はてなキーワード: 有用とは
そう思ってんだったら勝手に続けてれば?
と思ったのだが、可哀想だったのと面倒だから手加減してあげたのにこういう風につけあがるのならしつけが必要ということになる。
論理を実社会の問題に適用する際には各種の前提があり、解釈がある。
このため、各種の命題の真偽は主観によって異なる値を代入せざるを得ない場合がある。
したがって、同じ理論(多くの命題からなる論理的構造をこう呼ぼう)が異なる結論を持つことはありえる。
さらに、どのような前提を重視するかによって、同じ前提から出発したはずなのに似ても似つかない理論が組み立てられることなどいくらもある。
それぞれが首尾一貫している限り、どちらがより妥当かは読者(日本の社会なら選挙民による投票)に委ねるしかない。
さらに法律というものは実生活での有用性と切っても切り離せない。有用性から遊離した法学になんの意味があるのか教えてほしいものだ。
のび家は常に赤字だと頭を抱えている。
押し入れで眠られては客用の布団も痛んでしまう。
月数万くらいはドラえもんに消えているだろう。
しかも買い食いもたまにしている。ミライデパートで買い物もよくしているが、一体どこから金が出ているのか。せわしが金持ちとは思えない。
買い食いを自分の金でしているとしたら、その金でのび家に生活費を入れるべきでは。
それよりも食べ物を出す道具など生活に役立つ物は豊富にあるのだから、のび家の家計など簡単に助けられるのではないのか。
これから学費などが必要な息子を抱え、赤字続きでは母として非常に頭が痛い問題のはずだが、のびたの母はドラえもんの存在を自分の家族のように普通に扱っている。
道具もたまに使っているが積極的に使おうとはしていない。
ドラえもんは生活費をかける価値のあるかなり有用な存在だが、母はどこまで知っているのか。
のび太はドラえもんがらみで外泊や命の危険に曝されることもよくあるがどう思っているのか。
↑見てて疑問に思うんですよ
少数民族は政策の対象外だとしても、あくまでも少数民族であって、統計にここまで影響を及ぼすほどではないと思っています。
大多数は一人っ子政策によって一人を生んで終わりだと思ってたので、この出生率の推移には驚きでした。
政策を厳密に適用すれば出生率が1になるどころか、そもそも生まない人もいるわけなので1を切ると思うのです。
少数民族という名だけど、統計に影響を及ぼすほどの人数がいるんでしょうか。それとも一人っ子政策と言いながらじつは二人までOKみたいな政策なんでしょうか(最近緩和されたのは知っています。あくまでも最初のころどうだったかが知りたいです)
「幼なじみ婚の増加から考える日本の社会構造の変化」というホッテントリがあったが、
http://lacucaracha.hatenablog.com/entry/2015/06/19/013111
これ「幼なじみ婚の増加」というのは、1%⇒2%になった程度で、いわば「統計誤差」。
むしろこのデータ(国立人口問題研データ)、幼なじみ婚の傾向より、はるかにいろいろ面白いことが読み取れるので、それをここで分析してみる。
★この調査で一番注目すべきは、「結婚のキッカケが職場」という割合が、1992年の35%をピークとして、どんどん低下傾向にあるということ。
直近2010年は29.3%にまで低下。
つまり、「職場で結婚相手を見つける」ことが、徐々に難しくなりつつある
私見だが、職場で「異性の社員に下手に声掛けすると、セクハラと疑われかねない」というコンプラ意識の普及が、職場交際を「委縮」させてしまっているのでは?
「職場結婚比率」は、1982⇒1987⇒1992は「増えている」ように見えるが、これは「見合い結婚」の中で、相当部分「職場を介した見合い婚」があったのでは?と思われる。
実質的な職場結婚の割合は、1982年頃の方が高かったのでは?
