はてなキーワード: 書斎とは
私の仕事はコロナの影響が大きくあり、案件自体が少なくなり、月に数回あるかどうかというところ。
とはいえ実力主義の不安定な仕事だと言うこともあり、結婚当初から家計の全てや私の買い物などは全て夫の口座から使うようになっている。
今は案件自体が少ないこともあり、週一からできるバイトとかを始めようとすると、夫はそんなこといいから家事をやってという。
そのくせ何か買おうとすると、お金が今ないからといって私が欲しいものを否定し、私には買わせようとしない。そして、自分は好きなものを買う。
お金がないのなら、何かアルバイトでもしようかと思うと、いちいち否定して、そんなことはいいから家事をやってといってくる。
私が毎晩夕飯を作っているというと、夫は朝の子供二人の朝食や朝晩の保育園の送り迎えに仕事に炊事洗濯もやっているし、晩ご飯だって半分以上作っているだろうと、恩着せがましくいってくる。
猫を最近買ってからはちゃんと夕飯を平日はつくったりしているのに。そんなことを言う。部屋が汚いので掃除だってやっているのに。
コロナ禍になってから、夫は在宅でずっと家で仕事をしている。書斎でパソコンをしているだけなのに。
家が子供二人や仕事をする上で手狭になったので、夫の書斎や私の部屋が作れるように私好みの億ション分譲マンションを買い、リフォームまでした。
家族四人の外出がしやすくなるように、自動車免許をとりにいき、私好みも車も買った。
そのくせ何か買おうとすると、家も買ったし車も買ったし、服とかも好きに買ってあげてるんだから、我慢しなよといってくる。自分は特に我慢してないのに。
コロナ禍前に夫が夜に出かけようとする。子供のお風呂もいれたし、寝かしつけもしたんだからいいだろうといってくる。
きっと近くにあるガールズバー にいくに違いない。そんなところにいったら浮気だしあれをちょんぎってやる。
私が色々考えて我慢をしているのに、夫は好きな自分のものをかい、夫が買うので私も買おうとすると私だけを我慢させようと文句ばかりいってくる。
夫がモラハラだ。
コロナ禍になってからも、幸い収入の減少も無かった。そのうえ完全リモートワークが可能だったので全社的に移行したため、
通勤片道1時間以上がチャラになった。勤務時間が長くなっても家族と話できる時間は増えた。
もともと飲み会は好きでもなく、プライベートでも酒は飲まない。そのため元々仕事帰りに酒を飲むとか、帰宅して晩酌するということもなかった。
今ではつきあいの飲み会で金が出て行くこともなくなり、正直なところ助かっている。
家は郊外ながら車もあり、リモートワークに耐えうる回線と生活空間とは分けた書斎・デスクをたまたま用意していたため、環境ストレスは少ない方だ。
コロナでこうなるとは夢には思わず、ただ書斎スペースは欲しいな、と思っていただけだった。
つくづく、自分は運が良かったなと思った。
住まいは都会に近くなったので、都会に出てイベントに参加することも楽になった。可能性も広がった。
転職を検討するタイミングが少し遅れたら、コロナ禍でそもそも都会に出ることすら難しかっただろうし、
出来たとしても都会を楽しむ余裕もなくコロナ禍で外にも出れなかっただろう。
元いた会社では、海外出張も経験させてもらった。今だと海外も行けないだろうし、コロナ前から欧州の良い面も悪い面も冷静に見るきっかけになった。
観光じゃない、英語での仕事での外国人とのコミュニケーションは悪くない経験だった。
転職をもっと早くにしていたら、この経験はできなかっただろう。
もっとも、そこはオフィス需要が大きい業界だったので、リモートワーク中心の世の中になると影響を受けたらしく、それなりに業績影響も大きいらしい。
今の会社は取引先へのコロナ影響が大きいが、まだ影響は出ていない。この先はわからないけど。
転職タイミングが早すぎたら、経験不足で今の会社には入れなかっただろう。
転職タイミングが遅すぎたら、コロナでの減収は免れなかっただろうし、そもそも転職すら不可能だっただろう。
有能だから勝ち残ったわけじゃないし、無能だから不利益を被ったわけではない。ただただ、自分は運が良かっただけだ。
この先幸運が続く保証は一切無いし、どこかで抗えない波に飲まれてしまう恐怖はずっとある。
いま不幸な人は、自分を責めないようにしてほしい。あなたは無能だから不幸なのではない。
コミュ障の30代既婚男性だが,ここ半年くらいほとんど出社していない.
