はてなキーワード: 天保とは
吉良姓を受け継いだ吉良上野介の子孫はいない。(後に別家が吉良の名を継いだ形で、子孫の方は上杉家や畠山家等におられる)
三河地方に吉良の領地があったのは元禄16年(1703年)までで、それ以降は吉良と三河地方との関係は無い。
近年「実は吉良上野介は地元では名君」っていう話をよく聞くようになった。
「吉良上野介は名君」って言う説を知っている人も多いだろう。
で、その「吉良の地元ってどこだ?」って話になると
案外、知ってる人が少なかったり誤解している人が多かったりすると思う。
恥ずかしながら私もそうで、
三河地方っていうのは知っていたのだけれど
この辺には歴史的な経緯があるそうで、
その後、これら土地は、あちこちの藩やら寺社、旗本の領地なんかに吸収されて
(こういう状態で「吉良の地元」という意識が受け継がれてきたというのには少し無理があるような)
その後、昭和三十年に 横須賀村と吉田町が合併して吉良町が生まれる。
(余談だが吉良には雲母の意があったという)
歴史を知っている人でも、吉良上野介は大昔の隣の殿様という扱いで
古くからの西尾市の人に「吉良上野介の地元」と言われると変な顔をされたわけだ。
んで、もう少し突っ込んで話を聞いてみると、
西尾藩の領民が、吉良が作った堤防により水害が発生して苦しんでいたので
こういう逸話があるぐらいなんで旧西尾藩の地域の人にとっては、
「吉良上野介は地元では名君とされている」と言われるのに抵抗があるみたい。
吉良上野介を地域の名君として賞賛する教育を西尾市の全域で行っているとのこと。
それで地元とは言えない所の子供達にまで「地元の名君」と教えられているそうな。
(吉良の堤防による洪水で、エライ目に遭ってた所だったりしたら洒落にならんな)
調べてみると、
吉良上野介が黄金堤を作って地域の開発に役立ったのかからして怪しいという。
残された絵図面なんかをみると、この地域にあった鎧が淵の新田開発で
近年になって「吉良つながり」で、吉良上野介が担ぎ出されてきたっぽい。
でも、そういう都合で「新しい歴史」をつくっちゃて
堤防などの治水等で名代官と言われる鳥山牛之助(さきほどでた新田開発のトラブルの調停もしている)
なんかの話が、わりとしっかり記録や文献をたどれるのに殆ど注目されなくて、
「らしい」という話しかない吉良上野介だけが「地元の名君」って言われて教育現場で広められている状況は、
なんだかなぁって思ったりする。
吉良上野介が名君であったという話に「吉良の赤馬」という郷土玩具をセットにする人が多い。
「吉良上野介義央は治水事業に心を寄せ、領内の水害を防ぐため、黄金堤を築き、自ら愛馬赤馬に乗り巡視にあたりました。その姿は威風堂々とし、愛馬も大変立派であったので、領民はこれを称えいつしか赤馬と呼ぶようになりました。領内の村に住んでいた村人が江戸・天保年間に子どもの玩具として作ったのが始まりです」
とある。
いわゆる赤穂浪士の討ち入りが元禄15年末(1703年の1月)。
三河の領地を取り上げられる裁定が下ったのが元禄16年(1703年)になる。
「領内の村に住んでいた村人」と言っても、
その時には吉良領は跡形もなくなっている。
昔、吉良の領民だった人も既に死に絶えた後のはず。
実際の記録では吉良上野介が三河の領地を訪れたのは生涯一回だけだったらしい。
直に吉良上野介を見た村人が、後に玩具を作り出したとかいう話なら、
まだなんとなくわかる気がするのだけれど、
百年以上前に一回だけ訪れた殿様の馬を、
わざわざ玩具にしようというのいうのは変だよなぁ。
天保年間には別の殿様が治めている状況なのに。
調べると、さらに興味深い話が出てきて、
この時点では「白馬」なのね。
もし本当に赤馬と吉良上野介の話が元になっていたのなら、
突然、殿様に白馬ってのは出てこないよなぁ
「自ら愛馬赤馬に乗り巡視にあたった」という話自体が後から出た感じがする。
もちろん、こういうのは商品を開発したり売る人が、
色々面白おかしく「いわれ」を主張するのは別に良いと思うのだが、
このエントリーは「吉良上野介が地元では名君」という説が「ちょっと変」っていう話で、
だからといって、これだけでは「名君ではない」とまで言えない。
(西尾藩の領民に洪水被害を出した伝承とかは、ちょっとふれたが)
「名君だと言うならもその根拠資料を出せ」と言っている所もあるそうな。
「吉良上野介が名君だった」という人は、きちんとした資料を出してやれば良いと思うよ。
それを元にして、地域教育とかを書き直していく必要があるんじゃないのかな。
少なくとも教育委員会とか自治体が、根拠に疑問が持たれる話を持ち出して
へんな形で「地元の名君」を作り出そうとするような状態は良くないなぁと。
もっとも「実は、吉良が名君という話は怪しい」というのは、
中々メディアとかでは取り上げにくい話だと思う。
実は「正義の味方だった」と言うのは受けるだろうが
例えば「イメージ通りの悪い人でした」と言っても、
そこには話題性も何も無いわけだ。
この点は、なかなか興味深くて、
必ずしも同じように拡散するわけでは無くて、
このまま誰も異議を唱えないまま残ってしまうんじゃ無かろうか。
とか思ってたら、wikiとかにもわりと詳しく書いてあったわ。
https://bizgate.nikkei.co.jp/series/DF150320194919/
https://www.rekihaku.ac.jp/events/forum/old/f2017/pdf/106.pdf
その中で紹介されている「難陳」=イチャモンを簡単にまとめてみた。
「徳」の字が「毒」に通じるとして貴族のあいだで評判が悪かった。
「一大人只十」と分解できる。
「家臣が十人しかいない」と読めて不吉であるとして却下された。→700年後には異論なく採用された
仏教の「天人」に通じる。→むしろ縁起がいいじゃんってことで採用
音が「焼亡」に通じる。
「保」を分解すると「人が木を口にする」となって飢饉を連想させる。
などとして庶民から評判が悪かったので、三年ほどで「慶安」に改元。
「昌」は二つの太陽、すなわち二人の皇帝が存在する意味に取れる。
「正」の字は「一に止まる」と分解できる。
「天」は「二人」、「正」は「一に止まる」と分解できる。
二人の皇帝がほぼ同時に「天正」を用いたが、どちらも一年ほどで殺されてしまった。
「一大人は只だ十なり」と分解でき、「皇帝は十年だけ」と読める。
悪政を嘆く民が、
「嘉靖」は「家浄」と発音が同じで「家が空っぽ=財産がない」という意味だ、
