はてなキーワード: 苦痛とは
俺はガキの頃から潔癖症で静かに過ごしてる方が好きだったせいか、色んな意味で情報量が多い学校がマジで苦痛でストレスだった。
そのお陰で初不登校が小1という社不エリート街道を歩むことになった。
親にブチ切れられながら大嫌いな学校に通ってた俺が学校で身につけた物といえば精神的なストレスぐらいで学力はゴミだった。
中学生になるとブサイク故に雑なイジりをされるようになったので、とうとう人間嫌いになった。学校も休みがちになった。
学校に通うのが苦痛過ぎたので高校は通信制に行きたかったが、偏差値40程度の高校に通うことになった。
その後、予備校に通い市役所で採用されて公務員になった。俺はその時に勉強が嫌いだったんじゃなくて学校が嫌い故に、学校と切っても切れない勉強が嫌いだったことに気づけた。
しかし社不は治っていなかったので、長期フリーターを経て今は別の仕事をしている。
みたいな話を久々に会った高校の友達にすると「お前なんでそんな学校嫌いなん?」って不思議がられるんだけど、みんな学校好きだったん?
男性の8割がミソジニーのモラハラの女性差別を内面化させたクズでセックス下手くそコミュニケーションも下手くそ家事もできないし不快なだけの存在なんで、こんなのとセックスができても不快で苦痛で時間の無駄でしかないよね。
2割の男性を見つけるのは非常に難しい。
男は人生に何の困難もないので、ケアもしなくて済むしダサくてミソジニーのカスでいることで自らモテない自分を選べる自由と特権にあぐら描いてるだけ。
本気でモテないと死ぬんであれば全ての男は必死で女性の話を聞いて努力するはずだからな。
度重なる浮気・浮気疑惑と、共同で出す筈だった生活費の支払い拒否
(「今月は色々ピンチでお金無くて~が続き、いつの間にか全部自分が出す状態)が続き
(暗証番号教えた記憶無く、恐らく自分が操作するのを盗み見てた)
相手の実家に送金していた事が発覚し、我慢の限界となって同棲と交際の解消を申し出た。
元彼女は全力で拒否していたが、実家に帰れ荷物は後でまとめて送るからって言って
その事を恨まれたのか、分かれてから数ヶ月経ったある日、上司に呼び出され会議室に行くと
皆一様に重い雰囲気で、部長に至っては静かに激怒しているといった雰囲気。
何かミスをしでかしたのか、いやそんな覚えは全く無く寧ろ仕事は順調な方だったのに何故?
と思ったが、とりあえず席に座ると、上司が口を開き「君に関する悪い噂を聞いた」と言ってきた。
身に覚えがまるで無いと言うと、上司が再び口を開いて
「君が元交際相手の女性に無理矢理関係を迫り、強制的にわいせつ行為を働いていた、という通報があった」と言った。
正直言葉が出なかった。
なんで、そんな事に、なっているのか?分からない、マジで分からなかった。
困惑してすごい冷や汗をかいて、客観的に見れば俺は完全に「やらかした人間」に見えたと思う。
それでも何とか「元交際相手が、上司の言っている方かわかりませんが、
その方とは昨年の○月に別れています」
「関係が上手くいかなくなり、破局しましたが、交際期間中は彼女に対し誠意をもって接しており(これは本当にそうだった)
もちろん、(上司さん)が言う様な事をした覚えはありません」と言った。自分なりに必死だった。
すると部長が、「じゃあこれは何だね?」と切れた口調で俺を睨みながら、ノートPCを開いてある動画を再生した。
動画では、遠方の角度から、男女がそういう行為をしている所が映っていた。
画質は良くなくて音声も聞こえなかったが、自宅で俺と元交際相手がそういう事をしている光景だった。盗撮だった。
すぐに動画は閉じられ「この動画が送られてきた。この会社の人間である君に、強引に何度も性暴力をされたと。
場合によっては訴える覚悟もあるとも言っていた。どういう事だ!?」って
部長に怒鳴られてそこでようやく、自分が最悪の形でハメられたと分かった。
