はてなキーワード: 学会誌とは
ぶっちゃけ話をすると,私はこれまで「別に査読はなくてもいいだろ」という話を延々としてきたのだが,ブコメやらtwitterやらで文系擁護派の一部の人が「人文系の学問は査読になじまないんだ!」みたいな議論を始めてることには正直困惑している.
日本語で文学関係の査読つき論文とかたくさん出てるし,というか英文で文学を専門にした査読誌は普通にあるし,国際的な和文査読誌も存在するし,問題のおおもとになった日本社会学会には和文と英文の査読誌があるわけで,文学や社会学の論文が本質的に査読に馴染まないなんてわけはない(実定法学は知らん).査読できるならした方がいいだろう.学術的ではないエッセイにまで査読を求めるのは間違っているけれど,新規性のある学術論文を査読制度に向いてないと言い募ることもおかしいと思う.
査読になじまない型の研究としては,たとえば史料校訂とかそういうのが挙げられるかもしれないけれど,それだってやろうと思えば外部チェックは入れられる.論集だってもし余裕があれば査読をした方が質が高まるし,選書系や新書系ではない単著も査読をした方がいいだろう(このへんは出版社の体力との相談になってくる面もあるので,今すぐに査読制度を取り入れろとは言えないことがもどかしい.twitterではOxford University Pressで査読つき単著を刊行した人が議論していたけれど,OUPと日本の出版社は体力違いすぎるんで……).
私が査読なしの論文を業績として認めるべきだと主張するのは,現在査読がなくとも良質な論文や著書が多く存在しており,それらを形式的に査読されていないという理由だけで無価値であるかのように扱うのは間違っていると考えるからだ.だが未来永劫査読すべきでないと主張するつもりはない.
もちろん査読という制度には様々な問題があるので,全面的な導入に慎重になるのはわからないでもない.文系分野での査読制度の拡大は止められない趨勢だろうが,一方で「査読されていないものの良質な文献」も産出され続け,全面的な査読制度の導入まではかなり遠いだろう.そのあいだにじっくりと議論をすればよいと思う.査読がないから文系は無価値だ! と絶叫するのでも,文系に査読はなじまない! と拳を振り上げるのでもなく.
id:hogefugapiyox 「査読がないから文系は無価値だ! と絶叫するのでも,文系に査読はなじまない! と拳を振り上げるのでもなく」ほんこれ/ 査読が実質なしという事で近年問題のpredatory journalについての考えも聞いてみたいかも
英語じゃないと業績として認められない分野のことはわからないけれど,和文論文が業績として通用する分野ではpredatory journalの話はあまり聞かない.
というのは,和文査読誌を出してる主体は,学会もしくは大学・研究所などの機関にほぼ限られるから.
学会が出している査読誌の多くは,投稿資格を会員に限定していて,多くの学会は年数千円の会費(院生や非常勤と常勤では価格に差をつけている学会が多い)を払いさえすれば誰でも会員になれる(推薦者が必要な場合もあるが,指導教官とか先輩とかに推薦してもらえばよほどのことがない限り会員になれる).つまり査読誌は会費で維持されており,こういう雑誌では投稿も掲載もふつう無料だ(流石に抜き刷りとかは金を取ることが多いだろうが).会員は会費を払い,見返りとして論文投稿の権利と雑誌を頒布される権利を得る(余談だが,日本の学術誌のOA化にあたっての障害の1つがこの「会費で学術誌を維持する」システムだった.会員は会費を払って雑誌を受け取っているのに,会費を払っていない者にまで無料で公開するなんて何ごとだ! というわけ.今でも,CiNiiやjstageで無料公開してるのは発行から○年過ぎた号だけです,みたいな運用をしている雑誌はある.
大学や研究所は言うまでもなく自分たちの研究費で雑誌を維持しているので,投稿料や掲載料を取らないことが多い.それって紀要じゃ,と言われるかもしれないが,投稿資格を学生や教員に限定していない場合があり,下手するとそのへんの学会誌よりも査読が厳しく良質な論文が載ったりするので,研究機関が出している=紀要というわけじゃない.これは外国でも割と見るんだよね.
もちろんごく稀に出版社が商業で出している学術誌もあるのだが,そういう奇特な出版社は文系の学問に理解があり非常に良心的なので投稿料を取らないことが多い.少なくとも私が知ってる雑誌はそうだ.
そして,日本語のアカデミアは豊かではあるが英語ほど広くないので,predatory journalが参入しようと思うほどの旨味がないし(全世界から微妙なデキの英語論文をかき集めてくるから商売になるわけでしょ?),たいてい自分のレベルでも投稿できる雑誌が探せばどこかにあり,場所を選ばなければ発表できてしまうわけで,わざわざ悪徳業者にカネを払うインセンティブがないんですわ.最近は学内紀要にも査読つきが増えてるから,紀要に出して「査読つき論文です(キリッ」というのも可能.ただ学会誌か紀要かは下手すると雑誌のタイトル見れば判別つくから,「あ,こいつ査読論文いっぱい書いてるとか言ってるけど全部紀要だわ」みたいなのはそれこそ業績リスト見るだけでわかったりする(まあ,学内紀要でもガチ査読していることはあるので,紀要だからといって低く見られるのも可哀想なのだが.うちの大学では学内紀要に落ちたという悲鳴もちらほら聞こえます).
なのでpredatory journalに関しては,うちらには関係ないね程度の感覚.id:min2fly氏の指摘は本当にそのとおりだと思う.
(……)査読は英語で“Peer review”,同じ分野の研究仲間(“Peer”)による評価を指すが,国際化が進み,大量の研究者・雑誌・論文が存在する状況において,果たしてある雑誌の投稿者,査読者,読者が一つの研究コミュニティの「仲間」となっているのか,ということになるだろう。互いに見知ったコミュニティであれば,でっちあげられた架空の研究者に査読を依頼するなどありえないし,不正に査読を通過して論文を掲載したところで,内容が稚拙であればむしろ評価を下げることになる。また,ある程度雑誌数が限られていれば,聞いたこともないハゲタカOA 誌に掲載された論文は不審に思うはずである。(……)査読はある程度限られた規模の研究コミュニティにおいて問題なく機能する仕組みであって,現状の国際化・巨大化した研究者集団の規模に適用するには限界があると言えるだろう。
論文を読めない素人さんあるいは専門外の人たちに何をベースに信頼を担保するのかという問題なのでは?
