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2015-04-04

意識高い系取扱説明書(前編)

最近職場の同期でも後輩にも、いわゆる「意識高い系」が増えてきた印象があります

彼ら意識高い系は、距離をとって見ている分には楽しいのですが、少し仕事で関わるとクソのように使えず、

その割に「高尚な」ことばかりほざくので、最近ではイライラすることも増えてきました。

ですので、自分のため、そして同じような目にあっている皆様に、

意識高い系に対する理解を深め、彼らを見た時に感じるモヤモヤ感の払拭と、彼らの取り扱い方法理解目的とし、私見を申し上げたいと思います

意識高い系とは

諸説ありますが、一言で言えば一種の精神病を煩った人達です。

エベレストのように高い理想と、マリアナ海溝のように低い実力を持った人がかかる、

20代〜30代で発症が多い一過性の疫病なのです。

意識高い系の特徴

意識高い系と聞くと、何人かパッと頭に浮かびませんか。

彼らを観察していると、面白い程高い確率で似通った性質を示します。

個人的経験からですが、大きく下記のような特徴があるので、照らし合わせてみてください。

1 理想は高いが実力が無い

私共に、彼らは何の成果も生み出しません。生み出しても、一般人のそれより遥かに低いです。

逆に、成果を生み出している人は「意識高い系」ではなく「意識が高い」人ですので、今回の話の対象にはなりません。

意識高い系」は、口だけは素晴らしいことを言います。多くは社交的でフレンドリー饒舌なので、一見して凄そうな人に見えます

ところが、実際に仕事で接すると、あるいは私用で軽いイベント運営でもすると、実行力が全くなく、途端に尻尾を現します。

受け答えがイマイチ(言いたいことだけ言う)、成果物品質が低い、納期に間に合わない、集合時間に遅れる、ドタキャンを多発する、等、

最初は、初対面の好印象もあり「ん?」と違和感を覚えるだけなのですが、それが恒常的なものだとしたら、意識高い系確定です。

2 実力が無いことに気付いていない

意識高い系ビジネス書起業家が書いた本が大好きで、それらに惜しみなく投資(と思っていることを)します。

そしてビジネス書多読する人が高確率でそうなるように、本を読んだだけで仕事ができるようになった気になり、自己認識と実際の実力に大きな乖離が発生します。

そのため多くの「意識高い系」は、頻繁に「最近調子イマイチだなー」みたいなことを言いますが、

何のことはなく、本人が気付いていないだけでそれが単に彼らの実力なんです。

彼らを見ていると、「じつりょく」というものが、ドラクエの「ちから」のように、自身の中にパラメータとして存在し、

本を読んだりセミナーに行くと、その「じつりょく」が ◯ポイントあがった!みたいな認識があるようなのですが、

現実世界ではその人が出した具体的な結果でしか評価をできないし、評価もされません。

彼らはそこに気がつかず、延々と平積みビジネス書について「〜読了!」と呟いたり、

セミナーに頻繁に参加して、「アウトプット大事からブログにまとめました」といって単なる議事録を書いていたりするのです。

3 SNS

よく指摘されていますが、マグロが時速80kmで泳がないと呼吸ができないように、彼らは毎日高頻度でFacebookTwitterのようなSNSをチェックしないと、死にます

さらに、FBの「いいね!」は、彼らに取っては元気玉の元気であり、「もっとオラに、オラに元気を!!」という勢いで「いいね!」を欲します。

個人的に、親指を数mm動かすだけの評価をいくら集めても何の価値にもならない気がするのですが、

「この記事を読んで参考になったら、「いいね!」を押してくださいね」と言わないと、多分人質に取られている娘が何かされちゃうんでしょう。

ちなみに、LINEとかでも無意識に「いいね!」と言ったりするんで、要チェックです。

4収入が低い、収入を下げる選択をする

市場というのはよくできているもので、今まで接して来た色々な会社人達を見ても、その人の労働価値と密接にリンクしています(大企業のおじさん達は年功序列ポイント下駄付きですが)。

そのため、実力がなく、それに気付かず適切な努力をせず、大口を叩いているだけの「意識高い系」は、転職等で不思議な程年収を下げて行きます

多くは今流行りのスタートアップ系やNPO系に行きますが、「やりがい」を餌に買いた叩かれているケースが多く、

転職後の業務実態は、単なるサイト運営や社内事務スタッフ等、やはり金額に見合った仕事しかしていない印象です。

5頭が良いと本気で思っている

驚くべきことに、彼らは自身知的だと信じて疑いません。

彼らは、少し会話すると気付くのですが、本で読んだ内容や、偉い人の発言を、そのまま自分意見として堂々と発言します。

その場その場で話の内容に沿って考えている訳では決してなく、議論テーマに沿った中で、最も有用と思われる過去に仕入れた情報を反射的に発言しているだけなのです。

ですので、たまに「あ、あの本のここに書いてあった内容だ」とこちらが気付く場合さえあり、聞いている方が恥ずかしくなることさえあります

また、現状の社会的組織的な不満点を指摘し、「日本のココがダメ」「IT化したら省力化できるのに」みたいなことを頻繁に言うのですが、

どうやら彼らの中での「ゼロベース思考」なり「問題発見能力」という能力として評価できる発言のようです。(「ママーあの人また大企業の悪口言ってるー」「しっ!見ちゃダメ」)

また、最終形態に近づくに連れて、何故か名前カタカナ表記することが増えてきます。(深い思索に耽る余り、非効率漢字という表現方法を忘れてしまったのかもしれません)

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と、元々の構想の約半分まで書いたのですが、思ったより長くなってしまったので、一回切ります

気が向いたらまた後半書きます

2015-04-03

http://anond.hatelabo.jp/20150403133642

そうなんだよね。

健全精神健全な肉体に宿るといい、健全人間であれば必ず正社員で働いている。

こういう身分格差は氏と育ちを間引くフィルタリングとして有用からもっと積極的差別していかないとな。

差別ダメっていうやつが引き取ってくれるよそいつは。とっとと契約切っとけ。

2015-04-01

都会では

まっとうな会社会社法によって会社設立して社会有用製品を開発したり、研究者論文を発表したりして、それに関する裁判も続々と出ているんだよ。医者だって真面目に勉強して免許を取得して働いてるしな。それに引き換え、クソニートや精神病者は、無能無産で一日中家で寝てるか、糞漫画書いたりしてるだけなのに、親の偽金使って平気で凄い連中の産出した飯とか製品をどこそこの配給所から盗んでのうのうと生きている。害虫め。さっさと死ね

2015-03-26

物が返って来た事なんて一度もない党

http://anond.hatelabo.jp/20150325195625

すばらしい!よかった!素敵!と思うんだけど、

同時にこの手の物無くした落とした→けど見知らぬ人が届けてくれた話聞くと嫉妬?っぽい羨ましさと

ホントに?作り話じゃないの?と思う気持ちもあるんだよね。(認めたくないから

そう頻繁に遭遇する訳じゃないけど自分も落し物や忘れ物を近くの交番なり、施設管理者に届けた事はある。

特にお礼とか返って来た事はないけど、期待してた訳じゃないから別に構わないし、ブコメにもあったけどお手軽に軽い自尊心を稼げて良かったと思う。


だがしかし

自分が物を落としたり紛失したり、ちょっとの間に持って行かれたりした時はまったく返って来た事がない。

コンビニや街の病院医院で買い物中、診察中傘立てに挿しておいた傘は物の数分だった時でも無くなった事がある。

ビニール傘は勿論、比較的しっかりしたお気に入りの5,000円くらいで買った傘などもあった。

お陰で今では傘立てに傘を入れるのに躊躇する。


幸い今は傘に被せるビニールを置いてある所も多いから良い物の(資源とかゴミ的には良くないだろうが…)、警戒し始めた子供の頃、店や病院で店員に傘は傘立てにお願いしますねと言われて渋々入れたら、やっぱり持って行かれた!という事があった時には本当に誰を恨んで呪ったら良いかと思ったものだ。

