はてなキーワード: ミクロとは
ゲイである私(多くのゲイが多分そうであるように、私はカムアウト=ゲイであることを公表すること、をしない、
つまり「普通の人」を装って生きると決めた人であることを前以て伝えておく。)からすれば耳の痛い話であるし、同時に身に覚えのある話でもある。
なぜ死にたいのか?ゲイだから死にたいわけではない。ゲイというのは、生きていく上でものすごく大量の「嘘」をつかなければならない場合が多いために、それに耐えられず死ぬのだろうと私は考える。
例を挙げて説明しよう。
「ゲイである」という事を偽るためには、「私はゲイではないです」と言えば良いのか?
否。
「ゲイですか?」と聞かれることなどあろうはずもないし、多分皆さんにもそんな質問の心当たりはないだろう。
「クラスの○○ちゃん、かわいいよな」「昨日のガッキー見た?超可愛い」
このミクロな情報、そしてこれを見る男性諸賢がおそらくは簡単に応答できる日常の会話、この全てに我々は嘘をつかなければならない。
全てに、嘘をつかなければならない。
これが、ゲイの生きづらさ=死にたさの本質ではないかと私は感じている。
「ゲイである」ということに嘘をつくために、ゲイは幾重にも嘘をつかなければならない。
「ゲイである」ということを隠して生きてゆくと決めた昼間の星のような人々は、「ゲイではない自分」の構築というアイデンティティの否定でしかない行為を、しかも思春期に必ず経験しなければならない。
中学時代には初めてのエロ動画とかに興奮し、AKBにハマり、人並みの青春みたいな恋がしたかった。
「ゲイではない自分」に、憧れているゲイの自分。自己否定のルーティーンはここに完成する。
嘘の自分と実際の自分との乖離に死にたくなる。分かりやすくないですか?
こうして、ゲイであるということを自覚した日から(そして「他の人はどうやら女が好きらしい」と気付いた日から)、ゲイは生きているだけで嘘をつくようになる。
親を欺き友人を欺き、時には自分に好意を寄せてくれた女性(時として恋人の体裁を取る)さえ欺きながら年を重ねるとどうなるか?
平気で嘘をつく人間になる。そして嘘の作り込みが異常に細かく、顔色ひとつ変えずに平気で嘘をつく、人をだますプロみたいになるのだ。
就活とは即ち騙しあいである。第一志望でもない御社への熱意をまがりなりにでも作り込み、企業を騙しきったら内々定の運びだ。
何しろこちとら21年生きてきて、物心ついてからの大多数の時間を嘘だけで過ごしてきた男である。ものすごく喋れる。嘘が。真実のように。
親を騙せて面接官を騙せないわけがなく、ということなのだろうか。就活が始まって、面接まで進んだ企業に未だ落とされたことが、ない。
この時点で、内々定は8社。全て一部上場企業だ。だれでも名前を知っているような企業も多い。
まさか就活を始めてみて、こんなことが起こるとは思っていなかった。
来年、この住み慣れた街を出て行くことになる。
その街の名を上石神井(かみしゃくじい)という。
西武新宿線という、おもに川越や所沢などあまり品のある方ではない埼玉県民を東京に送り込むための路線において高田馬場から急行で2駅・13分の立地である。
私は大学進学に合わせて上京し、とくに大きなトラブルもなく3年間を過ごしてきた。
「とくに大きなトラブルもなく3年間を過ごして」しまったのである。
上石神井駅は決して大きな駅ではないが、特急以外の全ての電車が停まり、山手線圏内へのアクセス性も非常に高い。
牛丼屋は松屋とすき家から選ぶことが出来る(私は吉野家のアンチなので、これは幸いであった)。
駅のすぐ近くにはアッサリ系のラーメン屋と二郎系のラーメン屋が激安ドラッグストアを隔てて並立しており、その日の気分に応じてラーメンの濃淡を選ぶことも出来る。
駅に直結している西友は24時間営業で、しかも深夜にはアルバイトのハセガワさんという美人もいる。
コンビニはファミリーマートおよびセブンイレブンがあり、ポイントカードの宗派争いにも寛容である。
セブンイレブンの向かいにはホットモットもあり、弁当を買うにあたって選択肢には事欠かないことだろう。酢豚が食べたければ少し離れたところにオリジン弁当もある。
その他にも美味いパン屋や、チャーミングなババアのいるクリーニング店、ちょっと小洒落たパスタのお店なんかまであり、要するに至れり尽くせりなのである。
借りたアパートもまた良かった。駅徒歩7分の好立地で家賃4万2千円(共益費込み)。
隣人の大学生は重度の花粉症であること以外はまことによく出来た人物で、鼻をかむ音さえ筒抜けの防音性でありながらそれ以外の物音に悩まされたことなどかつて一度もない。
むしろ隣人の鼻をかむ音に「ああ、今年も彼の花粉症が始まる時期か・・・」などと歳時記的な感傷にさえ浸っていたくらいである。
頻繁に外れる網戸に業を煮やし、内側からガムテープを用いて目張りのように固定したせいで友人から「ガス自殺の部屋」という不名誉な称号をこそ付けられてはいたものの、私の生活にはおよそ十分な住まいであった。
もしも、最寄りのスーパーは20時に閉まってしまったなら?(しかも、そこにハセガワさんの存在しないことは自明である。)
もしも、オリジン弁当の酢豚が食べたくなってしまったら・・・?
