はてなキーワード: 抗鬱剤とは
何年も飲んで効いてないんだから治療がうまく行ってないのはそうなんだけど、
それらの諸症状を「何年も抑うつ状態が続いていて、栄養状態が悪いし自己管理もできないから」ではなく「抗うつ剤の副作用」と判断したのはどうして
・誰がどう見ても認めるレベルの肥満(鬱病発症前は二度見するようなモデル系美人も完全な肉だるまになる)
・頭頂部が薄い
・服装がみすぼらしい
・歯が黒くなってたり、鼻くそ溜まってたり、前歯に歯石ついてたり、身だしなみに関する客観性が驚愕するレベルで欠落しているポイントがある
・例えば定期的にメンタルクリニックに通院するなど鬱病に対処する意思は普通にあるけど、現状を脱却する意志が失われてる。
メンヘラ友達作ったり、焼肉やフェス行ったりするけど就職活動一切しないまま何年も経ってたり。
そしてこんな風になる抗鬱剤が何より問題だと思うのが、彼女らはその後、例外なく鬱状態から戻ってこれていない。
なんなら悪化してる。
どうせ治らないなら抗鬱剤なんて絶対に飲まないほうがいいと思うんだが…。
確かに肥満、外斜視、肌荒れ、薄毛じゃ死にはしないけど、社会生活送る上で相当マイナスになるだろう。
こう言っちゃ悪いが、女性でこれらの副作用にやられると周囲からかなり不気味な人間として見られる。
逆にこんだけ凶悪な副作用あるのに、抗鬱剤常用しながら正社員続けられてる人は凄いと思う。
気が向いたらどうが作るためのプロット作るか。
アマプラの会員を一時的にやめる前に、エヴァの動画及びそのプロットになるブログだけは作っとかなきゃ
「口の前に手を動かせ」
って言ってる時点でそうじゃん…。
テレビ版や序破のマヤ、かなりりっちゃんに愚痴ってたけど、そんなこと忘れて部下にゴリゴリ命令してる。
で、大人になって見ると
とかいって、自分がなりたくない種類の大人になってたり、ティーンが見たらバカっぽく見えるほど志の低い・感じの悪い行動取る人が多いんですよね。
エヴァンゲリオンの背骨になってる価値観を理解してない人が多いってことがわかったからそこをベースに組み立てていけば、いいのな。
うつヌケ描写とか、世界観の考察がどうとかってみんなそっちに行きたがるんだけど…そういうことじゃないんだよなぁ。
それは土台わかってる人がやることやねん
アマゾンレビューで星1つのやつみてたらこんなんあったけど、これトウジの
「多少事情は聞いとるが、けったいな話でよーわからん」でほぼ片付いとるんよね。
マジな話すると、ローマ帝国だって、全ての建物を2000年持つローマン・コンクリートで作ってるわけじゃないんってだけ
結局、ニアサードインパクトの後の世界に限ったことじゃなくて、国家権力が興味ない分野って技術があろうと投資されないんですよ。資源は有限ですし。
ましてや、ゲンドウのエゴと、それに対するアンチというすごく個人的な人達が政府やってるとなれば…戦わない庶民なんぞ後回しになりがち
で、この辺のことわかんない人が、現実の政治経済でも、フィクション上の設定の整合性に対しても、
みたいに言うけど…逆に庶民に還元されまくってる現代がレアですよ。
世界史的に、軍事に関わる分野しか優遇しない国なんか山のようにあるし
「受験で社会科科目の点数を冷遇した結果、想像力が全然広がらない人間が大人になって一丁前に意見や批評をしてるんやな」
って思っちゃうわけです。
きっと別の科目が得意な人は似たようなこと思ってたりするんだろうけどさ…。
トウジにとって同級生であり、命の恩人であることはもちろんなんだけど、トウジが医者で子持ちだから、子どもと接する機会が少ない大人よりシンジ目線に立てるのよね。
あの村が変わり者二人でできてる隠喩になってて好き
・他の大多数みたいに距離を取りながら接していうべきことだけ言う
委員長のおとんがウザキャラとして出てくるんだけど…これも後のゲンドウの回想シーンへの伏線というだけじゃなくて、
「常識人」
キャラなんですよね。
逆に、エヴァを見てる人達からしても部外者だからうざいし頭ごなしに見える
例えば、テニスの王子様や三田紀房見てて面白いのは、観戦してる人全員が会話してるみたいに必殺技の名前や状況認識を共有したり、距離離れてるのにテレパシーで会話することがよくある。
エヴァはその逆なんよね
よくよく考えたら、ケンスケがアスカの全裸見てもノーリアクションだった時点でお察しなのか!