子供の頃だったので、勿論家に帰って無くしたと言えば「なんで!?」と怒られもした。



他にも冬時、マフラー手袋など酒が入ったりするとつい装備し忘れがちな物を店、もしくは道中で無くした事もあるが戻ってこなかった。

同じように無くした一緒に飲んでいた友人の物は戻って来たという時もあってそんな馬鹿な!と思った事もしばしば。


落し物の定番?財布も戻って来たことがない。

これは落とすような所に入れたり、逐一確認しない自分も悪いのは承知しているが、不運なのか丁度現金を補充した時に限って落としたりしていた。

中身は現金数万。キャッシュカードポイントカード類。病院の診察券や免許証などの少なくとも名前は分かる物は入っている事が多かった。

(全部一緒に入れるのはありえないとか言うツッコミはなしで。分かっているし、今はいくつかに分けている。)



だがしかし

中身所か財布のガワすら戻って来たことがない。

特にブランド物が良いとかいう思いはないので、べらぼうに高い財布を買ってた訳ではないが、それでも無くす度にお気に入りの財布を探して新しい物としていた。

落とした後に色々と再発行や届け出をしている時にいつも思うのは、中身は自分の過失なので諦めますからどうか財布のガワだけでも!戻って来ますように!!と祈っているが返って来た事はない。



一番に責めるべきは落とした自分なのだが、次がない。

誰かも分からない知らない人は知らないので責められないし、届け出だしたのになんの音沙汰もない警察管理者仕事してねーな!と責めることもできない。

責めるだけが全てではないので、最終的には仕方ない。諦めようで普通に落ち着くのだが、それを繰り返した影響か分からないが、今では財布を肌が接触するか目の届く所に置いておかねば落ち着かないという感じになっている。

大きめ、長めの財布を買い、お尻のポケットへ。(勿論落下のリスクがあるので、チェーン繋いだり逐一確認したり。)

飲食店など落ち着く場所ではテーブルの上に置くが、ちょっとでも席を立つ時は友人など相席の人が居てもお尻に装備しなおしてトイレなどに行く。

(少し前、某バラエティでそんな事されたら友人として信用されてないのかと思う!という件があってハッとした…が治せるかはわからない)


肌に触れるか目に入るかでないと落ち着かないので、今では穴でも空いてない限りなくなるはずのないカバンの中に入れていても落ち着かない。

カバンに入れて、必要な時に隅の方に寄って迷子になっているだけの状態でも、しばらくかき回して手に触れないと物凄く冷や汗が出てくる。

自分を信用していないのかもしれないが、カバンに入れたつもりが思い込みでそもそも財布なんて持って来てないのかも知れない!!?と思う事もある。


やはり不安なのでお尻ポケットに入れる。

そして常にそこに注意を払うようになったので、幸いここ5年位は財布を落としてはいない。





自分の話ではなく、友人知人でも財布落としたー!という話もそこそこ聞く。

その度に見つかればいいねと思ったり言ったりはするが、自身の度重なる経験から、まぁ財布は戻ってこないよな…と必ず思っている。

が、友人知人の元にはガワだけ所かまるっと中身もそのまま戻ってくる。

良かったね!とも思うが何故!?ととても黒い気持ちに包まれる。無くなれば良いと思っている訳ではない。念の為

お分かり頂けるだろうか!? 頂ける人が少しでも居てくれると救われるのだが…。

なんで自分けがこんなについてないとか不幸だと言うほどではないし、そういうのは心の持ち様だったり考えが歪んでいるからというのは理解できる。

仮にこういう部分で不運を引いてる分別の所で運を引いてると思える事もあるので良い。

ただじゃぁ今後自分が落し物と出会った時、その物が自身に取って有用だとかいいなと思える物(お金でも良いし、便利グッズでもいいし、イカス小物でもいい)だった時、ネコババらない自信?考え?が持てないのではないかと思っている。

財布であれば慈悲や自身経験、思いからガワだけはと思う事はあるかも知れない。(自分場合が中身は仕方ないけどガワだけは!という考えだったので)

封筒に札束であれば一部であればと思うかも知れない。

多分少し考えれば、じゃぁその後ガワをどうするか?とか何か足がついたら?とか思うとそのまま全部持っていくか、ガワを捨てるかになるだろうが、気持ち的な行為として自分も一度や二度でなく何度も何度も戻ってこなかったし!とカナリの確率で思うのではと考えている。

長くなったが、元増田のように良い話!で終わった所には他にも自分も同じ経験が!良かった話がいっぱい集まってくる(ブコメ)ので、黒いモヤモヤした気持ちがとても増幅されて辛いのだ。

なので、他にもそんな救われた話なんてねぇ!俺もコレとソレとアレと落としたり無くしたりしたが、一度も戻って来た事がない!!!という話が集まって来ない物かと思う。

不幸自慢ではないが、額や規模というより一度も戻って来た事がない。という人の話の方が個人的には共感?して救われる。

世の中は捨てた物ではない!日本はすばらしい!とも思うが、そうではない!と言う話も聞いておかないと心のバランスがね…。

良ければブコメに投げてくれると救われる。そしてそれら闇を集めて皆で救われない者同士救われるというのはどうか。



余談だが、最近では運不運という不確かな所に憤りを寄せるのもなんだかなと思い始め、

しかしたら女物を匂わせる物であれば返って来てたのではないかと思ったり、多分住んでいる所の治安が悪いから仕方ないな…と諦めるように考えたりもしている。

そう考えると前者であれば自尊心なんかより下心に対する期待こそが人を動かすんだな…!エロってすげー!

2015-03-20

検証:「艦これを描けば閲覧数が増える!」のは本当なのか

昨今何かと話題になっているブラウザゲーム艦隊これくしょん艦これ~」

このコンテンツの大きな特徴として、ゲーム本編の人気に加え、ファン活動の一環である二次創作が非常に盛んであることが挙げられる。

そのような二次創作活動の中でも、最も手軽に、かつ大勢の人に楽しまれているのがゲームキャラクターの絵を描く行為すなわちファンアート活動だ。

当然、二次創作活動の盛んな艦これでもファンアート活動はその中核を占めており、お絵かき投稿サイト大手pixivでは、毎週約4000枚の艦これファンアート投稿され続けている。


そんな中で、インターネット掲示板などでよく目にするフレーズ艦これを描けば自分の絵の閲覧数が増える!」だ。

ファンアート活動を行っている人が多く集まる掲示板などでアドバイスとして書き込まれることも多く、自然に受け入れられているフレーズだと言っても差し支えない。

しかし、その一方で「艦これを描いても大して閲覧数は増えなかった」という声が聞かれるのもまた事実だ。

果たしてこのフレーズは正しいのだろうか?

今回はこのファンアート活動に焦点を絞って、具体的な数字をもとにその検証を進めていきたい。

艦これを描けば閲覧数が増える?

実際にファンアート活動を行っている人だけに限らず、絵を描いている人間(俗に絵師絵描きなどと言われている人間)というのは、大なり小なり自分の絵をもっと多くの人に見てもらいたい!という欲求を持っているものだ。

どうすれば今よりも多くの人に自分の絵を見てもらえるようになるのか ―― せめて、目に触れる機会だけでも増やせないか ――

そう考えた時、人気コンテンツの絵を描けばより多くの人の目に留まるのではないか考える人もいるだろう。

艦これを描けば閲覧数が増える!」という理屈は、要するにファンの母数の多いコンテンツの絵を描けば、その人数に比例して自分の絵を閲覧する絶対数も増えるだろうという心理に基づいているのである


なるほど、すなわちこれは自分の絵を見てもらうために人気コンテンツを利用するという心理に他ならない。

動機が不純だ!」などと批判の声が上がることもあるかもしれない。

しかしながらこれもれっきとしたファンアート活動であることには変わらない。

動機その他については現時点では不問として、純粋に結果のみを判断するものとする。


さて、どのような理由であれ、現実に人気コンテンツたる艦これファンアートを描いた人も多いことだろう。

実際に普段描いている絵よりも艦これの絵の方が閲覧数が多かった人もいることだろう。

その一方で、ほとんど変わらなかった、あるいは逆に減ってしまったという人も意外と多いのではないだろうか。

もちろん、それは自分作風艦これと合っていなかったり、描き慣れていないために普段の絵よりも仕上がりが雑になってしまったり、投稿した時間が悪かったり、偶然だったりしたのかもしれない。

しかし、本当にそれだけなのだろうか?

