はてなキーワード: 抗不安剤とは
今、残業中なんですけどもうデスクで涙をこらえるのに必死で何もできないので気をそらすためにも自分の話を書きますね それぐらいは許される職場なんです。いいでしょう。私がすべて悪いだけの、きっといい職場なんです。
私は小学校と中学校、合計で五年間ぐらい不登校(保健室登校)でした。原因はなんだろうな。今考えてもわからないんですけど、とにかく行けなかったんですよ。なんでだろうね。
面倒くさかったんです。たぶん。鬱かなってちょっとだけ思ったりもしたけど、でも、私は当時からオタクで、ネットで動画とかを見て笑ってたからただの甘えだったのかもしれない。徹頭徹尾、甘えているだけの人間なのです。小学校の三年か四年から二年ぐらい通えなくて、六年生で復帰したけど、中学校一年でまた行けなくなりました。勉強ができないわけでも無かった。昔から地頭は良い方で、ただ集中力は無かった。何事も長く続けられなかった。極度の面倒くさがりで、家事も何も一切できなかった。
両親は、学校に行きたがらない私を叱ることもなく、いろいろ考えてくれました。なんたらスクールみたいな不登校児の集まるところに連れて行ってくれたり、カウンセラーが居る部屋に週数回だけ通うように調整してくれたり。
結果としては、私は自分の中でなんで教室に行けないかわからないまま中学の三年間を過ごして、そのまま都立のチャレンジスクールっていう学校に進学しました。都立高校で、定時制。
そこには私みたいに理由もなく学校に行けなかった人って全然いなくて、病気だとか、働かなくちゃいけないから夜間で通うとか、親が離婚してから生活が変わって学校に行けなくなったとか、たくさん理由があったんです。私はなんで自分がここに居るんだろうってちょっと思ったりもしたけど、未だに仲よく遊ぶ友達ができたのもここでした。
でも高校はやっぱり三年しかなくて、私は大学に行くことにしました。良いなと思った大学を目指して、母がこのころ癌になったのに無理して私に英語の家庭教師までつけてもらったけど、受かりませんでした。その年だけ倍率が平素の三倍ぐらい高かったんです。なんでだろう。
結局私は担任の先生の勧めで、少し遠いけど私なら絶対入れる私立大学の文学部に入ることになりました。試験はびっくりするほど簡単で、これなら中学生時代の私でも入れるな、と思いました。教科は現代文だけでした。
でもこの大学で、私は今でもたくさん遊びに行く友人ができたし、その一人は先日入籍もしました。おめでとう。
大学は面倒くさいこともたくさんあったし、さぼったりもたくさんしたけれど、たぶん楽しかったんだと思います。バイトを始めたのも大学に入ってからです。最初は友人の勧めで飲食で働いていたんですが、給料未払いで数か月で辞めました。
次に私が応募したのは、カードゲームのショップでした。ちょうど流行ってたんです。シャドバなんて出る前で、ハースストーンは一部の人しかやってないし、MTGはオンラインが全然無かったころの話です。私はろくすっぽカードゲームなんて知らないままそこに面接に行って受かりました。
仕事はたぶん楽しかったです。結局二年半ぐらいやったのかな。みんなオタクだったし、嫌な客もいたしわかんないこともいっぱいだったけど、それでもバイトって責任もなくて気楽だったし、本当に楽しかったと思う。
その時直属の上司だった男の人とは今でもなんだかんだ年に数回会って、二人で飲んだり二回ぐらい日帰り旅行したり誕生日ディズニーしたり一緒にコンサートいったりします。私たちの関係は何なのか、こうやって書きだしても未だによくわかりません。良い友人なのかな。友達以上恋人未満の関係、結構好きです。気楽だし。いい関係ですよね。
そして私はバイトと遊びと勉学と文化コンテンツで日々を過ごしました。三人しかいないゼミでひいこら卒論を書き、その間に就活をしました。
私の父は大きな会社でそれなりに能力もあって、管理職ではないけれど責任感のあるポストについています。そんな彼と日々話をしたりしているうちに、私もこの業界にしたいな、と漠然と思っていたので、そこを受けてみることにしました。一応ほかにも数社受けました。
受かったのは二社。もう一つは金融系の会社で、少し怖くて辞退しました。その時私は卒論が楽しくて、就職の方がたぶん大事なのにそんなこと全然考えてなかったんだと思います。
そうして弊社に決めました。もうゼミ以外には大学に来る予定なんてなくて、バイトばっかりしていて、オタク趣味にお金を使いたかった。早く就活を終わらせたかった。
もともと視線恐怖症なのもあって、沢山の人がいる中で自分をアピールしたりすることが怖かったのかもしれない。
私は卒論を頑張って(学部で優秀賞をもらいました)、大学を無事卒業して、弊社へ入りました。
入ってから、ああ、結構体育会系というか、業種のくせに古臭い企業だな、と思った事は事実でした。けど、父が言うにはこの業種の中小はみんなこんなものだという話だったので、特に気にしませんでした。自分にマメさが求められる事務職は向いていないと思っていたからです。
それでも今の部に配属されて、訳の分からない言葉はいっぱいだし、教えてくれる先輩の一人は私に教える片手間ずっとグラブルをやっていた。もしかしたらグラブルをやっている片手間私に色々教えてくれたのかもしれない。
今のオフィスは、弊社の大口顧客(元請け)がほぼほぼ占めているビルです。
私は二年間、同じプロジェクトで、ワーカーホリックの上司の下で仕事をしました。
上司はイエスマンだから無茶な仕事をいっぱいもらってきちゃうし、自分がワーホリだからほかの人も同じぐらい働けるとか思っていたし、謎に有り余る体力で飲み会とかにも大体参加していましたが、怒らないし、わからないというとある程度は聞いてくれたりするし、たぶんとってもいい人でした。私が生意気言っても怒りませんでした。ただ彼自身は毎月残業60時間とかいってるワーホリでした。いまでもそうです。
それでもそのプロジェクトは楽しかったです。つらいこともたくさんあったけど、愛着もありました。
なんだか身体がおかしいな、と思ったのは去年のどこかぐらいからだと思います。去年は忙しい月が数回あって、残業が40時間を超えるぐらいの月が飛び飛びに数回ありました。
昔から起きるのが早くて、朝五時とかに起きちゃっていたんですが、三時ぐらいとかに起きちゃうようになりました。
私はスマホ依存症に近いものがあって、何かあるとすぐスマホを見ちゃうんですが、それのせいもあったのかもしれません。睡眠の質がきっとどんどん悪くなっていきました。
