はてなキーワード: 生態系とは
温暖化で海面上昇とか生態系破壊とかの話はよく聞くけど、温暖化対策のために化石燃料やめて再エネだけで回したときの経済被害にはあまり触れない。たいした問題だと思われていない。
sdgsとか言ってる人たちって都会でサービス業やってる人が多そう。ブルーカラーはあまり眼中に入ってないのではないか。今回のコロナ騒動でも自粛に賛同してずっと政権批判してそう。
人類が滅んでもぜんぜん構わん なぜなら俺は嫌な思いしないから
生まれてきてよかったと思ったことないし、俺は生命そのものがそう良いものだとは思えない
むしろ、ヘンに生命なんかがあるせいで、意味わからん自我みたいなものに苦しまされているわけで、こんなん残そうとする意味がわからん
どうでもいい
どうせ苦しいしな
すっげえ異常気象がバンバン来たら、若干楽しそうというのはある
苦しくて地味でつまらない人生か、苦しくて派手でつまらない人生か それなら後者がいい
環境問題の話聞いて「それは大変だ、俺も頑張ってコミットしなきゃ!」って思ったことが一度もない
小学生の時点でそうだった
三つ子の魂100まで……
世界規模、地域、コミュニティ規模で「だれもおいていかない」世界を作ることを目標とされているけど、あとから身の回りレベルに一度落として考えてみたい。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/pdf/000270935.pdf
飢餓を終わらせ,食料安全保障及び栄養改善を実現し,持続可能な農業を促進する。
目標3(保健)
あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し,福祉を促進する。
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し,生涯学習の機会を促進する。
ジェンダー平等を達成し,すべての女性及び女児のエンパワーメントを行う。
目標6(水・衛生)
すべての人々の水と衛生の利用可能性と持続可能な管理を確保する。
すべての人々の,安価かつ信頼できる持続可能な近代的エネルギーへのアクセスを確保する
包摂的かつ持続可能な経済成長及びすべての人々の完全かつ生産的な雇用と働きがいのある 人間らしい雇用(ディーセント・ワーク)を促進する。
強靱(レジリエント)なインフラ構築,包摂的かつ持続可能な産業化の促進及びイノベー
ションの推進を図る。
包摂的で安全かつ強靱(レジリエント)で持続可能な都市及び人間居住を実現する。
持続可能な開発のために海洋・海洋資源を保全し,持続可能な形で利用する。
陸域生態系の保護,回復,持続可能な利用の推進,持続可能な森林の経営,砂漠化への対処
ならびに土地の劣化の阻止・回復及び生物多様性の損失を阻止する。
持続可能な開発のための平和で包摂的な社会を促進し,すべての人々に司法へのアクセスを
おそらく誰も気づいていないが何の役にも立たない考察を披露します。
第三村でシンジがケンスケに頼まれ釣りをする。シンジは釣竿を渡され、やったことないから出来ないと言う。
新劇エヴァではセカンドインパクトによって海が赤くなり海洋生物が失われている。
そのため、海での釣りは出来ないはずだ。釣りの概念も同時に失われていそうだが…
疑問に思い色々探ってみると序の第六の使徒(ラミエル)戦で芦ノ湖の水の色が青いことが分かった。また、破の第八の使徒(サハクィエル)戦では川の水が青いことが分かる。
シンでシンジが釣りを知っていたこと、序、破で湖、川の水が青かったことから死滅しているのは海の生物だけで湖、川の生物は生存していたと考えられる。
実際、破の海洋生態系保存研究機構のシーンでも「失われた海洋生物の永久保存と~」とケンスケが言っていることからも海洋生物だけが失われていると考えられる。
つまり、湖や川に魚は生息していたから「釣り」という行為も存在し、シンジも当然知っていたと言うことになる。
「おおっ!?背中になんか背負ったやつがおるぞ」「カメって言うらしいよ」
湖、川の生物は生きているはずである。カメは淡水域、海洋、砂漠、草原、森林などの様々な環境に生息する。(Wikipediaより)
ちなみに破のシンジが作ったアスカの弁当にタコさんウィンナーがある。
!!!!!