本当に、たまたまあなただけに起こった現象なのだろうか?

pixivを使った検証:前提条件の提示

では実際に検証を行ってみよう。

ここでは艦これを描けば閲覧数が増える」艦これの絵一枚当たりの平均閲覧数は他のジャンルの絵のそれよりも多い」と言い換えて検証を進めていく。

これは「もし人気コンテンツの絵が他のコンテンツの絵よりも多く閲覧されている(俗に言う「ジャンル補正がかかる」)のであれば、そのジャンルの絵の閲覧数は平均的に増加する」という仮定にもとづいている。

もし閲覧数が平均的に増加しておらず、特定の絵に偏って閲覧数が増加している結果そのジャンルの総閲覧数が増えているのであれば、それは特定の絵もしくは絵師の人気に依存していると判断すべきである


検証には、先述のpixivを利用した。

これはまず第一に「絵の総投稿数が桁違いに多く、検証にあたって母数に依存する統計的な誤差が小さくなる」ことに加え、特定ジャンルの絵だけを選抜できる"タグ機能"が存在する」ため、集計がしやすいためである


また、検証対象閲覧数のみとした。

これは、ブックマークや点数と言ったpixivの他の機能は、多分にその絵の評価を主目的としたもので、目に触れる機会が増えるという検証趣旨とは些か目的が異なり、指標として疑問であるからである


なお、比較対象には艦これ」「東方」「ラブライブを用いた。

これらのジャンルは全て人気が高くて絵の投稿数も多いため、先述の統計誤差の観点から互いに比較可能な巨大ジャンルとしてふさわしいと判断したためである

また、後の検証引用する資料にこれらのデータが含まれていて、論理を構築する上で有用だったことも付け加えておく。


では、実際の検証に移ろう。

艦これ」「東方」「ラブライブ」の投稿数、閲覧数の検証

まず、上記3ジャンル2015/3/7~3/13期間の投稿を示す。

 ・艦これ:5,118

 ・東方:4,186

 ・ラブライブ996

であり、「艦これ東方ラブライブ」という結果となっている。


次に、この期間の総閲覧数

 ・艦これ:14,992,052

 ・東方:15,510,524

 ・ラブライブ:2,855,930

であり、「東方艦これラブライブ」となっている。


では、一枚当たりの平均閲覧数を求めてみよう。

[期間中の一枚当たりの平均閲覧数]=[期間中の総閲覧数]÷[期間中の総投稿数]であるため

 ・艦これ:2,929.279

 ・東方:3,705.333

 ・ラブライブ:2,867.400

となる。


結果から分かる通り、投稿数ではラブライブよりも一桁も多い艦これだが、平均閲覧数ではほとんど僅差まで縮まっているのだ。

これは衝撃的な結果である

もし、先述の「ジャンル補正」というものを「平均閲覧数における、あるジャンルと別ジャンル相対的な差」と定義して数値で表すとすれば、艦これ」のジャンル補正は高々「[ラブライブ]+61.879」しかないことになる。

言い換えれば、艦これ」の絵は総投稿数で大きく劣る「ラブライブ」の絵よりも平均して約62人の人に多く見てもらえていると言える。

(逆に、艦これを描いていた人がラブライブを描くと、平均62人の閲覧者を失う、とも言える)

規模に対して62人を多いととるか少ないととるか、その判断は数値からではできないため、個人の主観に任せるものとする。


この結果から導き出された重要な知見は特定ジャンルの規模や人気は、必ずしもそれを構成する個の要素に平均的に影響を与えるものではない」ということだ。

言い換えればそれは巨大ジャンルの中に個が埋もれるということに他ならない。

艦これを描けば閲覧数が増える!」というのは、ある相対的な数値の中では確かに間違ってはいなかった。

しかしながらその影響力は、おそらくほとんどの絵師が期待していた効果よりも小さかったのではないだろうか。

「ファンが多ければ多いほど、自分の絵が人の目に触れる確率は増える」という直感的に正しいと思える理屈は、実際にはただのパラドックスであったということにすぎない。


艦これの知名度を利用しようとして、その実艦これの人気を盛り上げるための水増し ―― 賑やかしとして利用されていたというのが事実であろう。


「人気ジャンル補正」の存在とその限界

先の検証から、人気ジャンル補正存在は一応確認されたものの、その限界が意外と低い位置に存在していることも理解していただけたであろう。

しかし、もう一度先ほどの結論を思い出してほしい。


特定ジャンルの規模や人気は、必ずしもそれを構成する個の要素に"平均的に"影響を与えるものではない」


まり偏った影響を与えることは起こり得るである


では、ここでその検証を行っていきたい。

以下に、pixiv投稿された「艦これ」「東方」「ラブライブ」の絵の閲覧数の中央値平均値標準偏差引用する。

引用元:「「艦これデータ分析合同誌 統計これくしょん」;サークルでいひま, 2014/8/17, 800円+税:ありらいおん提督集計分)

尚、困難な集計を完遂し、同人界隈の人気分析を扱う同人統計分野の確立に多大なる尽力を賜れたありらいおん氏にこの場を借りて敬意を表する。


 ・艦これ:[中央値:529, 平均値:2798, 標準偏差:8692]

 ・東方:[同192, 1057, 3433]

 ・ラブライブ:[320, 1510, 4450]


ここで注目してほしいのは、標準偏差の値である

標準偏差と言われると何やら難しく考えがちだが、何もかも全部取っ払って平たく言えばデータの広がりの幅を表すと言っていい。

簡単に言えば標準偏差が大きいほど、閲覧数の多い絵と少ない絵の差が顕著とも言える。


さて、だがこの標準偏差統計をほんの少しかじった人間が見ると明らかにおかし

正規分布場合標準偏差とは平均値前後合わせて約68%の値が存在する範囲であり、例えば「艦これ」を取り出して見ると「平均値:2798, 標準偏差:8692」なので閲覧数が0未満(閲覧数-5894とか)という意味不明な絵が存在することになってしまう。

もちろんそんなことはなく、単に閲覧数は正規分布に従わないということだが、これはどういうことを意味しているのだろうか。

答えは単純、ほとんど閲覧されない絵が大量にある一方、非常に多く閲覧される絵も多くあり、その中間のそこそこ閲覧される絵というものは非常に少ないということである

直感的な説明をすると、閲覧数1の絵10,000枚と閲覧数10,000の絵が100枚存在していて、その中間の閲覧数5,000くらいの絵がほとんど存在していないと、このような一見意味不明標準偏差が出てくることになるのだ。

まり閲覧数において、格差二極化がきわめて激しいということができる。


閲覧数を稼ぐ目的艦これの絵を描いたが、実際には閲覧数が増えるのは人気の絵師ばかりで、むしろ閲覧数が人気絵師に吸い取られて格差が広がっているのだ。


なるほど、理屈は分かった。

けれども人気の絵師の絵が伸びるのは当然だ、自分の絵がイマイチ見てもらえないのは仕方ない。

自分も当の人気の絵師も、艦これが好きで描いていて、その上でこれだけの差が出てしまうのならば納得できることだろう。

しかし、もしその人気絵師実は大して艦これに興味なんてなく、ただ閲覧数を伸ばしたいだけがために艦これを描いているとしたら?

やはり「好きなものを描くのが一番」

ここで問題となるのが、売名のためだけに人気ジャンル渡り歩く絵師(いわゆるゴロ絵師存在だ。

やつらは人気の高いコンテンツを見つけると、まるでハイエナのように群がって目を引く絵を投げ捨てていき、本来純粋にそのコンテンツを好きな絵師が描いている絵に振り分けられるはずだった目を、閲覧数という形で奪い取っていく、いわば禿鷹の成れの果てである


大して閲覧数が伸びないのは分かっていても艦これが好きで絵を描いていたのに、そのなけなしの閲覧数さえ荒らし紛いのイナゴ野郎どもに奪われていく。

こんな不当な行為が許されるだろうか。

ゴロ絵師レゾンデートルとは純粋に売名ただそれだけであり、心から艦これを愛してファンアート活動を行っている清き艦これファンにとってはまさにクソ未満の忌むべきサイコパス野郎であり、その存在自体が神に許されるはずもなく、地獄の炎の中に投げ込まれてあらゆる艦これファン活動から排除され尽くされなければならない。


先に私は「例え動機が不純であっても、ファンアート活動には他ならず、問題としない」という旨を述べていたと思う。

しかしながら、ゴロ絵師活動本質的にファン活動ではなく、単なる破壊活動しかない

直近の出来事を見よ、どこぞの魚介類が見事に艦これワンドロを跡形もなく消し飛ばしていって、本人たちはのうのうとまだ別の場所で絵を描いているではないか!