私の大きな失敗が、そして不安がここにある。
初めての一人暮らしで、あまりに好条件な暮らしの出来る街を引き当ててしまったのである。
ご存知のことかもしれないが、一度上がってしまった生活水準というものはなかなか下げられるものではない。
その「高い水準」の指すものが、たとえオリジン弁当の酢豚であっても、クリーニング屋のチャーミングなババアであったとしても、である。
これから就職活動を終えて引っ越す街を、愛せる自信がないのだ。
これほどまでに自分のために誂えられたような街を、日本のどこにでも見つけられることなど出来るだろうか。あり得ないのではないか。
郷土愛をあまりにミクロなところに見出してしまった私を、就職活動はどこへ連れてゆくのだろう。
ハセガワのような在り来たりの苗字を、読者諸兄にあっては思い思い当てはめて頂きたい。そして全国のハセガワさんと、このハセガワさんを慮る諸兄は安心して頂きたい。)
変わり映えのない家族愛に注目した特集が多い。無難で分かりやすいからだろうか。御涙頂戴でPV視聴率稼ぎやすいからだろうか。
実際のところ家族愛など微塵も感じたことのない毒親に悩む人間だっているんだけども。
外野からはとてもじゃないけどそんなことは言えないし、内野からでもわざわざ言うことでもない。オフレコでしか流通しないエピソードを見聞きする人はいるでしょう。
非被災者がいい加減なことを言うんじゃねぇ、と、被災者や不謹慎厨は言う。分断。
ここにもちょっとしたポリコレとポリコレ棒の問題が存在するように感じる。
ポリコレというか、弔い合戦というか、死者にゲタを履かせ花を持たせたい心情というか。
報道側・外野側の気持ちもわかる。無難だし、攻めたことをするのは覚悟が必要なのもわかる。かくいう私も増田でね。
個人的、ミクロ、主観的には震災はまだ続いている人もいる。しかし社会全体のマクロとしては、もう感傷に浸ることから抜け出さなければならない段階であって、そういった段階だからこそシン・ゴジラが作れるわけでしょう。冷静さと客観性を取り戻してきているわけです。
なのに先へ進めない時代。シルバーデモクラシーや感傷、反知性などによって合理性が蔑ろにされる。
鉄道の復旧なんかでもそういう話がチラホラと。元通りにするよりも、かねてよりの問題も鑑みてアレコレしたほうがマシでは?がポシャったりする。
俺は、スケジューリングがクソ下手だ。夏休みの宿題を計画的にやった試しがない。そもそも時間把握能力が末期的に低い。一週間が七日周期であることを実感できるようになったのはごく最近だし、一ヶ月がおおよそ四週間で構成されている実感にいたっては、三十代になった今でも依然ふわふわしている。多分調べれば何か名前のある症状なんではないか。少なくとも、俺自身は自分の時間把握能力の低さに、日々苦しんでいる。
もちろん、言葉にすればわかる。一ヶ月は四週間とちょっとだ。でも、その四週間というのは、つまり、その、つまるところ何週間なのだ? 大金すぎる金と一緒だ。俺は十億という金を具体的に想像できない。いったい、それはねるねるねるね何個分の金額だ? それはどのくらいすごいんだ? 同じように、一ヶ月という時間は、俺にとっては膨大すぎる。一年ともなれば、もはや天文学の世界だ。そのくせ、膨大な割に時間はあっという間になくなる。そんなところまで金に似ている。
何よりも恐ろしいのは、そんな俺が今や会社で億規模のプロジェクトの責任者であるということだ。かつ、俺のスケジュール回しへの評価が意外に高いことだ。冗談じゃない。ガントチャートに引かれた線への実感はいまだにない。二十人日がねるねるねるね何個分のすごさなのかは、今も闇の中だ。ただ、わからなくても、方法論は知っている。中国語の部屋の中で、規定されたプロセスに従って俺は反応する。人員の進捗状況がこうならこうする、ああならああする、そういうミクロなテクニックと、「なんか先にこれやっといた方がいい気がする」という理屈レスのおまじない的経験則の集合だ。その積み重ねで俺のプロジェクトは俺自身の理解を置いてきぼりにしたまま安全に進んでいく。
でも、俺は腑に落ちない。もっといえば、不安だ。ドーバー海峡を溺れながら渡りきったみたいな気分だ。本人が一番どうやって渡りきったのかわかってない。再現性があるか保障がないし、いつか崩れさりそうで怖い。仮に再現性があったとして、いつでもドーバー海峡を渡れる保障があるとして、「よーし、今からちょっと溺れながらドーバー海峡渡ろう」という気分にはなかなかなれない。溺れるのは、疲れるのだ。泳げる人がドーバーするべきだ。しかし、ドーバー海峡を渡れるのは俺だけだという。泳げる人間はドーバーを渡れず、渡れる人間は泳ぎ方を知らない。だから、仕方なく俺は今日もよくわからないままドーバーで溺れている。