顧問弁護士は、とりあえず俺の処分(退職)は確定で、懲戒か退職金が一部でも出る形か、それとは別に会社の評判を落としたとして
俺は必死で反論した。元交際相手とは確かに別れたが、関係を解消する際に揉めたのは事実。
しかし交際中にDVの様な真似をした事は一度も無く、寧ろこちらが色々迷惑をかけられた。
これは元彼女の復讐・嫌がらせである、お願いだから信じて欲しい、という弁明はした。
男女間のトラブル「には厳しい会社だったからもうこの会社に君の居場所は無いとまで言われた。
疑惑が出ただけでも厳しく、動画まであり、弁解の余地は無かった。
更にそれだけでは無く、実家にも動画を送られ無い事無い事を告げられ、
堅い職業且つ古風な家柄だったので両親や親戚にも激怒され、一方的に絶縁された。
共通の友人知人にも、DVだの何だのされたと嘘を言って回られ、人間関係もメチャクチャにされた。
生活費、弁護士費用などの裁判費用で、今まで必死に貯めてきた貯金の大半は消えた。
何でこんな事の為にと、こんな事の為に頑張ったんじゃないと何度も夜中に泣いた。
裁判では結局数百万円も使い、何とか勝訴したが、取れた損害賠償は僅かなもの。
しかもそれも「お金なんて無い!」って支払いをされていない状態。
俺に残ったものは何も無かった。
今までのストレスで心身を悪くして心療内科に通院する日々だし、転職で給料も下がり、元交際相手とのトラウマで対人関係にも支障をきたしている。
自分の家族は絶縁されるまでは仲良い方だったから、そんな家庭を夢見ていた。
リベンジポノレノの被害を受けても、加害者が女性で被害者が男性なら、司法なんてロクに味方してくれなかった。
俺の人生はもう立ち直れないレベルでメチャクチャになってしまった。
昨年末、とうに縁は切れてた筈の元彼女から共通の知人を介して連絡があった。
元彼女が来年、『私は素敵な人と結婚する事になりました。私を傷つけた俺君に対し、幸せになる事で復讐してあげるつもりで頑張った。あなたも反省して欲しい』
という、まるで異常者みたいに胸糞が悪いメッセージを送られた。
現在のアップデートされた価値観を前提とするなら人間の肉体をもっと変えていく必要がある事はもっと強調されるべきだと思う
女性が10代~40代くらいの間に平均2回以上出産して肉体に負担かけないと人類の種の保存が出来ない上に生存本能が種の保存を訴えてくる
魚介類を含めた動物の肉を食わないと生存に必要な栄養素を摂取しにくい
平均的なスペックを発揮できない肉体として産まれた人間はどうあがいてもやれる事に制限がかかる
どれも政治的な正しさを追求していく上では問題にあがる要素と言えるだろうね
これらの課題を種の保存を始めとした様々な行為を諦めていく事で解決するやり方もあるが
人間の本能がそれを受け入れがたいものと抗ってくるのでやはり投薬によって人間の肉体の脳という部分を変える必要があるのには変わりない
だから人工子宮・遺伝子技術によって老若男女誰でも一人で自分の子どもを苦痛なく作れるようにした方がいいし
肉体の障害はサイボーグ化を始めとした肉体改造でガンガン変えられるようにした方がいい
そもそも脳まで完全にサイボーグ化してこれからはAI含めて機械の脳を持った存在を人類に含めた方がいいだろう
今の医学なんて1000年以上前からの人間から見れば肉体を根本から変えてるようにしか見えないだろうしな
だから現状は人類という種が衰退に向かっていく事を受け入れながら
根本的な肉体改造技術を開発して衰退を解決しようとするのが一番政治的に正しい態度と言えるだろうね
この際に人工子宮や遺伝子改造やサイボーグ化やAIなどに問題意識を持つ事は自由だと思うが
それが差別性や最新の「人権」の軽視と切り離せないという意識は持っておく必要があるだろう
お正月、家族連れをたくさん見たからでしょうか。めちゃくちゃ久しぶりに親の夢を見ました。
