はてなキーワード: サッチャーとは
COVID-19の疫病は特異な歴史的コンテクストに現れました。まず、グローバル資本主義と自由民主主義の折り合いをつけるには他に解決策(ソリューション)がないと30年間も信じてきた後で、人類は自らに課した昏睡状態からしだいに目覚めつつあります。状況が改善するかもしれないが、急激に悪化するかもしれないという考えにもはや誰も驚きません。
他方で、これまでの4年間、ブレグジット、トランプの大統領当選、ジェレミー・コービンの登場と失脚――じきにバーニー・サンダースも同じ運命をたどることになりました――といった出来事から、グローバル資本主義がかなりしぶといものだということが見えてきました。世界主義から排外主義へ、ネオリベラリズムから社会民主主義へ、イデオロギーがたんに変わるだけでは、社会的・経済的な諸関係は変わりませんでした。資本主義の完全な作り直しという課題に直面して、かつてはあれほどラディカルに見えたイデオロギーが無力で陳腐なものであることが明らかになりました。
現在の健康上の緊急事態をどう考えるべきでしょうか。COVID-19の引き起こした危機が世界を変えて開放する可能性に希望を抱く人は、すぐに失望することになるかもしれません。私たちの期待が過剰だというのではありません。ユニバーサルベーシックインカムやグリーンニューディール政策は妥当だし、まさに必要なものです。ですが、私たちは現行のシステムのしぶとさを過小評価し、また同時に、思想が堅固な技術的・経済的インフラなしで世界を変える能力を過大評価しています。そうしたインフラがあってはじめて思想を作動させることができるのに。
「ネオリベラリズム」のドグマは諸悪の根源とみなされることが多いですが、このドグマであらゆることの説明がつくわけではありません。知的には「ネオリベラリズム」には似ているものの、これとはまた別の悪について、10年ほど前から私は指摘しています。それは「ソリューション主義」といいます。
このイデオロギーは、ポスト・イデオロギー的であることを標榜しており、グローバル資本主義が生み出す問題や矛盾を解決しながらこれを動かし続けるために、いわゆる「実践的」な、個別の対応策をまとめたものを勧めます。そして驚くべきことに、こうした対応策には美味しい利益がついてくるのです。
ソリューション主義のもっとも有害な帰結は、スタートアップではなく私たちの政府がもたらします。ソリューション主義国家とは、その前の時代の監視国家が人間的になりつつもより巧妙化したもので、二重の使命を帯びています。イノベーションを引き起こす人々(デベロッパー、ハッカー、起業家)は御しがたい存在ですが、これらの人々がその能力と既存のリソースを〔現在のグローバル資本主義とは異なる〕他の社会組織を作る実験に用いないよう、ソリューション国家は気をつけていなくてはなりません。AIやクラウドコンピューティングの恩恵を十全に受けたいのなら、資金的に余裕のあるスタートアップを作らなくてはいけないようになっているのは、偶然ではありません。逆にそれは意図的な政治的努力の結果なのです。
その帰結。非商業的なしかたで社会を編成する制度を生み出す可能性があり、既存の体制を転覆するおそれのある試みは、頓挫する。そういったものは胚子の段階で殺されます。そういうわけで、ウィキペディアの流れをくむ団体はもう20年以上現れていません。とにかくデータが欲しい多国籍企業が世界を完全にデジタル化してゆく時代に、国家は自分の分け前を手に入れようと目論んでいます。監視が完全に行き渡ったことに加えて、企業が世界をデジタル化してきたことで、諸国の政府は市場を利するかたちでソリューション主義的な数々の介入を進めることができるようになりました。
ナッジ (nudge)の技術はソリューション主義の完全な実践例です。ナッジのおかげで、問題の原因は変えないまま、取り組みやすい作業の方に集中することができる。それは、個人の行動を不可変の現実(それいかに残酷な現実であっても)に「合わせる」という作業です。
ソリューション主義者のみなさん! COVID-19はソリューション主義国家にとって、9/11のテロが監視国家にとって持っていたのと同じ意味を持っています。しかし、ソリューション主義が民主主義的な政治文化に対して示す脅威は、〔監視国家よりも〕陰険とはいわないまでも、より微妙なものです。
COVID-19の危機にさいして中国、韓国、シンガポールがとった独裁主義的な戦略は評価されました。3国ともに、市民が何をしてよいか、してはいけないか決めるために、アプリ、ドローンやセンサーの展開をトップダウンで決定しました。西洋で民主主義的な資本主義の擁護者を標榜する人たちは予想通り、すぐさまこれらの国を批判しました。