あと、俺は喋りがクソ下手だ。トークがつまらないという意味ではなく(否定はしないが)、吃音症なのだ。若い頃、ちょっと働きすぎて職場でぶっ倒れて以来、舌がもつれるようになった。おかげで、客にしょっちゅう聞き返される。こんな俺が客前に出て次期案件とか取ってくるのだから、世も末感がある。もっと喋れる奴が前出てくれとよく思う。俺の喋りを100%漏れなく聞き取れるのは、俺の把握している限り、二歳離れた俺の妹だけだ。
とはいえ、不満があるかといえば、そんなにあるわけでもない。なんだかんだ会社は俺を評価してくれている。上長からの覚えもめでたく、現場の士気は高く、仕事はこう書くと嘘くさいがやりがいがあるし、なんだかんだ楽しい。給料は任されてる仕事に比べるとちょいと低めだが、あまり上がると責任もセットで追加されるので、悪くない塩梅だと思っている。悪目立ちするな、しない範囲で右肩上がれとおまじないをかけている。休日はバンドでボーカルしたり、同人描いたり、LT会に参加したり、友人と飲んだりしている。悪くない。全然悪くない人生だ。
ただ、そういう意味での不満はないが、思うのは、皆もそうなの?ということだ。ドーバーで溺れているのは俺ひとりなのか。意外にみんな一ヶ月は十億円と同義なのか。身体的ハンデと戦いながら、客前に立っているのか。あんなさりげない顔をして。みんなも実はそうなの? おまえは俺なの? もしおまえが俺の同族だとして、俺はこんなだるんだるんな俺がうまく立ち回っていられてる仕組みが全然わかんないんだよ。この惑星の公用語は、俺の言語帯と全然被さらないよ。被さらないまま、なんでか先頭を走っているこの状況の不思議さだよ。世界にかつがれてる気分だ。いつかハシゴが外されそうで怖い。
でも、そうなったら、少し安心する気もする。
思春期の頃、よくこんなことを考えていた
宇宙のことが好きで、というか宇宙に思いを馳せることが好きで、よく妄想していたこと。
今自分が立つ地面の、踏みしめている砂粒の中にひとつの宇宙があるのではないか。
あるいは
わんぱくな坊やがジュースをこぼしたその瞬間、テーブルの端から滴り落ちたその一滴の中に宇宙が始まり、その一滴が床に落ちハジけるまでが
無限の大きさを持つものがミクロの世界に広がっていること、無限の時の流れが刹那に過ぎること。
自分のこの宇宙はどこかの世界の水滴の中とか、妄想するのが楽しくて、友人に、恋人に、夕焼けに、よく話していた。
もちろん今は当時の目の輝きで周囲にこんなロマン話を出来ない。
その後20年間科学を学び、殆どのことを説明できるようになった。わからないことに仮説立てて考えることができるようにもなった。
ただ今も、自分の中で世界が揺らぐような、何か知らんがグっとくるような、感覚を味わえたことは、
決して厨二でも黒歴史でもなく、大好きな思い出になっている。
動いてるらしい。
それはまぁ一国民がどうこう出来る事ではないし
いちいちその問題に過剰反応するのは政治ジャーナリストや知ったか右翼や左翼やってる人たちがやればいいこと。
すべての国民が今の収入+αを作る事ができればそのα分は確実にこの国は豊かになる。
僕も以前まではそれがわからなかった、ありきたりなビジネス本、自己啓発本を読んで
どうすれば成功出来るのか調べた時期もあった。
どれもこれも精神論が中心で、たしかに一時的にはやる気になるけど、長期的には意味がなかった。
それで自分を救ったのは学習に関する、心理学と脳科学だったわけだけど、それに関してここで書いても
長くなるだけだから置いておく。
●本を読むこと。
これも腐るほどいろんな所で語られてるから聞き飽きた人もいるだろうけど、
具体的に書いていく。
ネットがダメなわけではないんだけど、本すら読んでない人にネットの情報はおそらく精査出来ない。
嘘ニュースや、著者の詳細すら不明のいい加減な情報が山ほど溢れていて、Googleのトップにくるのは大体そういう無意味な情報だったりするわけだ。
それにネットには際限がないから、目的としていた情報からいつの間にかはずれて芸能ゴシップのリンクを踏んでたりする。ぶっちゃけこんな時間を無駄に使ってしまう可能性のあるツールは情報の価値を理解してからじゃないとただイタズラに時間を潰す事になってしまう。