プロジェクトは今年の春が大詰めで、みんなピリピリしてたし、急な雑務も増えました。
視界が一瞬真っ白になって、風呂場の椅子に座りこんだと気が付いたときには、身体のいろんなところが強くしびれていました。特に強かったのは手で、勝手に力強く握りしめられていて動かせませんでした。
母を呼びました。母は全裸で浅い呼吸をしながら手を強く握りしめている私のことをひどく心配してくれました。父も風呂場の外にはいてくれて、状態を調べたり、スポーツドリンクをくれたりしました。
その日は固まった手で何とか飲み物を飲んで、少ししたら回復しました。
でも、結局数日たってからも体調がすぐれず、午前半休を取って病院に行きました。
あのしびれの正体も知りたかったからです。結果は「抑うつ状態から過呼吸を引き起こしたのでは」ということでした。
お医者さんには産業医面談を受けるように言われました。私は素直にワーホリ上司へそのことを話して、午後に出社しました。
休憩スペースで面談をしました。診断の詳細、そして産業医面談というものを受けるかどうか。
受けるなら俺から上に言うよ。そういわれて、少し困りました。プロジェクトが本当に大詰めだったからです。私はその時まだ二年目のぺーぺーでしたが、そんな私でももしいなくなってしまったら困るかもしれないと思ったからです。結局上司はそのあと産業医面談の話はせずに、春からの仕事の話をされて終わりました。
その週の金曜日、私はどうしても体調がすぐれず、うまく動けなくて、会社を休みました。
私自身が、どうしてこんなにストレスを感じているかがわからなかったからです。それが仕事のせいなのか、無意識にプライベートでため込んでいたのか(その時ちょうどフォロワーとちょっとトラブルがありました)、単純に満員電車がストレスなのか、わからなかったからです。
翌週、私のところにやってきたのは課長でした。
「別に産業医面談を拒否するわけではないし、受けたいなら調整するんだけど」彼の言葉はこう続きました。「俺たちの権力より上だから、部署移動とかを指示されたら逆らえないしなあ……」
課長は私が部署を移動することになってしまった場合の人間リソースの低下を懸念していたのです。
「とりあえず、今月は今のプロジェクトを頑張って、春以降もう一度相談します」私は言いました。
もしかしたら、本当に私が居なくなったことでこのプロジェクトにクリティカルな何かが発生してしまうかもしれない。それが嫌だったのです。課長が明言してしまうことで、それが私のせいにされてしまうのも嫌だったのです。
薬を飲んでいれば出社はできました。なぜか倒れたときから咳が止まらないけれど、風邪が長引いているのだろうと思いました。
私は抗不安剤と睡眠導入剤を内科でもらっていたので、薬がなくなった時についでに咳止めの薬をもらいました。
咳止めとして飲んだ抗生剤と私の相性が悪かったのかもしれません。私は朝の満員電車の中でお姉さんに助けてもらい、途中の駅で降りて、でも歩けなくて、駅員さんに車いすに乗せられて詰め所みたいなところの長いすに横たえられ、母親が来るのを泣きながら待っていました。
母は病気です。私が高校の時からずっと治療しています。手術もしました。私なんかよりもずっと大変なのに、毎日ご飯を作ってくれて、こうして迎えに来てくれるのです。私は親不孝者でしたが、母が迎えに来てくれたので、駅から外に出ました。その日は散歩をして、会社を休みました。
体調の悪化が治りません。毎日薬を飲まないとうまく動けません。
それでも日は回るので、春から新しいプロジェクトに参画することになりました。すでにある程度進んでいるプロジェクトは初めてでした。
私はわからないなりに、以前の経験と知識を使って頑張ろうと思いました。そのプロジェクトの上長は先日面談をした課長でした。
参画してから一週間ほどした日、私は唐突に課長に仕事の依頼を受けました。
この業種において、一から自分で作ることは大して難しくはありません。今のプロジェクトの様子確認も兼ねて、大丈夫です、やります、と言いました。
どうやら課長のその認識が根本的に間違っていたらしいと知ったのは、その週末のことでした。
どうやらそれは、私が触ったことのないソフトを触って、すでに動いているシステムに「絶対にミスをすることなく」仕様追加をするというものでした。
私は困惑しました。だって自分が触ったことのないものを「ミスなく」と言われても困ります。練習ができません。経験もありません。
しかも、それは私一人でやるという話でした。ベテランの技術者が後ろについてくれると言いましたが、彼は他の仕事で忙しく、週に一回、数時間様子を見てくれるだけでした。
彼がとっても忙しいのは知っていました。だから仕方ないとは思いました。上長に聞いていた話と全然違っても、もう請けちゃったと言われたら若手にはどうすることもできませんでした。
元請けからはことあるごとに「絶対にミスは許されない」と言われました。私は状況の調査から始めました。
手順書や設計書は用意されていました。ただ、前任の会社が中途半端に撤退していたため、それが正しいかどうかの調査から始めなければなりませんでした。
けれど、私が触ったことのないソフトウェアの設計違いを、どうやって見つければいいのだろう。それはとっても疲れることでした。
上長はいつもなぜか忙しそうで、私が疲れたとか、産業医面談の話についてを問いかけることは憚られる雰囲気でした。半分炎上していたのかもしれません。プロジェクト未経験が私含め半分以上を占めていた上に、その中で唯一構築経験があった私が一人での仕事に回されてしまいました。
ポテンシャルって便利な言葉ですよね。とりあえずそう言っておけば良い感をひしひしと感じます。絶対失敗できない仕事を依頼されたなら、失敗しない人を連れてくればよかったのです。
私はそれでも何とか資料を調べて不明点を上げ連ねて、ベテランと上長との進捗報告に参加しました。訳が分からないことだらけでした。たくさんのことを言われましたが、すでに集中力が平時の半分ほどしかなくなっていた私にとって、それは呪文のようでした。半分ぐらいわかりませんでした。わかったふりをしました。
産業医面談に行けなかったので、有名な精神科のある病院の予約を取りました。その時にはもう、睡眠導入剤がないと眠れない生活になっていました。
新しい病院で、紹介状は無いんですとだけ伝えて診察を受けました。睡眠導入剤のほかに睡眠安定剤をもらいました。でも、睡眠安定剤を飲んだら昼間もものすごく眠くなってしまったので、二回しか飲めませんでした。結局抗不安剤と睡眠導入剤だけを今でも飲んでいます。飲まないと眠れないし、仕事に行けないからです。
