救われる人もいるのだろうか
生きていることの理由づけは、究極的には「今生きているから」以外にはありえない
人間は、自分が生きている意義をを理屈から規定する事が出来ない
今生きているから生き続けるに過ぎない
それだけのこと
テニミュをきっかけに舞台をあれこれ観るようになった私は、数年前にひょんなことからテニミュキャスト以外の若手イケメン俳優を好きになりました。
彼は年が若い割に実力のある子でしたが、それほど舞台には出演せず人気もイマイチでした。
それでも私にとって彼は充分魅力的でした。2.5次元と言うフィルターを通さなくても彼自身が魅力的でした。
惚れ込んでしまってからは、せっせと花や手紙やプレゼントを贈りました。
ツイッターやブログにもリプやコメントを送り、握手会等のイベントで何度か話をするうちに顔も覚えてもらいました。
そんな彼も最近は割とメジャーな作品に出演するようになり、周りにわざわざ勧めなくても「あの子いいよね」と言ってもらえるようになりつつあります。
そうなってくると、自分が古参ファンとして悪目立ちしていないだろうか、と逆に気になり出しました。
ツイッター等で新規ファンを取り込みつつ輪を広げていく人も世の中にはいると思いますが、私はそういうの向いてないですし。
そうしてしばらく悩んだ結果、別にネット上で周りに自分のことを誇示しなくてもいい、今まで頑張った結果ちゃんと彼にも覚えてもらえてるんだからそれで充分、という結論に達しました。
というわけで、舞台には引き続き通っていますがネット上の私は姿を消しました。
彼がツイッターでたまにやる「質問にリプします」タイムに即行質問する必死さもなくなって気が楽になりました。
さらに、今まではイベントで彼に会う度ドキドキしてハイテンションになっていたのですが、そういった緊張感もなくなりすっかり普通に話せるようになりました。
最近ようやく自分は三人以上の会話が出来ない風土病である事に気付いた
↓
↓
AさんとBさんは初対面、自分が二人にそれぞれを紹介
↓
いっつもこんな感じだよ…
二人だけなら何とかなるが三人以上になると必ず余る
TOEIC990超えってすごいな
不自然すぎ。ワロタ。こんなクセの強い関西弁、関西人でも言わんわ。
以下に、訂正してみる。
_______________________________¥
どうでもええ事やねんけど~。
って言われてるんやけど~、
「ちゃうちゃう、仕事してへんのは、自分、勉強中やからやねん。」
って返したったで。
___________________________
うん。自然になった。
職場でも、サークルでも、各種飲み会でもなんでもそうなんですが、どうも私は浮いてしまうことが殆どです。私は20代の男性ですが、同姓のみの場合でもよくあるのです。
話相手と1対1なら、まあ向こうも話せるのが私しかいないわけですから、一応会話になるのです。(沈黙も嫌だし、ひまつぶしや気を紛らわす意味でしょうがなく話相手になってくれてるのかも知れません。)
ところが、3人になると、話は他の2人で盛り上がり、私はしょうがなく聞いて笑っているか、せいぜいあいづちを打つ程度の参加になってしまいます。もちろん、少しは私に話を振ってくれたりするときもありますが。
ましてや、大勢での飲み会なんて辛い限りです。自分が話しに入れない時間が多過ぎます。
ですが、初対面の人に話かけるのはむしろ得意な方かも知れません。最初は話題の中心にいたとしても、徐々に私と話すより他の人と話す方が面白いことに気付いたのでしょうか。
同じような悩みを持ってる方いますよね?
浮きかねない状況の時、どのように対処していますか?ただ耐えるだけか話せる出番を待つのでしょうか。それとも、飲み会等は避けるのが無難でしょうか。
反対に、自分が浮くことはなくても浮いてる人を見るケースありますよね。
そのような人を見てどう思いますか?なかには優しい人がいて話しに入れるように話題を振ってくださる方もいらっしゃるようですが、大抵の方は無理して私のようなつまらない人間と話すより自分が話して楽しい人と話しますよね?