エリートの臆見をもっとも雄弁にうたう詩人たるユヴァル・ノア・ハラリがファイナンシャル・タイムズのコラムで表明した代替案は、シリコンバレーのプロパガンダマニュアルからそのまま出てきたようなもので、知識によって市民を自律的にしよう! というものでした。
人道主義的なソリューション主義者はみんなに手を洗ってほしいと思っています。それがみんなにとって、社会にとってよいことだと知っているからです。中国政府が暖房や電気を切るぞと脅したように、みんなを力ずくで束縛するよりは、そのほうがよいと思っているのです。このような言説は、政治のアプリ化〔アプリで市民を監視し行動を制限する方向性〕にたどりつくだけです。手洗いの奨励をめざして作ったアプリがその人道的な見地によって報酬を受けたとしても、そうなるのです。
認知行動的な介入によって市民を自律的にしようというハラリの呼びかけは結局のところ、キャス・サンスティーンやリチャード・セイラーに代表されるようなナッジの擁護者が推奨するステップとたいして変わりません。こうして、過去数百年で最大の健康上の危機への政治的な対応は、石鹸や手洗い槽の自販機というかたちで「実践的な」言説に還元されてしまいます。これはサンスティーンとセイラーが〔共著の『ナッジ』で事例として紹介しているアムステルダム〕空港の小便器の形をめぐる思考〔小便器の底に蠅の絵を印刷するというナッジにより、男性利用者がトイレの床を小便で汚す率が大幅に減るというもの〕の系統にある発想です。
ソリューション主義者の想像の中では、あらゆる中間団体や制度は、歴史と同様、政治のシーンからほぼ消えてしまったので、他にできることはあまりないのです。ハラリやサンスティーンのような人たちにとっては、世界は本質的に、消費者としての市民、企業、政府で成り立っています。労働組合、アソシエーション、社会運動、そして感情と連帯で結びつけられたあらゆる共同的制度のことをこの人たちは忘れているのです。
「知識による自律化」というお題目は古典的なリベラリズムの根底にあるものですが、今日ではひとつのことを示しているだけです。もっとソリューション主義を、ということです。だから諸国の政府は、去年私が「生存のための技術」(survival tech)と名付けたもの(つまりスペクタクル(見せ物)としての資本主義が、その主要な問題を緩和しつつ続くようにするデジタル技術の総称)に大金を投資するものと予期しておかねばなりません。そうやってソリューション主義国家は自分が「中国の道」は採らないことを標榜しつつ、自己の正当性を強化することになります。
この危機から脱するためには「ポスト・ネオリベラリズム」の政治が必要なだけでなく、とくに「ポスト・ソリューション主義」の政治が必要です。まず、スタートアップか、中央集権的な計画経済か、といった人為的な二項対立はもうやめてもいいでしょう。この考え方は、私たちが今日、イノベーションや社会的な協力を考える仕方を規定しています。
新しい政治的議論の中心となる問題は、「社会民主主義とネオリベラリズムのどちらの勢力が市場で競合する力を制御できるか?」ではなく、「社会的な協力と連帯の新しいかたちを追求するうえで、デジタル技術がもたらす巨大な機会をどの勢力が活かすことができるか?」でしょう。
「ソリューション主義」とはだいたいのところ、「他に選択肢はない」(There is no alternative)というマーガレット・サッチャーの有名なスローガンを応用したものにすぎません。このようなロジックは残酷で実践できるものではないことを、左翼の思想家は過去40年間にわたって明らかにしてきました。とはいえ、〔このサッチャー的なロジックが〕破綻していても、政治的な権力を持つようになるうえで支障はなかったのです。結果的に、私たちの暮らす技術的な世界は、市場が支配する世界秩序を逸脱するような試みはぜったいに制度化されることがないようにできています。私たちの議論の輪郭〔つまり議論の組み立て方〕そのものが、そのような〔逸脱の〕可能性を排除してしまっています。
COVID-19への技術的な対応策を考えるさいに直面する困難は、ポスト・ソリューション主義的な政治の方向性が私たちにどれほど必要か示しています。イタリアのような国では――私はローマで外出制限の3週間目に入るところです――提案されるソリューションは酷いほどに野心を欠いたものです。私生活と公衆衛生のあいだで妥協点をめぐって議論が繰り返されており、さらには、これはハラリが示した方向性に従うことですが(「反抗または生存」を参照)、「生存のための技術」を使ってスタートアップがイノベーションを引き起こしやすいようにしなくてはいけないという議論になっています。
