いです。
FPSやSLをベースにした場合は逆もありますが、氾濫しているのは多くが「ファンタジー世界」として「中世西洋」がベースです。
そこで俺TUEEEとして従来のファンタジー・神話や伝説、英雄譚、ファンタジー小説などがとった手法が「貴種」です。
これは現実にも祭事が政であった時代に、「神の信託を授かる巫女」(卑弥呼など)とか「神(竜)の血統」(中国皇帝や日本の天皇)とか「神に認められた」(キリスト教や同影響下の国々の王など)が用いた手法で、何か特殊な存在が力を認めているから「偉い」という考えから来ている物と思われます。精霊信仰や祖霊信仰なども同様なので、世界中で行われた、あるいは現在進行形の考え方ですね。
そして、漫画やアニメやラノベでもこの手法はいくらでも使われています。作品は割愛。
では、一般人ではダメなのかってところから始まったのが、異界に行った時に「異物」なので強くなったというものです。この場合だと貴種である必要性がなくなります。
この場合重要になるのが、多くは「機転」や「思考」だったりします。その世界にない視点で物事を考えることで、打開するなどもありますね。
VRMMO の場合、この後者の考え方を用いて俺TUEEEをするというのが基本ですね。
ログホラがわかりやすいですが、異世界にはないけど現実世界にあったものを再現することで、異世界でのアドバンテージを得る。蒸気機関はこのギミック。
この手の異世界で発想で先手を取るってのが、他だとアウトブレイク・カンパニーであったり。あるいはくじびき勇者さまを思い出してみる。他にも新書であったような記憶があるのに、題名が全然出てこない。
まおゆうも「その世界になかった概念を持ち込む」事で「世界に影響を与える」という部分で、ログホラとそっくりなことを味付け変えてやってます。
てなところで、俺TUEEEの源泉をあれこれいじってきてるのは増えてきてはいるなとは思った。
続きも別に考えてないで投げっぱなし。
臭い。
うるさい。
醜い。
けばけばしい。
邪魔だ。
世の中が示してくる、様々なものに対して、自分の感覚が悲鳴を上げている。
世の中は生きにくい。
世の中は面倒くさい。
ずるい。
人間は文明によって発展して、文明によって生かされているのに、どうして生まれもった感覚の違いで
自分が不利にならないといけないのか。
こういう事は文明で解決するべきだ。
だから、たとえば特定の音を指定して「消し」たり、特定の臭いを「消し」たり、特定の人物の顔を、声を「消し」たりしたい。
自分にとって重要でないものからの干渉を「無かったことにする」方面での改善をしたい。
いわゆる「デキる」人達は、これらを自分の意思なり無意識でやっているのだろう。
その能力を先天的に持っているだけの癖に、偉そうに「努力が足りないから」ばかり連呼して、鈍感でない人達はただ徒労を繰り返して疲れ果てるだけ。
デキない人達は改善せず、デキる人達の苛立ちはつのり、誰も幸せにならない。
なので、当人が意識する範囲で「任意の感覚をフィルターする」という電脳化手術があればいいと思う。
頭にハードディスクを入れる必要はもう無い(スマホ+クラウドで十分)ので、こういう観点のQOL向上も考えて欲しい。
自分の感覚にGreasemonkeyを適用したい。
『エンダーのゲーム』の新訳を読もうと思う。十数年ぶりの再読だ。映画は観ていない。
この昼、原作未読のまま映画を観た友人と話した。ご多聞に漏れず評価はいまひとつだった。そんな彼に向かい、奥深さが足りないのはきょうだいの活躍がないせいだろうと言ったら、妙な顔をされた。
——あのとき、あれは『エヴァ』じゃなくて『フルメタル・ジャケット』なんだよと付け加えていたら、同映画好きの彼からは理解の意志さえ望めなかったかもしれない。
ゲームというのは運命の比喩だ。ゲームには規則(ルール)があり、そこには目に見えない支配者(ルーラー)がいる。『エンダーのゲーム』とは、エンダー=終わらせるものを名乗る少年が、誰かのルールで動かされた人生の終わりを求めて闘うという意味だ。
では何と? 憎き兄か、いじめっ子か、昆虫のごとき侵略者か、それとも戦争を強要するおとなたちか。——どれでもない。そんな単純な図式はこの世界にない。
ルールだけが意味をもつ世界に、命を与えられた子どもたち。生きるために従い、人であるために抗う。本当の敵が誰なのか、だれも教えてはくれない。どこまでも歪な世界に、しかし私たちは強烈なリアルを見つけ出す。
しかしそれを描き切るには、どうしてもきょうだい二人の活躍が必要だ。
そもそもエンダーはその生まれから、天才でないかぎり存在を許されぬ命だった。
先に生まれた二人の天才児。それに続くことを期待され誕生を許された特別な三人目(サード)。それがエンダーこと、アンドルー・ウィッギン少年だ。社会の規範はそれを望んでいなかった。両親もまた同じ。だからエンダーは徴用に応じた。戦争を終わらせるもの=エンダーとしての宿命を受け入れた。ほかの選択肢がなかったからだ。
そのきょうだい、ピーターとヴァレンタインは、常にその先行する分身としてエンダーの将来を写し出す。