このころから、ホームで電車に不必要に近づいてしまうようになりました。(私が使っている路線は都内なのにホームドアがないのです)無意識でした。私は死にたいのかな、と思うようになりました。
転職をすればいい、とか、周りの友人は言っていましたが、どう客観的に見たって私のメンタルが弱いだけの甘えなので、私が悪いのです。昔から私が社会や親に甘えているだけなのです。その自覚があったし、転職はとっても怖いもののように思えて仕方がありませんでした。だって自分には実力がないのです。転職活動で落とされることも怖かったです。評価されないことは、訳の分からない仕事を一人でやらされることと同じぐらい怖いことでした。
今日も偉い人たちを交えての打ち合わせがありました。私はやっぱり、「絶対にミスできない」ということを念押しで言われました。それならなぜ、ソフトウェアに触ったことがないたかが三年目の私がその仕事をしなければならないのかがわかりません。他の人にも仕事内容の相談ができません。調べても全然出てきません。他のメンバーはいろいろみんなで相談しながら前に進んでいるのに、私は自分が一つわからないことがあるだけでそこに立ち止まってしまいます。解決策がわかりません。どうすればいいかわかりません。集中力がなくて、どうすればいいかもよくわからなくなってしまいました。
少し、辛いな、と思いました。
別に残業が数百時間だとか、あまりにも激務だとか、そういうことはありません。家族はとっても優しいです。私はきちんと笑えています。両親はたくさんのことに関して理解もあります。母は自分の身体も悪くて病院に通っているのに、私が精神科に行くとき一緒についてきてくれました。
部長も課長も主任もワーホリですが、きちんとしてはいると思います。中小ですが、それなりに長く続いている、頑張っている会社です。
だから、私があまりにも社会に甘えているだけなのです。私が弱くて、今まで甘やかされてきたから、ちょっと普通なぐらいのところに来ただけで耐えられなくなっているのです。
それは悪いことだと思っています。だって私が弱いのが悪いんです。甘えなのです。でも、強くなる方法がわかりません。
どうしてこうなったんでしょう。生まれたときから弱かったのでしょうか。私はどうすればいいのでしょうか。何が悪かったのでしょうか。仕事ができないことが悪いのでしょうか。
薬を飲んでいるとお酒が飲めません。友人との飲み会も、友人が気を遣って飲み放題プランを外してくれます。気を遣って一緒にソフドリを飲んでくれようともします。
優しさが申し訳ないです。私が弱いだけなのに。私が弱くて薬を飲んでいるだけなのに。
仕事が嫌いなわけじゃありません。色々考えて、正解を導き出せたときや、トラブルを解決できた時はとっても楽しいです。
ただ、たぶん、もう一人だけいたら、こんな気分になっていなかったのかな、とは思います。自分にとって、「絶対にミスできない」一人きりの仕事が、案外つらいのでしょう。ゆとりなのです。弱いのです。世間様に甘えているから仕方がないのです。責任を一人で負いたくないのです。「わからない」と隣に相談する環境が欲しいのです。
会社の最寄りの駅にはホームドアがありません。今は想像するだけだと思ってはいますが、段々と黄色い線の向こうを歩いていってしまって、いつか飛び込んでしまったら、と思うととても怖いです。それも、私が弱いからなのでしょう。
生きたいです。オタクは楽しいし、ちゃんと毎日笑っているし、友人もいい人がいっぱいいます。でも、いつまで生きればいいのか、よくわかりません。勝手に涙が出たり、ベッドから動けなくなってしまいます。
私よりもっとつらい人はそれこそ数えきれないほどいるはずなのに、どうして自分はこんなにも弱いのか。どうしたら強くなれるのか。
なんで生きてるのか、わからないのです。
それを吐き出したかっただけなのです。
1年以上経って落ち着いてきたので、いまなら書けるとおもう。
あれは忘れもしない去年の4月30日だった。
当時26歳の私は、大学の課題や卒論、日々の日雇いの仕事、性別違和、精神疾患、父親との不和、などさまざまな問題を抱えながら日々をやり過ごしてきた。
4月29日の夜、いつものように睡眠薬と抗うつ剤と抗不安剤と女性ホルモン剤を入れて布団に入った。
眠れない。
仕方がないからしばらくネットサーフィンや資格試験の勉強などで時間を潰し、眠くなるのを待つことにした。
朝の6時になっても眠れない。
これはもう仕方がない、ひとまず眠れるまでは寂しいし誰かと通話しよう、そう思った私はSkypeで連絡を取れそうな人物と話をした。
大して内容のない話だったとおもう。本当にとりとめのないことを2時間半くらい話した。
そうしたら通話相手が、いまの私の現状に同情したのかなんなのかはわからないが、泣き出した。
泣いている人物と会話を話をするのはあまり得意ではないのでここらへんで通話はやめよう、そう思い、一応なだめて落ち着かせてから通話を切った。
通話後、自分のなかには将来への不安感、絶望感、焦燥感、そういったものでいっぱいになってしまった。
そういえば、カフェインを大量に服用すれば死ねるということを聞いたことがあったのでインターネットで調べた。
私の体重のカフェイン摂取の致死量は15g。ならその2倍服用すればほぼ確実に死ねるだろう。
このあたりで私の頭の中は死ぬことでいっぱいになってしまった。
そして手元にあったカフェイン剤をきっちり30g分用意して、そしてそのまま眠って死ねたらいいなと思ってルネスタやらロヒプノールやらマイスリーやら合わせて100錠くらい準備した。
そして、一気に、手元にあった炭酸飲料で飲み干した。
カフェインの錠剤が大きかったため、何度かに分けて飲んだ。胃酸だろうか、せりあがってくる液体も無視してすべて飲み干した。
飲んでから20分くらいは特になにもちょっと変な感じかな、その程度の身体の違和感しかなかった。
30分もすると強烈な吐き気がきて、ああこれはもう我慢出来ない、そう思いお手洗いで吐いた。ロヒプノールの色素のせいか、青色の吐瀉物が出た。
何度かえづいていると、1階にいる母に大丈夫?と声をかけられた。大丈夫ではなかったので素直に大丈夫じゃないと言った。
なんせ強力な吐き気、それからめまい、身体が動かない、もう自殺したいだなんて思わないから身体を楽にしてくれ、そう思った。
母に水を飲まされ、何度も吐いた。母が救急車を呼んだらしく、部屋に救急の男性が2人入ってきて、担架で救急車に乗せられた。
このあたり、正直なところあまり記憶がないため、細かいことを思い出せない。ただ、意識チェックなどを受けたことは覚えている。