子供と過ごす時間も増えた.2歳になる息子の写真が増え,64GBのiPhoneのストレージを使い切りそうだ.
毎日往復3時間の通勤時間がなくなり,諦めていたアメリカへのオンライン留学の準備を進められた.今年3月までに願書を書き終われば,晴れて来年9月から10年ぶりの大学院生だ.
妻との夜の生活も復活した.これまでは夜遅く帰ってきて,平日はなかなか妻に会えなかったが,最近は打ち合わせの合間に「〇〇(息子の名前)は今頃何をしてるんだろうね」とよく話す.
趣味のジョギングも,週3回1時間みっちり走れている.裁量労働制なので,打ち合わせの合間に軽く走る,みたいなことが容易にできる.
満員電車に揺られて東京に出社する必要がしばらくなさそうなので,郊外に戸建てを買うことにした.書斎にはこだわるつもりだ.
恵まれた環境だということはわかっているし,大変な思いをしている方もたくさんいると思う.しかし,今の自分は,もう少しこの幸せな時間が続いてほしいと思う.
通勤のコスト減る それってつまり公共交通機関が減るっつーことやろ?ジジババ死ね死ね?まーえーけどなー俺はなーでもそこに正義はあるかー?
通勤しないから時間効率がいい 引きこもりってどうなんやろね。運動する?えっ?じゃあ結局時間は?満員電車も体幹の運動になるで?
家族と過ごせる 仕事中に家族と遊べるわけやねーしなー。つーか相手がメンヘラだと仕事中に構って構って構ってくれなきゃ死ぬとか言われそうや
プライベート空間で働ける 良し悪しやろ。つうか病むで?
電子決済が流行る 流行るのかなー本当かなー。判子押すためだけに出社してこいとかなるんじゃねーかねー
パンイチノーメイクで働ける スイッチ入らねえんだよなあ。つうか病むでマジ。結局スーツ着てスタバか書斎よ
オフィス代浮く いやーどうなんやろなー。テレワークシステムの維持費はあるしなあ。つうか遠隔でパソコン音痴おじさんのパソコン治すのすげーだるそうだしそういうので変なコストかさまね?
2年前に転勤で久々に東京に戻ってきたから、とりあえず会社が借り上げ社宅にしてくれた適当な賃貸マンションに住んだんだけど、家賃17万円もするのにくそみたいな安普請だし狭いしで毎日地味にストレス感じてた。
んで、貯金もたまってきたしちょっくら近所の中古マンションでも冷やかしてみるかって見に行ったら、一発で気に入ってしまったからほかの物件もろくに見ずに勢いで買ってしまった。
静かで環境はめちゃいいけど正直会社からは遠いし、駅からも10分くらいあるし、いわゆるブランドマンションだから割高だし、オリンピック後には暴落するだろうしってこと契約してから入居まではマリッジブルー的な感じで後悔気味だったけど、
入居してみたらやっぱり最高だった。前の賃貸はテレビ前が子供の遊びスペースだったから落ち着いてテレビも見れなかったけど、専用の遊び場が確保できてソファでくつろげるようになったし、浴室乾燥機と食洗器がついてて家事がめちゃ楽になったし、風呂は子供と入ってもゆっくりできるくらい広いし、床暖房はあったかいしで、最高だなぁと思ってた。
そんなところでコロナですよ。弊社も基本テレワークに切り替わって会社に行かなくてよくなったので、まず職場が遠いというデメリットが無効化された。
そんで将来の子供部屋用に余ってた部屋を書斎にして机とかモニター置いたら、もう職場より快適な執務環境。窓から緑が見えて超リラックスできるし、静かだしで最高。
そんで極めつけは目の前がくそでかい公園だから、お昼休みとか仕事上がりに散歩するのが超楽しいし超癒されるの。コロナ前はこの超良好な環境を存分に楽しめるのは週末だけだったんだけど、今や毎日毎日緑に囲まれた生活ができてる。
ステイホーム始まってから家族の仲もとてもよくなったし、仕事もはかどってるし、超いい感じなわけです。多分今頃、賃貸のあの狭い部屋でステイホームしてたらストレスフルすぎてつらかったと思う。
多分これから不動産は暴落するんだろうけど、買っちまえば相場なんて気にならなくなるし、この歴史的に見ても特に苦しい時代にこれだけQOLが爆上げできて十分元が取れた感がある。コロナ前に本当に買っておいてよかった。
薄々うちは毒親じゃないかと思っていたがここ数年それに拍車がかかってる
去年看護の専門学校(一応住んでる県では偏差値トップ)に入学して、今2年次なんだけど、専門学校に入学してからが本当に気が狂いそう
まず父親が去年家を出て行って、家からバスで20分くらいのところに住み始めた
母親は嬉しそうだったけど、私は複雑だった
もともと公共料金支払い能力のない人で、父親が家にいる時から電気が止まるのは当たり前で一回水道も止まってびっくりした
そんな状況でも父親に「払って!」って迫れないのは、父親が怖いから
手をあげないだけマシ そう思っても、お金の話を出した途端立ち上がって自分の書斎に行って、気分が悪ければ何日も私たちと顔を合わせない生活を続けるような父親の機嫌を取らなければいけなかったから
父親が出て行ってから機嫌をとることはなくなったけど、学費の催促もできなくなったし母親がパートのお金で生活費を賄うようになり、私たち姉妹にお金をせびったり八つ当たりするようになった
私ももう学校辞めたい 父親は学費払ってくれないし、車社会の今住んでる県で免許ないと生活できないのに自動車学校のお金も誰も出してくれないし、奨学金は母親のカードの返済に使われるし、私は何のために生きてるんだろうってなる
私ももちろんバイトしてるけど、母親の生活費の補填したり父親が払ってくれない学費の補填したり、自学の金を一括で出せるようなお金はない
お金で苦労したくなくて看護師になろうと思ったし、実際看護師の勉強は楽しいのに、私の周りは誰もそれを助けてはくれないんだね
みんなやってる前撮りも母親に「いらないよね?」って言われたら撮りたくても「うん」としかいえなかった
母親は父親にLINEブロックされてて催促できないくせに私に「なんでもっと学費の催促しないの?」って怒ってくるし
本当にリスカしそう
今まで頑張って理性でとどめてきたけど死ぬくらいならリスカくらいしてもいいかもってなってきた
本当に馬鹿みたいだ
早く死にたい