兄・ピーターはエンダーの鏡像であり、エンダーが認めたくない自己像の投影である(ただし事実においてピーターはエンダーが思う類いの〝人殺し〟ではない)。
その野心が選んだ道は言論による人類の思想的支配だった。そうして自らの生を規定(ルール)したピーターはヴァレンタインを同志に引きこみ、一直線に権力の頂点である『覇王(ヘゲモン)』への階段を昇りきる。
十二歳のピーターも、また十歳のヴァレンタインも、電脳世界ではおとなと同じ。彼らはそれを最大限に活用する。『ピーターのゲーム』では、勝利することとおとなになることがイコールだ。だから彼は生きることにぶれがない。
けれどエンダーはちがう。おとなたちの期待は彼の意に反する行動を強いる。しかし彼が守ろうとしているのは道徳という、人として正しいあり方だ。
だからエンダーは悩み、もがき、ときに逃げもする。だが皮肉なことに、才気あふれる兄と姉による状況認識と優性の証明が、エンダーを戦争の英雄に縛りつける。
その姉・ヴァレンタインは慈愛の両腕と明晰な頭脳を持つエンダーの庇護者であり、最愛のひとだ。その両義性はやはりエンダーと相似する。エンダーが知らないことに、ヴァレンタインのなかにもピーターはいる——彼女もまたペンによって自らの有能を試すゲームに挑んでいるのだ。〝愛情深い〟姉に向けたエンダーの過剰な崇敬は、つまるところ自己愛への飢えに過ぎない。ヴァレンタインがエンダーの善良さに寄せる信頼も同じ。四年を経て面会する日まで、ふたりは驚くほど互いを知らない。
エンダーとヴァレンタインを通じて描かれるのは「人はいかにして殺戮者となるのか」ということだ。エンダーが戦争の術を学ぶのは侵略者からヴァレンタインを守るため。しかしヴァレンタインからの手紙によって彼女がおとなたちの側にまわったと認めたエンダーは、彼らを打ち倒すゲームに没頭しはじめる。やがてエンダーは彼らのルール破りに失望し、彼らのもとを離れる。彼女にふたたび声がかかるのはそのときだ。
ピーターとの言論活動によって政治的な人格を獲得していたヴァレンタインは迷わず務めを果たす。彼女もまたウィッギンなのだ。だが戦場に戻るエンダーのうちに『カサブランカ』のような義心はない。あるのはただ、生かすために殺すという戦争の矛盾そのものだ。勝利の丘に荒ぶ風は、きっと冷たい。そう確信するから、その先の戦いはどこか空疎に映る。
この凄惨な物語の結末は、赦しだ。自らの手で滅亡させた異星人たちの遺産から、やっとはじまるアンドルー・ウィッギンの物語。それは茨と十字架の生だ。偉人のままいることもできた。けれど彼は今度こそ選んだのだ。
人の知を機械的に再現できるのではないか、これが人工知能の当初の夢でした。
でも「人の知」を解明しそれを実現するというアプローチは突き詰めて考えていくと、袋小路に陥ってしまいました。
チューリングテストとか中国語の部屋とかフレーム問題とか、聞いたことあるでしょう。人工知能の挫折と苦難の時代ですね。
困った人工知能研究者は、「知とはなんぞや」という疑問はとりあえず保留にして、「とにかく今できていないことに挑戦しようぜ」精神で研究を進めました。
結果、多くの成果を上げて、今日でも一つの学問領域として存在しています。
そのため、いまの人工知能学会の中の人たちの目的を最大公約数的にまとめるならば、
「今までコンピュータや機械でできなかったことをできるようにするよ(したよ)」というところでしょうか。
この程度の緩い集まりなんですよ。実際。全員がアンドロイドを目指しているわけではないんです。
とはいえさすがに何でもありでは話にならないので、この学会に所属するためには暗黙のキーワードがあります。
それが「知」です。「こんな知的振る舞いができるようになりました」少なくともこれがアピールできなければ
逆に「知」であることが認識されたなら、個人の「知」どころか集団の「知」すら研究対象になります。
だから人工知能は何をする学問なのか、これについて、できるだけ簡潔に言うならば、
「知」を人工的に実現する学問
でしょうか。知を解明するじゃなくて、知を実現するというところがポイントですね。
え?「知」とはなんだって? そんなこと聞かないでください。そんなの研究者の数だけ意見があるのですから。
というのがあるかもしれません。
そう考えると、他人に同意してもらうための戦略として、視覚的に人間に模すのは当然ですよね。
人は何に知を見出すのか。これだけでいくらでも文章が書けそうですが、普通に考えれば、
ルンバが知的振る舞いをするよりアンドロイドが知的に振る舞った方が一般の人には受けがいいですよ。きっと。
つまり、人工知能屋の一部がアンドロイドを目指すのは、それが目的だからではありません、
「ボクガボクタチガジツゲンシタサイキョウノ知」をアピールするのに最適だから、
あくまで手段にすぎないのです。
と、タテマエと理論武装はここまでにして、
だってしょうがないじゃない。少なくとも日本で人工知能やっている人の原体験って、
アトム、ドラえもん、あーる、タチコマ、マルチ、まほろさんなどなど、魅力的なキャラクターなくしてありえないのだから(暴言)
それに要件をギリギリで満たすよりも能力的に余裕を持って振る舞う方が知的でしょう?
