はてなキーワード: アニメーションとは
児ポ法改悪、創作物の表現規制に反対 TPPから同人誌とコミケを守ろう
(略)
しかし、児童ポルノ法「改正」によって、単純所持を一律に規制したり、漫画・アニメーションなどの創作物も規制対象に加えたりすることは、児童ポルノ問題の解決に役に立たないだけでなく、逆に、人権の侵害や表現の自由の萎縮につながりかねません。
(略)
コミケを守り、表現の自由を守るためには、たたかいが必要です。そして、たたかえば勝利することができます。
(略)
日本のアニメや漫画文化は世界に誇るべきものであり、コミックマーケットも日本の文化の一つとして定着してきています。今後も、アニメや漫画文化がいっそう豊かに発展できるよう、私も力をつくしていきたいと思います。
(略)
こういうの、思い出すんですよ
10年以上前に2ちゃんでROMってた頃、ニュー速VIPとかで
「〇〇だけど質問ある?」
っていう板を見たこと
あれずっとやってみたかったんだ
でも高校生だった当時、ガキが来んなとか、ツマンネとか、半年ROMれとか怒られるの怖くてね、言われる前にROMってた
でもいざこういうときに
「あ、こういうのでスレ立てたい」
いくつになっても顔が見えない他人に怒られたり、心がキュッとするような言葉を投げられるのは嫌だ
全然分からん、だからもう今、匿名でなんか書くってなると増田ですよ、ここしか思いつかなくて
大人になったな、って思うんですよ
結べたんですよ、マン汁
結べると思います?わたしもさっきまで結べるもんだと思ってなかったんです
でも結べたんですよ
それがちゃんとした暮らしをする者の嗜みというか、後から同じ湯船に浸かる家族への礼儀ってもんで
で、ちゃんと湯で股間を洗おうとしたら、タンポンの紐みたいに“しらたき”が出てた
股間から“しらたき”が出てることある?あの、白いこんにゃくのちゅるちゅるしたやつ
最近うちの献立にすき焼きが採用されたもんで、“しらたき”は最近食べたから記憶に新しいけど、女人の股間からは出ないよ“しらたき”は
知人の女医が昔言ってたけど、卵胞期にマン汁って「みよ〜ん」ってなるらしいね
今はもうすっかり交流がないけど、でも「卵胞期だからマン汁がすっげぇ伸びる!!!」ってTwitterに投稿してたことは覚えてる
今、そのツイートが活きました
で、“しらたき”を改めて見直して
「これ引き抜いたら視界真っ暗になって死ぬかな!?そこに視神経はないだろ、そりゃそうだ!ガハハ!紐切り!プッ(鎬昂昇)」
とか思って(口には一切出していない)引き抜いた
すごい“しらたき”だった
こんなにマン汁が“しらたき”になること人生でないな、と思った
液体じゃないんですよ、普通「汁」って液体と形容できる流動性があるはずなんだけど、垂れない、はねない、手につかな〜い!(レインボーアート)だった
手に持って指に巻き付けられる、これは人類史上でも類を見ない、とても貴重なマン汁だ…!と研究者の顔になって、入浴そっちのけで“しらたき”マン汁を見ることに励んだ
でもさぁ、そこで気づいたんよ
「液体じゃなければ結べるんじゃない…?!」
って
なんでそんなこと思いつくんだよ
普通に、結べた
そりゃ〜そうじゃ“しらたき”だもん、結べないわけないよな
いや、“しらたき”じゃない、マン汁だよこれは
「マン汁を結ぶ」って聞いたことないもん、そんな、あの可愛くておしゃれなアニメーションをMVに使いがちな令和の流行曲のタイトルみたいな…
