はてなキーワード: 津原泰水とは
https://note.com/historicalmoc/n/n284957b96801
村上春樹の作品はほぼ読んだので大体同意だけれど、肝心の文章について全く語られていないのは片手落ちとしか言いようがない。こういう何かを語っているようでその内実がわかりにくい言葉を並べるからハルキストだのなんだの揶揄られるんだ。ファンなら真面目にやれ。村上春樹以外の人間が村上春樹の真似したら中身がない駄文にしかならないって小学校で教わらなかったのか。
つーか村上春樹の文章は別にうまくねえから。特徴的で読解大好き人間ほいほいってだけ。
というこの3点が村上春樹の文章でもっとも印象に残る要素である。本気で語るなら時期によっての文体の変化とか、もっといえば情景描写についてもまとめたいのだけれど、とりあえず書き散らす。なお、3に関しては他作品に関する読解を含み、ひとによってはネタバレと解釈しうるものも混じるので注意。
実例を挙げてみる。
四月のある晴れた朝、原宿の裏通りで僕は100パーセントの女の子とすれ違う。
正直言ってそれほど綺麗な女の子ではない。目立つところがあるわけでもない。素敵な服を着ているわけでもない。髪の後ろの方にはしつこい寝癖がついたままだし、歳だってもう若くはない。もう三十に近いはずだ。厳密にいえば女の子とも呼べないだろう。しかしそれにもかかわらず、3メートルも先から僕にはちゃんとわかっていた。彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。
1文1文が短い。技巧的な表現を使うわけでもない。文章から浮かんでくるイメージが閃烈鮮烈なわけでもない。日常語彙から離れた単語を使うこともない(「閃烈鮮烈」とか「語彙」といった単語が読めない人間は思いの他外多いからな。ここでの「他外(ほか)」とか/悪いATOKに頼りすぎて誤用なの気づいてなかった。指摘ありがとう)。ただただ「シンプル」だ。わかりやすい。
また、冒頭の1文の次にくるのは「~ない」で終わる文章の連続だ。テンポがいい。あと、どのくらい意図的なおかわからないが、↑の文章を音読していみると適度に七五調がまじっているのがわかる。そして、大事なところで「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。」という断言を入れる。リズムで読者を惹きつけた上ですっと断定されると、その一文がすっと印象的に刺さってくるのである。
つまり、別に「うまい」わけじゃないんですよ。ただ「読みやすい」。それにつきる。読みやすい以外の褒め言葉はあんまり信用しちゃいけない。「うまさ」って意味なら村上春樹をこえる作家なんてゴマンといるし、村上春樹の「文章」がすごいなんてことは絶対にない。うまいとか下手とかを語るならナボコフあたり読んだ方がいい。
とはいえ、個人的な所感だと、この「読みやすさ」は村上春樹が発見あるいは発明した最大のポイントだ。「リズムがよくわかりやすい文章で圧倒的リーダビリティを獲得する」という、一見してみんなやってそうでやっていない方策を村上春樹が徹底しているせいで、誰でも座れそうなその席に座ろうとすると村上春樹と闘わなければならない。
で、そのあとにくるのが「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。」という文章である。村上春樹の比喩表現は独特で、たとえば『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を適当にパラパラめくって見つけた表現として、「不気味な皮膚病の予兆のよう」「インカの井戸くらい深いため息」「エレベーターは訓練された犬のように扉を開けて」といったものもあった。この、比喩表現の多様さは彼の最大の持ち味であり、真似しようにもなかなか真似できない。
そして何より、「100パーセントの女の子」である。何が100パーセントなのか、どういうことなのか、この6ページの短編ではその詳細が説明されることはない。ただ、語り手による「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。」という断定だけが確かなもので、読者はそれを受け入れざるをえない。それはこの短編に限らない。「かえるくん、東京を救う」におけるかえるくんとは。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』における〈世界の終わり〉とは。「パン屋再襲撃」はなんでパン屋を襲うのか。「象の消失」で象はなぜ消失するのか。「レーダーホーセン」でどうして妻は離婚するのか。羊男ってなに。
こういった例には枚挙に暇が無い。文章単体のレベルでは「読むことはできる」のに対して、村上春樹の小説は比喩・モチーフ・物語様々なレベルで「言っていることはわかるが何を言っているかがわからない」ことが、ものすごく多いのだ。
じゃあ、「村上春樹の作品はふわふわしたものを描いているだけなのか?」と言えば、そんなことはない。村上春樹の作品には「答えがある」ものが、地味に多い。
