2015-03-04

男性の生きづらさと女性の生きづらさについて

とかくこの世は生きづらいと漱石が書いてからもう幾年が経ったのか、数える気にもならないから全く知らないし、単なる話の枕に過ぎないからどうでもいいんだけど、どうも今の世はもっと生きづらくなってきているようだ。

様々な問題が山積みだし、聞いたこともない問題が次々に産まれては解決されないまま消えていく。じゃあ解決しなくていいんだ、って感じでほっといてるとリーマンショックやら原発爆発なんかでツケが回ってくる。もぐらたたきはメタファーとしていつも非常に有用だ。

僕は政治家でも経済学者でもないから、それらの問題には何も言えないけど、よくネットで話題になる男性女性という二つの性の問での生きづらさという問題には何かが言えそうな気がしてこの文章を書いている。ネットでこういった類の文章がよく書かれるのも似たような理由だ。(大体の人は男か女だから一端の口を聞ける。)

この、男性女性の間での問題というのも、今まさに解決しないでいたツケが少子化雇用問題という形で噴出してきているところだ。全く無関係に見えるところにまで飛び火してもいるだろう。

僕がこの問題について今まさに書いているのは、さっき言ったように僕がこの問題について何かを言えそうというのもあるが、この問題が今の日本社会の最も大きな問題で、これを解決すれば今の日本殆ど問題は解決すると思っているからだ。

これまでの日本

これまでの日本では、男性女性を抑圧してきた。日本の「社会」というのは男のもので、女は付随物に過ぎなかった。だから社会的成功した男には女がついてきたし、逆に社会的成功してない男には殆ど女が寄り付かなかった。女は対異性的成功していれば嫁として社会的成功することができ、それ以外で生きる道は存在しなかった。

からこれまでの日本での性差問題というのは、社会的成功をできない、もしくは興味がない男と、対異性的には成功できない、もしくは興味が無い女のものだった。彼らは「社会から疎外されていたのだ。

しかし、女性が抑圧から解放され始めたことで問題が全体に波及する。

女が「社会」の付随物ではなくなったために、社会的成功しているにも関わらず女を手に入れられない男が増え、反対に、対異性的には成功しているもの社会的には成功できない女も出た。

これまでは男は社会的に、女は対異性的成功していればよかったのだが、両性ともに社会的にも対異性的にも成功を果たさなければならなくなったのだ。

それによって負担が増えたように感じる、対異性的成功していない男は女性解放を訴える女達に怨嗟の声を上げ、社会的成功していない女は社会的成功約束しなくなったふがいない男達に対して罵りの声を浴びせる。

現代日本

現状、男性女性も、どう生きていても非難を避ける事は出来ない。

たとえ対異性的成功しようと社会的成功をしていない男はクズだし、両方で成功果たしていてもリア充と言って叩かれる。

たとえ対異性的成功しようと社会的成功をしていない女はビッチだし、両方で成功果たしていてもリア充と言って叩かれる。

では、女性解放が更に進めば事態は更に悪化するのだろうか?

勿論そうではない。

かつてアメリカ黒人解放の声を上げた時最も人種間の争いが激しくなったように、今は過渡期に居るだけだ。

将来の日本

将来、女性が完全に解放された時、本当にそんな時が来るのかはわからないが、その時は性別の間の争いはなくなるだろう。誰もそれを意識しないからだ。

仮にその時が来ず、人種差別のように、女性差別社会通奏低音のように流れ続けたとしても、解放が進めば進むほど事態はよくなる。

対異性的に認められることと社会的成功イコールになる時代になるからだ。

女性社会の一員になるということはそういうことだ。

主夫が認められつつ有るように、女性解放というのは、男性の中の女性性の解放でもあるのだ。

まとめ

漱石小説もこの問題について書いている。彼の小説日本エリート西欧流行っている恋愛というものをしてみんとしたものの集積だ。社会的にはエリートなんだけど恋愛的、対女性的には坊っちゃんで、結局それは上手くいかないまま終わった。村上春樹がその後を継いで成功しようとしている、とか言われてる。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん