はてなキーワード: 嫌われ者とは
私は決して引っ込み思案ではない。
友達なんかいらないとも、出会いなんか必要ないとも、欠片も思ったことがない。
輪の中心は遠慮したいけど、数人の親しい友達と輪の端っこで仲良く語らっていたい、という願望くらいはいつでも持っている。
アキバ系の見た目を払拭したくて、誰かに楽しい人だと思ってもらいたくて、テンプレート通りにしておけばよいものを、無駄にスパイスを加えては自滅する。
高校デビュー(もしかして:死語)しようと漫画のキャラクターの自己紹介をそのままパクった次の日には、痛い子扱いでクラスの嫌われ者デビかくューしたり。
軽口混じりの自己紹介で笑いを取ろうとしたら、軽蔑混じりの視線を浴びて笑いというより嘲笑をいただいたり。
いずれも自分にセンスがあると勘違いしていたからこそのやらかしだ。
今?
元増田の人生を欲しがってる人がどれだけたくさんいるのか全く分かっていなかったり、被害者面しているのが腹立たしくて仕方がない。生まれ変わったら神として特別扱いされる人生を歩みたいというのに!
俺は子供のころから今まで他人に承認されたことが無いし、ずっと嫌われ者として疎まれてきた。
元増田のように人が寄ってくるわけでもない、かといって目立とうとすると「出しゃばるな」と叩かれてきた。
コミュニケーションができないから俺を好いてくれる人もいないし要領も悪いから仕事もできない。
自分だけが好かれず、周りの人ばかり承認されてちやほやしてもらえるのを死ぬほど見せつけられてきた。
自分をわかってもらおうとしたり相手を分かってもらうために、本を読んだりネットを見たりして学んだやり方を実践したけど結局相手にしてもらえない。
だから元増田みたいにちやほやちやほやちやほやされて愛されて承認されて神のように崇め称えられる人生が羨ましい。
正しいかどうかっていうより、そもそも政治と宗教と野球の話は人とするなって言うのに、するから嫌われるんだよ。
まあピンポイントに当事者性のある話だったらまだ分かるんだよ。
例えばLGBTの人なら、同性婚のニュースに興味があるだろうし、同性婚に賛成する議員の事は好きだろう。
ただ「女性」「若者」とかは括りがデカすぎるけどね、性別だと人口の半分とかが当てはまる事に対して代表面して語ることは難しい。
特に「日本全体の運営」ぐらいの話になっても、何か正義と悪があるんだと思い込んでいる人ばかりだ。
国会って、国の運営という難しい事をああでもないこうでもないする所なのに。だから政治の話をする人はバカなのだ。
そしてそういう人に限って「安倍死ね」とかいう。マジで?人に死ねって言っちゃいけないって幼稚園で習わなかった???
いや「安倍が嫌い」「安倍の政策は間違ってる」ってのは良いと思うんだけど、もう一回言うけど人に死ねって言っちゃいけないって幼稚園で習わなかった???
政治批判と混同とか言われてたけど、それは普通に誹謗中傷だからな。
主義主張の話じゃなくて、「枝野死ね」も「蓮舫死ね」も「志位死ね」も「山本太郎死ね」も「立花死ね」もそれ全部ダメだから。
で、そういう人に限って
「日本人はもっと政治に興味を持ってよい!政治的な発言をしよう!」だの
酷い人だと「政治に無関心な奴ってバカ!」みたいなことを言い出して自己を正当化し、その手のRTを回してくる。
興味を持つのと、SNSの趣味垢で政治的な発言をするのが同じだと思ってるのが既にバカ。
そんな訳で、そういう人はフォロワーがどんどん減ってる。細かく数字チェックなんかしてなくても、デカい桁が変動すれば絵面変わるから分かる。
でもフォロー切った人たちを今日も「政治に無関心なバカ」だと思ってる。TPOという概念が頭にないんだなあ。
そんなあなたにはてな匿名ダイアリー!
何を言っても匿名だから大体OK!フォローを切られる事も、TPOが分からない嫌われ者になっちゃう心配もナシ!
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最近ツイステのお気持ち表明がたくさん流れてくるので俺も俺も〜!という気持ちで自分の考えを文章化してみる。
前提として自分はディズニーアニメもTDRもディズニーヴィランズも手下もツイステも全部好きなディズニー信者なのでかなり偏った視点かつツイステが好きな人・嫌いな人のどちらが良い悪いを判断するものではなく個人の感想です。
シナリオの読み込みが甘いとことか知識不足なとことか間違ってるとことかあるかもしれないけど許して!