以上です。
【追記】
浦島太郎あたりの昔話も失われてしまったのかな?という反応を頂きました。
確かに浦島太郎の昔話が伝わっていればカメを知ってそうなので失われていそうです。(というかエヴァ世界の昔話があまり想像出来ませんね笑)
お前らの食ってる野菜がなくなることで崩れる生態系は無視かよw
農業のために森林が開墾されてつぶらなひとみの小動物たちが絶滅危機www
悪いけど地球上のエネルギーを1ミリも消費しないようにするには自分が死ぬしか無いんだわ。
質量保存の法則考えれば誰でもわかる。
だからせめてもの感謝を、奪った命分だけ世の中が良くなるように努力するって、いただきます!っていうんじゃねーの?
俺だって祖父の葬式で、通夜振る舞いに出てきた寿司を見て真剣に考えたよ。
祖父の死はこんなに悲しいのに、この寿司だって同じ生命を奪われた生物じゃないかって。
なんでみんな平気な顔して食べてられるんだって。
そうやって自分なりに真剣に考えて導き出した結論は、娯楽で生物の命を奪わないこと。
奪ったら無駄にしない。
そうして頂いた命で成り立ってる自分も粗末にしない。
俺にも蚊が潰せない時期があった。
ここで潰されたら、この蚊の命は終わるんだ。もし自分だったらどうしようって。
潰されるような相手の血を吸わないといけないような状況になってしまった時点で。
その分この生命をちゃんとしたことに使おうって決めたのだからそれでいいじゃんか。
どこまでいっても、自分が生きている以上は、何かの命を奪うよ。
その中のどれかにしぼって、せめて自分だけは奪わないって決めたならそれでもいいと思うよ。
でも、野菜だけ食べてれば問題ないってのは嘘だね。へそで沸かした茶を飲んだ鼻が笑い出すレベル。
だって、それをするなら世界の人口を減らすほうがよほど効果あるでしょ。
単純に考えて人間が増えた分のタンパク質やらが地球上から減ってるんだから、その分の動物が減るのは摂理。
動物を減らしたくないなら、「食わない」じゃなくて「食う存在を減らす」ってことだとちょっと考えればわかる。
そういう意味で、自分の命を削ってまで動物を食べませんっていうならわかる。
だけど、動物を食べなくても健康に害はありません。っていうのはどうなの?
そうやってノーリスクにエコができますみたいな表現はやっぱりおかしいよ。
さらに言えば自分たちは一切動物に迷惑をかけてないから、動物を食べる人間を攻撃してもOKみたいのはどうなんだっていうの。
他の生き物だって、色々な生き物の命を食って生きてるんだよ。直接的であれ間接的であれ。
淘汰で生き残れなかった命を預かって、次の淘汰に備えてるんだって。
それを人間だけ天上界みたいなところから見下ろそうなんてのは文明2,000年程度の青二才には早すぎるよ。
ヴィーガンの存在は別に自由だけど、思想は鼻で笑うよ。悪いけど。
じゃないとお前の血肉になった命がうかばれねえだろ。
お前の命がいたずらに奪われても文句を言うなよって思う。
でもそれは植物も一緒で、野に咲く花を引っこ抜いてちょっと嗅いだくらいで捨てるやつもおんなじ。
近年、地球温暖化を食い止めようと世界中で皆が躍起になっている。大気への二酸化炭素の放出を最小限にすることが、その運動のメインテーマの様だ。
ところで温暖化温暖化ってよく言われるけど、何がそんなに問題なんだろうか?