日本の学会誌に日本語で論文出したよって言っても、著者は偉い先生の弟子で、審査委員は全員その先生に逆らえない、あるいは論文の内容に関して政府から圧力が入ったって情報あるいは噂話が入ったら、論文の中身を自分で検証できない人は著者を信じることを躊躇しちゃうよね。理系で英語誌でもそういう贔屓の問題は起きないわけじゃない(実際米国でのコネが効くといわれている)けど、国際的に中立そうな権威から認められた論文のほうが大衆からの信用を勝ち得るというのは事実だと思う。
実際内容検証する人たちからすれば、それこそ全部arXivでいいし(分野によっては無名の学者がarXiv投稿しても読む人数が少ないのではという問題はあるが)、一つ一つの論文の重要性まで加味するなら、そもそも論文や発表の「件数」を数えること自体が無意味だよね。で結局は人間同士の信頼の話になるんだけどそれはコネと腐敗の温床であって、文系のアカデミアは今まさにその腐敗を指摘されてるんだと思う。
個人的な印象を言うと言語学なんかは何語でやっても比較的大衆から信頼されると思うよ。良くも悪くも金にならない学問だし。でも政治思想と関わる社会学なんかはどうやって陰謀論が出てくる。御用学者もいれば、マルクス主義の流れだってある。そんな党派性が当たり前にあるなかで自分の大学教員としての学問性を担保できるのは海外査読の英語論文だけなんじゃないだろうか。
あとついでに言うと経済と国際関係は絶対英語でやってくれ。自国経済や外交政策の運営が世界の潮流に裏打ちされてないなんて知ったら国民が不安になるじゃないか。
言語とか文化はいいんだよ。そういったものに国民はある程度の税金投入の必要性を感じてる。でも対立する社会政策や怪しい経済や国際論争に税金が投入されているのではないかと懐疑的になって税金を出すのをやめろという勢力が出てくるのは止められない。「自分たちは正しい」と居座るのでなしに、そういうのに答えていくのも科学者の仕事なのでは。
http://anond.hatelabo.jp/20170606174324
『原発は安全』な神話も御用学者によって"作られ"てきた。そして事実は暴かれた。メルトダウンによって。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E5%AD%A6%E8%80%85
現代における用法を定義することは難しいが、学術的な調査を改竄ないしは恣意的に解釈し、権力者や統治者、ないしは依頼者に都合の良い結果を導き出す者がこう呼ばれる。一方で、権力者などへの批判側が恣意的な解釈に基づき自らに都合の良い結果を導き出していることを指摘・批判する学者に対して、反権力側がレッテル張りとして用いる場合もある。
現代日本においては水俣病の例が嚆矢である。1956年(昭和31年)、熊本大学医学部の研究チームにより、有機水銀原因説が有力視されたのだが、同年11月12日には厚生省食品衛生調査会常任委員会・水俣食中毒特別部会が大学と同様の答申を出したところ、厚生省は翌13日に同部会を突如解散。1960年(昭和35年)4月、日本化学工業協会が塩化ビニール酢酸特別委員会の付属機関として、田宮猛雄・日本医学会会長を委員長とする「田宮委員会」を設置。後に熊本大学医学部研究班も加わることとなった。有機水銀説に対する異説として清浦雷作・東京工業大学教授らがアミン説を発表し、彼らの主張がそのままマスコミによって報道されたため、原因は未解明という印象を与えた[1]。
詳細はナイロンザイル事件を参照のこと。1955年(昭和30年)、日本の登山者がナイロン製のクライミングロープ(以降ロープと記述する)を原因として死亡した。ナイロンは引張りについては従来の麻のロープよりも遥かに丈夫だが、鋭利な岩角などに擦れた場合には容易に切断される。これはすぐに明らかになったが、大阪大学工学部教授で日本山岳会関西支部長の篠田軍治は、事前の実験でザイルが容易に切れることを確認した上で、公開実験ではあらかじめザイルが接触するコンクリート製のかどにヤスリがけをして十分な丸みをつけた状態で、作為的な実験を新聞記者等の前でデモンストレーションしてみせ、ロープメーカーの東京製綱および日本山岳会と共謀して、犠牲者に対する誹謗中傷運動を山岳雑誌・化学学会誌などで長期にわたって続けた。法改正で安全規格が定められ交付されたのは1975年(昭和50年)、最初の事故以降に確認されているロープの欠陥による死者(通産省の調査した範囲内での数字)は、20人を越えるとされる。なお、偽装実験をマスコミの前で実行した篠田軍治は、日本山岳会の名誉会員推薦により、1989年(平成元年)に評議委員会の全会一致で同会の名誉会員になっている。
哲学者の山脇直司東京大学教授は、安保理決議のないままブッシュ政権主導で2003年3月イラク戦争が始められたことへの日本政府の対応について、「アカデミシャンとしての私が今一番一番懸念していることは、アメリカを無邪気に支持し、フランスなどを非協力と言って批判する小泉首相や川口外相のお粗末きわまりない答弁の背後にいる『外務省お抱えの御用学者』の存在です。」「外務省お抱えの『御用学者の知的退廃』を暴く必要を今痛感しています。」[2]と書いている。また、2003年12月からの自衛隊イラク派遣を決定する過程について、政治学者でイスラーム教シーア派に詳しい松永泰行日本大学助教授は「私の知る限り、政府は研究者の実力よりも、政治家や官僚の都合で彼らが望むことを言ってくれる御用学者を起用している」と述べた[3]。
日本たばこ産業に研究費を支援してもらうかわりに、タバコを擁護する発言を行うなど、消費者の健康よりも特定企業の利益を優先するような行為をしている学者を指して使われた事例がある。[4] また、メーカーから多額の研究費を受け取っていたために、タバコと乳幼児突然死症候群との関係があるという論文が、根拠が乏しいというように書き換えられてしまったとの指摘が存在する[5]。 タバコ産業等からの研究助成については学界において問題視されており[6][7]、2003年10月22日に日本公衆衛生学会は学会員に対し「たばこ産業及びその関連機関との共同研究、及び同産業等から研究費等の助成を受けた研究を行わない。」との行動宣言を発している[8]。また、国際的にもたばこ産業による研究助成等について全面規制を求めるたばこ規制枠組条約のガイドラインが追加採択されている[9]。
今日の現実の社会の中では、例えば有力な学者が政府の公共事業などの施策に対して、自己の信念に基づく意見、思想を審議会などの場で反映させる為に、そうした機関に呼ばれる立場を確保するべく、ある種の手練手管として、権力へのおもねりと自己の真の主張を両天秤にかけながら駆け引きをする場合がある[10]。そのため御用学者か否かの線引きは困難な側面を有する。駆け引きに失敗して結果として権力へのおもねりの手練手管を権力に利用されるだけの結果となったときには、結果として御用学者呼ばわりされてやむを得ない側面がある一方、駆け引きに成功して自己の信念を政策に反映させることに成功した場合には、反骨の策士と評価される場合もありうる。また原子力発電の分野では、研究に多額の費用がかかることから権力におもねり、「安全神話」のお墨付きを与えることで電力会社等の支援[11]を受ける例があり、このもたれあいの関係を「原子力村」[12]と評される。
読み始めは「学会誌に書けよ、何で増田なんだよ」って思ったけど、
今回の新たなチーム医療の取り組みに関しても、重症患者の治療経過が良好であった今回の経緯をふまえれば、少なくとも看護師、薬剤師のチームには医師と同等あるいはそれ以上の診療能力がある可能性を示せたと言える。上記の通り、不十分な点はあるものの、それらは今後経験を積むことにより容易に解決が期待される範囲の問題であった。それは、初期研修医、後期研修医がはじめから独力で診療を行うことが出来ないのと同様であり職種固有の問題とは言えない。海外でのNPによる成果を合わせて鑑みても、「医師であること」が診療能力を担保するわけでもなく、「医師でないこと」が診療能力の欠如を示しているわけでもない、と言える。
僕がからかったら、百万人がチョコレートは体重を減らすのだと勘違いした。その手法。
I Fooled Millions Into Thinking Chocolate Helps Weight Loss. Here's How.(John Bohannon)
(訳注:増田の新たな可能性。さあ英語ブクマ勢よ!添削し、正しい文を提示するのだ!)