 ・艦これを描いても閲覧数は伸びない

 ・艦これジャンル補正が働いて閲覧数が伸びるのは最初から何を描いても伸びる売名絵師ばかりである


やはり、自分の好きなものを描くのが、一番良いことなのだ。

2015-03-17

日本若者の「満足」の定義について

http://b.hatena.ne.jp/entry/www.landerblue.co.jp/blog/?p=18467

元のブログ大事な部分が省略されて(あるいは意図的に見過ごされて)書かれている。

第2部のデータだけを見るとかなり衝撃的だ。ただ、その後の第3部では、単に「日本若者は不幸だ!」というだけではない分析が加えられていて、興味深い。(日本若者幸福であるといいたいわけではない、もちろん。)

第3部から気になったところを引用する。

http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/thinking/h25/pdf_index.html

外国に比べ日本青少年自尊感情が低いことが問題視されることが多い(古荘,2009)。今回の調査結果においても、自尊感情と関連すると思われる「自分への満足感(「私は、自分自身に満足している」)」をみると、他国平均値が 3.00 前後であるのに対し、日本平均値は 2.31 と際だって低い値を示している。

このような結果を見ると、「日本青年は良くない状態にあるのではないか」と評価したくなるが、果たしてこのような評価妥当だろうか。というのも、「自分への満足度」が低いということは、必ずしも「悪いこと」とは限らない場合もあるからである。(中略)文化によっては、「控えめ」に自己をとらえることが美徳とされる場合もありえる。

日本青年は、ドイツフランススウェーデンに比べると統計的有意に高い値を示したが、韓国アメリカとのあいだには有意な差は見られず、逆にイギリスからみると有意に低いという結果が得られた。つまり自己有用感について、日本青年他国青年に比べて著しく低いとは言えず、アメリカ韓国青年とほぼ同程度であり、イギリス青年と比べると、日本青年のほうが自己有用感が高いことがわかる。したがって、自己有用感という視点から自尊感情をとらえるなら、必ずしも日本青年は、自尊感情が低いとは言えない。

今回の調査日本青年の「自分への満足感」は、他国と比べ際立って低い値であり、日本青年自分に対する満足感が非常に低いことが示された。しかし、その一方で、同様に自尊感情を測定している自己有用感では、ほぼ中間に位置し、他国青年に比べ、特段低い値ではなかった。

こうした結果から改めて、「自分への満足感」について考察を加えるなら、次のようにとらえ直すこともできるのではないだろうか。すなわち、「日本青年は『自分への満足感』は低いが、それは自己有用感との関連で考えられた上での結果である。それに対してアメリカイギリス青年の「自分への満足感」は非常に高いが、それは自分が役に立つ存在であるといった自己有用感とは別次元で考えられた結果である」と。つまり日本青年の満足感の低さは、自己有用性に関する判断と関連した上での自己評価であり、他国青年とは異なる基準でとらえられた結果である可能性が考えられるのである

以上のことから、今回の調査他国青年との比較で明らかになった日本青年自尊感情の特徴とは、長所や主張性といった個人の特性と関連しながらも、他者にとって自分は役立つ存在であるかという有用性と分かち難く結びついたものであるという点で、他国青年にみられない特徴をもつものであったといえるだろう。このようにとらえるなら、日本青年のみならず、それぞれの国において固有の青年自尊感情のあり方というのが存在するのかもしれない。したがって、「自分への満足感」、あるいは自尊感情というものは単純に高い低いという視点から評価するだけでなく、どのような構造(関連性)をもったものであるのかという視点からもとらえる必要があると考えられる。

日本若者は単に「幸せ」とか「満足」と定義するものが少し他国と違うのかもしれない。

個人的印象では「自分に満足」は結構ハードルが高いけど、英語の satisfied with はそこまで強い意味でもないように思う。

もちろん、日本若者けが本当に極端に不幸であるという可能性もある。いずれにしても、単におおまかな数値を比較して不幸だというより、こういった違いを踏まえて考えたほうがより的確な施策につながるのではないか、と思う。

2015-03-12

http://anond.hatelabo.jp/20150312094033

主語の大きい主張は、常識的な処理として、その主語サイズに合わせて一般論として処理されるケースが多いため、

(たとえば、「日本人金持ちである」という主張は概ねその主語サイズから一般論として処理されるので、「日本人でありかつ貧乏人」という例外提示したとしても命題否定されない)

その文中に「すべての○○」と書かれている等、例外存在しないことを前提とした主張でない限り、

主語が大きい」という指摘が用をなすことは、まずない。


おおよそ「主語が大きい」という主張で論破したつもりになっている人は、ただの気のせいだと思ったほうがいい。

(「主語が大きい」に比べれば、ブーメランのほうがはるか有用な指摘だ)

2015-03-11

藤田「死を贈与した」直哉氏(@naoya_fujita)による3.11追悼式への疑義

かつてある作家をめぐる言説に対する批判への反論で「かの作家は死を贈与した!(ドヤァ」と発言し諸方面から人間性を疑われた藤田直哉氏が、2015年3月11日Twitter上で3.11追悼式に対する疑義を唱えはじめた。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575529749969289217

2万人近くの死、というのも、よくわからない。交通事故であれなんであれ、人が死ぬのは哀しいだろう。しかし、知らない二万人よりも、家族とか親しい一人の死の方がつらくないかね。これは、俺が非人間的な感性からなんだろうか。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575530332390297600

集団の死を、集団慰霊するということの意義が、リアリティを持った形で想像できないというか、それは一体どういうことなのか? っていう本質が未だにわからない。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575531644360204288

親しい人を喪った人の気持ちを想像する。これはわかる。それが数万人分。これ、脳の容量超える。そして、普段、その辺でやっている知らん人の葬式にもそう感じなきゃならんのか、でも現にそう生きていない。では、日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞやってのが、わからなくなる。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575533582023786496

なあにが、黙祷じゃ、バカタレ、黙祷を字で書いてインターネットに垂れ流す自己顕示欲の塊どもが。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575534421018804225

別に個々人が死んだタイミングは、この一分ではあるまいに。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575535179709739009

死んだ人間黙祷を捧げるのに、何故、加害者である地震の側のタイミングに皆が合わせなければならないのか。納得ならん。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575538080834318336

ちゃんと書くか。災害や死者を名目に、個別の生を生きていて、それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられるのが、ぼくには不愉快

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575543420544020480

@seiichitsuchiya私は、「何故黙祷罵倒する必要があるのか」に対し、14:46を黙祷時間と定め、一斉に行うという行為に、国家共同体意識形成問題を感じたからだ、と理由を説明しております

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575553783884873728

いや、死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ?それに対する追悼の意図だとすると、地震発生の時間代表させることについてどう考えてるのか、純粋にわかんないのよ。儀式から、決まってるから、という理屈はわかる。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575556640000315392

それだったらずっと黙祷するのかという意見が来てるけど、本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの。年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないからなわけでさ。その上で、儀式には有用性があるんだろうけど。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575573893911560192

なぜ、黙祷時間地震発生の14:46からになったのか。説1、誰かが決めた。説2、勝手に決まった。2なら、皆がそれに従いながらも理由を説明してくれないのが、単純に不思議(外国人が、儀式に疑問を素朴に持つ感じを想像してください)

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575584772249931776

で、説1で、合理的に説明がつきそうなのは、「一回で済んで、みんなで一斉にできて、異論が出なさそうな時が地震発生時だから」。これは納得いくんだけど、なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575598071440019456

死者がどう思うか考えろとか、言われるけど、死者は何も思わないし、感じないでしょう。そうではないという宗教観があるのは知っているし、死んでみないと分からないんだけれど、ぼくはその前提で話をしている。その上で「死者」をどう捉えるかがこの社会に及ぼす影響のことを考えてる。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599212928241664

死後の生があると信じたい遺族の方の気持ちもわかる。幽霊的な存在感覚を持ってしまう人たちの気持ちもわかる。ぼくの発言が、その人たちを傷つけている、と言われれば、そのこともよくわかる。しかし、死者は、「本当には」傷つかないし、冒涜されたとも思わないだろう。生者がそう感じるだけで。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599516314796032

土屋さんのツイートを見て、不安になってきた。これって、死者が「本当に」感じたり、考えたりする前提の話だったの? そうではなくて、遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意っていう話じゃなくて?