それと、ごめんなさいごめんなさいと何度も謝っていた。
病院へ着くと、まず胃洗浄を行った。鼻にチューブを通され、洗浄水を入れたり、胃の中の悪い水分を抜いたり。
その後に、活性炭を投与された。胃洗浄は苦しいという話を聞いていたが、正直尿道カテーテルを通されるほうがしんどかった。
胃洗浄が終わると、病院着へ着替えさせられ、CTスキャンの部屋へ移動させられた。そこで強烈な吐き気。
CTスキャンが黒い吐瀉物でまみれてしまった。ごめんなさいごめんなさい、ひたすらに謝る私。
その後で、病棟に入り、尿道カテーテルを通され、全身管だらけになっておむつもつけられて待機。
はずかしいはなしだが、何度も看護師さんにおむつを交換されてしまった。
それと尿道の管の違和感が苦しかったのでお医者さんに抜いてもらった。
深夜になると、とても苦しくて寂しくて、泣いてしまった。
一緒に病棟で状態を見守ってくれた母がやさしく手を握ってくれたのを覚えている。
それから、こんな風になってしまってごめんなさい、と何度も謝った。
そして、明日には退院できるようにならなければ(その明後日に欠席不可の科目があったので)という気持ちが徐々に湧いてきた。
ODから1日経ちお昼になった。確かハヤシライスが振る舞われたと記憶している。
正直、食欲なんてまったくなかった。それでも、ご飯が食べられないと退院できないと聞いて、必死に食べた。
付け合せのレタス、トマト、デザートのバナナ、ツナのサラダ、そしてハヤシライス。軽いものから重いものへ順々に食べ、1時間近くかけてなんとか完食した。
その後はリハビリがてら、ちょっと歩いたりした。それは特に苦痛ではなかったのだが、最後に大きな問題が立ちはだかった。
いくら尿意を感じて力を入れても、1滴も尿がでない。尿が出ないと今日中に退院できないと聞いた私は数時間かけて排尿の練習をした。
そして、看護師さんに見守られながら、おしっこができたときは、すごく感動というか、開放感というか、達成感に近いものを感じたとおもう。
優しく接してくれた看護師お医者さんの方々に深々とお礼を言って病院を去った。
そして実家に帰り、お風呂に入り、早めに寝て、次の日は大学だったのでまた普段の日常に戻ったのでした。
今回の件で、絶対にODでの自殺企図はしないぞ、と固く心に決めたのでした。
・いまの現状
あれから精神は少しずつ落ち着き(結局大学は卒業できなかったけれど)、念願の恋人との同棲も叶い、基本的には主婦としてやっています。
たまに日雇いの仕事を入れたり、電気系の国家資格の勉強をしたりと、日々それなりに落ち着いた生活をおくれています、
2012年頃、大人の発達障害者への治療薬が適用になったこと、発達障害が話題となったことがありました。その当時、ネットの発達障害チェックをうけると「その疑いが強い」の判断があり、
自分も発達障害であるのかど強く悩み、予約不要のメンタルクリニックを行くことがありました。しかし、そこの病院は大変に混雑していて、当時は相談することを断念しました。
そもそも冷静に考えてみたら当時の私にはいろいろな抵抗感がありました。
しかし、今年の1月末頃『宇宙よりも遠い場所』の主人公の玉木マリの「何かをしたいけど一歩踏み出せない」という人物像に共感を抱くようになり、次第に作品に嵌まるようになりました。しかし、彼女たちは南極へ行きたいという夢を実現するのに自分は余りに変わらない事に愕然として、次第に深酒をしないと眠れず、毎日耐えられない不安に襲われるようになりました。
しかし、最初はうつ病を疑ったこともあり、律儀に二週間様子を見ようと思ったことと繁忙期だったこともあり実際に病院への受診を決断したのはさらに一月遅れることとなり、2月20日頃病院に電話をして、5日後に受診の予約を取り付けました。
こうした状況になるおよそ半年前の昨年8月に遡らなければなりません。絵を描くことが趣味だったこともあり「1番目は時間配分を変える。2番目は住む場所を変える。3番目はつきあう人を変える」という経営コンサルタント大前研一の言を間に受けてSNSのフォロワーをがらりと変えたことがあったのです。しかし、彼らの素晴らしい実績を裏腹に自分は何も変わることも無く、ものすごい物をインプットし続けて次第に疲れていったのか、時間だけがいたずらに過ぎていく日々が過ぎ、夏コミの本を整理していると「もう半年経ったのか」という時間の経過に愕然とするようになりました。
先生は普通には白衣だろうと思っていたのですが、普段着だったことに驚きました。ただ、そこの病院は正直その先生の物腰は優しいのですが、しばしば話が噛み合わず「あった先生」とは言えませんでした。そこの病院は先生が一人で臨床心理士が居なく発達診断の診断は出来ないので他の病院を探してくれ(おいおい紹介しないのか?)と言われる始末で、自分で今度受診する病院を探し、二ヶ月後に予約を取り付けましたが、それでも、抗不安剤と睡眠薬で随分私を救ってくれました。
今回、精神科医療における一番のハードルは親でした。すぐにキレる。お前は生きる価値がない等の暴言を繰り返す親である以上、病気への理解が全く皆無であるとしか思えなかったのです。診療を秘密にして自分のお金だけで受診をすることを本気で検討したこともありましたが、治療費を考え断念したこともありました。先述のメンクリの先生に(親の説得材料に)「診断書出してくれ」といっても「紹介状あるんだからいいだろ」の一点張りで結局自分でカミングアウトすることになり、それが一番のハードルでしたが、もともと思い当たる節があったのか、案外優しくむしろ繁忙期に病院に同行する事へのいらだちの方が多かったのです。
結局、自分だけで悩むと1年以上時間を無駄にしてしまいました。生きるのは厳しいかも知れませんが、しかし手を差し伸べれば差し伸べてくれるだけの手はあるのです。もし、今後(治療方針や検査など)が不安というならまず近くのメンクリで抗不安剤だけ貰うというやり方もあると思います。検査は25日でまだ自分がどういう精神状態なのかが解りませんが、一人でも多くの人が救われることを願っています。
近々ブログにでもまとめようと思ってるんだが、
少しずつ良くなってる話をする。
全然汗をかかない体質だったのに項にびっしょり汗をかく。
残滓のように後ろに引っ張られるガクッというめまいが2週間ちょい続く。
頭にジワッと虫が這うような感覚。
瞼がけいれんする。
徐脈が正常値に。
などなど。
加え、常に体調不良や発狂するんじゃないかという不安が付きまとっていた。
これが2週間ほど前から薄れてきている。