機能美は工学的に正しいアプローチだけど、余裕あるなら外観にも凝りたいし。
そう考えると、情報(機械)工学と人工知能の違いはロマン成分の割合なのかもしれない。
そしてロマンは人によっては妄想と言い換えても間違いじゃない。
結局この長々と書いた文章で何が言いたいかというと、
もっとこうさハードでスチームでパンクで電脳な感じの・・・(妄想垂れ流し)
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これまた長くなっちゃたので言いたいことを以下にまとめますね。
むしろこれだけ読んでもられば十分かも
そしておやすみなさい!
電王戦以前にも、将棋に興味はあった。 子供の頃は親となんどか指したし、高校の頃も何十戦か友達と将棋を指した。
だが、定石を覚えるのが面倒だし、強い人相手だと同じ戦法で延々ボコされたりとつまらなかった。
漫画では、ハチワンダイバーは面白いなあと見ていたし、ハチワンダイバーを理解するために、『最強将棋 激指スペシャル2』という、基本的な定跡をだいたい網羅していて、将棋ソフトまでついてくる本を買って、一応戦法の種類はだいたい把握した。
その程度の知識だった。
電王戦が始まる1年前に、『人間に勝つコンピュータ将棋の作り方』というのを読んでいた。 どうやら、10年後にはコンピューターにプロ棋士は勝てなくなるぞ。的な内容だった。 正直、うさんくさかったw 内容も、どうやったらアルゴリズムがよくなるか?について書いてあったが、『そんなんで勝てるの?』というのが正直な感想だった。
確かに、将棋24で勝ちまくるのは可能だろうけど、プロって本当かよという印象。
だが、電王戦で、「はじめてプロ棋士が負けた!」 → 「おいおい、速効次もかよ!」 → 「え???塚田プロって昔すげえ強かったんじゃ、、、ひきわけ?」 → 「はぁ????A級がボコられた??? A級って一番強いんじゃなかった????」
と、ものすごくびっくりした。
正直、その時は、A級の三浦ってだれ? 塚田ってどのくらいの人なの? 橋本より強いのって出てるの? 船江って人はどのくらい強いの? とまったく理解していなかった。
理解していなかったが、ツイッターや2chでおもしろ半分で煽りまくっていたw
『プロは雑魚w』 『あと数年でスマホにもかてねえゴミどもw』 『プロ削減しろ、終わったんだよ』 『どーでもいいから、三浦とかわけわかんねーやつより羽生とか渡辺だせよ、はあ?森内???だれだよそれ、しらねーよ、そんな聞いたことも無いゴミ』
みたいな。
いやもちろん、ネタなんだけど。
そういうレスであふれかえっていたので、なんとなく便乗した。 とにかく、「真剣にやってて、ガチ天才と言われてる奴らが惨めに負けていくのが凄く楽しい」というルサンチマンだった。 「所詮人間の天才なんて、こういうアルゴリズムの数量押しの凄く低い段階なんだよw」という感じで溜飲を下げていたのだと思う。
その後、A級、B1,B2棋士をだいたい覚え。 それぞれの将棋の戦法もある程度覚え、狙いも覚えた。 将棋の歴史や、戦法の趨勢も、まあまあ把握した。
で、ハム将棋にはほぼどんな戦法でも完勝するくらいにはなった。
将棋講座なり買って読むし、NHK杯も見るようになった。 棋譜を漁って見ることも覚えた。
なんというか、普通に面白い。 人間がコンピューターに負けたとか関係無く、すげえ面白い。
てか、コンピューターに人間が勝てないってのは、当たり前というか。
まあ、人間はプロ同士でも、「詰みを逃した」とか、「終盤よく分からない」とか普通にあるけど、ソフトは演算で全部読むから、そりゃミスらない。 下手したら、30手くらい読むわけで、将棋がせいぜい100手~200手で終了するゲームだということを考えると、そりゃ終盤は勝てない。
じゃあ、中盤はどうだろう?