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575600381717180417

から儀式が、生者の世界でどのような機能果たしているのかを考えたうえで、「いるのか?」ってぼくは問うているんだけれど。まぁ、ぼくの儀式嫌いは元々で、まぁ、形式的儀式根拠なく反復することそのもの生理的に嫌ってのはある。なんか、心が籠もってない感じがするし、形式そのもので。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575601520592318464

福田恆存なんかは、例えば葬式は、別に、心なんかなくたって、その形式を演じること自体意味があるんだ、周りが「死を悲しむ演技をする」ことが重要なんだというんだけど(「民衆の生きかた」)。むしろ個人的感情は抑える方がいいなんて書いてあって。その形式こそが「感情真実性」を保証する、と

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602024709910528

俺はそうは思わないが、まぁ、どうも、儀式は「説明できないけど必要」と思っている人が多いようなので、ぼくは少数の、アンチ形式主義の心情主義者として生きて行こうと思いますけど、つまりこれ、「真実感情」が型を必要とすることは、「型」こそが「真実感情」を作るということでもあるよね。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602827705233408

から集団を弔うようなセレモニーがどんな形であるのかには、敏感であってもいいと思うんだけれども。感情セレモニーを生んでるんじゃなくて、セレモニー感情を創り出す効果もあるってわけでしょ? 俺が気に食わないのは、それ。

順番に整理していきたいが、明確に断言できるのは、藤田氏の想像力のなさと狭量さである

藤田氏は、3月11日14時46分に追悼をおこなうことについて、「それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられる」「なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする」ものであり、そこには「国家共同体意識形成問題」が孕んでおり、「遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意」すべきだと疑義を表明している。

……え? 藤田氏って追悼式が政治家政治的に利用するためにおこなうものだと本気で思ってるの? マジで? そう思った根拠ってなんなの?

「追悼式を決まった時間におこなうことで追悼感情統一的に形成される」という仕組みが、国家国民感情を統制するときのそれと同じものであるというのは真っ当な指摘なんだけど、それは理屈しかないでしょ? たとえば、あくまでたとえばだけど「3.11を忘れないために、今後は○○の政策を~」みたいなことを言い出したのなら別だけど、藤田氏はそういう具体例あげてないよね? 追悼という行為儀式性と政治性を混同してない? 

……とまあ、藤田氏の言動からは「追悼式は政治家政治に利用するための欺瞞的なものだ!」という副音声が聞こえてくるのだが、あれこれ言葉を駆使しているようにみえてその根拠は一切ない。藤田氏の完全な妄想である根拠がないという意味で)。

また、14時46分に追悼をおこなうことを「死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ」と批判しているが、そもそも「死者が死んだ時間ぴったりに死者を悼まなければならない」という規範があるわけでもないのだから、14時46分に死者を悼む行為が「本当に思って」いないと判断する根拠がない。その理屈なら、「いつ追悼してもその感情は本物である」という理屈だって成り立つはずだ。

その他、「日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞや」「本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの」「年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないから」「死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い」と言っているが、これもよく読むと藤田自身バイアスが満載である

3.11追悼式で生まれる追悼感情は嘘である」という視点には、「感情には嘘の感情と本当の感情の二つがある」という先入観存在する。感情に嘘も本当もないでしょう、とこの増田を書いている私なんかは思うわけだ。よしんば、それが追悼式がなければ生まれなかったものであったとしても、おこなわれたことで生まれ感情は実際にそのひとのなかにある感情である

ここまではまだよい。藤田氏は元から作家の死を贈与したなんてぬけぬけと言い出すわ、自分が言い出した伊藤計劃以後論に批判が飛んできたら反論を書くのではなく「じゃあお前が考えろよ」とかTwitterでくだを巻き出すわ批評家としては全く能力のない人間であるが、そのことに藤田氏に責任はない。人間能力には限界があるのだ。

だが、上記のようなバイアス藤田氏が無自覚ななか他人攻撃し始めるのなら話は別だ。

なあにが、黙祷じゃ、バカタレ、黙祷を字で書いてインターネットに垂れ流す自己顕示欲の塊どもが。

追悼式が追悼感情を惹起する機能があるとして、そこにある感情が偽物であると断言することの暴力性を藤田氏は考えなかったのだろうか。

そして、その暴力を振るう対象である今日14時46分に追悼の念を掲げる人間のなかに、被災者遺族が、知人や友人、家族を失った人間がいる可能性を想像できなかったのだろうか。

藤田氏は、「今日14時46分に黙祷をした(あるいはツイートした)人間」全員に対して「バカタレ」と言ったのである

これは、生者に対する冒涜である

藤田氏は、藤田氏のなかにあるバイアス無自覚のまま、藤田氏の主観的判断による「偽物の感情」を持った人間を「バカタレ」と罵る、想像力が欠如した狭量な人間である(それ故個人的には絶対に関わりたくないので増田に書かせてもらった次第だ)。

でまあ、もしこれが藤田氏に届いたとしてもあいつは「そんなことは言ってない! 被災者遺族のことを侮辱する意図はなかった!」とか言い出すに決まってるんだけど、意図があろうとなかろうと文言だけ読めばそうなるんだよ。てめえ批評家自称しておきながらそんなこともわかんねえのか。主語大きくすんなって批評家でもない俺だって何かを主張するときの基礎だって知ってるよ。そんなこともわかんねえからてめえは批評家としてクソだって言ってんだ。

いやー、「死を贈与した!」とか言っちゃうひとは本当に他人感情にみじんも興味ないんだなーってのがわかって大変ありがたいです。藤田氏は本当にクソだ。ありがとう藤田氏。おまえは二度と信用しない。

あとさ、地震を「加害者」って言っちゃうのはちょっと……いや、まあ、物事擬人化して理屈づけようとするのは悪い事じゃないか……うん、別にいいと思うよ。ひとそれぞれだしね。

2015-03-05

http://anond.hatelabo.jp/20150305003445

pythonワンライナー的な用途からサーバサイドスクリプトGUIアプリ、各種アプリマクロ用途が幅広いのがメリットから言語だけ弄ってても有用性は分かりにくいし、自分日常作業に関わって無いなら覚えても有効活用は難しいかもね。

2015-03-04

男性の生きづらさと女性の生きづらさについて

とかくこの世は生きづらいと漱石が書いてからもう幾年が経ったのか、数える気にもならないから全く知らないし、単なる話の枕に過ぎないからどうでもいいんだけど、どうも今の世はもっと生きづらくなってきているようだ。

様々な問題が山積みだし、聞いたこともない問題が次々に産まれては解決されないまま消えていく。じゃあ解決しなくていいんだ、って感じでほっといてるとリーマンショックやら原発爆発なんかでツケが回ってくる。もぐらたたきはメタファーとしていつも非常に有用だ。

僕は政治家でも経済学者でもないから、それらの問題には何も言えないけど、よくネットで話題になる男性女性という二つの性の問での生きづらさという問題には何かが言えそうな気がしてこの文章を書いている。ネットでこういった類の文章がよく書かれるのも似たような理由だ。(大体の人は男か女だから一端の口を聞ける。)

この、男性女性の間での問題というのも、今まさに解決しないでいたツケが少子化雇用問題という形で噴出してきているところだ。全く無関係に見えるところにまで飛び火してもいるだろう。

僕がこの問題について今まさに書いているのは、さっき言ったように僕がこの問題について何かを言えそうというのもあるが、この問題が今の日本社会の最も大きな問題で、これを解決すれば今の日本殆ど問題は解決すると思っているからだ。

これまでの日本

これまでの日本では、男性女性を抑圧してきた。日本の「社会」というのは男のもので、女は付随物に過ぎなかった。だから社会的成功した男には女がついてきたし、逆に社会的成功してない男には殆ど女が寄り付かなかった。女は対異性的成功していれば嫁として社会的成功することができ、それ以外で生きる道は存在しなかった。

からこれまでの日本での性差問題というのは、社会的成功をできない、もしくは興味がない男と、対異性的には成功できない、もしくは興味が無い女のものだった。彼らは「社会から疎外されていたのだ。

しかし、女性が抑圧から解放され始めたことで問題が全体に波及する。

女が「社会」の付随物ではなくなったために、社会的成功しているにも関わらず女を手に入れられない男が増え、反対に、対異性的には成功しているもの社会的には成功できない女も出た。

これまでは男は社会的に、女は対異性的成功していればよかったのだが、両性ともに社会的にも対異性的にも成功を果たさなければならなくなったのだ。

それによって負担が増えたように感じる、対異性的成功していない男は女性解放を訴える女達に怨嗟の声を上げ、社会的成功していない女は社会的成功約束しなくなったふがいない男達に対して罵りの声を浴びせる。

現代日本

現状、男性女性も、どう生きていても非難を避ける事は出来ない。

たとえ対異性的成功しようと社会的成功をしていない男はクズだし、両方で成功果たしていてもリア充と言って叩かれる。

たとえ対異性的成功しようと社会的成功をしていない女はビッチだし、両方で成功果たしていてもリア充と言って叩かれる。

では、女性解放が更に進めば事態は更に悪化するのだろうか?

