はてなキーワード: 取り手とは
立憲民主主義を掲げる姿勢には賛同するし、枝野さんのことは原発対応のときから好きだし、自民党のことは新型コロナへの対応で大嫌いになった。
でも、枝野さんを含め、立憲民主党の議員が喋ってるのを見るたびに、ものすごく心がしんどくなる。
いっつも目を吊り上げた怖い顔をして、きつい言葉で怒ってるイメージ。
あれを見るだけで気分最悪で、しばらく立ち直れなくなる。比喩ではなく、ちょっと吐き気がしたり動悸を感じたりする 。
最近だと、ニュース記事の文字で見るだけでもダメ。記事を開いて飛び込んできた文字を認識した瞬間にしんどくなって即閉じ。毎回、「見なきゃ良かった」って後悔する。
自民党の会見は、内容にむかつきはするけど全然しんどくない。中身が嘘っぱちでも、明るいメッセージ風に仕立て上げられているからだと思う。
不機嫌な顔とか、怒りがこもった声は、暴力だと思う。
正しいことを言っていれば済むってのは思考停止だと思う。支持者が暴力から目を背けて甘やかしてるんじゃないか。
自分で小規模ながら保護猫活動してみて、いかに保護猫を家猫にするのが大変か身に沁みた。
生まれたての子猫は2~3時間置きに休みなしに授乳し続けた。人間の赤ちゃんと同じぐらい手がかかった。
1~2ヶ月で離乳してくれるから良いけど、あれが何ヶ月も続いてたら確実にノイローゼになってたと思う。
ダニ、寄生虫、猫風邪、ワクチン、避妊手術、マイクロチップ……その他にも想像していなかったさまざまなケアが必要だった。
実際にかかるお金も凄いけど、このケアにかかった時間と労力は膨大だ。
それらのケアを受けてなお、後々障害が見つかったりエイズや白血病が陽性だとなかなか引き取り手もなかったりする。
保護猫団体の審査が厳しすぎるとか文句を言う人、今なら「当たり前だろ」って思う。
そこまで人々の善意で人が飼っても大丈夫な状態まで育てられた安全な猫を、わずかな医療費とかワクチン代だけで譲る。
そりゃ絶対にこの人なら大丈夫だと思う人に譲りたいよ。厳しくなるのも仕方ない。ここでヤバい飼い主や虐待犯に譲るとかわけわからないもの。やってる側も死にたくなるよ。
文句があるならお前が自力で保護して飼い猫レベルになるまで育ててみろと思う。
本来野生の動物を飼えるレベルにするってあらゆる意味ですごいことなんだよ。
(追記)
たしかに法規制して貰う方がいいね。マイクロチップから愛護動物の譲渡の動線が辿れるようにしてほしい。
これは個人の感覚だけど、年収証明とかアポなし家訪問とかはやりすぎだしあたおか団体だなーと思う。
けど、譲渡後に数回でいいからその後の様子を写真付きで報告することとか、その程度の手間すら「頭おかしい」とか言うやつは保護猫に関わらんで欲しい。
2(https://anond.hatelabo.jp/20210828220400)のつづき
『アイアンリーガー』は、基本的には優しい物語だ。彼らの努力や苦闘は最終的には報われ、そして(恐らく)最後はハッピーエンドを迎えるだろう。(迎えますよね?)
しかし、物語でロボットたちが直面する苦難は、決して甘いものではない。先述したロボットとしての宿命はもちろんのこと、彼らが心を持つモノであるが故の葛藤は非常に厳しいものだ。そして彼らの葛藤を通して僕たちに投げかけられている問いも、また厳しい。
彼らは意志を持つモノだ。意志を持つからこそ、自らの宿命を乗り越える余地がある。しかし一方で、意志は必ずしも良いものとは限らない。あるいは、仮に良いものであったとしても、それが良い方向に働くとは限らない。一つの意志は、別の意志を阻害する可能性を持っている。あるいは、意志もまた一つの「制約」になりうる。トップジョイと彼を取り巻くシルバーキャッスルの葛藤は、その象徴的な物語だ。
トップジョイのスパイ行為がまだ明るみになっていなかった時点で、トップジョイとシルバーキャッスルは相容れない様相を見せていた。ラフプレーをするトップジョイを、シルバーキャッスルは認められないのだ。
それまで、シルバーキャッスルのメンバーはトップジョイを温かく受け入れていた。そしてトップジョイ自身も、スパイという立場でありながら、シルバーキャッスルに好意を抱いていたに違いない。それにも関わらず、ラフプレーを繰り返すトップジョイに、シルバーキャッスルは厳しい態度を取った。
ラフプレーは、トップジョイのスパイ行為としてのものではなく、真にトップジョイが良かれと思ってした行為だった。それでも彼らはそれを認められなかった。試合で決勝点となるオウンゴールを決められてしまった時でさえ「笑って済ませた」彼らが、である。彼らは結果として、トップジョイを追いやったダークのバスケットチームと同じことを、トップジョイに宣告する。
それは、シルバーキャッスルの「意志」と、トップジョイの「意志」が対立した結果だ。
フェアプレーを貫く。それがシルバーキャッスルの意志であり、同時に、シルバーキャッスルがシルバーキャッスルである理由だ。もしトップジョイのラフプレーを受け入れてしまえば、シルバーキャッスルとしてある意味がなくなってしまう。特定の目的(つまり意志)を持った集団は、その目的や意志に反するモノを本質的に受け入れられない。たとえそれが悪意でなかったとしても、そして、「あなたが好き」であったとしてもだ。
そしてトップジョイのスパイ行為が明かされた時、シルバーキャッスルは、彼に手を差し伸べることができなかった。
シルバーキャッスルのリーガーたちは、皆善性の象徴のような存在として描かれている。それまでの話を通して、彼らの正々堂々を尊ぶ精神や、仲間を思う優しさ、苦難を乗り越える強さは、繰り返し描かれていた。その彼らが、目の前で苦しんでいるトップジョイを、仲間として助けることを一度は拒絶したのである。
そこで提示されたのは、彼らが、彼らの持つその善性故に救えないモノがあるという事実だった。
仲間を傷つけかねない状況を作ったトップジョイを、彼らは許すことはできない。仲間を、大切なものを守りたいからこそ、それを裏切ったトップジョイを許すことはできない。彼らは自らの意志で彼を拒絶することを選んだ。それは決して悪意ではなく、誰かから強制されたものでもない。
