はてなキーワード: セイの法則とは
"資金循環 ゆがみ拡大 借金、政府に偏在 日米欧企業カネ余り-チャートは語る"日本経済新聞2019年11月10日
"ピーターソン国際経済研究所のオリビエ・ブランシャール氏は金利が成長率より低い現状では財政赤字の許容度が高まると説いた。"
"上智大学の中里透准教授は「経済低迷を放置すればデフレに陥る。経済政策として財政健全化は選択しにくい」"
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO5185015006112019MM8000?disablepcview
なぜお金があまると、貯蓄が過剰だと財政健全化できないんでしょう?
Ys = Yd, Y = C + I + G + NX という等式からスタートします。
前者は生産、分配(所得)、支出面からみたGDPの三面等価より総供給Ys=総需要Yd、後者はYが所得、Cが消費、Iが投資、Gが政府支出、MXがX-M、経常収支でプラスなら黒字です。これはマクロ経済学の基本なので、分からない人は教科書などで確認しておきましょう。
Y - C - I = G + NX
左辺はY、つまりその期間に生産された財・サービスから消費と投資(いずれも家計がする場合、企業がする場合があります)を除いたものですから民間部門の貯蓄です。つまり民間部門の貯蓄は政府支出と経常収支の黒字の合計に等しいということです。
もちろん消費も投資も政府支出も、異なる経済主体が独自の判断ですることなので、当期に直ちに等しくなるとは限りません。事後的に等しくなる方向で経済が動くという意味です。Ys > Yd 、つまり供給過多で生産された物・サービスから売れ残りが生じても、長期間でみれば価格調整メカニズムが働いて、Ys = Yd となるのかも知れません(この考え方を"セイの法則"といいます。)。しかしながら短期間で観察すると価格調整メカニズムが働くといっても限度があります。売れ残りが生じるとなると、企業は次年度はむしろ生産する数量を減らすでしょう。つまり、少なくとも短期間でみると需要が供給を規定しているのです(この考え方を"有効需要の原理"といいます。これはケインズの発見とされています。)。
では民間貯蓄が過剰な場合に経済を縮小しないで左辺と右辺を均衡させるにはどうしたらいいでしょう?
まずIを大きくする、つまり投資を増やす方法があります。全体としてのIは利子率rの関数とされているので(これを"投資関数"といいます。)、貨幣供給を増やして金利を下げることです。ただし利子率が10%もあればいいのですが、下げて下げてゼロかゼロ近辺に達した場合は、これより下には下げられないか、下げられたとしても(注1)Iを増やす効果は限定的です(この状態を「ゼロ金利制約」「流動性の罠」といいます。)(注2)。そもそも過剰貯蓄とは本来は資金不足で、つまりお金を借りて商売をしていた企業が資金余剰に転じたから生じた現象で(家計はもともと資金余剰です。)、企業が資金余剰というのはお金の借り手がいないということですから、そういう現象が生じた時点で利子率はかなり低いのです。
次にNXを増やす方法があります。ただ、この方法は他国との軋轢の原因になるうえ、貿易黒字は通貨高を招き国際競争力の低下を来たすので、ドイツのように特殊な国際環境でもない限り増やすといっても限度があります(注3)。
残った方法はCを増やす、つまり減税か、Gを増やす、つまり政府支出の拡大です。いずれも財政状況は悪化します。中里准教授が「経済政策として財政健全化は選択しにくい」というのはこのようなメカニズムを指しています。いくらお金があっても誰かが使わないと所得は産まれないのです。
財政健全化というのはマクロ経済的にいうと貧しくなれというのと同義です。もちろん少子高齢化ならやむをえないとか、むしろ経済成長にとらわれない里山資本主義でいくのだ、というのもひとつの生き方、選択だと思いますが、それならそれで正直にそういうべきで、財政健全化したらみんなが安心して豊かになってという説明はどうかと思います。