夢の中の私は親と妹と、とても仲良く正月を過ごしていました。目覚めて、「あ、夢だったのか」と思った時、私はまだ親に期待してるんだと気づいて愕然としました。
親は悪い人ではなかったと思います。必要なものは十分に買い与えられていたし、学校も県外の大学まで出してくれました。ただ、小さい頃から私が普通じゃないことを、私の努力不足だとして改善をせまる以外は。
私は小さい頃から一人遊びが好きで、人と上手くコミュニケーションを取れませんでした。
まだ1歳とか2歳の時に、遊びの集団から外れて日向ぼっこを一人でしていたといいますから、多分本当にうまれつきそうだったんでしょうね。
小さいうちはギリギリなんとかなってましたが、小学校高学年から高校くらいまでは本当にぼっちでした。
通信簿には「個性的な子」と書かれ、三者面談では母が担任の先生に「友達とか大丈夫ですか」と聞いて困らせていて、家に帰ると「なぜ友達ができない、作ろうとしないのか」と責められました。
そんなこと言われたって、友達の作り方なんてよく分かりません。学期半ばになって既に出来上がった人間関係に割り込む勇気もありませんでした。
人間関係が辛くなって、不登校になりかかった時もありました。両親はなぜ私が学校に行きたくないのか、と聞くことはなく、無理やり学校に連れて行くので、結局ちゃんと不登校になることも出来ませんでした。
高校生の半ばくらいに、ようやく同じクラスの優等生の真似をするという方法で人間関係を円滑にするということが形だけ出来るようになりました。何をされても笑顔で、人の嫌なことを進んでする。苦痛でした。
両親はそんな私の変化を喜んでいたみたいです。「ようやく情緒が育った」と冗談のように言っていました。
人間関係に問題は多々ありましたが、勉強関係は苦手ではなかったため、県外の大学に進学しました。進学先の大学には、「発達障害で療育を受けている」と公言している人がいました。
その人の言動には、自分と通じるものがありました。「もしかして」と思いつつも、誰にも相談できず、大学を卒業しました。
就活は苦労しました。本当は研究を続けたかったのですが、「妹もいるから学費はこれ以上出せない」と言われていたから、就職するしかありませんでした。
でもやりたいことでもないことに志望動機なんて書けませんでした。志望動機は「お金」以外に何があるのでしょう?そういうところを見抜かれるのでしょう、筆記は何十社も通ったのに、面接は片手の指で数えられるほどしか通りませんでした。
苦労した就活の果てにたどり着いたのは、人を指導する際に恫喝することしか知らない、休みが数週間ないこともあるようなブラック企業でした。
私は1年後に病んで、ブラック企業を退職しました。正確には、休職願いを出した後、それを知った両親が「向こうの会社さんも迷惑だろうから」と退職するように何度も言ってきたのに折れた形です。
すぐに働けないのが分かってるから、ぎりぎりまで休業手当を貰いたい、休業手当は会社が出すものではないから向こうの会社は財布も痛まない、主張しまししたが、親は「迷惑」の一転ばり。戦う気力もありませんでした。
ブラック企業への退職届は手渡しするように指定されたため、父親に連れられてブラック企業に行きました。ブラック企業でのつらい記憶がよみがえり、帰り道に泣いた私に対し、父は「道端でそんなに泣くな、みっともない」と言いました。
実家は居心地が悪く、結局すぐに転職活動を理由に家を出ました。
そのあと職業訓練を受けて、面接を何個か受けて、ブラックまではいかないけど、グレー寄りの企業に就職しました。休みが少なく、賃金は安いけれど、前の会社に比べると優しい人の多い会社でした。新卒で1年で退職したこと、空白期間があったことが響いて、ホワイト企業への転職は難しかったのです。
グレー企業ではなんとかやっていました。人がすぐ退職するので、クビになることもありませんでした。
