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2019-08-15

Midas先生あいちトリエンナーレ表現不自由展」を語る

どうもMidasファンです。

面白かったのでブクマをまとめました。

https://b.hatena.ne.jp/Midas/

芸術政治化」ではなく「政治芸術化」こそが問題



 もう少し左翼好意的に言っておくとこの件(「消すぐらいならやるな」と憤慨してるひとがいるように)「政治政治ちゃんとやれよ(天皇制を打倒したいなら『表現の自由w』とか言ってないで現実で打倒しろ」につきる。めざすべきはあくまでも現実世界での天皇制廃止ないしは社会改革であって展覧会で「これがボクたちの考えた芸術です」は単に『表現w』の世界へ逃げこんでるだけ(「現実では何も変えれない」敗北宣言にこれも等しい。

 このへんの不純さ、不誠実さが(右翼のみならず)いわゆるノンポリのひとたちの嫌悪感を誘ってるのは疑いないので。結局「歴史上の人物から問題ないですよね」がいまだに大失言だと気づいてないのはそういうとこ。「これは表現の自由だ」が『政治』になりうるためには当然ながらそんな2代まえなんかの肖像いくら燃やしてもアクチュアリティのかけらもないわけで(「歴史上」は「ノーカン」でしかないので)いまの天皇を燃やすべき。ところが令和の陛下が犯した悪行といえば柏原芳恵ラブレター書いたのと嫁の生理があがってオトコみたいなツラになったくらいしかないのであってその責任を問おうにもポイントがみつからない(お人柄もいいらしいし。

 「2代まえのひとだから(歴史上の人物なので」と『表現の自由』だけを切り分けようとするほど政治的には効力を失ってしまうというジレンマがある。「いいかな?」とか言ってる場合ではないのである。かんたんにいうと今回の件が決定的にダメなのは(ちまたで言われてるような)「芸術政治化(本来ニュートラルであるべき美術世界稚拙プロパガンダ芸術をもちこんだ」からではなく逆「政治美術化した」から

 政治美術化とはいうまでもなくファシズムの最も簡潔な定義なので。政治美術館での鑑賞の対象にするとは現実世界矛盾一見みんなで共有してるようでその実は単に審美的判断をくだすだけ。くり返しいっとくが政治ギャラリーでの鑑賞の対象にして「考えさせられました…」とか言ってるのは現実改革あきらめたしるししかないのである政治展覧会ネタにしてはならないとはそういうこと。



表現不自由」よりも「差別排除時代」の方が問題



 たぶんガイジンさんには今回の「表現の自由」いったいなにを争ってるのか全く理解できてないと思う。ちなみに「表現の自由がー」必死に言ってる連中もこれが極めて日本的な『どこに由来してる』か自覚してない。

 (まさかと思うかもしれないが)この『表現の自由はいわゆる『朝日的な』もの(サヨクん)ではなくルーツ雑誌ぴあ』にある。町山が「はあ…昔の『ぴあ』はよかった…」言ってたのを軽くみてはならない。日本の68年以降の文化史ではそれまで『朝日ジャーナル』を小脇にかかえて歩くのが学生さんヤングのひとたち『かっこいい(政治意識がある』と言われてた。雑誌ぴあ』はまさに『朝日ジャーナル』の次にあたる。朝日ジャーナルにかわってこんどは『ぴあ』をかかえて歩くのがかっこいいヤングの条件(ちなみに朝日ジャーナルのまえは『平凡パンチ』とか)になった。『ぴあ』がかっこよかったのはいわゆる『情報誌』だったから。

 ロードショーから場末ポルノ歌舞伎展覧会にいたるまで情報を『差別』せずフラットに扱った最初の例が雑誌ぴあ』。フラットに扱うとは『価値判断をしない』。ただしこの『価値判断をしない』がくせものであって…「町山さいきんクソサヨクなっちゃってどうしたの…(脳に毒がまわったのかな」ふしぎに思ってるひとも多いが情報コンテクストにおける『価値判断しない』は結局は「愚弄する(冷笑する。もちあげない」なので津田やあずまくんにしてみれば「まさかこんな反発くらうとわ…」なのもまあわかる。あの「歴史上だから、まいっかと思って」もホントだったら慰安婦像つくったひとにむしろ「ふざけんな!」言われてるべき態度。