(注1) 銀行間の借入れ金利に働きかけることにより銀行が家計や企業に貸す出す貸出金利を間接的に下げる「伝統的な金融政策」に対して、ゼロ近辺に達したインターバンクレートからターゲットを変えて、ターム・プレミアムとリスク・プレミアムによってそれより高く設定されている長期金利を下げることを狙うのが、いわゆる「非伝統的な金融政策」です。貸出金利の指標商品である長期国債を大量に購入する、MBSやETFなどのリスク資産を購入してリスク・プレミアムを下げる、インフレ目標と金融政策の先行きを示して期待インフレ率を上げる、などの方法があります。
(注2) 近時、低すぎる利子率は弊害を産む可能性があることが指摘されています。"金融政策はこれからもマクロ経済の安定化ツールであり続けることができるのか サマーズとクルーグマンのツイートより"、ラリー・サマーズのいくつかのツイートを参照。https://anond.hatelabo.jp/20190824134241
(注3) ドイツの事情についてはマーティン・ウルフ「日本化しないドイツの幸運」フィナンシャル・タイムズ、日本経済新聞2019年11月1日がよくまとまっています。https://www.nikkei.com/article/DGKKZO51634760R31C19A0TCR000/
"れいわ新選組と立憲民主党 どちらが正しいか (自民党とどちらが正しいかも追記しました) "
https://anond.hatelabo.jp/20190622204530
"金融政策はこれからもマクロ経済の安定化ツールであり続けることができるのか サマーズとクルーグマンのツイートより"
というか、まともな経済学史はガン無視して、需要と供給の観点から
その結果、経済的新自由主義と呼ばれるものが世界を席巻したわけ
レーガンとかサッチャーとか、まあ、おっさん世代には懐かしい名前だよね
内容としてはサプライサイド経済学という名前からして供給に重点を置いた考え方だ
・民間投資を阻害したり非効率な経済活動を強いたりする規制の、緩和・撤廃(規制緩和)
・財政投資から民間投資へのシフトを目的にした「小さな政府」化
([wikipedia:サプライサイド経済学])
ようするに、ときどき増田にも出てくる、金持ちを優遇したほうがいんじゃね、というあれ
お金持ちはお金をもうけるのが得意なんだから、より多くお金があればより有意義に投資をして
イノベーションやなんかを起こして経済を活性化するから結局みんなが幸せになると
確かにこれは旧共産国や途上国ではかなり上手くいった。少なくとも最初のうちは
もともと、こういった国では計画経済やなんかのせいで供給がぼろぼろだった
だから、需要はたっぷりあって、供給側の企業を税金面などで優遇して、邪魔な規制を
撤廃してやれば、どんどん供給が増え、増えたものはちゃんと売れて、みんな豊かになった
(実際には、きちんとした資本を整備するというのは、もっと繊細な仕事で、そこらへんは
そして、このころ、いわゆる伝統的な金融政策というものが強固になった
・景気が良くてインフレが加熱してきたら金利を引き上げる⇒企業はお金を借りにくくなり
経済活動を減速させる
・景気が悪くて困ったら金利を引き下げる⇒企業はお金を借りやすくなり、経済活動を活発化する
ちなみに、これも、読んでわかるように供給側(企業)に注目した政策だね
もちろん、この政策を実行した国は格差が拡大したし、途中から不調に陥る国もあった
ただ、格差自体は経済の問題ではないし(トリクルダウンが起きるはずとか)、汚職や教育に
由来する問題が足をひっぱているだけだと思われていた
社会問題として改善の余地があるが、経済政策としては問題ないはずだった
バブル崩壊以降、日本はサプライサイド経済学で頑張ろうとした
でも、景気は回復しなかった
確かに、金融機関は不良債権で困っていた。でも、優良企業には貸さないと業績が上がらない
ところが優良企業は借りてくれなかった
でも、景気は回復しなかった
規制を緩和した。もりもり緩和した
金融ビッグバン、非正規雇用、大店法、酒タバコ医薬品販売、タクシー台数制限撤廃にいたるまで
でも、景気は回復しなかった
それでもサプライサイド経済学のひとは、うまくいかないのは政策が徹底していないからという