ただ休みが少ないのはジワジワ効いていて、数少ない休日はずっと寝て過ごすような日々でした。ネットショッピングやスマホゲームでストレス発散にお金を使うので、数少ない貯金がどんどん減っていきました。
ある年のお正月に実家に帰りました。その時に母に言われた言葉が忘れられません。「妹はあなたの失敗を見てきたからちゃんとしたところに就職した。あなたと妹だったら妹の方がお給料が良い。」
妹は私と違って「学費をこれ以上出せない」といって就職をせかされていなかったじゃないか、妹が就職決まったのは卒業する年の二月で、学校のコネだったじゃないか、とかいろいろ言いたいことはありましたが、確かに今は妹の方がお給料が良いでしょう。黙って苦笑いを浮かべました。
それからも帰省すると、いろいろとありました。もう疲れました。
今はコロナを理由に帰ることをやめました。何も言われないうちはこのままで行こうと思っています。
親には黙ってることがいっぱいできました。
グレー企業は結局やめて、今は派遣社員です。ボーナスは無くなり、年収は低くなりましたが時給は良くなりました。残業もなく、土日祝が休めるので幸せです。派遣仲間には私みたいな感じの人もいるので、あまり問題にされることもありません。
あとメンタルクリニックにも行って、発達障害だと診断を受けて、お薬も飲むようになりました。障害者手帳も取得しました。障碍者手帳の申請書類には「両親の住所」を書く欄がありましたが空白で出しました。ドキドキしましたが何も言われませんでした。
ようやく発達障害だと診断がおりたことで、普通になんかなれないんだ、と改めて感じました。普通にならなきゃ、と思っていたけれど、ようやく肩の荷が降りました。普通にならなくて良い。今すごく幸せです。人生の中で、今が一番楽しいです、間違いなく。
でも全部、一生両親には言いません。墓場まで持って行きます。もしかしたらなんかのはずみで知ってしまう、もしくは知ってしまったかもしれませんが、親にはこちらからは言う気はありません。
私は独身のまま死ぬでしょう。黙っていたら実家のお墓に入れられることになるのでしょうが、実家のお墓には絶対入りたくありません。
私の胴体の一番下には地獄の釜が埋まっている
その際、来るはずだった生理が遅れた
体はコロナに手一杯で、そっちまで手が回らなかったのだろう
そして段々コロナが快方に向かう中で、体内の本来の仕事が再始動したらしい
生理が来たのだ
ぶっちゃけ生理の方がコロナの何倍も風邪らしい、厄介な症状をお見舞いしてくれた
どっちが私の体にとっての敵なのか分からない
毎月やってきて、話題の感染症より重い症状を不可避でよこしてくる
こいつ本当に何なんだ
怠くて仕事は手につかないが、職場の人々からはねぎらいの言葉をいただけるコロナ
かたや症状に個人差があり、コロナより重いくせに理解を得づらい生理
産み出す性というのは、子孫を残すにあたって非常に有利な性だ
なのになんだ、このありがたくなさは
何やら妊娠中のホルモンは多幸感を与えるだとか、生理の不調は妊娠しなかったことに対する制裁だとか聞いたことがある
制裁だとかはまともに信じる気にはならないけれども、もしそうだとしたら悪辣すぎるだろうと思う
妊娠という飴と生理という鞭で出産を促されようとも、現代人はそうホイホイと産むわけにはいかない
温存する。たとえいつか産むにしても、環境が整うまでそのカードは切らない
という態度をしていると、この子宮という地獄の釜は煮えに煮えて抗議してくる
その抗議に耐えながら、今日も寝床に伏して苦痛をやり過ごしている
こんな風にしてもうずっと地獄の釜を守っている
新しい命を宿す、それはそれはありがたい容れ物のはずなんだけれども
いつか役に立つ日が来るといいな
あととりあえず今は痛み止めが効いてほしいな
どんどん頭痛がひどくなってるよ
手加減ってものを忘れちゃったのかな?