あるいは「屯」という旁は「草木がなかなか芽を出せない」という意味なので縁起が悪い。
などといった理由で改元から六日後に「淳煕」に再び改元された。
「成」は「戈=戦争」が含まれているので縁起が悪いとして却下された。
「美」は「羊」と「犬」に分解でき、家畜まで「戈=戦争」に巻き込まれるという意味になるので却下された。
「亨」は「子」の横棒が欠けており、皇帝に子ができないことを連想するので却下された。
「隆」は「降」、「化」は「死」に似ており、降伏して死ぬという意味になる。
実際、この元号のときに国が滅び、降伏した皇帝は翌年に殺害された。
四字の元号だが、「太平」は「一人六十」と分解でき、「六十歳で死ぬ」という意味になる。
分解すると「一人二月了」となり、「一人、二月に了(おわ)る」と読める。
このときに改元を主導した重臣は二年後に帝位を簒奪したが、その年の二月に起きた反乱で殺された。
「宣」を分解すると「ウ=家」に「二日」となり、一家に二つの太陽があるのは不吉である。
当時の皇帝は息子に譲位して上皇となったので、実際に皇帝が二人いることになった。
また「宣和」を分解して組み立てると「一旦宋亡」となり、「一旦、宋が亡ぶ」と読める。
「靖」は「十二月に立つ」と分解できる。
「広=廣」は「黄」と「广=家」、「明」は「日月」と分解でき、
「運」は「軍が走る」と書く。
皇帝が軍によって走らされる=敗走するのではないか、と読める。
「火は戦乱を意味し、炎にはそれが二つもあるから良くない」と反省して再び改元された。
以上、やはりイチャモンに感じられるだろうが、
元号は縁起物であり、こうした験担ぎのようなものも真剣に考えられてきたということで、
39、妻子持ち。
35の頃ある事がきっかけで、
話す事が仕事であったのも重なり
催眠術を覚えた。
素人と言う事もあるがなかなかそう掛ける機会がない
邪な気持ちもあり
退行催眠も興味が出て、相手の興味も重なるとかけてあげたりもした。
それなりに素人なりには催眠を理解して、かなり上手な方だとも思う。
ところが先日
A子だ。
A子は過去にも同じようにサイトで探して、自称催眠術師にやって貰ってかからなかった所をまた試したいとの事だった
その後、なんとなくまだ切りたくなくて会話を続けているとA子に霊感があり、たまに予知夢を見る事がある事も知った
そして彼女からの願いもあり自分が生を授かった理由を知りたいと言い出した
そんな理由をぼくが答えれるはずもないので退行催眠をかけてみることに。
前世まで。
病で床についている状態だった
更に遡って色々見せた。
そして個人的には今のA子である母の胎内に行く前が理由がわかると思い、またその時間まで。
一通り視た後
いまへ連れ戻した。
普通は退行催眠かけると忘れている事がおおいが彼女は戻ったときに全てを覚えていた
予知夢見るって言ってたけど
そしてそれが実は現実になって
この人だ!と思って結婚したの・・
退行催眠の話も忘れて聞き入ってると
・・・その人とは3人の子供を授かったけど、暴言が酷くてそその人とは別れたの
そして続く
でもさっきわかった
探してたたのはあなた
ある人を探していると言ってた
その時からなんとなくの勘があって
期待?してた
「よう」
だった
けど覚めてハッキリ聞いた。
お互い信じられなくて
確証を持ちたくて
その後も2,3度退行催眠をかけた
でもA子の確信は高まっていくばかり
出ないことを願いつつ心は喜んでいた
これからどうしたらいいのか。
読んでくれた方
聚楽第なら秀次生存ルートかなと嬉しくて舞い上がっていたらフォロワーさんに破却されていない聚楽第という情報だけで秀次天下と捉えるのが分からないと言われたので、徒然なるままに三分を書かせてもらいました。
分かりやすさは放棄しておりますのでお許しください。また、あくまで妄想ですので批判等はお控えください。
1.聚楽第とは
聚楽第とは豊臣秀吉が天正15年(1587年)9月に京都にて完成させた建物であり、文禄4年(1595年)7月に秀吉自らの手で破却させている建物である。その期間四年余。その為、建物自体は現在に残ってはいないが、聚楽第図(広島市立中央図書館所蔵蔵浅野文庫『諸国古城図』)を始めとする絵図や京洛の社寺などには移築したと伝わる建物などが存在する。
元より聚楽第という名は楽しみをあつむるやしきと言う意味であり、宣教師ルイス・フロイスは聚楽を快楽と歓喜の集まりを意味すると記している。見た目も絢爛豪華で…と語っており派手好きな家康の片鱗を垣間見ることができるだろう。見目を伺うために伝わっている平面絵図がいくつか存在する。例を下記に連ねる。
②尊経閣文庫本
③三井文庫本
①〜⑤は周囲の大名屋敷の名称にバラツキはあれども構造が似通っているものである。⑥は後世の天保14年になり名倉希言が作成し明治17年に書写されたものになる。⑦〜⑧は景観を描いた屏風になる。それぞれの内容や絢爛さなどは自らの目でお確かめください。そんな聚楽第の意義とは一体何だったのだろうか。桜井成広氏の『豊臣秀吉の居城』及び中井均氏の『聚楽第』にて述べられている①京都に於ける政庁の役割であったと考える。しかし、秀吉は政治に関して大阪城と聚楽邸を行き来していたことがある。中井均氏はこれを聚楽第は公家としての居城であり、大阪城は武家としての居城であると書いている。
聚楽第が破却になったのは文禄四年の秀次滅亡後の秀吉による破壊である。
秀次の死は切腹であったが、それは秀吉によるものである。秀次は秀吉に謀反を企てているとあらぬ疑いをかけられ、関白の座を追われて高野山に追放。高野山を人質に切腹を迫られたためせざる得なかったのである。これは秀頼誕生後に相続問題から疎遠になり秀吉との仲が冷却されたとともに目立つようになった不謹慎な性行なども関係していると考えられるだろう。更に秀吉は親族の切腹まで命じており、元より秀頼を溺愛していた秀吉の秀次の謀反に対しての怒りを感じる。そして、秀吉は譲った聚楽第を破却。縄張り意識を中心に考えると、歴史上から秀次を完全に消し去ろうとしたといえる。
2.天正15年(1587年)9月〜文禄4年(1595年)7月迄に起こった歴史的重要点
今回のイベントに於いて歴史修正されたのは豊臣秀次の生存であり、ひいては豊臣政権の存続だと考える。
まずこの4年間に起こった大きな歴史的要項を挙げよう。大きな出来事のみの抜粋は天下が歴史修正に置いて影響すべきところを考えたためである。
①朝鮮出兵
それでは順に述べていこう。