「チョコレートで痩せる!」 こんな見出しが踊った。ドイツ人研究者チームが、毎日チョコバーを食べると低炭水化物ダイエットよりも10%も早く体重が落ちることを発見した。その記事は、ヨーロッパ最大の日刊紙のトップページを飾った。ジャーマンウイングス9525便墜落事故続報の真下にだ。それからそれは、インターネットの遥か彼方まで飛び火した。20を超える国と、半ダースもの言語に翻訳されてニュースになった。ワイドショーでも話題となった。それは最新のシェイプ6月号((訳注:つまり北米版「Tarzan」な))特集として、艶やかな印刷で現れた。(「何故あなたはチョコレートを毎日食べなければならないか」p128)研究では、チョコレートは体重減を加速させるだけでなく、コレステロールレベルを健康値にし、幸福度を増大させる効果があることも発見された。Bild(ドイツの新聞)の記事は、研究の筆頭著者であるIDH(the Institute of Diet and Health)リサーチ・ディレクターJohannes Bohannon博士の談話を引用した:「この手法の優れた点は……チョコレートはどこでも買える」
僕がJohannes Bohannon博士だ。まあ、実は本当の名前はジョンだし、僕はジャーナリストだ。僕は博士号はちゃんと持ってる。でもバクテリアの分子生物学ので、ヒトのじゃない。The Institute of Diet and Health((訳注:どう訳しても馬鹿っぽい……))?ウェブサイト以外には何も無いよ。
ささいな点を除けば、研究は100パーセント本物だ。同僚と僕は、ちゃんと実在するドイツ人被験者を雇った。僕たちは実際に臨床試験をしたし、被験者には色んなダイエット法を無作為に割り当てた。それに、統計的に有意な効果がチョコレートにはあるって報告は、実際のデータに基づいている。それは、実際の所、ダイエットの実地調査としては公平で典型的な研究だった。ひらたく言うと:それはヒドイ科学だった。 結果には意味が無いし、世界中の百万もの人々がメディアでがなり立てた健康の手法は、まったくもって根拠が無い。
僕らは、いかにしてやったか。
僕は、去年の12月にピーター・オネケンって名前のドイツのテレビリポーターに呼ばれた。彼と協力者のダイアナ・レーブルは、クズ科学ダイエット産業のドキュメンタリー番組に取り組んでいた。彼らは、ダイエットブームの背後にあるダメ科学入りのニュースが、どれほど簡単に作り出せるかのデモンストレーションを手伝って欲しいと言ってきた。そして、オネケンはとんでもないスタイルを望んだ:それを使って、ダイエット研究とメディア企業の腐敗を明らかにする。
呼び出し自体はそれほど驚かなかった。去年、僕は載せるのにお金を取る学会誌(オープンアクセスジャーナル)への囮作戦をやったからだ。アカデミック出版ビジネスの中で急成長中の、儲かる新しい分野だ。そういった出版社のうち何社が約束通り厳格なピア・レビューをするのか見つけるために、僕はバカバカしい欠点だらけの論文を送って、いくつ拒絶されるかカウントした。(答え:半分よりちょい少ない)
オネケンとレーブルは、全て揃えた:被験者を雇う為の数千ユーロ、研究する為のドイツ人の医者、それにこっちに都合の良いデータをこねくりまわす為の統計学者。オネケンは、僕の学会誌に対する囮と風刺の結果を聞いていたし、僕がどうやって出版させれば良いか知っていると考えていた。 唯一の問題は時間だった:この番組がドイツとフランスのTVで放映されるのが、晩春の予定だった(これは来週初放映)、だから実にたったの2,3ヶ月しかなかった。
どこかで出版できるか?たぶん。でも、その後は?僕はこれは正直失敗すると思った。僕ら科学ジャーナリストは、一般人よりは賢いだろうとの自負が有る。結局のところ、僕らは難解な科学の研究について、十分に説明できる程度には理解しておく必要があるわけだ。そして、科学的な素養を持たない記者でも、ほんのちょっとでもこのネタの為に裏取りしたら?本物の栄養学者でなくても、ちょっとした科学的素養を持つ誰かが相手なら? 彼らは、その研究がどんなにオカシクてモロいか気がつく。言うまでもないけど、ググってもJohannes Bohannonの名前も、彼の研究も、全然出てこなかった。ヘルス・サイエンスの記者連中は、ワンマイル先からでもこのごまかしを嗅ぎつけると思った。でも、できるだけ悲観的には聞こえないように、僕は言った。「これがどうなるか、、まあ見てみようよ」
オネケンとレーブルは、迅速だった。彼らはフェイスブックを使って、3週間のダイエットで誰にでも150ユーロを出すと言ってフランクフルトの被験者を募集した。ドキュメンタリー番組だってことはクリアに説明したけど、それ以上の詳細は伏せた。 寒い1月の朝、5人の男性と11人の女性が現れた。19歳~67歳だった。
この悪ふざけにノッた一般開業医、ギュンター・フランクが臨床試験を実施した。オネケンは、疑似科学ダイエットをこき下ろしたフランクの本を読んで、彼を推した。ダイエットサプリとしてビターチョコレートでテストしようというのは、彼のアイデアだ。なんで?と聞いたら、フランクは「自然食品」狂信者は気にいるだろうって言った。「ビターチョコレートは、マズイ。だから、体に良いハズだ」彼は言ったもんだ。「宗教に似てるのさ」
アンケートと血液テストで、被験者が摂食障害や糖尿病やその他の病気で無いことを確認した後、フランクは被験者たちを3つのグループに無作為に割り当てた。1つ目のグループには低炭水化物ダイエットを割り当てた。次のには、同じ低炭水化物ダイエットに加えて、毎日1.5オンス(42グラム)のダークチョコレートを。そして、残りのコントロールグループには、今のダイエット法を全く変えないように指示した。彼らは21日間、毎朝体重を測って、最後にアンケートと血液テストを行った。
オネケンは、ゴリゴリ数字を弄る為に友人で金融アナリストのアレックス・ドロステハールに頼った。週末に1樽ビールを差し入れた後……ビンゴ!低炭水化物ダイエットグループは5ポンド減量して、コントロールグループ(何もしてないグループ)の平均体重は、上下動ゼロになった。じゃあ、低炭水化物ダイエット&チョコレート組は?彼らは10パーセント早く痩せてた。かてて加えて、統計的に有意な差異として、チョコレートグループだけはコレステロール値と幸福度調査の値が良くなっていた。
何考えてるか判るよ。
この研究でチョコレートグループの体重減が早いのを見せたかったんじゃ-信頼しちゃダメじゃない?科学的じゃないんじゃない?