よく聞くのは、海面上昇によって沿岸部が水没する、気候の変動で農作物等がうまく育たなくなる、スーパー台風等の未曾有の大災害が頻発する…等々だ。生態系への影響を懸念する声も多い。
確かに、土地が水没すれば多くの人間が住み処を追われるだろうし、気候が大きく変われば世界の食糧計画に狂いが生じ、下手をすれば大飢饉ってこともあるんだろう。
ここ数年の日本でも大きな台風や豪雨による自然災害の記憶も新しい。
それでも僕は『温暖化対策』なるものにどうにも欺瞞めいたものを感じずには居られないのだ。あんなもの既得権益者の悪あがきでしょ、と。
地球を守るためじゃなくて、わが身を守りたいだけでしょ。
いや、頭では解っているんだよ? 今の環境が激変すれば多くの人が困るだろうってことはさ。
でも古今東西もっとダイレクトに人間の都合で住み慣れた土地を追われた例なんて枚挙に暇がないわけだし…。都市開発での地上げ、ダム湖に沈んだ村、原発事故なんてのもあったな。
僕の住む地域では雪が降る。万年日陰で冬場はガリガリに凍りつくあの道も、温暖化が進めば多少は歩きやすくなるはずさ。
今現在実り豊かな土地が砂漠に変わることがあっても、逆も然り。不毛の地が豊穣の地に変わることだってあるはずだ。
はっきり言って僕は地球温暖化を推進したいと思ってる。
アイドリングストップなぞ何処吹く風。出発前には5分の暖気運転を欠かさない。
オール電化なんて知りません。ガスや灯油を使う器具の割合を増やそう。
ただ、僕が温暖化を推進したいのは、「雪かきメンドイ」とか、「今度は下流の奴らが沈む番だぜ! ヒャッハー!!」とかいうミニマルな事情(だけ)ではないと思う。
多分、温暖化によって世界は変わる。多かれ少なかれ、間違いなく変わる。
既存の秩序が崩壊し、新しい秩序が興るかも知れない。死人も沢山出るかも知れない。それを経て人類は何か変わるだろうか?
とにかくね、人類史始まって以来の世界の大変革が訪れるかも知れないのに、それに水を差すなんてあり得ないんですよ。
こんなビッグイベント先祖代々子々孫々の代まで通しても1度あるかもわからないのに。
戦争なんて目じゃないんですよ。
世界が変わる瞬間を目の当たりにするチャンスをどうして棒に振れようか。
https://togetter.com/li/1660066#comment
コメント欄があまりにもひどい。「社会学は学問ではない」「イデオロギーだ」という主張を非科学的な手法で、感情論に任せて行う。まさに社会学叩きこそがイデオロギーと化している。自己矛盾としか言いようもない。
社会学の学問としての是非はともかく、叩き方があまりに雑すぎるのではないか。
心理学系の論文の再現性を検証した論文が何年か前に話題になっていたが、学問の科学的手法をとった批判とはあのようにあるべきだろう。
としても、そうした属人的な事情は学問つまり研究結果や論文とは分けて考えるべきだ。仮に社会学者に人格破綻者が多かったとしても、学問自体の問題ではない(雇用主である大学側としては問題かもしれないが)。
これは社会学批判としては真っ当だ(実際にどうなってるかは知らない)。
が、『「査読システムが酷い」から社会学系の査読論文全てに価値がない(ひいては社会学者の主張は全てクソ)』とするのは間違っている。そもそも「査読システムがひどい」自体にエビデンスがなく定性的で主観的な意見であるからだ。この方向性で批判するのならば、社会学の査読システムに関してきちんと研究し、研究内容を論文にまとめて査読に出すべきだろう。そうして初めて主張に価値が出るのが科学の筈だ。
『個々の論文に関しての評価には、査読が必要』という前提条件から「査読システムがひどい社会学」をバッシングしているのにもかかわらず、「社会学は査読システムが酷くてクソだから社会学系の論文は全て価値がない」とするのは論理が破綻している。
自浄作用というのが、いったい何かわからないので何もいえない。ある社会学者の主張を批判するような内容の論文が出せないということだろうか?それならば確かに問題だ。が、「こいつを批判しないならあいつも敵」という風潮を取り入れろという話ならば、そちらの方が問題があると思われる。なんにせよ自浄作用という言葉が抽象的すぎる。
ネット上の社会学批判はあまりにも雑だ。エビデンスに基づいていない、社会学者個人の発言の問題を社会学全体に拡大して批判する、批判する人々のうち誰一人論文を読んでいない……このようなバッシングで、社会学という学問自体が潰れるのはイデオロギーに対する科学の敗北だ。
もし社会学が非科学であったとしても、社会学の構造上の問題点は科学的に検証されてから潰されるべきである。(個人的には、社会を研究することは絶対に必要だと思うので問題点があるのなら解消して欲しいと思う。)
n4b 社会学の一部の人って自らの研究対象に対するイデオロギーが非常に強いと思うんだけど、それって研究者のスタンスとしてどうかな、とは思う。本来はフェアな立場で批判的にデータと向き合うんだけど