トップジョイの背景を知っている僕たちは、その光景に胸を痛める。しかしその光景は、僕たちに一つの事実を突きつける。僕たちもまた、トップジョイを受け入れられないかもしれないという可能性を持っているということだ。あのシルバーキャッスルでさえ、彼を受け入れられなかったのだから。
『アイアンリーガー』は、シルバーキャッスルのリーガーたちを聖人にはしない。彼らもまた迷い、限界を持つ、あくまで僕たちと地続きの存在として描く。それ故に、シルバーキャッスルの姿は僕たちの一つの側面である。時に悪意のないものを悪とし、集団から排除する冷酷さを、僕たちは抱えている。
シルバーキャッスルの「シルバーキャッスルを守りたい」という意志は、トップジョイの「ここにいたい」という意志を阻むものだった。それは同時に、トップジョイが好きだという、シルバーキャッスル自身の意志をも阻んでいる。「意志を持つ」こと、そしてそれを貫くということの逃れ得ない宿業を、『アイアンリーガー』は真正面から描き出す。
しかし、それでもなお、『アイアンリーガー』は希望を提示する。トップジョイは自らの意志でダークの呪縛を断ち切り、シルバーキャッスルのメンバーもまた、彼を許し、受け入れる。
トップジョイもまた、自らの意志が自らの制約となっていたキャラクターだった。過去に観客を沸かせて得た喜びと、それに基づく「あの場所に帰りたい」という意志は、新たに生まれた「シルバーキャッスルにいたい」という意志を最後まで阻み続けた。第八話から続いた、シルバーキャッスルや子どもたちと心を通わせながら、ダークのスパイであり続けるという彼の矛盾した行動は、その葛藤の現れだったのかもしれない。
しかし最後、トップジョイは自らの中にあった意志の相克を決着させた。本当に自分にとって大切なものは何かを、自分の意志で決めた。そして、たとえそれがシルバーキャッスルに受け入れられなかったとしても、ダークにも、そしてシルバーキャッスルにも、どこにも自分の居場所がなくなるとしても、それでも「守りたい」という意志を貫いた。外面的な制約も内面的な制約も乗り越えて、トップジョイは意志を固め、それを全うした。
シルバーキャッスルも、そんなトップジョイを受け入れることを選んだ。それは、トップジョイがシルバーキャッスルに受け入れられるようになったから、というだけではない。許すという行為は簡単なことではなく、受動的な行為でもない。彼ら自身がトップジョイの行動と意志を見て、彼ら自身の意志で、彼を許すと決めた。彼を再び仲間として迎え入れることを選んだ。「トップジョイと一緒にいたい」という意志を貫くことを決めたのだ。
『アイアンリーガー』で描かれているのは、人間に操られる可哀想なロボットたちの悲劇ではない。第十三話の最後、仲間に囲まれたトップジョイの絵に描かれているのは、与えられた場所で、与えられた形で生きざるを得ない「意志を持つモノ」ーーそしてそれと地続きにある僕たちーーが、その意志故に苦しみながらも、最後に至った希望の姿だ。意志を持つモノは、僕たちは、内にそれ故の冷酷さを抱えたままで、それでも誰かに優しくなることができる。過去の呪縛を振り切り、過ちを許し、弱さを乗り越え、そして、自由になることができる。『アイアンリーガー』は、意志を持つということの宿業に向かい合いながら、それでもその先にある希望を見つめている。
『アイアンリーガー』という作品を、あえて外形的な説明を諦めて一文で表すとしたらーー月並みで申し訳ないが、「意志を持つモノが思う通りに生きるために戦う物語」とでも言うのだろうか。
ロボットという存在が、人間の隠喩としての機能を持っていると既に述べたが、それは作中で描かれているスポーツにしても言えることだ。確かに『アイアンリーガー』でロボットたちはスポーツをしているが、作中ではどうにもスポーツに対する拘りが見えない。グローブをはめてサッカーフィールドに出るわ、サッカーチームが野球の試合に出るわ(おまけに「野球なんて簡単よ」という暴言まで吐く)、剣の道はバッターボックスにあるわ、スポーツをしている人間が怒り出しそうなほどのいい加減さが、『アイアンリーガー』にはある。
結局のところ、スポーツもまた、一つの隠喩、象徴に過ぎないのだろう。大切なのは彼らが「思う通りにやりたいことをやる」ことであり、その場がたまたまスポーツだっただけだ。乱暴に言えば、別にクラシックが持て囃される世界でロックを奏でる物語でも、新古典主義に対抗する印象派という物語でも良かったということである。もしかしたら『アイアンリーガー』の世界のどこか別の場所では、やはりロボットたちがそんな戦いを繰り広げているかもしれない。いずれにしても、それがどんな場所であれ、大切なのは彼らが「思う通りに生きる」ということである。
『アイアンリーガー』の中で、ロボットたちは「人」と呼ばれる。『アイアンリーガー』では、人間もロボットも、同じ意志や感情や心を持つモノとして、同じように「人」と呼ばれているのだろう。ロボットたちは「人」として、「人」故の葛藤に苦しみながら、自らの意志で、為したいこと為したいように為す。それはシルバーキャッスルのロボットであろうと、ヒール側のダークに所属するロボットであろうと同じである。誰が何と言おうとも、それが望まれたものでなくても、それが好きで、ここが好きで、ここにいたいから、だから、戦う。世界と、そして、自分と。
マッハウインディはダークの支配を、ブルアーマーは生まれながらに課せられたバグと過去を、極十郎太は剣士としてのプライドと固定観念を、キアイリュウケンは自分に与えられた役割と機能を、トップジョイは与えられた心の特性と思い出という呪縛を乗り越えた。
S-XXXは、その可能性を垣間見せつつも、乗り越えるところまで行き着くことができなかった。悲劇ではあるが、それもまた戦いの一つの結末である。
そして、マグナムエースは、GZはーーそれはきっと、これから描かれていくのだろう。彼らの物語は始まったばかりだ。
