はてなキーワード: 批判精神とは
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
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/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
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「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。
例の松本人志の発言が叩かれている。叩かれて当然だが、Twitterでこんな意見を見かけた。
──人としての思いやりを「偽善」と嘲笑し醜い本音を吐露することを「正直」として高く評価する大阪の風潮が維新や松本人志を生んだのではないか
https://twitter.com/Simon_Sin/status/1135190442876686336
正直「大阪の風潮」は言い過ぎだと思うが、ただ個人的には「吉本芸人バラエティのノリ」的な日本社会はそろそろ終わりにしたいと思ってる。
真面目な研究者が登場したら「なんやねんその髪型」から入るあの感じ。
勉強が大好きな子どもが出てきたら「その分厚い眼鏡重くないんか」から入るあの感じ。
本気の人を笑いに変えてしまうあの感じ。
斜に構えるというのとは違う、何事も「いじる」、ちゃかす、あの感じ。
それが批判精神と結びつくことはなかった。個性に敬意を払うのではない、多数派に安心感を与えるための迎合という「いじり」。「真面目の崩壊」などと言われて久しいが、「吉本的ノリの蔓延」が日本社会のくびきになってきたと個人的に思ってる。正直、自分の子どもがこんなバラエティ的社会に放り込まれるのだけは気の毒なので、どうにかしたいと思ってる。
https://news.yahoo.co.jp/byline/mizushimahiroaki/20190602-00128440/
太田は時々本気になる。「いじり」が政治や社会の批判に向くこともある。爆笑問題とダウンタウンの仲が悪いなどと言われるのはこんなところだと思う。
彼の考え方にはツイッターにしろ新聞のインタビューや寄稿にしろ、賛同するところが多いのだが、小説の主人公はみんな、エリート公務員とか宇宙飛行士とか建築デザイナーとか歴史上の偉人とか、俺には手の届かないような超絶エリートばかりでどうも読む気になれなかった。
それでも「決壊」だけは読んでみたことがあって、ネット上のレビューなどではこの小説をつまらんと切り捨てる人もいるようだが、俺はそうは思わなかった。丁寧でまじめで思いやりのある人柄がよく出ていて心を打たれたし、だからこそ、他のメディア上で発する意見にもマイノリティへの思いやりや権力に対する批判精神が一貫しているのだと思う。
俺は、彼にはKKOが主人公の小説を書いてほしいと思う。普通の人レベルじゃなくてガチなKKOで。ただし、彼はあまりにもKKOとは無縁の属性だから、書いてみるとしたらきっととても大変なことだろうとは思う。
やっぱ無理かな?
近年、諸要因に伴う労働プールの枯渇と求人倍率の上昇により、博士課程院生のキャリアパスとして、日本でもようやく民間就職が現実味を帯びつつある。
例えば、この前も数学科?の博士課程修了の方が研究職を諸事情により諦め、民間就職にシフトしたことについての総括エントリをまとめ、バズっていた。
http://wakabame.hatenablog.com/entry/2018/11/04/190441
こうした潮流自体はもちろん喜ばしいことであると思う。しかし一方で、一人文社会科学系院生であり、かつ一応数年間民間企業で働いていた人間として、民間企業でのキャリアパスが確保されること=バラ色の未来とはとても思えなかったという経験がある。
これは、①本質的に博士課程院生を日本の民間企業で雇う際の歪み(特に非エンジニア職制の場合)と、②いわゆる「役に立たない」ことを研究している院生は、本質的に民間企業の価値規範にそぐわないメンタリティーを、大学院教育の中で滋養しているという二点に起因していると思う。
というわけで、極めて私的経験かつ、まったくもってエゴイズムの塊のような問題提起をあえてしておきたい。これは、前述したような近年の博士課程院生の民間就職を過度に褒めそやす風潮に対し、挫折し結局研究業界に戻ってきてしまった人間として嫌味を言っておきたいという気持ちによる。