※ツイステ本編のネタバレを含む※
①ツイステと"ヴィランズ"について
自分は子供の頃からVHSでディズニー映画を死ぬほど見て育ってて、ダークでカッコいいヴィランズがめちゃめちゃ好きだった。(今も大好き)そのせいもあるのか今ではどのアニメやゲームでも外道クズ悪役ばかり好きになるし、改心して主人公の仲間になる敵にキレ散らかしたりしている。
そんな外道好きの視点から見るにツイステのキャラクターはそもそも"ヴィランズ"では無いと思っている。
まずツイステッドワンダーランドという作品はディズニーヴィランズをモチーフにしているものの、作中で「ヴィランズ」という単語が出てくるのは冒頭の学園長のセリフとチュートリアルのサブタイトル「だけ」なのに注目してほしい。
この世界ではディズニー映画で悪役を演じたキャラクターたちが「グレートセブン」と呼ばれ、過去の偉人として伝説が残っている。(現在は故人らしい)この「伝説」として残るエピソードは概ね映画の中での行いのことなのだが、明らかに「悪行」の部分を伏せている、もしくは無かったことにしている。
例えばハートの女王なら「自分勝手な法律を作って国を支配していた」のが「厳格な法律で国民を統制していた」になり、スカーなら「兄を殺しハイエナを利用して玉座を奪い取った上に国を荒廃させた」のが「実力で王の座を手に入れ嫌われ者のハイエナも差別せず共に暮らした」になり、アースラなら「願いと引き換えにアリエルを陥れて海の王国を乗っ取ろうとした」のが「不幸な人魚を自分の魔法で助けた慈悲深い魔女」になっている。
美しさに嫉妬して白雪姫を殺そうとしたことも、国を乗っ取るために催眠術で国王を操っていたことも、甥を殺すためにタイタン族を蘇らせたことも無かったこととされる、故に伝説上の彼ら彼女らは「ヴィランズ」ではなく「グレートセブン」とされているのだ。
これらの歴史改変が見受けられるのを、「ヴィランズ側の解釈だから偉人とされているのでは」と考える人もいると思うが私は違うと思う。
仮に「ヴィランズ側の解釈」とするなら本人の悪行も込みで賛美されるべきではないか。
ではなぜそうではないのかというと、作中の世界の倫理観は現実の世界と同じだからではないかと思う。
ツイステの世界では人を傷つけることも殺すことも「悪いこと」だし、卑怯な手段を取れば糾弾される。善悪の判断基準は現実世界=プレイヤーと同じ、つまりは勧善懲悪のヒーロー側の視点のままなのである。
登場キャラクターは素行の悪さは目立つものの基本的に善人であるし(性格が最悪な奴はいる)、倫理的に超えてはいけない一線は絶対に超えない。
この"作中のキャラクターは基本的に善である"という設定と"ディズニーヴィランズをモチーフにした作品"というコンセプトのズレが一部のユーザーの期待を裏切っているところがあると思う。(当初は自分もヴィランズ要素外見だけじゃねえかと思っていた)
広告では「ディズニーヴィランズがモデルになったゲーム」と銘打っているので、悪逆非道のヴィランズファンからすると既存キャラのガワだけ使って一般受けするように作り替えているように見えると思う。
なんかよく分からなくなってきちゃったけど、総合すると「ツイステはヴィランズを元ネタにしているが、作中のキャラクターはヴィランではない」ということを主張したい。
というかあの程度のヤンチャ具合で邪悪さのかけらもないのにヴィランズとか言われても納得いかねえ(悪役ガチ勢厄介オタク)
ただ冒頭で「ヴィランズ」という発言をした学園長だけは「悪」を賛美するような独白をしているのと、「グレートセブンは本当は悪人だったが、何者かが意図的に悪行の部分を伏せて善人として言い伝えている」ということを示唆する描写が「主人公の夢」という形で挿入されるので、ツイステの世界にも邪悪なヴィランズは存在している。
個人的には今後のシナリオ展開次第で学園関係者が何か企んでるとか、グレートセブンが実は外道だったことがバラされるとか、そういう展開が来るんじゃないかと期待してる。来るといいな。
昨今のお気持ち表明乱立について
あくまで一部の過激派に限ったことなのだけど(保険)、ディズニーをきれいなものとして扱いすぎているところがあると思う。
オタクにすり寄るのをやめてほしいというのは正直その気持ちはとてもよくわかるし、手下の時に散々嫌な思いをしたのも当時しんどかったので分かる。
でもディズニーってもともとそんな素晴らしいものか?と思う部分もある。(ここは自分の主観かなり入ってるが)
自分がディズニー映画、特に「ディズニークラシックス」と呼ばれる手描きのアニメ作品を好きなのは、素晴らしいアニメーションと心躍る音楽、キャッチーな歌踊りで軽快に進むストーリーとかを総合して好きなんだけど、ディズニー作品の良いところって「アニメ作品」としての完成度が高いだけでシナリオ面はそうでもないと思っている。
名作と謳われる長編映画は軒並み童話のストーリーほぼそのままだし、オリジナルで作った作品は結構コケてるのが多い。宝島を元にしたトレジャープラネットも、シャーロックホームズをオマージュしたオリビアちゃんの大冒険もライト層の知名度はお察しだし、童話が元じゃないオリジナルストーリーの長編映画で人気が出たのはCGアニメに移行してからのものが大多数を占めている。
ミッキーやドナルドたちの短編映画だってコメディとはいえ爆発オチとか「そうはならんやろ」みたいな展開あるし。
往年のディズニー映画が名作と言われているのはあくまで「アニメーションの技術」の部分で評価されているんであって物語としての評価ではないと思っている。
昔のディズニー映画見て泣くほど感動したり教訓があったり展開が秀逸だったりするか?と疑問を持つし、逆にいえばその誰でも知っているストーリーを借りてすごい映像を作ることがディズニーの強みじゃないのだろうか。
そのアニメーションの技術も当時は競合相手が居なかったからという理由で、技術が発達した現代で映像だけを基準にするならディズニーだけが飛び抜けてすごい訳ではない気がする。
幼少期に神童と持て囃されていたけど成長するにつれて凡人と気付くみたいな…?