友達やあの卵胞期マン汁びよ〜ん女医でも「マン汁を結ん」でないんじゃない?!?!!いや、女医はあるかも…
でも、その高揚感も一瞬のものだった
ここまで14回「マン汁」って単語をキーボードで打ち込んでますが、ちゃんとした大人ですよ
「なにやってんだろう…」がすぐ来ちゃうんです
結べたマン汁はすぐに排水口に流しました、こういうのは自分のクローンにお別れを告げるようなセンチメンタルを感じます
でもやっぱり、ここまでで16回「マン汁」って単語をキーボードで打ち込んでるので、ちゃんとしてないんですよ、マン汁(18回目)もニヤけながら結んだし
「こんなおもしろいエピソードをどこで言おう?!」がすぐ来ちゃうんです
なんて哀れなおもしろ奴隷、ゲットしたおもしろエピソードを新鮮なうちに放流したい気持ちに囚われる、哀しき、おもしろピエロ…
しかし、一応ちゃんと社会で働き、普通自動車免許も持ち、お酒も飲める年齢の社会人ですので、友人が沢山いるSNSに書くことは思い留まりました
「VIO脱毛して、陰毛ハート型にしたんだ〜♡」はギリ言っていい、個人的には詳しく聞いてみたくもある、けど、マン汁は、言えない 体液はさ、ちょっとネ……
ところでハート型の陰毛って脱毛のデザイン表に結構掲載されてるけど、あれどの層の需要なんだろう
そういうことで、「スレ立て」の文化にも再度乗れず、友人の前で体液の話をすることを憚る僅かばかりの理性がはたらいた結果、初増田でしらたきマン汁について書きました
匿名でなんてものを人様に見せてんだ、明日仕事のひともいるだろうに…
もう20回も「マン汁」って書いてしまいましたが、きっと明日も社会でうまくやれます
グッドラックしらたき
単純にかわいい。100均でフィギュア売ってたから全種類集めちゃった。
でも専門店とかなさそうだし、絵本読んでる子供見たことないし、古いキャラ扱いなんだろうな
サンリオキャラクター大賞ランキングで1987年に2位になったのがピーク。
(参考 サンリオキャラクター大賞‥歴代人気投票の結果は? 1986年~現在 https://onl.bz/cd9aEgt)
この前USJに行ったら会場ゲートにいたんだけど、みんな
「あの鳥なんだっけ?赤いやつ」
とか言われてて、名前も覚えられてないんだなって悲しくなった。
USJのウッドペッカーは顔がちょっと怖いんだよなぁ。なんとかならないかな
(参考サイト https://castel.jp/p/3313)
他にいる?
ディズニーのヒロインがポリコレで黒人にされるみたいな騒動見聞きする度に、最初からアフリカや黒人の間で伝承されてきた物語を使ってやればいいのに、と思ってしまうのだが、彼らは世界で受けるような素晴らしい物語を持っていないのだろうか?
音楽はアフリカ由来だったりアメリカの黒人が育んだりした物が世界的に認められているのに、物語を作る才能は全くダメな人種なのかな? 黒い肌のアンデルセンやグリム兄弟は生まれなかったのだろうか?
人類が誕生して以来ずっと住んでる大陸なのだから、各国の神話や史実を脚色した英雄譚といった創作のネタがいくらでもありそうなのに。
アメリカの黒人が過酷な奴隷生活の慰めとして親から子に伝え続けたお伽噺をディズニーが感動的でポリコレ的にも完璧なアニメーションに仕立てたなら、トランプ支持者の田舎白人すら改心するかもしれないというのに。
なぜ白人作家が白人の登場人物を想定して書いた物語に無理矢理黒人をぶち込み続けるのか? それこそ黒人に文才はねーよという偏見に基づいた差別なのではないだろうか?