あとランニングもしている。
自分の場合、元々神経質で心配性ではある物の、人と話すのは得意で初対面の人間の前でも物おじしない。
万人に好かれることはとうに諦めていて、私を気に入ってくれる人とだけ付き合って行けばよいという境地に達した30代だから改善が見られるのだろうか。
詳細は省略するが、バッサリ切った。それも改善に良かったのだろうか。
心療内科で不安障害と診断された者がこんなに短期間で改善がみられるものなのだろうか。
ネットには何年も治っていない人の方がよほど多い(だから記録に残すんだろうが)
同じような人がいたら教えてほしい。
カウンセリングとWAIS知能検査を受けて自分の知能の傾向とか教えてもらった。
あとは診察でメイラックスを基本として、頓服的に飲む用でデパスとワイパックスを処方してもらった。
メイラックスは正直効果がよくわからない。超長期型はそんなもんか。
デパスとワイパックスは飲んで10分後くらいからめっちゃ気持ちが楽になる。でも効果が切れるとまたつらい気持ちがどっと来る。
依存性がつくとヤバイかも、と思って結局辛い時間を耐えている。やっぱダメだと思ってまた飲む。効果が切れて辛くなる。
そんな事をしてるうちにタスクがどんどん溜まって押しつぶされそうになる。辛いから薬を飲む。
なんだか深みにズブズブと嵌っていっているような感覚になる。自分はどうしようもないダメ人間なのではないかと思い込んでしまう。
2ヶ月前に終わっているはずのタスクがまだ残っていたりして、もうやる気もモチベーションも保てない。どうしたらいいのか。
みんなどうやって生きているのか。同じように辛い思いをしているのか。俺ばっかり辛い思いをしているとは思えない。
自分の転職の顛末を時系列で書きたい。内容は、自分の中で溜め込んでいたもの。録音や証言確保などの対応はとっていたものの、当時は恐ろしさと鬱で動けず、その後は諦観と鬱で、少数と共有する以外は、表に出して活かす機会を作れなかった。ただ溜め込みつつも、恐怖や後悔、憎悪の感情がずっと自分の中で渦巻いていて、耐え難くなっている。だからここに吐出させて欲しい。
知り合いに紹介され、20代に都内のIT企業に転職した。新卒から務めた緩い企業からの転職で不安も大きかったが、当時仕事やスキルアップが楽しめており、期待も大きかった。
転職後、すぐ遠方の客先にフルタイム常駐することになった。なおこの出張フルタイム常駐は、数年後退職するまで続くことになる。この常駐先には複数人同僚が派遣されていた。その中で自分はリーダーAの下に付き、二人一緒に業務を進めることになった。このリーダーAが後に精神を病む原因となる。
リーダーAは同じく転職入社したばかりで、直属の上司からの期待を強く受けているようだった。初印象は悪くなかったものの、働いて会話を重ねるうちに、以下のような傾向が顕になっていき、怖さを感じるようになった。
なお初印象は良いが、密に・継続的に関わると評価を落とすというパターンは、自分以外でも結構あったようだ。仕事での顧客評価も、概ねこの竜頭蛇尾のパターンを繰り返していたと思う。
振り返ると、この時点で危険を感じて逃げるべきだった。そうすれば精神と体が壊れ苦しむこともなかった。ただ自分には、それに気づいて逃げる能力がなかった。
リーダーAと1、2ヶ月働いている中で、怖い傾向はより強まっていった。相手に応じた態度の切り分けも荒が目立つようになり、例えば上司に、気に入らない顧客プロパーについてナイフで刺してやるといった過激な報告を行うようになった。また長く一緒にいることで、報告や悪口に、呼吸するように嘘や誇張を織り込んでいることに気付かされた。例えば自分の提案失敗を、叩きやすいターゲットの問題に転嫁するといったことを行っていた。
そして一緒に働いている中で、自分が攻撃のターゲットにされるようになった。はじめは、仕事ができない、自分のフォローで無用に忙しくなっている、といった仕事の指摘から始まり、お前は無能である、性格が劣悪であるといった説得を頻繁に自分に行うようになっていった。後に案件仲間から、見えないように、自分の悪口を頻繁に上司に展開していたという話も教えられた。
ただ当時、自分は期待される成果を出せていなかったし、転職で業界を変えたばかりで、能力的にも問題があると自覚していたので、リーダーAの言葉や怒りに応え自分を改善しなければならないと考えていた。また、会社ではパワハラ自慢(こんなにひどいパワハラを耐えた、自分は無能をパワハラで潰してきたなど)が目立ったので、この程度は転職の試練であり一人で耐えて当たり前のものと考えてしまっていた。この考えは心を壊すまで変えられなかった。
その後、出張状態のまま、リーダーAと二人だけで、別現場のフルタイム常駐に移った。後に派遣や準委任のメンバーの方が増えたものの、基本リーダーAが管理し、自分が下につく、プロパー二人組で仕事を進める形となった。本社とのやりとりはリーダーAがすべて統括したため、自分視点での会社同僚はリーダーAしか見えない世界となった。
この本社からの監視がきかない体制になってしまったことで、リーダーAの攻撃は露骨にエスカレートするようになった。例えば次のようなことを何ヶ月も継続して行うようになった。
また指示される作業も単純作業が多くなっていった。例えば以下のようなものだ。
当時高い単価で常駐していたので、単価に見合わない上記のような単純作業を強要されるのがまた別の苦しみとなった。
一方で、周りに対する演出には力を入れていた。例えば、本社での会議の参加を禁じたり、本社とのやり取りを自分が見えないように済ませたりして、本社と自分のコミュニケーションを断絶させるように動いていた。また「殺す」と脅迫するなどまずい言動を取るときは、周りの目や耳のない状況下で行っていた。あとは従順な派遣社員を見つけて、主張に箔付けに使うなどしていた。例えば悪口を裏で本社に展開する際に、その社員をCCに入れて、この悪口は自分だけの勘違いではないと演出する気配りを行っていた(ただこの方には、裏でやりとりされている悪口・中傷や、リーダーAの内心などの情報を後にもらえるようになった)
こうした状態は半年近く続いたが、その中で自分の精神はおかしくなっていった。仕事中に泣く、顎が痙攣して歯がカチカチ鳴る、ネガティブな独り言を言うといった、外目から異常と思われるだろう様相を晒してしまっていた。ただリーダーAにとってはそれは笑い飛ばす程度の扱いだった。例えば自分が精神的に参っているから慰労会をやろうとリーダーAに飲みに連れて行かれることがあったが、リーダーAが一方的に侮辱の言葉を投げて笑い飛ばすだけの不快な場になるしかなった。