そういうわけで、冒頭に戻る。「ロボットがスポーツをするアニメ」では『アイアンリーガー』の何たるかは一ミリも伝わらないし、しかもこのアニメ、子ども向けでもない。いや、もちろん子どもも観れる内容であるし、ぜひ見てほしいアニメであるが、しかし、この物語に真に共感するのは、社会の中で何らかの役割や立場を与えられて生きづらさを感じている大人の方ではないかと思う(無論、子どもは子どもで様々な制約の中で生きているのであるが)。覚悟もなく軽い気持ちで見始めた人間が、何もかもが詐欺だと喚き散らすのも許してほしい。心の遣り場がないのである。
覚悟ーーもちろん『アイアンリーガー』というエンターテイメント作品を楽しむのに覚悟などというものは不要な訳だが、しかし、彼らの生き様に心を震わせられる僕たちは、ロボットたちの姿に、一つの覚悟を問われているような気がしてならない。
意志を持つということ、意志を貫くということは、痛みや葛藤と隣り合わせだ。しかしその道の先に、意志を持つモノだけが見ることのできる世界が広がっている。僕たちを雁字搦めにする世界のあらゆる制約の中で、それでも、僕たちが「意志を持つモノ」として生きていくことへの厳しくも温かい声援が、僕が第十三話の時点で『アイアンリーガー』に見た、僕の指針としてのテーマだ。
『アイアンリーガー』は三十年近く前の作品だが、未だ色褪せることのない魅力と、令和の時代にもなお僕たちが向き合い続けている命題を宿している。この時代にこの作品に出会えた幸運に思いを致し、僕にその切っ掛けを与えてくれた先達たちに心より感謝を申し上げる。
おわり
※本筋とまったく関係がないのでここに書くが、そもそもとして、作品のテーマというものは、作者が自分の表現したいものを「表現するための」指針の一つであり、そして作品の受け手の側に立てば、受け手が自らのフィルタを通して、ある種「勝手に」見出した「何か」、あるいは作品を「受け取るための」指針であると僕は考えている。そして、作品というものが、作者の発信と受け手の受信の双方によって初めて成立するものである以上、作者の意図するテーマと受け手の受け取ったテーマが異なっていたとしても(あるいは、作者がテーマを全く設定していなかったとしても)、そのどちらかが正しいということはあり得ない。(曲解を元に作品や作者を誹謗中傷するのなら、それは作品テーマの解釈とは別問題である。)作品に「真のテーマ」などというものは存在しないし、作者が作品にテーマを込めようと込めまいと、そして受け取り手がテーマを見出そうと見出すまいと、それは作品の本質には何ら関係がないのである。
なにかというと弱者の救済は自分も弱者になる可能性もあるし倫理的に情操教育とか人権的にという話になりがちだが
実際のところ強者が弱者に転落することなんてそんなにあるわけでもないし、いざそうなったときにさあ福祉だという待遇もない
いいことなのかそうでもないのか、やさしさや余裕なのかという話でそれぞれの価値観と感情を結び付けて答えを都度はぐらかしているけど
すこし余計な話をはさむが
先般炎上した不要とかいう話は特にそうだが感情というのは情報が人間に直接接触して産まれてくるもので それをもとに行動をすると
直情的で短絡的な結果にいきつく
それはその場は気持ち的に解決するので気持ちがいいものだが後から大きくリボで積み重ねた歪みが清算にやってくる
あとでその支払いタイミングになったところで最初の問題発生時と解決が不十分だったから新たに問題が維持されていたことはさておいて
取引や法制度で感情をはさまないように文章化するのと晃かな基準で条件を交換するのはその無駄を省くためだ
まず局面的にホームレス個人をみて一般人個人の感想としてというのは最終的なところまで置いておいてほしい
まず感覚でどう思うか、それが大事だという呼びかけこそが炎上を招きより小さいコストで大きく問題を解決する邪魔になる
炎上商法はその非効率を用いてなにが儲かるのかというと 非効率で手間がかかりその場で不満が生じるそこに商品をもってくるのだ
日照りで乾燥して喉が渇いた状態をつくって 冷やした水をもってくるのと同じ
冷たい水で元気になって 取り組むやる気を伸ばした後で日照り対策をしよう なんて順番は「炎上させられた側だけ」の都合で
炎上によって問題が発生した当事者や対象は感情で乾燥を抱いている外野とは関係なく状況が進行している
福祉はやさしさや思いやりで行っているわけではない
不要で迷惑なやつらを処分するのに一番効率がいいのは それを邪魔だと思っている側に取り込んでしまうことだ
これが生活と完全に切り離された不要なものだとすると 捨てるだろう
その辺にポイ捨てしてるのがなくならない理由 そのへんにゴミをすてるのが無くならない理由
家庭内でリサイクルしたり継続して利用できるものであればどうだろうか
ブランドものを購入したときの持ち帰り用の紙袋は 電気屋でもらう紙袋やコンビニの袋と同じ扱いだろうか
使いでがあるのでゴミにならずに済んでいる
堆肥として利用可能な生ごみや 燃料として利用可能 造形物などの作品に利用可能であったり素材としてつかえるもの
または買い取り手があり売れるもの 引き取りてがあるものはその辺にポイ捨てするだろうか
不要だと切り分けることによって社会としてはそれに対処するコストが発生する
ゴミの回収や収集 処分といった作業に人手が使われることにコストが発生する
これを捨てずに済むようにつかえば コストはぐっと押さえられるだろう
全国民を確認しその中で適切な処理として 処分を割り出す必要がある
これは単純に国が二つになるくらいにコストがかかるのではないだろうか
次に不要であることが確実だと判明したあとの人間の処遇が必要になる
不要であれば即座に廃棄しないと問題が発生することは明らかである
それだけでもコストが大きいけれども そんな処分が追いつくはずもない
であれば一旦確保しておく必要があるがその安全の維持と管理機能には
健全な人間の何倍もコストがかかる 規律を守らず常識では考えられない行動をし