 慰安婦像つくったひとは(わたしにいわせればデタラメもいいとこだが)マジで日本人よ…はんせいしろ」思って(たぶん)あれつくってるので。津田やあずまくんがやってた「表現の自由」実はそこまでの政治性はない。

 雑誌ぴあ』が今週おこってるいろんなイベントおもしろおかし無差別にとりあげれたその点において表現自由だった(ロマンポルノのとなりにハイソ演劇が並んでてよかったね自由社会で)くらいのニュアンス。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。

 高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに侮辱だ」思うのもまた自然ことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに侮辱だ」思うのもまた自然ことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。

 みんな(とくに憲法がくしゃとか)大いに勘違いしてるけどこれ要するにそういうことなので(どうしてこんなかんたんなことがわからんのだという感じ。なぜそうなるかというとつまるとこ『インダスリー』のもんだい。たとえばこんかいあずまくんいきなり前言ひるがえしたりして「なんなのこのひとは…(このていどのこと最初からわかれよ」思うひともたぶんたくさんいるはずだが別に彼らに一貫したものなどありはしないので、こないだまで河村disってたはずのあずまくんいきなり「津田がわるい」になるの丸山ぎいん「みなさんNHK受信料はらうのは国民のぎむ」からの「NHKぶっこわす!」入りと全くおなじ。

 インダスリー問題とはすなわち文化産業問題であり雑誌ぴあ』の「表現の自由」が成立してたのはみんなが中産階級だと思ってたから。永六輔とか旧NHKこうした平等社会の構築に焦点あわせてたしこの環境産物。こうした文化産業の仕組み(従事してるひとたちも含めまだ巨大なインフラが半ば廃墟と化しながら残ってる)いまどきこれでやってけるはずない(もう残念ながら時代おくれ)と誰もが思ってるのは確かなので。

 若干専門的な話でしめとくと(もうネットにたくさんいる情報産業のひとにとっては常識だろうが)おどかすようですまないがこれからは「情報フラットに」ではなく「差別排除」の時代なので(あれこれいってもムダ。差別排除とはゲートキーパーが誰をはじくか決めてその(誰でもゲットできるはずの)情報へのアクセス権がそのひとの社会的な地位をしめすアレ(要は「ブロックだ!」「不可視にする!」みなさん楽しそうにやってるやつ。

 表現の自由なんかよりそっちのほうがよっぽどだいもんだいじゃないの?wという感じだが世の中よくできたものホント重要なことは展覧会テーマになんかなったりはしないのである(みんなのメシの種になってるから

2013-05-12

http://anond.hatelabo.jp/20130511224233

オッス、元増田です。ご検証ありがとう礼儀としちゃ言うべきなんだろうけど、そんな話じゃないんだけどなーという印象。

「僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね」は主語が大きすぎてなんともですが、個人的には少年チャンピオンで「ブラック・ジャック」終了後も「七色いんこ」や「ミッドナイト」はよく読んでました。「ゴブリン公爵」は忘れてください。

また手塚クラスになると過去の名作に触れる機会も多く、「火の鳥」(「太陽編」の前まで)は朝日ソノラマ版で読んだし「ブッダ」も床屋で読みました。

ここで全称命題の話にしますか(笑)前世代、前々世代比較すればあながち的外れ考察でもないと思いますけどね。もちろん統計データなんてありませんけど、クラスほとんどが読んでいた、半分くらいは読んでいた、5人くらいは読んでいた、と比較すればほとんど読んでいないという大きな主語は、この場合、個人的にあれも読んでいた、これも読んでいたというのよりはよほど実態に即していると考えます。それともそれこそ何か統計的なデータでもお持ちでしょうか。