ぼく「アから始まってンで終わる6文字の日本語をいくつか挙げてください。なお、これは正規表現/^......$/にマッチするものとします。」
正規表現 /^......$/ は正確に6文字の単語を意味します。そのため、「ア」から始まり「ン」で終わる6文字の日本語の単語は以下のようになります:
ぼく「アから始まってンで終わる日本語をいくつか挙げてください。なお、条件として、正規表現/^......$/にマッチするものとします。」
正規表現 /^......$/ は厳密に6文字の単語を指定します。したがって、「ア」で始まり「ン」で終わる6文字の日本語の単語は以下のとおりです:
ぼく「なるほど、では検証しましょう。それぞれの単語について「1文字目…ア、2文字目…ク」のように順番に当てはめて6文字目まで表示してください。」
もちろんです、それぞれの単語を一文字ずつ確認してみましょう。
1. アクション
1文字目: ア 2文字目: ク 3文字目: シ 4文字目: ョ 5文字目: ン 6文字目: (なし)
2. アルバム
1文字目: ア 2文字目: ル 3文字目: バ 4文字目: ム 5文字目: (なし) 6文字目: (なし)
(中略)
確認の結果、いずれの単語も「ア」で始まり「ン」で終わる6文字の単語の条件を満たしていません。私の誤りでした。失礼いたしました。
1. アルバン
1文字目: ア 2文字目: ル 3文字目: バ 4文字目: ン 5文字目: (なし) 6文字目: (なし)
2. アクアン
1文字目: ア 2文字目: ク 3文字目: ア 4文字目: ン 5文字目: (なし) 6文字目: (なし)
それぞれ「ア」から始まり「ン」で終わる4文字の単語となります。
申し訳ありませんが、日本語で「ア」から始まり「ン」で終わる6文字の単語は、ぱっと思いつく限りでは見つかりませんでした。ご希望に添えず申し訳ありません。
勝った…!AIに勝ったぞ…!
「NHKのクレイアニメ『ニャッキ!』で青虫のニャッキが巨大化する回に興奮をおぼえる人間が存在する」というのを風の噂で聞いた。
当初は「またまた、ご冗談を」というのが私の感想だった。千差万別、八百万のフェチが幅を利かせているこの現代社会においても、教育番組の中の粘土でできた青虫に、ましてやそれが巨大化するさまに興奮する人間など一人もいないと思っていたのだ。
だが、いた。しかも一人でなく、掲示板で、SNSで、まばらにではあるがニャッキの巨大化に興奮する旨の書き込みがいくつも見られた。さらには、「分からないと思っていたが段々わかってきた」「そんな気がしてきた」と非ニャッキ巨大化回興奮者がニャッキ巨大化回興奮者に転化する過程のグラデーションのような書き込みまでもが散見された。
つまり、ニャッキの巨大化に興奮するというフェチは先天性のものだけではないということだ。転機さえあれば、人は後天的にニャッキ巨大化フェチを獲得することができる。
そう思うと俄然知りたくなった。人はいかにしてニャッキの巨大化に興奮するに至るのだろうか。
私はこの好奇心に取り憑かれてニャッキの巨大化回をとにかく見た。いっぱい見た。そのうちに、「もしかしたらこういうことかもしれない」という仮説をいくつか得ることができた。
今日は読者の中にもきっと存在しているであろうニャッキ巨大化回興奮者に向けてこの文章を書く。
仮説を順に挙げていくので、「これこれ!」と思うものがあれば教えてほしい。私はあなたたちのことが知りたいのだ。
ニャッキ!はクレイアニメなので、巨大化するときのアニメーションはニャッキの体に順に粘土を継ぎ足していくことで表現する。
それをアニメーションで追ってみると、ムクムクムク……というか、モリモリモリ……というか、ちょうど映画AKIRAで鉄雄の身体が膨張していくシーンのような絶妙に生々しい動きになるのだ。
この動きは確かに言いようもない刺激を私たちの心に与えてくれる気がする。もしかして、これに興奮しているのだろうか。
ニャッキはただの青虫である。お弁当代わりの実をかじり、這いずりながら暮らしてきた。それ以外の事象に対しては、虫一倍に鈍感であった。
そんなニャッキが「?」「?」としきりに疑問符を浮かべながら膨張していくのには、いわゆる無知シチュのような趣がある。自分の体がどうなっているか分からない、持ち主ですら把握できない変化が身体にどんどん起きていく、というシチュエーションは相応にフェティッシュなことなのではないだろうか。だとすればこれがトリガーである可能性もある。
破壊にフェチをおぼえる人間もいるだろう。ニャッキは身体の膨張のままにビルを圧し潰し、観覧車を見れば楽しそうに転がし、東京タワーが身体に刺さるとムッとして尾でぺちゃんこにする。
この、人間にとって取り返しのつかないことが上位存在によって無邪気に引き起こされるというシチュエーションも、それはそれで興奮に値する気がしてきた。あるいは、2.で挙げた無知要素との組み合わせで興奮しているニャッキ巨大化回興奮者の存在も考えられるだろう。この説は結構有力かもしれない。
はち切れそうな何か、というのはそれだけでフェチズムを刺激することがある。
ニャッキは作中で太陽を呑み込み、内から発光しながら膨張していって最後には爆発する。このパツパツになっていくニャッキに興奮しているパツパツニャッキ興奮勢も中にはきっといるに違いない。
ということで、最果てのアキネイターみたいになりながら質問形式で4つほど仮説を挙げてみたが、いかがだっただろうか。ニャッキの巨大化に興奮する諸兄の琴線に少しでも触れるものがあったならありがたい。
そして、もしなければ是非「こういうことだ」というのを教えてほしい。私はあなたたちのことが知りたい。ただ、知りたいだけなのだ。
戦争とは何んなのか?
