今は一次資料よりも二次資料(二次創作物)の先行研究を資料として挙げてるのが多いですね。
例えば、ある先行研究があってそれに対してある学者が甲であると主張するのに対して他の学者は乙であるという主張がなされている、
昔と違って大学図書館などで比較的入手しやすい二次資料(学会誌や機関誌に掲載される論文など)の方が、研究論文を執筆する上で楽だからというのがあります。
重要なのは、「一次資料を照らし合わせ、その資料の正しさも検討し、それぞれの議論を検討した上で、妥当な結論を下す」といった作業だ。
概ねそうなのだけれど、問題は「結果があって過程を導き出すのが文系」という事に尽きると思います。
要するに、どうしてこの結果になったのかを調べるというスタンスなんで、一概に「議論を検討してから妥当な結論を下す」が文系の作業とは言えません。
結果そうなってしまった、あるいはそうに違いないという推定がなされるので妥当かどうかというよりもまず結論を下す事に重きがあるように感じます。
理系はむしろこういった曖昧さを捨てるので、さも確りと結論を下すように思いがちですが、その反面完璧な結果を求めすぎるためにその過程を疎かにする事があります。
その例が小保方晴子です。
文系は逆に過程が完璧であり過ぎるために結果が曖昧になりがちなのです。
それは過程である一次資料や二次資料が曖昧であるため、起こってしまうのです。
そのため文系だから理系だからというのを突き詰めて考えるのはナンセンスです。
さて、自称文系についてなのですが、彼らは厳密には文系に属さないと考えます。
彼らはどちらかといえば根性論や精神論を全面に出していく体育会系のタイプであります。
こうすれば結果が良くなる、但し検証はしていない。だが大丈夫だ、俺が言うんだから間違いないといった、
彼らの経験則が土台にあるからで、文系や理系が取り柄とする結果や過程の完璧さを考慮しない所に体育会系の愚かさがあります。
自称文系というのはあくまで理系文系という二体系の中で妥当と思われる所に宛がわれたに過ぎません。
体育会系は結果や過程など気にしない生き物なので、文系のように過程に重きを為す学問には当てはまりません。
そのため馬鹿、もとい自称文系にはもっと適した体系に置くべきでしょう。
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