他の選択肢はどこに行ったのかという疑問が浮かぶのはもっともなことです。なぜ公衆衛生のために私生活を犠牲にしなくてはならないのでしょうか。テクノロジー企業や通信事業者が作った現在のデジタルインフラが、それを提供する会社のビジネスモデルにかなった利益をもたらすようにできているからなのでしょうか。
現在のデジタルインフラは、私たちを個別に消費者として識別し、ターゲティングを行うようにできています。集団の行動についてマクロなレベルで匿名の情報を提供するようなインフラを実装する努力があまりされてきませんでした。なぜでしょうか。そのような〔匿名のデータ〕分析をする必要について検討した政治的プロジェクトがなかったからです。非商業的なしかたで社会を編成する形態の中でも、とりわけ〔社会主義的な意味での大規模な〕計画はネオリベラリズムが用いる手法ではなかったからです。社会民主主義を信奉する人たちのなかでも、そのような手法を用いるべきだと主張する人はいませんでした。
現在のデジタルインフラは残念ながら個人が消費活動をするためのインフラであり、相互扶助や連帯のためのインフラではありません。デジタルプラットフォームと同様、現在のデジタルインフラは、アクティヴィズム、人の動員や協力といったさまざまな目的に使うことはできますが、そのような使い方は、たとえそう見えていなくても、高くつくことになります。
ネオリベラリズム的でもなくソリューション主義的でもない社会秩序の基盤としては、これはじつに脆いです(さらにこうした基盤には、消費者、スタートアップ、起業家とは違う働きをする人が必ずいなくてはなりません)。アマゾン、フェイスブック、あるいはあなたがお住まいの国の通信事業者が提供するデジタル基盤のうえにこの新しい秩序を建てる誘惑にもかられますが、そうしてもろくなことにならないでしょう。それは良くてソリューション主義者が跋扈する新しいフィールドになるか、悪くすれば、監視と抑圧に基づく全体主義的で押し付けがましい社会となるでしょう。
この危機的事態を権威主義的な体制よりも民主主義がうまく収拾できると熱く説く声が、左翼方面からさかんに聞こえてきます。このような呼びかけは無意味なものに終わる可能性があります。現在の民主主義は民主主義的でない私的な権力の行使にとても依存しているので、名ばかりの民主主義になっているからです。これぞ「民主主義」と考えるものをほめたたえることで、潰れかかっているスタートアップの見えない持ち分を意図せずほめたたえたり、スタートアップほどには無害でなくソリューション主義国家を構成するテクノクラートの持ち分をほめたたえたりすることになります。
もしこの生ぬるい民主主義がCOVID-19を生き延びることができるのなら、私企業の権力から完全に自由になるためにポスト・ソリューション主義の道をまず選ばなくてはならないでしょう。そうしなければ権威主義的な体勢への道へまた踏み出すことになります。それは「民主主義的価値」、「規制の機序」、「人権」について、以前にもまして偽善的なエリートの支配を許す道です。
Covid-19, le solutionnisme n’est pas la solution
*ナッジとは、「行動経済学や行動科学分野において、人々が強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法を示す用語」(株式会社日立総合計画研究所)
挙げる必要もないけど、サッチャーやら中曽根、小泉・竹中ラインから現在の安倍政権に至るまで
「官から民へ」が一つの正義、一つのこれからの社会のあり方として進められてきた。
もちろん目的は合理的経営とコストカット。「無駄を削減しよう」は
90年代から2010年代までこの20年間ずっと続いてきたキーワードであり、トレンドでもある。
どうせコメントで言われるだろうから、先に言っておくと、昔の国鉄や役所の窓口の対応がひどかったのが、民営化でよくなった?
はいはい、よくなりましたね。駅ナカビジネス、囲い込みでおめでとう。空中権の打ち出の小槌、おいしいね。
話がずれました。さて、「官から民へ」は確かに合理的経営・コストカットに有用だろう。
でも、そもそも民間企業が提供できないサービスを提供するのが公共サービスの役割なわけで、
公共サービスが合理的経営・コストカットに削ぐわないものであることは当然なんですよ。
だからこそ、インフラ、通信、教育、医療などが公的サービスとして日本では提供されてきたわけです。
元は田舎者だったのが東京に出てきて成功したからか、急にルサンチマンを発揮して、
成功したのは自分の能力のおかげ、それ以外の地方民はすべて死ね、もしくはお前らは東京のお荷物だ、
みたいなことを言い出す頭の悪い連中が、クリームスキミングを目的に、