勿論そうではない。

かつてアメリカ黒人解放の声を上げた時最も人種間の争いが激しくなったように、今は過渡期に居るだけだ。

将来の日本

将来、女性が完全に解放された時、本当にそんな時が来るのかはわからないが、その時は性別の間の争いはなくなるだろう。誰もそれを意識しないからだ。

仮にその時が来ず、人種差別のように、女性差別社会通奏低音のように流れ続けたとしても、解放が進めば進むほど事態はよくなる。

対異性的に認められることと社会的成功イコールになる時代になるからだ。

女性社会の一員になるということはそういうことだ。

主夫が認められつつ有るように、女性解放というのは、男性の中の女性性の解放でもあるのだ。

まとめ

漱石小説もこの問題について書いている。彼の小説日本エリート西欧流行っている恋愛というものをしてみんとしたものの集積だ。社会的にはエリートなんだけど恋愛的、対女性的には坊っちゃんで、結局それは上手くいかないまま終わった。村上春樹がその後を継いで成功しようとしている、とか言われてる。

2015-02-23

http://anond.hatelabo.jp/20150223000817

増田有用情報を書き込もうと思うからダメなんだよ。

リアルで出せない裏の顔を書きなよ。

その方が絶対面白いから

リアル人間関係も円滑になるぞ。

王様の耳はロバの耳ってやつだな。

2015-02-21

運転席の後ろに隠れる男子学生

とある理由から、私は地方田舎私立大学に編入してぼっちになって浮きました。

その大学は車で通学できるのでいつも車で私は通っていました。

ぼっちになってから友達ができない理由より過去問入手不可のため、精一杯自力勉強しある年に賞をもらいました。

すると急にある男子学生が私によく声をかけてくるようになったのです。

過去問をもっているので、よければコピーさせてあげるよ」

「なにか情報が入ったら教えてあげる」

と親切にも言ってくれるので、わたしも過去問があるならやりやすいかなと思いつつ見せてもらうことが2回ほどありました。

特に親しいわけではありませんが、試験時期になるとよく声をかけてくるので恐縮しつつコピーさせてもらうことをしていました。

それが1年ほど続き、たまにメール学内試験情報連絡を交わしている状態が続きました。

私がぼっちなのは相変わらずです。

ところが、ある夏の日に思案していたことが明確に起こりました。

編入2年後に、私はある難病にかかって通院しながら大学にかよう日々をすごしていたのですが、出席日数はぎりぎりになった状態になりました。

そして、ある実習中に継続して立っていられず倒れてしまったり、早退したりという日々が続いたのです。

服薬すればなんとかたてるので我慢しながら、出席していたのですが、前年度に学内で成績優秀賞のある賞を受賞していたこともあり、周りの人たちがとても中傷したりいやがらせをはじめてきました。

気にすることなく、気丈にふるまいがんばっていたのですが、いじめ(班実習で私にだけ材料を渡さない。物品を潰してくる。ノートを捨てられる)なども耐えて単位のために頑張っていきました。

もともとぼっちではありましたが、いじめや噂話、病気をもっていることの差別中傷が顕著になり、私はかなり学内で浮いてしまいました。

ですから、私と一緒にいる人はみんな私と同類になると周りから判断されてしまうことになるのです。

私は、みんなの前を通行しただけで鼻で笑われたりクスクス笑われるような存在でした。

そんな折、ある夏期試験試験問題についてコピーをさせてくれるとかいうあの男子学生はとても私の予想どうりの行動をしました。

彼は、私に話しかけるときは人のいる学内では堂々と話しかけてはきません。

こそっと誰にもわからないように話しかけてきて味方のような小声をこぼしてきます

過去問を手渡しするときも、学内でぜったい人のいないとこを指定してきます。(病気のこともあり、あまり冷房のない暑い物置小屋や隣町のコンビニまではタクシーで取りに行ったり等会うのが

だんだん苦痛になったので、このあたりでもう連絡を取り合うのをやめたほうが良かったのかもしれません。何度もそう思いましたが、過去問資料めあてに応じてしまった私も精神的にかなり弱っていたと思います。実際、貰う資料はあまり有用ものでなかったので、独学で良かったのは後から感じた印象でしたが・・・交友関係のないぼっちにはそれがわからなかったのです)

彼は資料を渡すとき、彼自身の友人にすら気取られてはいけない細心の注意を払います

私はぼんやりと、精神的にも当時はボロボロだったのでやさしい言葉や気配りに「配慮してくれてるんだな」と勘違いしていました。

しかし結局はそれは彼自身いじめターゲットにならないようにするための手段だったのでした。

ある夏の日、炎天下駐車場の車内でコピーさせてもらう資料情報を教えてもらっていました。

その時、学生が数人駐車場を歩いていくのが見えました。

おそらく、学内で私も見知った顔の人たちで、彼の知り合いだと思います

エンジンをかけてフロントガラスにサンシェード銀色のやつ)をかけたままクーラー全開にしてるけど、私は運転席に座ったまま見つかることはないだろうと思い、資料を目にしていました。

(当時、たまに具合が悪くてよく駐車場クーラーをかけて休憩していたことの多い私だったので)

しかしその時、彼は私のうしろの席で縮こまっていったのです。慌ててひっくりかえった声でやばいやばい愚痴っていきました。

「見つかるからあいつすごく言いふらす奴なんだ!言いふらされる!」

焦った様子で、後ろに置いていた予備のサンシェードや雨よけのレインコート(私が後部座席においていたもの)を頭からぶって20分くらい彼は身を隠していったのです。

私は、見つかるから、言いふらされるっていう被害めいた言葉にドキンっとしました。

胸が痛くなったのです。

私と一緒にいることで自分被害を受けるんだっていう彼の本心がうしろの席から聞こえてきて目に涙が滲んで行きました。

20分後、駐車場男子学生らが車にのっていなくなったあと、うしろの席の彼は汗まみれになりながらため息をついて安心した様子で起き上がってきました。

私はその間、すごく悲しくて不愉快でした。

しか過去問情報資料を教えてくれるのは助かるけど、逆にわたしもまとめた学内試験ノートやまとめ表を作成し、彼に提供していたのです。

そのまとめ表を複写して周りの人にもこっそり配ってるんだって彼は言ってたことも耳にしていたので、私のノートがみんなに役立ってくれてるんだなって密かに嬉しく思っていたのはたしかです。

(でも、周りはあいかわらず私を中傷したりクスクス笑っていたのでこの辺で私自身の精神ある意味、それ以上考えないよう麻痺していたようです)

からこっそりと、人目をはばかるほうがよいかなと思い、こうして会っていたのですが、これほどまで身近で私と一緒にいるのを人に知られることに恐怖する彼の行動に気分が悪くなりました。

特に好きでもない相手なので思わせぶりな対応をどこかでしてしまったのかもしれないけど、私と一緒にいることをこんなに嫌がられるのを目の当たりにして、涙がとまりませんでした。

運転席からホッとした顔で、冷や汗を垂らしながら「またね」っていうかれに、私は涙を拭って笑顔「ありがとう」って言って帰宅しました。

以後、私は彼とは連絡を立ちました。

病気治療の方に専念し、きちんと出席して単位をとることのほうを選択したからです。

そののち、寛解したあと進級テストで私は合格、彼は留年

私は卒業後、就職先でなんとかうまくやれています

友人も恋人もできて楽しい日々が始まりました。

風の便りで彼はまだ卒業していないそうです。

けれど・・・たまに、当時のあの彼の態度からショックを受けた日々をこうして思い起こしてしまます

いじめ中傷されてたり、ぼっちになっている人と一緒にいることを、周りに知られることをとても恐怖する人は確かにいました。

狭い団体とはこんなものだと今はわりきっていますが、当時の記憶は今でも苦しいです。

いまの友人たちや恋人にも私と一緒にいることをすごく嫌なんじゃないのかって不安になる時もありますが、やはり当時の行動が奇特すぎる環境なんだったんだなって思えるようにしたいです。

高校までいじめ経験したことなかったので、大学で本当に戸惑い辛い思い出ばかりの日々となりましたが、みなさんはいじめられたことはありますか?