たとえば、「納屋を焼く」という作品がある。ある男が恋人の紹介で「納屋を焼く」のが趣味だという男性と出会い、ふわふわした会話をして、ふわふわとした話が進み、語り手は時々恋人とセックスをするが、そのうち女性がいなくなる。読んでいるうちは「そうか、この男は納屋を焼いているのか」という、村上春樹っぽいよくわからないことをするよくわからない男だな……という風に、読んでいるうちは受け入れることができる。
だけれど、この作品の問題は、「納屋を焼く」とは「女の子を殺す」というメタファーの可能性がある……ということを、うっかりしていると完全に読み飛ばしてしまうことだ(あらすじをまとめるとそんな印象は受けないかも知れないが、本当に読み落とす)。それが答えとは明示されていないけど、そう考えるとふわふわとした会話だと思っていたものが一気に恐怖に裏返り、同時に腑に落ちるのである。
その他、上記の「レーダーホーセン」においてレーダーホーセンが「男性にぐちゃぐちゃにされる女性」というメタファーでありそれを見た妻が夫に愛想をつかした、という読みが可能だし、「UFOが釧路に降りる」でふわふわとゆきずりの女と釧路に行ってセックスする話は「新興宗教に勧誘されそうになっている男」の話と読み解くことができる(『神の子どもたちはみな踊る』という短編集は阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きた1995年1-3月頃をモチーフにしている)。
勿論、これらはあくまで「そういう解釈が可能」というだけの話で、絶対的な答えではない。ただ、そもそもデビュー作『風の歌を聴け』自体が断章の寄せ集めという手法をとったことで作中に「小指のない女の子」の恋人が出てきていることが巧妙に隠されていたりするし(文学論文レベルでガンガン指摘されてる)、「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。」と書かせた村上春樹がその小説の中で実は死とセックスに関する話題を織り込みまくっている。近作では『色彩をもたない田崎つくると、彼の巡礼の年』で○○を××した犯人は誰なのかということを推測することは可能らしい。
たとえば、『ノルウェイの森』で主人公が自分のことを「普通」と表現する箇所があったが、村上春樹作品の主人公が「普通」なわけない。基本的に信頼できない語り手なのだ。信用できないからしっかり読み解かないといけないようにも思える。
(なお、なんなら村上春樹が自分の作品について語ることも本当の部分でどこまで信用していいのかわからない。「○○は読んでない」とか「××には意味がない」とか、読解が確定してしまうような発言はめちゃくちゃ避けてる節がある)
ただ、勿論全部が全部そうというわけじゃなく、羊男とかいるかホテルって何よとかって話には特に答えがなさそうだけれど、『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』あたりは何がなんだか全くわからないようにも見えるし、しかし何かを含意しているのでは、あるいは村上春樹本人が意図していないことであっても、読み解くことのできる何かがあるのではないか、そういう風な気持ちにさせるものが、彼の作品のなかにはある。
このように、村上春樹のメタファーやモチーフには、「答えがあるかもしれない」という点において、読者を惹きつける強い魅力があるのである。
増田も昔は村上春樹を「雰囲気のある作家」くらいの認識で読んでたんだけど、『風の歌を聴け』の読解で「自分が作品をちゃんと読んでないだけだった」ということに気づかされて頭をハンマーで殴られる経験してから「村上春樹には真面目に向き合わないと良くないな」と思い直して今も読み続けてる。
……なお、それはそれとして、セックスしすぎで気持ち悪いとか(やれやれ。僕は射精した)、そもそも文章がぐねぐねしてるとか(何が100パーセントだよ『天気の子』でも観とけ)(なお「4月のある晴れた朝に~」が『天気の子』の元ネタのひとつなのは有名な話)、そういう微妙な要素に関して、ここまで書いた特徴は別にそれらを帳消ししてくれたりする訳じゃないんだよね。
たとえば『ノルウェイの森』は大多数の人間が経験することの多い「好きな人と結ばれないこと」と「知人の死を経験し、受け入れること」を描いたから多くの人間に刺さったと自分は思っているが、だけどそれが刺さらない人だって世の中にはたくさんいるのは想像に難くない。
だから、嫌いな人は嫌いなままでいいと思う。小説は良くも悪くも娯楽なんだから。
マジで村上春樹論やるなら初期~中期村上春樹作品における「直子」のモチーフの変遷、「井戸」や「エレベーター」をはじめとした垂直の経路を伝って辿り着く異界、あたりが有名な要素ではあるんだけれど、まあその辺は割愛します。あと解る人にはわかると思いますがこの増田の元ネタは加藤典洋と石原千秋なので興味ある人はその辺読んでね。
「うまくない」って連呼しながら「『うまい』のは何かって話をしてないのおかしくない?」 というツッコミはたしかにと思ったので、「この増田が考える『うまい』って何?」というのを試しに例示してみようと思う。村上春樹に対する「別に文章うまくない」とはここで挙げるような視点からの話なので、別の視点からのうまさは当然あってよい。
小説家の文章が読みやすいのは当たり前だが、「文章が読みやすい」なら「文章が読みやすい」と書けばいいのであって、わざわざ「文章がうまい」なんて書くなら、そこでの文章」は「小説じゃなきゃ書けない文章」であるはずだ。