ここに、ダーティーでちょっとした科学の秘密がある:もし少人数に対して大量の物事を測定するなら、キミは「統計的な有意差」って結果をほぼ間違いなく手にすることができる。 この研究では、18種類も測った-体重、コレステロール値、ナトリウム値、血中タンパク値、睡眠品質、幸福感、ナドナド-たったの15人から。 (一人は落とした)この研究は、偽陽性のレシピで設計された。
計測対象を、くじ引きのクジだと考えて欲しい。クジはそれぞれ「有意な」結果を出すチャンスがあって、ストーリーを紡いで、メディアに売り込むための可能性を持ってる。もっとクジを買えば、たぶんもっと当たりやすくなった。上手くいくかは判らなかった-大見出しを賑わしたのは、チョコレートが眠りの質を良くするだったかも知れないし、血圧を下げるだったかも知れない-でも、最低ひとつは「統計的に有意な」結果が得られる可能性はかなり高いと判ってた。
ある結果が小さなp値を意味する、というフレーズを良く聞くかもしれない。このpと言う文字には言霊としての力があるんだが……まあ、ただのデータのSN比(信号対雑音比)という単位だ。 「有意」であるため閾値(カットオフ値)は、普通0.05だ。それは、5%の確率でその結果がランダムな影響かもしれないってことだ。 たくさんクジを買えば、偽陽性のチャンスを得る可能性は上がる。どれだけクジを買えば良い?
測定項目が18個あれば、p < 0.05となる「有意な」結果を得られるチャンスが60%を超えた。(測定項目は独立していなかったので、もっと高かったかも)このゲームは、僕らに有利に組み立てられた。
これをp-ハッキングと呼ぶ-0.05未満のpを出すために、実験手法とデータをこねくりまわす-そして、これは大きな問題だ。ほとんどの科学者は誠実だが、無意識にこれをやってる。彼らは結果が思い通りじゃなかったら、自分たちがしくじったと思い、「上手くいく」まで繰り返し実験をし、「異常値」を落とす。
ただ、p-ハッキングを避けようと注意したとしても、僕らの研究は(不幸なことに)被験者が少なく、コントロール出来ない要因に大きく影響を受けた。ひとつ例を挙げる:ある女性の体重は、月経サイクルで5ポンド(2.27キロ)も変動したが、これは低炭水化物ダイエットグループとチョコレートグループとの差よりもずっと大きい。これが、大量の人を対象にし、年齢や性別をバランスよくグループに取り入れる必要がある理由だ。(僕らは気にしなかった)
キミは、僕らの結果を解釈するのと同じくらい、紅茶を飲み終わった後のお茶っ葉の形を読んだほうが良い。(訳注:ハリポタにも出てくるが、茶殻を読む占いってのが有る)チョコレートは、体重減加速器かもしれないし、もしくはその反対かもしれない。キミは、ノンチョコレート低炭水化物ダイエットグループも、何もしてないグループも、同じくらい信用してはいけない。何もしてないグループの人達が何を食べたか、誰が知ってるんだ?僕らは聞かなかったけど。
幸運な事に、科学者達はこの問題に賢く対応している。いくつかの学会誌は、科学者たちのより良い習慣となるよう、p値の有意性をテストする段階にある。それに、もはや誰も研究対象の被験者を30人以下にはしない。りっぱな学会誌の編集者は、ピア・レビュアーに送る前に、即座に拒絶する。だけど、評判よりもお金のことを気にする学会誌も多い。
僕らの科学的なブレークスルーを、世界とシェアするタイミングだった。すぐに出版させなきゃいけなかったけど、ダメ科学だし、僕らはピア・レビューを完全にスキップする必要があった。 都合良く、手元にニセ学会誌のリストがあった。(これは僕のリスト、こっちは別のリスト)ちょっとタイトなスケジュールだったから、僕らは同時に論文を出した-「減量加速器としての高カカオ・チョコレート」-20の学会誌に。そして、幸運を祈りながら待った。
僕らの論文は、複数の学会誌に24時間以内に受け入れられた(アクセプトされた)。言うまでもないけど、僕らはピア・レビューに全く直面しなかった。熱烈なアプローチをしてきた、医学国際アーカイブ(the International Archives of Medicine)誌に、最終的には決めた。そこは、巨大出版社BioMedCentralによって運営されてるけど、最近オーナーが変わったばかりだった。出版社の新しいCEOであるカルロス・バスケスは、僕らの出した「傑出した原稿」をちょうど600ユーロで「我々の素晴らしい学会誌に直接掲載しよう」とJohannesにメールしてきた。(訳注:忘れてる頃だろうが、Johannes Bohannon博士はジョンの偽名だ)
アーカイブの編集者は「ジャーナルに提出されたすべての記事は、過酷な方法でレビューされる」と主張してたけど、僕らの論文はオネケンのクレジットカード決済が通ってから2週間以内に出版された。一文字も変更されなかったよ。
論文以外でも、ちょっと仕掛ける時間はあった。僕は、科学的なPRの仕事をしてる友達の友達を呼んだ。彼女は僕を通じて、見出しに載せるためのいくつか卑怯なトリックを使った。毎日僕が触れてるモノの別の側面を聞いて、ゾッとした。
コツは、信じられないほど怠惰なジャーナリズムを利用することだ。もしキミが正しく情報を紙面に反映できるなら、キミ自身がメディアに記事を書くのとほとんど同じくらい、中身を理解してるってことだ。事実、多くの記者たちが(文字通りの意味で)僕らのテキストをコピペしかしなかった。
僕のでっち上げたプレス・リリースをちょっと見て。全部入りだ。記者の専門語で:セクシーな導入部、判りやすくざっぱなグラフ、いくつかパンチの聞いた引用文、そして意外なオチ。さらに、すでに主要なポイントは詰め込んであるので、科学的な論文を読む必要が全く無い。 僕は正確さに特に注意した。記者連中を騙すというよりむしろ、論文についての完全に典型的なプレス・リリースで釣ることがゴールだったからだ。(当然、被験者の数や、グループ間の体重の差がすごく小さいことは書かなかった)
でも、良いプレス・リリースだけじゃ不十分だ。記者連中は、見出しに載せるなにか可愛い「アート」に飢えてる。
だから、オネケンとレーブルは、フリーランスのアーティストに依頼して、チョコレートと体重減少についてアコースティック・バラードとラップを作成させて、いくつかプロモーション・ビデオ・クリップを作った。(ほとんどどんなことでもインターネット上でやってもらえるってことが判るだろう)