地味に情報量が多いシーンだ。
最初見た時は問題児を二人拾ってきたからいまさらアスカの奇行にビビらないのかと思ってたけど…よく考えたらそういうことじゃないわ。
奇行で脱がないもんなぁ
そして、ケンスケだけ帰ってくると思ってアスカが全裸で待ってるとしたらそれはそれで解釈変わってきて面白い。
いや、アスカあれで尽くすタイプというか、求愛行動が激しいところあるから、あり得るんですよ。
そりゃ、ケンスケに当たるような会話になるわ…。
アスカ「ケンケンはどんな時も6時起床。もう仕事に出てる。朝飯はそこ」
だけど、愛妻女房が、夫の生態を徹底的に把握しつつ、一応夫の客人だから良妻っぽく食べないであろう食事まで出してるシーンとして見るとかわいいwww
エヴァってさ…多くのオタクの性癖を開発した作品としても有名だけど…今回ヤンデレとかロリババアがメインだと思ってたら、そっち方面でも開発してたのね。
メスガキって言葉ができる前のメスガキの代表例みたいな子が、まさかの人妻としても性癖のるつぼに
どうしようエヴァンゲリオンのアンチレビューがどうでもよくなるぐらい人妻アスカ気に入ってるんだけど…。
態度こそメスガキそのものなんだけど、行動がデレデレという奇跡的なバランス。
これやばいわ
人間同士の距離感とか、世界観とかロボットのアクションとか色々言われてんだけど、二次元やファンタジー設定だからこそできるキャラクターを掘り起こしてくるところが一番有能だから!
みんな考えすぎなんだよ
僕も含めて
黒綾波に対して「働けりゃなんでもええ」っていうおばさん…いい意味で大人よなぁ。
そうなんよ、学校生活に慣れてるから若い子の多くは自意識過剰になりがちだけど、大人になるといい意味での「無関心」を装える程度にスルースキルつくのよ。
この感覚描いてるのはすげーわ
アスカ「黙って隅っこに寝っ転がって自分は辛いってアピールしたいだけでしょ?掃除の邪魔、マジウザい」
これ後半が本音なんだ。
ミサトと暮らしてた時は、生活荒れてたアスカさんが掃除の邪魔とかいうの、マジで人妻化してておもろい
家事をシンジに丸投げしてた時期のアスカからすると、「人妻化すると、アスカってめっちゃ家キレイにして、夫に偶然を装って全裸待機するタイプのデレデレ女房になるんや」
って思うと、マジで感慨深い。
言動は湿度高くないのに、行動デレデレって現代人にとってある意味最高の妻では?いや、マジで
いやまぁ、同人誌で綾波以外全員人妻にして描いたら、色々解釈違いだなんだってオタク学級会起こすかもしれないけど。
アスカ「もううんざり。それあたし『ら』もしんどいんだけど。」
寝込んでるシンジにうんざりして出たセリフだと思ってたけど、これ「一向に帰ろうとしない夫の客人」へのセリフなんやな。
前のアスカなら「あたし」であって、「あたしら」とは絶対言わんから、これ人妻アスカのセリフやわ
アスカがケンスケの家でしゃべることば1つ1つ書き出していくと、必ず人妻感出してる。
人妻感は言い過ぎにしても前のアスカなら絶対言わないことばっかりだから、ちゃんと検証すると、デキてないと意味が通らないことを多く言ってるのすげー面白い
面白いなぁ…
大人に対して「もっと私を見て」とか渇望してたアスカが「一人で拗ねてろ、ガキ」と見放すのもおもろい。
ここでも迷惑な客人への(人妻アスカとしての)言葉でも成立するのもまた面白いが、それ以上に「年齢や立場が変わると、世代が違う子はおろか自分の過去とさえ会話が成立しない」のがおもろい
シンジくんの動向についてケンスケがアスカに聞くシーン…ストーリー上なんの違和感もないセリフだと思ったけど、連絡事項をやり取りした後に
人当たりのいいケンスケなら誰にでもお礼言いそうだが、ちゃんと応えるアスカがなぁ~
アスカ「私はひとり、これまでもこれからもずーっと一人、それが当たり前なのよ。アスカ」
面白いのは、こんな事言いながら、ケンスケと暮らしてる時はめっちゃ人妻してる。
ストーリー的にもケンスケの性格的にもアスカといる時間は短くなりがちだから、一人の時メンタルヘラってると…かわいい。
アスカって好きな相手ができると、相手に対する思いが強すぎて、誰に対しても会えない時にメンヘラ発言したり、嫉妬したり、自分が期待したほどかっこよくないことに切れ散らかしたりするから…解釈通りです。
人妻アスカと矛盾のないセリフ。多分、結婚しても暇になるとメンヘラ発言しそう
みたいな話もさぁ…アスカの現状(人妻アスカだけど、夫が不在・一緒にいるのに関心をシンジに取られててメンヘラ発言した直後)を考えると、自分に