なおこの頃からさすがにこれは異常だ・危険だと言う思いを強くして、証拠を残すようにした。例えば勤務中にずっと録音機を動かし、殺すといった脅迫を録音するようにした。客先社員から同情してくれる方も出てきた。同情してくれた方から内情ももらえるようになった。
しかし激昂し犯罪者的な言動を取るリーダーAに抵抗するのは当時とても恐ろしく、証拠を残せても、証拠を活かす行動をとれなかった。また入社後即フルタイム常駐していたので、気軽に相談できる会社同僚もいなかった。そして、自分が無能であり、まずはリーダーAの言う通り改善しなければ後がないという考えを持ってしまっていた。恐ろしさから逃避しながら苦しみを軽減したいという思いで、リーダーAに従い続けた。
一応本社の人間に相談することもあったが、抱え込まずに相談して良い、というコメントを貰った以外は、本社側で具体的な対応はとられなかった。あとは、退職時に人事から詳細情報を聞かれる程度だった。
上記のような状態は一年以上続くことになったが、そのあいだ自分は大きく変わった。基本的に、次のようなネガティブな変化ばかりだ。
なお上記は、もう死ぬまで元に戻ることはないと感じている。器質的に脳が変化・死滅してしまっているようだ。苦しみを経験すると強くなるとよく聞くが、苦しみで心を壊すとむしろ大きく弱体化してもう戻らないというのを、30を超えて学んだ。
その後の展開だが、リーダーAは、顧客に大言壮語やダメ出しを多くする一方で、成果を出せず、評価が得られなくなっていたようだ。そしてその頃から特定の先輩社員に嵌められて仕事がうまくいっていないと吹聴するなど、被害者的な言動が多くなる。そして最後は案件から逃げていった。
ただ元凶のリーダーAが抜けてからも、苦しみがなくなることはなかった。
仕事では、リーダーAが案件から逃げた尻拭いをして、関連会社メンバの業務確保と案件維持に奔走させられた。リーダーAの代わりに本社の上司や関係者と関わり合うようになったが、リーダーAが散々悪口を刷り込んでいたせいか、馴染みの薄い上司とは、最初から関係がギクシャクしていた。
これを心が壊れ、精神薬・アルコール・カフェイン漬けで体を無理やり動かしていた状態でこなすのは、本当に苦しかった。
その後、苦しみながら遠地に常駐し、売り上げ確保に努めていた。しかし半年ほどたった所で、復帰したリーダーAが、自分の目に届く会社MLで活発に発言するようになった。自分はそれを目にする度に、過去の出来事がフラッシュバックして恐慌状態となってしまい、もうこの会社では過ごせられないと信じるようになった。そして、ずっと常駐で会社への帰属意識がなかったなど、他の理由も複数揃っていたので、会社を辞めた。
振り返っても、失ったものが多く、後悔の数多い数年間だった。
大きな後悔としては2点。1点目は、リーダーAのようなタイプの人間とは、唯一の対策として距離をとるべきだった。2点目は、状況が異常であると認識して、もっと強く本社や上司に状況改善を訴えるべきだった。この対応ができなかったのは自分の未熟さによる。だから、転職に必要な能力が足りないまま転職してしまったというのが、問題要因として大きくあると思う。
あとは、仲間を作るべきだった。退職間際で、別地域を担当する案件仲間と話し込む機会があったが、そこではリーダーAの異常性を感じ取っていて、仕事から排除するように動いていたという。またリーダーAから悪口の報告を受けていた人間の中には、虚言癖を見破っていて信じないようにした人がいたと聞いた。同情してもらえて、自分の見えないところでのやり取りを情報共有してくれた関係者もいた。そういった人達と早くから関係を持っておくべきだった。
そして転職や、フルタイム常駐は、巡り合う人次第のギャンブルだというのも知った。転職した会社にも、尊敬すべき人格者は結構いた。会社も技術力が高く、業績好調で、外から良い評価を得られている優良企業だった。唯一、リーダーAと巡り合ったのが問題だった。
ただもう後悔しても何も変わらない状況になっている。今は乱れた心身が残り、恐怖・後悔・憎悪が入り混じった感情が自分の中で渦巻き続けている。
精神科に行った
思い当たる原因があったら精神科にはもっと早く来ているからないって書いた
対人恐怖症だった
カルテに週3で酒飲むって書いた
薬と酒の相性は悪くて、Google先生で検索かけてもやっぱり相性がわるいって書いてあった
知り合いの医者にもきいた。やっぱり相性がわるいって言われた。
鉛のように重かった心臓とかそこらへんの臓器の重さが一気に無くなった
気持ちはそれまではりつめていて触れれば泣きそうだった、それが、突然無くなった。
副作用で吐き気がするし動悸がしたけれど最初のうちだけだった。
生きるのは随分楽になった。
スピーチをするのが好きだと言っていた友人を頭のおかしいやつだと思っていたけれど、頭のおかしい奴は自分だった
実は対人恐怖症だったと親しい友人に告げた
そんな風には見えないと皆に言われた
スピーチをするのが好きだと言っていた友人にはじゃあ自分の兄弟も対人恐怖症かもしれないと笑ながらいわれた。自分もそうかもねなんて笑った。内心そんなわけ無いだろとおもってた。
対人恐怖症なんだから君に見せている私はよそ行きの私だ
壇上に立つだけで手が震えて声が震えて足が震えて原稿も追えない赤面はするし信じられないくらい汗がでる
予期せぬ訪問者も後ろから挨拶してくる知り合いも同じぐらい苦手でどう言葉を返せばいいかわからない
そもそもラッシュや人通りの多い道でどう呼吸をすればいいかわからない
例えば、先端恐怖症。先端を見ないで生活すればいい
薬をのんで随分楽になったけれどディスカッションやスピーチの時の症状は治まらない
酒は失敗を忘れさせてくれるのだけれどそれすら禁止されている
>性欲を殺す薬とかないの?
ググって見ると、Yahoo!知恵袋にQ:性欲減退の薬ってありますか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425530219
ベストA(精神医療従事者):性欲減退のお薬は市販はされていない。抗うつ剤や抗不安剤には副作用として性欲を抑制するモノが有る。
とのこと。そのほか、高血圧の薬にも副作用として性欲を抑制するモノが有る模様…
http://ultimatevibration.net/fukusayo/seiyokugen.html
まぁiPS細胞も出来たし、完全じゃないけど女性だけで自己増殖的?に妊娠出産も理論的には可能?