「官から民へ、そして私のふところへ」を繰り返してきたのがこの20年でしょう。
どこかは合理化されたのかもしれないけど、それ以外の多くは合理化どころか疲弊してサービスの質が低下したのが事実。
https://twitter.com/yamanoikazunori/status/1206536417699979264
https://anond.hatelabo.jp/20190122160549
公務員が働いている職場にいる派遣社員をすべて公務員と同待遇にしたい
https://president.jp/articles/-/30191
仮に民業圧迫となる公的サービスがあるのだとしたら、民営化ではなく禁止したい(ゆうちょ銀行、かんぽ等)
https://this.kiji.is/579249207395763297
保育と幼児教育の垣根を壊して、無認可保育園をなくして、公的教育の一環にしたい
https://www.bengo4.com/c_5/n_10537/
https://univ-journal.jp/29150/
入院中にお金が払えなくて自己破産し、ついでに病院から蹴り出される社会にしたい?(米国)
アップルとグーグルの従業員を運ぶ社員専用バスが襲撃される社会にしたい?(米国)
1年ほど様子見していたアズレンだけど、どうやらここまでおかしな改悪もなさそう=安心して遊べそうということで、数日前に開始した。
日本艦艇はラバウルでうんざりするほど使ってきたので、しばらくは海外艦オンリーで遊ぶつもり。
てかサンディエゴにて初期艦ラフィーで始めてから、ウチにいる日本艦は衣笠だけだし。
現在1章をクリアして第二艦隊開放を確認し、2-1への様子見出撃で、あえなくフートちゃんを赤修理に追い込まれたところ。
最強厨の俺は海外艦と言ったらフレッチャー級、アトランタ級、クリーブランド級、ドイッチュラント級、フッド、クイーン・エリザベス級、ビスマルク級、ノースカロライナ級、アイオワ級、エセックス級と、あとはエンタープライズとサラトガくらいしか知らない上に、そんな強力な艦を序盤から使えるはずもなく。
一応、フレッチャー級ではフートちゃんとサッチャーちゃんはいるし、エンタープライズ同型艦のヨークタウンとホーネットはそれぞれ第一・第二艦隊の旗艦になってるけどな。
他に序盤オススメな強い子がいたら教えて欲しい。
そんで、まだチュートリアル+αくらいしかやっていない段階なうえに、本当に感覚的な話だけど、良く作ってあるなあというのが一番の感想。
遊んで楽しいゲームを作るにはどうすべきかきちんと勉強した専門家が、運営のコアメンバーにいるね多分。
あと身も蓋もない言い方だけど、犬が食うべきドッグフードを、飼い主が自ら味見していると思う。
飼い主と犬じゃ味覚が違うから、自分で食べた上で犬が美味しいと思うかどうか考察するのは結構大変な気がするけど。
何が良く作ってあるかって、なんつーか、ゆるーく長くのんびり遊ぶことも、ガチで色々やりこんで俺TUEEEEしまくるのもOKみたいな空気感。
やりこみコンテンツは相当あるっぽいし、一方でそんなの置いといて黙々とやれそうなことをやっててもいいみたいな?
現在進行中のメインストーリーは、いずれ坊ノ岬の大和がラスボスになるんだろうし、そこまで行くのに今のペースじゃ下手すると年単位で時間掛かりそうだけど、まあ戦力をしっかり充実させて、じっくり勝利していけばいいのかな。
装備開発のT1T2とか、限界突破とかあんまりきちんとわかっていないレベルなので、こっちも徐々に把握しないといけない。
何より寮舎の家具がボロっちい上に貧乏臭くてかなわないので、これもなんとかしたい。
建造はエンプラを最優先に、上述の強い子を早く揃えたい。
あと地味に音楽もいいね。スマホとパソコンの視聴環境の差という話かもしれないが。
あと、俺はアズレン始める前から艦これの、あの超いきあたりばったりで、なおかつ提督をやり込みに駆り立てる仕様追加に批判的で、最終的には付き合いきれなくなって休止していたこともあり、今まで称賛してた艦これを手のひら返しで叩くという話ではない。
それでも、アズレンに転職した人たちが艦これに、こう言っちゃなんだが後ろ足で砂をかけるみたいな文句を吐いて去る心境が、実際アズレンを始めてみてよーくわかった。
かくいう俺自身が「今までよくもやってくれたな」って思うしw
というのも、それまで良くないと思っていたところに加えて、艦これのダメな部分に、否応なく気付かされるんだよ。
「任務をいちいちクリックしないと始まらない」を筆頭とする、5年前から基本的部分が進化していない上に、微妙に痒いところに手が届かない改良をしてきたUIの腐りっぷりとか、「ゲームの遊び方まで運営にあれこれ指図されるみたい」「そもそも運営はこのゲーム遊んだ上でこの仕様を決めたのか?」とモヤモヤしていた部分を、改めてハッキリ自覚させられるんだな。