後悔するような人たちだったら今頃こんな仕打ち私にしてないと思うけど
私のプライムアカウントでログインしているので家族の履歴が共有されるがまあかまわんだろうと思っていた
定年後の暇つぶしにでもしてくれればと思っていたのだが
「視聴履歴に基づくおすすめ」に「奈緒26歳不倫の果てに」を見たあなたに、とか「主婦の秘蜜」を見たあなたに、みたいなびみょーなエロ映画を見た痕跡が出てくるようになった
娘と共同で使うのがわかってる機材でなぜそういうのを見るんだ父よ…中学生じゃねえんだからさあ…リテラシー低すぎるだろ…
と思いつつも今日まで見て見ぬふりをしてきたのだが
今日「人のセックスを笑うな」を見たあなたにおすすめ!と出てきてさらに悲しくなった
父の趣味からいって山崎ナオコーラぜったいに知らないし出てる役者もぜったいに興味ない
エロ期待して見たやろ…たいしてエロくねえとおもうよ私は見たことないけど役者の顔ぶれ的に…
太宰とか夏目とか有名どころの小説ばかり持ち上げ権威のない作品を鼻で笑うようなところがあってそこは嫌いだったけど
父の書斎の本棚に詰まっていた本があったから私は読書や映画が好きになれたのも事実だ
だいたいあのクソ田舎で書斎と本棚のある家を作ろうとした時点で立派なもんだと思う
なんつうかエロとか直接的な刺激じゃねえと気持ちが動かないんだろうな
でもこんな浅はかな姿見せてほしくなかったぜ
そういや昔PCにエロ動画広告出まくってたから黙々と消してあげたこともあるんだよなあ
世間的にも結構早い段階でPC買ってくれたと思うけどネットリテラシー低いんだよな
父よ
現在COVID-19対策でリモートワークが多くの会社で試されており、今後リモートワークが普及した場合に住宅事情がどのようになるのかを考えてみたい。
・立地について
通勤が減るので駅近至上主義は少し和らぎ、生活面での利便性が重要となる。しかしリモートワークが普及してもしばらくは出勤と在宅を織り交ぜるような運用となる可能性もあり、会社から離れすぎても困る。このことから都心から少し離れているが、駅周辺は商業化が進んでいるような駅の徒歩〜自転車圏(徒歩25分くらいまで?)が選ばれやすくなる。関東だと船橋大宮浦和とか、関西だと北摂阪神といったところ。今でもそこそこ人気のエリアではあるが、23区や大阪市内じゃなくてもいいやという人は更に増えそう。駅まで行けば大体のものは揃うし、日々の買い物なら近所のスーパー等で事足りる。リモートだからって生活のことを無視してド田舎に行ける人はそうそういないだろう。
・間取りについて
一人暮らしなら机と椅子を置くスペースが取れればあまり気にすることはないが、家族がいれば書斎がほしい。書斎は無いにしても寝室に机と椅子に置ければなんとかなるかな。リビングなど共有スペースで仕事をするのはなんとしても避けたい。そうなると家族構成にもよるが80m2以上は確保したくなる。駅近60m2台のマンションではキツい。接触を減らすためにリモートワークをしている現状だと本末転倒と批判された貸スペースもコロナ後ならなかなかの需要がありそうだ。
リモートワークでは通信環境はかなり重要だ。賃貸の無料インターネットのカスさに改めて気付かされた。無料でなくともマンションでは在宅勤務が増えれば速度低下の可能性が高い。ゆくゆくは5Gやそれ以降の無線通信でリモートワークできるようになるかもしれないが、今のような従量課金に近い料金体系だと恐ろしいことになりそう。できれば戸建てで光回線引いておきたい。
・家の快適性
家で仕事をするようになるなら快適性の優先度も上がる。特に寒さ暑さはできるだけ緩和しておきたいし、こたつで仕事をしようもんなら腰が逝く。エアコンフル稼働させるにしても電気代が結構変わるはずだ。となると立地と築浅どちらを取るかとなったときに築浅に流れる割合が増えそうである。今まで持ち家ではそこそこアピールされていた断熱性気密性が賃貸でもアピールポイントとして持ち上がるかもしれない。賃貸でもアルミサッシが廃れていくならいいことだ。
・持ち家か賃貸か
COVID-19を経験して借金リスクを避けようという考えで賃貸派が増えるかもしれないし、リモートワークが普及すればどこに住んでも働けるからトータルの住居費が安くなる持ち家派が増えるかもしれない。今は前者が圧倒的に多いだろうね。
ここまでなんとなくの考えを垂れ流したが、私自身は去年に住宅購入を考え始め、こんな状況になる前に方針をほぼ決めてしまった。幸い上記の条件はそこそこ満たせてるので一安心といったところ。書斎は無いがしかたない。
緊急事態宣言が全国区になったので、行きつけの図書館が休館になった。
休館になるのは火曜日からなので、すぐインターネットの蔵書検索で
好きな作家や気になっていた本をまとめて予約。
図書館内に在庫があるものだけ予約したので、次の日には予約が完了。
後は手元にあった本を返すのと同時に、予約した本をカウンターで受け取って
さっさと退散。
駆け込み貸し出しとでも言うのかな。
下手すると2ヶ月分の月収が飛ぶ金額になる。
ちなみに去年は200冊以上読んでた。
そして何よりも、買った本を読まない傾向が私にはある。
学生の頃からずっと図書館で本を読んでたからか、本は買うよりも借りるもの。
貸し出し期間中に返さなきゃいけないっていうプレッシャーがあるから、
読むペースは早いし、確実に読もうとする。
たまに図書館にない本を買ったりするけど、何ヶ月も放置することが多い。
それに正直、こんなん借りなければよかったと思う本もあるので
それにお金をかけることを考えると、無料の図書館はすごく大事。
あと何よりも、紙の本を好きだけど、いちど読んだ本を手元に置いておくのも
なんか嫌。
買った本を読んだらすぐに古本屋に売るし。
節約系の本で、書籍代はケチりません、という話もよく聞くけど、
本に書き込む趣味はないし、もう一度読み返すこともあまりない。
記憶に残らなかったのは、自分には必要ない内容だったからだと割り切っている。
なので問題集など、書き込みが必要なもの以外は、基本的に買わない。
予約待ちで確かに200件とかもあったりするけど、数ヶ月もすれば手に入る。