中盤ってのは、プロの腕の見せ所だけど。 プロ同士でも、「ミスの少ない手」を選び続けるということが多い。 そう、ミスをしない手を選び続けるわけだ。 コンピューターの場合「ミスをしない」のは当たり前だし、「ミスを全部潰した上で、画期的な手も読むことができる」というアドバンテージがある。
そうなんですね、プロ同士では、お互い人間だから、「ミスをしない手を選び続ける」ことがそのまま優位性につながるけど。 vsコンピューターだと、相手はミスをしないのに、こちらはミスをしないことに気を遣うだけでなく、相手に良い手を指させない事まで考えないといけない。 vs人間にくらべて、読む量や精度が格段に求められてしまうんですね。 人間相手だとあり得ない精度をやってくるわけで。 中盤は、コンピュータが強いというよりは、「人間にとって不利すぎる相手」になってしまう。
じゃあ、序盤は? そう、序盤こそ勝ちうると思います。 コンピューターは、所詮序盤は人間の人まね段階です。 ここで、「新構想」とかで勝ちうるってのはあると思います。 ですが、「新構想」ということは、「研究が整備されていない」ということです。 研究が整備されていないものをミスなくさせるでしょうか? あやしいですね。 ですから、新構想でコンピューターに勝つというのは、厳しい。 さらに、新構想なんてあるなら、vs人間でのタイトル戦に温存するわけですよねw
さらに、時間。 人間同士で4時間持ちなら、 お互い4時間めいいっぱい使って、8時間だけど。 コンピューターは4時間も使わないわけで。 結局人間にとって不利。
結局、コンピューターと人間がやるにするには、あまりにもコンピューターが有利すぎる。
ってことで、ハード貸し出しとか、当たり前だと思いますよさすがにw 人間は見えないところでハンディあるわけですから。
①序盤の構想 → かなり新構想とかが出るわけです、何がでるかな? 相手の研究を外すためにどんな戦法を出してくるのか? 鍛えてきたのか? なんというか、カードゲームで、『どんなデッキ構成で挑むか?』というメタゲーム的なおもしろさがあります。
②中盤の勝負 → 中盤では、ミスをしないこと+終盤への構想や形作り がなされます。 パワプロで言えば、選手選びに近い感覚でしょうか? 投手の控えやバッターの並びなどで試合結果が変わるので、ここでの考えが大事です。 守備と攻め、両方を考えてメンバーを組むみたいな。 また、ここでも新手ってのが頻繁に登場するので、そういうワクワクがあります。
③終盤の勝負 → 実は、ここが面白い。 終盤って、格闘技に似てるんですよ。 『相手を責め続ける』&『自分も致命傷を受けないようにかわす』これがギリギリまで続きます。 約30手ほど、ギリギリの攻防が続きます。 攻めがキレたらホボ負けますから、攻めを切らしてはいけないので、駒を得ながら切りながら攻めまくります。 また、相手が攻めてきたら相手の攻めを切らすまで受けます。 ボクシング的なおもしろさです。
④漫画のようなおもしろさ。 いやーホント、序盤中盤終盤、全部面白いのが将棋。 マジで漫画か小説で、ものすごい傑作を読んでいるようなおもしろさです。 ホント漫画みたいなドキドキワクワクの場面、行き詰まる戦闘シーン。 そういう感じです。
コンピュータが強いとか関係無く、普通に面白い。 でも、コンピューターが指しても面白いんですけどねw確かに。
⑤人間同士の戦略 → メタゲームがホント凄いゲームなんですよ、将棋って。 「相手はあの戦法しかしてこないから、この戦法」とか、「あの人には勝率悪いから、研究で研ぎ澄ませたこの手を打って困らせよう」とか、「自分にとっての大一番以外の対局では磨いた研究を使わず、自分にとっての大一番だけ研究を放出しよう」とか。 そういうのがホント面白い。 その場だけの勝負じゃなく、研究段階で、カードゲームのデッキ構成があるんですよ。 ただ強いデッキを用意するんでなく、『相手によって対応を変える』というメタゲームがあるんです。 これは、コンピューター将棋にはなかなか見られない。
角が生えていて赤色で怖がられる存在、または青で気味悪がられる存在だったとしましょう。
容姿は 「 鬼 」 だけれども、異種である人間と共存したいと希望して、村人としての規格に容姿以外が適合できているとしましょう。
これだけの質問であれば、おそらく理不尽でしょう。 「 鬼 」 という種族だからこそ、村人に役立てることもあるかもしれないとも考えられるでしょう。
しかし、内面を理解する以前に外見は、状況に初めて接する人間には視覚認識によって状態を判断されることがあります。