私は修士終了後、まあいろいろあって博士課程進学と同時に民間企業へ就職をした。コレ自体、かなりイレギュラーではある。
仕事内容はまあ、詳しく言うと確実に特定されるので防ぐが、政策調査や地方自治体の計画策定コンサルである。官公庁の調査案件を請負、クソみたいな――時々インターネットで炎上するような――分析と鉛筆なめなめを行い、官僚様と政治家様の願望にそぐう数値をでっち上げる仕事である。
で、これは当然のことながら人文社会科学系の研究者の価値規範と真っ向から相反する。というのも、私たち人文社会科学系の研究者は、扱うデータがどのようなものであれ、そのデータの分析においては仮説を用意したとしても、最初から結論を用意するということはしないからである。ところが、この業界――まあいわゆるシンクタンク業界なんだけど――においては、最初から結論が決まっているので、データ分析はいかに結論をでっち上げるかという方向に労力が注がれる。
これはなんでそうなるかというと、この手の仕事がコンサルから派生しているからである。すなわち、元々コンサル業界の倫理観においては客の求める結論をはじき出すということがある程度正当化されているので(外コンのプレゼン術を名乗る本は多くの場合ただのごまかしである!)、それに基づいて目の前のデータを弄ることに抵抗がないのだ。ただ、そのデータを弄る際に、人文社会科学のスキルセットを援用するというだけなのである。
で、問題はこのスキルセットが活用できるという理由でもって、人文社会科学系の院生がこの業界を志望し、実際雇われているという現実である。サンプルサイズは極めて少ないが、私の周囲を観察するのならば、このギャップにやられて会社を辞める人間は実に多い。特に「優秀」――ここでの「優秀」とはアカデミアでの評価である――な人間ほどである。
事実、私は「優秀」ではないが、こうした現状に辟易して、言い換えるのならばアホなクライアントと上司の妄想に無理やり付き合うことに疲れて退職してしまった。
なぜこうなるのだろうか。それは、人文社会科学系の教育カリキュラムの価値規範が、現代日本企業と致命的にあってないからであると思う。
よく人文社会科学系の先生は、「常識を疑うこと」や、「新しい仮説を立てること」を大学教育の美点として強調する。私ももちろんこれらのことが本質的に良いことであることには同意したい。だが、これが現代日本の新卒就職においてよく働くかといえば、まったくもって嘘である。というのも、少なからぬ日本企業においてこれらのスキルが必要となるポジションは、多くの場合前頭葉が退化した老人によって占められており、我々若手社員がやりうることは、老人が出した意味不明な結論に向けて数字をでっち上げることだからである。この作業は、前述した批判精神と真っ向から相反する者である。私たちは、今まで培ってきたスキルセットをもってクソの世話をするのだ。
であるからにして、私は現在のアカデミア教育は、少なくとも人文社会科学系に限るのならば、民間就職に対し逆作用しか生み出していないと考える。ただ、これはアカデミアが悪いとは必ずしも言えない。繰り返すがこれは高スキル社員を作り出せず、無駄に高コストなジェネラリストという名の無能を社内に飼いながらスペシャリストの下請けを買い叩くという、日本大企業の伝統的構造に起因しているからである。鶏が先か卵が先かは言い難いが、そもそも日本企業において、一部理工系エンジニア(計量系の経済・社会・心理なども含めてもよい)以外は、「無能」――ここでの「無能」とはアカデミックにおける「無能」を意味する――でなくては生きていけないのである。
というわけで、現状の日本大企業の構造をそのままにしていては、博士院生をふくむ多様なキャリアを持つ社員の活用なんかできっこないし、実際出来てなかったよ、ということを本エントリは主張するものです。
金はないけどアカデミック最高!好きなことを好きにやれる環境って、結局俺たちには大学しか無いの。俺たちには理研も産総研も産学連携ベンチャーもない。同情するなら金をくれ。役に立たない研究しかしないけどね。
と割と本気で思う
はてなーって保守速報なんかを叩く時には決まって「まとめサイトは情報が不正確」とか言ってるけど、結局そんなん単なるタテマエなわけでしょ
自分がムカつくから叩くだけであって、叩くためにわざわざそういう理由を持ち出してるに過ぎない
ゲーム系まとめサイトはオタクの巣窟、オタクは自分たちの敵、だからまとめサイトも自分の敵、こういう雑な線引きでしかないの