最近はジャンル指定してニュースを取得出来るアプリなんてものもあるから、そういうものやRSSリーダーを使うのならまだ価値はあると思うけど。結局ネット情報は煩雑なものなので、目移りの可能性を除外出来ない。
ネットを「正しく」使うのは正直かなり高度な事なんじゃないかと、ネット10年以上使ってて最近思うようになった。
・どんな本を読めばいいのか。
営業をやってるなら営業の本でいいし、企画をやってるならアイデアやら企画書の本でいい。
本は万能じゃないから、自分に関係するジャンルから初めて、一切読んで無い人は
月1,2冊でいいから読み始めて欲しいと思う。
日本人の知識量、情報量が増えたらそれが国益になると信じてるから言ってるから、別に電子書籍でもいいし、中古でもいい。 正直僕は出版関係の人間だけど、出版社の人間でも書店の人間でも流通の人間でもないから、ぶっちゃけ中古でもいいわ。
一冊でも数百円。新品でも1500円程度だ。 3000円の捻出ならなんとか出来るでしょう。
毎月ちゃんと2冊以上読んでりゃそれだけで十分変化が生まれてくるはず。僕はそうだった。
・何故勉強しないのか
たぶん、というか自分の実体験からするに、勉強しても結果が出るのかわからないのが恐いんだと思うんだけど。
学習関係の話で、脳科学や心理学の本を読んでる人は知ってる事ではあるけど、生まれた時の才能なんてクソ微々たるもので、その後どれだけ継続したかで差がついてるって事を知ってほしい。
これは僕にとって相当なブレイクスルーになった。
正直、才能が必要な世界で働いてる。才能ってものの定義も最近では努力出来るのも才能だ、なんてすごいごちゃごちゃした何にもしないやつの盾にしか使われなくなってるから面倒だから、いちいち定義しないけど。
周りはこの仕事をするのが好きなやつばかりで、そんな中で生きていくのがやっとだった。
それを変えたのが、この事実で、自分がいかに何もしてなかったかってのを自覚させられた。
それから必死こいて勉強して今までやってこれたのは、自分に知識と技術をつければなんでもなんとかなるって思う事が出来たから。
正直、自信ってものを昔から持てなくて、今でもそうなんだけど、必死にやっても結局何にも残らないんじゃないかって今でも思ってる。 でも情報を得る事をやめてしまったら、それを何も創る事が出来ないんだと思って、仕事に関する勉強はもとよりそれ以外のジャンルから何か得られないかと思って毎日何かしらの本は読んでる。
・マンガでいいのかどうか
最近は学習まんがってのもあるし。そこから入ると予備知識がついて読書習慣が無い人も本を読みやすくなるかもしれないし。堅いことなしで、なんでもいいから情報得て欲しい。それは絶対力になるから。
学習漫画以外も、エンタメ関係で働いてる人はもちろんだけど、遊び心ってのはどんな世界でも意味のある事だと思うから、無意味って事はないと思う。
マンガすら読まず芸能ゴシップリンクをネットで踏み続けてるより何倍も増しかとは思うし。
ぶっちゃけ、どのくらい意味があるかはわからんけど、最近はTsutayaにマンガレンタルとかもあるし、漫画喫茶でもいいし。1000冊2000冊読んでみればマンガでも自分の創造力を創るきっかけにはなるかもしれないと思ってる。
エンタメ系の人は腐るほどマンガ読んで損はないと間違いなく思うけど。
他のジャンルの仕事の人はマンガばっかじゃダメかもね、とは思うけど無意味ではないと思う。
ラノベや小説。本じゃないが映画やお笑いDVDとかまぁそれもそれで意味を持つとは思う。
ただ、一緒に仕事に直で関係してる本は毎月1冊、2冊は読んでくれ。
・本を読まないのに収入をあげたがる友人。
僕にはそういう友人がいる。 彼は収入に文句をいっているにもかかわらず正社員採用試験の試験勉強すら二ヶ月前にやっと始めるというタイプだ。
彼は彼で自由に生きてて、それをどうと言う事では決して無い。生き方は自由だと思うからそれを見下したりバカにしたりなんて事は絶対しないんだけど。
収入についてグチグチ言うのに家に返ったらソシャゲとネット。 それは合理的ではないと思って、ここに書きなぐりだけど書いた。
もし彼のような人が沢山いて、収入について少しでも不満抱いてるなら、自分を成長させる本を読んでほしい。
世の中ってのは想像以上にシンプルにできてる。出来るやつってのは何かしらの形でその出来る術を学んでる。
そういう術を偶然身につけちゃいました、みたいな奴も確かにいる。でもそれはもはや「運」だ。運は操れるものじゃない。出会う人や偶然の経験なんてものは望んでれば確実に手に入るものじゃない。
