はてなキーワード: 山崎ナオコーラとは
『子ども向け番組に感じた違和感の正体…ヒーローと悪役の見た目から考えるルッキズム、山崎ナオコーラさんに聞く』
https://news.yahoo.co.jp/articles/1f4617873399c61edb2f30eb519e6312a2aa7d3e
ツッコんだ時点で負けのようなガバガバ論だったが、やはり突っ込まずにはいられなかったのでツッコんでおく(敗北)。
山崎さん(以下敬称略) 日本の子ども向けのアニメ番組や戦隊ヒーロー番組などでは、悪役のキャラクターが黒っぽい色で表現されたり、目を細くつり上げられていたり、歯がギザギザとがっていたりすることがまだありますね。このように、外見とキャラクター(悪者である、といった性格や設定)をひもづけるのがルッキズムです。
お手本のようなガバ論。
この特徴で真っ先に思い浮かんだのは「Go!プリンセスプリキュア」のクローズ(https://www.toei-anim.co.jp/tv/princess_precure/character/close.php)。
彼は悪役らしい見た目に違わず第1話から主人公・キュアフローラの敵として登場するが、しかし最終的にはフローラと対になる存在としても描かれ、彼女に新たな価値観を与え、ある種爽やかなエンドを迎える。
「悪そうな見た目の相手はやっつけてもいい」ではなく、寧ろ、「一見悪そうな見た目に見えても独自の流儀を持ち、時として主人公サイドに劣らぬ価値観を持つ」ということを象徴するキャラクターである。
『善と悪は戦いながら 終わりのないメビウスの輪 正義だって立場で変わる それが現実なんだね』(クローズが所属する敵組織のキャラソン「Perfect Black」から引用)
上記の山崎ナオコーラ氏の論に従うと、悪役キャラを悪役的な記号で示すのがそもそも間違いだということになるが、それは逆に危険な考えではないのか。
大切なのは「見た目に関わらず、作中で重要な役割を持ち、活躍する」ことである。
悪役らしい見た目のキャラが単に倒されるばかりの作品ならば議論に値するかもしれないが、現実の子ども向け番組はそうではない。寧ろテンプレの悪役キャラの方が珍しく、皆何かしらの主義主張や背景を持ち、既存の価値観に一石を投じていくことが多い(時には喋らぬ怪獣すら)。
また、子ども向け番組では子どもが一見して味方と敵を判断しやすくするために、製作の都合上使われるカラーリングが統一されがちであるということも付け加えておく。
次。
子供向けのアニメや特撮ものも、一見外見が良く、正義の見方と思われるキャラが、悪者って言う展開も、子供の教育上必要だと思う。
ヤフコメより引用したが、これはそもそも書いた人間の認識が間違っている。
一見正義の味方に見えて実は悪者であるというキャラクターが子ども向け番組にどれだけいることか!
例として最もわかりやすいのは「仮面ライダーゼロワン」より天津垓だろうか(https://www.tv-asahi.co.jp/zero-one/cast/gai.html)。
作中では大企業・ZAIAエンタープライズジャパンの代表取締役社長であり、白基調の服装でクリーンなイメージ、言動も丁寧。
変身した姿・仮面ライダーサウザーも金色で王道にかっこよくデザインされており、動物のモチーフには子どもに人気のコーカサスオオカブトが使われていて隙がない。
作中では、洗練された社会人である天津に対して、新米の社長である主人公の言動の粗が目立つというシーンも存在した。
ゼロワンだけでなく、実は悪者であるというキャラクターはそこら中におり、もはや子ども向け番組のテンプレの1つと言ってもいい。
批判したり、提案をするならせめて事実に基づいてしてほしいところである。
存在しない事実を挙げて教育を憂う人は一体何と戦っているんだろう...。
ということで自分から一点、子供向け番組とルッキズムに対する問題提起をしておく。
上でも紹介する仮面ライダーゼロワンでは「ヒューマギア」という、人間によってつくられた人間そっくりの人造ロボットが多数登場する。
ゼロワン世界ではこのヒューマギアが一般流通して社会を支える歯車の1つになっているのだが、一覧(https://www.kamen-rider-official.com/zukan/character/1749)を見るとしばしば既存の価値観の再生産のような見た目のヒューマギアもいる。
「白衣の天使ましろちゃん」は素直に捉えれば「看護してもらうナースは美人でかわいい方がいい」という願望を反映した見た目・ネーミングだと考えられるし(他のヒューマギアはこんなにキラキラした名前ではない)、ラッパーと言えば黒人でアフロだぜ!と言わんばかりの「MCチェケラ」などもいる(他の職業のヒューマギアは殆どが一般的な日本人の見た目)。