でも最近のはちまって、結構フェミ系の記事を上げるようになったんだよね
しかもあの手のサイトには珍しく、やたらとフェミ側に好意的なの
もちろん住民はいつもの住民だからコメント欄はだいたい反フェミで膨れ上がるし、そもそも男叩き女叩きのバトルでPV稼ぐのが目的で、別に中の人が本心から好意的なはずはないんだろう
PV目当てにフェミ系の記事書いてるのは、例えばJINなんかもそうだったりする
ただ、あっちは普通にフェミには批判的で、わざわざ連中のキチガイじみた言説ばかり取り上げては、やる夫ややらない夫のAAにドン引きさせるのが常だ
似たようなサイトでもそういう違いを出してくる
では彼らが自分らに媚びてきた時、果たしてその旺盛な批判精神はどうなるかというと、たぶん全然働かなくなるんじゃないかと思う
別にまとめサイトに限らず、人目を引くために変なことを書く奴らというのはいくらでもいるわけだけど、はてなーってそういうのによく釣られるじゃん
ソース不明のヨタ話でも嘘松でも、自分や自分の党派性に都合さえよければ全力でパクッと食いついちゃうし、疑いの目を向けられようものなら普段信じてもいない性善説まで持ち出して反撃するし、
しまいには真っ赤な嘘とわかった後になってもどうにかして持ち上げようとする
リテラシーが低い上に、それを恥とも思ってないわけ
お似合いなんじゃないの
某4コマ漫画の作者もネトウヨらしいという噂を見た。たしかにあの漫画を読んだとき古き日本的な保守的な思想でなんか嫌だなとは感じた。とくに会社の上下関係などが気持ち悪かった。キャラクターはかわいいけど、どうにも滲み出る思想が気持ち悪くて1巻で挫折。まあ作品に思想は滲み出てくるものだよな。
ネトウヨ作品に共通してあるのは現状肯定、自己肯定と思われる。批判的な視点が存在しない。これは多くの日本人の習性でもある。戦争責任と向き合わず、日本スゲー、俺スゲーを言い続けてきた。だが日本はそうやって大きくなってきたのも事実で、だからこそ日本の戦後とは一種のカルトだったと思われる。
そしてもうそんな気の狂った夢も終わりの時期が来ているのかもしれないということ。目を覚まして現実と向き合うんだ。
日本に芸術が育たなかったのもこうしたカルトの影響もあるかもしれない。エンタメ作品はそのほとんどがネトウヨ的要素すなわち現状肯定、自己肯定を持っている。エンタメ作品に触れる客はそれを見て気持ち良くなるわけだ。自分を肯定してくれて元気がもらえる、感動できるというわけだ。これは甘っちょろい幻想にすぎない。しかし客はそういったものを欲していた。だから制作者はどんどん飴を与え続けて愛撫しつづけた。甘えてくる客に優しく親切にできるだけ彼らが気持ち良くなれるようなものを作ってきた。
甘ったるいエンタメで育った人間は自分を肯定してくれないものを受け入れられない。幼稚なまま大人になってしまう。自己批判せず、現実を受け入れず、ただ「俺らは間違っていない。正しい。正義だ。批判するやつは差別主義者だ」と唱えていればよいということになる。現状肯定がすべてで、これ以上の改善など必要ない。すべては完璧で、穏やかで整っていて、甘く心地よい世界だから、それを批判することなど許せないというわけだ。自分の完全な世界が少しでも動揺することを恐れている。だから批判は受け入れられない。現在ある完全な世界に浸かりきっていたいから。不完全な現実を指摘されるのは彼らには苦痛すぎるのだ。
たかがラノベが批判されたくらいで40代のおっさんたちが顔を真っ赤にしてぎゃーぎゃー喚く。これは一体なんなんだ? あまりにもグロテスクじゃないか。きみらはラノベに依存しすぎている。依存しすぎていてラノベ=俺になっているからこんなに必死なんだろう。自分のアイデンティティなんだろう。いい年したおっさんが中高生向けのエンタメ小説が少し批判されたくらいでブチ切れてしまう。完全にどうかしている。
はてなには目立つラノベオタクが30人程度はいるらしく、いつも固定メンバーが集まってブクマしている。彼らの中で批判精神を持つ者は存在しないから、いつもの固定メンバーが集まって、自己肯定しあっている。またやってるのかと呆れて観察させてもらっているが、ほとんどカルトのようだ。全員同じことを言っていて、自分の意思なんかないようだ。ネットの受け売りでしか語れず、自分の言葉を持たない人たち。