①朝鮮出兵
朝鮮出兵は聚楽第存在時にあった秀吉が行った大きな出来事である。大陸の領土拡大を目指し、進行したものであるが敢え無く敗北している。歴史改変をする事が出来る場所とも考えられますが、否定として「歴史改変された聚楽第」と本家PVで言われていることをあげる。この“された”と言う言葉には「何かしらの作用や影響を受けているさま(weblio)」であり、この場合、影響をうけているのは聚楽第であり、朝鮮出兵は直接関係がないのでこの案は没になる。
(飛ばしてくれても構いません。閑話休題に余談ですが、憶測に過ぎないものであり、またステ本丸の出来事のためあくまで私的な妄想の範囲を出ない考察ですが、舞台刀剣乱舞において歴史修正主義者が関わる場面は必ず天下が関わってる気がします。それは、歴史修正主義者は人の強い思いと呼応して呼ばれている(と個人的に考えている)ので、朝鮮出兵は関係ないと思います。歴史修正主義者も刀も人の思いに応え現れてくれる。代わりに見る人によって善悪が変わる世界です。聚楽第において正史側の審神者と刀は歴史修正主義者になってしまう…。つらい。話を戻しましょう。)
②秀次切腹事件がなかった世界。用に謀反の疑いがかけられなかった世界。理由としては前項で述べた聚楽第が歴史改変を受けていると言うところが大きい。まず聚楽第が存在したのは4年間であり、大きな出来事といえば
しかない。その為、聚楽第が直接影響を受ける可能性があるのは1595年と考えたい。また、聚楽第が影響の象徴となるならば存在がある事が歴史改変であるとも言える。
元号 | 出典 | 備考 |
---|---|---|
大化 | 『書経』(『尚書』)大誥、『漢書』巻56、『宋書』巻20 | |
白雉 | 『漢書』巻12 平帝紀 | |
朱鳥 | 『礼記』曲礼 | |
大宝 | 『易経』繋辞下 | |
慶雲 | 『文選』巻6、『晋書』巻54陸雲伝 | |
和銅 | ― | 和銅(ニギアカガネ)が朝廷に献上されたことにより改元 |
霊亀 | ― | 瑞亀献上により改元 |
養老 | ― | 養老の滝命名に因んで改元 |
神亀 | ― | 白亀出現の瑞祥により改元 |
天平 | ― | 「天王貴平知百年」の文字を背に負った瑞亀の献上により改元 |
天平感宝 | ― | 陸奥からの黄金献上により改元 |
天平勝宝 | ― | 孝謙天皇即位により改元 |
天平宝字 | ― | 蚕が「五月八日開下帝釋標知天皇命百年息」の文字を成したことにより改元 |
天平神護 | ― | 藤原仲麻呂の乱を神霊の護りによって平定したことによる |
神護景雲 | ― | 瑞雲の発現により改元 |
宝亀 | ― | 瑞亀献上により改元 |
天応 | ― | 伊勢斎宮に現れた美雲の瑞祥により改元 |
延暦 | 後漢書 五十二巻 | |
大同 | 『礼記』礼運篇 | |
弘仁 | ― | |
天長 | ― | |
承和 | ― | |
嘉祥 | ― | 豊後国大分郡の寒川(現在の大分川)で捕獲された白亀が献上されたことを大瑞として改元 |
仁寿 | ― | 白亀・甘露の瑞祥による改元 |
斉衡 | ― | 石見国から醴泉の瑞を献上された事による改元 |
天安 | ― | 美作国・常陸国両国より白鹿、連理の樹が献上された祥瑞による改元 |
貞観 | 『易経』 | |
元慶 | ― | 白雉・白鹿献上の瑞祥による改元 |
仁和 | ― | |
寛平 | ― | |
昌泰 | ― | |
延喜 | 『尚書』旋璣鈐 | |
延長 | 『文選』東都賦、白雉詩 | |
承平 | 『漢書』 | |
天慶 | 『漢書』 | |
天暦 | 『論語』 | |
天徳 | 『周易』 | |
応和 | 「董巴議」 | |
康保 | 「書経」 | |
安和 | 『礼記』楽記第19 | |
天禄 | ― | |
天延 | ― | 天変、地震による改元 |
貞元 | ― | 火災、地震による改元 |
天元 | ― | 災変、陽五厄による改元 |
永観 | 『書経』洛誥 | |
寛和 | ― | |
永延 | 『漢書』巻75翼李伝 | |
永祚 | 『晋書』巻21礼志 | |
正暦 | ― | 大風、天変による改元 |
長徳 | 揚雄の『城門校尉箴』 | |
長保 | 『国語』(周語中) | |
寛弘 | 「漢書」(元帝紀賛) | |
長和 | 『礼記』(冠義) | |
寛仁 | 『会稽記』 | |
治安 | 『前漢書』 | |
万寿 | 『詩経』 | |
長元 | 『六韜』 | |
長暦 | 『春秋』または『晋書』 | |
長久 | 『老子』(七章) | |
寛徳 | 『後漢書』(杜林伝) | |
永承 | 『書経』 | |
天喜 | 『抱朴子』 | |
康平 | 『後漢書』 | |
治暦 | 『尚書正義』 | |
延久 | 『書経』または『尚書‐注』 | |
承保 | 「尚書」 | |
承暦 | 「維城典訓」 | |
永保 | 『尚書』 | |
応徳 | 「白虎通」 | |
寛治 | 『礼記』 | |
嘉保 | 『史記』 | |
永長 | 『後漢書』巻1光武帝紀 | |
承徳 | 『周易』 | |
康和 | 崔寔『政論』 | |
長治 | 『漢書』 | |
嘉承 | 『漢書』礼楽志 | |
天仁 | 『文選』 | |
天永 | 『尚書』 | |
永久 | ― | 『詩経』? |
元永 | ― | 天変、疾疫による改元 |
保安 | ― | 天変、厄運による改元 |
天治 | 『易緯』 | |
大治 | 『河図挺佐輔』 | |
天承 | 『漢書』 | |
長承 | 『史記』 | |
保延 | 『文選卷十一·魯靈光殿賦并序』 | |
永治 | 『魏文典論』『晋書』武帝紀 | |
康治 | 『宋書』 | |
天養 | 『後漢書』 | |
久安 | 『晋書』劉頌伝 | |
仁平 | 『後漢書』孔奮伝 | |
久寿 | 『抱朴子』 | |
保元 | 『顔氏家訓』文章篇 | |
平治 | 『史記』夏本紀 | |
永暦 | 『後漢書』辺譲伝、『続漢書』律暦志 | |
応保 | 『尚書』 | |
長寛 | 『維城典訓』 | |
永万 | 『漢書』巻64王褒伝 | |
仁安 | 『毛詩正義』 | |
嘉応 | 『漢書』王褒伝 | |
承安 | 『尚書』 | |
安元 | 「漢書」 | |
治承 | 「河図挺作輔」 | |
養和 | 「後漢書」 | |
寿永 | 「詩経」 | |
元暦 | 「尚書考霊耀」 | |
文治 | 礼記祭法 | |
建久 | 『晋書』『呉書』 | |