少なくとも自分はディズニークラシックスのアニメーションが大好きだしこれからもずっと好きだけど、ディズニーはあくまでアニメスタジオから始まったことを忘れて昔は良かったのに!って言ってる信者が多くなってきたと思う。
ディズニーはアニメを作るのは天才だけど社会倫理に精通して配慮している企業でもなければ子供たちの教育期間でも世界の思想を代弁する組織でもない。
ただ好きな作品やそれを作っているところが素晴らしいところだと思いたい気持ちも分かるので折り合いつけられるようになると気が楽になると思う。
③ツイステとTDRについて
パークのオタクとツイステのオタクが常にヒリついてることについて、これは手下初年度の惨状を見てきた側からすると過剰防衛になるのも納得してしまう。が、攻撃や中傷して良い理由にはならないので駄目。
特にDハロ(ハロウィンにパーク内で仮装ができる期間)はツイステ関係なく毎年荒れるしトラブル炎上学級会は起きるしOLC(TDRの運営)の動きには期待できないし今年も開園してDハロ実施されるとしたらメモ帳スクショ注意喚起が回るのが目に見えているから警戒するのも分かる。
それに去年の仮装可能作品一覧の中に「アプリのリリース前にもかかわらず」ツイステがあったので(後に修正されて除外された)ので今年やるなら絶対に入るだろうしそれを入れるOLCにもあんまり信用がない。
ただ「パーク内でツイステをみたくないから」という理由はただの個人の思想であり公式のルール違反ではないからファンに強制することはできないししてはいけない。
同じく痛バやグッズの持ち込みに関しても公式がダメと言わない限り外野が文句をつける権利はない。
外野が文句を言って良いのは公式のルールで明確に禁止されている事だけなのだ。(開園ダッシュ・自撮り棒を伸ばす・小学生以上が仮装期間以外に仮装をする事・乗ってはいけない場所に乗る事等)
自分は仮装も痛バも好きじゃないし(ツイステに限らずミッキー等の既存のディズニーキャラでも)、パークで遊んだり楽しむことよりも自分の写真を撮ることが目的になっているゲストのことも出来ることなら見たくないけれど、自分が自衛するしかないと割り切っているつもり。
ルールを守って迷惑行為さえしなければ誰であってもパークに来ることは妨げられない自由であるべきだ。
ルール違反をしていないなら胸を張って楽しんでほしいし、パークのファンも腹立たしいことがあっても文句を言う前にそれが「公式が決めたルールに違反していること」なのか「マナーとされる暗黙の了解に背いていること」なのか一度考えてほしい。
(ただしドンキのコスプレ衣装着て制服ディズニーとか言ってる成人オメーはダメだ)
(あとハロウィンは行きたいけど仮装期間中には行きたくないので昔みたいに期間区切ってくれOLC)
以上ツイステとディズニーの両方が好きないちオタクの感想お気持ち表明おわり!
正直なところツイステリリース前はリリース日時どんどん遅れるわ公開前からグッズ展開しまくるわ露骨にハリポタをパクるわで運営に不信感しかなかったけど、本編を自分の目で見ずに批判はしたくなかったのでちゃんと最新話まで読みました。まだメインストーリーが半分も公開されてないから現状で判断するのは難しいけど、映画の小ネタとかキャラデザ・シナリオ担当の枢やなのTwitterでのDヲタムーブとかでそこそこ好印象だから今後に期待したい。
思いついたことを書くだけ。
旧来のジャンプ的少年漫画の王道文法と呼ばれる要素の一つに、社会性のない獣のような主人公が成長して(ある程度は)人間的になっていくというものがある。ドラゴンボール、スラムダンク、キングダムとかチェンソーマンとか色々。約ネバもかな?
成長前の主人公がそういう風に書かれるのは、少なくとも文法成立の初期の頃は、子ども(クソガキ)のふるまいを誇張して描いていたからだと思う。
元はそういう子ども向けのコンテンツで、読者は主人公のふるまいや考え方に感情移入していた。
具体的な対象者は、まずは小学校低学年くらいの階級構造があやふやな時期の子ども全体。彼らの世界は上も下も決まってなくて、全員がわがままで、ボスザルになれる可能性を秘めている。
次に、小学校高学年くらいの、ボスザルに憧れることができるレベルの、ガキ大将文化圏の強者群。ここでナードや賢しらぶった子ども(=ガキ大将文化圏における弱者)はふるい落とされる。
中学校以降となると階層構造はどんどん細分化されていって、真の意味で感情移入できる人間はごく一部である。
その頃には二次性徴とか諸々により価値基準が変わってきて、ガキ大将主人公に感情移入できてる奴の方がやばいわけだが、それはここでは置いとく。
中学生以降になっても(むしろなったからこそ)そういうガキ大将主人公の漫画を楽しめるのは、他人事をフィクションとして楽しめるようになるからである。だから女子中学生もジャンプを楽しめるわけだ。
感情移入とはいかないまでも、まぁ話は面白いしいいか、ってなものである。
ところで、鬼滅関連の記事かTwitter投稿か何かで見たのだが、今の小学生はジャンプを読まないそうである。何を読んでいるのかというと、コロコロとかだそうだ。ジャンプは中学生のお兄さんやお姉さんが読む雑誌らしい。
個々の能力にもよるだろうが、小学生くらいだと感情移入できないと物語を楽しめない子が多いだろう。(感情移入がほとんど無くとも物語を楽しめる小学生は、漫画雑誌など読まなくても他のフィクションを楽しめるのだ)
つまり、今の小学生はジャンプの主人公に感情移入できないのである。