休憩が必要な場合もあるし、で、しばらくしたら元気になる場合もある。
より質の高いモチベーションを見出さないといけない時に来ているのかもしれないね。
ただ、これまで抱いていた目的は、それは捨てなくても良いんだけね。
暗くても口角が下がっていても、容姿がそれなりならば周りはガンガン話し掛けてきます。
職場にも、常に話し掛ける側の人を見ていますが他人事ながら見ていて心が痛くなります。その人に誰も話し掛けません、常にその人は話しかける側です。結局のところ男性のみならず女性も、明るいブスよりも暗い美人が好きなんでよね。
私も頑張って他人に積極的に話し掛けた事はあったけれど誰も話し掛けてはくれないので無駄な努力はやめる事にしました。自分から話し掛けたり笑顔でうなずいたりしても、自分を安売りするだけで相手からは却って軽く見られます。
黙っていても人が寄ってくるのは美人だけです。そしてブスが自分から声をかけても痛々しいだけです。ブスに生まれた以上はおとなしくぼっちライフを満喫するのが一番傷付かない方法だと悟りました。
東京は人口が多い故に鉄道会社がいくつも成立して、私自身その恩恵を被っているけど、
万が一の話を言い出したら、人が多い分それだけ通り魔やスリに遭う可能性も高くなるわけだからね。
地下鉄サリン事件みたいなことも実際に起きてるし。
「免許を取得=自動車を日常的に交通手段として使う」ではないでしょう。
プログラマーは、大変に、権力を欲しがっている人は多いけれど、
リスクを取る事も、忍耐することも、支える事も心にないようなメンタルで、ハッキリ言って成れるわけがない、と思う。
好きな事だけをしていたいし、技術以外の泥臭い他の仕事は無いがしろにするし、
ただ、自分の自由にしたいという理由で権力を欲しがっているだけでは、一生、無理だと思う。
つらいのは皆同じであるし、他の業種でも我慢して働いている、という人の気持ちが分からない。
無駄なものを作らせて、と怒るプログラマはいるが、給料があるだけマシとは考えもしないし、
なんだかもっともらしい理屈に見えるけど、こういう事言ってる人って自分は未婚だったり既婚でも子無しだったりするケースが多い。なぜなのか。元増田はどっちなのだろう?
実は、劣等生ってなろうで連載してた頃は、はてなでは結構好意的な反応が多かったんだよね。
例:
http://b.hatena.ne.jp/entry/ncode.syosetu.com/n2569f/
http://d.hatena.ne.jp/pushol_imas/20101007/1286449396
それなのにアニメが始まってみると、(2chはともかく)はてなでも否定意見ばかりだったのは正直驚いた。
久しぶりに寄生獣読むと、いろいろ思い当たった。
田宮玲子の最後はGANTZのちびっこ星人の最後にそっくりだし、ミギ―が腕伸ばしてトラックに乗るとことかはワンピースのルフィだし。
他にもいろいろあるんだろうな。
塾の先生の設定じゃなかった?
甘ったれた考えで、人間一人産んで育てようなんて考えるなってことですよ。
それなりの覚悟をして産めってこと。
屋上の先っちょまで追い込んで背中押しさんばかり?