★次に注目すべきは、「友人の紹介」「兄弟姉妹を通じて」という比率がじわじわ増え、2005・2010年調査ではついに職場結婚を抜いて「第一位」に躍り出たこと。
たかが1%の変動でしかない幼馴染婚云々よりも、この事実が「この表から最初に読み取るべきこと」だろう。
少子化対策として「出会いの促進」「婚活の促進」みたいなことが言われているが、このデータを見る限り、
「友人とか、兄弟姉妹のネットワークを密にして、異性の紹介を得る」のが、結婚相手を見つける近道、ということがわかるが、
「友人兄弟姉妹紹介婚が増えていて、職場婚をも抜いている」という事実の方が、幼なじみ婚よりも圧倒的に重要で、もっと世間に周知されるべき
★「結婚相手を紹介した友人兄弟姉妹には、報奨金10万円を上げます」みたいな制度を自治体が創設した方が、圧倒的に婚活そして少子化対策の実効性がある、ということになる。
そういう目鱗な事実に気づかせてくれた、という意味で、「幼なじみ婚の増加から考える日本の社会構造の変化」記事は有用だった
★三番目に注目すべきが「学校で」知り合った、という人の比率がじわじわ増えていること。
これがまさに「大学時代に、相手をゲットしなければ、マズイ」という、この作者ももう一つのエントリに繋がる話になる。
★あと、昔ながらの「見合い」と現代風の「婚活」の合計値の割合も、着実に減少している。
オーネットとかツヴァイは、まだまだ力不足ということが、データから読み取れる。
★「街中や旅先で、結婚相手と知り合った」比率は長期的には減少している。
これはつまり、「ナンパ」の類が、一時的な快楽目的なら兎も角、結婚相手獲得目的だと極めて効率が悪いことがわかる
★「その他・不詳」が2000年を境に有意に増えているようだ。
「ネットで知り合った」の類が、「その他・不詳」にカウントされている可能性があり、次回調査からは独立した項目にすることが求められる。
★「友人や兄弟姉妹からの紹介が、結婚ルートで最多を占める」というデータ、これって
「紹介してもらった相手といい加減な交際をして、ポイっと捨てたら、友人の顔に泥を塗る」という世間体もあるんだろうな。
あと、その紹介した友人が、「ねえねえ●●さんとの交際、うまく行ってるの?」と世話を焼いてしまうという「効果」もあるんだろうな。
★「友人や兄弟姉妹からの異性紹介は、結婚に結びつきやすい」というトリビアは、結婚願望で相手がいない全若者が知っておくべき知識。
そういう間柄で交際始めた場合、相手方も「友人等の顔に泥を塗れない」から、結果として浮気せずにキチンと付き合ってくれる。
自力で結婚相手を見つけるスキルのない人は、結婚相談所に行くよりも、
「そういう相手を紹介してくれそうな、お節介な友人」を、大学時代とかに作っておくことですな。持つべきは友。
★いわゆる結婚相談所とか、婚活サイトが、データの面では「うまく行ってない」のは、多分「話を断るハードルが低いから」だろうな。
見ず知らずの結婚あっせん人の顔に泥を塗っても、罪悪感はあまりない/友人知人ルートの交際が、「顔に泥を塗れない」が為に、結婚に結びつきやすいのと好対照
結婚相談所は、「相談する敷居の低さ」をウリにしているところが多いが、それって結果に結びつかない。
変な話、敷居が高い方が「結果」に結びつく。
今話題の「ライザップ」と同じ理屈。高額を払うから、敷居が高いから、「ダイエットしなきゃ」と思うようになり、結果になる。
楽天とかリクルートとか、ネット系の企業が、「敷居の低い、ネットの気軽な婚活」をウリにしているが、それって結局「結果に結びつきにくい」ことになりそう。
ある程度、敷居の高さを感じさせる、或は「斡旋人に、悪いなあ」と思わせるような婚活の仕組みの方が、トータルの成婚率は高くなると思う。
つまり、リアルな世話焼き人がいろいろお膳立てして、「顔をつぶすのは悪いなあ」と、自分が、それ以上に「相手が」感じることが重要
http://anond.hatelabo.jp/20150617135918
日本国にとって、社会にとって必要かどうかだよ?いちいち言わなくてもわからない?