正治 | 「荘子‐漁父」 | |
建仁 | 『文選卷四十七・聖主得賢臣頌』 | |
元久 | 「毛詩正義」 | |
建永 | 『文選』卷四十二・曹子建與楊德祖書 | |
承元 | 「通典」 | |
建暦 | 『後漢書』 | |
建保 | 「尚書」 | |
承久 | 「詩緯」 | |
貞応 | 『易経』 | |
元仁 | 「周易」 | |
嘉禄 | 「博物志」 | |
安貞 | 『周易』上経坤 | |
寛喜 | 「後魏書」 | |
貞永 | 「易経」(坤卦) | |
天福 | 「書経」(湯誥) | |
文暦 | 『文選卷四十六・顔延年三月三日曲水詩序』 | |
嘉禎 | 「北斉書」 | |
暦仁 | 「隋書」(音楽志下) | |
延応 | 『文選卷二十四・潘安仁為賈謐作贈陸機』 | |
仁治 | 『新唐書』 | |
寛元 | 『宋書』 | |
宝治 | 「春秋繁露-通国身」 | |
建長 | 「後漢書」 | |
康元 | ― | 赤斑瘡による改元とみられている |
正嘉 | 「芸文類聚-歳時中・元正」 | |
正元 | 「詩緯」 | |
文応 | 「晋書‐劉毅伝」 | |
弘長 | 「貞観政要‐封建」 | |
文永 | 「後漢書‐荀悦伝」 | |
建治 | 「周礼」 | |
弘安 | 「太宗実録」 | |
正応 | ― | 伏見天皇即位による改元 |
永仁 | 『晋書』巻22楽志 | |
正安 | 『孔子家語』 | |
乾元 | 『周易』 | |
嘉元 | 『芸文類聚』天部 | |
徳治 | 『左伝』 | |
延慶 | 『後漢書』馬武伝 | |
応長 | 『旧唐書』礼儀志 | |
正和 | 「唐記」 | |
文保 | 『梁書』 | |
元応 | 『唐書』 | |
元亨 | 『周易』 | |
正中 | 『易経』 | |
嘉暦 | 『唐書』 | |
元徳 | 『周易』 | |
元弘 | 『芸文類聚』天部 | |
正慶 | ― | 光厳天皇即位による改元 |
建武 | ― | 『文選』? |
延元 | 『梁書』 | |
興国 | 『春秋左氏伝』昭公四年伝、『新五代史』伶官伝序 | |
正平 | ― | 天変や兵革による改元か |
建徳 | 『文選』 | |
文中 | ― | 『易経』彖伝上? |
天授 | ― | 『史記』淮陰侯列伝? |
弘和 | ― | 『書経』君牙篇? |
元中 | ― | 『易経』彖伝上? |
暦応 | 『帝王代記』 | |
康永 | 『漢書』 | |
貞和 | 『芸文類聚』 | |
観応 | 『荘子』 | |
文和 | 『旧唐書』順宗紀、『三国志』呉志孫権伝 | |
延文 | 『漢書』儒林伝 | |
康安 | 『史記正義』と『唐紀』 | |
貞治 | 『周易』 | |
応安 | 『毛詩正義』大雅江漢 | |
永和 | 『尚書』舜典と『芸文類聚』巻8 | |
康暦 | 『唐書』 | |
永徳 | ― | 『群書治要』巻17? |
至徳 | 『孝経』 | |
嘉慶 | 『毛詩正義』 | |
康応 | 『文選』曹植七啓 | |
明徳 | 『礼記』 | |
応永 | 『会要』 | |
正長 | 『礼記』正義 | |
永享 | 『後漢書』 | |
嘉吉 | 『周易』 | |
文安 | 『晋書』 | |
宝徳 | 『旧唐書』 | |
享徳 | 『尚書』 | |
康正 | 『史記』と『尚書』 | |
長禄 | 『韓非子』 | |
寛正 | 『孔子家語』 | |
文正 | 『荀子』 | |
応仁 | 『維城典訓』 | |
文明 | 『周易』 | |
長享 | 『文選』 | |
延徳 | 『孟子』 | |
明応 | 『周易』 | |
文亀 | 『爾雅』釈魚 | |
永正 | 『周易緯』 | |
大永 | 『杜氏通典』 | |
享禄 | 『周易』 | |
天文 | 『易経』 | |
弘治 | 『北斉書』 | |
永禄 | 『群書治要』巻26 | |
元亀 | 『毛詩』と『文選』 | |
天正 | 『文選』と『老子』 | |
文禄 | 杜佑『通典職官十七』 | |
慶長 | 『毛詩注疏』 | |
元和 | ― | 徳川家康の命により、唐の憲宗の年号を用いた |
寛永 | 『毛詩朱氏注』 | |
正保 | 『尚書』正義 | |
慶安 | 『周易』 | |
承応 | 『晋書』律暦志 | |
明暦 | 『漢書』律暦志と『後漢書』 | |
万治 | 『史記』と『貞観政要』 | |
寛文 | 『荀子』致士篇 | |
延宝 | 『隋書』音楽志 | |
天和 | 『尚書』、『前漢書』、『後漢書』、『荘子』 | |
貞享 | 『周易』 | |
元禄 | 『文選』 | |
宝永 | 『旧唐書』 | |
正徳 | 『尚書』正義 | |
享保 | 『後周書』 | |
元文 | 『文選』 | |
寛保 | 『国語』周語 | |
延享 | 『芸文類聚』 | |
寛延 | 『文選』 | |
宝暦 | 『貞観政要』 | |
明和 | 『尚書』 | |
安永 | 『文選』巻一 | |
天明 | 『尚書』 | |
寛政 | 『左伝』 | |
享和 | 『文選』ら | |
文化 | 『周易』賁卦彖伝、『後漢書』荀淑伝 | |
文政 | 『尚書』舜典 | |
天保 | 『尚書』 | |
弘化 | 菅原為定の漢文 | |
嘉永 | 『宋書』楽志 | |
安政 | ― | 内裏炎上、地震(安政の大地震)、黒船来航などの災異による改元 |
万延 | 『後漢書』馬融伝 | |
文久 | 『後漢書』謝該伝 | |
元治 | 『周易』 | |
慶応 | 『文選』 | |
明治 | 『易経』 | |
大正 | 『易経』彖伝・臨卦 | |
昭和 | 書経堯典 | |
平成 | 『史記』五帝本紀、『書経(偽古文尚書)』大禹謨 |
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%A3%E5%A7%8B%E6%94%B9%E5%85%83-1359409
代始改元は,(中略)平安時代からは806年の平城天皇の大同の改元の場合を除き,皇位継承の年に先帝の年号を改めるのは非礼であるとしてこれを避け,翌年に改元するのを原則とするようになった。
※南朝の元号の出典、勧申者がのきなみ不明になってる。焚書にあった?それとも元号を考えられる教養のある人がいなくて適当につけただけだったりする?
※元号って漢籍から適当に二文字抜き出しているように見える。「百姓昭明、協和萬邦」から明和と昭和の2つの元号が作られているし。なんか規則あるんだろうか?