ジャンプの王道(やエロ)を楽しくありがたく読んでいるのは、中学生~中年のお兄さんやおっさんなのである。しかし、彼らも感情移入して読んでいるわけではない。(そういう人間もいるかもしれないが・・・)
ちなみに、ナードと賢しらぶったガキと女の子、お姉さん、おばさんは、名探偵コナンを読んだ。基本は頭脳戦である。コナンはアンチガキ大将な者たち(今やそちらの方が多数派である)を取り込んで覇権を取れたのだ。
また同時に、お姉さんやおばさん、爽やかな男子諸君はスポーツをやる作品を好んだ。乱暴ではないが、パワーが正義であり、勝ち負け目標がはっきりさせやすい。そういえばコナンもボールを蹴ることがある。
不幸なのは、スポーツものが今どきのほとんどの人間にとってファンタジーであることだ。とりあえず野球やろうぜってな時代ではないので、真っ当なターゲットは食指を伸ばさず、結果としてスポーツものは非公認ソフトBLとして扱われることになった。
ここで鬼滅である。
炭治郎(主人公)は作中で関わった人物のほぼ全員から愛され慕われている。
主人公が普通に頑張っていたらみんなにモテモテ、などというとまるでなろう小説のようだが、炭治郎は精神性も行動も実に真っ当であり、納得感があるのだ。
炭治郎は無知な田舎者だが(そこが"王道でありながら"と言われる所以かもしれない)普通の社会性はあって、道徳面では模範的とすら言える。人として備えているべき慈愛に満ち、努力家で、真面目ながら寛容。
彼は人間としてシンプルに魅力的で、そばにいてほしいタイプなのである。
不思議なことに、フィクション(特に少年漫画)において最初から人間として魅力的な主人公というのは中々いない。なぜか。
主人公はどこかしらに問題を抱えていて(社会常識がないとか非モテであるとか)、それを解消していくことが成長であると、文法によって決められたからだ。漫画ではなくとも、物語というのはそういうものである。
良い映画の主題は「自分は何者なのか」という問いかけに収束すると何かで読んだ。これは人々が普遍的に感じている(感情移入できる)哲学的な命題であって、映画の中では様々なドラマを経て主人公なりに「自分は何者なのか」という答えを見いだす。
それに依ると、鬼滅にこの主題はほぼ存在しない。主人公の家に伝わる教えによる未知の能力というフックは途中に入るものの、その話題は全く重視されていない。
炭治郎は、そんな大げさな悩みを持ったりしない。「俺はこんなものだ」と割り切って「自分にできることを真面目にやろう」なんて考えている。目的は常に「妹を人間に戻すこと」という、哲学的でも何でも無い現実的な物でしかない。
インターネットの影響は大きい。宣伝だとかバズだとかの話ではなく、インターネットが人々に与えた影響だ。
今やネットによって全世界基準で自分の順位のようなものが何となく分かってしまうようになった。自分より強い奴は山ほどいて、社会に向かって怨嗟の声を垂れ流している情けない大人もいっぱいいる。
「自分は何者なのか」が主題として機能しなくなってしまった。「俺はこんなものだ」と思わざるを得ない社会なのだ。
今の子ども達にとって、どうあがいても未来は暗いのだ。それがもう嫌と言うほど目に見える今の世界で、獣が人間になり大望を成し遂げるというフィクションはファンタジーに過ぎるのである。
一方で、目標に向かって自分ができるだけのことを精一杯やっている炭治郎の愚直さは真似できそうである。そして、作中ではその姿がひねくれた大人(柱)たちを無言のうちに説き伏せ、主人公を応援する側にシフトチェンジさせる。
今の時代、大人も子どももみんな人間関係に疲れている。努力が報われ、ついでに周辺環境を居心地良く改善していく姿は誰にとっても魅力的に映るだろう。
慈愛に満ち、努力家で、真面目で、他者に寛容な人間というのは、既存の作品では大体理不尽な目にあってきた。
それがモブであれば理不尽に死ぬ役だし、ネームドであればトラウマを負って冷笑系とか陰のあるタイプになった。それらの作品の主人公はわがままであり、理不尽に負けない強い者であって、慈愛や寛容は弱さであった。
炭治郎は、物語の最初の最初に理不尽な目にあって復讐を誓うわけだが、それでも慈愛と寛容、真面目さを失うことはなかった。むしろ、それしか持っていないと自分で言っている。
炭治郎の師匠たる鱗滝さんは、初見の炭治郎のことを評して「こいつは優しすぎてジャンプ主人公にはなれない」というようなことを言っている。(曲解ではないと思う)
その鱗滝さんの薫陶を受けた最も優秀な弟子であるところの錆兎は、炭治郎とは真逆で非常にマッチョなジャンプ主人公思考である。「男なら死ぬ気でやれ!優しさなど不要!」みたいな感じのことを言いながら急に殴りかかってくる。
炭治郎はその錆兎に努力の上で勝利して修行編は終わり、かくして時代に即した新タイプの主人公が生まれたのである。
彼は修行の後の最初の試練で打ち潮(修行によって身につけた特殊な技)を繰り出し、「俺にもできた。修行は無駄じゃなかった」と涙する。いい話である。
アニメ派の人にはネタバレになって申し訳ないのだが、錆兎が死んだ理由は他者を生かすためであった。古い主人公時空に生きる錆兎は、慈愛と優しさを持っていたが故に理不尽な死を遂げたネームドキャラだったのである。
鬼滅が女性人気を得たのもむべなるかな。
自分の子どもでも彼氏でも旦那でも父親でも、乱暴で直情的な猿よりも真面目で優しい男の方がいい。(比較論である。個人の趣味は置いておく)