シンジが黒綾波からのカセットテープを突っぱねるシーン…アレ、2回目だと解釈が変わって面白い。
単に「いま人と関わりたくない人にそんなことしてもなぁ」と思ってたけど、この時点でもうストーリーと繋がってるようにデキてるんだ。
誰が言ったか忘れたけど、アスカとケンスケがいい仲だと気づいた人の論拠は、トウジとケンスケの会話でトウジが
「シンジも早くこの村に馴染めばいいのに」
それで、2回目見る時にアスカのシーンを注視したら、アスカの言動が明らかに人妻なんよね。
私が、エヴァの動画を映画上映後すぐに出せなかったの、私よりも洞察力すごい人が、もう敷いてある畳までひっくり返す勢いで見てるからとても合わないと思ったから
あとは私の中で「うつヌケ」と妹のシーンが強すぎて、卒業とかいい仲とかそっちに目が行かなかったのよね
シンジくんがうつから脱却するトリガーを綾波が作っていくシーン…アレね、ほんと正しいんですよ。
うつの人に常識とか、大人の当たり前とか押し付けてもトラウマと不甲斐なさで病むんですよ。
基準を自分のベストパフォーマンスや、社会の大人として立派なところに置くのをやめる(それが求められてるという自意識過剰や、頭ごなしな大人から距離を置く)ところからスタートせな立ち直れないんですよ。
自分がうつからパフォーマンスを回復した経験やいまでも時々病むことからすごくわかる
ただ、普通の人ってエヴァ見てもシンジくんがうつから抜け出すシーンの的確さや、似たような体験をしたからこそ抜け出して立ち直れた時に自分のことのように感動する感覚ってないから…視点が合わないんですよ。
「エヴァは庵野秀明の私小説」という人はなおさら、そこを重視してみるべきなのよ
「なんでこんなに優しくするんだよ(泣)」
うつヌケの最大の近道ってそこなんですよ。
だから、もう僕の中では前半40分でエヴァって名作なんですよ。
うつヌケ作品として本質を描いてる上に、うつの人にとって一番欲しい「自分以上の理解者」の存在を描いてるから。
自分で下げられないハードルを下げてくれる理解者が見つからないと、無限に自己嫌悪と無力感がループするんですよ
シンジくんがうつヌケして、ケンケンの手伝いを始めると、唐突に「ポツンと一軒家」が始まる。
老朽化して放置されたインフラの話とか、川の水量をチェックするとか…日本の奥地の現状なんですよ。
第三村が原始的すぎて、低評価付けてた人いるけど…日本にも実在するんやで。ポツンと一軒家見てみ?
私、歴史の話とか、その土地の人の話聞くの好きなのは、自分の知らないものさしを大事にしてる場合があって、それが視野を広げてくれることがあるから。
エヴァの中で田舎を扱ってることに「技術レベル的にもっと開発できたはず」みたいに言うアンチがいるんだが…日本の田舎が開発できるはずの辺境地
逆にエヴァを見ても
みたいに思えない人がアマゾンレビューで星1を付けまくって、作品として星4にも到達してないのが、私には我慢ならんのよ。
人間(特に大人)が名前をつける相手って子どもとかペットとか苦労して作ったり発見したものに対してだから…遠回しに「碇くんに大事にされたい」という愛の告白なんよねぇ。
今の親御さんが言うのかは知らんが、私の時はまだ
的なことを言う人が、誰か忘れたけど、一応いた。
百姓という表現が物議を醸すことは横に置いといて、都会で自分だけで生きてるという感覚を消そうという教育・教えはあったのよね
ケンスケに撮影された時のアスカのリアクションが完全にメスなんだよなぁ…。
いや、もともと
って感じではないけど、恥じらい方が(頬を染めるなど)過剰すぎて、めっちゃメス。
これは確かに、デキてる設定の方が納得行く
破ぐらいまでの人間関係だったら
「フンッ」
「バッカみたい」
とか言って撮られてもスルーするか、本当に嫌なら蹴りの1つもお見舞いするのがアスカなんだけど…人妻化すると乙女に恥じらうから「やだ、女の子してる!!」と周回して驚くのよね
いきなり殴って「ドアホー」と罵りながらシンジくんに泣きつくサクラちゃん。
なのが、1回目は違和感なかったけど、2回目は突っ込みどころしかない。
1つは「お前が言う!?」です。
さっきまで女房やってたの君やん。
もう1つは「(本人的には)そうだよ」です。
開始1時間で
「本人に自覚ないけど、結婚すると夫ラブのデレデレ乙女に行動が豹変する人妻アスカ」
をだしたことに加え
「もう自分がゴールインしたと思って、束縛しながら崇拝してくるヤンデレサクラちゃん」
が出てくるんですよ?