倫理観もなく行動する人間が健康な人間より低いコストで管理できるわけがない
済む場所を分断し貧民街と富裕層で分けるように壁をつくればよいかもしれないが
そういった文化の国は多くある
結果は見ての通りだ
富裕層は貧民からの一斉蜂起に怯えながら貧民層は国益をただ引き下げながら生活し
一向に埋まらない溝を維持管理しつづけるためにコストを払い続けることになる
社会的機能を利用することができて最低限の生活を選択することができ
かつ常軌を逸した行動で利益や生命を守ったりする必要がなくなる
社会として管理されている範疇に 常識的な低層者とあわせて近いほぼ同じ扱いの延長で
対応することができる
飼い犬の維持には金が掛かるが 山に放たれた野生の犬を社会と接点のある部分について
ホームレスが感情的にイヤなものなので 目の前からきえてほしい という感情をもって
不要なものこそ排除や処分といった 存在について等価なコストを支払い快感を得ようとする
無駄な富裕層の遊びみたいなものに踊らされ消費を促されるより前に
不要なものこそ捨てずに取り込み利用することができれば 収入や元手が少なくとも
より大きな利益に繋がることを見据えてほしい
倫理が常識が人権が というところで思考を停止して反論したり直情的にポリコレであれば殴っていい棒だと
一旦ホームレスは汚くて気持ち悪いから不要で殺してもいい と思考実験してみてほしい
たしかに禁忌でおぞましい話でそんなこと考えるべきでも話すべきでもないと思うが
その上で それがいかに無駄なことか 嫌悪し反発するより取り込み遠ざけるほうが
いかに効率的で安全で 管理下にあり感情的にロスを少なくすることができるか
そのプロセスを全員が触れることができる自由があることこそかなり稀有な平和と安全のある日本ならではのメリットだろう
汚い嫌だ不要だきもちわるい それを排除しようとすることこそコストが増大し
その増大したコストと手間につけ入って 本来不要なプロセスや商品を割り込ませてくる
ビールが好きで社会人になってから大分のみ歩いた。休日はブルワリーを巡り、クラフトビールを飲み歩いた。同期、先輩、後輩及び友人とそしてマッチングアプリで引っ掛かってくれた女性と連れたってビアバーに行き、布教しまくった。女性と後輩なら必ず奢った。チェコとドイツに行き本場を味わい、通販で様々な銘柄を買って、記憶の相違を確かめた。変わったところでは米軍基地なんかで飲んだ。オクフェスの殺人的な値段付けを憎んだが、良心的なビアフェスがボランティアだのみなのも怒っていた。全国転勤を利用して海外ビールの飲みやすい名古屋へ越した。休日の過ごし方はとりあえず飲みが中心だった。
最近『ラーメン再遊記』という漫画を読んでいて主人公のいう「昨今はクラフトビール・ブームと言われ多種多様でハイレベルなビールを楽しめる状況になってきているが、シェア的には大手メーカー遠く及ばない。その理由は様々に考えられるが…昔ながらの『風呂上がりの生』を凌ぐビール体験を生み出しえていないということは大きいかもしれん」というセリフにノックアウトされてしまった。思えば、銭湯でサウナに入ったり、ランニングしてシャワーの後で飲むのは大好き。ヨーロッパに至っては時差の関係もあり、ギンギンに目のさえた朝走りまくって昼からの飲みに備えていた。風光明媚な市街地、マイン川のほとり、すべてはビールへの助走である。
薄々気づいてはいた。ドイツでだって汚いグラスに洗浄の行き届かないタップから注がれた温度管理されてない樽のビールはカラオケ屋の金麦よりまずかった。サーブされる環境と受け取り手の体調にめちゃくちゃ左右される。それははっきりと銘柄やビールの種類を選ぶ楽しみのすぐ隣で生中に1000円払ってなお、あんまりうまくなかったなという感想になることがある。
快楽を形作る要素として一番大きいは受け取り方だ。風呂上がり、ランニングの後、残業その他ストレスのすべて(ストレスはすべてアルコールをうまくする。おれは労働を止められる気がしない)の後で飲むことそれがすべてだ。後はちょうどよく冷やすことだ(ヨーロッパでは常温で飲むとかしたり顔で言う奴を無視しろ。ヨーロッパは寒い土地だ)。色んなビールのスタイルにチャレンジして尺度がついてしまったのもある。もう好きな味だけ飲めばいいという気もする。
そもそも発泡酒も新ジャンルも好きだ。酒税に翻弄されてできたレシピであるギネスがビールなら、バーリアルだって文化の味わいだ。
うまいビールは本場にはだけではない、ビアホール、ホームタップだけでもない。どこでもいつでもうまい。すべては心のありようだ。それに気づいた。高いビールに果敢にチャレンジすることは減って行くがビールが嫌いになった訳でもない。ちょうどいい距離を保てそうである。ありがとう『ラーメン再遊記』最高の漫画だぜ。
以前から色々言われてたけど、最近、というかAPEXが広まってから死体撃ち含めこういうのにすげー敏感になってるように感じる。
実際に見るとまあ『おうおうやってんねぇ』とは思うし別に自分ではわざわざしないけど、ご丁寧に晒したりして叩かれるほどではないだろ。
これ結局『自分が不快だからやめてください!!』ってやつだと思うんだけど。結局お前は負けてるじゃん。
実際のところは負けてるイライラが8割で煽りは2割ぐらいじゃないの。煽りきっかけでイライラが爆発しちゃってるだけで。
APEXだと箱漁る時の屈伸は煽りだと思ってた人もいたし、結局受け取り手が不快なら全部煽りになってしまうじゃん。
まあ一応、将棋とかオセロとか含めて、対戦するものって、『相手が不快になることをする』けど、『盤面外戦術はだめ』みたいな話だと思うし、それはわかる。
でもゲームだと全部ゲーム内のことなんだから別に良くね?ゲーム内でもそこは盤面外なのか?ゲームの目的から外れてる?実装されてるゲーム内のプレイ幅で何かをするのは目的外なの?
無意識でも、意識してでも、対人ゲームで目的から外れてる行為とか舐めプとか一切したことなくて、一心不乱にストイックにやってんのかな?
