2014-10-28

文系馬鹿じゃないです。

今は一次資料よりも二次資料(二次創作物)の先行研究資料として挙げてるのが多いですね。

例えば、ある先行研究があってそれに対してある学者が甲であると主張するのに対して他の学者は乙であるという主張がなされている、

といった塩梅繋ぎ合わされてる論文基本的に多いです。

昔と違って大学図書館などで比較的入手しやす二次資料(学会誌機関誌掲載される論文など)の方が、研究論文執筆する上で楽だからというのがあります

重要なのは、「一次資料を照らし合わせ、その資料の正しさも検討し、それぞれの議論検討した上で、妥当結論を下す」といった作業だ。

概ねそうなのだけれど、問題は「結果があって過程を導き出すのが文系」という事に尽きると思います

要するに、どうしてこの結果になったのかを調べるというスタンスなんで、一概に「議論検討してから妥当結論を下す」が文系の作業とは言えません。

結果そうなってしまった、あるいはそうに違いないという推定がなされるので妥当かどうかというよりもまず結論を下す事に重きがあるように感じます

理系はむしろこういった曖昧さを捨てるので、さも確りと結論を下すように思いがちですが、その反面完璧な結果を求めすぎるためにその過程を疎かにする事があります

その例が小保方晴子です。

文系は逆に過程完璧であり過ぎるために結果が曖昧になりがちなのです。

それは過程である一次資料二次資料曖昧であるため、起こってしまうのです。

歴史は勝者の手によって作られるので矛盾が生じるためです。

そのため文系から理系からというのを突き詰めて考えるのはナンセンスです。

どちらもメリットデメリット存在します。

さて、自称文系についてなのですが、彼らは厳密には文系に属さないと考えます

彼らはどちらかといえば根性論精神論を全面に出していく体育会系タイプであります

こうすれば結果が良くなる、但し検証はしていない。だが大丈夫だ、俺が言うんだから間違いないといった、

彼らの経験則が土台にあるからで、文系理系が取り柄とする結果や過程完璧さを考慮しない所に体育会系の愚かさがあります

自称文系というのはあくま理系文系という二体系の中で妥当と思われる所に宛がわれたに過ぎません。

故に自称文系というのは誤りだと考えます

体育会系は結果や過程など気にしない生き物なので、文系のように過程に重きを為す学問には当てはまりません。

そのため馬鹿、もとい自称文系にはもっと適した体系に置くべきでしょう。

すなわち「自称文系」は、体育会系という文系理系に属さない第三の体系に組み込むべきだと私は思います

http://anond.hatelabo.jp/20141027193045

記事への反応 -
  • 無駄な文系コンプレックスをこじらせている人ほど、文系学部が必要ないと言い出す。 そして、その多くの「自称文系」は、文系としてもダメなことが多い。 確かに理系学部は、実社...

    • 今は一次資料よりも二次資料(二次創作物)の先行研究を資料として挙げてるのが多いですね。 例えば、ある先行研究があってそれに対してある学者が甲であると主張するのに対して他の...

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