「誰のおしっこかわからないこの再生水と同じ。清めれば済むと思ってる」
という一言で、全員同じものを食べたり飲んでるはずなのに、『飲尿女』というあだ名が付いた女の子が出てきた。
ネットの評判ってあまりにも短絡的に嫌いなキャラに変な仇(あだ)名付けるから、身内ノリとして楽しい
(訳:夫とラブラブしとったんじゃ)
「ほぉ、年頃の男の子は眼中にないと?」
(訳:お前人妻やしな)
(訳:年増には甘えんぼのガキがお似合いや)
1回目に普通に見た時は(訳:)に当たる部分が全く思い浮かばないマリのウザ絡みシーンにしか見えなかったけど…これ2回見ると Permalink | 記事への反応(1) | 15:16
昨年の8月、大学院の授業を取り終わり、生活リズムが崩壊してから一日中スマホをいじるようになった。眼精疲労でまともな生活ができなくなり、好きだったことも煩わしくなり、ひどい倦怠感の中でできることがまたスマホをいじることだった。
そこから不眠からの鬱というお決まりパターンで実家で療養することになった。復学できるように鬱を治しましょうってことで1年間抗鬱剤飲んだり、カウンセリング受けたりしながら自分なりの療養をしていたんだけど、未だに気だるさは無くならない。当たり前だよね、1年間スマホいじることやめなかったから。
最近ようやくスマホの時間制限をして、とにかく目と首に負担をかけないように生活してる。パソコンで見れるもの、できることは極力パソコンでやるようにする、風呂上りに首と肩のストレッチをする、等々。自分でケアするようになってから睡眠の質が良くなって、朝起きた時のだるさが劇的に改善した。姿勢を保つことも前ほど苦にならなくなった。
普通でいることが善なのか、はたまた悪なのか。
没個性的で、長いものに巻かれる。それは当たり障りない人生というテンプレートをなぞっていくような言葉にも感じられる。
しかし。
先天的な発達障害(ASD、ADHD、DCDのトリプルコンボである)を抱えて生きてきたわたしには未だに今ひとつ「普通」「没個性」というものがピンとこないのだ。没個性を目指してもなれない、普通を求めても手に入らない。最初の約束と違ったことを言われたり、イレギュラーな要求をされるとそれを「普通」にはこなせないし、0か100かしかないので50を求められても相手の思うように返せない。
その発達障害を20歳になるまで見つけられることがなく、いわゆる定型発達の子どもたちと混ざって幼少期から常に「変な子」「面白い子」と揶揄されてきた。その度に普通でいることのハードルの高さを感じさせられた。
確かに物心ついた頃から子ども特有の目のキラキラ感がなかったことも自覚はしているし、どこか冷めているというか物事を純粋に楽しめなかった。その上父方の家庭が自分たちの価値観の型にはめていく教育方針だったことからそれに当てはまれなかったわたしはそこでの居場所も失ったこともその後の成長過程に大きな影響を及ぼしていると思っている。幼稚園や小学校に行っては大人にとっては「ちょっと変だけど元気で明るい子」を演じ続け、帰ったら帰ったで本ばかり読んでいた。そして当時月に2回ほど行っていた父方の祖母の家((今はもう6年ぐらい行っていないので祖母も叔母も元気にしているかどうかすら知らない))では、わたしを連れて行っていた父親含めほぼ誰にも話しかけられることはなかったのでずっと2階の広い部屋に引きこもってポケモンを捕まえ続けた。常にいい子でいなければ死ぬ、という感覚はこの頃からあるし、過干渉されると怒るくせに愛されたい願望が変に強いとにかくめんどくさい人間になった。
いわゆる「普通の子」との疎外感から、わたしは気がついたら常に死にたいと思うようになっていた。記憶の限りではおそらく小学校に入る少し前ごろからだっただろうか。でも大人にそれを言うとまた色眼鏡で見られることや世間体を気にされることは子どもながらに理解していたので、誰かにそんなことは言えないでいた。何なら今の今でも誰かに言ったことはないので、ここで初めて誰かに気持ちをぶつけている。
死にたいという感情を悟られるまいと思い必死にその時その時に全力で自分の生きる意味を探した。特にこれといった特技もなく、決して健康な子どもでもなかったのでその度に壁にぶち当たったし器用に生きられなかった。し、今でも器用に生きられないでいる。