戦闘機が編隊を組んで飛行し、
戦車や歩兵が都市中央でパレードを行うというイメージが大半である。
「機動戦士ガンダム」シリーズはロボットである以前に戦争である
初代リアタイ時に今までのアニメとは違う当時としては類にもないシリアスな空気が漂い「乗りたくないロボット」とも言われた
やがてそのガンダムは「乗りたいロボット」へとユーザーの考えが変わっていった…
2013年のヴァルヴレイヴ、2014年のクロスアンジュ、そして2015~2017年にのガンダム鉄血
サンライズは「乗りたくないロボット」として描くリアルロボットを標榜した。
連邦がジオン支配者であるザビ家を葬るために発案した、いわゆる破壊のための炎である。
『ガンダム』が冷蔵庫やスーパーマーケットとして発案されることはあってはならないと言ってた。
武器は強力だがあえて緊急用として搭載されている。
AGEやGレコ、鉄血で新たな道を探ることになった
「ヴェイガンを破壊する」「ヴェイガンの真意を確めようとする」「ヴェイガンとの戦争を終わらせる」とのコンセプトで生まれた
(本物の戦争にラスボスなどいないという事、そしてエネルギー問題)
そして鉄血
鉄血世界での前史では
モビルアーマーという危険兵器から市民を守るためにガンダムが誕生した
ロボット戦や白兵戦以外でのロボット乗りの最期は過去にも複数あった
バクシンガーでは仲間の一人が暗殺されたためバクシンガーへの合体不可能になり量産型バクシンガーで戦う事になり、
強力な機体に乗った強くて悪いボスを出すためだ
だが鉄血での40話以降は「弾丸と血へどが飛び交う新アニメーションに覚醒した!」との好意的な声がある一方
「ガエリオへの優遇により終盤はシリアス展開というよりも別のコンセプトになっている」との意見も見られた
制作主導者の最終回後のインタビューも経済団体やネットでの一部勢力を恐れて混沌とした内容が多いのが寂しい
はっきりミサイル問題や労働問題などについてみんなに考えて欲しかったと言うべきだったのだ
さらに私の確認していないロボット関連クラスタの中にはMS乗りの素質があったオルガやMS乗りのラフタが暗殺という形で最期を遂げた事に不満を持つものあるらしい…
・ひたすら面白かった
・ドンキーコング好き
登場時のパワフルなアニメーション、良すぎる
・こんなにたくさんの子供が入ったシアター初めて
活気があっていい
TVアニメ『ウマ娘 プリティーダービー ROAD TO THE TOP』監督の廖程芝は、2018年に公開された中国のアニメサイトのインタビュー ( https://www.gcores.com/articles/102967 ) によれば、大学卒業後に日本にわたり、語学学校、東京デザイナー学院を経てアニメ業界入り。撮影としてキャリアを積み、2018年の『アニマエール!』で撮影監督。2023年の『ウマ娘RTTT』が初監督作品となる。
インタビューによれば東京デザイナー学院では生徒の1/3が中国人だったという。『ウマ娘RTTT』の撮影監督も中華系らしき名前だが中国出身なのだろうか。
TVアニメ『機動戦士ガンダム 水星の魔女』のコンセプトアートを担当する林絢雯は、イギリスの芸術学校を卒業後、2020年に京都精華大学のアニメーションコースを卒業
( https://twitter.com/negita_Ad/status/1652582625301893120 https://www.kyoto-seika.ac.jp/news/2022/0901_4.html )、ゲーム会社を経て現在はフリー。『水星の魔女』ではコンセプトアーティスト、小説版の表紙イラストを手掛ける。
→中国人女性を受け入れ、彼女らに重要な立場を任せる、多様性にあふれた日本のアニメ業界すごい
→俺すごい
映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれた世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画『BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。
公式サイト: https://bluegiant-movie.jp/
予告編(YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk
今年の二月から上映している本作は、同名の漫画を原作としたアニメーション映画だ。音楽と人間の物語を楽しみながら、ジャズ界の独自の価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。
主人公の宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷の仙台を飛び出し、単身上京する。東京で出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校の同級生で素人のドラマー・玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。
原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成が採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみ(ピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽とアニメーションのコラボレーションの最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境の存在が大きく、Netflixの支配力が高まる現代において、専用施設の役割や可能性を示すことにもなっていた。
今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標が物語の性質に与えた影響について考えていきたい。
映画『BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽の関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味を見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。
演奏者である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身と真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身と対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。
ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽が空気を振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在を再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽や精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語と音楽と映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶるからだろう。
ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽の演奏が聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるもの」であることを実感するが、この映画ではアニメーションの技術やアイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。
また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後のライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blueの舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。
本作はジャズライブの世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーションや人間関係のあり方についても、ジャズ・プレイヤーたちの世界や文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。
ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身の活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズはロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラな状態が肯定され、自助を基調としたコミュニティ文化が成立している。
例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身の問題だから、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮を無用なものとして切り捨てる態度を取っている。
しかし、自分自身の問題であることと、周囲がその解決をサポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ、人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身の問題でしかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。
ところが、ジャズ・プレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれてしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係やコミュニケーションの方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまり「ジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。
「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョなワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズの性質を、人間関係のアプローチに転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。
この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助の圧力が高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身の問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。
この作品にはもう一つ、物語の性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。
大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一のジャズクラブ・So Blueのステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。
ジャズマンにとってのSo Blueは、野球の甲子園やラグビーの花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園や花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから「権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。
JASSはSo Blueの支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイが否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者が凡庸な人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である。
また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分が評価していないギタリストと共演しても、相手が一定のプレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分のソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界の人間もたくさん集まる。駄目バンドの烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威が肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。
若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズ・プレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。
映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画『BLUE GIANT』は、ジャズの美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの(自助を前提とした人間関係やコミュニケーション、権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。
それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助を強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽だけが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。
マリオと言えば変身。
キノコを食べて大きくなったスーパーマリオ、フラワーを食べて火を出せるファイアーマリオなどがいます。
産みの親である宮本茂だって、色々なものを食べて変身できるに違いありません。
変身した宮本茂さんにもっと色んなマリオを作ってもらいましょう。
遊ぶたびにステージが変わり1000回遊べる不思議なマリオを作れる。
・秋元才加を食べて広井茂
ハイクオリティな映像美が堪能できるアニメーションが流れ大正桜に浪漫の嵐なマリオ大戦を作れる。
高速感が売りの時代が求めた16ビットなマリオザヘッジホッグを作れる。
ボールに入ったマリオを動かすたべごろなマリオボールを作れる。
16連射でなんかする。
内容は二十年前のアニメかな?と思う様な美少女達がてんやわんや日常を謳歌するのに終始するという、昨今の価値のある物語や迫力のアニメーションや強烈なエロスを期待すると特に何も得るものが無い題材
キャラクターの造形は地に足ついてる印象とキャラクターテンプレ感が1人のキャラ内に両方が内包されていて他の作品と比べるとアイマスっぽい感じに見え、男キャラは全員モブ顔で美男子が得に登場せず、敵に至っては物語開始前に大規模作戦があって活動休止中で出てこない。
物語の流れは1話をAパートBパートに2分割した上で最後に1分程度のCパートを重ねるという1クールで2倍満足できる構成で、個人的にはギャラクシーエンジェルという朝のアニメを彷彿とさせる内容。
因みにソシャゲもあるけどそっちの出来もアニメと同じくらい古い感性のオタクにチューニングされていて流行の最先端にいる作品ではないが長く支持しているファンがいたりする。
そんな何もかも20年前なセンスで何でこれが令和の時代に作られ、放送されるに至ってるのか全く奇跡だなぁと思うアニメ
アリス・ギア・アイギス EXPANSION、通称アリスギアEXがマジで面白いというよりは懐かしいというかホッとするというか温かいほうじ茶感凄いからお前ら試しに一回は見ろ
アマゾンプライムビデオで最新話以外無料で観れるしニコニコ動画とかにもある
「ソーシャルゲームのアニメ化」だから元ゲーム知らんしなーってまず思うじゃん。
大丈夫。
だって、ゲーム原作遊んでなくてもアニメのギャラクシーエンジェルは楽しく観れてたじゃない。深夜アニメだと「ヤミと帽子と本の旅人」とか原作エロゲー遊んでないのに観てたし。
何よりもゲーム原作の話を追体験とか全然やる気ない作品なので尚更大丈夫大丈夫。
で、この作品のウリなんだけど
主人公はアニメオリジナルキャラクターの「高幡のどか」というキャラクターで。ウマ娘のアグネスデジタルみたいな女です。
主人公がデジたんみたいな汚物なんすよ・・・。なるほどそう来たかって感じ。
世界観なんだけど、人類の敵である機械生命体が存在していて、人類は地球から脱出して数百年かけて銀河系を半周ほどぐるりと宇宙船で旅をして
機械生命体に勝てるだけの技術力を獲得して、女の子だけが使える超武装で機械生命体達と戦ってるって世界観なんだけど
アニメの直前に大きな戦いがあった結果、アニメの期間中は敵が出ないだけでなくゲームのプレイヤーキャラクターが何かやらかして戦闘作戦の営業停止しているって設定で
頭空っぽにして笑って投げっぱなしのギャグを美少女がわちゃわちゃしてるっていうそういう、和むアニメと言うか
疲れないアニメなんですよ。
今のコスパとかタイパとか重視する現代人にとっては観ても得るものがないって思われるとじゃあウマ娘や鬼滅やガンダムやプリキュアなんかの話題作だけ観るわサヨナラーってなりそうだとは思うんだけどさ
肩肘張らずに、なんかこう、古いなー懐かしいなーって
ほらよ https://www.eirin.jp/img/classification.pdf
映倫は次の方針で作品を個別に審査し、年齢層別に設定した「区分」のいずれかに分類するに際しては、以下の要領で行なう。
② 各場面でどのような題材が用いられ、それが映像の流れの中でどの程度まで刺激的、又は抑制的に描かれているか。
③ 作品の全体像が観客にもたらし得るメッセージ及び心理的な効果などを総合的に判断する。
(1) 表現の度合い
① 描写の仕方 直接描写による明示、又は間接描写による暗示、もしくは言語による言及。
② リアリズムの度合い 迫真感・臨場感の程度。リアルな描写、又はコメディ、ミュージカル、ファンタジー、アニメーションなどの様式的・人工的な描き方。
③ 印象度 描写の詳細さ、長短、場面における頻度と全体の回数。大写し、長廻し、又はフラッシュ・カット、ロング・ショット、ソフト・フォーカスなどの使い方。
(2) 文脈
審査にあたっては各場面における映像、言語、音声の視聴覚的な流れの中で、ストーリー展開上の必要性、必然性などを考慮する。文脈の判断には以下を含む。
顔面射精シーンばかりを集めた総集編を動画ファイルに保存してよく見てる。
だが私には不満があった。
「1カットが長い。」
いつ発射するともわからないままカラミをしばらく見させられるのは苦痛だし、その後の余韻や「お掃除」なども自分にはそれほど重要じゃない。
ドビューッ!!という顔射の瞬間だけを楽しみたい私にとって、射精の前後15秒もあれば事足りる。
いっそ編集してしまおうか。いや、めんどくさい。動画の編集作業は、なんか色々思い通りにいかなくて好きじゃない。
そうだ、カット編集する代わりにプレイヤーを操作して再生位置を飛ばせばいい。ブラウザとJavaScriptを使えばプログラムでできる!