ただ、ここまでくれば、もういくらなんでもおかしいだろうと思われだした
サプライサイド経済学が正しければ「セイの法則」が発動するはずだった
もういちどさっきの例を書いてみる
お金持ちはお金をもうけるのが得意なんだから、より多くお金があればより有意義に投資をして
イノベーションやなんかを起こして経済を活性化するから結局みんなが幸せになると
もう、みんな答えを知っている
減税や人件費の圧縮で作り出された資金は、イノベーションへの投資ではなく値下げ競争に使われた
だって、それが市場の出した答えなんだもん。イノベーションへ投資した企業は死んだ
需要のない市場で資本を優遇しても、溜め込まれるか値下げに回る
そりゃ企業も売れる見込みもないのに、投資もしないしお金も借りない
ここに至って、今まで供給の付随物と軽視されていた需要が景気のカギになると認識されたわけだ
さて、どうやら需要が景気の動向に大きな影響を与えるらしいということがわかったけど
そこで登場したのが期待インフレ率
需要が多ければ、商品をほしがる人が多いので、値上がりしてインフレになるだろう
需要が少なければ、売れ行きが悪くて、値下がりしてデフレになるだろう
なにより素晴らしいのは、金利とあわせることにより、以前の経済学に需要を接続することができた
期待インフレ率が高ければ、たとえ金利が高くても、将来的にお金の価値が下がるので返済は楽
期待インフレ率がデフレなら、たとえゼロ金利でも、将来的にお金の価値が上がるので返済は苦しい
さて、じゃあ期待インフレ率を上げるのはどうしたらよいか
確かに、個々人の購買力が需要につながるので、究極的な需要の制約条件ではある
しかし、財産を多くもつ高齢者が金を使うかというとそうではないように
本当に有効な使い道を官僚や政治家が決められるのか。汚職や財政規律の問題がある
まあ、ほかに人口動態のせいとかで、そもそも需要上げるの無理という人もいる
そんなこんなで最終的に期待インフレ率が貨幣に結びついているのを利用することにした
つまりお札を刷って物理的にインフレを起こし、需要を上げやすくお金を借りやすくした
あえて書くまでもないかもしれないけど、第一の矢はリフレ政策だけど
第三の矢は昔ながらのサプライサイドの政策に近く、あまり期待できない
というか、需要を重視する立場からは足を引っ張るだけと思うので止めてほしい部類だ
消費税が需要の足を引っ張るのは長引く「反動減」で、もううんざりするくらい明らか
この3月が消費税の納付期限なので企業業績がどうなるかで場合によってはリストラや
倒産などひどい影響が出るかもしれない(出ないことを祈るが)
消費税が消費への罰税であるのと同じように法人税を企業活動への罰税と思ってる人もいるが
端的にそれは間違い
設備投資や人件費など経費にはかからないのだから、利益が出たのに事業を拡張しない
ことに対する罰税なんだ。働かないことに対する罰税ね
また、一部の人は法人税が節税のための無駄な投資を生むから良くないという
しかし、良くないというのはやはり供給から見た視点で、需要から見れば特に問題はない
というか、推奨すらされる
それに対し法人税の減税は、何もしない溜め込みに有利に働く。これは最悪
ここから伝統的な金融政策に代わる理想的な経済政策が考えられたりする
つまり、期待インフレ率が高いときは法人税を下げて消費税を上げ
まあ、実際には税金をいじるのは大変なので、最低限、消費税を上げるなと
それだけ
サプライサイド経済学はもうやめよう
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2015-3-10追記
皆様たくさんコメントをいただきありがとうございます
財政出動の項で話としてややこしくなるけど出しといたほうがいいか迷った点
id:cider_kondo これを完全反転させた「全部ケインズが悪い流れ」も割と簡単に書けるよなー、と思った。散髪行くから書かないけど(嘘
素人です。
ですのでこの項に登場する経済学者の言説は大いに誤った解釈をしている可能性が高いです。
でも気にせず逝きます。
*クソ長くなったので先に結論部分をまとめます