じゃあ、増田が考える「(小説の)文章がうまい」は何か。読んでる間にこちらのイメージをガッと喚起させてくるものが、短い文章のなかで多ければ多いほど、それは「文章がうまい」と認識する。小説のなかで読者に喚起させるイメージの情報量が多いってことだから。
具体例を挙げてみる。
長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。
そのころのマコンドは、先史時代の怪獣の卵のようにすべすべした、白く大きな石がごろごろしている瀬を澄んだ水がいきおいよく落ちていく川のほとりに、竹と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。
ガルシア=マルケス『百年の孤独』の冒頭。大佐が子どもの頃を回想して大昔のマコンドに話が飛ぶ際、「先史時代の」という単語を選んでいることで文章上での時間的跳躍が(実際はせいぜいが数十年程度のはずなのに)先史時代にまで遡るように一瞬錯覚する。
津原泰水『バレエ・メカニック』1章ラスト。昏睡状態のままで何年も眠り続ける娘の夢が現実に溢れだして混乱に陥った東京で、父親が世界を元に戻すために夢の中の浜辺で娘と最期の会話をするシーン。
「お父さんは?」
「ここにいる」君はおどける。
「さあ……仕事で遠くまで出掛けているか、それとも天国かな。お母さんがいない子供は いないのと同じく、お父さんのいない子供もいない。世界のどこか、それとも天国、どちらかに必ずいるよ」
彼女は君の答に満ち足りて、子供らしい笑みを泛べる。立ち上がろうとする彼女を、君は咄嗟に抱きとめる。すると君の腕のなかで、まぼろしの浜の流木の上で、奇蹟が織り成したネットワークのなかで、彼女はたちまち健やかに育って十六の美しい娘になる。「ああ面白かった」
理沙は消え、浜も海も消える。君は景色を確かめ、自分が腰掛けていたのが青山通りと 表参道が形成する交差の、一角に積まれた煉瓦であったことを知る。街は閑寂としている。 鴉が一羽、下り坂の歩道を跳ねている。間もなくそれも飛び去ってしまう。君は夢の終焉を悟る。電話が鳴りはじめる。
作中の主観時間にしてわずか数秒であろう情景、ありえたかもしれない姿とその幸せな笑顔から夢のなかで消えて一瞬で現実に引き戻すこの落差、そこから生まれる余韻の美しさですよ。
あるいは(佐藤亜紀『小説のストラテジー』からの受け売りで)ナボコフ「フィアルタの春」という小説のラスト。
フィアルタの上の白い空はいつの間にか日の光に満たされてゆき、いまや空一面にくまなく陽光が行き渡っていたのだ。そしてこの白い輝きはますます、ますます広がっていき、すべてはその中に溶け、すべては消えていき、気がつくとぼくはもうミラノの駅に立って手には新聞を持ち、その新聞を読んで、プラタナスの木陰に見かけたあの黄色い自動車がフィアルタ郊外で巡回サーカス団のトラックに全速力で突っ込んだことを知ったのだが、そんな交通事故に遭ってもフェルディナンドとその友だちのセギュール、あの不死身の古狸ども、運命の火トカゲども、幸福の龍どもは鱗が局部的に一時損傷しただけで済み、他方、ニーナはだいぶ前から彼らの真似を献身的にしてきたというのに、結局は普通の死すべき人間でしかなかった。
ふわーっと情景描写がホワイトアウトしていって、最後にふっと現実に引き戻される。この情景イメージの跳躍というか、記述の中でいつの間にか時間や空間がふっと別の場所に移動してしまうことができるというのがナボコフの特徴のひとつである。
散文として時間や空間が一気に跳躍して物語世界を一気に拡張してしまう、この広がりを「わずかな文章」だけで実現していたとき増田は「文章がうまい」と認識する。自分が村上春樹の文章を「うまくない」って書く時、そのような意味での「小説としての文章」を判断軸にしてた。
村上春樹は下手ではない。村上春樹に下手って言える人いるならよっぽどの書き手だし、その意味で村上春樹に関しちゃ言うことはないでしょう。しかしごく個人的な私見を言えば、「文章」って観点だと、文章から喚起されるイメージに「こちらの想像を超えてくる」ものがめちゃくちゃあるわけではないと思う。
日本語の文法に則りシンプルで誤解の生まれにくい文章を書くことは高校国語レベルの知識で可能で、その点村上春樹は文章のプロとしてできて当たり前のことをやっているに過ぎない。平易な文章を徹底しつつその内実との間に謎や寓話やモチーフを織り込んで物語を構築するところがすごいのであり、そこで特段褒められるべきは構成力や比喩表現の多様さだろう。その際に使うべきは「構成力がうまい」でも「比喩表現がうまい」であって、「文章」などという曖昧模糊とした単語で「うまい」と表現することはない。小説=散文芸術において「文章がうまい」と表現しうるとき、もっと文章としてできることは多いはずなので。そして、このことは、村上春樹がしばしば(「小説」ではなく)「エッセイは面白い」と言及されることと無関係ではない。
ちなみに、増田は津原泰水やナボコフの文章技巧には翻訳を村上春樹じゃおよぶべくもないと思ってるけど、面白いと思うのは圧倒的に村上春樹ですよ。技巧と好き嫌いは別の話なので。
ここで書こうとした「うまさ」は佐藤亜紀がいうところの「記述の運動」を増田なりに表現したもので、元ネタは佐藤亜紀『小説のストラテジー』です。