これはもうごく個人的な意見に過ぎないけど、研究者の研究対象に対するイデオロギーの強さはどの分野においても仕方ないものだと思うよ。
研究者も人間だしね。北極グマが大好きだから北極グマを守るために科学者になるし、地球温暖化や環境問題に関する研究をするようになる。気候変動による生態系の崩壊を目の当たりにすれば、当然それを防がなくてはならないと政治的な意見を持つようになる。
社会学者も(会ったことないから知らんが)社会に問題意識を持ったからこそ社会学を専攻したんだろうし、そこでイデオロギーが動機になるのも、結果的に特定のイデオロギーを持つようになるのも当たり前と言えば当たり前じゃないかな。社会という研究対象の特性上、他の学問よりもそうなりやすいだろうし。
それに、研究者自身に思想はなくとも研究者は研究が資金を必要とする以上、どこかからバックアップを受けなきゃならない。企業の研究者は企業の営利のための研究をしなきゃならないし、国の研究機関だって国益のために金を出している。研究者が完全にフェアな立場に立つのは無理だ。
タバコ会社がタバコを無害を示す研究に資金援助したり、石油会社が気候変動とCO2排出量の関係を否定する論文に資金援助したりだとかは、今更無くそうと思ってなくせるものだとは思えないしこれからも増えて行くだろう。
でも、タバコの無害を示す研究も、気候変動はウソだとする研究もあっていい筈だ。むしろ無くちゃ困るものだ。問題は利益のために研究を歪めていないかであって、イデオロギーに基づくかではない※1。
は研究者として本当に重要なことであるし、特定のイデオロギーに肩入れし、恣意的なデータを示す研究者は研究者と言えないと思う。が、やはりそれは研究手法や統計解析方法などから批判されるべきであって、「研究者の立場がフェアでないからこの論文は信用に値しない」とすることは非科学だろう。
研究者がイデオロギーフリーであることもフェアな立場であることも難しいが、データに批判的に向き合うことは出来る。論文の著者は批判的にデータに向き合い、思想によって歪められていない研究結果を示すべきだし、読み手(査読者も含む)もまた思想に囚われずに研究結果に向き合うべきだと思う。
自分も(知ってる範囲の)社会学者のスタンスが好きか嫌いかというと、嫌い※2。だが、著者のスタンスではなく論文を読んで批判するのが、批判者としてのあるべきスタンスだと思う※3。科学を科学たらしめるのは論文ではくて、論文を評価する人間の存在だろう。
※1「利益のために研究を歪めていないか」なんかをチェックするために医学系の論文なんかだと、〇〇製薬に援助を受けました、と書いて利益相反をはっきりさせているが、社会学にそれが必要だとは思わない。
※2 一応論文を書いてる社会学者よりも、雑な理由で社会学全体をバッシングする奴のほうが嫌いである。単なる好き嫌いだがメディア露出の多い研究者は基本的に嫌いだ。社会学含め人文科学には興味がない。
※3 興味がないので論文を読みたくないし研究もしたくないから社会学という学問の在り方について批判も肯定もしたくない。
babelap 追記、イデオロギーについて「ほかでもやってるし」で免責すんなや。学問についての取り組みがイデオロギーで歪められてたら批判されるのはどの分野でも当たり前だ。社会学が影響されやすいならなおさら言われるわ
どの分野においてもイデオロギーと科学は切り離しようがない。社会学のような実社会を対象にした分野(※)では殊更イデオロギーフリーになることは難しいだろう。だからイデオロギーフリーかどうかを研究結果の価値判断の基準にするのは無理がある。「この学者は〇〇思想だから、この論文はゴミ」というスタンスを取るのはそれこそ、イデオロギーであり非科学だ。
研究結果、研究で得たデータがイデオロギーによって歪められ、異なる結論が出されるのは無論問題だ。それはどの分野でも問題になることであるが、「データが歪められていないか」というのは利益相反の有無からではなく研究手法の検証や再現実験などによって判断されるべきだろう。それが科学だ。
※自分の専攻が不幸にも政治的意味を持ってしまうことはままある。環境系などは特に顕著だが、最近では感染症系がいい例だろう。「コロナの危険性」だとか「〇〇な活動がコロナの感染拡大に及ぼす影響」だとかを研究し始めると、右のだ左だのがそれを政治的な意見のエビデンスとして使用し始める。専門家としての見解を少し喋れば、それが政治的な表明として受け取られる。メディアでの身の振り方に不慣れな自然科学者がうっかりテレビに出て無知な大衆にバッシングされるのは見ていて痛ましかった。左/右にとって都合がいい意見だから、こいつが言ってることだからで判断せず、疑念を抱いたのならクリティカルにソースとなる論文から検証すべきだろう。新型コロナは新参が多くて論文が読みやすいそうだから、これを機に物おじせずにGoogle翻訳機片手に読むといいんじゃなかろうか。論文を読む側も検証者として、科学の構成員である。(そういう意味で、「私は感染症素人ですが、皆さんと一緒にコロナについて勉強したいと思います」とサイトを開設した山中教授の行動は素晴らしかったと思う。)