あらかじめお気に入りの発射ポイントをセレクトして、タイミングを配列データにしておく。
次の発射ポイントの15秒前にジャンプし、射精から15秒たったらまた次の発射ポイントの15秒前にジャンプ、を繰り返すだけなんだから、簡単なスクリプトでいけるはず。
これなら重たい動画編集ソフトもいらない。ブラウザもエディタもタダだし、サクサク動いてくれる。
書いてみた。一日でできた!
次から次にテンポよく、お姉さんたちの顔に精液がぶちまけられていく。これが見たかった。
動画が1秒間に4~5回ずつしか timeupdate イベントを吐いてくれないのがちょっと不満だけど、たいした問題じゃない。前後15秒なんてだいたいでいいんだから。
ちょっと欲が出てきて、「カウントダウン機能」を実装してみることにした。
発射ポイントの5秒前から 5、4、3、2、1 とカウントダウンしていく数字が画面の隅に表示される。
そういう演出の作品を前に見たことがあって、すごく気に入ってたんだ。
これも厳密なタイミングはちっとも必要ない。requetAnimationFrame みたいなぜいたくな処理はせずに setTimeout を再帰する方法にした。カウントダウンの数字にはCSSでアニメーションをつけてみたりしよう。
5、4、3、2、1、ビューッ!! 最高!!
最後に、手作業で地味に手間がかかっていた、お気に入りポイントの登録も機能にしてしまおう。
発射ポイントで一時停止して登録ボタンを押すとその時刻が配列に追加されるようにした。
これを動画データの識別子とセットで LocalStorage に格納しておけば、次からは動画を読み込めばそのデータを呼び出すことができる。
うん。すごく楽になったし、お気に入り射精を探す作業が楽しくなった。
これ来週の情報の授業で発表しよっと。
「Get Wild」と空目した。ちなみにChatGPTに聞いてみたら「「Get Wild」は、1987年に日本の音楽グループTM NETWORK(ティーエム・ネットワーク)が発表した楽曲で、同グループの代表曲の一つとされています。当時、TM NETWORKは日本の音楽シーンで非常に人気があり、この曲も大ヒットしました。
「Get Wild」は、アニメーション映画『シティーハンター』の主題歌として使用されたことで知られており、アニメファンからも親しまれています。また、この曲はTM NETWORKの海外進出にも大きく貢献した楽曲の一つであり、アジアやヨーロッパでも人気を博しました。
なかなか興味深くて面白かった。
声から推すのかー、って納得できて。
どうも腑に落ちないというか共感できない感じがあった。
増田に文句があるのではなく、声優とか役者をアイドルのように推すに至る気持ちが、よくわからんかった。
アイドル活動に近い売り方してる声優や俳優が居るのは知ってる。それはアイドルと括るとして。
導入がアイドル(活動)じゃなくてアニメキャラなのに、そのアニメの監督なりアニメーターなり原作なりへ広げるのではなく、中の人(声優)繋がりで他作品へっていう流れに納得がいってなかったんだ。
俳優なら顔が出てるので、まあ分からんでもない。顔が好きなんだろうな、ドラマのキャラメイクが何であれ、顔が。って思える。
でもアニメは、アニメーションの絵と声で一つのキャラクターになってる認識だった。だから、声だけを抽出して推すっていうのが謎だった。
好きな声はそりゃあ、ある。原作が好きなら、アニメ化するなら声優さんは誰がいいとか、妄想するものだし。好きな声がアニメから聞こえれば、そのキャラクターにも興味が湧く。とはいえ、推し活に至るにはちょっと弱いというか、違う感じ。
でも増田は、そのアニメのキャラクターが好きになったんじゃなくて「声」に惚れたので、原作を読み込むのでもなく声優さんの出演作品へ関心が広がったと。
やっと、声優を推す、という流れに納得できた。