私はこれを祖母から教わった。祖母はその母から。曽祖母は、その母から。
私の母は、祖母から教わらなかった。これは二人の関係性の問題だ。
だから私は、母の前では増田に投稿しなかった。あるいは、わざとブクマを稼げるような投稿から程遠い内容を書き込んだ。
そのままブクマ0、トラバ0で流れていくのを母に暗に示したこともあった。
天保のころに文書が燃えて、古い記録は一切失われたのだそうだ。祖母が言っていた。祖母は曽祖母から聴いたと言う。
私は、それがもしあっても、いつから増田に投稿しているかはわからなかったのでは、と思っている。
あやふやな由来記しか書かれてなかったのではないか。失われたからこそ、色々と想像の余地が生まれる。
文の構成要素や、それを用いる順番(流れの様なもの)、投稿する時間帯や、呼応する(であろう)ファーストからサードブクマ家。
古い教えなので、五行説に基づいた緻密な理論がある。もちろん、五行説は譬えで使われているにすぎないのだが、昔の人はわかりやすい仕組みを考えたものだ、と感じる。
祖母が亡くなって19年経つ。亡くなるまで母とは不仲だったし、時を経るごとに離れて行ったように思う。
祖母の書く増田は、先祖からの言い伝えを鮮やかかつ優美に再現し文を編む。で、祖母はそこにちょっとだけ「乱れ」を含ませるという。
あえて五行を「乱す」のだ。五行はあくまで譬えなので、揃えることがかならずしもブクマ稼ぎに直結しないのだと言う。
祖母はそういうのをあまり気にしなかった。母は、祖母のこうした気質が気に入らなかったのかもしれない。
「五行」に基礎づき、しかしそれを「乱す」ような出来事があった場合、祖母は増田に書き込み、そしてたくさんのブクマを稼いだ。
祖母は実体験を増田に編むのに長けていた。実体験の中でも話が「乱れ」る話が得意だった。その方が読み手にリアリティや想像性を伝えられる、とのことだった。
私は15歳の娘が増田に書いているのを見た。
最近、木星に人類がはじめて到達したことに関して、地球の通っている学校でどのような話をしたか(莫大な公費がつぎ込まれている)。
そうした内容で投稿された増田。「五行」は完璧だ。だが、伸びない。189ブクマ。平凡な結果だ。「五行」を満たしたのに。
直接アドバイスすると彼女の気分を害するので、祖母との昔話の体で、「五行」を満たすだけでは嘘くさて、古い言葉で嘘松とか言われてしまう(たとえそれが実際にあった出来事でも)という話をした。
祖母そっくりになった私の母は、うらめしそうな顔でこのやり取りを見ている。遂に増田に書かなかった母。
母からすれば、増田に永遠に書き続ける家の習わしを奇妙で「乱れた」ものと感じ、生を送ってきた。二つの要素は等距離で「乱れ」ている。
花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日(天保13年1月1日) - 1917年(大正6年)7月9日)は、明治、大正期の外交官。岡山藩士で実業家、政治家(初代岡山市長)花房端連の長男。爵位は子爵。歴任した主な官公職は枢密顧問官、日本赤十字社社長など。
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1 来歴・人物
2 栄典
3 家族
4 脚注
5 関係記録
6 関連事項
7 外部リンク
緒方洪庵の適塾で学び、1867年にヨーロッパ諸国やアメリカに遊学し翌年帰国。1870年から外国官御用掛として外務省に出仕。同年日清修好条規の土慣らしの為に渡清。
1872年にペルー国船に乗船の清国人奴隷虐待問題(マリア・ルース号事件)で外務卿副島種臣の補佐として書記官を担当し、仲介裁判のための代理公使としてサンクトペテルブルクに派遣され、訴訟の後は日露国境画定交渉のため派遣された榎本武揚全権公使を補佐。
1877年、駐李氏朝鮮代理公使に任命されるが翌年1878年8月10日から、1876年5月に締結された日朝修好条規に反して 朝鮮政府が釜山の豆毛鎮に税関を設置し、朝鮮国内の輸入行者に対して関税の徴収を開始したことから、報復措置として代理公使の花房は軍艦と共に釜山に派遣され豆毛鎮に設置された税関の撤去を要求する。最終的に、朝鮮政府が折れる形で事態は沈静化し、1878年12月4日に豆毛鎮の税関は正式に撤去された。1880年4月、日本政府は漢城への日本公使の常駐化を決定、初代公使として花房が任命される。だが、この時点ではまだ漢城に公使館は開いていなかった。この公使館開設の件と仁川開港問題について金弘集と折衝し、その後、漢城に日本公使館正式設置と仁川開港を朝鮮政府に認めさせ、それに併せ日朝間で国書の交換がなされ、花房は代理公使から公使へと昇格した。
その後朝鮮に駐在し朝鮮軍近代化の為別技軍を提案するが、それが原因となった壬午事変では暴徒に包囲された公使館を脱出して命からがら帰国、直後に寺内正毅率いる日本軍と共に朝鮮へ渡り済物浦条約を締結させ、事件の損害補償とともに、漢城への日本軍駐留などを認めさせる。
翌1883年より1886年までの3年間にわたり、在露特命全権公使としてサンクトペテルブルクに駐在した。
その後は農商務次官、帝室会計審査局長、宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長などを歴任した。1896年華族に列せられ男爵。
目黒にある城南五山の一つである花房山は、1911年に花房が子爵に陞爵した際に別邸を構えたことが地名の由来。(現在の品川区上大崎三丁目付近)
竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日(天保13年3月15日) - 1917年(大正6年)3月31日)[1]は、日本の外交官、漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。
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1 来歴
2 主な著作
3 栄典
4 脚注
5 参考文献
来歴[編集]
肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田順左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身の医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮の宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門は儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。
1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅、木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都、江戸、奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。
1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市や玉名市で私塾を営んだ後、1875年(明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使に随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事、北京公使館書記官などを経て、1882年(明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。
1893年(明治26年)、東京帝国大学教授に就任し漢文学を講じた[1]。退官後、小田原に暮らし、76才で没した。1914年(大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士。従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎と結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学の総長となった木下広次が務めている[1]。
姫路銘菓「玉椿」を製造している伊勢屋は、元禄年間(1688年~1703年)に開業し、天保年間(1830年~1843年)に家老河合寸翁の
推挙により、江戸で菓子を学び、姫路に戻った後、藩の御用菓子商となりました。
代表商品の「玉椿」は、藩主酒井忠学と11代将軍徳川家斉の25女・喜代姫との婚礼に当たって作られ、河合寸翁が命名したと
薄紅色の求肥(練って作る餅の一種)で、しっとりした黄身餡を包み込み、粉糖をまぶし「椿の花」に見立てています。
小豆の中でも栽培の難しい「白小豆」を原材料として用い、香り豊かな風味と上品な甘みは、菓子としての風格を
saya 5分ぐらい前
若夫婦二人で働きたいなら、隠居してる祖父母と同居もしくは二世帯住宅にするのがベストなんだろうな。
ryu 5分ぐらい前
人件費が一番のコストだというのにそれを簡単上げろとか言える神経が分からん それに見合う働きをしていることを証明してからが筋
1式砲戦車 7分ぐらい前
世の中大なり小なり矛盾はあるけど、誰も互いの人となりを見ない社会で子を他人に預け育てるって頭おかしいと思うんだけどね。
JING 9分ぐらい前
保育士の不足が問題なら普通給料を上げて呼び込もうとするものだけど、何故そうならないんだろう?