それなら1000円前後で手に入る、先人が残した術を学ぶ方が圧倒的に早い。
だから本を読めば解決するような事を、だらだら何年もグチグチ言って時間を無駄にするような事はシないでほしい。
正直友人に本を読めばいいのに、と話をした事は何度があったが彼は変わらなかったし、こんな増田の駄文に心動かされる人なんていないと思うけど。
僕は日本を守るには一人ひとりの日本人の能力を伸ばす以外無いと思ってるから書いた。
軍事力の話やらは正直専門外で細かい事はわからないけど、世界情勢がこんな時に日本人が日本を守るのは、もっと単純に面白い事やって、金稼いで周りの国に利益をもたらす事なんじゃないかって。
政治の事は正直わかんねーです。
それにわかってたとしても変えられないから非合理だと思うんです。
政治家なら別だけど。いや、政治家ですら上位にいないとほとんど世界に還元出来てないわけだし。
それを一国民が政治について不安になったり悪態つく時間があるなら、目の前の自分の仕事で+αの利益を上げる方が世の中はよくなっていくんじゃねーのって思うんです。
マクロだろうがミクロだろうが、資本主義である以上、金を稼ぐって事はいろんなものを守る力になるんじゃないかって思うんです。
綺麗事とか抜きにして、目の前の仕事でみんなが+αを生み出せればそこで生まれた新しいお金はその分世の中をよくしてくれるよ。僕 はそう信じて仕事してる。
毎月1,2冊、本読んでみてください。
本から何を吸収出来るかは個人差が絶対にあるものだから、100%保証は出来ないけど。
どうしても自己投資したくないって思うなら、図書館でもいいのでなんとか頼んます。
乱文失礼。
「トランプ政策はマクロ的には米国内経済にマイナスの効果」であることに異論は無い。
言いたいのは「最適」=「効用の最大化」というミクロ的な観点に立てば、
例え成長率や雇用統計が一般的な経済政策をとった際(に想定される数値)より下がっても「最適化した」と
看做しうる場合があるし、アメリカの保護主義政策についてはその条件が揃っている可能性もある
(例えば、他国に比べた相対的な経済成長上の優位性の向上)のではないか、ということだ。
「マクロ経済学的に間違った経済政策が、政治的、社会的、市民一人ひとりひとりのミクロベースの効用的には正解であることもある」
という点を忘れた書きぶりをしていることが同学の士として非常に気になったというだけでもある。
プライベートで消費するリソース(主に金銭)を男女平等な環境で調達しようとすれば
つまり、プライベートだけ男女平等を度外視するというのはミクロの処世術だとしても
マクロな視点では、根本的に矛盾している。ちょっと無茶ぶり感ある。
結果として、男性の性交未経験率や未婚率も増えるし、全体として少子化になっている。
(主なリソースは金銭だけど、金銭的余裕は精神的余裕にも繋がるよね)
少子化改善したフランスでは、男性が女性のヒモになることがスティグマにならないそうだし、
全体として皆が損する世の中になっていきそう。
気のせいかもしれないけど
世界的に安定していってない?
ほんとにするの?
すぐに落ちるかと思ったら20000手前でずっと支えている
アメリカもダウが上がってるわけで、そこまでドル高について強く出ないんじゃないかな
トランプが昨日為替操作国として名指ししたのは日本じゃなく中国
昨年大きかったBrexitも、ポンド暴落のおかげでイギリスが好景気になる始末
正直ハードBrexitしたところでどれだけ悪影響が出るだろう?
ISISも縮小していってるらしい
ヨーロッパも持ち直していく
超スローペースで回復はしてるし、日経も17000~20000あたりでうろうろ
良くもないが悪くもない
少子化や年金など、大きな問題はもちろん残るが、ここ数年よりはマシに思える
安倍総理は可もなく不可もなく
元々日本の政治なんてこんなもんだと思う
このところ見かけるニュースの規模がどんどん小ぶりになっていってる気がする
まあどうなるか分からんが
ただ、リーマンショック、バブル崩壊のような足の引っ張られることが無いとすると
努力した分前にすすめる年になるんじゃないだろうか
なるほどね。
まあしかし思うんだけど、
大昔の昭和以前?の皆婚社会って「嘘の家庭」が大部分を占めていたと思うのは俺だけなんだろうかね。
「嘘の家庭は邪悪で存在すべきでない!真の家庭のみが健全で存在するべき!」としちゃったから、
世の中の結婚率がどんどん下がっちゃうのは致し方ないって言うか。
あっ別に大昔を礼賛するとか保守主義者じゃないし昔に戻れって言うわけじゃないよ?