男は猿だった時代を楽しむこともできるわけだが(何なら郷愁を感じもする)、ほとんどの女の子は猿に迷惑をかけられたことしかないだろう。なお、一応言っておくとワイルド系とかオラオラ系と猿は違う存在である。
旧来の主人公的な存在といえば、伊之助はまさにソレである。どうやって感情移入するんだと思うかもしれないが、たぶん昔の子どもは彼に感情移入できていたのだ。
実際、伊之助はサブキャラとして一つの人気を確立している。普遍的な人間的成長のカタルシスを端々で見せるからである。ほわほわ
ただし、伊之助には旧主人公的でないところもある。それは顔が良いことである。
伊之助は全く以て迷惑で嫌われ者の要素しかないキャラなのだが、顔の良さがギャップになるのか、女性人気が結構高い。実際、アニメの実況では14話で顔が出た瞬間に手のひらを返して興味を持ち始めた人を結構見かけた。
顔がいいだけの生意気なガキが、成長して徐々に素直になっていくのである。そりゃ人気もでる。
一方で、旧来の猿型主人公というのは特段美少年だったりはしない。たぶん、見た目は本質的な魅力ではないという思想があるんだろう。男はロマンチストなのである。
炭治郎は今のネット時代に即して「自己を保ち、できることから愚直に始めなさい」と示した。そうすれば、今の自分なりに良いところまでいけるはずだし、周辺環境をよくできる(かもしれない)というわけだ。
元々時代に即しておらずいびつだった"王道"にメスを入れて見事解体して見せた鬼滅であるが、果たして続く作品は出てくるだろうか。
視野が広くなったが故に個人レベルではむしろ可能性が閉塞されたネット時代である。この時代に生きる子ども達に未来への希望を与える作品が現れれば良いと思う。
私、絵を描くオタク腐女子。アカウント移動してそろそろ一年くらいの放置垢がある。
そのアカウントは結構運用当時はフォロワーが多くて、最大で5000フォローくらいいった。ジャンルの勢いもあって、楽しいイベントも沢山で、毎日が楽しかった。描くもの描くもの全部が伸びて、ちっぽけだと思ってた自分に初めて自信が持てた。沢山の下駄を履かせてもらって、普通じゃ話せないような絵の上手いプロのオタク、遠くにいる話題が合うオタクと交流もできていた。
でも、じわじわと嫌なことも増えてきた。作品の内容を叩かれたり、とくに心当たりもなくフォロワーに避けられたり、ブロック解除をされたりすることが多くなった。仲が良いと思っていた人に匿名で悪口を言われ、何を信じて良いのかわからなくなった。
だから、特に前触れもなく、5000人のフォロワーを捨てた。名残惜しくて、すぐにはアカウントは消せなかった。大好きな作家と、お知らせでついてきてくれたごく少数のフォロワーだけで、この一年間細々とやっていた。
絵だけのアカウントも作った。そこは、フォローは一切せず、日常も喋らない。自分の絵だけを淡々と上げるアカウントだ。1000人くらいはついてきてくれたけど、もう何を描いても、本当にたまにバズったとき以外は、常連さんしか見ていないような、そんなアカウントになった。
今日、久々に気が向いたので、昔のアカウントを覗いてみた。フォロワー数は4700人。もう一年も更新してないのに、たった300人しか減ってないことに、驚いた。
あのころ、叩かれて憔悴しきってた私は、アカウント移動したら自分の価値はゼロになると思ってた。5000人全員に嫌われて、みんなが指差して笑っていると思ってた。でも、違った。多分本当に私を嫌っていたのなんかごく少数の人間で、その他4700人にとっては、私は嫌いではない。もしくはいてもいなくても何の支障もないどうでもいい人間だったということだ。
フォローは、50人くらい減っていた。フォロワー数の減少に比べると、割合は多い。これは新アカをフォローしたあとこちらを外した人数も含むから、仕方ないと思う。でも、今でもこのアカウントをフォローしてくれている相互は殆ど、最初にお知らせしたときについてきてくれた人ばかりだ。そういう人たちに動かないアカウントをフォローしてもらってるのもなんだか申し訳ないな、と、しゅんとしてしまった。ついてきてくれた人は、約300人。減った人数とほぼほぼ一緒だ。
ふと、世界の人の心の動きをわかりやすく伝える定説を思い出した。5パーセントの人は、私が何をしていても好いてくれるけど、5パーセントの人は、私が何をしていても嫌う。
残り90パーセントの人たちはそれ以外。私のことなんか、どうでもいいんだ。
何人フォロワーがいても、私のことをどうでもいいと思う人数なんて変わらない。いかに私を好きだと思う人を大切に思うかが重要か、なんとなく思い知らされた瞬間だった。
そういえば最近、絵で仕事を貰えるようになった。5000人フォロワーがいてもみんなに嫌われて評価されないと思ってた私は、今ではちゃんと、世の中に必要とされている。Twitterのフォロワー数は二桁だけど、私の絵は、たぶんどこかで沢山の人に見てもらってる。(評価されてるかどうかは、ダイレクトには伝わってこないけど)
来月からは、世界中で大人気のコンテンツに、一スタッフとして加わる。
あれだけ自分の目標とする対象に評価されずに泣いて泣いて、愚痴を言っても誰にも聞いてもらえずに一人で寂しい想いをしていた私が、日本人じゃなくて、世界を相手に、評価される土台に上る。
たぶん、あのころ私を嫌っていた日本人の作家は、日本で評価されないから世界に行ったのかよwwwって笑うんだろう。