でも女性にも性欲は有る?訳で…。
悔しいわ。なんでこんな死にたいとか逃げ出したいとかいう感情が出てくるんだ。なんでこんなにメンタル弱いんだ。クッソ。欠陥的な遺伝子を持って生まれてきたせいで、なんでこんな苦しまなきゃいけないんだ。
俺は向上心も意欲もある人間なんだ。人一倍やる気だってある。この定期的にやってくる、鬱、無気力、不安感、これさえなけりゃいいパフォーマンスしてるのに。なんでこんなクソみたいな感情の波に翻弄されなきゃいけないんだ。
こんなんで30年も生きてきたら大体わかってきたわ。こんなの過ぎ去ってさえしまえば、別になんだってない。なんでこんな悩んでたんだって自分でもわからないようなことなのに。今はこの苦痛が全て。自暴自棄で今まで積み上げてきたものとかどうでもよくなる。こんな意味わからない、双極性障害のせいで俺は人生台無しだ。
精神科も心療内科も何件も回ったわ。一時期通ってたけど、気休めにしかならなかった。もうあきらめた。
抗鬱剤も、抗不安剤もSSRIも、全然効きやしない。ただの一度も効果があった覚えがない。睡眠薬は効いたな。
愛する彼女が隣で寝ててくれたとときの方がよっぽど心の安寧得られた。今はそんな人もいない。
カウンセリングも一時期続けてたけど、結構信頼できる人に出会って、調子よくいけてたけど、やっぱりダメなときはダメで。結局行かなくなった。
カウンセリングは、まあ、話聞いてもらえれば楽になるし、孤独で辛いときは行かないよりは行った方がいいのかもしれない。認知行動療法的にも自分を見つめ直して目標設定する機会にもなるしな。
ただ、金銭的な負担は結構ある。大体どこも一回一万円とかはかかる。保険使えないから。前に某大学の臨床心理教室の研修施設かなんか見つけて通ってたときは、一回1500円で何回か行ってたっけな。
それに、本当にしんどいときに今助けを借りたいってときにすぐ行けるわけじゃないしな。一週間とか一ヶ月前とかに予約入れなきゃいけないわけだし。一回行けないともう、足が遠のく。順調なときはいいけど、調子が乱れたときはやっぱダメだ。どうでもよくなるから。頼れるもんは何もない。
なんかお金使うことに罪悪感ある。今はろくに稼ぎもないし、なるべく使わないようにしなきゃと思うと余計引きこもりになる。外出ると移動するにも何か食べるにもお金かかるから。ただでさえ、引きこもりがちなのに余計。勉強したり家で片付けなきゃいけないことがたくさんあるのにと思うと、外で遊ぶ気分にもなれない。
そんで運動もしないで、一日中眠くて何もできないから何もしない。そんなことしてたらメンタルに悪い影響しかないことはわかってるんだけどなかなか切り替えれない。一日15時間も寝て、嫌だなー、死にてーなー。無になりてーな。全ての嫌なことから解放されたいって考えるようになる。
本読んだり、映画見たりして、元気でたりもするときもあるんだけど、今はそれする気力もない。何もしたくねーなー、頭も使いたくねーなー、て感じだから、本なんて読めない。ご飯食べるのもめんどくさい。何日も、歯磨けないし、風呂にも入れないってなることもある。クズだな、俺腐ってるなって思いながら何もできない。
この文章書くのにだって、何日もかかってるからな。頭の中に次々に思い浮かぶことはあるんだけど、まとまった文章に直す気力がなくて、消えていってしまうのが常で。何か残しとかなきゃいけないって思いで、やっとのところで寝転がりながらiPhone使って書いてる。死にたくなる度に考えてたことを、何年越しかで今書き起こしてる。
死ぬのもエネルギーいるしな。鬱の一番酷いときは死ぬ元気もないからな。俺なんか生きてても苦しいだけだから、死んだ方がいいんだと自分を説得して、実行しようとするんだけど、どこかで本能的に生きようとしちゃうから、それに抗って自分を殺そうとするのはエネルギーがいるんだよ。鬱からのちょっと回復しかけが一番危ないっていうじゃん。あれ本当だよ。
過去に俺が自殺しようとしたときは、もう何年か前だけど、そのときも何日も寝たきりで、いい加減嫌気がさして、明日こそ実行しようと自分を奮い立たせて、シャワー浴びて着替えて出ていくんだわ。
結局全部失敗してるから、本気になれなかったのかもしれない。外で首吊ろうとしたときも、飛び降りようとしたときも、いざやろうとすると怖くて、なかなか実行できなくて、人に見つかった。部屋締め切って炭焚いたときは、意識あるうちに救急車で運ばれて、後遺症もなく退院しちゃった。実行力がなくて中途半端だから今日まで生きちゃってるんだわ。
ここ半年くらいは、死にたくなるほど落ち込むこともなくてなんとかやれてたんだけどな。やっぱり6月は鬼門だわ。
最近は仕事の合間に、人と会ったり、出かけたり、趣味に時間を割いたりして、結構うまくやれるようになってきたと思ったのにな。秋から新しい職場で働かしてもらって、バリバリ働いて、その後独立して、稼いで、遊ぶぞーって計画を建てて頑張ってたのにな。
自分に自信がないのが根本的な原因だと思う。そのくせプライドは高いし、友達と呼べるような人もいないし、社会的な経験も積んでないし、生きていくことに対して恐怖感がある。親がいなくなったら社会的な繋がりが一切なくなって死ぬしかないんだと思う。
なんとか回ってるときは、数少ない友達に自分から声かけて飲みに行ったりとかもできたんだけど、こんな重症になってから相談できる相手なんかいないよな。facebookとかに書くわけにいかないしな。こんな重い話に誰もコメント付けてくれないし、信頼失って、あいつメンヘラでヤバいってなるだけだよな。
正直、今まで人生でもっともっと辛いときがあったし、あの頃から回復したことを思えば、精神的にもそこまで追い込まれていないと思う。最近何かあったてわけでもない。彼女と別れたときのダメージの方が大きいくらい。ただちょっと疲れてた。だから別に対したことはないんだと思う。でももうやる気が出ないんだ。今を乗り切って、戻れたとしても、またそのうち壁にぶち当たるんだろうな、と思う。人間関係や仕事で行き詰まって、出て行けなくなって周りに迷惑かけるんじゃないかと思う。そんなクズみたいな人間がこの先の人生で成功できる自信がしない。惨めに人並み以下の生活で生きてくくらいなら死んじゃいたいと思ってる。
今日は団地の最上階まで昇って、ここから柵乗り越えて飛び出せば数秒で終わるんだなと思って、ぼーっと考えながら外を眺めていた。手すりに手をかけると身体が強張る。やっぱり恐怖心の方が強いんだ。まだ覚悟ができてねえ。
自分でも甘えたことばかり言ってるなと思う。けど、周り見てても、そこそこの会社で働いて、そこそこの給料で、そこそこに遊んでくのとか、俺には耐えられないんだわ。価値観として、汗だくに働くのは構わないから(と言っても知的労働で)、いっぱい稼いで、いい暮らしして、いい女と派手に遊びたいんだわ。でもそうするには体力も精神力も全然足りないと思う。なんか楽に生きれる方法ない?
