とかくこの世は生きづらいと漱石が書いてからもう幾年が経ったのか、数える気にもならないから全く知らないし、単なる話の枕に過ぎないからどうでもいいんだけど、どうも今の世はもっと生きづらくなってきているようだ。
様々な問題が山積みだし、聞いたこともない問題が次々に産まれては解決されないまま消えていく。じゃあ解決しなくていいんだ、って感じでほっといてるとリーマンショックやら原発爆発なんかでツケが回ってくる。もぐらたたきはメタファーとしていつも非常に有用だ。
僕は政治家でも経済学者でもないから、それらの問題には何も言えないけど、よくネットで話題になる男性と女性という二つの性の問での生きづらさという問題には何かが言えそうな気がしてこの文章を書いている。ネットでこういった類の文章がよく書かれるのも似たような理由だ。(大体の人は男か女だから一端の口を聞ける。)
この、男性と女性の間での問題というのも、今まさに解決しないでいたツケが少子化や雇用問題という形で噴出してきているところだ。全く無関係に見えるところにまで飛び火してもいるだろう。
僕がこの問題について今まさに書いているのは、さっき言ったように僕がこの問題について何かを言えそうというのもあるが、この問題が今の日本社会の最も大きな問題で、これを解決すれば今の日本の殆どの問題は解決すると思っているからだ。
これまでの日本では、男性が女性を抑圧してきた。日本の「社会」というのは男のもので、女は付随物に過ぎなかった。だから社会的に成功した男には女がついてきたし、逆に社会的に成功してない男には殆ど女が寄り付かなかった。女は対異性的に成功していれば嫁として社会的に成功することができ、それ以外で生きる道は存在しなかった。
だからこれまでの日本での性差の問題というのは、社会的な成功をできない、もしくは興味がない男と、対異性的には成功できない、もしくは興味が無い女のものだった。彼らは「社会」から疎外されていたのだ。
しかし、女性が抑圧から解放され始めたことで問題が全体に波及する。
女が「社会」の付随物ではなくなったために、社会的に成功しているにも関わらず女を手に入れられない男が増え、反対に、対異性的には成功しているものの社会的には成功できない女も出た。
これまでは男は社会的に、女は対異性的に成功していればよかったのだが、両性ともに社会的にも対異性的にも成功を果たさなければならなくなったのだ。
それによって負担が増えたように感じる、対異性的に成功していない男は女性解放を訴える女達に怨嗟の声を上げ、社会的に成功していない女は社会的な成功を約束しなくなったふがいない男達に対して罵りの声を浴びせる。
現状、男性も女性も、どう生きていても非難を避ける事は出来ない。
たとえ対異性的に成功しようと社会的な成功をしていない男はクズだし、両方で成功を果たしていてもリア充と言って叩かれる。
たとえ対異性的に成功しようと社会的な成功をしていない女はビッチだし、両方で成功を果たしていてもリア充と言って叩かれる。
勿論そうではない。
かつてアメリカで黒人が解放の声を上げた時最も人種間の争いが激しくなったように、今は過渡期に居るだけだ。
将来、女性が完全に解放された時、本当にそんな時が来るのかはわからないが、その時は性別の間の争いはなくなるだろう。誰もそれを意識しないからだ。
仮にその時が来ず、人種差別のように、女性差別が社会を通奏低音のように流れ続けたとしても、解放が進めば進むほど事態はよくなる。
対異性的に認められることと社会的な成功がイコールになる時代になるからだ。
今主夫が認められつつ有るように、女性の解放というのは、男性の中の女性性の解放でもあるのだ。
漱石の小説もこの問題について書いている。彼の小説は日本のエリートが西欧で流行っている恋愛というものをしてみんとしたものの集積だ。社会的にはエリートなんだけど恋愛的、対女性的には坊っちゃんで、結局それは上手くいかないまま終わった。村上春樹がその後を継いで成功しようとしている、とか言われてる。