最新情報はインターネットで、小説の新刊だったら、数ヶ月僕でも全然構わない。
常に、数ヶ月前に予約した読みたかった本が、図書館のカウンターで待ってる。
コロナの影響で、シェアリングサービスが打撃を受けていると聞いたけど
図書館は生き残って欲しい限り。
4・トイレ自動便ふた開閉・洗浄は必要/不要→感染症対策に自動便ふた開閉・洗浄は必須
6・1階リビング電動シャッター必要/不要→必要。なかったら不便極まりない
新型コロナ騒動前に、頭金918万円+諸費用で購入した新築マンションを売却
→今年3月に新居購入(頭金116万円+諸費用)で、世帯の手元キャッシュが約800万円増えた。
3月〜4ヶ月の1カ月間に限ると、太陽光パネルの売電>電気代で、他の固定費アップ分と差し引きゼロ。
たぶん賞与はないが、リモートワーク移行で通勤手当がなくなり、
もともと宅配ボックスのあるマンション(駅チカ)から戸建て(駅遠)に住み替えるにあたり、
無印良品などでいろいろ買い込んでいたので、外出せずとも1年くらい十分に暮らせる。
怖いくらいの予想。ただ、やはり駅遠戸建ての閉塞感は半端ない。
(センター試験で話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)
底本:原民喜戦後全小説 下(講談社文芸文庫)1995年8月10日第1刷発行
I
私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫の魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老いた母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。
その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかに、もっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初「孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。
彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身の青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予で最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。
岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものをノートし、まず文体の研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。
それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。
私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのものを顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部に入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人と同棲した暁には、染料の会社を設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである。
日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線へ派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞の第一面、つまり雑誌や新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見たものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院で殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。
岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。
たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌に掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初の召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京で文化方面の役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズは役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。
既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活に飛込んだのだった。ところが、その相手は資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである。
II
私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに、満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇のほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。
私は妻の遺骨を郷里の墓地に納めると、再び棲みなれた千葉の借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃である。サイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである。