元々してなかったね😉
死ぬーー
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
ワイは昔から試着がなんか嫌でな
靴とかも一応26.5なんだが、種類によって幅も高さも違うから当然試着したほうがいいやん
けど、試着のすすめを断ったり、強硬に勧められて試着してとしてもサイズがなんか違ってもそのまま買ってしまう
裾上げとかもそう
これ本当苦手で裾上げしてほしいけどなんか苦痛だから、そのまま買っていわゆるロールアップみたいにして着てる
普通がいいのにさ
本当、こんなことすら抵抗感が強くてままならないひとがいるってのを世の中の人に知ってもらいたい
当事者がストレスに感じてることなのに安易に「〇〇すればいいじゃん」とか言う人いるけどさ、それが本当なんの理解も共感も出来ないんだなって絶望しかないんだよ
お前が出来ても出来ないひとがいるって、そんな難しいことかね
4月に4~5項目のカテゴリ分けして目標かいて、翌3月に結果かいて項目ごとにS~Eの判定した後、総合判定をする
総合判定するってのがどういうことかっていうと、1項目をめっちゃがんばってSになるくらいがんばったとしても、
他の3~4項目が全部Bだと、どーやってもトータルBになっちゃうの
でも俺アホでバカで不器用だからさ、4個も5個もA以上にできないの
そんなやつがどうなるかってーと一生Bにしかなんないんだよ
どうせBにしかならないのに面談でそれっぽいこと書いてしゃべんないといけないのがすんごい苦痛
いやまあヒラの俺なんかより上の人のほうがもっと大変なんだろうけど
そんでさ、先期がまさにそれだったのね
休日返上して仕事とか(←これほんとはダメ)仕事の勉強とかやったのよ
もうまじしんどくて心身わるくしたくらい
んでもまあSとかよほどのことがないと自分からつけらんないからAにしたのね
他はB
いやまあそうなるのはわかっちゃいたんだけどなんかすんごいがくーっときてさ
別に目標設定とか評価システムが今回はじめてじゃないんだけど、年取ったのもあって、そんな中でかなりがんばって結果も出した自負があったからさ、余計になんかもうどうでもよくなったっていうかがんばる気がなくなった
そんでもまだ俺はマシらしーんだよな
Bにしてても相対評価だから全社で調整されてCに落とされて評価されるやつもいるらしいし
BがCに落とされるとか俺以上に悲惨やん
もう機能してないよ
女性は保健師さんの面談や地域の育児サロンへ行けばママ同士で愚痴っていることだろう。
それは悪いことだと思わないしどんどん話すべきだと思う。
妻に一度、「寝付かず夜2時間何をしても泣いて大変だった」とこぼしたら育児論を語られてそれから言わなくなった。
子どもの顔よりスマホを見ている時間が長いあなたに語られたくない。
ストレスが増えただけだ。
ここぞとばかりに家事と育児を朝7時~夜9時までさせられた正月休みが明日で終わりでせいせいしている。
家事に関してはほぼ全部している。見えない家事と言われるものも含めてだ。
育児に関しては妻のやりたいことを手足となりやっているから無駄だなと思いながらやっていて苦痛だ。
かまぼこ産地の親戚が気合を入れて送ってくるから良いモノのはずだけど、かまぼこはそもそもポテンシャル低いから美味しく食べるには限界がありすぎる。重箱に入ったままだから焼くとかせず冷たいままだし。
「餅」も嫌いではないけど、雑煮にぶち込む食べ方って、そこまで美味しい食べ方ではないよね。
餅があるってことは白いご飯は無い。
これが一番きつい。普段は白いご飯で食べるようなものをご飯なしでモソモソと食べなきゃならん。かまぼこや肉を単体で食べるような育ち方をしてないんだが?
普段から食事に甘いものもなんて出てこないだろ?出るとしても「デザート」という別ジャンルであってさあ。まあ、これは良い箸休めになるからギリギリ許せるんだけど流石に甘すぎるとは思う。
https://twitter.com/ee0oa/with_replies
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
今年ずっとモヤモヤしてた事があったので今年中に消化しときます!!
仁藤夢乃 colabo
2,132.8万 件の表示 1.7万件のリツイート 2,182 件の引用ツイート 4.1万 件のいいね
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
返信先:@ee0oaさん
あ、あと週2で渋谷と新宿で女の子にティッシュ配る日があってそれがコラボカフェの事なんだけど、コラボカフェを手伝いする女の子にはお小遣いがもらえるんだけどそのお小遣いは生保に申請しなくていいって言われて自分で使ってたよ
また日本語変だけどなんとなく伝わって貰えてれば満足です!
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
このツイ消した方がいい?残しといた方がいい?
ちなみに私は消したい。
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
スクショ取られて出回るくらいなら残しとく、、んで忘れられた頃に消す事にします、、
大人怖い😇
もし私が大変な集団襲われたら助けてね🥲
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
ちなみにだけど 生保受けたら何年までは記録残るとかあります?
もし市役所に2.3年の記録が残るなら市役所には記録残ってるけどそれって弁護士通さないと行けなかったりするのかな、、?
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
とりあえず私はこんなことになると思ってなかったし 愚痴感覚でツイートしただけだから証拠ないなら載せんなよとか言わないでぇ~
こう言ってる奴もいるんだね
くらいに流してください、、
もし訴えられそうになったら弁護士さん雇って自分で証拠集めとかなんとかします
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
一つだけ訂正
家賃は はっきりとは覚えてない
けど6.7万円くらい
あと信頼出来る議員さん・弁護士さん・インフルエンサーさんいればリプで教えてください!相談する!