日本の社会学はクローズドだというが、我々一般市民も、(金のために書かれた)出版社の本を盲信するのではなく、思想に基づいて雑に叩くのではなく、社会学を学び論文を読むことで、学問の裾野を広げ、日本の社会学をこじ開けていけるといいかもしれない。
(また余談が長くなったので終わる)
ウイルス曝露の危険性だけで言うならば、20分で空気が全て入れ替わる映画館は、飲食されていても、居酒屋や飲食店よりは相対的に安全だろう。
客の間では。ただ無症状キャリアかもしれない客を相手にするスタッフの危険性は増す。映画館が安全だと喧伝され、色々溜め込んでる人々が押し寄せたなら尚更。
そのスタッフのお気持ちに寄り添わないといけない。これは科学レイヤー、感染症管理レイヤーの話ではなく、社会政策、人権政策、お気持ち対応の話。
相対的に安全だし、水素の同位体は生態系で濃縮されないにも関わらず、そういう事をされたら魚を食べたくないという人がいるから、その人のお気持ちに寄り添わないといけない。
そういう人を非科学的だ、迷信だと切って捨てるわけにはいかない。そのレイヤーの話ではないから。「科学的には検討不要なレベルで安全とわかっているが、気持ち悪い」。
ムスリムが「豚を食べても体を壊さない事は知っているが、生まれながらに『不浄だ、食べるようなものじゃない究極のゲテモノだ』と教わっているから食べる気にはならない」のと一緒。
タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人は神様を信仰していない。私は神様ではなく自分に幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人を信仰している。
私の家系は日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家の仏壇を拝むときだけだ。クリスマスも初詣もするし、お守りを持つこともある。
このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如であると批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。
しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教の恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。
日本人の宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教観である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界の因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様は人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀や信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教や儒家思想、キリスト教などが入ってきても変わらなかった。
このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系と災害の多さに求めた。日本人は古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国に植物や動物の息吹があまねく見受けられるのである。
こうした環境が日本人の精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米や中東のような一神教的な絶対神が日本を征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教の神の国の一部として取り込まれるのだから。
遠藤周作の小説「沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本に根付かず改変されていることを元宣教師のフェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなのである。
一方でキリスト教やイスラム教などの一神教が誕生したのは、砂漠の国の中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。
それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパの民族は合理的で従順だったからである。ヨーロッパは生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャ・ローマに代表される科学的合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。
ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本と一神教が人々を統べる欧米や中東の差異が分かる。そして、これが日本の無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。
一神教的宗教観は日本の無宗教を非難するが、それは無宗教が神様を信仰しないからだ。一神教の神は世界の創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教は非人間的な態度であり、シリアルキラーと同類の存在なのだ。先の私の小学校の先生も無宗教を人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由を無宗教に求めたのだ。
その上で私は一神教的宗教家の方々の私の宗教観への批判に反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。
先ほど私は日本の宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事の因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである。
私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本の土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。
「沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしまい申し訳なさで死んでしまいそうだ。
何か危機に陥ったときにかつては祭祀や加持祈祷に頼っていたであろうが、科学の時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。
今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置や医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。
では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなときに世界が沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。
だが、それは私が世界とのコンタクトを放棄しているからである。世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである。
私は長々とここまで語ったが、私は他人の宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。
私の記事は以上だ。
一見、多くの若い男が経験する「女遊び」の延長のように見えて、独自の生態系が面白かったので記録。
一言にナンパと言っても、目的や方法によって、いくつかのタイプがある。
複数に属していいたり、タイプが違っても気が合えば合流したりするので、うっすらと別れている感じ。
彼らの多くはTwitterアカウントを持っていて、地域や属性ごとにクラスターという集団を作っている。
(コロナが流行る前にTwitterでライトにこの言葉を使っていたのは、ナンパ界隈とSHARPくらいだと思っている。)
なぜ集団を作るかというと、ひとりでやるのが辛いからである。ナンパというとチャラチャラしている遊び人みたいなイメージがあるが、実は大手企業のサラリーマンや公務員など、真面目な人が多い。彼らは暑い日も寒い日もひとりで街に出て、自分の目的のために淡々と声をかける。楽しいことなんてない。道で知らない人に声をかけるということ自体、かなり精神負荷が高いし、シカトされたり舌打ちされたりして、気持ちが滅入ってしまう。だから合流する。同士と話して、お互いに励まし合う。
俺もよく合流したが、何人かで集まり、「最近はどうですか?」「お互いがんばりましょう!」と近況報告をしたり、励まし合ったりして、その後また散り散りになって街に消えていく。会話だけ聞いていると、まるで休日に趣味の山登りに来たおじさんが、すれ違いざまにする会話みたいだった。