オネケンはドイツ語のプレス・リリースを書き、ドイツの地方メディアに直接出した。記事の「専門的な」裏付けは、とても魅力的だ。たとえそれが嘘でも。そして、ドイツ語のプレスリリース爆撃はオーストリアでネットサービスから出て、イギリスでもニュースワイアー(訳注:海外にあるオンラインニュース配信サービス)の外に出た。品質管理なぞ無かった。それは記者連中に託されていた。
僕は、世界中で爆釣れしている中、自慢と嫌悪が混ざり合ったなんとも言えない気持ちになっていた。
餌に喰いついたと気がつく前に、デカイ魚を釣り上げていることすらあった。Bild(新聞社)は、急にこの記事を書いた-「チョコレートを食べてもスリムなまま!」-全然こっちに連絡無く。すぐに、デイリー・スター紙、アイリッシュ・エギザミナー紙、コスモポリタンのドイツ語版サイト、インド版のTimes紙、ドイツ版とインド版のハフィントン・ポスト、それにテキサスのテレビニュースとオーストラリアの朝のトークショー、に気がついた。
記者連中は、とんと僕にコンタクトしてこなかったけど、してきても投げやりな質問だけだった。「なぜチョコレートで減量が加速すると思いますか?読者に何かアドバイスは?」ほぼ誰からも被験者数については聞かれなかったし、誰も数は報道しなかった。誰一人として、他の研究者に聞いていなかった。他の研究者の引用は、無かった。
これらの刊行物は、大量の聴衆を操るけど、必ずしもジャーナリズムの美徳の鑑ってワケじゃない。だから、新しい見出しのためにちょっとしたデジタル撒き餌でも簡単に食いつくのは、別に驚くことじゃない。ベージビューを収穫して、次に行くだけ。でも、(恐らくは)厳格な地方局でも、同じように研究の穴を見つけることは出来なかった。
僕らの研究を伝えるシェイプ・マガジンの記事では-6月号の128ページを見てね-校正係(fact-checker)を雇っていたけど、でも他と同じようにやる気が無かった。校正は全部含めても、2,3の文の正しさと、僕の名前の綴りの確認だけ。校正範囲は、減量を促すチョコレートのカカオ含有量(81%)、2つのブランドの特定だけだった(食料品店とアマゾンで買える)。
いくつかは銃弾を避けた。ある男性向け健康情報誌の記者は、Eメールでそれほど厳密では無い質問をいくつかしてきた。彼女は、9月号の記事を予定していると言ってたので、僕らはその記事がどうなるかは全く判らない。
じゃあ、最も期待はずれだったのは?誰一人として、チョコレートミュージックビデオを使ってくれなかった。その代わり、みんなどことなくポルノチックなチョコレートを食べる女性のイメージを使った。たぶん、この音楽に僕らの生活の真実ってやつがにじみ出ているからだろう:
なんで気にする必要がある?必死に信用できる情報を求める人達は、ズラッと並んだダイエットガイダンスに戸惑ってる-塩は悪い、塩は良い、タンパク質は良い、タンパク質は悪い、脂質は悪い、脂質は良い-まるで天気みたいに変わる。
でも、科学は明らかにするよね、ね?今は、肥満を疫病のように言ってて、トップクラスの科学者達に資金が注入されてる。いずれ原因と治療法をクリアに答えてくれて、雑音は止む。
もしくは、そうじゃないかも。
公平に見て、十分な資金を持ち本当の減量科学の研究をしているところでは、混乱してて、結論を出せていない。非営利の栄養学推進機関(the Nutrition Science Initiative)共同設立者で外科医のピーター・アティアは嘆いている。例えば、女性の健康促進(the Women’s Health Initiative)-その種の調査で最大のものの一つ-で、ダイエットと健康についていくつかが明確になった。アティアは 「その結果は、混乱するものでした」と言う。「彼らは、10億ドルを費やしても、低脂肪ダイエットが良いか悪いか証明できなかった」アティアの非営利団体は、基本的な質問の答えを探すために、1.9億ドルを調達しようとしている。でも、肥満の科学に注意を向けるのはひどく難しい。彼は言う「あまりにも雑音が多すぎる」
キミは、僕みたいなのに感謝することが出来る。僕らジャーナリストは、日々のニュースという獣を養う必要があって、ダイエット科学は打ち出の小槌だ。読者は、赤ワインの効能やフルクトースの危険性について、十分な記事を読めない。一般的な関心事というだけでなく-それは、1日に最低3回は必要という決定に関連している-それは科学だ!僕らは、どんな報告でも、家から出る必要は無い。僕らは、メールボックスに届いた科学的なプレス・リリースを、デイリーニュースという小川にちょっと浸す。そして、ストックしといたスナップ写真を貼り付けたら、完成。
ダイエット科学の唯一の問題は、それが科学であるってことだ。キミは、科学の論文の読み方を知っている必要がある-さらにいえば、本当はやってみる必要もある。とても長い間、人々はゴシップみたいにこのインチキと同じプレスリリースに飛びついては流行を作ってきた。願わくば、この小さな実験が、記者連中や読者を、もっと疑り深くしてくれますように。
もしも、どれだけの被験者を対象としたか明らかにしない研究、「統計的に優位」と言うにも関わらずどれだけ影響が大きいか言わない大胆なダイエット法が発表されたら、キミは「なぜ?」と思うはずだ。でも、大抵の場合、僕ら(訳注:忘れた頃だろうが、科学ジャーナリスト)はやらない。 残念だけど、ジャーナリストは事実上、相互評価(ピア・レビュー)のシステムで動いてるからだ。そして、僕らが失敗すれば、世界はジャンクサイエンスで溢れかえる。
この悲喜劇にも、希望の光はあった。記者連中が僕らの「発見」を吐き出している間、多くの読者が思慮深く、疑い深かった。オンラインのコメントで、彼らは記者連中が聞くべきであった質問をポストした。
「なぜ、各個人のカロリーを計測していない?」ボディービルフォーラムで読者が質問した。「このドメイン(IDHのウェブサイトのモノ)は、3月に登録されてて、大量のブログやニュースは、この研究以外には触れていない(ググれ)。これは誰かが背後に居るぞ」ドイツの主要なオンラインマガジンの内の一つ、FOCAS Onlineの読者が言った。
また、先見性のある読者が、4月4日のデイリー・エクスプレスの記事にこうコメントした。「栄養学は毎日がエイプリルフール」。
更新:the International Archives of Medicineのウェブサイトからは取り除かれちゃったけど、ココで読めるよ。
(訳注:修正済みのためCorrectionは訳さず。あと、何箇所か言い回しが怪しいので、適宜修正するよ)
結構完成されていてあまり拡がる余地がないため新しいテーマを模索中.