いるいらないの2択じゃなくて、「いらないから削る」っていうのはもう決まってることなの。要は「ご協力とお願い」ってやつ。わかるでしょ?
理系は残るから安心してね。直近の有用性は疎か、長期的な有用性もないものばかりなのが人文学系。それに税金とか・・・w
例えば就活でアピールのうまい奴が採用されることに問題はない。不満垂れてる奴らはそれ覆す才能ないってことだからね。それと一緒。不満があるなら自分を変えろ。
国が有用性を判断し、国の基準で判断するんだよ?嫌なら辞めろ。中村修二はそうしたけど?
そもそも「有用性」とか「国力」とかどうやって測定するのよ?
測定する必要はないんだよなあ。「そういう問題じゃないんだ」からさ、わかってね?
大学はGDP上げるための工場だよ?当然でしょ?私大は価値がないところから潰すためにも交付金廃止は必須だね。
それは国が決めることであって君が口挟むことではないよ?外野なんだからニュースでも見てろよ。
夏風邪だよコンチクショウ。
京大の哲学屋、伊勢田さんの「人文学はなぜ必要なのか?」回答のブコメを読んでフト思ったんだが、
文系学問不要論って、文系出身者から出てて、理系側からは出て無いような気がするんだよね。
まあ、理系文系って括りもアレだが、俺は抵抗のカラーコードは全員読める系の大学に行ってた。
この「人文学はなぜ必要なのか?」って質問、工学屋も物理屋も物性屋もたぶんしないと思うんだよね。
だってさ、コレ「役に立たない学問を、大学でやる必要があるのか?」とホトンド同じ意味でしてるでしょ。
「国のお金を投入して学問をするんだから、必要性をアピールできて当然」という感覚も、同じような馬鹿っぽさがある。
こういう時、まあ理系のヒトはこう思うわけさ
「役に立つ/立たないの閾値は?」「必要性の定義は?」「何で計測するの?計測器の校正はどうするの?」
少なくとも卒論を書いたことがある理系なら、どんな単位であっても定義なしで使うなってのは叩き込まれてる。
計測には誤差がつきものだし、偶然なのか有意なのかは説明しなけきゃいけないし、紙上の理想と卓上の現実は違う。
だからさ、この質問を出されたら、理系で普通に考えられるヒトなら、きっと哲学屋とほとんど同じ回答になるんだよね。
例えばだけどさ、工学的に頑強で安く効率が良いからつって東京駅をビルとプレハブの集合体みたいにはしないだろ。
優雅さだとか雅さだとか、観光客を呼べるとか日本として誇れるとか、そういうの理系に求められても困るぜ。
いくら俺がゴリゴリの理系でも、日本国にカネが無くても、東京藝術大学潰したらマズイことぐらいは判る。
何でマズイかって言ったら、芸術は技術やカネじゃどうにもならんから。
でもさ、じゃあ京都大学大学院文学研究科哲学研究室って潰して良いのって聞かれて、それ判断できるの?