結局悔しいんだろ?じゃあそれをバネにして強くならないか?勝てばいいんだぞ?って思うんだけど、これも平成に取り残されてる人間の考え方なのかなぁ
ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨雲レーダーを見ていた。
広い門の下には、この男のほか誰もいない。ただ所々ペンキの剥げた、大きな円柱にドローンが一機突き刺さっている。
羅生門が朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみを待つSIerやプログラマーがもう二三人はありそうなものである。
それが、この男のほかには誰もいない。
何故かと云うと、この二三年、京都には地震とかDDoS攻撃とかEMPとかドローン攻撃とか云う災がつづいて起こった。
そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、サーバーやEVを打ち砕いて、その貴金属が使われたり充電池がそのままだったりする金属の塊を建築資材として売っていたと云う事である。
洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、
営業職が棲む、意地悪な顧客が棲む。とうとうしまいには、引き取り手のないSEを、この門へ持って来て棄てて行くと云う習慣さえ出来た。
そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪がってこの門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
その代わりまたドローンがどこからか、たくさん集まって来た。昼間見ると、そのドローンが何機となく輪を描いて、高い電波塔のまわりを
ブンブン言いながら飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それがゴマをまいたようにハッキリ見えた。
ドローンはもちろん、門の上にいるSEをせっつきに来るのである。_______もっとも今日はあまり仕事がないのか一機も見えない。
ただ、所々崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、墜落したドローンの残骸が落ちているのが見える。
下人は七段ある石段の一番上の段に、何日も洗っていないスーツの尻を据えて、右の頬に出来た大きな人面瘡を気にしながら、ぼんやり雨のふるのを眺めていた。
作者はさっき「下人が雨雲レーダーを見ていた」と書いた。しかし、下人は雨雲がどうでも格別どうしようと云う事はない。ふだんなら、
もちろん会社へ帰る可き筈である。ところがその会社からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通り
ならず衰微していた。今この下人が永年、使われていた会社から暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。
だから「下人が雨雲レーダーを見ていた」と云うよりも「雨に降りこめられた下人が、行き所がなくて途方にくれていた」と云うほうが適当である。その上、今日の空模様も少なからず、この平安朝の下人のSentimentalismに影響した。
申の刻下がり(16時以後)からふり出した雨は、いまだに上がるけしきがない。そこで下人は、何をおいても差当り明日の暮らしをどうにかしようとして____云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えを辿りながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を聞くともなく聞いていたのである。
雨は、羅生門をつつんで、遠くからざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると門の屋根が、斜に突き出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。
どうにもならない事をどうにかするためには、手段を選んでいる遑(いとま)はない。選んでいれば、高架の下か道端のベンチの上で、餓死するばかりである。選ばないとすれば____下人の考えは、何度も同じ道を低徊(ていかい)した挙げ句に、やっとこの局所へ逢着(ほうちゃく)した。しかしこの「すれば」は、いつまで経っても結局「すれば」であった。下人は手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「転売屋になるほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの勇気が出ずにいたのである。
下人は、大きなくしゃみをして、それから大儀そうに立ち上がった。夕冷えのする京都は、もうカイロが欲しいほどの寒さである。風は門の柱という柱の間を、夕闇と共に遠慮なく吹き抜ける。円柱に突き刺さっていたドローンも、もうどこかへ吹き飛ばされてしまった。
下人は頸(くび)を縮めながら、カッターシャツに重ねたヨレヨレのジャケットの肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患(うれえ)のない、人目にかかる惧(おそれ)のない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも夜を明かそうと思ったからである。
すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の狭い、点検用の梯子が眼についた。上なら、人がいたにしてもどうせ疲れ果てて寝ているSEばかりである。下人はそこで、腰にさげた特殊警棒が伸びないように気をつけながら、便所サンダルをはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。
それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の狭い梯子の中段に、一人の男が猫のように身を縮めて、息を殺しながら上の様子を窺っていた。楼の上からさす白色光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い髭の中に、赤く膿を持った人面瘡のある頬である。下人は初めから、この上にいる者は寝ているSEとばかり高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰かがスマホライトをとぼして、しかもその灯りをそこここと動かしているらしい。これはその濁った、白い光が隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で灯をともしているからは、どうせただの者ではない。
下人はヤモリのように足音をぬすんで、やっと急な梯子を一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体をできるだけ平らにしながら、頸をできるだけ前へ出して、恐る恐る楼の中を覗いて見た。
見ると楼の内には、噂に聞いていた通り何人かのSEが無造作に寝ているが、ライトの光の及ぶ範囲が思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら知れるのは、その中に手ぶらの者とPCを持っている者があるという事である。もちろん、中には女も男もまじっているらしい。そうして、そのSEは皆、それがかつて労働意欲に燃えていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土をこねて造った人形のように、口を開けたり手を延ばしたりして、死んだように床にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖(おし)の如く黙っていた。