その状態を管理する人間、村を収める役割にある人間は事情を理解する以前に、独自の判断によってまず改善を提示し始める事もあるでしょう。
往々にして物語は、事前調査で状況を把握した上での改善を試みて無事解決したことを議題にはしないものです。
意思の疎通が不足している等により総合的に不利益を講じる結果から、一つないしは二つ程度の情報価値を含ませるものです。
ここでは、心優しい 「 鬼 」 が村人の仕事を手伝っていたのに、役人が「状況を理解せず排斥行動に出た(概要の一般通例から異例の相互利益関係を破綻させた)」という鬼を迎え入れた場合に発生する可能性がある将来的な利益が存在するとした事柄についての機会損失を例にしてみましょう。
「 鬼 」 だからというだけで排斥に至る、これは相手側の利益を考慮しない愚策であることは既にある物語のいくつかから想像のつく知識でしょう。
「 鬼 」 だけども役に立っている、しかしそれは利益を放棄しても守らなくてはならない事項があるため、利益を減少させてでも控えてもらいたいという全体が理不尽を理解したうえでの悲劇、往々にして悲劇を生み出す原因としての尊厳をどれほどのものかと考えさせる物語も近代には多くあると思います。
またどれほど全体が理解をして均衡を保っていても、自然の摂理として 「 鬼 」 という構造が結果利益関係を破綻させてしまうという物語も考えられます。
これらの物語の中で一番差別的であろうというのは最後の「構造的に無理がでる」で、そういうものだから結果何を努力してもうまくいかないという意図を組み入れた作者でしょう。
理解の未熟による軋轢は、未熟者の問題でありどこにも差別的なものはない、もしあるとすれば未熟な判断を養ってしまったその環境であろうとは思われますが作品に関与する部分が少なくそれは物語の範疇と成さずともよいでしょう。
これらの既にある文学等の情報を学ぶ機会があったと想像に難くない日本で、まず状況に不適合な状態をもつ個人が、望む現場においてどうあるべきかはすでにオチを含めて想像ができる材料は学んであるはずです。
村に合わない 「 鬼 」 は村人の役に立ちたかったけれども、去らなくてはならない。共存を許される場所へ移る必要がある。
スーツで週5出勤するオフィスに自分が適合しないのであれば、その他業務を考えなくてはならない。
「 鬼 」 で共存は望ましくないが相互利益を考慮すれば問題を充分に克服できるものである。
臭くて汚くてオフィスにいてほしくないけれども、いなくては会社の利益は何割落ちるかわからない。
「 鬼 」 であることを全ての状況で容認されているが、結果 「 鬼 」 であることが理由で状況を破綻させてしまう。
問題は充分に承知していて、それを現場レベルでは対応していくつもりもあり、利益と損失では利益が勝るであろうと誰しもが判断するけれども、社則や規則として禁止されている事項。
「 鬼 」 という形を維持しながらということであればこれらの例が想像できます。
その他の手段として 「 鬼 」 をやめるという手があります。
むかしは顔面を削ったり肉を切り取ったりすることが出来なかったため不可能であり物語には生まれなおしとか神による恩恵とかで具体例にはならず御伽噺、稀に当たる超ラッキーのファンタジーでしたが今では人の力で可能なことがあります。
肌の色をかえたり角を切り取ったりということで、村人になることもできるでしょう。
オフィスに適したからだに変える事も、おそらく可能なのではないでしょうか。
さて、これらの展開は、義務教育内で育まれる知識でしょう。これらを踏まえて、お悩みの件を考えてみると「自分が排斥されそうな立場にある」という「鬼がおりました、村がありました」だけのお話です。
じゃあどうするのか、読者の皆様村人を殺してください、鬼って不幸ですよね読者の皆様やさしくしてください、鬼と村人が住むところを同じにするよう決まりを作りましょう、その他どんな物語を作るのでしょう。
選択肢は充分にあるのに、自分はないて苦しみ問題は放置、という物語を皆に聞かせたかったのでしょうか。
臭い消すんですか、臭っても居てくれって人になるんですか、臭いは仕事と関係ないだろといいますか、臭うだけで「くさいくさい」と業務と関係ないことを言うなと業務的に訴えますか。
俺は駆け出しプログラマ。
業務は18時くらいは終るけど、帰りの電車では爆睡。家に帰るや彼女の機嫌取り。その後はギターを30分くらい練習している。
土日は、両方図書館にこもりたいが、彼女が不平不満を漏らしそうなのでたまにしかできない。
婚約前でこれだ。婚約したら子どもの面倒も見ないといけないし、自分の勉強時間なんてとれないんじゃないか?