「ハッキリさせろ」というオッサンとかオバハンとか確かに居るんだよ。
まあ、居酒屋で話題になってめんどくせーなーとか思うくらいだけど。
日本国の運営に苦労されている国会議員の先生方は東大法学部出身が多いようですが、まずそこから潰してはいかがか。結果出してないんだし。
彼らはこの土地に埋もれた無尽蔵のペリック(Perik)鉱石を製錬する技術に長けており、日常生活においてもそういった文化の影響がしばしば認められる。
イウ(Yew)半島南方の平地に住む原住民の一派は、仲間の死に際してその亡骸を伝統的な手法で丁寧に洗浄し、毛髪や爪、ある種の内臓を取り除いてから鉱石と共に鋳る。
彼らの死はいつからか数え上げられており、十三の倍数にあたる死者は七人を一単位として特別大きな炉に並べられる。
然るべき日になれば、サグ(Shagg)と呼ばれる希少な鉱石とペリックを同時に鋳るための燃料となるのである。
古来、このように作られた合金は、季節の変わり目に豊作を願うのに用いる長い鎌などの祭具に姿を変えていたが、現在では魂の回収を行う際の触媒として有用だと広く認知されたため、ほとんどが中央政府に納められている。
http://anond.hatelabo.jp/20150608172212
そろそろブクマも落ち着いてきたのでここで一つネタばらしをしてみる。
じつはこの記事は、カメラ技術以外においても昨今の話題に対する皮肉が書かれているのだ。
もちろん大体の文章構成は前日から頭で練っていたものだが、実際にキーボードを叩き始めてから投稿するまでの時間が40分という意味である。
わたしはプロのモノ書きでもなければプロのカメラマンでもない。
実際の本業は全く重なることのないような分野で、モノ書きも写真も趣味として嗜んでいる程度だ。
どちらも仕事に役立てたことはあるが、それを仕事として収入を頂いたことは一度たりとしてない。
当然それを生業としている人間の技術力や知識力の高さを知っているつもりだし、この程度の文章と撮影の技術でプロになれるとも思っていない。
だからこそ諸兄の辛辣なコメントも真摯に受け止めることができるし、おそらくそうした辛辣なコメントを下さったさらに習熟度の高い諸兄においても同じように思っていることだろう。
ところがだ。
少しの技術と少しの特異性を持った程度でプロを語り、それに飽きたらず自分たちの収入や業界の未来について嘆く輩がいるというではないか。
やれ仕事の単価が安い。他の人間に比較されて買い叩かれると嘆いているが、そこにその仕事を頼むのに君で無くてはならない理由はあるのか。
もしそれに答えられないのだとするなら、君たちがプロとして食べて行けているのは君たちの技術が超一流なわけではないということだ。
今の世の中において、君たちレベルの習熟度や知識であっても一般消費者にしてみれば都合さえよければ有用と捉えているに過ぎないということなのだよ。
一般消費者を相手にしている限りは、わたし程度の技術力で文章も写真も事足りてしまうのだ。
逆を返せばその程度の内容であれば作り手がわたしである理由もないのだ。
原稿料が安いのはつまり、君が作り上げた記事はその程度の価値しかないということだ。
何もこれはモノ書きに限定した話ではない。
おおよそのプロと呼ばれる職業においても共通している話なのだ。
情報化が進んだことでどの分野においても素人から脱するためのノウハウが殆どの場合において当然のように共有されている。
その気になれば様々な分野においてある程度の習熟度を達成することは、容易くできてしまえるのだ。
残念ながらもうこの知識やノウハウの氾濫を止めることは誰にもできない。
そんな中で素人に毛が生えたような人間と比較されて自分のほうが価値があるということを証明することはこれからますます困難になっていくことだろう。
ならばどうするのか。
大したことのない技術力同士でであっても、文章力とカメラ技術という2つをかけあわせることで、こうして人の注目をあつめることができるのだ。
そして最も大切なことは、その記事を公開するタイミングである。
世の中が欲しているタイミングに、及第点同士の情報を掛けあわせたものを提供できればいいだけなのだ。
自信の能力に対する完成度ばかりに目を向けていつまで世の中に原因を求めるつもりか。
さっさと顔を上げて、その程度の能力でも価値を生み出せる方法に目を向けたらどうか。
学校で学んだノウハウだけで生きていけるほど世の中は甘くはないのだよ。