FGOのフレーバーテキストやガチャ実装時の紹介文があちこちの資料・ウェブサイトから剽窃していることが判明し絶賛炎上中の件について、ディライトワークスではない別のソシャゲ会社に勤めていた経験から、「こんな感じだったのかなー」という妄想を書き連ねておく。
津原泰水の発言に関しちゃ「女流文学」という言葉が今ではあんまり推奨されない言葉なのも相まってちょっと雑語りなのでは? でも伊東麻紀は津原泰水が男性であることを以て勝手に女性蔑視の話に紐付けているのが最悪。
津原泰水がこう呟いた。
少女漫画や女流小説が、政治を直接的には描いてこなかったというのも、一因のような気がする。そこ、完全に座席が空いている。
https://twitter.com/tsuharayasumi/status/1206719227022860288
で、それに対して伊東麻紀が津原泰水の作品には女性蔑視的な部分があるという言及をして、色々と揉めている。
あんまり言いたくはないんだけど、この方もうっすら女性蔑視が漂ってるんだよね。作品を読んでいてもそれは感じる。いや、本当にあんまり言いたくはないんだけど。
https://twitter.com/ItohMaki/status/1207045087860887554
揉めてる様子は各位Twitterを見てくれ。
この話のポイントは、発言者の経歴とかを度外視して「字面から推測できそうな意図」だけ読み取ってしまうと意味が全く変わってしまうというところ。
まず、津原泰水は「女性作家」の話をしていない。津原泰水自身は津原やすみ名義で少女小説を書いているのだ。しかも2−3作ではなく、30冊近くに登るはず。つまり、「少女小説を書く男性作家」である津原泰水は、「少女小説」の書き手が女性に限定されないことを誰よりも知っているのだ。その意味で、「少女漫画」「女流文学」の書き手が女性であるとは限らないことも理解している(実際、他ユーザーとの女流文学に関するやりとりの中で紀貫之を例にあげている)。
更には、この発言自体、過去の話を話題にしている。女流文学というものがある一定の範囲で許容されてきた歴史が存在することは(残念ながら)事実である。ついでに言えば、元発言自体はジェンダーギャップ自体を批判する文脈である。その点を見過ごし、「女流文学」という言葉を使ったことだけを以てして、津原泰水の発言が女性蔑視的なものだと読み解くのは、解釈の飛躍である。「女流文学」というものはたしかに存在「した」し、津原泰水は現在の話には一言も触れてない。むしろ、津原泰水さんの立場から見た場合に、上記の発言は半ば自戒・反省の意図の方が大きい筈である。もっとも、「少女漫画」「女流文学」「少女小説」全部違うものであり、少女小説の書き手であれば少女漫画や女流文学を語れるのかというとそれも少し違う気がするので、増田自身は津原泰水のこの発言をうかつだと思うし、正直雑語りだと思いますよ。
それはそれとして、伊東麻紀はどのようにこの件に絡んでいるか。
まず、引用RTにて「作品から女性蔑視が読み取れる」という話をはじめ、やりとりの中で「女流作家という言葉を使う時点で女性蔑視」と津原を批判する。また、「津原やすみ」名義の作品を読んだことがない上に「読む気もない」と述べており、津原泰水が「女流文学」という過去のジャンルの話をしていたことに気づき「脱力」する。
女流ですか。その表現自体に男性よりはワンランク下というニュアンスが含まれてるんですがわかりませんか。女流と呼ぶなという女性作家は少なくないと思いますが。もうその時点で女性蔑視なんですよ。
https://twitter.com/ItohMaki/status/1207176254643793922
津原泰水名義の作品なら読みましたよ。それだけではご不満ですか。わざわざ古本で少女小説を買って読め、と。お断りします
https://twitter.com/ItohMaki/status/1207172161422557185
やっとわかったような気がします。「少女漫画」や「レディコミ」と同じように「女流文学」というジャンルがあって、作家の性別にかかわらず、そのジャンルに参入することは可能であるという認識だったわけですね。あまりにもズレがありすぎて、これ以上会話できるとは思えません
https://twitter.com/ItohMaki/status/1207187821678583808
はあ、ものすごく脱力。結局、最初から最後まで噛み合わない話をしてたわけだ。
https://twitter.com/ItohMaki/status/1207191049891762176
ここでのポイントは、「津原泰水が女性作家に責任をおしつけている」という前提で伊東麻紀が話を進めていることだ。津原泰水は一貫して「少女漫画」「女流文学」の話しかしていない。概ねの傾向として女流文学と呼ばれるものの殆どが女性作家によるものなので近いようにも見えるが、津原泰水の経歴を考えるとそこを同一視することはまず有り得ない。仮にあったとして、津原泰水の発言は半ば自省や自戒を含むと読める。この、カテゴリの話を女性の話に飛躍させている、そこに解釈の飛躍がある。誰も、そんなことは一言も言っていないのである。むしろ、文学において書き手の性別と作品の作風とは関係がないこと、そういう垣根は超えられることを実践してきたのが津原泰水なのである。