でも、いいんだ。だから私は小さな世界に固執するのをやめた。外国語を勉強して、読み書きを出来るようにした。どんなに難しいビジネス文章が来ても大丈夫。それはフォロワーの数よりずっと、大きな私の自信になった。
5000人に嫌われてるって泣いてた私、頑張れ。世界は広いよ。今は10億人が相手だ。5000人全員に嫌われても、それ以上の人が私を見てる。だから、大丈夫。
そう、思うんだ。
少し話題がずれるけど、最近、たった数十人のアンチによって、心を病んだ女の子が自殺してしまったニュースを見た。
あの子は、かつての私かもしれない。
自分の価値はアンチコメント一つで揺るがないと今では知ってるからこそ、悔しい。
だからこそ、私は今の想いを言葉にしてみようと思った。ただのいちゃもんに負ける人が一人でも減るように、数の呪いに惑わされないように。
フォロワー数は諸刃の剣だ。自分に好意的な人数でもないし、敵対心を向ける人数でもないのに、自分の心のありかた一つで、王様にもなれるし、世界一の嫌われ者にもなれてしまう。
アンチコメントに苛つくのも勿論だけど、私たちが知るべきなのはアンチコメントへの対処法でも、心の守り方でもない。
私を常に評価して、好きになってくれる人を探す。その人のために、誠実に生きる。
数は強さでもなんでもなく、ただの数だ。その向こう側にいる人間を想えるかどうかのほうが、重要だ。
こういう時代だからこそ、大切なのは数より一つのコメントより、心のありかたなんだよって、どうやったら呪いに囚われて苦しんでる人に伝えることができるのかな。
アカウントなんか消してもいいんだよ。何人に悪口を言われても、好きに生きてもいいんだよ。
世界にはもっと沢山の人がいて、見に行く努力をするだけで、悪口まみれの狭い世界は、あっという間に過去のものになるんだよ。
死にたい人ほど、虚栄心を捨ててみてほしい。評価を手放して、数から解き放たれてみてほしい。
私はそう思います。
沖縄に米軍基地が集中してる理由だな。民意を無視した自公政権の横暴と批判する向きもあるが、米軍基地は日本にいて欲しいが自分の近所(本土)にはいて欲しくないので沖縄に押し付けるってのが日本国民の民意だから現状がこうなっている。沖縄県民の民意が基地反対の知事を選んでも無駄。決めるのは日本国民の民意だから。米軍基地を追い出したいなら日本から独立するしかない。
選挙で投票した者に安倍政権を批判する資格は無い。投票しなかった者は自由に政権を批判できる。
投票した者は、選挙で多数派になった党が政府を運営する日本の政治制度に同意して投票したのだから、投票したことで安倍政権に正当性を与えている。
たとえ自民党に投票しなかったとしても、「結果として自民党が多数派になった選挙」を正しいものとして受け入れて投票した。安倍政権を選んだのはお前だ。安倍政権を生んだ選挙に投票した己の過ちを恥じて黙って口を閉じて反省しろ。
一方、投票しなかった者はと言えば、これはそもそも選挙に同意していないのだから自由に政権も制度も批判できる。
「選挙も代議制民主主義も認めない。共産党の一党独裁こそが正しい。人民軍を組織して実力で日本政府を排除し革命政権を樹立する」などという主張も全く恥じることなくできる。無敵だ。
選挙に同意して投票したにも関わらず結果が安倍政権だから認めないというのは、小学校のクラスで掃除当番を投票で決めることに同意して投票したにも関わらず自分がトイレ掃除担当に選ばれたからと後になって文句を言うのと同じだ。
自分が弱者で少数派でクラスの嫌われ者でトイレ掃除を押し付けられるのが分かっているなら、「このようなアンフェアな投票は認めない」「投票結果を俺に押し付けるなら、お前らの頭をホウキの柄で殴ってやる」と掃除道具をひっくり返して抵抗するべきだ。絶対に投票するな!
不良ぶりたがる、協調性がない、からかい半分に他人を挑発する、という過去の自分への評価は、ネトウヨや嫌われ者と言うより、自分を他人とは違う特別な人間に見せたがるごく普通の若者のごく普通な特質な気がする。
ほんの数年前の自分をそこまで冷静に客観視出来るようになったのは文中にあるようにお兄さんの説教が効いたからなんだろうけど、正論を言い吉本や西部を読んでるお兄さんやお父さんってネトウヨがとても嫌いそうな相手なのに、素直にいうこと聞くあたり、増田はお兄さん実は大好きなのでは。
いまの関係は書いてないが、仲良く楽しくお父さんとお兄さんとおしゃべり出来るようになっていることを祈る。
そんな俺が当時なんでネトウヨになったのか自分なりに振り返ってみようと思う。
普段、夕食後にナイター中継見ながら「吉本隆明がどうたら」「西部邁がどうたら」そんなことばかり雑談してる父親と兄が、「ゴーマニズム宣言はあれヤベえよ……」と苦笑いしているのが耳に入ってその存在を知った。
なぜか興味を抱いた俺はそれがどんな本なのか訊いてみたら、二人ともしまったとでも言いたげな顔で言葉を濁し、「いや、お前が読んだら絶対に訳も分からずハマるから教えたくない」と逃げられた。
そんなふうに言われたらむしろ興味が強くなる。
早速、学校の帰りに大型書店に立ち寄った。残念ながらゴーマニズム宣言は置いてなくて(記憶が確かならとっくに絶版になってたからだったと思う)、仕方なく「戦争論」のほうを購入した。
一応、書いておくと俺はそこらへんのアホ高校に通う勉強なんてしたことないバカ学生だったから、歴史・公民ともに全く知識がなかった。
戦争論に書かれている刺激的な言論にやられて、人が変わったように昭和史の勉強を始めたとかいう事実も一切ない。