精神科通ってて眠剤だけだったら不思議な話なのでネタにマジレスかもしれないけど。
精神科の先生に洗いざらい話してソーシャルワーカー紹介してもらって、
役場とも連携して親から離れた所で一人暮らしする事をまずお勧めするよ…。
貴方がどういう診断名をつけられてるかが不明だけど、
今の段階で一緒に暮らす事はお互いの病状を悪化させるだけで良くないと思うので。
…と母親が更年期辺りでガチで統合失調症を発症して同じような症状を見せてる人間から。
落ち着くまでは離れて暮らして、何かあった時に家に帰るようにしてた。
こっちもSAD持ちなのと自分も発症するかもしれないというのがあって、
家族だけではなく医師や色々な方の手を借りなければ改善しない状況だと思うので、
早めに相談を。
一緒に暮らして耐えて貴方が壊れても誰も褒めてくれないよ。
成人していると話が厄介になってしまうので大変だと思うけど、
志村けんのTV番組で、裸の女性が何人も温泉につかっていて、そこに主人公が一緒になって入る。それを見て、たまらなく下半身が膨張した。俺も一緒に入るところを想像しながら、夜、布団にこすりつけた。妄想の中で、クラスの可愛い女の子5人ぐらいと住むための部屋をつくって(ドラえもんの秘密基地みたいなやつで、小部屋が6つあり、中央がいわゆるヤリ部屋)、全員裸で暮らしていた。もちろんまだセックスがどういうものか知らない年齢だったので、裸でお互いの体をまさぐったり、キスしたりする程度の想像。いつかこういう場所で、女の子とたくさんイチャイチャしたいと思った。こういう部屋のことをハーレムというのだともう少し大きくなって知った。
はてなのよくある匿名日記と違って、今から話す話は、何かの共感を得て「よし明日から実践しよう」だとか、最初はダメだった作者がWEB関係で頑張って今は人並み以上ですだとか、色々あったけど明日結婚します、だとか、そういったスッキリするようなオチはありません。むしろ、スッキリしたいがために、これを書こうと思いました。
俺は今、無職の36歳で、独身、職歴多数、次に何をして食べていけば良いのか途方に暮れている。特別な職能もなく、その前に「夢(やりたいこと)」がない。
みんな夢があって良いな、とまず思う。こういうのやってみたい、こういうプログラム勉強したい、ネットでこういうサービスを作り出したい、そういうのがまるでない。今日はお鍋にしよう、という程度の軽いノリでも思いつかない。
もっと若い時、たとえば25歳ぐらいだったら、そういうノリで何かの夢を見れたのかもしれない。36歳。自分の向き不向きや、世界の辛さや、お金のために仕事することや、家族のないさみしさや、いろんなことを知ると、身体とは裏腹に心が重くなり、行動に移す前に、その夢想すらしなくなった。
そう考えていて、もしかしたら夢をかなえたから、次にやりたいことが見つからないのでは、と思った。スポーツ選手が夢をかなえて引退するみたいに。俺の夢は、ハーレムをつくること、たくさんの女の子とをセックスをしまくることだった。
童貞を卒業したのは大学3年の夏、21歳だった。やらずの二十歳で、相当こじらせていたんだと思う。ハーレムを作りたかった少年が、実際にセックスするまで10年以上かかった。
セックスを知ってから、ほぼ毎日、やりまくった。最初に付き合った女の子もセックスは嫌いではなかったから、会ってる時間の半分以上はセックスに費やした。その子と別れてからも、たくさんの女子に出会ってやりまくった。1年間に12人の女性と付き合ったこともあった。その時期から、いろんな女の子と付き合えば付き合うほど、心が重く苦しくなっていった。水中で酸素ボンベなしで泳ぎ続けるような感触。早く水面に上がった方が良いのに、20代の性欲のせいなのか、さみしいからなのか、俺はずっと潜り続けていた。でもこんなことを繰り返しても空しいだけだとはうすうす感づいていた。
仕事はどれも長続きしなかった。最長で3年。やりたいと思った仕事についたりもしたけど、諸々の事情で転職を繰り返してきた。俺に辛抱が足りないのも分かっている。ブラック企業ばかり経験したせいもあって、人の出入りが激しくて、辞めることに抵抗はなかった。
仕事はなくてもセックスがあったから、俺はひたすらやりまくって20代を終えた。同い年の友達が定職について、結婚して家族を作っていく中で、30代の半ばになった。
ある時、性欲がなくなっていることに気がついた。
広義の意味での性欲はもちろんあるんだけど、20代の頃のように何が何でもこの子とやりたい、というような強い欲望が微塵もないのだ。「歳のせいだよ」と言えばその通りなのかもしれない。でも、性欲のみを頼りにして突っ走ってきたから、それを失った今、何を目標として生きたらいいのか、日々の生きる希望がなくて、途方に暮れている。
小学生の頃の夢だったハーレムは、20代で実現していたのかもしれない。出会った女の子を口説いて、セックスする。申し訳ないけれど、最初は、女の子は言葉は悪いけれど今よりも「モノ」に近い感じだ。いやたぶん女の子が「モノ」というよりも、人間全部を「モノ」と思っていた。それは心の繋がり、相手を理解したい、相手の未来をちゃんと考えたい、といった想いが薄かったという意味での「モノ」表現だ。
ただヤル対象だった女の子が、20代後半から割りと真剣に付き合うようになって、同棲して、将来この子と一緒になるのかなと思った時期もあったけど、別れて、また違う誰かと付き合って、そうこうしているうちに、36歳になっていた。
オナニーはする。今は無職だからほぼ毎日。でも、生身の女性と関係を持ちたいとは思わない。思わないというか、持つまでの面倒くささ、持った後の面倒くささ、そういったものが大きすぎて、口説こうという意識が持てない。「セフレで良いじゃない」セフレだってしんどいよ、心をまったく無視して「モノ」みたいに扱えれば楽なんだろうけど、もうそういう気持ちにはなれない。綺麗ごとではなく。誰かと関係を持つというのは、誰かの世界を共有することで、その重さを持つのはかなりのパワーが必要なんだ。
夢はかなわない方が幸せなのかもしれない。
かなってしまったら、もう目標が無いわけだから、あれほど自分を突き動かしていた衝動がもう起こらないわけだから、毎日が凪みたいなもので、重苦しい朝を迎えて、ため息をつきながら起きて、公園に出かけて、ボーっと座ってる。精神科にも行って抗不安剤を処方してもらったけど、結局、未来を、道を決めるのは自分自身だから途方に暮れている。
織田信長の時代、人生50年だったら、このまま御隠居さんとしてあと15年ぐらい縁側で盆栽いじって若い人に「おなごを口説くとは」と講釈たれて生きておしまいにできたのかもしれない。でも、残りの人生、平均寿命が70としたらあと35年以上あるのだ。俺が生きてきた歳と同じだけの時間。長すぎる。
セックスさえ考えていればよかった時代は過ぎた。ハーレムはもう夢じゃなくなった。俺の次の夢。生きる目標。そんなもんなくたって、金が無くなれば食うために何かしらの仕事につかなきゃいけないわけだし、そうなるまでの、あきらめがつくまでの期間だってことも、薄々感じてはいる。
でも、それでも、っていうところだ。
***
ここまで長文を読んでくださった方がいたらありがとう。最後に。ここまで読んでくれたんだから、タメになることも書かないといけない気がした。たぶん若いころの自分がこれ読んだら、聞いてみたいこと。
「女の子にもてたいんですが、どうしたら良いですか?」
これだけです。
これは俺が師匠と仰ぐ人生の先輩がいて、その先輩曰く、片手間でもてたい言うんじゃない、と。「俺はもてるために24時間365日費やしてる。高校球児が全てをなげうって甲子園のためだけに白球を追いかけてるぐらいの意気込みで女を口説かないともてないよ」と。俺は納得して実践してある程度成果を出したし、たぶんきっと夢をかなえる近道というものはないんだと思う。夢さえ見つかれば、それが心底かなえたいと思う夢なら、きっとかなうよ。