そういうとき優しい言葉をかけてくれる人をどうやったら信じれましたか

私は今でも、大学時代のあの環境でのかけひきの残酷さにときどき思い出しては苦しんでしまます

2015-02-19

「成長する考え方」と「成長できない考え方」の違い

http://gigazine.net/news/20140213-fixed-vs-growth-brain/


・・こっから引用・・


「固定された思考態度」は根本に「自分をよく見せたい」という欲求があるため、失敗する可能性がある挑戦を避けたがります

障害にぶつかった時のあきらめも早く、努力は実を結ばないと考えがちです。

批判に対し、例えそれが有用ものであってもネガティブ意見であればフィードバック無視してしまい、他人成功に脅威を感じます

そして自分能力を出し切ることができず、早い段階で能力の伸びが頭打ちの状態へと移行してしまます


一方「成長する思考態度」はまず「学びたい」という欲求から始まるため、挑戦を喜んで受け止め、逆境にぶち当たっても粘り強く堪えます

努力熟達への通過点と考え、批判から学び、他人成功からも学んだりインスピレーションを受けたりするという流れ。

根本にあるのが「学びたい」という考えのため、全てを雪だるま式に吸収し、高い成功レベルへと到達できるというわけです。


・・ここまで引用・・


私はきっと「固定された思考態度」の方の人間

成長したいと思う分野内においては色々見るし吸収するけど

それ以外(つまり全く興味がない分野)にはほんっとうに手を出さな


昔は色々やってみたような気もするけど

成功体験殆どない

基本的自分自身めちゃくちゃ無能人間だと思ってるから


唯一出来る分野、向いてる分野があって

それだけは続けてるんだけど

それはもう始めてやったときから今までずっととにかく「好き」なことだった

自分感覚フィットするというか、これが向いてる、私の才能はこれだっていう感じがずっとある

今でもそう

好きなので続く。

やり続けてると辛いこともあるけど、それすらも楽しいというか


他の興味の持てない分野はやり始めたとき違和感、どうしても楽しいと思えないもやっとした感覚

疎外感、劣等感などが強すぎて続けるに至らない。


まり私の物事に対する尺度って「好き/嫌い」が大きくて

好きなら徹底してやれる

嫌い/興味がないことは出来ない


それって私の中では「いいこと」なんだよ

興味があるものにだけエネルギー注げることって素晴らしいと思うんだけど

視野が狭いって人から助言されてから「そういうことなの?」って疑問を感じだした


それでも現時点だと、好きなこと以外のことに労力割きたいとは全く思えなくて

色々なことに挑戦しない人間は劣っているという考え方にちょっと憂鬱になったりする

2015-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20150217232639

男"だけど"とか卑下する必要なんかないよ

他の人のアドバイス結構有用だと思うし、

なんとか逃げ場を見つけられるといいね

2015-01-31

http://b.hatena.ne.jp/entry/suzukidesu23.hateblo.jp/entry/blogger-hurdle20150131

ものすごい下衆なバカを見つけたんだが、

はてブでバズっても正直、全然利益にはなりません。前にも書きましたがこのブログはてなブックマークからの流入で来てくれる方の1割以上は広告非表示にしています。更にはてなブックマークユーザーネットリテラシーが高いので不要広告クリックしてくれませんし、広告だという事はすぐに見抜く人が多いと言えます

なので、はてなブックマークがついたところで、収益はそんなに出ません。

GunosyテレビCMもやっていてネットリテラシーがそれほど無い層にも浸透しており、それなりに広告クリックしてくれるので、そうなると収益が出てきます

これ、要するに、この下衆がやってることって

有用情報を流して、その中の一環として広告を貼る」

っていう、はてなブログで認められた方法ではなくて、

「儲けるためにバカを騙すように広告を貼る」

ってことだよね?

規約違反じゃね?

高卒の俺が答えてやるよ

http://anond.hatelabo.jp/20150129231744

からでも遅くはないわけだが、大学出ておけば良かったなと思うことがたまにある。単純に就職転職で「大学卒」という肩書が効いてくる場面が多いということがその主な理由だ。俺は今でこそ職能を身に付けることができたから困ることは無いが、選択肢は狭まる。もちろん応募できるだけで採用保証されないけど、「応募できるだけ」の価値は高い。日本大学進学率が10%あたりに下がれば大卒価値は変わってくるかも知れない。ただ、今の進学率では大卒というのはデファクトスタンダードとして機能してるのでその有用性は充分だ。現状では大卒かどうかで生涯賃金の差がかなりあるんだから、数百万程度で大卒資格を買うというのは妥当性があるし、「貧しい家庭の子供は大学進学率が低い。親の貧困教育格差を通して連鎖する!」という主張は正しい。ちきりんの糞記事は何故か大学で得た経験現在職場で活かせていない個々人を責めるような言い方になってるけど、大卒という資格を得ることで初めて就職までのレールに乗った人がほとんどな訳だから別に大学で得たもの現在仕事関係なくても別に構わないだろ。「みんな行かないから行かない」という状況に変えるために攻撃するべきは大卒という資格採用基準にする企業側であって、実際にその資格を利用して就職した人に矛先を向けているのは馬鹿しか言いようがない。ふるい落とされる側が大卒という資格価値を変えられるわけない。

「貧しい家庭の子供は大学進学率が低い。親の貧困教育格差を通して連鎖する!」って主張してる人に「で、あなた大学で学んだことで、今、いちばん役立っていることは何ですか?」って聞いて、何をしたかったんだろう。貧困連鎖しないとでも言ってみたかったのかな?明らかに連鎖する訳だけど。それとも高すぎる進学率に文句が言いたかったのかな?読んでる人はほとんどが大学卒業した人なのに?読者の子どもに大学じゃなくてベンチャー企業に行けって言いたかったのかな?だとしたら議論稚拙すぎるよね。説得力がない。当然、ちきりんは本当は大学で得たもの現在役に立っているかどうかとか、大学へ進む人が少なくなればいいとかはどうでも良くて、単純に炎上しそうな話題炎上しそうな形で提示たかっただけなんだよね。本当に胸クソ悪い。