「何結婚率とかマクロなこと持ち出してるんだよ!お前が真の家庭築く能力なけりゃ結婚できないってミクロの話だよ!」ってんならそれでいいけど。
ただ言いたいのは、「嘘の家庭は存在してはならない」って言うなら、世のほとんどの「家」はそもそも成立しないんじゃね?って話
マクロ経済においてはアベノミクスでカンフル剤撃ってるし、円安誘導をしており
かつてないほど力を入れている
高齢化や社会設計による問題は、おとなりの韓国も抱えてる問題であるので
理由にはできない
国内でサービスやモノを生産し、大量に売るということが出来ていないのが問題だ
iPhoneやGalaxyの市場を、日本企業が締めれば、当然GDPはあがる
不景気でも例えば将来の不安に応える金融商品があれば、それも売れる
輸入を減らして、輸出を増やす
内部留保を削ってでも長期的な視野で設備投資すれば、GDPに資する
もちろん、アベノミクスの円安誘導自体が間違いだという指摘もできるし
やっぱり高齢者増加や人口減少で生産量が鈍っているとも言えるだろうが
それは切り口をどこに置くかの話で
なんなの?
額で測ることももちろんある
国家レベルで額を用いると、景気、国際競争、為替、金融施策、戦略など、多種多様な影響を受ける
もちろん「1人あたりのGDPの国別比較」というのは一つのテーマだが
正直、こういう用語を使ってる奴はわざとミスリードさせているように思える
マクロの問題を「生産性」と呼ぶことにより、超ミクロの「効率の悪さ」に結びつけて「上司が悪い、経営者が悪い」のような扇動をしたいわけだ
まあ読者としては「国の問題を憂う」「憎い上司を批判できる」「一国民として当事者意識が持てる」からそういう記事が気持ちいいんだろうが
http://anond.hatelabo.jp/20161123133655
例えば、この映画をお題目とした資金調達活動によって、全く別の行為に資金が流用されていればそれは倫理的道徳的、下手をすれば法的に問題はあるとは感じるが、
映画のプロモートとして監督直々に海外に渡航するというのは、映画に関わるり営業活動、しかも効果的でかつ一種の箔付けとして必要な営業なわけで、少なくとも本作品を看板としてクラウドファンディングを利用する理由として不適当だとは感じない。
クラウドファンディングとは企画者が背負うには過大な金銭的リスクをウェブを通した不特定多数の人間からの資金調達で補うものであり、その有り様は様々とは言え、企画者はもちろん出資者の目的は常に小口出資によるプロジェクトの達成にある。
その本質は従来の寄付を拡大する概念であり、いわゆる投資的活動の縮小版ではない。いうなれば市場経済的な投資活動以前の経済活動に立ち戻り、それをより現代的に、ICTを駆使してスマートにかつ効率的に遂行できるよう発展させたサービスである。
すなわち出資額とリターンは必ずしも釣り合う必要はなく、天秤を慮る必要があるとすればプロジェクトに対する出資者の価値観と金銭感覚のバランスの問題にすぎない。
その上で個別的に、本プロジェクトに立ち戻りリターンについて見てみるが、確かに挙げられたリターンは通常の投資、あるいはよりミクロな購買活動として見た場合やや出資額に対して不釣り合いに思えるところはある。そしてそもそも論としてプロジェクト自体についても、出資者は確かにそのプロジェクトの効果を実感しづらいものではある。しかし現実としてそれでも本プロジェクトに賛同する人間はいて、少なくないお金が集まる。
それは人が単純な利益計算、あるいは市場的な相場判断を超えた部分で経済活動を行うということの端的な表出であろう。既にプロジェクトを完遂したという信頼、そしてその成果が予想を遥かに上回るものであったということに対する一種の追加報酬、そういう経済的な理由付けは出来る。しかし、おそらくよりプリミティブな他者への賛意というものがここに、クラウドファンディングと言うものには表れているようにも思う。
さて多少美辞麗句を並べたが、そういったものがクラウドファンディングを支えているとして、それが常に正当な結果を生むか、それを超えて経済活動として「正統」であるのか、ということはもちろん言えない。
クラウドファンディングをめぐる騒動は珍しいものではない。先に挙げた詐欺まがいの資金流用と言った犯罪行為はもちろん、犯罪とは言えないがそれこそリターンやプロジェクト自体にまつわる見解の相違はどこにでもある。
労働市場全体を考えた場合、労働者は最小の単位なのでミクロだし
市場全体を見据えた理想を掲げる人は「マクロ寄り」だと思います。
ブラック企業を潰せというのは、視点として明らかにマクロ寄りなものだと思いますので
何が面白かったのかよくわかりません。
http://anond.hatelabo.jp/20161107104928