1971年生まれで、チャンピオンを追いかけている人は相当稀少だったのではないでしょうか。何といっても同時代的には「ドラゴンボール」「北斗の拳」「聖闘士星矢」「キン肉マン」などのジャンプ黄金時代だったわけですし、6割ジャンプ、2割マガジン、1割サンデー、残りの1割でその他というのが実感です。70年代黄金期を過ぎてのチャンピオン凋落ぶりは言うまでもなくて、看板作品でも老若男女誰でも知っている作品というのがもうここ30年ないですよね。

たとえば週刊ポストには「弐拾手物語」が長期連載されていましたし、週刊プレイボーイ本宮ひろ志の「俺の空」を載せたり平凡パンチ岡崎京子の「ジオラマボーイ パノラマガール」を連載してました。

漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね」は勇み足というか、元増田の興味に引っかかるのが「アドルフに告ぐ」だけだったもの想像します。

いやまあ「一般雑誌」は週刊朝日週刊新潮週刊文春のみというなら別ですが。

ま、これは確かにそうですね。一般週刊誌は文春、新潮朝日のみというのが感覚的には正しいと思います。この三誌とそれ以外では、オーソリティがまるで違うからです。この三誌がクオリティマガジンとは言いませんが、WILLに連載するのと、中央公論に連載するのとでは全然意味が違うのと同じです。ロッキード事件リクルート事件など社会的な問題でたびたび尖兵となってきた雑誌と、スポーツ新聞に毛が生えたような雑誌とでは社会的意味が違います。それは現在に至るまで、掲載されている作品の内容でも歴然と異なります

特に80年代は、週刊文春花田体制の下、絶頂期にあって、100万部を毎週越えるような規模としても内容としても一軍でしたから、基本的には政治経済、時事的なトピックでそれだけ中心的に扱われているメディア漫画が乗った(プレイボーイならいざ知らず)ということ自体がトピックであったという意味で、アドルフの例は出しましたけどね。ただしアドルフ以後、この三誌での漫画連載は定着しませんでしたが。

ブコメで「サンコミックス昭和40年代に出るまで単行本ハードカバー普通、ただし人気作しか単行本化されなかった」とあります

80年代記憶でいえば「のらくろ」の復刻版がハードカバーで出てました。

純粋ハードカヴァーの作品自体であれば貸本屋漫画は基本的にハードカヴァーでしたし、店頭でよく見かけるものとしては、学研の「ひみつシリーズ」もハードカヴァーでした。ただしサンコミックスなんてほとんど誰も知らないように、社会的景色の話ですからマニアックな話をしてもしょうがないわけです。平積みにされて、多数の人が「おお、漫画ハードカヴァーになる時代なんだな」と認識することが重要であって、消費物としてではなく作品としての漫画芸術としての漫画という意味合いを一般化したのは手塚がやはり尖兵であったという、そういう話です。「火の鳥」と「のらくろ」のどちらが先なのかは分かりませんが。


赤塚さんはあと、コロコロでは「花の菊千代」を連載しています。その後、ボンボンでも何作か連載していますが、知る人ぞ知るという程度の作品で、連載作家として仕事はしていたわけですが、雑誌の主力になるようなパワーはなく、その仕事自体が大御所としての余暇的なものであったと思います

2013-05-11

手塚治虫などについて

http://anond.hatelabo.jp/20130510192931

1971年生まれが事実関係を指摘するエントリです。

手塚マンガを読んでいない世代

「僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね」は主語が大きすぎてなんともですが、個人的には少年チャンピオンで「ブラック・ジャック」終了後も「七色いんこ」や「ミッドナイト」はよく読んでました。「ゴブリン公爵」は忘れてください。