ここから得られる教訓はいくつもあるんだけれども、確実に言えるのは伊東麻紀は「言ってないことを勝手に読み取る悪い見本」ということだ。書き手が男性であること、自分が少女小説に嫌な思い出があること、女流文学というカテゴリに対して批判的な態度をとっていること、そういった先入観が、津原泰水に対する潜在的な拒否反応を生んでいる。その前提からスタートするため、津原泰水の発言から悪意を勝手に読み取っているのである。たとえば、やりとりの途中で津原泰水本人から「少女小説を書いていたから女性の気持ちはわかる」と津原泰水が言ってもいないことを勝手に読み取り、本人から問いただされている。
少女小説を書いていたから女性の気持ちはわかるし、女性蔑視もしていないというのは思い上がりですよ。性差別は社会構造そのものに組み込まれているものです。誰もそこから完全に自由ではありません。女性である私自身でさえ、女性蔑視を無意識に内面化してしまっている部分はあるでしょう。
https://twitter.com/ItohMaki/status/1207173245478174720
「少女小説を書いていたから女性の気持ちはわかる」というのは誰の言葉?
https://twitter.com/tsuharayasumi/status/1207174096586342401
ひとと議論・口論をする上で、この「相手の言ってないことを読み取らない」力はものすごく大事な能力なんだけれど、残念ながら知識の豊富さや政治的スタンスの正しさと相関性がない。「何を言ってるのか」、ひいては「何を言ってないのか」を読み取らないと、会話は全くかみあわなくなる。相手の言動から可能な限り意図を(できる限りフラットに、つまり悪意をできるだけ排除して)推測しようとする力は、最低限相手に対するリスペクトがないとできない。「コミュニケーションをとる相手に対して、少なくとも最初のうちは表面上だけでも最低限のリスペクトをとる(たとえば津原泰水は最初伊東麻紀に敬語で話しかけている)」という、人間が社会生活を送る上で多かれ少なかれ求められることができない人は男女関係なくたくさんいるんだなぁ、という悲しい気持ちが心に無限にわいてくるのである。本当に悲しい。
オタクが一般の人間から見たら果てしなく気持ち悪いことに気づかないうちはヤバいよ
「原作『レイプ』」「『ハイエース』(拉致からのレイプ)」「ようじょペロペロ」というドン引きオタク語多用とか、ちょっと前に流行った妊娠検査薬コラとか、だいぶ前なら「かんなぎ」のヒロインが非処女だっただけで炎上とか
オタクがオタクだから嫌われてるんでなくて、肌色盛り盛りコンテンツを隠しもしないゾーニングもしないから嫌がられてるんだよーと何回言っても伝わらないんだろうね〜
言及先のツイートした人間は知らないけど、例えば年若い子や中学生以下の子の強姦事件殺人事件が起きたとき、ツイッターにあふれる言葉は、まず真っ先に「またオタクが叩かれる」と被害者ヅラ(一番の被害者はその犯罪の被害者だ)
もしくは「俺ならもっとうまくやった」みたいなことをギャグでも言う
自浄作用ないとマジで政府から規制されるぞって言ってるのに挙げ句の果てに「フェミの言うこと聞くくらいなら政府に規制された方がマシ」本末転倒すぎる
政治とか、この前の津原泰水の件とかの規制関連の話題にはだんまり
ため息出るわ
1989年、少女小説『星からきたボーイフレンド』(津原やすみ名義)でデビュー。また3年間、代々木アニメーション学院にて特別講師を務めた。
1996年、『ささやきは魔法』を最後に少女小説から引退し、翌年、津原泰水名義での長編『妖都』を上梓。
1997年、津原やすみ名義の作品が北京語版・朝鮮語版で発売される。著者名は「津原靖美」と表記されている場合がある。
2003年、『少年トレチア』で第56回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門候補。
2006年、高校時代の吹奏楽部での体験をもとにした『ブラバン』を発表。ベストセラーとなる。
2010年、尾崎翠原案の『瑠璃玉の耳輪』を上梓。翌年には尾崎翠フォーラムにて講演を行う。(講演録は文庫版に収録。)『バレエ・メカニック』で第41回星雲賞日本長編部門候補。
2011年、「五色の舟」「テルミン嬢」(『11 eleven』所収)ともに、第42回星雲賞日本短篇部門候補。『ブラバン』で第1回広島本大賞候補。
2012年、『11 eleven』で第2回Twitter文学賞国内部門1位。
2014年、近藤ようこにより漫画化された『五色の舟』で第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞。
2016年、『ヒッキーヒッキーシェイク』でSUGOI JAPAN AWARD 2017 エンタメ部門候補、第33回織田作之助賞最終候補。
幻冬舎と揉めて話題になった津原泰水の『ヒッキーヒッキーシェイク』。
帯に編集者の塩澤快浩が「これが売れなかった編集者辞めます」と入れると宣言して箕輪に嘲笑されてたけど、これは絶対売れるな。
塩澤の今までの実績を知っている書店員なら、絶対やめてほしくないから店に入荷して一番いい位置に置かれるだろう。
実は本が売れるかどうかは、書店の一番いい位置において「話題になってる感」をいかに出すかどうかだ。