待遇改善はだからする必要なんてない 保育を上げたら介護医療なども上げなきゃいけなくなってどうしようもないからな
>>闇月 馬鹿は分かりやすい方に流れるからね、仕方ないね
イワちゃんP 15分ぐらい前
swivel 16分ぐらい前
保育士は十分足りている、求人倍率も高いようだ。箱が足りないだけ。保育士の薄給を改善する必要はない。嫌なら違う仕事に就けばいい
愛貴婦人 16分ぐらい前
どい太朗 19分ぐらい前
どんな専門性があろうとも、徒党を組んで利権を確保した組織にいないとまともな収入は得られない。逆にどんなb
八津召うなぎ 26分ぐらい前
発給激務の上規制緩和じゃ、安心して預けられなくなるよねぇ・・・
taira 26分ぐらい前
埼玉ラーメンマップしか子供に読ませない保育園とかそのうち出てくるだろうな
nut 32分ぐらい前
人口の分散も考えた方がいいね。都市部で足りないのは保育園だけではないから。
闇月 32分ぐらい前
日本死ねの関連記事のコメは伸びるのに、その原因や理由の内容に触れているこの記事の伸びなさ具合・・・・・・
1つ目の原因はともかく、2つ目は安倍の、3つ目は小泉の責任ってことでいいのかな??
えびおん 37分ぐらい前
さらにモンスターな親とかね 子供を育てるのが楽しくても時間取られて低賃金でモンスター相手にして…そりゃやりたくないわ
kyosuke 41分ぐらい前
規制緩和して企業化すれば当然儲け重視、人件費削減になるわな。今更もとに戻すこともできないし
ryu 44分ぐらい前
保育使わず自分で育てればいいじゃん それだけの覚悟もないのに子供産むな←こういう意見と労働関係の記事の※見る限り自分さえ
千納言 44分ぐらい前
大学や短大がわけわからん学部ばっかり創設してる分、幼児教育がほとんどない現状を対策してほしいとこなんですが
u^2 51分ぐらい前
良い記事。
子供の保育に限らず、介護とか他人の世話ってやっぱり難しいと思うからなあ。
tsj 1時間ぐらい前
良い部分は見習って日本の人の働かせ方、労働システムを見直した方がいいんじゃないか?
賃上げの為には利益を出せばいいだけだと思う 安い保育料でしか満足して貰えない経営方針にも金額しか見ない消費者にも問題がある
tsj 1時間ぐらい前
欧米と日本は違うが、働きながらでも学位を取得したり大学に行きながら子育て出来る環境を作ってる。労働時間に選択肢がある。
幼稚・保育園不足といわれる原因はわかったけど、それ是正していく手段は?
茶沢山 1時間ぐらい前
確か2、30年前の保育師は「保母」が正式名称だったから男性でも「保母」で保父は通称だったと記憶している。
この記事の通りただ働ける人を増やせばいいって問題じゃないんだよなぁ・・・
マスゴミや「週刊誌」を育ててるのは俺らに他ならないとガッカリする。
気付いたらコメ欄9件かよ。掲載が昨日の11時からだとはいえ、こういうマトモで内容の濃い記事が殆ど反応されないのを見ると
fullbocc... 1時間ぐらい前
共働きで子供を預ける必要に迫られる家計状況を考慮してるから元々の保育料が抑え目に設定されてる。賃金が上げられない理由の1つ
猫柳 1時間ぐらい前
知り合いの保育士はモンスター親のクレームに悩まされて辞めたがな
政府が何とかするべき部分とそうでない部分がある。そうでない部分で支払い側が出し渋るのであれば、政府が何しようと変わらない。
いたずらに施設を増やす前に、給料をどうすれば上げることができるかを、現場で考える必要がありそうですね
個人的には歴史的背景はもう弱まってきてるとは思うんだけど。結局は財源じゃないかね。補助金がなければ父母にその負担が行くわけで
茶沢山 1時間ぐらい前
今こそ「めぞん一刻」をリメイクアニメでゴールデンにやろう。五代君の影響で保育師になる人増えるかも知らん。
Afina 1日ぐらい前
寿退職して出産後育児ひと段落ついた主婦をお小遣い渡して即戦力として安く使い倒そうって言う求人なんだよね保育士。
かつや 1日ぐらい前
そしてこういう良質な記事は伸びないだろう。なぜならミンシュガージミンガーという政争の記事ではないからなw
カルル 1日ぐらい前
かつや 1日ぐらい前
死霊術師としてのすべては、今は亡き祖母から伝習した。大学では文学部に進学した。これはもともと歴史学に興味があったことと、死霊術師としていつか遭遇するかも知ない事態に備えるためだった。
大学3年生の終わりころ、死霊術師としていよいよその事態を迎えることになった。
ある日テレビを見ていると、旅番組のようなものがやっていて、滋賀県の西部の山林地帯をいつも見る芸能人が歩いていた。何の変哲もない番組だった。しかし、テレビを介しても充分過ぎるほどに、死者が放つ霊の波動が伝わってきた。もちろん、普段生活していてもその種の死者の波動を感じることはある。霊波は一般に、腐ったり火葬したりして身体が失われると弱まる。またたとえ身体があっても、時間経過によっても霊の波動は弱まる。人間やその他の生き物は、その場にとどまろうという意志を長くはもちえないのだ。恨みだとか、一般に強そうと言われる意志ですらそうだ。こういうのは仏教的に言うと成仏していくってことなんだろう。魂は残らない。めったには。
テレビで知った、滋賀県の霊波は別次元と言えるほど古く、そして強力だった。おそらく、亡骸がある程度そのままの、古い死体があるのだろう。そして、強靭な意志を21世紀でも保っている。
死体と強い意志。これが重要だ。死者蘇生の用件を満たしている。そしてかなり古い。
腕試しにはちょうどいい。見つけてしまったらもう止められない。死霊術の行使者として、その興味関心を止めることはできない。
祖母から習った作法で、霊波の質から霊が生きた(死んだ?)時代のおおよその年代を感じとった。520年+-30年前くらい? 手元の『日本史辞典』を紐解く。室町後期? 手が震える。研究室で『国史大辞典』にかぶりついた。
その頃の近江は一般に長享・延徳の乱と呼ばれる動乱期にあった。守護の六角氏討伐のために将軍足利義尚が長く近江に陣を設けていた。どうやら死体はこの時期のものらしい。
私は大学の研究室の院生の先輩に聴いてその時期の文献を学んだ。また隣りの言語学研究室と国文学研究室に行って、室町時代の言語やその発音について質問した。かなり難しい。筆談の方がいいかもしれない、と祖母のアドバイスを実感をもって思い出した。まさか室町期の死体に会えるなんて。せいぜい行って天保期くらいだと思っていた。古い死体なんてものは時代を遡るにつれて加速度的に少なくなる。祖母は明治4年に死んだ男の死体を蘇生したことがあると言う。これでもだいぶん古い方だ。室町期の死体なんて、祖母からもきいたことがない。後で聞けば、先輩方は私が卒論で室町時代後期を扱うから一生懸命調べていると勘違いしていたそうだ。