どちらも社会にある不平等、不公平、不正義を指さして「ここに問題があるので解決しなければならない」と叫ぶ点で類似性がある。
問題は、格差是正問題は問題の焦点を論者が自由に設定できるということだ。年収100万円はいかにもすくないが、200万円だって問題にしようと思えばできる。300万円だって「それでは結婚が難しい」などという但し書きをつければ焦点にすることが可能だ。この焦点の選択は何に影響を与えるかというと「搾取されている人間の割合」の設定に影響を与える。専業主婦を含む不労者を計算にいれれば、国民の50%くらいは年収250万円以下のラインに収まる。つまり「年収250万円以下は搾取されている被害者である」という設定をぶち上げれば、国民の半分は問題に巻き込めるということで、これは年収部分を変更すれば7割だろうが8割だろうが「被害者側」として巻き込むことが可能だ。この種の変数設定可能な論は非常に取り回しがよい。
フェミニズムはそこの部分が弱い。そもそも「女性は被害者である」という主張なので、どんなにどんなに頑張っても国民の50%よりおおくは被害者として設定できないのだ。世の中には当然自分の環境に不満のない女性や納得済みの女性も多いので、現実的には国民の10%も被害者設定できれば良い方だと思う。もちろんだからフェミニズムが間違っているという話では全くなく、「そもそも共感を得るのも支持を得るのも最初からすごく難しい」主張なのだ。
「どれくらい支持が得られる理論か」ってのはかなり重要で、たとえばその割合がかなり少ない場合、その理論の支持者はコミュを存続させるために理論を過激派せざるを得ない。そこから始まるのは「社会を変革するための理論」というよりも「コミュを存続させるための理論」「コミュ内部で権威を保持するための極論」の類であって、カルト教団が生まれる過程そのものだ。
穏当なフェミニズムが社会に浸透して徐々に「一般化」してきたこの10年間という時間の流れから大きく逸脱し、「女性は被害者であり男を打倒すべきである」タイプのカルトフェミニズムはどんどん先鋭化してきてしまった。初期には社会の耳目を集めるために有用だったこういう派手な意見(オタク男は死ねも、同一の文脈)も、今ではフェミニズムの負の遺産となってしまった。
現在日本のフェミニズムが全力で戦うべき相手は、檀兼社会というよりも、日本のフェミニズム論壇が抱えてしまった負の遺産なのだと思う。
フェミニストの方々(あるいはフェミニズムに詳しい方々)に聞いてみたいことがあるので書いてみます。
私は個人主義的リベラルの男性です。私はフェミニズムを支持しておりますが、それは以下の理路によるものです。
フェミニストへの質問1:以上のような個人主義的リベラルの観点からのフェミニズム理解は、ほぼ「リベラル・フェミニズム」に重なるものとして理解してよろしいでしょうか?
上記のようなフェミニズムに関しては私は100%支持をしています。
一方、私の理解が追いついていないのは「ラディカル・フェミニズム」についてです。
ここから(理解が乏しいので)間違ったことを書くかもしれませんが、上記の(A)-(D)の理路のような(個人主義的?)フェミニズムにおいては「善に対する正の優先」というテーゼが成り立っているように思います。つまり、「善い/悪いcapability」というものの内容については特に言及されておらず、fairnessの貫徹のみが求められているように思います。
【*補足:ここで「善に対する正の優先」という用語は、このサイトの説明における「善の構想の複数性の尊重」の意味で用いています。「善」「正」の定義についても同様の政治哲学的文脈を踏まえて議論しています*】
一方(もし間違った理解であったらその旨ご指摘ください)、「ラディカル・フェミニズム」においては「capability」の中でも「権力をつかむ(男性から権力を奪う)ために有用なcapability」が「善い」ものとして優先されてるのではないかと感じています。例えば、フェミニストの中にフェミニズムと新自由主義の親和性の高さに懸念を表明している方々が散見されますが、そのような状況は上記のようなラディカル・フェミニズムにおける「善の優先」の存在を表しているように思います。
フェミニストへの質問3:もし誤解でないとしたら、ラディカル・フェミニズムにとって、そのような「善の優先」の存在は本質的なものなのでしょうか?