下人は、それらのSEの様子に思わず眼を覆った。しかしその手は、次の瞬間にはもう眼を覆うことを忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとく男の視界を奪ってしまったからだ。
下人の眼は、その時はじめてそのSEの中にうずくまっている人間を見た。桧皮色のジャージを着た、背の低い、痩せた、白髪頭の猿のような老婆である。その老婆は、右の手にライトを灯したスマホを持って、そのSEの一人のPCを覗き込むように眺めていた。腕に抱いている所を見ると、多分ノートパソコンであろう。
下人は、六分の恐怖と四分の好奇心に動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「えぐいって」と感じたのである。すると老婆は精密ドライバーを取り出して、それから今まで眺めていたノートパソコンに手をかけると、ちょうど猿の親が猿の子のシラミをとるように、そのノートパソコンを分解しはじめた。かなり手慣れているらしい。
電子部品が一個ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が少しずつ動いて来た。____いや、この老婆に対すると云っては語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人にさっき門の下でこの男が考えていた、餓死をするか転売屋になるかと云う問題を改めて持ち出したら、おそらく下人は何の未練もなく、餓死を選んだ事であろう。それほどこの男の悪を憎む心は、指数関数的に勢いよく燃え上がり出していたのである。
下人には、なぜ老婆がSEのノートパソコンを分解するかわからなかった。従って、合理的には、それを悪であると一方的に決めることが出来なかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、SE自前のノートパソコンを分解すると云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が転売屋になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。
そこで下人は、両足に力を入れて、いきなり梯子から上へ飛び上がった。そうして特殊警棒に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩み寄った。老婆はマイコンで自作した監視カメラで、事前に下人の動きを見ていたのだが、想定外の行動に飛び上がった。
「どこ行くんじゃワレ!」
下人は、老婆が寝ているSEにつまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行く手を塞いで、こう罵った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押し戻す。二人はSEの浅い寝息の中で、しばらく無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は初めから分かっている。下人はとうとう老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。ちょうどケンタッキーフライドチキンの骨のような腕である。
「何しとったんじゃ!云え。云わんとこれやど」
下人は老婆をつき放すと、いきなり特殊警棒を伸ばして、黒くて硬くて長いものをその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわな震わせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど見開いて、唖のように執拗(しゅうね)く黙っている。これを見ると、下人は初めて明白にこの老婆の生殺与奪の権を自分が握っていると云う事を意識した。そしてこの意識は、今まで煮え滾っていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をしてそれが納期に間に合った時の、安らかな得意と満足があるばかりである。そこで下人は、老婆を見下しながら、少し声を和らげてこう云った。
「ワシはマッポでもSECOMでもない。今し方この門の下を通りかかった暇なヤツや。せやからお前に縄かけてどうこうしようっちゅう事もない。ただ、今時分この門の上で何をしとったんか、それをワシに話しさえすればええんや」
すると老婆は、見開いていた眼を一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。まぶたの赤くなった二階幹事長のような、鋭い眼で見たのである。それから皺でほとんど鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉からカエルの鳴くような声が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
「このパソコンのCPUを抜いてな、型番とコア数を偽装してな、転売しようと思うたのじゃ」
下人は、老婆の答が存外平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷ややかな侮蔑とともに心の中へ入って来た。するとその気色が先方へも通じたのであろう。老婆は片手にまだ抜き取ったCPUを(素手で)持ったなり、蟇(ひき)のつぶやくような声で、口ごもりながらこんな事を云った。
「なるほどな。SEからPCを奪うという事は、何ぼう悪いことかも知れぬ。じゃが、ここにいるSE達は皆、そのくらいな事をされてもいい人間ばかりだぞよ。現にわしが今、CPUを奪った女などはな、コメントも無いし改行もない滅茶苦茶なコードを、仕様通りに動けばよいと言って書いておったわ。それもよ、この女の書くコードは早いし安いし仕様通りに動くと云うて、ケチな経営者どもが買っていたそうな。ワシは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば餓死をするのじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事をよく知っているこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ」
老婆は大体こんな意味の事を云った。CPUを盗られた女は、よほど疲れているのかこんな騒ぎでもノートパソコンを抱いたまま、全く起きる気配がない。
下人は、特殊警棒を畳んで、その柄を左の手で握りながら、冷然としてこの話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな人面瘡を気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心にはある勇気が生まれて来た。それはさっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上ってこの老婆を捕まえた時の勇気とは、全然、反対な方向へ動こうとする勇気である。下人は、餓死をするか転売屋になるかに迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心持ちから云えば、餓死などという事は、ほとんど考える事さえ出来ないほど、意識の外へ追い出されていた。
「ほーん、そうか」
老婆の話が終わると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を人面瘡から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛み付くようにこう云った。
「ほな、ワシが転売をしようと恨むまいな。ワシもそうしなければ、餓死をする体なのだ」