彼らを救うことなんてもう誰にもできない。40代にもなって中高生向けの陳腐なエンタメ作品の擁護でブチ切れしちゃう連中なんてどうやったって話が通じるわけないだろう。ネットde真実の層ともかぶるだろう。何が彼らをそうさせるのか。彼らの中でラノベとは一体なんなのか。「ラノベは定義できない」と言いつつ、ラノベ批判されるとキレるのはよくわからないことだ。結局自分の中でも「ラノベ」という単語の指示範囲がなんとなくあって、それが否定されたと思うからブチ切れてるわけだろう? そしてラノベが否定されるということは、自分自身が否定されたということとほとんど同じようなことなのだろう、彼らの中では。なんでそこまで依存してるんだ? そんなのラノベ依存症だろう。ラノベはきみらを救わない。きみらが50代60代になってもラノベを読み続けることは自由だ。しかしそのときにはラノベが否定されたくらいでブチ切れたりしないような精神的な成熟がほしい。まあむしろ60代になったらさらに厄介な人間になってそうなのがあれだが。
頑張ってほしい。
このやり取りがネットで話題になっているようだ。
口火を切ったSF作家は「ライトノベルは向上心を持つ妨げになる」と主張している。これに対し、ライトノベル作家は「ライトノベルは単なる娯楽であり、向上心云々は関係ない」と反駁を試みている。togetterのコメント欄やはてブを見る限り、ライトノベル作家の肩を持つ人が多いようだ。
さて、このやり取りでは「中高生はライトノベルを読んでいいか否か」ということが問われている。筆者は「中高生はライトノベルを読むべきではない」と考えている。ライトノベルは社会への批判精神の涵養を妨害することが、その理由である。
ライトノベルの題材としては、学園生活や異世界での冒険といったものが目立つ。基本的にこれらは、社会的な問題を提示したりするものではない。また、ライトノベルの話は魅力的なものが多いと推測される。ライトノベルの根強い人気がその証明である。この2点より、ライトノベルはある種のプロレフィードとして作用することが導き出される。つまり非現実的かつ魅力的なライトノベルは、社会的な問題に目を向けさせるのを防ぐ効果を持つのだ。
本来中高生時代は、社会への批判精神を養う時期である。社会への批判精神を養うには、勉学やボランティアなど様々な行動を通じ社会の不合理を体験したり、あるいは書物や新聞を読み考えることが必要不可欠である。しかしこの時期にライトノベルを読んだらどうなるのか。答えは火を見るよりも明らかだろう。
そしてライトノベルを読み、社会への批判精神がなくなったらどうなるか。権力者が供給する低劣な娯楽(ラノベ・アニメ・漫画・ゲーム・大衆小説・ギャンブル・性風俗など)を貪る奴隷だらけになる。今の社会はそういう奴隷ばかりである。コスプレ喫茶で働く女子校生を題材にしたわいせつアニメに現を抜かす男性、酢こんぶみたいな名前の中年男性グループに黄色い声をあげる女性、男性器みたいな名前の違法賭博にのめり込む工場労働者。彼らは全員奴隷である。そして奴隷がたくさんいることで、社会の格差拡大は進み、近隣諸国との関係悪化や環境破壊も進んでいる。
学術書を読めとは言わない。しかし岩波のブックレットであるとか、あるいは中央公論新社が出す新書などを読むべきである。全てではないものの、筆者のような浅学菲才の身でも理解ができる内容のものが多い。中高生はライトノベルではなく、こういう本を読み社会への批判精神を涵養すべきだ。
スターバックスが日本に来てからどれぐらい経つだろうか。近年まだ出店していない自治体で出店した所、大人気に…といったようなニュースを見た。
私は残念ながらスターバックスのあの店の感じも、あのコーヒーの味も元々苦手で、北米は元より、日本もできるだけ使わないようにしているのだが。
ここはネットだからまだいいのだが、この手の発言を未だにリアルですると、明らかに周囲がドン引きしているのがよく分かる。勘違いしてほしくないのだが、スタバがダメと言っているわけではない。私の好みでないだけで、それは彼らがまだトレンドだった遥か昔から変わらぬ想いだ。
自分には両親がいて幸いまだ健在であり、自分の結構な部分を彼らには話をしていて共有しているつもりだ。
明らかにどんなにそれが自分にとってはただの好みの話であると言っても、両親は自分たちが愛してやまず、よく通っているスタバの批判をされた事に明らかに機嫌を悪くしていた。
人間の理性とはなんなのか、そして批判精神とは何なのか。感情は不可分なのか。
ライプニッツはこういった。 Musica est exercitium arithmeticae occultum nescientis se numerare animi と。