が,中々よい切り口が見つからず,端的に言えば非常に焦っている.
→過度な自尊心?
業務が終わったらその日はそれで満足してしまい,
休日は動く気にもなれず,寝て起きて寝て起きてで終わる.
→甘え?
「こんなことをやっていていいのか」という不安に駆られ
作業が進まず,予定より進行が遅れる.
期待を持って任せてくれた仕事に結果を出せないことに
大きな罪悪感を感じる.
前述の進行の遅れに対する問合せが怖く,
→過度な自尊心?
私が死んでも代わりは居るよなーとか,
結構完成されていてあまり拡がる余地がないため新しいテーマを模索中.
が,中々よい切り口が見つからず,端的に言えば非常に焦っている.
→過度な自尊心?
業務が終わったらその日はそれで満足してしまい,
休日は動く気にもなれず,寝て起きて寝て起きてで終わる.
→甘え?
「こんなことをやっていていいのか」という不安に駆られ
作業が進まず,予定より進行が遅れる.
期待を持って任せてくれた仕事に結果を出せないことに
大きな罪悪感を感じる.
前述の進行の遅れに対する問合せが怖く,
→過度な自尊心?
私が死んでも代わりは居るよなーとか,
今は一次資料よりも二次資料(二次創作物)の先行研究を資料として挙げてるのが多いですね。
例えば、ある先行研究があってそれに対してある学者が甲であると主張するのに対して他の学者は乙であるという主張がなされている、
昔と違って大学図書館などで比較的入手しやすい二次資料(学会誌や機関誌に掲載される論文など)の方が、研究論文を執筆する上で楽だからというのがあります。
重要なのは、「一次資料を照らし合わせ、その資料の正しさも検討し、それぞれの議論を検討した上で、妥当な結論を下す」といった作業だ。
概ねそうなのだけれど、問題は「結果があって過程を導き出すのが文系」という事に尽きると思います。
要するに、どうしてこの結果になったのかを調べるというスタンスなんで、一概に「議論を検討してから妥当な結論を下す」が文系の作業とは言えません。
結果そうなってしまった、あるいはそうに違いないという推定がなされるので妥当かどうかというよりもまず結論を下す事に重きがあるように感じます。
理系はむしろこういった曖昧さを捨てるので、さも確りと結論を下すように思いがちですが、その反面完璧な結果を求めすぎるためにその過程を疎かにする事があります。
その例が小保方晴子です。
文系は逆に過程が完璧であり過ぎるために結果が曖昧になりがちなのです。
それは過程である一次資料や二次資料が曖昧であるため、起こってしまうのです。
そのため文系だから理系だからというのを突き詰めて考えるのはナンセンスです。
さて、自称文系についてなのですが、彼らは厳密には文系に属さないと考えます。
彼らはどちらかといえば根性論や精神論を全面に出していく体育会系のタイプであります。
こうすれば結果が良くなる、但し検証はしていない。だが大丈夫だ、俺が言うんだから間違いないといった、
彼らの経験則が土台にあるからで、文系や理系が取り柄とする結果や過程の完璧さを考慮しない所に体育会系の愚かさがあります。
自称文系というのはあくまで理系文系という二体系の中で妥当と思われる所に宛がわれたに過ぎません。
体育会系は結果や過程など気にしない生き物なので、文系のように過程に重きを為す学問には当てはまりません。
そのため馬鹿、もとい自称文系にはもっと適した体系に置くべきでしょう。
人工知能学会誌の表紙デザイン ひ ど す ぎ !!! うつろな目で掃除をする女性型ロボット...
↑↓
花魁風着付け ひ ど す ぎ !!! 派手な格好で式に参加する新成人...
おっ! 朝おきてみると美少女アイコンたちから、リプが!笑 おおきいお友達のみんな、いちばんのもんだいは、表紙デザインそのものよりも 「学会がこういう論争が起きかねないことに無自覚」ということなんだよ!♡ わかったかな〜?♡ (๑˃̵ᴗ˂̵)و
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おっ! 朝おきてみると女性自撮アイコンたちから、リプが!笑 たいらな顔のみんな、いちばんのもんだいは、花魁風着付けそのものよりも 「新成人がこういう論争が起きかねないことに無自覚」ということなんだよ!♡ わかったかな〜?♡ (๑˃̵ᴗ˂̵)و
複数のアニメアイコンから個人攻撃を受けたことに立腹して、関係ない良識あるオタクの人が傷つくツイートをしてしまったことを反省している。ごめんね。でも主張は昨日のツイートと変わらない。「学会誌の表紙デザインに掃除する女性ロボットが起用される現状」を外の視点から見つめ直してほしい。
↑↓
複数の女性自撮アイコンから個人攻撃を受けたことに立腹して、関係ない良識ある女性の人が傷つくツイートをしてしまったことを反省している。ごめんね。でも主張は昨日のツイートと変わらない。「成人式に花魁風着付けの新成人が参加する現状」を外の視点から見つめ直してほしい。
④女性型のロボットが家事をしている →ステレオタイプ①〜③を連想する
⑦欧米では①〜④の理由から同デザインを学会誌に起用すると明らかに非難される
⑧①〜④や⑦をふまえずデザインを起用した学会は同問題に無自覚であり国際的視点に欠けると言える
簡単でしょ。わかった?☆
↑↓
②破廉恥で下品=素行が悪いというステレオタイプが存在していた
④新成人が派手な花魁風着付けをしている →ステレオタイプ①〜③を連想する
⑦一般常識では①〜④の理由から同服装で式典に参加すると明らかに非難される
⑧①〜④や⑦をふまえず花魁風着付けで参加した新成人は同問題に無自覚であり常識的視点に欠けると言える
簡単でしょ。わかった?☆
結論
TPOを考えて行動しよう!