②ケインズの理論に欠点があったために、労働市場の積極的改善というその利点もろとも葬られてしまった。
④その為労働力ダンピングや失業率の高止まりが防がれにくい素地が築かれた。
後編:日本においてブラックがのさばっている理由についての考察
①日本は戦後ずっと右肩上がりで成長してきたために、失業問題に大きく悩まされる時期があまりなかった
②それがゆえに社蓄の害が単に個人の人生観に回収され、社会的問題とならなかった
③バブル後の増加した非正規雇用者の悲惨な状況を見て(または未必に協力して創出し)失業への強い恐怖を抱くようになった
④失業への強い恐怖から、不当労働行為を甘んじて受ける(法律上は勝てても経済体力的に持たないという理屈もあるだろう)
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まずブラック企業がのさばりやすい理由、つまり労働力のダンピングがおきやすい理由を最初に考えた(としてください)のはアダムスミスみたいです。
「使用者達は、暗黙のうちに、しかし恒常的かつ一様の団結を結んで、労働の賃金を実際の額以上に上昇させまいとしている。
我々がこのような団結をめったに耳にしないのは、誰もが耳にしないほどそれが通常の、ものごとの自然の状態といっていいものだからである。」
また労働争議の段に際しては
「それまでの蓄えから、使用者は1年から2年耐えられるのが普通なのに対し、
労働者は仕事がないと1週間で困窮するのがほとんどで1ヶ月耐えられる労働者は稀で1年持つ人はまずいない。
長期的にみれば、雇い主にとっても労働者が必要だとしても、その必要性は切迫したものではない」
あらかじめ使用者側にハンディを負わせないと(つまり自由を制限して)労働力のダンピングが起きてしまう、
アダムスミスは良く知られているように自由放任を是とした学者ですが、
こと労働市場に関しては、積極的に自由競争市場を作り出す必要性を主張していました。
しかしアダムスミスの後、デヴィッドリカードらから連綿と受け継がれてきた
自由放任主義にはこの視点が欠けていました。
「労働市場も自由競争させれば、労働の需要と供給は長期的には均衡する」と考えていました。
20世紀に登場したケインズはこのような自由放任主義に対し「貨幣改革論」の中で
「現在の状況に対して長期的な視点と言うのは見当違いである。長期的には我々はみな死んでいる」と強く批判しました
(ひょっとしたらアダムスミス的な意味で需要と供給の均衡を労働者が待つことができないといいたかったのかもと私は思いますが、如何せん切り貼りなので文脈がわかりません)
ケインズはリカード以降の古典派が、経済システムの調整不良の原因を貨幣賃金の硬直性に求め、
賃金体系を引き下げれば、生産物の価格低下をもたらし、それが新たな需要をつくり、
「ある個別産業について賃金を引き下げれば、それは総有効需要にも影響を及ぼす。
古典派の主張はある産業における賃金引下げが総有効需要に影響を与えない場合にのみ有効であるが、
賃金引下げが総有効需要を引き下げないという保証はどこにもない」
とし、
「むしろ賃金の引き下げが総有効需要の構成要素であるところの消費と投資を減少させ、雇用状況をかえって悪化させる」
可能性すらあることを示しました。(つまり賃金引下げがもたらす総需要減と生産価格の現象がもたらす需要増の比較で、いつも需要増が大きいわけはないと言っている)
(一般理論)
ケインズの登場後、しばらくは国家が経済に積極的に関与する必要が問われ、
世界恐慌を乗り切るために世界中で(戦争を含んだ)公共事業が行われました。
時代は流れて、1970年代に入るとミルトンフリードマンらの影響を受けた新自由主義が台頭してきました。
彼らはケインズが主張していた現在の所得が消費行動を決定するという主張を限界資本効率がケインズの予想に反して逓増していたことを示し、
その乗数効果に疑問符を投げかけ、金融政策による事態の解決が最も適切な行動だと主張しました。
政治的にも英国のマーガレットサッチャー、米国のロナルドレーガンという人物を得て、
マネタリズムはその全盛を迎えます。