鴻上尚史作・演出の「ホーボーズソング」を観劇した。20年前と全く変わらない方法論しか感じられず、鴻上氏は今まで何をしてきたのだろうと不思議に思った。
俳優は、特に主要なキャストは魅力的な人々なのだろう。しかし一つの演劇を通した時に、全く何の感動も触発も発見もない、無意味な体験だった。
私は虚構の劇団の舞台を見ながら、青年団の女優がかつて平田オリザに対して言い放った言葉を思い出していた。曰く「こんな普通のセリフを客席に向かって喋るなんて恥ずかしくてできない」と。その文脈で言えば、虚構の劇団の皆さんは、恥ずかしげもなく客席に向かって喋り、踊る。そしてオープニングとエンディングと、劇中にも歌入りの音楽が流れる。セリフが説明的であってもお構いなしに、必要ならばプロジェクターで用語解説まで入れながら日本の社会や文化について作者の批判精神を観客に伝えようとする。
誰かが私にに何か伝えようとすればするほど、私はそれが伝わってくるのを避けようとする。どうせろくなものじゃないからだ。私は誰かが控えめに、ささやかに表現した行為から何かを読み取りたいと思う。現代とは表現者の節度と鑑賞者の教養が組み合わさった時に共犯的な芸術が成立する時代なのだ。
私は鴻上氏に馬鹿にされているように思った。「どうせ俺の芝居を見に来るような奴らはこういう表現を求めてて、これくらい親切にしてやらないと理解しないだろう」という侮りを感じた。あるいは彼は、理解されない事、伝わらない事を恐れているのかもしれない。しかし有史以来、常に演劇を作る人、演劇を観に行く人がいるのは、そもそも人間が孤独で、相互に理解し合えないからではなかったのか。劇場とは他者に出会う特別な場所ではなかったのか。
私の観た限り、今回の芝居には出会うべき他者は存在せず、若者が代弁した鴻上尚史の講演会でしかなかった。20年前には社会に対して説得力があったのかもしれないが、今は何もなかった。
2chで垂れ流されている悪思想に国民が洗脳されてるからなんじゃないかと思う時がある。
先人の残した知恵を本などで学ばず、
2chという手軽な情報源で幼稚な思想を吸収していく人たちの、
なんと多いことか…
2ch教は、負け犬の思想がつもりつもって巨大化した化け物(生き物)のように、日本国に存在している。
足を辛めとられてしまう…
本人は、洗脳されていると気づかない。
むしろ、裏事情を知っている自分は情報通でスゲーって思っていたりする。2chの情報は正しいと思いこみ盲信してる。
2ch教は、ニヒリズムを蔓延させ、後ろ向きでひねくれた発想、批判精神をも植え付け、人生をじわじわと破壊していく。
自業自得といえるのだろうか
「一滴の毒」だからこそいいものが正義の側に立ってしまうとマズいと思うんだ。
ISISについてクソコラを作ってるネットユーザー達に知性や批判精神はない。おそらく彼らはいかにしてふぁぼとRTを稼ぐかしか考えてない。そしてだからこそ痛快だった。
(もちろん以上のような状況全部を意識的・無意識的に把握してコラを投稿した人はいるはず)
しかしそれが「ISISの脅しに目もくれないクレイジーな日本人」として、ある種の正しさとして表象され賞賛されそのことが相手に伝わった時、ヤバいカウンターをくらってしまうんじゃないか。
はてながいわゆる粘着増田の投稿削除等を発表してからそろそろ1週間。
この間の動静を見る限り、増田の批判精神が顕著に損なわれることはなかったようで、まずは安心している。
一方で、はてブユーザーの間では、気に食わない記事に対し、通報をちらつかせて削除を迫るような流れも出来つつあるように思う。
例えば、以下に引用するブコメからは、通報を背景とした削除要求の萌芽を見てとることができよう。
feita
ここに引用されているツイート後も私とよしきさんのやり取りは続いており、記事投稿者が私を貶めるために一部のみを抜粋した恣意的な引用であると判断します。投稿者には記事の削除を要求します。
そして残念なことに、一部増田ははてなに通知されれば記事が削除される恐れが全くないとは言えない。
そのため、仮に脅迫まがいの削除要求がなされたとしてもこれを完全に無視しさることは心情的に難しいのではないかと思われる。
よって、通報を背景とした削除要求の流れが加速すれば、記事削除等のリスクを抱える増田は批判を手控えるという事態に陥る可能性も十分に存する。
現状において増田の批判精神が顕著に損なわれてはいないとしても、状況は未だ予断を許さないものと言うべきである。