私にとっての「ラディカル・フェミニズム」の「分からなさ」というものは、以上のような「善に対する正の優先」というテーゼがラディカル・フェミニズムにおいてどのような位置を占めているのだろうか?というものです。
徴兵制や、個人の財産封鎖、その他嗜好性の把握などに繋がると憶測するメディアは多い。
国家権力にとって、
マイナンバーが国民統治の為の非常に使い勝手の良いツールになることは間違いない。
マイナンバー制の導入を防ぐには、
それ自体が人権侵害(あるいは何某かの憲法違反)になることを立証する以外にないのだけれど、
マイナンバーを使えば、
もし今後、マイナンバーを使った国の施策に反対したいのならば、
それになるかの選択肢がある。
マイナンバー=徴兵制みたいなミスリードに惑わされてはいけない。
さもなくば、我々市民はミスリードによるおかしな糾弾に力を使ってしまい、
本当に解決しなくてはならない問題への取り組み、
腐敗の道を歩んでしまう。
最終的な腐敗のシナリオは、
この記事は別にマイナンバーそれ自体をたたく為の記事ではない。
冷静に考えて、
今はそうならない様に、
ODAを強化するなどして仲間を増やしたりしてそれを防いでいるけれど、
そして、
恐らく、何よりも恐ろしいことに、
本当に良く分かっている。
敢えてそういう状況を作っている。
今は、
なんだか悲しい。
http://b.hatena.ne.jp/entry/kenokabe-techwriting.blogspot.com/2015/04/blog-post_30.html
http://kenokabe-techwriting.blogspot.jp/2015/04/amazon102-93.html
この記事自体はどうでも良いのだけど、以前「クロージャ」という言葉の初期の使用例を探したことがあったのを思い出したので、参考までに。
Landin "A λ-Calculus Approach" (1966)
We represent the value of a λ-expression by a bundle of information called a "clusure", comprising the λ-expression and the environment relative towhich it was evaluated.
我々は、ラムダ式の値を「クロージャ」と呼ばれる情報の束で表す。「クロージャ」はラムダ式とそのラムダ式の評価に関する環境から成る。
Moses "The Function of FUNCTION in LISP,or Why the FUNARG Problem Should be Called the Environment Problem" (1970)
A useful metaphor for the difference between FUNCTION and QUOTE in LISP is to think of QUOTE as a porpous or an open covering of the function since free variables escape to the current environment. FUNCTION acts as a closed or nonporous covering(hence the term "closure" used by Landin).
LISPでのFUNCTIONとQUOTEの違いについては、次のように考えるのが有用な比喩になる。QUOTEは多孔的または開放的に関数をおおっていて、自由変数は現在の環境へと脱出できる。FUNCTIONは閉鎖的(closed)または非多孔的に関数をおおっている(このことからLandinはクロージャ(閉包)という用語を使っている)。
(訳はhttp://kreisel.fam.cx/webmaster/clog/img/www.ice.nuie.nagoya-u.ac.jp/~h003149b/lang/p/funarg/funarg.html から)
Sussman and Steele "SCHEME: An Interpreter for Extended Lambda Calculus" (1975)
In order to solve this problem we introduce the notion of a closure which is a data structure containing a lambda expression, and an environment to be used when that lambda expression is applied to arguments.
この問題を解決するためにクロージャという概念を導入する。クロージャはラムダ式とそのラムダ式が引数に適用されるときに使われる環境から成るデータ構造である。
Steele and Sussman "The Art of the Interpreter" (1978)
We say that the procedure is closed in the current environment, and the &PROCEDURE-object is therefore called a closure of the procedure, or a closed procedure.
この手続きは現在の環境に閉じられている(closed)と言い、それゆえ&PROCEDUREオブジェクトはその手続きの「クロージャ」あるいは「閉手続き」と呼ばれる。
「手斧磨き」「ブコメデマおしえ」「プリントアウトすすめ」といったネットワークしぐさを身につけたはてなの人々は、お互いを慈しみ、支え合い、平和で豊かな生活を送っていました。しかし〈大災禍〉のさなか、匿名掲示板民の暴走をきっかけに、各地で燃え上がった特定祭りによってはてな民は虐殺。アーカイブの多くも失われてしまいました。今、本当のはてなしぐさを知る人は少ないのです……。
はてなの人々が育んだはてなしぐさは、良きネット民としていかに生きるかという行動哲学であり、人間関係を円滑にする共生のティップス・ライフハックでもありました。はてなしぐさを学び身につけることで、精神と身体を健康に保つことの大切さを知り、周りの人たちを幸せにしながら笑顔の絶えない生活を送ることができます。
はてなしぐさがどんなものかわかったかな?では実際にはてなしぐさを体験してみましょう!