前述の通りこのヒューマギアたちは人間によって開発された「商品」であり、これらの価値観がゼロワン世界で意図的に再生産されているというのは、議論の余地がある点かと思う。
私のプライムアカウントでログインしているので家族の履歴が共有されるがまあかまわんだろうと思っていた
定年後の暇つぶしにでもしてくれればと思っていたのだが
「視聴履歴に基づくおすすめ」に「奈緒26歳不倫の果てに」を見たあなたに、とか「主婦の秘蜜」を見たあなたに、みたいなびみょーなエロ映画を見た痕跡が出てくるようになった
娘と共同で使うのがわかってる機材でなぜそういうのを見るんだ父よ…中学生じゃねえんだからさあ…リテラシー低すぎるだろ…
と思いつつも今日まで見て見ぬふりをしてきたのだが
今日「人のセックスを笑うな」を見たあなたにおすすめ!と出てきてさらに悲しくなった
父の趣味からいって山崎ナオコーラぜったいに知らないし出てる役者もぜったいに興味ない
エロ期待して見たやろ…たいしてエロくねえとおもうよ私は見たことないけど役者の顔ぶれ的に…
太宰とか夏目とか有名どころの小説ばかり持ち上げ権威のない作品を鼻で笑うようなところがあってそこは嫌いだったけど
父の書斎の本棚に詰まっていた本があったから私は読書や映画が好きになれたのも事実だ
だいたいあのクソ田舎で書斎と本棚のある家を作ろうとした時点で立派なもんだと思う
なんつうかエロとか直接的な刺激じゃねえと気持ちが動かないんだろうな
でもこんな浅はかな姿見せてほしくなかったぜ
そういや昔PCにエロ動画広告出まくってたから黙々と消してあげたこともあるんだよなあ
世間的にも結構早い段階でPC買ってくれたと思うけどネットリテラシー低いんだよな
父よ
昨夜、風邪による発熱にうなされながら思ったこと。
人がなぜ恋愛をするのか?という問題について考えると、自信満々でこう答える人がいる。「性欲に決まってンじゃんかよ」と。
その人は、僕の友人だったり、ネット上の赤の他人だったり、僕の心の一部分だったりするのだけれど、それは間違っている。
なぜ間違っているかと言えば、確かに人が恋愛を始める原初の動機は、性欲である場合が極めて多いが、物事の大本にある物がその全てであるとは限らないのである。
異性に対して、おっ、こいつなかなかええやんけ、と思うだけで、恋愛がはじまる条件は揃うが、後にその恋愛が成就するためには、様々な問題をクリアーする必要があるわけで、個々の問題に対する動機付けが性欲でない場合も大いに有り得る。問題とは、具体的に言えば、相手や自分の心の問題、第三者との関係、金銭面の事など。
恋愛とはそうやって、パートナーその者に対する「以外の」動機付けがあるからこそ成り立つ。もし恋愛がパートナーとの一対一の関係のみに深化してしまうと、色々ヤバイ。身近でヤバくなった人の話を聞いたことがある。僕がそんな事を考えたのは、新潮12月号に掲載された山崎ナオコーラの小説を読んだからかもしれない。
第一、全てが性欲で説明できるなら、一生自分で性欲処理していれば済む話だろう。
んで、僕が恐ろしいと思ったことは一対一問題についてでは無かったりする。話が逸れて申し訳ない。僕が言いたいのは、おっ、こいつなかなかええやんけ問題についてである。
僕が、ええやんけ、と思うのは、その原初は性欲であることが多いのだけれど、でも性欲で物事を決めるのはそれは畜生にも似た浅はかな行為であるような気がして、性欲以外のポイントに目をやろうとする。
そうすると、僕の性欲とは一見無関係な、その人の魅力が見つかるのだけれど、もしかしてそれは僕のええやんけが、その人の変哲のない部分を魅力に見せているのではないか、性欲補正がかかっているのではないか、という疑念が心から離れなくなる。恐ろしい。
もっと恐ろしいのは、僕が天然に、自然に気づいた人の魅力と、性欲補正によって見いだした人の魅力、その二つの区別がつかなくなってしまうという事。
一体どうすればいいのか。っていうか、本当にそんな事が起こるのかどうか。それすらもわからないし、そんな妄想をしていても、恋愛は出来ない。まぁ、出来ない分には構わないんだけど。
別に常日頃からそのような妄想にかかずらわっている訳では無いけれど、そんな事を一分一秒でも考えている間にも僕は世間から取り残されていっているような気もして、それもまた恐ろしい。
最近では、そんな妄想を文章に出来るようになりたいと思って努力したりしているのだけど、どうなんでしょ。まぁいいや。ちなみに僕は関西人じゃありません。