健全な批判は正当な言論であるから、継続的に行おうが非難される筋合いのものではないし、相手が嫌がろうがやめる必要もない。無論法律やはてな利用規約にも抵触しない。
健全な批判とは、基本的には以下の条件をみたす批判である(あくまでも「基本的には」である。以下に述べるところをふまえたうえで、具体的状況に応じた判断をしていただきたい)。
第1の点については、むしろ批判内容の妥当性との関係で問題になるものではないか、と思われるかもしれない(言うまでもなく批判の健全性と批判内容の妥当性とは別の問題である)。
しかし、例えば事実無根の横領容疑を捏造して政治家を批判する行為を想像してもらえば分かるとおり、虚偽の事実に基づく批判は、場合によっては批判の健全性の観点からも問題となり得るものである。
常に真実の事実に基づいて批判することは難しいとしても、健全な批判を行おうとする者は可能な限り真実を追求する姿勢を持たねばならない。
第2の点については、多言を要しないだろう。
現代社会においては、ある個人に関する情報をどのように扱うか、ということについて、当該個人の判断がかなり尊重される。
したがって、必要もなく氏名や住所等の個人情報に触れることは、その扱いに関する当該個人の判断を害することとなりかねず、批判の健全性が損なわれうるのである。
第3の点については、単なるキレイゴトだ、と思われるかもしれない。
しかし、「罵倒・人格攻撃をしない」というのは批判の健全性を向上させるうえで簡易でしかも効果的な方法である。
最も重要なポイントは、主語を「人」でなく「論」にすること。この区別に頓着しない方が、増田には比較的多いように思われる。
可能であれば、一般に悪口と分類されるような表現を別の穏当な表現に置き換えるとなお良い。
こうした形式面にわずかに注意を払うだけで、批判の健全性は格段に向上する。
具体例を挙げておく。
「君はクズだ」→「君の考え方は不誠実だ」
http://anond.hatelabo.jp/20140208002745
正直、これと似たようなことを腐女子界隈で思うんだ。
実際、私がこれまでに知り合った腐女子の人々は総じて話題が多彩で面白く、それぞれ才能にも知性にも恵まれ、性格も個性的で魅力的な人が多かった。
ネットではいつも「痛い腐女子」や「腐女子の痛い言動」がネタにされてるけどそんなのはごく一部。少なくとも私の周りにはいなかったし、見かけたこともない。
殆どの腐女子はネタ探しの為に漫画やアニメは勿論のこと、映画、ドラマ、小説、音楽、演劇、歴史、アート、スポーツ等々、実に様々な分野にアンテナを張っていて、総じて興味や関心の範囲が広い。
そうやって自分の好きなものや世界に対してとことん拘って情熱や愛情を抱き捧げることができ、それらの作品やその背景に入れ込んでさらに関連の資料や分野にまで手を拡げて足を運んだりして調べたり、深読みや斜め読みをする習慣が付いてるから、それぞれの分野に対する造詣が深くなるし、独自の視点が鍛えられて自身の確固たる価値観も獲得出来てる。
それらの見解を周囲にも伝えて理解してもらうべく自らも表現や創作に乗り出し、その質の向上の為にさらなる知識や技術の獲得のための努力を惜しまず、そしてより活動や発表の場を広げるための行動力にも長けているから、心身ともにタフでポジティブでコミュ力も意外に有って、人脈も広かったりする。
加えて、腐女子ということで多かれ少なかれ既存のセックスやジェンダーに葛藤や問題意識を抱えてるわけで、従って自身の性やジェンダーのあり方に対しても常に内省しているし、差別や偏見に対する感覚や批判精神も磨かれているし、自ずと実社会や人間そのものに対する視点も鋭くて深い。というわけで、こちらも話をしたり付き合っていて楽しいし、その度に見識や世界を広げられる充実感がある。
一方、腐女子やBLが嫌いとかそもそも理解が無いとかいう「一般人」は、流行りのファッションとか店とかゴシップぐらいしか話題が無いし、音楽やドラマの嗜好や見解も通り一遍で面白くない。ジェンダーロールや将来設計に対するスタンスも含めてそうで、如何に条件の良い男性と付き合って結婚して、自慢出来る子育てが出来るかどうかぐらいしか考えていない。それこそ自分とその半径3mにしか関心の無い人が多いのだ。従って付き合っていても面白くないどころか虚しく、疎外感を感じる。
したがって、増田界隈にいるような男性(女性も)が真に親しくすべき人間はまさに腐女子界にいるはず。その辺を探し出してちょっとずつ話をしてみてはどうか。色んな面での見解が少しは変わるはず。