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
どうしよう、、
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
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あともうひとつ思い出した。
東京の23区外にコラボ事務所とシェルターがあるんだけど、私が生保申請行く時に申請できる家賃めいいっぱい申請してきてって言われた。
これは証拠とかなくて探しようもないし自分の耳だけで聞いた話だから信じなくても大丈夫だけどせっかく思い出したので書いとくね!
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
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私がこの情報を出してしまったことに変わりはないので最後までこの問題ととことん付き合うことにしました!
自分からこの情報出しといて怖いから逃げるっていうのもおかしな話なので
私も悪いので。
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
見ての通り文章が下手くそで学がないので専門用語等使わずに分かりやすく質問してくれると助かります、、😭
お手数おかけします🙇♂️💦
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
リプとDM返そうと思ったんだけど、
多すぎて質問・疑問が見つけられないので
ここのリプかDMで送ってくれませんか😭
お手数おかけします🙇♂️
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
詳しくは言えないけど当時18歳で親のDVで家に帰れないし友達もいない状態で知らない男に体を売ってお金を稼いでたりしたホームレス時代があります。
そのゴミみたいな生活から救ってくれたのがコラボと仁藤夢乃さんです。
本当に当時は神様みたいな人でした
めいや
@meiya_san2501
返信先: @ee0oaさん
その提出は行ったか?
月に稼いだのは¥?
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
返信先@meiya_san2501さん
入金されたら全額口座から引き落としてコラボの従業員に渡していました。
・私は不動産とは関わっていません。
・病院にも行ってないので診断書も無いけど診断書がなくても受給出来ました。
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
返信先:
@hayaochann
さん
私がバスカフェのお手伝いしていた時に蓮舫さんがお手伝いにいらっしゃったことはあります!
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
·
返信先:
@hayaochann
さん
私がバスカフェのお手伝いしていた時に蓮舫さんがお手伝いにいらっしゃったことはあります!
@na_colabo
返信先: @ee0oaさん
『健常者なのに親のDVが酷くてうつ病になってるからしばらく働けないって言わないと生保貰えない』と言ったのが誰なのか教えていただきたいです。
𝑠𝑖𝑜🧸⸝⋆
@ee0oa
返信先: @na_colaboさん
仁藤夢乃さんです!
みわよしこ/Yoshiko Miwa, a journalist
@miwachan_info
・親の家に帰れないため住まいがない
・手持ち金が概ね4万円未満
だけで、生活保護の対象になります。うつ病云々は、窓口でさらに傷つかないための便法だったのでは。
シェアハウスの家賃を生活保護の住宅扶助で確保するのは無問題です。→
馬の眼🐴
@ishtarist
返信先: @miwachan_infoさん
バスカフェで働いていて、月に10万円もらっているのに「申告しなくて良い」と言われていたと証言しているので、colaboがやってることは完全にアウトですよ。
これらのツィートを見るとそもそも発信元の発言をよく読んでいないかわざと嘘を行っているかのどちらかしかない。
つまりColabo擁護側も知らなかった発言だということになる。
Colaboに直接関係がなくても、結局Colaboが違うという根拠はまったくない。
困難女性支援法は簡単にいえば10代の女子を拉致して偽の診断書を作成し、死ぬまで飼い殺しにして生活保護を搾取するスキーム。
このとき、都合がいいのは親と断絶している女子。選択的夫婦別姓で揉めたり、DVで親が逮捕されたり、性虐待で逮捕されたり、そういう親戚や親と断絶している女の子を拉致するのが都合がいい。
Sping、PAPS、ヒューマンライツナウ、ヒューマンライツウォッチ、ぱっぷす、Colabo、若草プロジェクト、抱樸がやっているのはそういうとんでもないことです。