プログラムやら電脳(?)世界は、とにかく好きなので毎日知らないことを覚えて昨日よりもいい日にしたいので、結婚したら破綻すると機具している。
世の中のパパエンジニアはどうやって勉強時間を確保しているんだろう。不思議だ。
業務時間は、チケットがてんこもりで持っている知識で終らせることが大半なので、新しい知識はほぼ入ってこない。
たぶん結婚しないだろう。
カレー、ボードゲーム、ラノベときて、日本酒か。どうしてみんなそんなに語れるんだろう。すごいな。
リドリー・スコット監督は大ファンだし、映画「エンダーのゲーム」のトレイラーが公開されたりで、今SFなんじゃないか?と書こうとしたけど、
続かない。ジェイムズ・ティプトリー・Jr.をお勧めしたい外国人作家として、サンリオSF文庫を落ちとして軸に置いたけど、
肝心の作家名がマイクル・コニイだったりル=グィンだったりしか出てこないことに気づいた。あと、リチャード•パワーズ。
あのコピペの背景、つまりジャンルを全然知らない人間としてはすごい楽しめたのだけど、
書く側に回って初めて、あのコピペがジャンルの酸いも甘いも全て知っていないと書けないものなんだって気づいたんだ。
あの配置は「狂ってる」、そう言っても良いと思うの。
SFで言えば、ハードSFを先頭に出して、両翼を社会派SFとサイバーパンクで固めて、後塵に「少しファンタジー」という構成全てに
しかし、ハードSFで書かせないはずのジェームズPホーガンの著作はほとんど知らなくて(ごめんなさい)、アシモフの作品も「夜来る」しか読んだことがないし、
これならわかるリングワールドで代替しようかなと思ったくらい。
社会派SFでいえば私も大好き、ロバート・A・ハインラインの書籍はほぼ読破したと思ってたら、「異星の客」は読んでないことに気づいた。
サイバーパンクの代表作家、ウィリアム・ギブスンの「電脳」三部作はニューロマンサーしか知らない。。
少しファンタジーのル=グィンは、ラファティは、ゼラズニイは。。。
そう考えると、もう僕の知識はぼろぼろと穴がありまくりで、コピペとして完成できなくなった。
ジョン・ヴァーリイの「残像」とか、 人類補完機構の「シェイヨルという名の星」とか、
今年米寿を迎えた祖父は、たぶん日本でも最長老クラスの自作厨(元)なんだが、
視力の衰えには勝てなくて、20inchの正方形のモニターが最近すごいことになってきた。
ブラウザの文字サイズを最大限にあげて、圧迫感が半端ない状態。
俺には文字がでかすぎてなんなのかわからないんだけど、
祖父にとってはこれが自然らしい(--;
十年前、膝を並べてPC教わったときは少なくとも普通だったのに...
ぼけてもないし、会話は普通にできるし、毎週家庭菜園に欠かさず出かけている祖父だけど、
PCのモニターと祖父の使い方を見ていて思ったのが、一度に取得できる情報量を
無意識のうちに抑えているのかもしれないということだった。
短期的に記憶できる量、マジック7を3か4ぐらいまでスケールダウンしてる感じ。
さらに言えば、端から端へ目線を移動させることも苦痛らしかった。
なんでモニター大きいのに交換しないのかと聞いたときの返事から。
結果として、日本で最初にうつったブラウン管の文字みたいなスライドで
ブラウザを見てるんだが、これはこれで中身をちゃんと理解しているらしく、
先日は、電脳戦の話をスマホとPCのモニターでそれぞれ見ながら局面について会話したけど、
全然齟齬がないのが逆に怖かった。(祖父は棋譜を見ていたので、自分が動画を見ながら
三浦八段の様子など教えてあげた)
PCに強いじじいは、たぶん今だけ通用するステータスなんだろうけど、
歳取ったら自分も祖父みたいになりたい。そう、思う。
老眼持ちの高齢者向けに設計されたUIじゃないかしらと勝手な妄想から祖父のモニターへ。
http://anond.hatelabo.jp/20080825012354
今になって見ると「Eeeが主流に」って何のこっちゃと思ったりもするけど。(多分「ミニノートが主流に」と言いたかったんだと思う)
丁度"4年後","6年後"と記載したとこの間の時期に入っているので、以下2点を考察。
・"6年後"に記載した内容が近々実現しそうか
("一般化"等と書いてる箇所については"消費者が普段の生活で使うようになった"という意味合いとして書く)
ノート…もう今となっては「ノート」の体を成してる物よりも「タブレット」の方が身近になってきている気がするけれど、
一応「タッチパネルが一般に普及した」という点については、充分に普及したと言えるかと。
小型デスクトップだATXだなんて物を通り越して、今じゃノートやタブレットだけで済ます人の方が多数を占めている感あり。
だいぶ見当はずれだった。
なんとも言えない。Bluetoothのデバイスをスマホやらタブレットやらのために使う人は増えただろうが、5年前と比べて劇的に増えたかというとそうでもなく。
未だに有線のイヤホン、キーボード、マウスを現役で利用している人も多かろうと。
"Qi"あたりで。