私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉の借家へ移った時のことである。私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それからは殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。
私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラと千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴムの長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。
「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。
「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、
「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。
その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。
私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日、八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋の小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊の姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好がおかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋の小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから、豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。
目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたとそっくりの写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。
冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥は簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。
翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真が満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。
その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体で台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである。
そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服の青年が歯医者に挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年も助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。
それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲の吏員に就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後の消息であった。その後私の妻の病気は悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。
その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。
あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境や機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか。親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客の歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅の作品の暗い翳を思い浮べるのであった。
子供が生まれて高い高いアップル製品をこれからも買い続けられるのかという不安のためだ。
とはいえ、iPhone、Macbookair、iPad、AirPods、Apple Watchとアップル製品に支配された生活を止めるのは面倒そうだ。
では、パソコンだけでもWindows製品にしようかな。。。と。。。でもどれ買ったらいいかわからんな。
DellのGシリーズかレノボのE595がいいか。あれ、そもそもPCゲームしないからそんな高スペックのPCいらないよな。
じゃ、ゲーミングPCは除外か。じゃ、レノボ買う?いやーちょっと仕事場っぽいデザインであんまり好きじゃないよね。
買うならiMacかなー。でもiMac家にあっても毎日使ってるかな、しかも一箇所に固定でしょ?いろいろな場所でPCは使うよね。
書斎でも使うし、リビングでも使うし、寝室でも使う。ということはMacのノートか?何買おう、Air?Pro?いやーAirはもう
持ってるよー、でもlate2012だからLetinaじゃないよね。でもAirは買ってるから次はProにしようかな。じゃ13インチ?いや
持ってるAirが13インチだからね。それと同じ画面サイズじゃインパクトないでしょ。じゃ最近出た16インチか、よし決まり!