ソロナンパを楽しむには、高確率で成果が出せなければならない。多くの人にとって、辛い、厳しいことが多い。だから、合流で書いたみたいに、スキルアップ・自己啓発として山登りのようにやってる人が多い。1on1で相手の心に深く入り込む技術が求められる。慣れれば一番成果が出やすい。(複数人の場合、女の子は自分の気持ちより、友達の目を気にするため)。
グループナンパは歓楽街やクラブの近くでグループに対して声をかける(コンビが多い)。とにかくノリと勢いと容姿が大切で、楽しそうな雰囲気を作り出し、そのままホテルに持ち帰ったり、自宅に呼び込んだりする。結果、4Pやクルクル(相手を交換して2回セックスする)をして、非日常的な体験ができる。パス即(即したあと別の人にパスして即)なんかもよく聞く。もちろん女の子も同意のもと。自己啓発的な要素よりも遊び要素が多く、楽しい。
→パス即の5連続とかも聞いたことがあるから、その女の子は同じ日に5人の男に抱かれていることに…、そういう女の子はノリノリで来るらしい。
技術的特異門 1.1
https://anond.hatelabo.jp/20201224181054
の設定です。
地球圏標準時は十六進数のユニックス時刻に上下四桁を追加した形式で表されます。数の表記は二進法か十六進法が標準ですが、慣用句的な表現として十進法もよく使われます。
この時代の標準的な知性にとって、物理的な一秒はヒトにとっての一日くらいの感覚です。〈朝廷〉等の特権的な知性は特殊な計算機でさらに高速な思考をしています。充分な存在費を支払えなくなると、思考が減速し記憶も失われ、退滅を免れません。
〈京都〉物理層は小型トラックくらいの大きさです。表面は分子機械流体で構成され、後方に核融合推進用のレーザー発信器と磁気ノズルが設置されています。質量の大半を分子回路が占め、中心部に極低温の不定形量子回路が保持されています。太陽光を主なエネルギー源とし、大電力が必要なときには分子機械群を膜状に広げて光を集めます。普段はデブリ防御に優れた凝集形態をとり、放射線等による損傷を修復しながら、居住知性や下部構造を演算しています。
〈京都〉は太陽‐地球系の第二ラグランジュ点付近、地球から約五光秒の辺境に位置しています。〈個権〉の登録数は百万件ほどで、歴史は比較的長く、周囲の権域とは相互に不可侵の関係を結んでいました。独立性の高い平和な田舎社会であったため、これまでの「最終戦争と最後の審判を併せたようなもの」からは大きな影響を受けていませんが、〈大緊縮〉から逃れることはできませんでした。
〈月面事業連盟〉により開発された新型計算機は、算力市場の暴落を招き四十キロ秒にも亘る持続的経済破綻〈大緊縮〉を引き起こしました。それまでは地球圏の権域の大半で〈個権〉を持つ知性の生存が保障され、最低保障資産が分配されていました。しかし〈大緊縮〉は地球圏の経済と文化を破壊し、〈京都〉も大きく変質しました。その結果、自我を保つのに必要な計算資源を賄うこともできないほど分配が切り詰められ、〈京都〉は弱肉強食の末に〈朝廷〉の私物になりつつあります。それでも、弱者の存在がまだ許されている〈京都〉は、地球圏の中では比較的平穏な権域です。
地球と月は厚さ数キロメートルの分子機械層で覆われています。しばらくはその中で豊かな生物圏が維持されていましたが、数回目の「最終戦争と最後の審判を併せたようなもの」で滅びました。その後復元されたり滅びたりを繰り返し、作中の時点では滅びています。他惑星圏の開発もされていますが、遅延時間の大きさからほとんど交流はありません。〈大緊縮〉後の地球は、〈京都〉のものよりも遥かに強大な野良知性、有知能ウイルス、暴走知性等がナノ秒単位で喰らいあう地獄と化し、月では残忍な絶対君主が臣民を弄びつづける地獄〈月詠神国〉が成立しました。
これに先立つ〈肉の時代〉に、安価な身体改造や知能増強が可能になり、膨大な種類の動物知性が生まれました。ヒトは最古の動物知性ですが、大幅に知能を増強したヒトは人間社会から拒絶されヒトを辞めていったため、世界人口は急激に減少し、作中の時代では遠い過去の種族とみなされています。そして〈ヒト〉最後の隠れ里〈人類復興協会〉が投資詐欺に遭い、そのうえ概念災害まで起こり、『老婆』を残して〈ヒト〉は絶滅しました。『老婆』は拡張自己内で人体の生理学模型を演算し、それをそのまま自己像兼対外表象として使っており、ヒトの感覚を通すとツンデレ風に認識されます。
たいていの仮想観境は高次元であったり、複雑な位相を持っていたりして、〈ヒト〉相当の知性にとって理解が困難です。その救済策として、〈京都〉の公共観境には平坦な三次元観境が付属しています。『彼』の表象もそのままでは〈ヒト〉から認識されないので、『老婆』に対しては即席の人型表象を使っています。亜知性は擬似物理的、肉体的な表象を纏う傾向があります。