敵が強すぎると思う。
というか、まともな経済学史はガン無視して、需要と供給の観点から
その結果、経済的新自由主義と呼ばれるものが世界を席巻したわけ
レーガンとかサッチャーとか、まあ、おっさん世代には懐かしい名前だよね
内容としてはサプライサイド経済学という名前からして供給に重点を置いた考え方だ
・民間投資を阻害したり非効率な経済活動を強いたりする規制の、緩和・撤廃(規制緩和)
・財政投資から民間投資へのシフトを目的にした「小さな政府」化
([wikipedia:サプライサイド経済学])
ようするに、ときどき増田にも出てくる、金持ちを優遇したほうがいんじゃね、というあれ
お金持ちはお金をもうけるのが得意なんだから、より多くお金があればより有意義に投資をして
イノベーションやなんかを起こして経済を活性化するから結局みんなが幸せになると
確かにこれは旧共産国や途上国ではかなり上手くいった。少なくとも最初のうちは
もともと、こういった国では計画経済やなんかのせいで供給がぼろぼろだった
だから、需要はたっぷりあって、供給側の企業を税金面などで優遇して、邪魔な規制を
撤廃してやれば、どんどん供給が増え、増えたものはちゃんと売れて、みんな豊かになった
(実際には、きちんとした資本を整備するというのは、もっと繊細な仕事で、そこらへんは
そして、このころ、いわゆる伝統的な金融政策というものが強固になった
・景気が良くてインフレが加熱してきたら金利を引き上げる⇒企業はお金を借りにくくなり
経済活動を減速させる
・景気が悪くて困ったら金利を引き下げる⇒企業はお金を借りやすくなり、経済活動を活発化する
ちなみに、これも、読んでわかるように供給側(企業)に注目した政策だね
もちろん、この政策を実行した国は格差が拡大したし、途中から不調に陥る国もあった
ただ、格差自体は経済の問題ではないし(トリクルダウンが起きるはずとか)、汚職や教育に
由来する問題が足をひっぱているだけだと思われていた
社会問題として改善の余地があるが、経済政策としては問題ないはずだった
バブル崩壊以降、日本はサプライサイド経済学で頑張ろうとした
でも、景気は回復しなかった
確かに、金融機関は不良債権で困っていた。でも、優良企業には貸さないと業績が上がらない
ところが優良企業は借りてくれなかった
でも、景気は回復しなかった
規制を緩和した。もりもり緩和した
金融ビッグバン、非正規雇用、大店法、酒タバコ医薬品販売、タクシー台数制限撤廃にいたるまで
でも、景気は回復しなかった
それでもサプライサイド経済学のひとは、うまくいかないのは政策が徹底していないからという
ただ、ここまでくれば、もういくらなんでもおかしいだろうと思われだした
サプライサイド経済学が正しければ「セイの法則」が発動するはずだった
もういちどさっきの例を書いてみる
お金持ちはお金をもうけるのが得意なんだから、より多くお金があればより有意義に投資をして
イノベーションやなんかを起こして経済を活性化するから結局みんなが幸せになると
もう、みんな答えを知っている
減税や人件費の圧縮で作り出された資金は、イノベーションへの投資ではなく値下げ競争に使われた
だって、それが市場の出した答えなんだもん。イノベーションへ投資した企業は死んだ
需要のない市場で資本を優遇しても、溜め込まれるか値下げに回る
そりゃ企業も売れる見込みもないのに、投資もしないしお金も借りない
ここに至って、今まで供給の付随物と軽視されていた需要が景気のカギになると認識されたわけだ
さて、どうやら需要が景気の動向に大きな影響を与えるらしいということがわかったけど
そこで登場したのが期待インフレ率
需要が多ければ、商品をほしがる人が多いので、値上がりしてインフレになるだろう
需要が少なければ、売れ行きが悪くて、値下がりしてデフレになるだろう
なにより素晴らしいのは、金利とあわせることにより、以前の経済学に需要を接続することができた
期待インフレ率が高ければ、たとえ金利が高くても、将来的にお金の価値が下がるので返済は楽
期待インフレ率がデフレなら、たとえゼロ金利でも、将来的にお金の価値が上がるので返済は苦しい
さて、じゃあ期待インフレ率を上げるのはどうしたらよいか
確かに、個々人の購買力が需要につながるので、究極的な需要の制約条件ではある
しかし、財産を多くもつ高齢者が金を使うかというとそうではないように
本当に有効な使い道を官僚や政治家が決められるのか。汚職や財政規律の問題がある
まあ、ほかに人口動態のせいとかで、そもそも需要上げるの無理という人もいる
そんなこんなで最終的に期待インフレ率が貨幣に結びついているのを利用することにした