それにもかかわらず俺が戦争論にハマったのは、悪役として据えられてるキャラ(アメリカ?護憲論者?)を主人公(日本?小林よしのり?)がボッコボッコにやっつけて、徹底的にディスるのが気持ちよかったから。スカッとジャパン見て留飲下げてる人と全く同じ心理。
正直言って、本の内容は全然理解できてなかった。大人になった今ですら戦争論で何をどういう論点で掘り下げていたのか全く思い出せない。そして、今もう一回読んでも無学ゆえに理解できないだろう。
で、なんで当時の俺にそういうスカッとポルノ的物語が響いたのか?もうこれは俺が嫌われ者だったからとしか言えない。
見た目はオタクのくせに不良ぶりたがる、一周回った可愛げもなくとにかく協調性がなく、からかい半分に相手を挑発することをニヤニヤ言う。
そんな俺はまあとにかくクラス中から嫌われていた。男女問わず嫌われていた。
疎外されるのも自業自得なんだけど、そのくせ俺は周りに嫌われてる事実に傷つき、挙句、「人生初彼女ができない。童貞捨てられない」的悩みも同時に抱えてとにかくイライラしていた。
そんな人間がスカッとジャパンに出会ったらそりゃハマるよなあと今となっては思う。
逆恨み由来で膨れ上がったはち切れんばかりの攻撃性をあの本が代わりに解消してくれたような感じだ。
兄が俺をゴー宣に触れさせないよう慌てていたのは、俺の人間性に大問題があってなおかつクラスの嫌われ者であることを察していたからな気がする。
「(あの本にハマるのはまさにこういう奴だろう)」、そんな危機意識があったのではないかと。
俺は韓国、韓国人、在日朝鮮人、戦後民主主義、左翼を忌み嫌うようになった。
「お前そんなこと言っていいわけないだろう。理屈もなにもねえよ」というような蔑称やヘイトにキャッキャキャッキャと歓喜し、瀬戸弘幸や桜井誠を天才思想家として崇め奉った。
そして俺にとってスターといえばイチローでもダルビッシュでもなく、自民党のタカ派議員だった。
2chに差別書き込みをした回数は1000じゃまったくきかないと思う。
夕食後、父親と兄との雑談に俺が混ざるようになったのもちょうどこのころだった。
学校で起こった楽しい話なんてないもんだから、なんの脈略もなく「韓国がさあ~w」「中国がさあ~w」という調子で読んだばかりのヘイト本の内容を面白おかしくニヤニヤと披露する。
そのたびに父親は決まってウンザリしたような顔で「お前、そんな差別的な話を俺は家で聞きたくないよ。もっと楽しい話してくれよ」と露骨に眉をひそめ、軽蔑したような冷めた顔でそのやり取りを見守っていた兄が痺れを切らして「おめえいい加減にしろよ、黙れよ」と一喝する。
そんな流れが毎日だった。
それは「愛国心を盾にした差別はよくない」という至極まっとうな意見が世間の常識となることだった。
厳密に言うと、当時も今もそういう社会常識は当然みんなに共有されているということになっている。
学校や会社でネトウヨ的言論をかまそうものなら普通に窘められ、あいつは頭がおかしいということになるだろう。
ただ、当時はネトウヨもネトウヨ的言論もまだまだ隠れた存在で(ネトウヨというスラング自体は耳にしたことある人はもう多かったと思うが)、「変な人のことだとは思うけど、実際になにがどうなってんのかは知らない」程度にしか一般的に認知されていなかったと思う。だから、2chで俺を含む差別的な連中がどんだけ跋扈しようが見つからなかった。
世間には「差別は許されない」という当然の常識が共有されている一方で、ネットのアングラ部分ではネトウヨ的思想がすごい勢いで盛り上がるという対照的な状態が続いていた。
「もしもネットのネトウヨブームが世間の人に気付かれたら彼らの良心によって潰されるだろう。そしたら俺のフラストレーションの解消の場がなくなってしまう」
そんなふうに俺は恐れていた。
俺の嫌な予感は当たった。
やがて、ネトウヨ的存在が一般的に認知され始め、密教から顕教に変わっていった。
ただ、予想外だったこともある。
ネトウヨはやっぱり「あいつらとんでもねえ」とバッシングされはしたんだけど、それと同時に「あんなのはごく一部。差別者なんて実際はほぼいない。広まってもいないネトウヨ思想に危機感を抱くのは未熟者だから。はい、この話終わり」とでも言いたげな耳を塞ぐ態度を頑なに守り続ける勢力も相当いたことだった。
これに俺は凄く救われた。こういう逆張りというか、冷めたポーズを取ってくれる連中がいてくれれば俺の、俺たちネトウヨの居場所は守られる!と安堵した。
「ネトウヨ思想が広まりかねない。危険だ」という意見がネトウヨでもないネット民から「そんな奴みたことないんだけど?よっぽどレベルの低いコミュニティにいるんだね~」みたいなレトリックでよく小馬鹿にされていたのを覚えている。
ネトウヨ本が書店で平積みされ飛ぶように売れ、ヘイトスピーチなんてのが社会問題になって、身元隠してないTwitterアカウントで主婦や社会人がネトウヨ思想を全開にしている、そんな現在を考えると、ネトウヨ思想の流行という当時の懸念は正しく、そして、冷めた態度で小馬鹿にする勢力がネトウヨの追い風になったのは当たってたなあと思う。
ネトウヨ時代の俺も日本がここまでなるとは当時想像だにしなかったから。
政治とか右翼だとか左翼だとか韓国とかそういうの一切合切に俺が興味なくなったのは大学入学とほぼ同時だった。
大学合格後に兄に部屋まで呼び出され相当真剣に将来を案じることを言われ続けたからだ。