偏狭な正義感に溺れて、提起している問題を無視されているようです。
潰すか潰さないかではなく、どう潰すか、あるいは潰さずどうホワイト化するかという質問/提案をしました。
そこまでしっかり考えていく段階に来ているのではないかというメッセージです。
潰せばいいなんて想像力のない人でも言えることです。
ブラック企業の問題は一体何かという原点に立ち返って欲しいのですが
それは労働者が不当な苦しみを強いられているということになるのではないでしょうか。
ところが、「ブラック企業を潰せ」と言って思考停止する人たちは
「企業を取り締まる労働警察官」「理想を持ったホワイト経営者」みたいなマクロ寄りの立場なんですね。
選挙の話で政局の話を楽しそうにしちゃう人たちみたいな感じです。
そうじゃなくて、ブラック企業の労働者たちが苦痛から解放される、優しい目線で考えましょうと言っているつもりです。
大事なのは不幸をなくすことであって、捌いて捨ててフタをすることではないはずです。
最近の日本は目的が「レッテルを貼り、ゴミ箱にポイする」ことを目的にしてる人が多くて本当に残念に思います。
さて、今まで頂いた意見について少々疑問に思う点が合ったので、より議論を進めるために質問させてください。
まず「潰れても仕事は残るから、そこが働き口になる」という意見ですが
現状のキャパを超える仕事量の場合、設備投資の問題が生じます。
業務の内容によるのですが、そうそう簡単にお金を出せるわけではありませんので
また誰もが再就職でアピールできるスキルを持っているわけではないという点も考慮していただきたいと思います。
それから、基本的に「新しい現場で働くのは嫌だ、つらい」という心の問題もあります。
労働者には心があり、誰もが転職を受け入れられるとは限らないのです。
加えて、想定される二次被害としては、「あぶれた仕事の受け皿」になった会社で急にに残業が増え、
某広告会社の社員のように過労自殺で亡くなる方が出てくることもあるでしょう。
次に、ブラック化は生存競争の(違法だが有効な)戦略であるという点に着目して頂きたい。
生き残ったものが勝利する世界ですので、ブラックの懲罰として潰れた会社や
バレずに生き残ったブラック企業が得をするということになります。
ブラック企業を同時に一斉に潰さない限り、生き残った企業が得をすることになるのです。
ホワイト企業が圧倒的である業界なら、ブラック企業を順次潰すことに意味はあるかもしれません。
しかし飲食業界を見ればわかるように、同じようなビジネスモデルであればどこもブラックになりがちです。
つまり、ブラック企業を一つずつ潰していくことは他のブラック企業に利するだけで、不公平になる可能性があります。
「生き残った側のブラック企業も潰せばいいじゃないか」という反論は容易に想定できます。
しかし、十分なパイを得て生存競争に打ち勝った企業は「殿様商売」が出来るようになります。
当然利益が上がり、ホワイト企業に擬態化し、摘発を免れるようになるのです。
生き残ったものが勝者であり、血みどろの戦争を勝ち残った人間が王となり、野蛮人が聖者のような顔をするようになるのです。
まあ、これは極端な例ではありますが
目についただけのブラック企業を潰すことは他のブラック企業を利するだけだということには留意してください。
以上の二点を踏まえても、マクロ寄りの視点でブラック企業を潰すとしても”計画性”が必要なのです。
これについても考えて頂きたいなと思います。
なぜ現代の日本ではポピュリズムがかつてのナチや今の米国のトランプ現象のような(国家社会主義的な)形を取らないで経済政策的に逆の(新自由主義的な)現れ方をするのか? についてはどう解釈したらいいんだろうな。
というTweetを見たので思うところを書く。
それは「なぜ私たちは困窮しているのか?」という問いの答えが、そのまま表れているのだと思う。
この問の答えとなりうるものはいくつか有る。この場合、その答えが本当に正解かどうかは問題ではない。その人(国民が)がどんな答えを想起して、望むのか? というのが要件になるからだ。
ひとつには「富裕層が搾取しているから、私たちは困窮しているのだ」というものだ。ある意味左翼的な発想だといえる。この答えのパターンは国内でも国外でも見られる。日本の場合この「富裕層」というのが実にふわふわしてるので「企業が搾取している」みたいな形で表出しているように思える。「内部留保している企業が悪だ」という論説だ。
