2023-07-24

ガチャとは

私は今、母と一切連絡をとっていない。

幼少期の色々な出来事現在の私を今でも苦しめる。

所謂"普通"の親子関係が分からない。

私の母は母になれない人だった。

父の出張不在時は不倫旅行、4歳の私は家にほか弁を置かれて数日1人っきり。

寂しくてお腹が空いて泣いて、耳の奥が痛くなってどうしようもなく、記憶を振り絞って祖母宅に電話したら、祖母叔父が迎えに来てくれた。

その後捕獲された母からは後日ボコボコに殴られた。

酒癖も悪く、部屋のその辺に嘔吐、放尿、包丁振り回して全裸で暴れる。

それを片付けろと命令される。

幼稚園は無断欠席。

今の潔癖症嘔吐恐怖症はここからだと思う。

気に入らないことがあると殴られ、蹴飛ばされ、発狂する母に"あの女"と呼ばれるようになった5歳の頃、初めて自殺を試みた。

母がいつも振り回していた包丁で、私に向けていた包丁自分の手を切ってみた。

母のお望み通り死のうと思った。

手を切ったくらいじゃ死ねず、誤って切ったことになって案の定からボコボコにされた。

こんなことなちゃん死ねたら良かったなと思った。

その後両親は離婚し、残念なことに私は母に引き取られた。

母と母の彼氏と新しく生まれた弟、そして完全に異物の私。

小学生の頃、相変わらず母は酒癖悪くその辺に嘔吐と放尿、朝まで全裸錯乱、そして私にだけその片付けを命じ、暴力を振るった。

生活保護費は大体母の飲み代に消えた。

私の養育費を父に何度もせびり、私のお年玉お小遣いも全部母のゲロと小便に変わっていった。

運動会遠足前日に飲まれると地獄だった。

片付けで一睡もできず、朝までボコボコにされた上にお弁当はないし、誰も見にこないからなるべく隠れて過ごしてた。

弟の世話を丸投げ、成績は100点以外は許されない、友達と遊んではいけない、という条件も追加され、さらに窮屈な生活だった。

何度も交番に駆け込んだけど助けてくれなかったし、後日ボコボコにされるから行くのをやめた。

なんだかんだで私はまだ母を愛していて、答え続ければ愛してくれると思っていた。

そんなある日、痴情の縺れから母は灯油かぶり焼身自殺を図った。

弟に見えないように毛布を掛けた。

完全に私のことはどうでもいいんだと思い知った。

一命を取り留めた母は最初は殊勝な態度だったが、元気になるにつれてまた酒癖が悪く暴れるようになった。

中学生になった私は非行に走らなかったものの、もう歪んでしまっていて、成績だけが私の存在価値だった。

運動部にも所属して、傍目から普通に過ごせてたと思う。

ちなみに母は身体が弱くて優しい母を演じていて、先生警察、友人は助けてはくれなかった。

(近所の人にはバレてると思うけど)

でも家に帰れば、母と母の彼氏との絶え間無い喧嘩、酒癖悪く暴れる母、1点でも落とせば殴られる環境、愛されている弟(愛されていてもこの環境はよくないよね)、この環境を誰も信じてくれないつらさから私は2度目の自殺を図った。

家中の錠剤を一気に飲んだ。

風邪薬や母の飲み忘れてる安定剤や痛み止めなどとにかく全部。

数百錠はあったと思う。

途中で記憶が無くて気が付いたらトイレ嘔吐してた。

部屋を汚したくない気持ちが強かったのか、無意識に移動してた。

一晩中嘔吐し続けて明け方赤黒いものを吐く頃に少しおさまってきた。

弟は寝ていて、母達は飲みに出ていて帰ってこなかったのが不幸中の幸いか

私はまた死に損なってしまった。

(今ではこのくらいじゃ死なないだろうと分かるけど)

この頃の記憶がずっと私を苦しめる。

私は親ガチャ失敗かな、って思ってる。

もっと大変な人もいるのは分かってる。

今は母と連絡を断ちほぼ絶縁状態暮らしをしているのに、少しでもつらいことがあると一気に沈んでしまう。

私はもう大人だし大丈夫、なんだかんだで立派に生きていけてるし!と言い聞かせても、あの頃の気持ちが蘇ってしまう。

最近私に娘が生まれて、(本当に可愛くて仕方がない)こんなに愛しい子どもあんなことができるなんて、と私は母に愛されてなかったことを改めて自覚して、

"普通"の親子関係ってどうなんだろうって悩んでる。

ここに書き捨てて供養していきたい。

とりあえずここまで。

  • この記事は、「親から壮絶なDVを受けて育ったが、今は子宝に恵まれて幸せです」という内容です。

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