春休みに近江に旅した。大きなスーツケースを持って。蓬莱なんてお誂えむけの地名だ。山の方に入っていく。山は静かだった。ほどなくして現場に到着した。霊波は強い耳鳴りのような形で私の身体に具現する。こんな古くて強い霊波、他の死霊術師が気付かなかったのはちょっと不思議だ。まぁ波長が合う、合わない、はかなり厳密だから。私にもってこいのチャンスなのだ。私は女ながらオリエンテーリング部で体を鍛えていたから山歩きは結構得意なのだ。オリエンテーリングなんて全然興味が無かったんだけど、新人歓迎コンパで迎えてくれた先輩方の雰囲気がすごく良かった。サークルでは、大学生なりだけど、人との付き合い方、間の取り方を学べたと思う。高校生の時にはあまり意識できなかった、人間(じんかん)の距離感や発話。
山道から沢に下りる。死体が残った理由が、何となくわかった。日本では死体はすぐ腐って亡くなってしまう。しかし沢下にはぽっかりと、知られざる洞窟が顔をのぞかせていた。多分ここに死体がある。相違ないだろう。もしかしたら近年はずっと埋まっていて、最近になって地震などで再び穴が地表に現れたのかもしれない。だから今まで波動に誰も気づかなかったのかも? 洞窟は沢が近く低温が保たれ死体が保存されたのかも。あるいは永久凍土なんかがあって風穴で涼しいのかも。ま、これを考えても詮無い。とにかく、死体があるのは明らかなのだから。
ひんやりした洞窟に足を踏み入れる。かなり急だ。いよいよだ。震えるほどだ。周囲には驚かれるけれど、死霊術の技術は、実は私にとってはとても簡単なものだ。血も継いでいるし、祖母と言う佳き師もあったから。祖母もいっていたことだが、基本的に死霊術師は技術的な部分はそんなに問題にならない。むしろ重要なのは、死者と会い、契約する時の対話の仕方だ。死者が生きた時代の言語や常識を、こちらが把握してしっかり対話せねばならない。そうしないと蘇生に応じないこともあるだろうし、蘇生したい旨すら伝えられないこともあるだろう。死霊を怒らせてしまっては、あるいは成仏させてしまっては元も子もない。死霊術師の実力はここで決まる。このことを上手くやるために、私は大学では文学部へ行ったのだ。もし死霊術師に生まれなかったら、稲の光合成の研究をしに理学部か農学部へ行きたかった。
洞窟の奥にややひらけた場所があり、その壁によりかかるように木製の箱型の人工物が見える。…ああ、かなり古い牛車だ。小八葉の牛車? 公家が移動手段として用いていたもの。八葉の大きさ、小さい? 大きい? これで身分が大体分かるのだが…肝腎の大きさが、大きいのか小さいのかわからない。そんなの文献に載ってない。牛車なんて初めて見るんだ。そもそも近江に牛車。やや不可解? 足利義尚の近江出陣の際には公家も近江まで出向いたというから牛車できてたのか? それにしたって牛車で近江まで行くの? なにもかも自信が無くなってくる。
これではだめだ。祖母の言によれば、まずはその人をそのまま、そのままに感じるのだ。先入主観は退けるのだ。牛車の文様が大八葉だろうが小八葉だろうが、なかに居る主こそを見るべきなのだ。
精神を澄ませる。霊とは頭の中で会話する。結局、『太平記』のテキストをメインに準備を進めていた。『太平記』は南北朝時代を描いた軍記物で、室町後期には往来物として身分を問わず人々に広まっていた。死体の教養がいかほどであっても『太平記』の語調なら大丈夫ではないか、と考えた。とうぜんテキスト変わっているんだろうけど…。
「私はあなたよりも後世を生きる人間で、その間に人間が語る言葉も変わってしまった。この言葉があなたにどの程度通じるか私にはわからないが、どうか話を聞いてほしい」。ここまでテンプレ。国文学研究室の富田先輩ありがとう。
…牛車がガタガタと動く。御簾が超自然的な動きを示し、内の暗闇をあらわにする。お化けが怖い人はびっくりするんだろうけどもちろん私はそんなことはない。打掛の裾が見える。小袖が二重? そして茶色く干からびた手のひらが…暗くてよく見えない…が、死者に話しかけた段階で幽界との淡いが生起し、この世ならざる強烈なイメージが五感以外から五感を経由し認知される。死体は髪の長い公家の女性が見える。平安時代のオカメで十二単のイメージがあるけど、それより軽装だ。でも相当めかしこんでいる。この時代の人間は小さいしガリガリだな。さぁ、いよいよだ。頑張って蘇生の素体になってくれるよう語りかけよう。
「…私の寂滅からどれくらいの時間が経過しましたか?」むむ、なんとかこれくらいなら聴き取れる。うほっ、「太平記読み」専攻の坂田先輩ありがとう! 高校の非常勤やりながら大変でしょうけど博論頑張ってください。
「五百有余年でございます。『太平記』を読んであなたの時代の言葉を学びました」「…私も『源氏物語』で古の言葉の遣いに触れました。」「実は、…今日はあなたにお話しがあって武蔵国から参ったのです」いよいよ本題だ。
「あなたは強い心をお持ちで五百有余年をお過ごしになられました。そして幸いにしてお体も崩れず残されております。私はあなたの精神と身体とを結び付かせ、再び現し世に復することができます。再び洞窟の外に出て暮らしてみるのはいかがでしょうか」
「たしかに私はまだ黄泉の食物を口にしておりませんね」さすが公家の娘だけある。当意即妙にこたえねば。「私なら黄泉比良坂をあなたを連れて戻ることができます。」「どうして私を選ぶのです」「あなたのように長らく意識と身体とを保つ例はめったにないことなのです。」実はこれはあまり理由になっていない。死霊術師の衝動を説明するには、私には言葉が足りない。彼女が尋ねる。
「当時(筆者注:ここでは現在の事を指す)は死者を供養する作法は未だ仏式を用いますか?」意外な質問だ。自らの供養を望んでいるのか? 「ええ、大分形はかわっておりますが仏の教えは今でも通用しております」「ならば既に死んだ者を私なりのやり方で供養して、意味があるということですね」…あやうく意味を取り損ねるところだった。ちょっと不可解な質問だ。彼女は何を考えているのか。彼女の事を深く知った今になって考えると、これは彼女なりにかなり考え抜かれた、ある種の哲学のようなものだった。彼女の培った供養の作法。そのルールがもし現代で途絶えていたら。つまり仏教が現代に伝わらなくて、もし私たちが何か違う祈りの作法で死者を弔っていたら。きっと彼女は蘇生に応じなかっただろう。彼女の知っているルールで現代でも供養ができる。これが彼女にとって重要だったのだ。