相手を思って伝えた言葉でも、小さなすれ違いから互いに傷つけ合うこともある。どうしたら自分の気持ちを相手に伝えられるの?どうしたら相手の気持ちが分かるの?はてなの人たちはいつもそのことを考えながらネットに向かっていました。
ひとりよがりの言葉を何度も繰り返すより、正確な言葉で一刀両断するように伝えることがお互いの幸せにつながる。言葉に出す前にどれだけ深く考え抜いたかを一番大切にしていたはてなの人たちの間では、手斧のように磨かれた言葉だけが飛び交っていたんだ。
自分の考えていたことと違った受け取り方を相手にさせてしまったとき、はてなの人たちはそのことを反省して「上手く伝えられなくてすまん」と謝ったんだ。自分から先に謝ることで相手の気分も和み、コミュニケーションを円滑にする効果もあったんだよ。
自分の視点からは見えないことでも、相手の視点に立って見つめ直すことでたくさんの気づきが訪れる。日本の伝統的な盤ゲーム〈将棋〉プレイヤーが行っていた、相手の肩越しに盤面を見つめ直した様子になぞらえたはてなしぐさだよ。相手の気持ちを理解しない人には、「はてみんアイをしてみましょう」とみんなで声を掛け合ったんだ。
どんなテキストでも、まずは本文を最後までしっかり読み込む。はてなしぐさの鍛錬を積んだはてな民の中には、言葉と言葉のあいだから、テキストに書かれていないことまで深く読み取れるようになった人もいたんだ。普通の人から見るとまるで超能力のように映ることから、はてな民のテキスト読み取り能力は「エスパー」「エスパー利かす」と呼ばれました。
一般の人でも不適切な情報にアクセスできた成時代のネットワークでは、はてな民たちが付けていたソーシャルブックマークコメントが、望まない接触を予防するためのリスク判断に役立っていたんだ。また、コンテンツやブックマークコメントに「はてなスター」が付けられることで、信用性はより正確になったんだよ。
暴力的で不健全な情報で身体や精神を傷つけないために、コンテンツを見る前にひとめブックマークコメントに目を通すことは、はてなの人たちにとって当たり前のしぐさになっていたんだ。実際にコンテンツを見たあとは足りないリスク情報を補い合って、正確性や有用性を高めていたんだ。
曖昧な情報源を元に不安を煽ったり甘い響きの嘘で人を騙していても、「嘘は嘘であると見抜ける人でないと難しい」とも言われていた当時のネットコミュニケーションでは、デマも個人のスキルで判断するしかなかったんだ。情報の一次ソースを見つけて誤りを指摘するスキルを「ソース力」といって、ソース力の高かったはてなの人たちは、デマを見つけると丁寧にブコメで指摘し、正しい情報を流通させることに貢献していたんだ。
はてなの人たちは「ほほえむ気持ちで☆を付けよう!」と心掛けることで、スターの価値を高めていこうと考えていました。☆がたくさん付いたコメントはたくさんの人を笑顔にできたコメント。☆がたくさん増えたら笑顔もたくさん増える。そう考えて実行していたはてなの人たちは、コメントに付いた☆を見つけるとそっとほほえんだといいます。
テキスト読み取り能力の高いはてなの人たちは、言葉の先には生身の人たちの生活があることをいつも感じていたんだ。書き手の身体や精神の状態が優れないことがわかったときには、その人が健康で人間的な生活を送れるように、できる限りのアドバイスを送っていたんだよ。
はてなの人たちが見つけた多くの気付きの中に"不幸を回避してより豊かな人生を送るためには、その人に合った生活スタイルを選択することが大切"というものがあります。生きづらさを訴えるテキストに出会ったときには、その原因となっている無理や過剰を見つけ出して、「あなた○○向いていません」と伝えてあげたんだ。