2015-01-27

http://anond.hatelabo.jp/20150127003906

Qiitaから有用情報がある」って場所じゃ無くなったよね。

Qiitaを直接見ても何も意味が無い。

ってか、GoogleQiitaのページがヒットしたら

Navarを見るような目で「うわぁ」って言って無視する事が多くなったくらい。

http://anond.hatelabo.jp/20150127002752

そういう「馴れ合わなきゃいけないから馴れ合う」というのは、はてな村民が最も嫌う考えだろう。

いいから黙って有用URLブクマしろホッテントリは見るな。

Qiitaで何があったのか

Qiitaで起きたちょっとした騒ぎについて、事情を知らない人たちが混乱しているみたい。

自分が知っている範囲で、何があったのかを書いておくことにする。

登場人物については、具体名を出すと迷惑かと思うのですべて伏せる。

知りたければ調べれば分かると思う。

ちょっと前の話

何ヶ月くらい前だったかQiitaちょっと話題になった投稿があった。

Swiftについての話だったからWWDC2014よりは後の話。

この投稿をしたのが今回の騒ぎの中心人物。名前を言ってはいけないあの人。以下Kとする。

で、何が話題だったかって、ものすごい分量のテキストでそれっぽく書いてあるんだけど内容は(というかタイトルからして)デタラメ

でもものすごい分量でそれっぽく書かれていると信じてしまう人もいるようだった。

コメント欄には正しい指摘をする人もいたんだけど、Kは否定的な指摘(客観的に見て正しい指摘なのだが)を一切認めず、長文デタラメによる反論を繰り返した。

話の通じない相手にいつまでもかまっていても仕方ないので段々そういう人もいなくなっていったし、しばらくしたら鮮度も落ちてその時は一段落した。

最近の話

Kは投稿を続けていた。

内容は関数型言語数学についてのもの

仰々しいタイトルや圧倒的な分量のテキストで、学術的に全く正しくない(あるいは厳密さを欠いて正しさを議論できない)ことが羅列されていた。

でもそのタイトルに惹かれてなのか分量で「よく分からないけど何か凄そう」と思ってしまうのか、Qiitaストック数は結構な数になっていった。

そのうち、「関数型言語」でGoogle検索するとほとんどトップに件の投稿が並ぶようになっていた。

この辺りから、関数型言語を利用している人たちの間で危機感が高まってきたように思う。

ただ、Qiitaには投稿に対して負の評価をつける仕組みがない。

間違った内容に対して、投稿者が訂正を聞き入れない場合にはどうすることもできなかった。

ここ数日の話

まずは、コメントによる指摘が始まった。

でもやはりKは自分の考えが絶対的に正しいものとして譲らず、誹謗中傷を含む反論を返すだけだった。

誹謗中傷は時には無関係の人物にまで及ぶこともあった。

Kだけが悪いように書くのはフェアじゃないので言及しておくと、指摘コメントにも誹謗中傷を含んだものもあって、かなり荒れた感じになった。

さらには最早Qiitaとは一切関係のない、Kの過去の行動についてコメントする悪質なユーザもいた。

そのうちKは投稿を削除した上で同じ内容を再度投稿し、コメントクリアするという行動を繰り返すようになった。

Qiitaの仕組み上、まともな手の打ちようがなくなってしまい、ここからユーザによって様々な抵抗がとられた。

Qiitaを去る

Qiita投稿することで間接的にKに利することを良しとせず、Qiitaの利用を止めるユーザがいた。

この時に残した投稿Qiita運営側によって「技術的内容ではない」ということで限定公開に変更された。

また、Qiita中の人Twitterでこぼした失言(削除済み)に嫌気が差して退会した人もいた。

対抗記事投稿する

コメントでは埒が明かないので、自らKの投稿の内容を検証した記事投稿する動きもあった。

早速Kに捕捉され、コメント欄にまたも長文反論がついていた。

Qiitaに対する皮肉投稿する

Qiitaの、「利用者善意依存した仕組み」のためにKに全く対処ができない状況を批判する記事に、

申し訳程度にコードを貼り付けて「技術的内容」として投稿するユーザもいた。食玩みたいだ。

結末

そうこうしているうちに、Kを擁護する記事(削除済み)が投稿された。

関数型言語について聞き齧った程度のあれこれを書いていたが、Kの影響を受けたとあって概念的な記述に終始し、

到底理解しているようには思えなかった。

「間違った内容を書いてはいけないのか」「指摘する側が正しい記事を書けばいい」「検索上位に来るのはGoogleが悪い」

「Kはあれだけ時間をかけた記事無償提供してくれている」「Kの説明は本質的で分かりやすい」といったのが擁護の主張であった。

正しい指摘をし続けてきた人たちにとっては、こういった初学者への悪影響こそが正に危惧していた状況であった。

この投稿に対してKを含めてコメント応酬が行われている最中、KはQiita運営側によりアカウント凍結という処分を受けることになる。

のしばらく後、アカウント凍結からユーザ資格の停止へと状態が変わっていた。

蛇足

ここからは多分に個人的意見なので、事の顛末が知りたいだけの人は読んでも得るものはない。

結局、最終的にはQiita運営による強制排除で落ち着いたわけだけど、Qiita利用規約を読む限り、禁止行為に該当する理由がないように見えても

運営側判断ユーザ資格の停止でも記事限定公開への変更でも勝手にできるということらしい。

「なにがOKで何がNGなのか明記しろ」という意見も目にしたけど、明確に線引するのは難しいだろうし、この辺りは意見が分かれるとこだろう。

現行の仕組みで、あくまQiita運営側独裁的にOK/NGを決めるやり方が上手く回り続けるかは疑問に思うけれど、とりあえず運営側を信頼して

利用を続けるという判断も悪くはないと思う。

Qiitaに俗に言うポエムやら小節投稿することにも賛否あるようだけど、個人的には今回の騒ぎのような手の付けられないような状況にさえならなければどうでもいい。

ノイズまみれになって有用情報相対的に減少することになったとしても、それはサービス側の選択した道だと思う。

関数型言語界隈は最近注目を集めていることもあって、分かったような気になった人によるなんとなく分かったような気になれるような文章みたいなものを良く目にする。

関数型言語ユーザの端くれとして意見を述べるとすれば、手っ取り早く分かったような気になろうと思っても結局何も分かりはしないので、

良書・良コードを読み、手を動かすことが一番の近道だと思う。

2015-01-24

http://anond.hatelabo.jp/20150124172346

製薬はもうかなり機械学習侵食されてきているのではないか。

実際研究者に会ってみると驚くほど浸透してないよ。

ツール使ってても、それが占めるウェイトは物凄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~く小さい

<追記>

論文ちゃんとは呼んでないけど

DrugtargetPrediction

は確かに機械学習がかなり使えそうな分野だが、

ターゲットが分かったところでその後に膨大な作業が待っているか

そんなことやってない研究者の方が多いよ

もうすでにターゲットとして有用と分かっている分子をどうにかする方が楽

ダイエットするのに運動す勧める人

勧めるどころか運動しないでダイエットすると健康を損なうみたいなことまでいう人いますよね。

あいう間違った考えこダイエットハードルを上げてるんですよね。

単純に「一日の摂取カロリーを2000k以下にする」みたいなことを実行してそれを習慣化すればいいだけす。(数値は人によって違います。念のため)

そりゃ毎日10kmも走ればダイエットになりますけど、そんなの一生続けるつもりのなんですかね。

そのまんま東スポーツマニアで一日10km走らないと物足らないとか言ってましたけど、そういう特殊な人でないと無理ですよね。

何ヶ月かジョギングして、それをやめてしまったらリバウンドでしょ?運動痩せるなんてめちゃくちゃハードル高いです。

ダイエットはなぜか怪しい方法論を信じこんでる人がたくさんいて「運動すると太りにくい体質になる」みたいなことが言われるけど、これだってウソですよね。

基礎代謝をあげてどうこうみたいな話も、ダイエットに影響するほど基礎代謝を上げるなんて現実的でないです。

筋肉だけで体重を5〜10k増やしてそれを維持し続ける覚悟のある人以外は「基礎代謝で太りにくい体質になる」なんて目指さないほうがいいです。

運動を併用しないでダイエットすると不健康だって話もありますね。

しか運動は、健康増進には有用です。

でも、もともと運動してなかった人が、運動なしでダイエットすると健康面でマイナスになるってことはありません。(もちろん運動したらプラスになるけど)

もともと運動なしで太り過ぎの人が、運動なしのダイエットで「適切な」体重になったら、それで不健康になるなんてことはありませんから

もちろん運動をすればプラスの影響があるけど、運動だけのダイエットに頼ってリバウンドしたり、ダイエットに対するハードルを上げるなら「運動なしのダイエット健康マイナスだ」という考えは有害なだけですよね。

2015-01-19

http://anond.hatelabo.jp/20150119172447

障害は後天的ものもあり得るし、障害者立場考慮(これは心情的なものではなく利益的な面でも)する必要性において有用だと思うけどな

きついこと言うけどもしかして君は人の気持ちを考える能力が欠如してるのかな?

自身も障害を疑った方がいいかもね

2015-01-18

http://anond.hatelabo.jp/20150118225130

これまでの(今も)日本男尊女卑構造も大概にして酷いし、女性男性のことは根本的には分からないものから女性糾弾するっていうのは個人的には出来ない。

ただ、自らの男性性について自信満々なオヤジ層に対して放つフェミの流れ弾が非モテ層にグサグサ刺さってるのはマジで勘弁して欲しい(今回の岡田事件でも分かるようにオヤジは無傷)。

あと、上野千鶴子男性性について考える上でも有用な著作を残しているので、ちきりんと一緒にはして欲しくないな。

2015-01-08

http://anond.hatelabo.jp/20150108132032

100万人にとって無用記事でも、たった10人でも有用に思ったら、10個のスターが付くんだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20150108123718

は?

そもそもユーザー同士で有用記事を紹介しあうWebサービスだろ?

有用記事を探してきてくれたブクマカを評価するのは当然だろうが。

コメントでの馴れ合いしか考えてない新参は黙ってろよ。

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