下人はすばやく、老婆からCPUを奪い取った。それから、足にしがみつこうとする老婆をジャイアントスイングで投げ飛ばした。梯子の口までは、僅かに五歩を数えるばかりである。下人は剥ぎ取ったCPUを胸ポケットに入れ、床に置いてあった老婆の精密ドライバーセットも手に持ってまたたく間に稲妻のごとく急な梯子を夜の底へとかけ降りた。
しばらく死んだように倒れていた老婆が体を起こしたのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだライトがついているスマホの光を頼りに、梯子の口まで這って行った。そうして、そこから短い白髪をさかさまにして、門の下を覗き込んだ。外には、ただ黒洞々たる夜があるばかりである。
アート関係の仕事してるんだけど表現の不自由展はシンプルに現代アートに対する侮辱でしかないのではよ滅んでほしい
あくまで俺の持論だから違ってても見逃してほしい、いやアートになんか正解ないと思ってるから寧ろ違う視点があるなら聞かせてほしい
現代アートとかいうジャンルがよく分からんという人が多いと思うし俺もまだよく分かってない、でも不自由展の作品あれはヒステリック起こしたガキの落書きでしかないので全然ダメ(現地で実物を全部見た訳ではないから断言はできんけど)
なんというか、直接的すぎるんよな
一般人が見てもハア?分かんねーよ何だこれゴミか?ゴミになんでこんな値段ついてんだ?てなるのが言ってしまえば現代アートなんだけどアレは誰が見ても「日本キライ!」という表現したいことが分かるやつやん
つまり何にも考えてない単細胞なんよ ガキの悪戯の域を出んのよ ストレス発散して自分は本当の事を分かってる感を出してドヤ顔したいだけなんよ
負の感情を芸術に昇華する!とか言われるけどそれはもっと自分自身に対するヘイトであったり鬱であったりやるせなさであったりすべきもので、日本はダメだ!だから日本を侮辱するアートを作る!とやってるやつは所詮三流でしかないんよな
日本はダメだ!だからこそ自分はこの怒りの感情でこれを作る!みたいな確固たる意思を持って作品を作る人間が生み出すものが芸術になって現代アートと呼ばれているはずなんよ
もちろん全ての表現者に表現する会場は貸されて当然のものであって欲しい
でも内容は下衆すぎる 所詮身内でキャッキャペロペロしてお終いやあんなもん
現代アートは良く言えば推理的な、悪く言えば屁理屈的なところがあって、丸めた紙屑を見て受け取り手が考えることで完成する作品となることが多い
汚ねえ紙屑だな〜でもいいし、ゴミから環境問題に想いを馳せてもいいし、実はチラシの紙屑を見て今日の晩御飯を考え始めても良い
寧ろ何とも思わなくてもある日突然「そういえばあの時美術館で見た紙屑何だったんw訳分からんかったw現代アートまじ何w」程度の笑い話になるだけでも良い
作品をきっかけに気付きを得る、思考する、ていうのが現代アートの存在意義やと思ってる俺は
でも不自由展はキチガイが群れて騒いで、キチガイの作品展が開催されて、「やっぱ現代アートって分からん、怖い、近寄らんとこ」という負の印象を持たれて思考停止の末思い出されることも嫌がられて忘れられてお終いや
マジで最悪や 日本が嫌いならとっとと日本から出ていってほしい 海外で好きなだけ日本嫌いを表現してこい
ムシャクシャした勢いの書き殴りで読みにくかったら大変スマン
昔住んでいた学生寮には当番があって 宅配物を本人の代わりに受け取って保管しておくという 人力宅配ボックスみたいなことをしていたのだが
ある日 当番に入ると 寮に住む学生のひとりが バイクの交通事故で亡くなったという電話が 寮長にかかってきた
そのときちょうど 宅配の人が来て 受け取った荷物は ちょうどその彼のために 親御さんが送ってきてくれた 仕送りの段ボールだった
どことなく親近感のある 宛名の筆跡を眺めながら ただ呆然とする 親御さんが目の前にいるようで そして かける言葉もない気持ちで
私はロボットのように その段ボールを いつもどおり棚にしまい いつもどおり帳簿に記録して 無念でしたねと その段ボールに 心の中で呟き
受け取り手を失って 迷子になったその気持ちを どうしようもできないまま そんな話は聞かなかったと 自分に嘘をつくことしかできなかった
ごめんなさい
社会人5年目ぐらいが経過して上司先輩部下後輩バイトといろんな人間と接してきて
自称無能の人間とかもいろいろ見てきたけど、まじの無能は自覚すらないんだということに強烈なバイトスタッフに出会った。
全体的にそいつの作業について言えるのが他人への気遣いがゼロの行動しかできていなかったり、相手のこと全く考えられてないんだよ。
成果物に対して受け取り手がどう考えるとか見やすいとかそういった配慮がゼロ。
作業中分からないつったことを教えてたら親しい仲でもないのに返事が「うん」。
成果物を利用したその先も考えられてない。
あまつさえ、掲示物作成してポスターサイズで作っといて、って業務を振ったら1週間立ってもなにもなく、聞いてみたらポスター印刷が調べても分からずできませんでしたと。
ぶっちゃけ30分あればできるもんだと思ってて休みとか繁忙が重なっててほっといても掲示しとるやろと進捗確認を怠ったのはこっちのミス。
流石に相談してくれ、とか言ったが最終的にそいつから出てきたのは「調べてもわかりませんし私に言わないでください」と逆ギレしてきた。
何者なんだよ貴様。
無能というかもはやただただやべーやつという認識になってきたけど、自称無能はまだ自覚してる分できない無理はしないからまだいいなと思いました。
大学卒業したらプログラミングの先生になると考えてるみたいだけどPC操作の基本の基本でわからないことを調べて見つけるスキルを身につけないと無理だと思うわ。
この記事について「似合ってる」「可愛いのに」っていう擁護の意見を目にした。一見多様性を認めるというか寛容な意見のように見えるけど、これはズレてないか?
似合ってる、可愛い→良い。というのは似合ってない、ダサい→ダメだ。という今回批判した側と同じような思考形態のように思える。(ベン図で書くと必ずしもそうではないけど。)
実際今回批判した人たちは大統領夫人の網タイツを年齢的にも立場的にも不適切だとみなしたから批判したのであって、適切であるか不適切であるかという受け取り手のさじ加減で多様性か否かなんて区別するのはおかしな話だ。
今回の話なら例え布切れ一枚でも、キグルミ衣装でも、立場や見た目に関わらず本人が着たいならいいだろうという思考になって初めて多様性を認めると言えるのではないだろうか?
極端かな。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 64 | 9218 | 144.0 | 54 |
01 | 44 | 6729 | 152.9 | 44 |
02 | 37 | 7986 | 215.8 | 60 |
03 | 12 | 1826 | 152.2 | 61 |
04 | 6 | 1631 | 271.8 | 120 |
05 | 9 | 1019 | 113.2 | 87 |
06 | 20 | 2340 | 117.0 | 55.5 |
07 | 40 | 6786 | 169.7 | 71 |
08 | 44 | 6315 | 143.5 | 42 |
09 | 51 | 5479 | 107.4 | 45 |
10 | 83 | 8597 | 103.6 | 39 |
11 | 66 | 8313 | 126.0 | 52.5 |
12 | 136 | 14670 | 107.9 | 46.5 |
13 | 141 | 11821 | 83.8 | 42 |
14 | 173 | 11107 | 64.2 | 32 |
15 | 107 | 8473 | 79.2 | 30 |
16 | 108 | 13992 | 129.6 | 44 |
17 | 94 | 11753 | 125.0 | 66 |