え、30万円するってー!!あら、そんな高い物買う必要ある?そもそもPCはAirがあるぜ。。。でも昔に買ったやつだからなー
買い替えたいよなー、でも30万は高い。。。脱Appleしようかな。。。
以下延々ループ。
何がしたいんだ俺?なにか消費行動がしたいのだろうか。
20年アメリカで働いて、アパート・タウンハウス・戸建てと住み替えてきました。
一気に全部書く気力が多分ないのでちょっとずつ更新するつもりです。
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地域はアメリカ本土の左上の方、ノースウェストです。もう少し北に行くとカナダです。
そこの大都市近郊に住んでいました。
大都市までは車でフリーウェイに乗って10分から20分てところです。渋滞じゃなければ。
シリコンバレーなんて地獄のような住宅価格と聞くけど実体験としては書けない。ので書きません。
いわゆるSingle Family House。自分が居た地域ではこのタイプが上がりだけど何度も買い換えて引っ越す人はいます。
子供が居なくなれば小さい家に買い換えるしそのときは足腰が弱っているから平屋が人気。
新築より中古を買うのが一般的。というか新築だけでは需要が満たせない。
家を売るとき、よほど何かなければ買ったときより高く売れます。
自分の場合新築で買って約10年後に売ったけど50%増しで売れました。しかもこれ相当売り方が下手糞だった。(売れる季節を逃すしほんの数百ドルカーペットのクリーニングををケチったせいかかなり見込み客が減った)。
住んでたのは特に贅沢な家じゃなくて
家の床面積は大体270平方メートル。感覚的には平均よりちょっとだけ広いかなと。土地はおよそ780平方メートル。土地は狭いほうです。
フロントヤードに芝生が張ってあって、バックヤードも最初は芝生だったんだけど手入れが面倒でウッドデッキとレンガを敷き詰めたスペースに変えてしまいました。工事に2万ドルぐらいかかりました。
フロントヤードも最初は自分で芝を刈ってたんだけど忙しくなって手抜きになって周囲の家から顰蹙を買ったので業者を入れて週一で刈ってもらってました。1ヶ月で$200ぐらいだったかしらん。
クローゼットが付いてる。個人の部屋になる。カーペット敷きでした。
一部屋6-8畳ぐらい?
あとアメリカのベッドは意外と小さめ。背が高い人は足が飛び出るんじゃないか?
玄関を入ってすぐの左手にありました。ドアがガラス入りで中丸見え。カーペット敷き。8畳ぐらい。
いわゆる居間ですね。リビングルームが来客用でファミリールームが家族用となってると。
トレンドはリビングルームの縮小、ファミリールームの充実。そりゃ家族だんらんの部屋の方が大事だよね
カーペット敷き。
暖炉あり。停電したらこの暖炉が命綱です。あ、ガスを燃やすタイプでした。
もともと寒い土地柄(北海道と同じ緯度)なので暖房しか必要なかったんですが、地球温暖化の影響で最近暑くなってきたんで、冷房をつける人が増えてきました。既に家に備え付けてあるセントラルヒーティングにのっかる形で各部屋を冷やす感じです。$5,000ぐらいから。
年々冬の嵐も激しさを増してくる、つまり長期の停電が増えてきたということで、自家発電装置を備える人が増えました。
簡単なやつなら$1,000しないで買えるしそれで暖房が効いて明かりがともるならいいよね。
寒い土地柄なのに一旦停電すると暖房が使えなくなります。暖房の燃料は都市ガスなのですが燃焼の制御回路に電気が必要みたい。これは本当に死活問題です。凍死しちゃう。ですが、暖炉が広く普及しているので凍えるところまではいかずにすみます。
ところがお湯はずっと使えます。給湯の主流は温水器です。燃料はガスですが電気回路で制御されているにも関わらず。なぜなんだろうとあるとき気になって調べたら、温水器の制御回路にも電気は必要ですが最近の温水器は「温度差発電」で電気を作るんだそうです。給湯器の中のお湯と外から供給される冷たい水の温度差で発電するというわけです。
十年一日のアメリカの家電ですが、これだけはなかなかやるなーという。
ちなみにお金持ちは湖沿いのお金持ち専用なエリアに家を買います。たいてい中古です。めちゃでかい家だし高いけどな。
知り合いに数人いました。何度か御呼ばれしたけど豪邸ってのは豪邸よ?すごいよ。
ちなみにお金持ち専用の市まで作っちゃって(またそれは別の話)。
需給が逼迫しているのでどんどん高くなっているようです。
また気が向いたときに続きを書くね。