そして小学校高学年からだんだんと学校に行かなくなった。気がついたら中学入学後、完全な不登校になって1週間寝つくことがないまま夜を過ごしたりその間に考えるべきでないことばかりを考えるなどした。その頃から心療内科でカウンセリングを受けるようになり、良くも悪くもならないままこの前気がついたら干支が1周していた((むしろここ半年は仕事などの過労から抗鬱剤を飲む生活を送っているので正直悪化している、けれど新しい病院を開拓するにも腰が重い))
高校受験の時だって、「普通の子」になりたくて偏差値も部活の活発さも平均的なそれこそ「普通」の高校を選んだのに周りからは「もったいない」((無駄に論理力だけがずば抜けていて他が壊滅的なIQであるために、自分で言う話でもないが中途半端に成績だけは良かったので同級生の保護者たちからはあまり好まれる子どもではなかった))「もっと上の学校に行けばいいのに」と批判された。この時ほどにわたしの追い求めていた普通を否定された経験は後にも先にもないように思う。
その後その高校に入学し、不登校を経験した上での高校生活での目標に「皆にとっての当たり前の日常」を掲げた。しかし高校2年生の頃に病気が見つかり、当たり前の日常はおろか出席日数もギリギリでクラスでは孤立しながら廊下からすぐのいちばん後ろの席で生活した。こんなはずじゃなかったのに、と何度も思ったけれど、どこか仕方ないと思って諦観している自分もいた。
大学でも2年生修了時に高校時代からの持病が悪化し中途退学。自分の人生の中で比較的イケていた時期だと思っているが、学校生活「すべて」を謳歌したことは一度もない。その結果通信制大学に編入し、単位もまったりまったりと取りながらズルズルとマイペースで学生という身分を続けてしまっている。
20代も半ばとなった今でも時に日常会話で「普通に」とか「常識的に」と自分の中で繕った普通をぶった切られることもある。最初は何とも思わないが、それを同じ相手から何度も何度も言われることで自分の中での普通はまだ全然普通ではなくて、むしろまだまだ程遠いところにいると感じてしまう。そして「普通」という名の相手の感情の押しつけに嫌悪感を抱くし、「あなたが言う普通だってあなた個人の価値観だよね」と言ってしまうので感情的にカッとされることも少なくはない。((カッと、ということで余談だがリストカットなどの自傷行為に走ったことはほぼない。その時間が無駄だと思ってしまうしもっと具体的でもっと苦しいものを選びたくなるしいつもそれを考えているうちに過呼吸になっている))
この普通に適応できない息苦しさはいつまで続くのだろうかと思うと過去の記憶がフラッシュバックしてくることも頻繁にあるし、それで過呼吸を起こすことだってある。結果身近な人が迷惑を被ることになる。いつまで経っても身近な人の立場からしたらわたしは最高にめんどくさくて、普通には到底なれなくて、どこまでもまっすぐに生きていけないとても厄介な存在なのだ。
だからこそ交友関係もどんどん希薄になっていくことには慣れているし、距離を置かれていくことを察するようにもなった。自分から誰かと接するということも積極的にできないし、むしろ入られたくないゾーンに入られたら精神の平静を保つべく全力で拒むようになってしまった。自分が友達だと思っている相手からしたらわたしという存在は知り合いないしは顔見知り程度なんだろうなと斜に構えてしまう。iPhoneのアドレス帳なんて家族含め3人しか登録されていない始末だ。でも別に特別広い交友関係を持っていてもメリットもないし、むしろ自分に相応しくないように思えてきてしまうしそれを悩む時間も無駄だなと思う。
結局ひとりぼっちでいることしかできないし、結局誰かに頼る強さを得ることもできない。いつまで経っても弱くて、いつまで経っても自分自身のことを好きになることができない。常にコンプレックスに直面している。
エアポンプのない酸素の薄い水がたっぷりと入った広い広い水槽で、必死に呼吸をする魚のような感覚だ。
シュークリームとチョコモナカジャンボは抗鬱剤よりも有効でしかも安い、美味い、と隙がない。