18 | 143 | 13444 | 94.0 | 35 |
19 | 108 | 6516 | 60.3 | 25.5 |
20 | 123 | 21474 | 174.6 | 31 |
21 | 164 | 12866 | 78.5 | 27 |
22 | 152 | 19762 | 130.0 | 31.5 |
23 | 153 | 22470 | 146.9 | 52 |
1日 | 2078 | 234587 | 112.9 | 39 |
平氏(4), テープレコーダー(6), 国立病院(4), キヤノン(10), みずほ銀行(10), 男性保育士(9), 頼朝(3), レノボ(7), 家族制度(3), マンボウ(3), 引き取り手(3), ヴィーガン(17), 生殖(16), スタンダード(7), バター(7), 歪み(7), うっせ(6), 異性愛者(6), 保育士(6), 科目(6), コンセプト(6), 工作(8), 夫婦別姓(8), 当日(7), 同性愛(13), ボランティア(7), 取得(10), ニャ(7), 不景気(6), 解(6), ガイ(7), 壊れ(13), 逃げる(11), 銀行(9), 悪さ(9), 削除(11), おいしい(11), 専業主婦(9), いやいや(9), 猫(21), 住む(10)
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都内一人暮らし中年独身男性。もう結婚も諦めてて、せめて家族が欲しい。
独身だけど在宅業だし、収入は安定してるし、猫に注ぎ込める金も時間も少なくはない方だと思う。
年中家にいるし、子どものいる共働き家庭より猫に構ってやれる時間は圧倒的に多いと思う。
自分に何かあった時、猫の後見人になってくれる友人も近場に住んでる。
もう猫を愛でまくるエネルギーが有り余ってる。
そう思って何年も経った。
プロ団体、ボランティア問わず保護猫引き取りの審査に落ち続けてる。
一応面接だけしてくれるところもあるが、ほとんど門前払いに近い扱いを受ける。
しゃーないよな。猫を虐待するようなのって、圧倒的に独身男だもん。
里親詐欺とか、悲しいニュースを聞くたびに、差別されても仕方ないと思う。
俺が保護猫ボランティアでも、家族連れか、せめて独身でも女性に渡したいわ。
子猫は諦めたけど、せめて健康な猫を飼いたい。けれどそれも無理っぽい。
障害があったり病気の猫なら引き取り手がいないからどうですかってたまに押し付けられそうになる。
なんだよそれ。男は虐待するかもしれないから猫は渡せないってルール作るならそこ統一しろよ。
障害や病気のある猫なら飼い主選んでられないから引き渡すのか。
ハンデのある猫なんて、猫飼い経験のない自分には正直荷が重い。生半可な覚悟じゃできない。
病気によっては年間100万ぐらい治療費持ってかれたりもする。
今まで飼って来た猫が病気になったならそれぐらい出すが、最初から病気の猫を引き取るのは難しい。
けどボランティアの人の気持ちもわかる。とっとと引き取り手の無い猫を片づけて、次の猫を救うために席を空けたいだろう。
ペットショップ業界に金を落としたくないが、売れ残りの子を買い取るのもその子にとっては救いになるだろう。
結婚できなかったし、家族が持てないと、こんなに信用されない。
せめて猫を・・・と思ったけどその幸せにも優先順位があって、自分みたいな人間はもらえないんだな。
有難いことに親の庇護下にあった時代はお金がなくてご飯が食べられないことはなかったし、奨学金を貰って学校に行くこともなかった。そう、衣食住は満たされていたのだ。家に帰れば専業主婦の母がおり、父が働いたお金だけで家族全員が暮らすことができた(バイトはした)。
もちろん周りの友人達の親の中には共働きの人もいたがその理由については特に考えることもなかった。他人の家の経済状況なんて全く興味がないし、考えもしなかったからだ。寧ろ流行りのゲームも買ってもらえない自分の家よりディズニーランドにいつも行っていて、最新ゲーム持っていて、正月夏休みには親戚から万単位のお小遣いを貰っている友人の方がお金持ちだと思っていたくらいだ。私の親に対して大変失礼な考えだ。
初めに違和感を持ったのは私が大学に上がった時だった。奨学金の説明があるため、該当の人は残ってくれ、とアナウンスがあった時多くの人がその場に残っていた。その時点での私の中の常識は学費というものは親が出してくれて当然だったのだ。今思えば非常に傲慢な考えだ。
また、ニュースなどで貧困問題が取り上げられてる際も自分の身近に該当する人がいなかったし、この飽食の時代に食べるものがなくて苦しんでいる人がいるという事実自体どこか夢物語の様だった。
唯一若い人の収入が少なくて生活が苦しい、ということだけが実際に働いて実感を持つことができた。
SNSを見ていると最後まで文章を読まずに感想を書いたり、文章の正しい解釈が出来ていない人が多い。最近話題の漫画を読んだときに作者が「本編のこのキャラのこの行動の理由はこういう事です。」と注釈をつけていた時は絶句した。人の受け取り方は千差万別あるとはいえ特に漫画は読んだ受け取り手が意味がわかる様に描かれていることが多い。さらに作者だけではなく編集者もチェックして他者に伝わることを確認している筈だ。それなのにコミックスで作者が注釈を入れなければならないくらいにキャラの行動の理由がわからないという手紙が届いたということだ。それはつまり読解力のない人間が増えたと捉えることもできるのではないか。読解力がないという事は正しく相手に伝わらないし、伝えられないことに繋がる。それはコミュニケーションが正しく取れないから満たされないことに繋がるのではないか人は喜怒哀楽の中に細かい感情の機微があるはずで、感情表現や、行間が読み取れない事は学だけでなく人としての感情も乏しい事だと私は思う。
冒頭に書いた様に私はオタクだ。二次創作はよく見る。最近の二次創作で疑問に思うのは大食いキャラが食べ方が汚い様に描写されることが多くなったな、という事だ。私個人としては「大食い」と「食べ方が汚い(行儀が悪い)」は全く違うことだと思っている。しかし何故か大食い=食べ方が汚いのイメージが定着しているのだ。作中でキャラクターの育ちがいい描写をされていても何故か二次創作では飢えた獣の様な食事方法をさせられているのだ。よくオタクは「沢山食べる君が好き」と言っているが、自分の推しが飢えた獣の様にご飯を食べていることには抵抗がないのだろうか?私はものすごく嫌だ。二次創作に限らずテレビを見ていても食べ物を上から食べる、口に物が入ったまま話す、迷い箸などの芸能人はよく見かける。定期的に箸の持ち方が炎上もしている。正しい持ち方はその持ち方である根拠があるのに、自分ができないからそれはおかしい!という人間が増えた気がする。(勿論、懐石料理の様に部屋の開け方から食べる順番まで守れ、とは思わない。私だってそこまで出来ない。一般常識の範囲の事ができていない人がいるのだ)
あくまで私個人の見解だが、人間は自分が体験、経験したことを主軸に物事を考えたり行動する為、それだけちゃんとしたテーブルマナーや躾がなされていない人が増えたのかとすごい貧しさを感じてしまった。
よく本に出てくるフレーズとして「知識は宝だ」の様な文章がある。実際に知識があって頭がいい人ほど腰が低く、心にも余裕がある様に思える(この場合の頭がいいは勉強ができるだけでないということも補足しておく)。心の穏やかさはそのまま豊かさに繋がっていると私は思っている。最近のSNSを見ていると、世界の実情が辛いことも踏まえても、貧富格差広がっている中全体的に貧しくなっていってるのと、絶え間ない情報と自分に都合のいいところしか見ない様な状況になっている気がする。それによって(それだけではないけれど)感情のコントロールが効かなくなってるのを、SNSやら、二次元キャラやらに当てがって発散してる様に見える。昔からいたのかもしれないがガッツリ目に見える形になっていて、経済的にも精神的にも貧しさを感じて私は怖い。