ほとんどの本は新刊コーナーに一冊置かれて数日売れないと返品される(置かれずに返品されるのすらある)。
塩澤を知っている書店員なら、絶対に一冊は入荷して売れるまで返品しないだろう。これは勝利確定だ。
おそらくはベストセラーにはならなくても、増刷一回はして「売れた感」は出せるはず。
しかし、問題はその後だ。今の出版業界は売れる方法が見つかったらみんな真似しだす。
POPもそうだし、表紙を隠すのもそうだし、無料公開もそうだし、みんなやりだす。
塩澤の方法が売れると判断されたら、これをみんなやりだすだろう(笑)。
百田尚樹の「日本国紀」のコピペ問題を追及していた津原泰水の新刊が幻冬舎から出版中止になった問題で、社長の見城徹が、「こんな売れないんだから出版中止は当然」とでも言うことを目的として、幻冬舎から刊行した津原の本の実売数を晒し、その行為が他の多くの作家の反感を書い炎上し一般紙でもニュースになったのだが、その報道の仕方というのが「実売数公表し幻冬舎社長が炎上」という切り口のため肝心の出版中止の経緯について追及した記事になっておらず、そのせいかネットでの経緯を知らずに新聞記事を読んだ人たちからは「なんで実売数を公表しては駄目なのか」「オープンにするべき」「CDやDVDは公表されてるのに」「CD売上悪いアーティストが切られるの当然」などとズレた感想が多数投稿されており、見城徹のツイートは見事に論点ずらしに成功し出版中止問題を有耶無耶にしてしまった。
それはそうとここで解説するのは実売数公表について「CDやDVDは公表されているのに」という多くの人が持っている感想についてだ。
確かにCDについては毎週のように「何枚売れた」というのがニュースになっているし、アニメDVDもオタクブログで売上枚数が日々記録され続けている。
しかし、問題なのはそれらのデータを「誰が」公表しているかだ。
CDの実売数データを集計しランキングにしているのはオリコンという第三者の民間企業だ。アニメのDVDも同じような調査会社のデータをもとにランキングが作られている。
レコード会社やアニメ制作会社が公表している数字ではない。だから実際に売れた「実売数」とは当然に誤差が出る。
CDなんかは前作の売上が悪ければ当然にレコード会社から契約を切られるということはあるが、発売日まで予告していた楽曲が突然販売中止になることはほとんどないだろう。
仮にレコード会社社長が「あのアーティストの実売数はこれだけしかありません」とツイートをしたら絶対に炎上するし他のアーティストからも批判殺到するはずだ。
また、CDやDVDと同じように第三者の民間調査会社のデータでよろしいなら、本が実際にどれだけ売れたかの数字も公表されている。オリコンの記事がよくニュースになってるのを見たことがないのかな。
例えばこれ
。発行部数ではなく「売上」であるから、これは「実売数」に近い数字だ。こんな数字でいいならいくらでも公表されている。
というわけで、「実売数非公表」についてCDやDVDを例に挙げて批判するのは不適切だということで。
https://www.youtube.com/watch?v=egaQnwg1qxE
幻冬舎も箕輪も嫌いだけど、この件については箕輪の言うことがもっとも。
「この本が売れなかったら、私は編集者を辞めます。」というコピーって、今回の騒動を知らない一般読者からしたら「?」だよね。
売上という評価軸で幻冬舎や見城に対抗するなら、売るための努力をすべき。
文芸なんて売れないのが当たり前、『日本国紀』やレイシスト本の実売を超える作品がなくても、文化的に価値があるんだということを伝えればいいじゃないか。
「編集者辞めます」宣言で、見城の認識を変えるほど件の著書が売れることはまずない。
幻冬舎憎しのはてなーもブコメでマウントとって満足するだけだから売り上げにはほとんど貢献しない。
見城と津原泰水の喧嘩きっかけで噴き上がった連中が、いったい今まで津原泰水を買い支えてきたのか。文芸を買い支えてきたのか。疑問に思えてしょうがない。
https://mainichi.jp/articles/20190517/mog/00m/040/008000c
見城徹は紀伊国屋パブラインのヘビーユーザーだから、他社の出版物の売上がわかることも当たり前で、実売数はオープンデータだと思っているんじゃないだろうか。
全国各地の拠点に店舗を出している紀伊國屋さんの前日のデータが翌日に見られる、こんなすごいことはない。また、私以上に見城もそう思ったものですから、とにかく、PubLine データに日々かじりつくことになりました。回収した売行きデータよりも、PubLine を見て判断をしていく、というように変わったと思います。慌ただしかった月曜日がなくなり、楽になったと思っていたのですが、それはある意味試練の始まりでもありました。毎朝出社と同時に見城から会社に電話がかかってくるので、1 点 1 点売上の状況を説明するために、頭をクリアにして臨まねばならない。
また、先ほども長渕さんがおっしゃっていたように、他社のデータを見られるという機能がありますので、それも頭にいれておかねばならない。他社が真剣に売っている本を全く把握していないではないか、とよく朝からボコボコに怒られていました。