要約すると、「偏見を捨てろ。周りに親切にしろ。心を入れ替えろ。ていうか今の人間性のままだとお前人生終わるよ」、そんなことをマジのマジのマジのテンションでこんこんと聞かされた。
「親父もお袋も相当心配してるぞ。お前結局友達いなかったろ」、特にこれが半べそかくほど効いた。
自分が好かれるわけがない、擁護しようのない人間だという自覚は深いところで抱いていたので、大学では心を入れ替えて普通に友達作って楽しく過ごそうと思って大学生活をスタートさせた。
まもなく、普通に友達が何人かできて、一緒に遊ぶようになって、まるで憑き物が落ちたかのように俺のなかから世の中や人に対する攻撃性が萎んでいった。
気付いたら政治とかどうでもよくなっていた。ていうか在学中に在日の友達もできた。彼女はできなかった。
今は普通にのほほんと生きている。
おじさんは常に嫌われ者なので仕方ないよ
こいつ、「オタク」じゃねぇんだよ
そういうのに関わる「イケてる自分」を一段高く自己評価していて
他人を見下してる
ただアニメやゲームが好きで、自分が語れる場がそこにしかなかった奴
昔よくいた、クソだ
ただのクソ
今はどうか知らんが、昔はサブカル畑の奴がオタク顔して活動してたんだよな
批評とか論考とかやっちゃってさ
普通には食えない作家が、エロ畑なら好きなことをできるってんで
その後、ラノベやなろうみたいなのが台頭して、好きに発表できるようになったのと
ブームの衰退もありいなくなるんだが
エロゲは泣きゲと呼ばれて、泣けないのは駄作みたいな時代だった
「俺はエロ目的じゃない」みたいな厨房(年齢ではなく精神性)が増えて
んじゃ、オフ会とかではどうかというと
そういう、「作品を語らず自分語りするやつ」ってのは、昔っから嫌われてた
でも、気付かないんだよな
だから、その場では誰も何も言わない
裏で呼ばれなくなるだけ
今になって老害になったのじゃない
え?連れ込まないよ?なにいってんの?どんだけ嫌われ者だと思ってんの?
先日からFANZA(旧DMM.R18)で『催眠』と検索しても一作もヒットしなくなった。
どうやら作品名から『催眠』という単語が一括置換され、なおかつカテゴリとしても削除するという改修が行われたようだ。
DLsiteでも似たような改修が行われており、警察の指導なのかオリンピックへ向けた配慮なのかはわからないがとにかくエロゲや同人誌の販売プラットフォームで倫理規程の大幅改定が行われたようだ。
エロの概念なんて知る前の幼い頃に子供向けのバラエティ番組で催眠術師に翻弄されて自分の名前を思い出せなくなる女性タレントのお姉さんの姿にやたらドキドキしていたのをやたら覚えているし、ドラゴンボールGTでビーデルが敵に洗脳され娘を裏切る回は理由もわからず何度も何度も繰り返し見た。
今考えるとゲイの人が生まれ持って男の人を好きだったみたいに、自分も生まれ持って催眠術が好きだったんだと思う。
世の中に催眠術フェチシズムなんて概念があると知ったのは自分のPCを買ってもらった後だった。
初めて遊んだエロゲはBLACKRAINBOWの催眠学園だった。
クラスの嫌われ者の主人公村越進太が催眠導入機を手に入れてクラスのマドンナや生意気な女子を手にかけていく様は凄まじいほど興奮した。
前半は「ドラえもんの道具を手に入れたらどうする?」みたいなリアルで生々しい男の妄想をそのまま描き、後半は企画者のAVのような笑えるほどシュールなシチュエーションを描くその作品を遊んでから俺は催眠術に更にハマっていった。
社会人になってからは学術的にも催眠術を勉強し、催眠とつく商業作品はほとんど手を出すようになった。
女にもモテずとりわけ友達と呼べる存在もいなかった自分にとって催眠エロゲの新作を遊ぶことは唯一の生きがいですらあった。
最近は『催眠』とタイトルにつく作品がやたら多くなったと思う。
これはぶっちゃけ他ジャンルの規制や締め付けが厳しくなったからその隠れ蓑やエロ方向に展開を転がす便利アイテムとして催眠術が利用されて発展したような経緯もあったりから、ガチもんの催眠フェチのコミュニティで受け入れられるような作品は割と少なかったりするが、最近は愛上陸みたいな超画力の人も参戦してきて、ようやく本格的に盛り上がりだしたなという段階だった。
検索上ここまで露骨に迫害されるということは売上にも大きく関わってくる、商売でやっている人達は方向転換を余儀なくされるのだろう。
露骨な陵辱物が倫理規定改定でエロゲ市場から姿を消したように、催眠というジャンルも市場からひっそり姿を消していくのだろう。
どこかが裏で糸を引いているとしたらもう既にソフ倫あたりにも働きかけているのかもしれない。
愛上陸の催眠性指導シリーズの新作も、催眠学園を作り上げたNATORI烏賊氏の新作も、ファンタジーとしての催眠術のみだけではなくリアリティも追求したおくとぱす氏の新作も、もう自分は遊ぶことができないのだろう。
ゲイの人は生まれ持って男が好きで、彼らは『正しさ』によってパートナーと愛し合うことを認められた。
俺のよう生まれ持って催眠術が好きなだけな惨めで哀れでモテない男はたかが絵を見ながらオナニーする権利すら『正しさ』によって奪われる。
こんなに簡単に1つのジャンルが潰されるのかと心底悲しいと思った。
ひっそり使う人のオナネタにケチつける奴なんて政治家だろうとフェミニストだろうと米国だろうとオリンピックだろうとみんなくたばっちまえ。
恥を知れDMM。ふぁっきゅー正しさ。
こんな世の中でいいのか?俺は絶対に嫌だぞ。