「人工知能の思想とフェミニズムの思想は中途半端に似ている(しかし絶対違う)ので人工知能側の行うことにジェンダー論が紛れ込む要素がみつかるとフェミの側で炎上しやすい構造が元々ある、という色眼鏡をかけると人工知能学会表紙の件が通りよく理解できるのではないかなぁと思っている。
人工知能は機械が自立性を獲得する学問で、ジェンダー論は女性が自立性を獲得する学問で、「自立性の獲得」という点では共通しているんだけど機械は元々自立性は持っていない反面、人は元々もっている自立性を取り返す、「再獲得する」という点で二つの学問は明確にことなる。
で、ジェンダー論やってるひとはたぶん「獲得する」という言葉を使わないように気をつけてきたと思うんです。元々もっているものを再獲得する、復活するという風にしないと最終的に男女平等が達成されても「女性は元々持っていないものを頑張って手に入れた」になっちゃうから。そもそもが平等じゃない。
という色眼鏡を用いた上で表紙をみると、「たとえ男女平等の世界が達成されたとしても、機械が自立性を獲得したように女性も自立性を獲得したんだね」という、自分の目的は達成されたのに根本的な部分で人と機械が同列に扱われている恐ろしい世界がジェンダー論をやっている方々には幻視されてしまったんじゃないかなぁと。
なので人工知能の思想とジェンダー論の相似と差異、という点にまで踏み込んで人と機械を同列に扱うな!という主張をしてるんだったら擁護するかもしれない。「ただでさえ人工知能とジェンダー論は近いのに掃除する女形なんて微妙なの出してきたらいろいろごっちゃになるだろ!こっちは機械とごっちゃにされちゃ困るんだ!」みたいな。
なので、女性型アンドロイドが掃除をしている姿そのものに政治性は薄いけど、自立性を付与する学問である人工知能の学会誌がこれを表紙にするということでジェンダー論からの解釈が挟み込まれる余地が生まれてくる可能性はなんとなくわかる。まあ色眼鏡かけなかったら特に何も思わないんだけど。
結論としてあれだよね、「人工知能=アンドロイドは固定観念!」という批判は、チューリングテストで人工知能とは人と区別がつかないことであるって定義された人工知能の歴史と伝統を踏まえて言ってるのならいいけど、たぶん互いに無知なところがあるよね。
某学会誌の表紙がアニメ調?な女性型ロボットだったせいで話題になった。
乱暴に要約しちゃえば、このデザインはパブリックな刊行物の表紙にはふさわしくない! これにGOを出した編集委員は無知すぎる、ということっぽいのだが、さて、お話はその問題提起の是非でも問題そのものでもなく、どうして、そういわれるとイラッとくるのか、ということだ。
ぶっちゃけったところ問題提起自体は、ああ、そうかもしれんね、と簡単に流せるようなもののはずだ。
「こども」の表記を「子供」とするか「子ども」とするかの違いみたいにジェンダーに関心がなければ、どうでもいいレベルの話のはず。でも、現実にはジェンダーに関心がなくても熱くなったひとがいるように見えた。いやいや、その女性型ロボット=女性蔑視とか短絡的すぎじゃね? みたいな反抗を生んだ。
この反抗したくなるイラつきの原因は、適当に歩いていたらいきなり「お前、馬鹿じゃね?」と言われたようなものだからだと思う。
問題提起だから当たり前なのだけれど、提起されるまでそこに問題は存在しなかった。だれもそれが問題だとは考えていなかったし、それを取りあげて問題にするとも思えなかった。だけれども、指摘は黒船のように唐突にあらわれて、鼻息あらく問題だ! と指摘された。キーワードは「海外」だ。海外では、学会誌でこういうイラストが起用された非難されるという指摘。もうね、それはどうしようもない言われ方だ。なぜなら海外ではこうなんです、と言われると、それが本当なのか嘘なのかを確かめることもできないうえに、ステロタイプみたいに海外は日本より優れているという劣等感が少なからず(ガラパゴス化という言葉があるぐらい)あるものだから、神経を逆なでにされる。ついカッとなって、反論したくなる。そうじゃないのだ、と。しかし、その反論はとどかない。なぜなら、問題を提起した人間も「海外」は日本より優れていると考えていて、海外を知っているという点で優越感を持っているから、ガラパゴス化した思考をした人間の反論は子供の戯言と流すことができる。
かくして、両者は平行線をたどり、指摘された側はうちにイライラを溜めていくのだ。
指摘した側はこれだから日本人は……と肩をすくめて、指摘された側はその指摘が理解できないんだけれど、とイラつく。
じゃあ、どうすればいいん? となると難しい。
ただ、「海外」が優れているという視点に立っての問題提起は、おそらく問題提起になっていない。問題を突きつけられた側は、その「海外」を知らないから問題を理解できない。歩みよりが必要なのだけれども、優れていると考えている人間は、みんなが自分と同じ過程をへて、ここに至ると考えているから歩みよってこない。手は差しのべた、あとは掴めばいいとか考えている。
伸ばした先には誰もいないのに。
「掃除」に差別的記号を見出したり、ホース?コード?に奴隷の鎖を連想して「差別的印象を与えるおそれがある」までは言えるよね。
描いた人の差別意識が表出している、とまでは客観的には読み取れないです。
描いた人が女性だったって事実は、ある程度はそれを支持するんじゃないでしょうか。
「差別的印象を与えるおそれがある」とだれも指摘しなかったのかなーとは思います。
というか単純に「ちょいヤバかも?」と思わなかったのかなと。
学会誌の表紙として不適切である/不適切とまでは言えない、について断定的に述べるのはかなり難しいんじゃないでしょうか。
今までに固定的ジェンダー観が叩かれた事件。
「私作る人、僕食べる人」とか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E9%A3%9F%E5%93%81
これと同列に扱うのは酷だよなあと思います。
この例は、男を対比させて、「家事は女の仕事、男のするものでない」というメッセージが明確に読み取れる。
これで「性別役割分業意識の追認であるから許容できない」となったら、現実の専業主婦こそ追認どころか実践してるじゃないですか。
「なんでこの表紙に限ってそんなに熱心なの?」という違和感はどうしても拭えないです。
個人的には、限られた人向けの学会誌の表紙より、
アニメ「サマーウォーズ」で家事してるのが全員女だったことのほうが嫌な感じだったけどなあ。
影響力なら後者だと思うけどなあ...
「学会のPC意識の低さに失望した!」って言うんだけどそれもあんまり心に響かないんですよね...
そんなに人工知能学会とか学術会に期待したんかなあと。
言ってることはことごとく正論なんだけど、この人らそんな山奥に行きたいんかなあ...って。
「人権意識高い系の我々が意識低い差別者共を糾弾し、啓発する」みたいな。
批判できないけど嫌な感じするやつ。
「固定的ジェンダー観の押し付けに対して怒っている」という印象はあまり受けず、
「学会のPC意識の低さに対して失望している」という印象もあまり受けず、
「キモオタ憎し」っていう印象を受けました。
ツイフェミってけっこう党派的というか、「私はこう思う」と発言するよりも、
仲間の発言に同調する人々なんだなあと思いました。
「憎しみにドライブされる」「党派的」なところはネトウヨに似てるなあと...