「国内の異分子(この場合、移民)が存在するから、私たちは困窮しているのだ」という答えもある。Brexitとかトランプの言説の中心的なもののひとつがこれだ。国内の職や富を、本来分け与えなくてもいい外部的な異分子(本当に分け与えなくていいのかどうかは、今回は問わない。そう答える人の中では「分け与えるべきではない」という感情があるというのが今回は重要なので)に分け与えてしまったが故に、私たちは困窮しているのだ! という主張である。結論としては、そのまま「奴らを追い出せ!」となる。日本では、在日韓国・朝鮮人への風当たりとして見ることが出来る。だから、Tweetのように国家主義的なそういう排斥がまったくないわけじゃない。もっとも、日本では在日韓国・朝鮮人を移民だとみなしたところで割合は非常に少ないので、彼らがいるからこそ日本が困窮しているというのは説得力に欠けるためか、一般的な人はこのタイプの主張を強くはしない。
最後のひとつは「私たちの中に怠け者がいるために、私たちは困窮している」というものだ。「同じ庶民の中に怠けている人間がいて、彼らはより少ない労働で社会の富を多く得ている(=不当である)」、「だから私たちが困窮している」という主張だ。これがおそらくTweetでいう「新自由主義的な表れ方」につながっていて、結果として「怠け者は見捨てろ、自己責任だ!」という結論になって現れる。このタイプの主張は、たしかに日本独特のものであるようにみえる。
なんでそんな主張が表れてくるのかだが、マクロはともかくとして、ミクロ的な、つまり職場や学校や地域社会において、「怠けた人は得をする」というのが日本においては真実だからだ。
例えば伝統的な日本の職場において、その部署のエースが成績最下位の3倍の成績を上げたとしても、3倍の給与はもらえない。むしろ仕事ができるということで面倒だったり厄介だったりする仕事を回されたり、要領の良くない人の面倒を見なければならなかったりする。そして給与に関しては色を付けた程度で、どんな成果を上げても横並びが普通だ。能力が高く頑張っても得をしないということは、つまり、ある一定額の給与をもらうという視点にたてば、手を抜いたほうが得であるということになる。
これは学校や地域社会でも一緒で、起業が少ない理由にも通じている。企業では出世を望まないということになるし、学校や自治体では責任者になるのを回避すると言うかたちで現れる。努力して成果を上げたとしても組織の中では評価されないし、仮に評価されたとしても、今度は周囲の妬みや僻みが待っていて、結局は損をする。……そういう実感を日本人はもう肌感覚として持っている。
マクロ的にみれば「全員がそうやってより低い努力しかしないと、全体の成果がどんどん沈下するだけで、結局は自分もジリ貧だぞ」「乗ってる船が沈んで後悔することになるぞ」となるのだけれど、普通の人間はそこまでマクロ感覚で生きてはいない。国民全員が貯蓄を開放すれば景気は上向くと理論としてははっきりわかっていても、「このままじゃデフレになっちゃうから貯金は全部やめて暮らそう!」という生き方がなかなか出来ないのといっしょだ。
だから、ミクロ的な「怠けた人は得をする」という実感を頼りにマクロを類推して、「私たち同じ庶民の中に怠けている人間がいて、彼らはより少ない労働で社会の富を多く得ている」という結論が合成される。その結果出てくるのは「生活保護を打ち切れ!」とか「奨学金を返すのなんて当たり前だ!」とか「就職活動をサボってフリーターになったんだから低所得なのは当たり前だ!」とかいう自己責任をキーワードにした新自由主義的な責任追及だ。
そんなわけで、なんで日本においては下流叩きじみた新自由主義信仰があるのか? については「怠けたほうが得な社会を私たちが作ってきたから」だ。能力がある人や成果を正当に評価しないで、ムラ社会的な横並びで生きてきたので、社会が苦しくなるのは身内に裏切り者がいるに違いないという発想になるのだ。
Tweetでは「新自由主義的な表れ方」といっているけれど、日本はアンバランスで片手落ちだ。本来の新自由主義であるならば(市場原理を最大評価するんだから)能力が3倍ある人には3倍給与を与えるはずだからだ。
再分配を考えるのなら、そしてそうやって高額所得を得た人を大いに賞賛して、褒めて、よーし俺も大儲けしちゃうぞー! と皆で乾杯でもした後に、その上で気持ちよくがっぽり税金を払ってもらって、それを分けたほうが効率がいいし、筋というものだ。結局国のGDPは個人の生み出した付加価値の総和なわけだし、ひとりひとりが頑張るっていうのは、がんばって成果を出すのが嬉しい環境を作らないと実現できない。つまり、自分が頑張るってのは、頑張って成果を出した人間を大いに褒めて評価するってのとセットでしかありえないはずだ。日本の場合はそういうアメリカンドリーム礼賛みたいな態度は殆どゼロで、高額所得者を褒めない上で、「目立たず最小限の労力で、しかし周囲に激怒されて村八分にならない程度に稼ぐ」という「出る杭にならないチキンレース」みたいな社会状況を自分たちで作り出し、なおかつ「自分の負担になっていそうな、自分より少し下の人間を叩く」ので、本当にたちが悪いと思う。