当時はまだセラピーを受けないまま心的外傷を負ってしまったり、精神的に大きなダメージを受けた状態でネットワークコミュニケーションをしていた人も多くいました。テキストをエスパーしてそのことに気付いたはてなの人たちは、症状の現れたテキストをプリントアウトして、すぐに専門の心理カウンセラーに見せることを勧めたんだ。身体と精神の健康を保つことの大切さに気付いていたはてな民ならではのしぐさだね。
「くねくねしぐさ」は、自然発生的にたくさんの人が話し合い、一つのことに対して多様な議論が生まれる様子をあらわした言葉です。ときにそれは、はてな全体を巻き込んだ大きなうねりになることもあったんだよ。また、同じ思いを持つ人たちが実際に集まり、はてなコミティセッションが開かれることもありました。そこではどんな発言もほほえみながらみんなで受け止め、力を合わせて問題の解決をめざしたんだよ。
みんなで使うネットワーク空間だからこそ、他の人が嫌がるようなしぐさは控えよう。迷惑ネットしぐさに出会ったはてなの人たちは、すぐやめるようにみんなで声を掛けたんだ。
テキストを最後まで読まず、タイトルや始めの数行だけ読んで反射的に書かれたようなコメントは、「脊髄コメント」といって嫌われたんだ。特にテキストタイトルだけ読んで反応してしまうコメントに対しては、「本文だいじ」といって、もう一度しっかり読み直してコメントすることを勧めていたんだ。
わたしたちはみんな、ひとりひとりが社会にとって重要なリソース。はてなしぐさの実践から身体と精神、そして生命の大切さを知っていたはてなの人たちは、断りなく相手を傷つけることを何より嫌っていたんだ。健康への配慮に欠けた食事や喫煙などの悪習慣も「リソース泥棒」といって、きつく戒めていたんだ。
〈大災禍〉の際に起こった特定祭りは、様々な能力に秀でたはてなの人たちを狙った、逆恨みにも似たおぞましいものでした。ネットワーク上に記録されたはてなしぐさに目を付けられ、はてな民たちは徹底的に虐殺されたといいます。アーカイブも執拗に破壊され、その難を逃れられたのは卓越したエスパーを発揮したごく一部のはてな民だけでした。
はてなしぐさは〈果無草〉とも書き、途絶えることなく続く思想と生命の理想を表した言葉でもあります。はてなの人たちが残したはてなしぐさは、今と比べて不完全だった社会システムの中でも公平性と他者への思いやりを手放さず、支え合いの中で共生していくために生み出された、慈愛に満ちた行動哲学だといえます。
私たちはアーカイブの復元とともに、数少ないはてなの人たちからの聞き取りを続け、今も色あせることのないはてなしぐさを黄泉がえらせることで、平和で笑顔の絶えない社会の実現を目指します。
普通の勢いでスターをつけた後に日付確認したらすげえ過去(垂仁天皇28年)で、
しかもスターつけたコメントをよくよく見たらもうすでに俺スターつけてたじゃねえか!
も~やめろよ~~ちょう恥ずかしいじゃんよ~~~
でも古事記を再読すると有用な記事が見つかったりするのがはてブのいいとこだけどな!
あ、あと、古事記が偽書じゃないかと思っていちどつけたスターを消したりする賀茂真淵にも文句言っとく!
・・あ、あれ?どこ?俺っちのブコメについたはずの☆はどこ?
って10秒くらいきょときょとしたあと、じわじわと悲しい気分が胸を浸すことになるのでぜひやめてほしい。
学説が違ってちょっぴ恥ずい思いをすることは罰として受け容れる。
それが男の生きる道。