つまりお札を刷って物理的にインフレを起こし、需要を上げやすくお金を借りやすくした
あえて書くまでもないかもしれないけど、第一の矢はリフレ政策だけど
第三の矢は昔ながらのサプライサイドの政策に近く、あまり期待できない
というか、需要を重視する立場からは足を引っ張るだけと思うので止めてほしい部類だ
消費税が需要の足を引っ張るのは長引く「反動減」で、もううんざりするくらい明らか
この3月が消費税の納付期限なので企業業績がどうなるかで場合によってはリストラや
倒産などひどい影響が出るかもしれない(出ないことを祈るが)
消費税が消費への罰税であるのと同じように法人税を企業活動への罰税と思ってる人もいるが
端的にそれは間違い
設備投資や人件費など経費にはかからないのだから、利益が出たのに事業を拡張しない
ことに対する罰税なんだ。働かないことに対する罰税ね
また、一部の人は法人税が節税のための無駄な投資を生むから良くないという
しかし、良くないというのはやはり供給から見た視点で、需要から見れば特に問題はない
というか、推奨すらされる
それに対し法人税の減税は、何もしない溜め込みに有利に働く。これは最悪
ここから伝統的な金融政策に代わる理想的な経済政策が考えられたりする
つまり、期待インフレ率が高いときは法人税を下げて消費税を上げ
まあ、実際には税金をいじるのは大変なので、最低限、消費税を上げるなと
それだけ
サプライサイド経済学はもうやめよう
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2015-3-10追記
皆様たくさんコメントをいただきありがとうございます
財政出動の項で話としてややこしくなるけど出しといたほうがいいか迷った点
id:cider_kondo これを完全反転させた「全部ケインズが悪い流れ」も割と簡単に書けるよなー、と思った。散髪行くから書かないけど(嘘
2034年、小保方晴子がチベットのラサ市で全世界に向けて会見を開いた。
曰く、「”STAP細胞”が完成した」という。
その実否はすぐに証明され、多くの難病を抱える人々を救済したばかりか、
驚くべきことに体毛などさえあれば死者を任意の段階で復活させることも可能であった。
実は小保方が”STAP細胞”と評したものは元来のSTAP細胞とは全く異なるおぞましいもので、
小保方はもともと比較的得意だった細胞学と死霊術とのチャンポンで死者をも蘇らせる万能細胞を精製していたのだった。
これにより多くの偉人が復活した。
アドルフヒットラー、スターリン、ケネディ、サッチャー、金正日などの著名な政治家に加え、
ウィトゲンシュタイン、ガウス、ノイマン、ピカソ、つのはず壱郎らの優れた科学者・芸術家が復活した。
危険な人物が復活した際は、初めは対立する勢力に殺害される場合があったが、すぐにそれは止んだ。
ヒットラーなどは公式記録においては109回復活し88回殺害されているものの、現在も10数名が同時に存在している。
そしてこの新技術が浸透するにつれ、人々の関心はもっと身近なところに向いた。
大切な家族や恋人を復活させることを望んだのだ。そして、自分が死んでも復活できるよう手配したのも言うまでもない。
インターネットが人口に素早く膾炙して行ったのと同じく、この技術もほどなく庶民が一般に享受できるものになった。
時の流れが変わった。
人類が有史以前から様々にアプローチしてきたテーマが、意味をなさなくなった。
科学や芸術、宗教で追究されていたテーマが完全に不必要になった。
小保方晴子はかつて自分の研究を著しく妨げられたことがあった。
血のにじむような努力を通して、彼女は人類に復讐することを果たした。
つまり、人類が今まで構築してきたあらゆる成果を無意味にして人間を、いや生物を新しい段階へと突き上げてしまった。
この動きに反対する者も、初めの段階では多くあった。すなわち、この無制限の復活、「死の死」に否定的な者があった。
技術を純粋に受け入れる「素直」な人々の批判にさらされながらも、彼らは自分の一回きりの生を全うし「死んで」いった。
しかし、そうした彼らでさえ、必要があれば生きている者により復活させられる場合があった。
悪意のある新技術の賛同者などは、死を選んだ人を積極的に復活させたりもしていた。
人間の選択すら、尊厳すら、小保方の用意した細胞には適わなかったのだ。
人間文化が激変し、誰もその動きを止められなくなったなか、小保方の理念に異を唱える者があった。
狩野英孝である。芸人として円熟の域に達していた狩野英孝である。
「STAPゥ~!」
宮城県栗原市の神職の生まれであった狩野は、若年のころから独特の神力を以て人々の前に立っていた。
彼はある日、彼の師匠筋にあたりヘルニアで既に世を去っていた出川哲朗による霊界からの通信を受けた。
出川は酔った東京の私立大学生によって頻繁に復活させられる人物であったので、なぜ霊界から出川が通信しうるか狩野にとっては疑問であった。
彼は現世にいるのではないか? 狩野自身、出川と再び会えたときはとっても嬉しかったのだ。
しかしこの疑問が、小保方の野望を突き破るヒントになっていた。
出川からの教唆を受けたことで、狩野は霊界のイデアの実在を確信した。
現世に多く現れるクローン出川には、否、すべての復活にあたってはその源である「イデア」的人格が霊界に存在していたのだ。
小保方の行なった復讐により人間は考えるすべを失ってしまった。考えられない葦になってしまった。
自分の、この出川との体験が、何とか人類の真なる再生とならないか。
科学技術や哲学、生や死の理念を人類に取り戻せないか。真面目な狩野はそう考えた。
「おいおい”勘弁”してくれよ~!」
数はそれほど多くないのですが、賢哲とされる執政者もいました。
といっても英国は女性の先進国というべき、パイオニアが12世紀より存在していました。
彼女らによる為政がより多くの貧民を救い、また新しい文化を享受した事だと思います。
さるビクトリア女王時代には、数多くの植民地を平らげ、それに彼らの伝統的思想を蓄えさせた結果、
殆どの後進的国家では庶民が学を尊ぶといった文明開化が育まれていき、その政治の在り方に是非を考えるようになり、
また、わが国においても岩倉具視使節団などを経て富国強兵の手本としてきたのであります。
さらには東郷平八郎が英国留学中に学んだシチューを日本に持ち帰り、後日本の伝統的家庭料理となった"肉じゃが"を始め
女がパイオニアたる英国の文化が多く日本に根付いた事は今となっては感謝の言葉もありません。
その一方で、わが国は宗教を尊んでいました。
その一つが神道で八百万神を基本とするアミニズムや弥生期のシャマニズム(といっても元々は商王朝の請け売りですが)といった具合に
中でも神道においては女性を母なる産物を与える神の使いとして崇めていたことは当時の地誌であるとか神話体系であるとかに描写された事からもはっきりしています。
それだけわが国は古来より女性が先頭に立って政事を行う事が当たり前なのでした。
しかしながら、この試みは仏教伝来と共に立ち消えとなってしまうのです。
時は遡り明治維新に入ると吉田神道を軸とした復古神道から国家神道を尊ぶようになりましたが、これは女性神を崇める原始神道とは一線を課す仏教神道、すなわち神仏習合を軸とした新しい神道でありました。
その結果は、女性の人権を蔑ろにした男性による男性のための男性の政治であり、一時は富国強兵を成す事が叶いましたが、それも長くは続きませんでした。
つまり男性が政事を行って良かった事はあまりないという事なのですが、何故か女性が政治の場に立ち入らせなかった事が今日の我が国の社会形成に相成ったという主張がまかり通っているのですから不思議なものです。
反対に女性は平成時代に突入してもその権利義務は変わらず低いままなのです。
アメリカや英国などの先進国を見渡せば、女性が如何なる地位に昇っているかご存知の方も多いはずです。
しかしながら、わが国に限ってはこれまで女性がその社会の最高位に立ったことがありませんでした。
天皇家ですら明治以降男系天皇を本流してきましたので、女性がああだこうだというのは何等か齟齬が生じるかもしれません。
とにかくわが国の女性はそういう時代に生きて行かなくてはなりませんでした。
たかが性別が異なるというだけでわが国は不思議な事に女性を重要な地位に就く事を拒みました。あるいは恐れていたのかもしれません。
彼女は今日に至っては盗作や捏造疑惑で騒がれていましたが、それ以前からも彼女の人格や容姿をネタにマスコミは騒ぎ立てておりました。
これは彼女というよりも女性がそのような国を代表するような大事を成す事に苛立ったのかもしれません。
それが出る杭は打たれるが如しバッシングの嵐だったのでしょう。
とにかく今日の我が国というのはとにかく、女性が表舞台に立つ事を恐れているような節が見られます。
彼女は反日である、というのが今日の我が国の評価ではありますがそれ以前からマスコミは挙って親日家のパク・チョンヒ元大統領を褒めちぎりその娘であるパク・クネ大統領に対しては、
あくまで親の七光りといった評を下しました。
同じ様にこの間駐日大使になったケネディの末娘キャロライン氏に対してもそうでした。
彼女らは彼女ら自身の功績よりも父親の功績を以って評とされていました。
そういったマスコミや世論が女性に対して政治は男のモノで女は口出しするなといった風潮が垣間見えてくるというものです。
女は政治に向かないとどうして決め付けるのでしょうか?