英国、米国ともに結果的にインフレの抑制に成功しますが、失業率が高止まりし、社会情勢は不安定化していきました。
彼らは労働市場ももちろん完全な自由競争にあるべきだと考えていました。
しかし現実には給与格差が大きく広がり、賃金に収縮性が生まれたにも関わらず
日本でも中曽根⇒橋本⇒小泉と連綿と新自由主義的「構造改革」は受け継がれてきました。
ここまでを整理すると、
②ケインズの理論に欠点があったために、労働市場の積極的改善というその利点もろとも葬られてしまった。
④その為労働力ダンピングや失業率の高止まりが防がれにくい素地が築かれた。
という感じかと思います。
後編に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20090429/1241012651
新古典派はそもそも「セイの法則」を前提とし、「供給余り」など考えなかったので、貨幣の役割を非常に限定的に考えていた。そこがケインズと新古典派の発想が根本的に違うところです。私のイメージでは、新古典派の考える貨幣はモノを取引するときの単なる「約束事」です。例えば温泉に行くと、必ず「浴衣を着て、下駄を履いてください」ということを言われますよね。服を着ては浴場に入れないので、皆仕方なく浴衣を着ます。その時の浴衣を貨幣と考えればいい。つまり浴衣に意味はないし、欲しくもない。しかし浴衣がないと温泉に入れないから着ていくだけです。温泉に何回、何時間入りたいかということは事前に決まっていて、その行為を成立させるために浴衣を着るだけなのです。浴衣が二枚配られたらどうなるかというと、二枚重ね着するか、あるいは一枚は置いていくかもしれませんが、それだけの話で何の意味もないのです。浴衣は、入浴する、という経済行動には影響力を持っていない。
ところがケインズは浴衣に対する執着心というか、浴衣に魅力を感じてしまった状態を考えたわけです。そうすると、浴衣を汚したくないので置いておく、という可能性が生じる。このような人は風呂に行かず、風呂が沸いたまま使われない、という非効率が起こる。つまり、購買力が、「浴衣」という無意味なものに吸収されてしまったわけです。では浴衣に対する執着とは具体的には何でしょうか。そこでケインズが言っているのが「流動性」です。つまり、貨幣を持つことで、モノを買うことに対して、タイミングとか、何を買うとかいったことを留保することができるという効能がある。普通ならば留保などしたくないはずです。あのような紙きれを持っていてもうれしくないですからね。普通はモノが欲しいわけですから、それを手に入れるための約束事として、あたかも浴衣を着るかのように、ただ貨幣をいったんポケットに入れるだけのはずなのです。ところがやはりモノより欲しいものが出てきてしまう可能性がある。それが何なのかが実は問題なのですが、しかしとりあえずそれを流動性と呼ぶならば、それを手にいれたくなるということです。
ケインズはそれを、「月への欲望」と呼んでいます。つまり、人々は月という地球にないものを欲しがっていると言う。月に購買力が向かってしまえば、地上のモノは余ってしまいます。それが月への欲望です。だからケインズは、これも有名な言葉ですが、「中央銀行はグリーンチーズを月だと思わせなければいけない」と言うのです。つまり、貨幣を印刷して配れということです。その言い方を考えるならば月は貨幣ではないということになります。そうではなくて、流動性という名で呼ばれる抽象的な欲望なのです。そして、その代わりに貨幣を人々は持つのです。だからグリーンチーズをいっぱい作るならば、人々の月への欲望を解消してくれるだろうというのが、ケインズの言いたかったことなのでしょう。
多くの古典的ケインジアン、特に政策を提言するような人たちは、貨幣=流動性だと誤解しています。だから貨幣を大量に発行すれば、ものごとは解決すると考えている。しかし、ケインズのもともとの主張は、人々が欲しいのは、月、つまり流動性と呼ばれる抽象的なものだということです。ただそれが一般の状態では、貨幣に憑依しているわけです。ですから一般の状態では貨幣が流動性を持つと考えて問題がないのですが、それは「貨幣=流動性」ということではない。流動性と貨幣とは異なる概念です