さらに、当時の PubLine は設置型の端末だったので、会社に行かないと数字が見ることができない。土日も、当時上司だった米原(一穂)と会社に行って、朝一で見城の電話を待つという日々でした。それがさらに盆、暮、正月となってくると、さすがにきつくなってきたので、その後は PubLine 当番なるものを設けて、営業部員で交代して対応していました。そこでまた少し楽になったというのもつかの間、今度は PubLine が web サービスになってパソコンがあればどこからでも見られるようになり、さらにリアルタイムでデータが見られるということになりました。今は、朝の 8 時から夜中の 12 時まで常に緊張の日々です。おかげさまで創業当初は週に 1 度の重版会議を行っていましたが、今は 365 日毎日です。とにかくスピード感をもって判断できるので、私たち幻冬舎は PubLine という装置を大変重宝させてもらっています。
https://publine.kinokuniya.co.jp/publine/pages/contents/publine_seminar_2015.pdf
この講演録に幻冬舎の新刊企画書が載っているが、「PL実数」という欄がある。パブラインの実売数を記入するのだ。
パブラインの数字を見ることで、その著者が過去に(他の出版社から)出していた本の実売数は筒抜けで、「あの作家は売れない」ということが分かってしまい、新たな本の企画が却下されるという話は幻冬舎に限らず他の出版社でも聞く。
それでも編集者の熱意や出版人としての判断で刊行に踏み切ることも当然ある。津原泰水氏の本が実際に出版されているわけで、見城徹が「編集担当者がどれだけの情熱で会社を説得し、出版に漕ぎ着けているか〜」と書いたのもまた事実なのだ。
「日本国紀」を攻撃されて文庫化を中止した経緯から出た発言ではあるが、「あの作家は売れない」という情報を、機密ではなく攻撃でもないと考えていた可能性は高い。
現在ヒッキーヒッキーシェイク(ハヤカワ文庫)が5位(一昨日見たときが25位だったのが急上昇)
11 eleven(河出書房)が29位(昨日見たときは45位だったのが急上昇)
となっている。
これは幻冬舎の見城徹と箕輪厚介が炎上に火を注ぎ津原泰水に世間の注目を集めてくれたおかげだ。
彼ら2人の暴言により、それに反論する中での津原泰水の作品の書評や口コミに光が当たり、購入動機となった。
それにしてもヒッキーヒッキーシェイクの幻冬舎版は政令指定都市である自分の町の図書館に1冊も入ってないことが判明し、どんだけ営業はサボってたのかと
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 51 | 21065 | 413.0 | 48 |
01 | 61 | 19592 | 321.2 | 71 |
02 | 28 | 9766 | 348.8 | 55.5 |
03 | 23 | 16073 | 698.8 | 849 |
04 | 13 | 5828 | 448.3 | 66 |
05 | 10 | 1217 | 121.7 | 43.5 |
06 | 20 | 6680 | 334.0 | 45 |
07 | 40 | 3191 | 79.8 | 38.5 |
08 | 63 | 10866 | 172.5 | 36 |
09 | 100 | 11169 | 111.7 | 48 |
10 | 123 | 14627 | 118.9 | 54 |
11 | 130 | 21072 | 162.1 | 52.5 |
12 | 141 | 12029 | 85.3 | 45 |
13 | 83 | 9518 | 114.7 | 49 |
14 | 111 | 10335 | 93.1 | 63 |
15 | 106 | 12500 | 117.9 | 63 |
16 | 175 | 13562 | 77.5 | 56 |
17 | 193 | 20480 | 106.1 | 47 |
18 | 132 | 11874 | 90.0 | 41 |
19 | 102 | 16038 | 157.2 | 44 |
20 | 115 | 11943 | 103.9 | 35 |
21 | 104 | 15746 | 151.4 | 56.5 |
22 | 141 | 10096 | 71.6 | 37 |
23 | 101 | 11543 | 114.3 | 47 |
1日 | 2166 | 296810 | 137.0 | 48 |
実売部数(6), 見城(9), 見城徹(8), 津原泰水(6), 幻冬舎(15), 5月16日(4), 乗馬(5), 剽窃(16), シャーク(4), 人命救助(4), 出版業(3), 渡辺真由子(3), イデオロギー(22), ベビーカー(25), 粗(14), 出版社(26), 作家(50), 譲る(8), 取引先(10), 編集者(8), チン(17), 人殺し(7), 実(22), 出版(17), 上級国民(13), 譲っ(9), オープン(8), 実施(9), 自民党(19), 売れ(38), スポーツ(24), 運(23), 固定(14), 売れる(15), 抵抗(15), 訴え(20), 犯罪者(19)