ノートでは無くタブレットの事になるけれど、HDDもファンも無く、モータの駆動音が全くしないのが当たり前にはなったかと。
「ノート」の在り方が「タブレットに物理キーボードをオプションで拡張した物」に変化していくなら、近いうちに「ノートも無音稼働(モータ無し)」が常識になりそうな気がしなくもない。
徐々に電源が無線化されていく
デスクトップにおいても無音が一般化
ただ4Kとか言い出してる世の中なので、モニタを有線でつなぐ文化は時代が進んでも崩れそうに無い気がしてきた。
ただし、デスクトップをタッチパネルで操作することが広く一般に好まれるかは疑問。
(そもそもデスクトップPC自体が一般に利用されなくなる気もする)
デスクトップ、ノートにおいては少なくともこれから5年くらいは需要あると思う。
(そもそもデスクトップ、ノード自体が一般に利用されなくなる気もす…)
DL販売される物は増えてきているけれど、映像コンテンツのディスク販売は未だに主流。
2,3年は変わらない気がする。
全然そんな気配は無い。
…少しずつズレはあるもののそれなりに順当に世の中進展してきている気がする。
このまま行けば"8年後"、"12年後"に書いた内容についても、「ノート」を「タブレット」に読みかえれば実現するんじゃないかと。(電源の無線化は無さそうだが)
その昔は児童ポルノ禁止法というものが存在しておらず、代わりに「陰毛禁止」という妙なルールが出版界にあった。
タレント・宮沢りえが、かつて写真集“サンタフェ”でフライング気味にヘアヌードを公表・発売したのは、今からすればヘア(実質的に)が解禁・入れ替わるように少女ヌード写真集が発禁になっていく転換点だったように思う。
ちなみにこの“サンタフェ”だが、撮影した時点(not出版)では彼女は17歳だったとも言われており、ヘアヌード&児童ポルノという、いろいろな意味で今の世の中には「存在してはいけない存在」になってしまった感がある。
序盤から脱線したが、自分も見せてもらったこの“サンタフェ”では、さすがにヌけなかった。アートと表現したほうがいいような、さわやかな印象の出来の写真集だった。
さて自分の場合は、エロといえばまずは二次元から入っていったタイプだ。
たとえば「地獄先生ぬ~べ~」は、少年誌連載にしてはけっこうきわどい(エロ的に)描写の多い漫画として知られるが、それよりも前に毎号どうどうとヌードシーンが載っていた漫画といえば、「おじゃまユーレイくん」を思い出す。
ただしこれらは、どちらかといえば「ボインちゃん」がメインな作品である。というか、ぬ~べ~の舞台ってたしか「小学校」。。。
自分にとっての決定打は、内山亜紀氏の作品を立ち読みしたことに尽きる。
思えばその時期を前後する形でオリジナルアニメブームが湧き、一方ではごく一部を中心として当時にカルト的人気を集めた「魔法のプリンセスミンキーモモ」あたりを題材にしたエロパロ同人誌が、徐々に一般にも販路を延ばしてきていた時点の話である。
ややマニアックな漫画雑誌・あるいはパソコンゲーム雑誌では、さすがに直接的な性的描写こそ無いものの、少女のヌードをモチーフにしたイラストなどが読者欄などで散見された気はする(この点、事実と相違があったらお詫びしたい)。
というかそもそも、当時のエニックスから出ていたパソコンゲーム作品に、そのものズバリの「ロリータシンドローム」というタイトルがあってだな。。。
時代はさらに下り、会員制のBBS・いわゆるパソコン通信というものが普及してきたあたりで、PC-9801の仕様に合わせた4096中16色で表現されたイラストが多数作成・アップロードされていた。その中でダウンロード数が多いのは、「エロ」を感じさせる作品に集中していた。(注・当時はすでに、エロゲ=9801の図式ができてきていた)
中には、(当時は)一部の機種でしか見られない多色JPEGデータをアップロードするような猛者がいたが、電話回線を使った28800bpsの速度でやり取りするにはデータ量がちょっと多過ぎたせいか、ダウンロード数はそれほどでも無かったような記憶がある。
そんな中で衝撃的に出会ったのが、写真家・力武靖氏の撮影による少女ヌード写真集である。今から思えばそれは「FRIENDS」の一部だったのだが、まともな検索手段が無かった当時としては、まったく未知の存在に触れた気がした。それのスキャン取り込みデータが、BBSに無断でアップロードされていたのだから、提供した側もずいぶんと大胆といえば大胆である。当時は自分はすでに成人していたが、家族と一緒に住んでいる手前、実写のエロ・しかも少女ヌード写真を本屋で買うほどの行動力はさすがになかった。通販事情としても、今のようにアマゾンほかオンラインショップで気軽に本を注文、という販路はまだ整備されていなかったので、しばらくはそのデータについて出どころが知れないままモヤモヤとしていた。
(もちろん、性的な意味でも)
やがて、個人でも準定額・のちに完全定額のインターネットが利用できるようになってきた時点で、検索サイトというものの存在を知る。