この元増田、こんなとこで「母親退職願」なんてタイトルつけてポエティックなこと書けてるんだから、屋上までもあがってないでしょ。
甘ったれてるだけだよ。
子供が子供産んで、自分の思い通りにならないからってイライラして虐待してるだけじゃん。
幼い子供は、圧倒的に「親」、とりわけ「母親」という生き物を絶対的存在としてみてるんだよ。
だから、5歳児とかでも、外に助けを求めず餓死したるする子供がいるんでしょ。
母親の言いつけを守って、家の中で待ち続けてるからだよ。そのくらい、母親は「絶対」なんだよ。
その「母親」が大人になりきれてないから、子供に被害がいってるんでしょ。
夫までもがクソ夫なのは不幸かもね。
でも、そんな男を選んでそんな男の子供を産んだのも、元増田本人だからね。
元増田がブコメとかのアドバイスに従って、旦那が仕事休みの日に置手紙して羽を伸ばしに出かけて、帰ってみたら子供が瀕死でした、とかならないといいなと思うよ。
本気で元増田が鬱ってるなら、自分の親に頼ってみるなり、児童相談所系のところに頼ってみるなりすればいいよ。
何らかの助言はもらえるだろうし、ほんとに追い詰められてると判断されれば、しかるべき措置(子供をいったん養護施設的なところで保護する、とか)がとられるだろうし。
もともと自分は乗り気ではなかったんだけど(車だけに)、親がうるさかったので仕方なく取ることにした。
でもさ、正直乗りたくないんだよね、車。
だってさ、自分がいつ事故の加害者になるか分かったもんじゃないじゃん。
交差点で仰向けの恰好でスケボーに乗ってた6歳男児、車にひかれ死亡
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1812970.html
こんなのさ、はっきりいって無理ゲーじゃん。
自分はこんな事故起こさないって自信を持って言える人、いないでしょ。
そりゃ確かに、上の例では運転手の責任は法的には問われないだろうよ。
でも問題はそこじゃない。事情はともかくとしても、人を一人殺したことに変わりはないんだから。
寝る前に、轢いた時の音とか、ハンドルの感触とか、異変に気付いて車から飛び出た時に目に入った子供の無残な姿とか、蘇ってくるんだろうね。
「さっきから車のデメリットばっか強調しやがる。車は人殺しマシーンである以前に交通手段なんだぞ?
たった一件の事故について知っただけでこんなセンチメンタルになりやがって。主語のデカさだけは一丁前の増田だな。」だって?
そりゃそうだね。何事もメリット/デメリットを比較して考えるべきだ。
ところで、俺は東京に住んでるんだよね。だいたい行きたいところには電車かバスで行けるんだよ。
ごめん、話をそらすつもりはなかったんだ。
でも、東京で暮らしてて「車欲しいなぁ」って思うこと、ほとんどないんだよ。
オリンピックが来たらさ、公共交通機関ももっと充実するじゃん?
そしたらもっと車も要らなくなる。
車を使いたくなるのってどういう時なのか、よく分からないんだよ。
それでも一応、エントリに起こすためにちょっとは真面目に考えてみた。
車があると便利なタイミング。
俺、車を使うような仕事に就くつもりないんだよね。
仕事で車使うのって、トラックやタクシーの運ちゃん以外だと、会社の営業とか広報とかくらいなんじゃないの?
よく知らないけど。
俺、結婚できるのかなぁ。
しかもだよ。上で「メリット/デメリットを比較してみよう」とか言ったけどさ。
「人を轢く」っていうリスクを定量的に評価するの、意味があると思う?
車を運転してて実際に人を轢く可能性は、確かにそこまで高くはない。
じゃあ人を実際に轢いた時の損害を算出してみようという段になって、君はその損害を数値化できる?
「車が壊れたから買い替えウン千万。あと慰謝料ウン百万」とかそういうことじゃなくて、精神的な苦痛の話だよ。
例えば彼女にフラれたときの苦痛を100として、人を轢き殺した時の苦痛はいくつだって即答できる?
俺にはできない。強いて言えば「∞に発散する」って答えると思うよ。
「自動車を運転するの、どうよ?」っていう命題は、最悪の事態が発生したときの損害が大きすぎて、メリット/デメリットを比較検討する意味がないと思わない?
どこかの原発でも、「確かにでかい津波来たらやべぇけどさ、そんなのありえなくね?マジこれほとんどノーチャンっしょ」っていう意思決定があったらしいね。あれと一緒。
おまけに、この「最悪の事態」は日本のどこかで日々起きてるんだよ。
車の運転に対する君の感情が、今のところポジティブなものだったとしても、それは単に「運が良かった」だけでしょ?