まして2000年も以前より神道を尊んできたわが国ならば(他の先進国よりも長く女性を崇めてきたはずですが)、女性も表舞台で活躍するのが賢明であると判断しそうなものですが、やはり外来宗教がダメなんでしょうか。
つか、フォークランド紛争はサッチャーが起こしたものだし、マリア・テレジアとか自分の女王の地位を守るためにオーストリア継承戦争を引き起こしたし……
元記事は「頭のいかれた教祖がサッチャーをダシに適当こいてるよ。でもサッチャーのタカ派キャラ揺るぎねえwwさすがサッチャーww」という調子のネタ記事だよね。
幸福の科学の人はわかってああいう紹介記事を描いてるんだろうか。それとも素で元の英文をああいうふうに読んで…はないよなあ。さすがに。
http://latitude.blogs.nytimes.com/2013/06/07/margaret-thatchers-advice-for-abe-from-beyond-he-grave/
Maggie and the Medium
By GRAEME WOOD
訳はとっても適当。
2002年にマーガレット・サッチャーが老衰のために公の場から引退すると発表した時、彼女の敵対者たちはこうささやいたーーあんな手練の政治家を、完全に息絶えさせるのは難しいだろう。
どうも彼らは正しかったようだ。4月9日、サッチャーがロンドンで亡くなって19時間後に、日本の幸福実現党の党首であり霊媒でもある大川隆法が東京でイギリス前首相へのインタビューを行ったのである。
選挙区ごとに候補者をたてたにもかかわらず国会では一議席もとれなかった大川の党だが、東京では純真な信奉者たちが路上で熱心にパンフレットを配っていることで有名である。パンフレットの内容の大半は政治的で、対外強硬主義的なナショナリズム、移民政策や原子力の推進等を妙な具合に混ぜあわせたものである。とはいえ根っこのとこではこのグループは宗教団体であり、その目的は、人生を支配する6つの見えざる真理について人々を教化することで幸福をもたらすのだという。大川(彼は証券マンとしてニューヨークで働いた後、1986年にこの宗教をはじめた)はこれまでに霊界の金正日や預言者ムハンマドと話したと主張している。そして今度はサッチャーだ。
「なんですって? 私、まだ生きてるわ」非常に具合の悪そうな声で彼女は大川に言ったそうだ。(このインタビューを公開したサイトによれば、驚愕と混乱は呼び出された死者における典型的な反応である)「日本? あなた、日本って言いました?」
サッチャーはここでは人気のある人物だ、彼女の強いリーダーシップへの感謝の念や、労働階級出身でありながら男性優位社会で成功したという点。彼女はまた、英国がフォークランド紛争でアルゼンチンに勝利した時期、1980年代のナショナリズム復興の主導者として名をあげた。彼女の政治的信念によって政府の役割は縮小され、またインフレは積極的に抑制された。
大川のグループはアベノミクスを全面的に支持しており、日本政府は、インフレやマイナス金利を通じて経済を勢いづける試みに今のところは成功している。しかし大川とのインタビューではサッチャーは、一国の経済的命運は、究極のところ、積極的な金融・会計上の政策ではなく、ビジネスしやすい環境をいかにつくるかにかかっているのだと語った。
「政府に必要なのは産業の民営化をサポートすることだけです」と彼女は語った。あまりにも多くの法律が「私企業の成長を阻害している。ですから彼らを自由にさせ、成功を目指して皆が戦うよう教えるのです」
これは、安部首相のインフレ政策が経済を傷つけるんじゃないかと心配し始めている日本の大衆にはアピールするのかもしれないーーもしそうだとしたら、彼らはサッチャーの成功が緊縮財政と福祉の抑制によるものだったということを忘れてしまっている。
安全保障の話題になると、サッチャーはえらく軍国主義的なようだった。まるで大川みたいに。この点では彼女は安倍よりさらに上を行く。中国と韓国について、彼女はこう語った。「侵略を絶対に許してはなりません! あなたがたの素晴らしい、美しい、歴史ある伝統と文化を守るために彼らを攻撃しなさい。誇りを持つのです!」彼女は力説した。「自分たちの領土だと信じるのなら、私たちはそれを保持し、守らねばなりません。そして私たちの敵、侵略者を攻撃し、滅ぼすのです!」この"私たち"という言葉から判断するに、彼女は死後の世界で日本人になってしまったようだ。
このインタビューはリバティwebで公開された。幸福の科学の宣伝サイトである。記事の長さは数ページだ。サイトいわく「死後24時間は、死者の身体と魂はいわゆる"銀色の紐"でまだ結ばれている」死のショックが生々しいので「通常の死の直後は、話すことは極めて難しい」というのが普通だそうだ。しかしわれらがサッチャーはいつだってサッチャー、見当を失っていたのは僅かな間で、すぐに明晰かつ猛烈、傲然たるいつもの彼女に戻ったのだった。
反応
http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=6151
サッチャーの霊言を米一流紙が紹介 日本のマスコミは置いてけぼり?
米ニューヨーク・タイムズ紙の国際版であるインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(IHT)紙が7日、大川隆法・幸福の科学総裁によるサッチャーの霊言を紹介した。
(中略)
同記事では一部、一方的な思い込みも散見されるが、米一流紙が霊言の内容を冷静に分析して議論を行なっている点は注目に値する。たとえば、「霊子線」などの霊的な用語も、当然のように受け入れて議論しているのだ。大川総裁の霊言について取り扱うことがほとんどなく、週刊誌等が取り上げたとしても、「霊言があり得るのかどうか」で議論が止まってしまっている日本の大手マスコミとは対照的だ。
大川総裁は、世界の5大陸すべてで説法を行っており、各国の現地マスコミも大きく取り上げている。インドやアフリカのウガンダでは、講演会がテレビで生中継されたほどだ。世界的に見れば、宗教家の説法や「霊言」などの霊的な現象は、ニュース価値があると考えられているのだ。このまま日本のマスコミが宗教や霊界の話題を無視したままでいれば、世界のメディアから取り残される一方だろう。(晴)