パソコン雑誌のコーナーでは、いわゆる「電脳アングラ」的な本がじわじわ売られてきていたが、そんな中で海外のサイトでのお宝画像(=エロ画像)のダウンロード方法が説明されていた中、自分はなぜかあの少女ヌード写真集の事が忘れられなかった。OSもWindows98以降が標準となり、安価なパソコンでもフルカラー画像を見るのがようやく当り前となってきた頃のことだったが、いくつかの紆余曲折の末にようやく、とある方法(具体的には省略)であの写真集と思われるデータを手に入れる事ができた。その時の感慨を表現できる言葉を、いまの自分が持ちあわせていないのは残念なくらいだ。
その後、写真集の被写体だった少女達は、日本人ではなく顔の造作の似た外国人である事を知ったりしたが、それでも彼女の人気は一部では根強く、後日にヌード部分を除いてまとめられた写真集(※アマゾンでも売ってた)が発売された際には高評価を得ていたように記憶している。
その写真集データを得たのと前後して、「ロリエロな漫画・イラスト」のデータの蒐集も続いた。二次元と三次元のエロは、近いのか遠いのか、と問われれば「遠くはないというか、ある意味別腹に近い」と自分は答える。喩えて言うなら、店で食べるラーメンとカップ麺の関係のような感じだろうか。
さらに言えば、実際にもし実行すれば確実にアウトな「幼女・未成年女子とのセックス場面」が、二次元での表現としてはまだセーフな事も(わいせつ物頒布うんぬんの論点はさておき)、見ていて自分のささやかな妄想を想起させた。
ただし、自分はどうもレイプを思わせる描写が(創作物であっても)ダメなタイプなので、その系じゃなきゃ燃えない方とは一緒に見られたくない、とワガママな主張をしておきたい。
だがそういった日本での内輪の価値観も、TPPその他での動きによって、そろそろ終わりに近づきつつありそうなのが正直悲しいし、怖い。
我が子が見知らぬ場所で置き去りにされて行方不明になりかかったのに、脳天気に機械や警察のせいに出来る神経が理解出来んのだが。
激しく同意。置き去りにしたのは親だよね?塾をPRした怪しい人とかじゃないよね。
それと子供も、コンビニあたりに少なくなっているとはいえ公衆電話があると思うんだが(俺の家の近くの特殊事情か?)、なぜ塾に問い合わせなかったのか。
または、親に「塾ねーよ!」と連絡するということが出来なかったのか。
俺が塾に初めていったときは、確か塾の折込チラシを持たされた。連絡先、住所が明記されている。
電話をかけることができれば、塾や親に電話できるし、電話が周囲に無ければ番地を元に調べることはできる。
ってことが最近の電脳頼みな親も、ケータイもたされてないまま移動するであろう子供もできないってことなのか?!
それなんて世紀末?!
何か勘違いしてネットの世界で目立って発言力を維持する為に、目に付いた物を
何かと規制したがる一部のクラスタ周辺にいる実名派の皆さんお元気ですかー
特定しても相手にとある3種類の方法使われてたら確実にカウンターきますしね
奇麗事ばかり言う人達はコストは払わないのに見ず知らずの他人達にモラル+コスト+時間の消費押し付けようとするとか無いわ
ちょー迷惑っす 「これも電脳化に至る修行」だと思って他人に任せず自分で調べてください 合法な方法は幾つかあるんです
ブロガーとしていうけどコメント欄に書き込まれる大量のアレな書き込みに一々対応するほど暇無い
あの人達の「けしからん教」のせいでどんどんネットが退屈で窮屈になる
ネットは拡張された心のスペースであって、そこに他者がモラルを押し付けようとか「思想の抑圧」
以外の何物でもない
最新の中傷方法で検索サイトの上位に「ネガティブワード表示」という物があるけどあれ実は
法の力を借りずとも「匿名」の力と「金」を使えば簡単に被害者救えるんだよね
金が無い人は知識を自分で習得しないといけないわけですが、匿名disる人達に無料で教えてあげる義理も
ない どう考えても無いね 「コロンブスの卵」みたいな簡単な方法だから検索順位と睨めっこしてせいぜい
考えればいい
中国の『詩経』に「桃夭」という詩がある この詩は誰が詠ったのか分からないけど今も残っている
『詩経』には誰が詠ったのか分からないままの詩がたくさんある そういうの素敵
「余計なノイズ」である「実名」「立場」を一切排除した匿名の文章の集まり
それを読むのっていいなって思えばこそ「増田」であり「匿名ダイアリー」
「増田」識別は十数年「電脳化」してきた「増田」には日本のネットは割と狭いから別の場所に書き込まれた文体から「あの記事書いた増田」と推測したり、他増田が隠してないだけ
もし実名との紐付けしようとして必死になっても「上に政策あれば、下に対策あり」の言葉が示すようにスルスルリン
てゆーか既に日本は「右も左も真ん中も誰かが誰かをdisってクラスタ総出で晒し上げして喜ぶ密告国家」って感じなんで、この上「暗黒国家」に進まないように生暖かく見守っていきたい
普段「差別」とか「人権」とか唱える人達の言葉の持つ重みが、ここ一連のいじめ事件や反日暴動でふわふわ軽くなってその内空を飛んで見えなくなりような予感