2014-01-01

表現とそれに対する批判についてごちゃっと

深く考えたりまとめたりする頭があるわけでもないので、頭の中でもやもやしていることをとりとめのない感じに並べるだけ。割と長い。いろんなところで見たものの寄せ集めかも。

 

 

 

人工知能学会誌の表紙絵で一騒動あったが、その批判に対して言いがかりだという感じの反応が多く見られた。

些細なことで差別レッテルを貼られることへの怒り、反発、表現をする側が批判を恐れ、政治的に正しい表現へと漂白されていくのではないかという危機感を強く感じる。

今回の件に限ったことではなく、特に"政治的に正しい"というのにものすごく反発がある様子。

自分もそういう反発心がないわけでもないし、表現の自由度が下がるのは避けたいとも思っている。

ただこうした反応を見ていて、自分は反対の方向に危機感を覚えたりする。表現に対して批判をしたり嫌悪感を表明することが封じられてしまうんじゃないかと。

 

 

批判のために攻撃的な言葉が使われる問題。それこそ差別的だという指摘がある。

もちろんどの立場であっても攻撃的な言葉を使うのはよろしくない。しかし多数派の罵倒スルーされやすく、少数派の罵倒は目立って大きな憎しみを買いやすい。それがまた一層激しい罵りに繋がる気もしている。

ゾーニング住み分けもかなり重要ではあるが、住み分ければいいだけの話、というのも個人的にはあんまりいい流れではないと感じている。分断する方向へ向かっているような。そこへ至るにはある程度のプロセス必要ではないかな…

批判や議論も重要だし、嫌悪感の表明も自由だと思う。しかしそれによって簡単に表現規制されたりすることはない方がいい。批判があったらダメというわけではない。批判があるからといって規制する必要はない。

表現規制の問題があるからか、批判というとすぐ規制に繋げてしまう傾向がある。

 

批判や議論は善悪や勝ち負けを決めるためのものではない。

と言っても激しく批判する方もそれに激しく反発する方も、落としどころを見つけようとか意見を聞こうとか、おそらく思ってはいないんだよな…。相手を叩きのめそうという力が大きく働いている感じがある…。またそればかりが目立つために類似の意見すべて感情的に受け入れられなくなる、といったこともあるようだ。

自分としてはあの表紙絵が特別差別的だとは思わないし、些細なことではある。些細なことであるから問題であるとも思う。生贄的な側面は確実にある。意味のない指摘とは思っていない。

 

 

今回の件では、人工知能学会をどう見るかによっても意見が分かれたようだ。学会誌は内向けではあるだろうが、趣味を共有する目的のものではないだろうし、実用に目を向けているからこそ表現に気を遣う必要はあるかと思う。

人工知能を愛でる学会であればおそらくそんなに問題にはならない。

 

 

女性家事とかそんなステロタイプは今時ほとんどねーよという反応も結構あった。これは、観測範囲に単身世帯が多いのではないかなあと思っている。単身なら性別関係なく家事をする。自分観測範囲では所帯を持った人が多いが、女性家事ほとんどをやっていて共働きというのが圧倒的に多いように見える。

労働環境の都合上そうなるしかないというのもある。田舎に住んでいるというのもあるだろう。実際全体ではどうなのか…ステロタイプから脱却するべきという認識は主に若い世代に広く共有されているが、状況はそれほど大きく改善されたわけではないってとこかな。

まあ観測範囲が狭いのでなんとも。

 

 

一番気にしているのは、批判の声が大きくなった場合表現をする側の心が折れる問題。

批判や議論はあった方がいいと思いつつ、それらを受け止められる表現者がそんなにいるとは思えない。今回騒動になった絵を描いた人の心が折れていないか正直心配である。絵が悪いわけでも描いた人が悪いわけでもない。

ステロタイプ表現社会の鏡であり、表現のもの以前に社会環境の方に問題があるのは確か。

表現の影響を過大に見る向きがあると感じる一方で、それに反発して過小に見る向きもあるように感じる。ひとつ表現社会に与える影響は大きくはないし、大抵の場合劇的な何かをもたらしたりはしないと思うが、多くの表現が少しずつ既成概念を作り上げているところはあると思う。

表現が個人に与える影響は多分かなり大きい。

 

海外を引き合いに出さずとも多様な立場にいる人が声を出すようになれば、批判される割合はどんどん高くなっていき、面倒なことは増えていくと思われる。声が出ることを歓迎する反面、何らかの表現をする者にとって背負いきれない重荷であるとも感じている。

間違った表現、正しい表現があるわけではない。漂白する方向へ向かうよりは、多様化する方向へ向かった方がいいと思う。向かって欲しい。

 

 

で、結局どうしたらいいのか、自分には分からない。真摯に考えた人もたくさんいたと思うし、記事も色々読めたことは自分としてはよかった。議論が起こるのは意義のあることだと思う。一方で溝が深まっただけという気もしている。

SF的にこれから表現のあり方や人工知能アンドロイドのあり方なんかに議論が広がっていったら主に自分が喜んだのだが。表現差別であるかどうかで泥仕合になってしまったのは残念だった。いや、これにも意義はあるのかもしれない。わからない。

 

結論はない。頭いたい

 

 

 

1/3追記

id:hal9009 表現が既成概念を作ってるってのは多分幻想なんだよな~。実利があれば表現が追い付かないほどの勢いで世の中変わるので。変わらないのは構造的にではあれその現実を支える確かな「利益」が存在しちまってるんだよ

これなんだけど、自分が感じてるのはもうちょい小さいことで、情報の少ないことや些細なことについての既成概念

些細な認識の穴埋めとして物語などで得た情報結構使われている気がする。

現実に色々な情報が入ってくるようなことだと頻繁に上書きされるので表現表現という認識にとどまる気がする。

実際には違うという認識が共有されつつお約束とされている表現があって、何らかの理由で共有されていた認識が薄らいでお約束表現だけ残ったら、割と面白…面倒くさいことになるかもしれない、などと思うこともあり。

情報が少ないことであったり取るに足らないような些細なことであったりすると、なんとなくそのまま表現イメージを引きずってしまう感があるということ。

些細なことなので問題ないといえば問題ないかもしれないが、些細であるだけになかなか更新されないなど。

それがよくないと思っているわけでもなく、既成概念も物事を見るのには必要だが、面倒な問題を起こすこともある、と思っている。

頭の中でもやっと考えているだけで自分でもまとめられないので具体例を出せといわれるとよく分からなかったりする。

 

あんまり多くの方向にアンテナ張って本当に些細なところにも配慮しつつなにか表現しようとすると死んでしまうが、些細なことに突っ込む意義もまたあるということ。

 

id:rag_en政治的正しさ」って言葉、ワイの他で使ってた人、そんなおったん?

あ、twitterで使ってる人を結構見かけたのでした。

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