■女性用AEDを作ればいいじゃない /20190517124852(21), ■粗チンコンプで彼女と上手くいかないし温泉にも入れない /20190517130708(20), ■次に来る貧乏趣味 /20190517003553(13), ■SCP おじさんが苦手 /20190517134454(13), ■アニメや漫画の実写化は多いのに /20190517153238(12), ■e-sportsはスポーツなのかっていうけれど /20190517111814(10), ■外国人にお勧めする日本の曲やアーティスト教えて /20190512000726(10), ■友人が居ない /20190517015943(10), ■男嫌いになりたくなかった /20190517155705(9), ■銭湯での所作 /20190516225509(9), ■アベンジャーズって日本で言えば仮面ライダーwithウルトラマンみたいなものでしょ? /20190516193927(9), ■ノンケがゲイポルノを消費するのは罪なのか /20190516233552(8), ■「実売部数は版元の責任」と言う作家の多さに引く /20190517153226(8), ■嫁の引き出しから大人のおもちゃ /20190516203928(7), ■ /20190516154107(7), ■ベビーカーが気に食わない理由 /20190517092328(6), ■芸能人どころか、声優ですら「吹き替え版はまごう事なきクソ」であるたった一つの理由 /20190516033802(6), ■トラバのやり取りしている人って全員社内ニートだよね? /20190517182111(6), ■今、夢見りあむがアツい。 /20190513021624(6), ■男の引き出しから /20190517134619(6)
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ぶっちゃけ刷り部数や実売数なんて出版社みたいな「取り次ぎのPOSデータがもらえる環境」にあればおおよその推測が立てられる半公開情報なので、別に明かしたこと自体は大したことじゃない。
でもそれ言っちゃいけないやつなんですよ。わかってても絶対に言っちゃいけない。
たとえば自分の会社で自分の年収が○○円で、その状態で新卒が入ってきたらこいつの年収はおおよそ××円だなってわかるじゃないですか。あるいは同い年の派遣社員やってる知人は年収△△円だなっておおよそ推測はつく。でも、それ絶対に口に出しちゃだめでしょ。お金のことなんて軋轢しか生まないし、しかもそれ年収の話でしょ?
津原泰水さんは恵比寿で文章教室開いてらっしゃったりするし、単純な専業作家というわけじゃないでしょうが、14年に出した本はぱっと見た感じWikipedia準拠で3冊、そのうち1冊の部数が5000部、1冊1728円(amazon基準)で印税10%としたら86万、文庫と単行本の違いを無視した単純計算でも×3で250万円ですよ。
ついでに言えば、出版における刷り部数は「その人がこれまでに出版した本が、どれくらい売れたか」という情報に基づく。5000部の本が1800部しか売れなかった場合の消化率の善し悪しは単行本を作ったことのない人間にはわからないが、まあ36%というのが決して良くはないというのは肌感でわかる。そういう場合、次作の刷り部数は確実に削られるんですよ。それを出版業界の人間なら一瞬でわかる。
見城がやったことは「津原泰水の2014年の推定年収は250万円で、今後更に下がっていくよ」と宣伝するっていう嫌がらせなわけ。 公開しようとしまいとそれは変わらないけど、言うと言わないの違いはでかいでしょ。
出版関係者がみんな「最低限のリスペクトがあれば」とか、精神論の話をしてるのはそこですよ。見城が他人の年収を明かしてしまったことはピンとくるし、でもそれを指摘すると自分が津原泰水の年収に言及する最初の人間になるから明言できない。だからもやっとした精神論になる。しかし、他人の年収を明かす行為がどんだけ社会人としてまずいか誰だってわかるでしょ?
率直に、とっても面白かった。わかりやすく言えば「大人向けのお伽話」って感じ。
短いながらにも、その作品の世界観がちゃんとあって、読後に考えさせられるテーマ性もあった。あまり触れたことのないような題材と空気感の作品だったから、読んでいて新鮮で良い読書体験ができたと思う。
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「日本国紀」を出してる幻冬舎が津原泰水の(ほぼ出来上がってる)新刊を発売中止する
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日本国紀の編集者・有本香が津原泰水に「先生、文庫はいつ出るんですか?」みたいな嫌味をツイート
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幻冬舎の社長・見城徹が「あの本は実売がこのくらいで…」とツイート
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実売は作家本人にも教えないのが基本ルール。だって作家の責任ではない。 https://t.co/LCjFSMaH4k— 津原泰水 (@tsuharayasumi) 2019年5月16日