先月、日本国有重工業清算事業団の資産整理の一環として放出されたタクトスイッチ、T-303(黒)。
私には入手できなかった。今回の放出分、32510台は完売したそうだ。今後の発売予定分もすでに予約で完売という。
私が生まれるより以前には多くの趣味人口が在った分野のようだが、昭和99年の今では古臭い趣味として認識されている。
世代の違う親に言わせれば例えば、切手収集みたいなもののように映るようだ。
デザインや絵柄しか違いのない切手に比べたらスイッチには、筐体を形作る樹脂の手触りや質感、眼に映る色、端子の鈍い輝き、そして何と言っても機種による様々なクリック感。
大きなものではなく、嵩張らないので例えば自動車のような趣味と比べ所有するのに場所をとらず、多くの種類を所有できるのもいい。
採取した昆虫を陳列するよう離れの書斎に並べてある私の多くのコレクションのうち、気分で選んだお気に入りのスイッチを手にしてその感触を味わう。
冬の暖かい部屋のなか、柔らかな椅子にくつろぎラヴェルの録音を再生する。
そしてその単調な変わらないリズムに合わせ、スイッチを左手に取り、クリック。
午後は、そうした至福の時間を得て過ぎた。
この、スイッチ収集という趣味の市場は世の中に、昭和初期に急に現れたらしい。
どういうわけかは不明である。はじめは細く好事家の間での国の生産計画の情報交換などの会合や、あるいはコレクションの展示会、交換会などが行われていたようだ。
国立国会図書館に存在もするその会の名簿を調べると、参加者には国防機構内のテクノクラートや財閥系の重工業企業の社員の名前の存在が目立つ。
そしてその趣味の市場の人数規模は、この頃では大きくは、なかったようである。
その後、先の大戦中の国家高揚のなか、敵性語であるのでスイッチとは言わないがこのころではすでに開閉器収集というジャンルの趣味が市民の間には広く存在した。
昭和15年2月 東亜開閉器公社発行の、季刊開閉器句報創刊号も私のコレクションの一部だ。
スイッチを手に遊ばせながらブラウン管から聞こえるニュースに耳を寄せると、本営の報道官が伝えている。
先週も三沢基地より、北の方向への弾道ミサイルが2発発射された。
ニュースはヨーロッパ共同体の経済状況に続けて本営、および日本原子力研究製造開発機構の広報官らによる記者会見を写している。
先ごろ国会を通過した法案、憲法66条2項の改正を適用した結果の条項は、兵器を発射する装置を制御する管制官の責任は日本の行政システムの中には存在しないよう、恣意に解釈できるようだ。
一度外れた箍を再び同じにはめることが難しいことと同じように、多く憲法が改正される機会のある今日ではあまり興味のない類のニュースだ。
古くからのスイッチ収集家の私から見たら、必要は感じられないのだが最近のスイッチの内部にはただのスイッチ以上の何らかの機能もあるようだ。
また、市民用通信網上に在る、政府の機密に近しい噂のあるページによると、スイッチ部品の販売元は各民間商事企業ではあるのだが、製造は全て国が一元して行っているという話も見る。
製品の処機能が増えるならば趣味の幅が広がるしまた、国が管理しているのならばその製品の品質も安定するであろう。
→制服による。営業マンならクリーニング必須だし自宅洗いならノーアイロンウォッシャブルワイシャツ買い揃えたらアイロンいらなくね。
・冷蔵庫
→野菜室要らないのは男性らしい。冷凍庫おおきめかむしろ冷凍庫+ペルチェで寝室ビールという手も。 耐熱天板って普通そうだろ
→男性は揚げ物が好きだろうから最初からヘルシオにしたら電子レンジもトースターも揚げ物マシンも1台ですむけど
・カーペット(2階なので防音)
→掃除機しっかりかけようね たまに連れ込んだ女の長い髪の毛はすぐ繊維にからみつくぞw あと夏は暑いぞ
遮光しすぎると日周期リズム崩れるからあけしめ楽なやつね、雨戸きちんとあけしめするならレースの目隠ししか要らないという話もある
・机・ハンガー・タンス・本棚は生活が落ち着いてから買う(大きすぎて邪魔・小さすぎて買い足すような羽目にならないようにする)
→インスタントカップ麺のためのティファールポットも余ってたらもらってこい
以上が必需品?
それとは別に疑問点として、
・2LDKだが、1ルームは和室なのでどう使う?(和室は完全に生活空間として使い、洋室は書斎(?)として使うか?)
→倉庫になる
→10センチ角の板をどこからかもらって足に敷く なければ100円ショップで探す
・引っ越しの挨拶はした方が良いか?また、どういったものを持っていけばよいか?(「洗剤・食品はNG。商品券とゴミ袋のような消えものが定石だ」と聞いたことがある)