これがジェンダー平等か?だったらジェンダー平等なんていらないでしょう。
こういうのを告発できない男女共同参画、撤廃していい。赤字国債解消にもなる。軍事費は微妙だが。
こういうのを告発できないマスコミは金を読者に返したほうが良い。不良品だよ。あんたら。
クォーター制とかでたらめばかりやる三浦まりとか存在意義のない間抜けでしかない。女性の学者はバカしかいない。
まともなのは杉田水脈だけっていつも言っているでしょう。なにか違うのか?これらの団体を追求していたのは彼女しかいない。統一教会?コイツラも韓国のキリスト教とつながりが深いので変わらない。
うさぽん
@airu_7272
夕食です。米はおかわり自由と言いながら1杯目で炊飯器の中の米無くなるので運が悪いとごはん無しです。魚の所がさつま揚げ小1個、コロッケ小1個とかに変わります。週一で揚げ物しか入っていない弁当です
https://twitter.com/airu_7272/status/1609046365618962432
うさぽん
@airu_7272
貧困ビジネス 救済ビジネス 弱者ビジネスにNO!行政と支援団体に人権侵害を抗議したら酷い目にあった人。社会的養護 被虐待児 マシュマロ→https://marshmallow-qa.com/airu_7272?utm_medium=url_text&utm_source=promotion
うさぽん
@airu_7272
お仲間さんの貧困/救済ビジネスの契約書見つけたわ。ベニヤ板レベルの仕切りの個室、三食付きと言いつつ2日目から作るのめんどくさいと言われ昼食カットされたのに食費そのまま。お風呂は週3日しか入れないのに光熱費も高い。共益費もイミフ。
https://twitter.com/airu_7272/status/1608883931063152646
うさぽん
@airu_7272
相談員にいい加減退院してアパート探ししたいと言ったら却下され、病院か施設どちらかにしろと脅されて渋々施設にしたんだけどホント苦痛だった。その後またお仲間のやべぇ施設に入れられるんですけど、お仲間達で困窮者のタライ回しパないですよ!人間を何だと思ってるんだろ…
うさぽん
@airu_7272
当事者からすると、貧困ビジネス、救済ビジネスは全く有難くないです。人間として扱ってくれないし、お金もほぼ団体に持ってかれるのに文化的な生活なんておくれるわけないじゃん。行政も議員もバカなの?この機会に悪どい団体一掃して欲しい。
このように2年前からある証言をみわよしこが知らなかったということは全く考えられない。だったらライターとして失格で、彼女の書くものは今後一切信用ができない。
よって、彼女がまともなライターである以上、元の証言についてみわよしこはわざと「この証言は嘘である」という印象操作を行っているということが断定される。反証も反論も許されない。これ以外の事実はない。
さらに2年前に噂になっているということはColaboが若年被害者支援事業の業務を委託された前後から貧困ビジネスがあるということになる。
なぜなら、児相からそういう噂をきくには数年はそうした貧困ビジネスが継続していない限り無理だからだ。
https://twitter.com/saorin0212/status/1608979209476792325
@saorin0212
覗いて下さる方が増えたので自己紹介として街録ch貼っておきます📺
したがって、Colabo、BONDプロジェクト、若草プロジェクト、ぱっぷすは貧困ビジネス乃団体だということになる。
したがって、抱樸の奥田の名前がある以上、抱樸は貧困ビジネス団体だということになる。
これだけ証拠が揃い、確度が高い以上、誹謗中傷で訴える暇があったらそうではない根拠を示すべきだ。
あんたらがやることは証言者を黙らせることしかやっていないが、それはこの証言が本物だということにしかなりません。
独身時代は好きなときに好きなだけコードを書くことができた。仕事だけでなく、日々勉強し、技術者として常に高みを目指すことが自分にとって一番大事なことだ。
それができなくなった。家庭を持ってしまったからだ。生活スタイルが変わり、子供中心の生活になりコードを書く時間が思うように確保できなくなってしまったことに絶望している。
休日になると必ず配偶者が家族で何かをしようとするのが苦痛で仕方ない。家族の時間よりも自分の時間を優先したいし、エンジニアである以上、そうすることが当然だと思っている。このことで配偶者とよく衝突し喧嘩も増えた。
離婚するしかないのかもしれないが、実際子供のことは可愛いし配偶者に対して恨みがあるわけでもない。
ただ自分にとって、自己研鑽が人生最大のプライオリティであることを理解してほしい。このままだとエンジニアとしての人生が終わってしまう。
第一線で活躍する技術者である以上、家庭を持つべきではなかったのかもしれないと今では思っている。周りを見ていても、自分だけ貧乏くじを引いてしまった感がある。