深く考えたりまとめたりする頭があるわけでもないので、頭の中でもやもやしていることをとりとめのない感じに並べるだけ。割と長い。いろんなところで見たものの寄せ集めかも。
人工知能学会誌の表紙絵で一騒動あったが、その批判に対して言いがかりだという感じの反応が多く見られた。
些細なことで差別のレッテルを貼られることへの怒り、反発、表現をする側が批判を恐れ、政治的に正しい表現へと漂白されていくのではないかという危機感を強く感じる。
今回の件に限ったことではなく、特に"政治的に正しい"というのにものすごく反発がある様子。
自分もそういう反発心がないわけでもないし、表現の自由度が下がるのは避けたいとも思っている。
ただこうした反応を見ていて、自分は反対の方向に危機感を覚えたりする。表現に対して批判をしたり嫌悪感を表明することが封じられてしまうんじゃないかと。
批判のために攻撃的な言葉が使われる問題。それこそ差別的だという指摘がある。
もちろんどの立場であっても攻撃的な言葉を使うのはよろしくない。しかし多数派の罵倒はスルーされやすく、少数派の罵倒は目立って大きな憎しみを買いやすい。それがまた一層激しい罵りに繋がる気もしている。
ゾーニング、住み分けもかなり重要ではあるが、住み分ければいいだけの話、というのも個人的にはあんまりいい流れではないと感じている。分断する方向へ向かっているような。そこへ至るにはある程度のプロセスが必要ではないかな…
批判や議論も重要だし、嫌悪感の表明も自由だと思う。しかしそれによって簡単に表現が規制されたりすることはない方がいい。批判があったらダメというわけではない。批判があるからといって規制する必要はない。
表現規制の問題があるからか、批判というとすぐ規制に繋げてしまう傾向がある。
と言っても激しく批判する方もそれに激しく反発する方も、落としどころを見つけようとか意見を聞こうとか、おそらく思ってはいないんだよな…。相手を叩きのめそうという力が大きく働いている感じがある…。またそればかりが目立つために類似の意見すべて感情的に受け入れられなくなる、といったこともあるようだ。
自分としてはあの表紙絵が特別差別的だとは思わないし、些細なことではある。些細なことであるから問題であるとも思う。生贄的な側面は確実にある。意味のない指摘とは思っていない。
今回の件では、人工知能学会をどう見るかによっても意見が分かれたようだ。学会誌は内向けではあるだろうが、趣味を共有する目的のものではないだろうし、実用に目を向けているからこそ表現に気を遣う必要はあるかと思う。
人工知能を愛でる学会であればおそらくそんなに問題にはならない。
女性は家事とかそんなステロタイプは今時ほとんどねーよという反応も結構あった。これは、観測範囲に単身世帯が多いのではないかなあと思っている。単身なら性別関係なく家事をする。自分の観測範囲では所帯を持った人が多いが、女性が家事のほとんどをやっていて共働きというのが圧倒的に多いように見える。
労働環境の都合上そうなるしかないというのもある。田舎に住んでいるというのもあるだろう。実際全体ではどうなのか…ステロタイプから脱却するべきという認識は主に若い世代に広く共有されているが、状況はそれほど大きく改善されたわけではないってとこかな。
まあ観測範囲が狭いのでなんとも。
一番気にしているのは、批判の声が大きくなった場合、表現をする側の心が折れる問題。
批判や議論はあった方がいいと思いつつ、それらを受け止められる表現者がそんなにいるとは思えない。今回騒動になった絵を描いた人の心が折れていないか正直心配である。絵が悪いわけでも描いた人が悪いわけでもない。
ステロタイプな表現は社会の鏡であり、表現そのもの以前に社会環境の方に問題があるのは確か。
表現の影響を過大に見る向きがあると感じる一方で、それに反発して過小に見る向きもあるように感じる。ひとつの表現が社会に与える影響は大きくはないし、大抵の場合劇的な何かをもたらしたりはしないと思うが、多くの表現が少しずつ既成概念を作り上げているところはあると思う。
表現が個人に与える影響は多分かなり大きい。
海外を引き合いに出さずとも多様な立場にいる人が声を出すようになれば、批判される割合はどんどん高くなっていき、面倒なことは増えていくと思われる。声が出ることを歓迎する反面、何らかの表現をする者にとって背負いきれない重荷であるとも感じている。
間違った表現、正しい表現があるわけではない。漂白する方向へ向かうよりは、多様化する方向へ向かった方がいいと思う。向かって欲しい。
で、結局どうしたらいいのか、自分には分からない。真摯に考えた人もたくさんいたと思うし、記事も色々読めたことは自分としてはよかった。議論が起こるのは意義のあることだと思う。一方で溝が深まっただけという気もしている。
SF的にこれからの表現のあり方や人工知能、アンドロイドのあり方なんかに議論が広がっていったら主に自分が喜んだのだが。表現が差別であるかどうかで泥仕合になってしまったのは残念だった。いや、これにも意義はあるのかもしれない。わからない。
結論はない。頭いたい
1/3追記
id:hal9009 表現が既成概念を作ってるってのは多分幻想なんだよな~。実利があれば表現が追い付かないほどの勢いで世の中変わるので。変わらないのは構造的にではあれその現実を支える確かな「利益」が存在しちまってるんだよ
これなんだけど、自分が感じてるのはもうちょい小さいことで、情報の少ないことや些細なことについての既成概念。
些細な認識の穴埋めとして物語などで得た情報が結構使われている気がする。
現実に色々な情報が入ってくるようなことだと頻繁に上書きされるので表現は表現という認識にとどまる気がする。
実際には違うという認識が共有されつつお約束とされている表現があって、何らかの理由で共有されていた認識が薄らいでお約束の表現だけ残ったら、割と面白…面倒くさいことになるかもしれない、などと思うこともあり。
情報が少ないことであったり取るに足らないような些細なことであったりすると、なんとなくそのまま表現のイメージを引きずってしまう感があるということ。
些細なことなので問題ないといえば問題ないかもしれないが、些細であるだけになかなか更新されないなど。
それがよくないと思っているわけでもなく、既成概念も物事を見るのには必要だが、面倒な問題を起こすこともある、と思っている。
頭の中でもやっと考えているだけで自分でもまとめられないので具体例を出せといわれるとよく分からなかったりする。
あんまり多くの方向にアンテナ張って本当に些細なところにも配慮しつつなにか表現しようとすると死んでしまうが、些細なことに突っ込む意義もまたあるということ。