また手塚クラスになると過去の名作に触れる機会も多く、「火の鳥」(「太陽編」の前まで)は朝日ソノラマ版で読んだし「ブッダ」も床屋で読みました。

マンガハードカバー

ブコメで「サンコミックス昭和40年代に出るまで単行本ハードカバー普通、ただし人気作しか単行本化されなかった」とあります

80年代記憶でいえば「のらくろ」の復刻版がハードカバーで出てました。

一般週刊誌に連載されたマンガ

たとえば週刊ポストには「弐拾手物語」が長期連載されていましたし、週刊プレイボーイ本宮ひろ志の「俺の空」を載せたり平凡パンチ岡崎京子の「ジオラマボーイ パノラマガール」を連載してました。

漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね」は勇み足というか、元増田の興味に引っかかるのが「アドルフに告ぐ」だけだったもの想像します。

いやまあ「一般雑誌」は週刊朝日週刊新潮週刊文春のみというなら別ですが。

余談

このエントリを書くにあたって事実関係を調べるためにWikipedia手塚治虫やその作品、藤子不二雄赤塚不二夫などの項目を読んで懐かしい気持ちになりました。赤塚不二夫コロコロコミックの連載が「チビドン」だなんてすっかり忘れてましたが画像検索で思い出しました。

日本人共同幻想体をシェアしてた」という表現はまさにその通り。

元増田がどういう心境で元のエントリを書いたのかはわかりませんが、この年になるとこうやって昔をふり返るのも悪くないものです。

2009-02-11

エロ本主義を超えて

非正規労働者雇用問題の影響で最近下火になったものの、一時期「日本若者の意欲が減退している」という指摘が相次いでいた。

 →消費社会における若者労働意欲http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2008_13/fea_uchida_01.html

資本主義社会ならぬエロ本主義社会のもとでは、適切にエロが配分されることが社会進歩する上で欠かせない。「努力し、成功を収めた者がモテて適切なエロを受け取ることができる」、そんな流れがあるからこそエロ本主義社会は発展する。特に金銭的な価値感が否定されがちな日本では、資本主義ではなくエロ本主義こそが戦後経済成長を支えてきたと言っても過言ではない。だからこそヨーロッパのように「努力エロにつながりがたいストイック社会」を凌駕できたのだ。

しかし今、エロ本主義社会が崩壊しつつある。動画サイトの登場で、努力せずとも低コストで容易に質の高いエロを手に入れられるようになったのだ。かつては大国の支配者でもない限り、100人単位ハーレムを構築することは不可能だった。しかし今日日本では、異性100人分のエロ動画など中学生でも1日で集められる。

質の高いエロコンテンツへのアクセス障壁がなくなりつつあることが、リアルエロへの関心を薄めている。飲み会旅行に行く背景には「モテたい」という感情がうっすらとある。しかし、エロコンテンツへのアクセスが容易になった現在、「エロを求めて、わざわざ飲み会旅行に行くのはメンドイ」と若者が考えるのは自然なことだろう。まして近年では、リアルエロよりエロコンテンツの方が好まれる傾向さえある(「こなたは俺の嫁」)。

低年齢でもエロアクセスしやすくなったことも問題だ。18禁規制や自宅暮らしといった制限から、従来、低年齢層はエロアクセスし難かった。エロが縁遠いものであったからこそ、若者エロを求めて活動的になった。「偉くなりたい」「社長になりたい」という言葉の裏には、「偉くなったらモテるんじゃねーかな」という淡い期待が隠れている。しかしネットの普及にともない、低年齢でもエロアクセスできるようになったことで、そんな出世意欲は減退することとなったのだ。

一生懸命働き、何らかの結果を出してエロを手に入れる」という構図が崩れたことによって、社会の発展に赤信号が点灯しつつある。エロを核に進化してきた人類にとって、これは生物としての転換点でもある。かつて平凡パンチいざなぎ景気を失速させ、エロビデオバブル崩壊を招き、エロサイトがITバブルを瓦解させた。そして今、エロ動画サブプライムショックを引き起こし金融不況を到来させた。資本主義エロ本主義の両輪で回っていた日本社会からエロ本主義が失われると何が起こるのか。 エロ本主義なき日本には、どんな未来が待ち受けているのか。

健全社会の発展のために、エロ格差を。

公共広告機構です。

 
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