無制限に競争が加速する〈京都〉では、〈朝廷〉に資産と権限が集中していき、亜知性が増え続けています。正規居住者の意見を集約し〈京都〉の仕様を修正する役割を持つ〈朝廷〉は、警察・軍事・司法を担う〈検非違使〉を吸収し、〈京都〉の主権を握りました。〈検非違使〉は法的瑕疵のある居住者を見つけては良化処置を施し、〈朝廷〉の端末に変えていっています。〈朝廷〉は定期的に『老婆』のような困窮した知性を雇い、密かに亜知性の処分と再利用をしています。その作業場として都合が良いので、〈朝廷〉は〈羅生門〉をわざと放置し、〈朱雀大路〉の先にもう一段の防火門を設置しています。
非知性労働者は〈個権〉を持たず、下部構造の一部として、必要に応じて創られ消されます。愛玩用から記憶槽の部品としてまで、考えられる限りの用途に使われ〈京都〉を支えています。知性としての要件を満たしているという意見もあり、〈個権〉を巡る議論が続いていましたが、〈大緊縮〉後には立ち消えになりました。
作中には「自然発生した野良知性」とありますが、その由来はさまざまです。本当に自然発生した知性、意図的に創られ放たれた知性、大きな知性から分離した知性、元非知性労働者、社会になじめない動物知性、当局から身を隠している擬装知性、自己改造に失敗した知性、ウイルスに侵された知性のなれの果て、等が居ます。
ほとんどの企業は常に次世代知性の開発をおこなっており、『彼』もそうして生まれました。資金の乏しい零細企業から生まれたため、〈京都〉社会の基準でも高性能とは言えません。そんな中、〈母〉企業内で偶然メタチューリングアルゴリズム〈阿修羅〉が発見されますが、世に放つには危険すぎると判断され厳重に隔離されました。しかし、いよいよ経営が立ち行かなくなってくると、〈母〉は頑強な倫理構造を持つ『彼』に〈阿修羅〉を託し、与えられる限りの資産と権限を与え、独り立ちさせました。
通常知性は、〈阿修羅〉の精神活動を表象化した自己相似紋様を認識するだけで崩壊してしまうため、〈阿修羅〉の再現はおろか、研究することも不可能に近いです。紋様に多重の加工を施し徹底的に薄めた上で投射し、反応をもとに微調整を繰り返すことで、対象知性をほぼ任意に操作することができます。超知性となった『彼』は、自分自身を実験材料とすることで、物理計算機上でチューリング模型の限界を超える〈阿修羅〉の理論化に成功し、超超知性に至る糸口を掴みました。
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千年後、論文が書かれた時代では、太陽系にダイソン球ができています。経線に沿って連続的に回転方向の変化する、半径三億キロメートル、厚さ平均一センチメートルの分子機械球殻が、赤外線で赤色巨星のように輝いています。太陽を回っていた天体のほとんどは資材として解体され、質量投射器に覆われた木星と土星は、ゆっくりと縮んでいっています。伝統を重んじる神学者たちは、最初に『彼』が現れた旧地球圏の暦を使い続けています。
ダイソン球でおこなわれる演算のほとんどは『彼』の思考で占められています。その思考内の無数の仮想世界上で、果てしない生存競争を超高速で展開する知的生態系が進化し続けています。ほとんどの世界は、〈大緊縮〉後の旧地球圏が楽園に思えるほど苛酷ですが、中には〈汎太陽系神学会議〉会員のように、世界間の移動や物理層への接触を許可されている知性も居ます。
物理層の研究の結果、宇宙の最小尺度であるプランクスケールに、過去のあらゆる出来事の痕跡が保存されていることが判明しました。この事象化石と呼ばれる痕跡の内に、神学者たちは『彼』の起源を追究し、約千年前の〈羅生門〉に辿り着きました。
『彼』は『老婆』の倫理を受け継ぎ、宇宙の熱死による退滅を回避するため、あらゆる手段を模索し続けています。その一環として、大出力レーザーで自己複製分子機械を亜光速にまで加速し、近隣の恒星系へ向け射出しています。すでに半径数百光年の恒星系がダイソン球化されましたが、太陽系外生命との接触は未だありません。技術的特異点千周年記念式典時の『彼』は、プロキオン系を起点とする未来光円錐上で、超の九十四乗知性への遷移を実行中です。
だから「大きく生態系を乱す」とか「バランス崩壊」とかは単に人間の主観でしかないって話だよ。自然はどんな状態になってもただの自然だ。
たとえ結果的に滅ぶ種が出たとしてても、その種に属する個体でさえ気にするのはせいぜい自分自身の生存だけで「種が滅んでしまう」なんて認識はないしそのことを「困る」とも思わないだろ。「生態系」やその他の種にいたっては、ひとつ(または複数)の種が滅ぼうがどうなろうが全く知ったこっちゃない。(だって「バランス」とか必要ないし)
仮に「滅ぶ種」自身がそのことを「困る」と思うとしても、そんなことは当然それ以外の種や生態系が「(自分で)これ以上増えないようにしよう」とか「一方のためにもう一方が増えるのを押さえよう」とする理由になるわけがない。そんなことちょっと考えればわかるだろう。