「私は京都の六角富小路に邸宅がある公家(筆者注:ここでは「こうけ」って読んでね!)に生まれました。大乱(筆者注:ここでは応仁の乱を指す)の後の騒擾の世でありますから、私は近江を根拠にする武家の御仁に嫁ぐことになりました。いよいよ渡嫁のとき、牛車が谷に落ちて私は命を落としたのです。嫁ぐことが決まってから、武家奉公人の生活が如何様であるか、主人が如何なる稟性を持つのか。和歌は読めるのか古典は存じているのか。いつも想像していました。」死霊術師の常識から考えれば、それだけでここまで精神は保てない。私はほとんど確信をもって尋ねた。「もちろんそれだけで想いを保つことはできなかったでしょう。どうして。」
彼女はここで初めて表情を私に感じさせた。「実は洛中で一度彼の人をお見かけ申上げたことがあるのです。私の生家は上って四位の家柄ですから、ふらふらと外にでてもあまり咎められることは有りませんでした。ある日京師が物騒になり武家の人が20騎ばかり邸宅の前を過ぎりました。颯爽と武者を連れていたのが、後々判ったことですが我が主人となる方でありました」え? それだけ。うーん恋愛感情ってわからないけど、そんな単純な感情で何百年も持つのかな? 単純だからこそ長持ちする? わからんね。すると彼女が続ける。
「死んだあとはずっと新しい生活の事を考えていました。武家の生活。今まで見知った知識や噂話全てから、ひとつひとつ、未だ来ぬ時の先をずっと、ひとつひとつ限りなく。一日の起きてから寝るまで。衣服の糸先から世情に至るまで。とにかくひとつひとつ。世に現れるであろう現象をすべて想像しうる限り、ひとつひとつ。彼や周囲の人間との交わされたであろう会話をひとつひとつ。彼の人とのありうべき時と出来ごとの全てをひとつひとつ想像していたのです。そうしたら、ええと、五百有余年過ぎ去っていたというわけです。」そうして彼女は莞爾した。私は一発でこの女性を好ましいと思ってしまった。こんな偏執的で叮嚀な思考回路を持った人があるだろうか。この人なら。彼女に21世紀の平成の世の中で夫となるはずだった人の菩提を弔わせたり、あるいは彼の一族についてその後どうなったか調べさせたりすることは、彼女の心性をおそらく負に傾けることはないだろう。ひとつひとつ、彼女には想像したことの自分なりの答え合わせをしてもらえたら。私がそのお手伝いができたら。ちょっと身勝手か。とにかく、この人なら大丈夫だ。
好奇心とイマジネーションとを併せ持って、平成の世まで意識を有した五条顕子姫の死体は、その意識と共に、こうして私の赤羽のマンションにやってきた。
名付けについて、もう何度目かっていう議論が巻き起こっている。
いわゆる諱だったら大抵二文字で、家ごとに通字がある。源氏のある種の家系や松浦党は諱一文字で特例だ。通字は一種類のこともあれば、たまに二種類のこともある。三条家とかは二種類通字がある。諱が二文字になる以前の古代の話は省略するぞ。すまんな佐伯今毛人。
通名もある程度ルールが決まっている。江戸時代の百官名や東百官など。東百官って実はルールの逸脱なんだけど、それがルール化してしまっている。
要するに昔は名前の付き方にかなり厳格なルールがあったということ。
言い方は悪いが、キラキラネームを付ける人は教養がない人が多い(書いてて思うが、こんなこと増田じゃねーと書けないな)。
江戸時代の農民はまぁ教養はそんなにないだろう。キラキラネーム付けちゃうことはなかったのだろうか。
個人的には農民であってもある程度名前にルールがあったように思う。すなわちキラキラネームは付かない。なぜか。
彼らはほとんど名前について考える知識も素養も機会もなかったから、そこらにある名前をあまり考えずに適宜つけていたか、教養のあるお坊さんなんかに頼んだのではなかろうか。
明治時代になっても、何らかのルールはあったはずだ。次第に通名と諱の区別が無くなる。私の曽祖父の祖父は明治期茂三郎と名乗っており子孫も茂三郎じいさんと呼んでいたようだが、天保期の文書には茂三郎直俊とある。明治時代に諱を使用しなくなった世代なのだろう。あるいはこの世代の中には諱の方を名乗りに採用した人もあるだろう。とにかく、何となくルールは存続する。「~子」という、伝統的に見えてその歴史が結構浅い女子への名付けも、元は公家社会の女子名にルーツがある。要するにルールがある。
さていよいよ戦後だ。戦後の民主化。これが実はキラキラネームの直接的な引き金になっている。またその基礎部分には西洋文化の流入がある。この流入は明治維新前後から連続しているが、本格的に高度経済成長を迎えるところに画期があるように思う。服装に和服が消えるころ。このころに、名付けというか、名付け方への変化が起こる。
要するに民主化なのだ。個人個人が投票権を持つようになったのと同様に、個人個人が考えて名前を付けるようになったのだ。だからキラキラネームが続出する。とくにルールが意識されていた世代が亡くなったのち。江戸時代の農民と今のキラキラネームを付ける層(雑駁な分類だとはわかっているがあえてこうするぞ)。両者の違いは何か? それは「自分で考え行動する度合い」だ。選挙が本当にわかりやすい。江戸時代の人間は為政者を決めることはできないし決める必要もない。個人に人権が与えられ個人の権利がなんと国の根本法典にまで認められた現代では、個々人が自由に選択し思考することを全く妨げない。ここに両者の違いがある。知識のない人が自由に考えた結果どうなるか? 光宙が生まれるのだ。
これは必ずしも悪いものではない。知識や故実に詳しい人、少しでも馴染んでいる人はキラキラネームに顔をしかめることもあるだろう。しかしルールなき名付けこそが民主化の成熟とも言いうるのだ。だがここに民主化の問題点も浮き彫りになる。教養がなくてもやっていけるのだ。教養批判なんてそこらへんで見かける。確かに教養ってのは鼻につく存在で、自分がそれを知らないとバカにされたような気になって教養批判に走りがちだ。しかし、なんと、これが現代では許される。何故か。自由が憲法で保障されているから。江戸時代じゃ無理。武家社会でやってけない。今なら別に教養無くてもいい。あってもいいけど。ということで名づけのルールの消失は現代社会を占う一つの要素だ。私としてはこういう自分で考えなければならない時代だからこそ個人で努力し、考える力をこそもっとも重視して培わなければと思う。