こんなんだったら俺、免許とらなくても良くない?
宅配とか送迎とかのために、車は使われ続けるだろうさ。
でも、狭い住宅街のただ中を車がビュンビュン走るっていうのは、ちょっと前時代的過ぎると思わない?
今や駅にもホームドアが付いてるんだよ。自殺しようとでも思わない限りはそう簡単には電車に轢かれないよ。
じゃあ、君の家の前の道路はどう?歩道はある?ガードレールは?
でも、歩行者と自動車の間を隔てるのが白線一本だなんて道路は、なくなった方が世のためだと思う。
実際に車を今バリバリ運転してる人は、ここに書いたようなこと、どうやって折り合いを付けたの?
「明日、もし俺/私が人を轢き殺したら」って、考えたことない?
勢いでバーっと書いたエントリだから、少しミスリーディングになってしまった。
「都会暮らしの人には車は基本必要ないし、それ故に免許を取る必要性も俺はほとんど感じないけど、みんなはどう思う?」
って聞いてみたかっただけです。
家族や友人と話をする中で、「車の免許」というものに対する温度差を感じたので。
色々とグダグダ言いましたが、免許は取ります。もう金も払ったし通い始めちゃってるからそこは仕方ないね。
車に対する自分の見方が偏ったものなのか、はてな村民をバロメータに確認してみたかったので、レスポンスがもらえればまあそれでいいやと。
しかし、企業・労働力・雇用・交通機関・資金が、一極集中し過ぎている東京都のような
都会だけではなく、
もちろん、私の議論が交通手段の発達した都会でしか成立しないのは重々承知の上です。
「都会においては、」歩行者を守れるものが白線一本しかないような危険な道路はなくしてくれ、とでもすべきでしたね。
ごもっともです。
結論が免許取得の有無になってしまったのは、単に私が「教習所めんどくせえ」と念じながらエントリを書き上げたからであって、
「免許とかいう制度、この世からなくなれ」などと言うつもりはありません。
リスクなんてそこらじゅうにある、というのはその通りなのですが、
車の運転に関して言えば「都会住みならリスクへの対策が容易(運転を控えれば良いだけ)」かつ「『万が一』の事態が起きる可能性が比較的高い」ため、
通り魔に遭いたくなければ外出を控えなければならないし、スリに遭いたくなければ金品を持ち歩いてはいけない。
どちらもたいへん非現実的です。だから、実際に金品を持って外出する人は通り魔•スリに遭う可能性についてはいわば妥協しているわけです。
ただ、都心の発達した交通網のおかげで「車を運転しない」という選択肢は比較的現実的であると私は思います。
おまけに、種種の犯罪に巻き込まれる確率に比べて自動車による死亡事故を起こす確率はかなり高い。
例えば警察庁のデータ(https://www.npa.go.jp/toukei/seianki/h24hanzaizyousei.pdf)を紐解いてみると、毎年事件に巻き込まれて亡くなる方の人数はおおむね500人前後。
通り魔とかいった「突然、偶発的に巻き込まれる恐れのある事件」のみならず、
怨恨殺人とか、金品狙いの強盗殺人とか、そういうものも含めてこの人数です。
それに比べて自動車事故による死亡者の人数は、2013年で4373人。(http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikokoutsu)
ニュースで殺人事件の報道がなされ、死亡者の名前が一人読み上げられる裏で、
八名の方が自動車事故で亡くなっているわけです。
「そもそも、4373という数字自体が小さいではないか」と思われるかもしれませんが、
それでは、あなたの知り合いの中で、過去に刑事事件もしくは自動車事故に巻き込まれて亡くなられた方はいませんか?
私にはいます。親戚が刑事事件に巻き込まれ、帰らぬ人となりました。
おまけに、車に乗らなければこのリスクは避けられる。
だったら、乗らない方が身のためだと思いません?
http://anond.hatelabo.jp/20141023160653
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20141023160653
増田でこれほどブクマついたのが初めてで興味深く読ませていただきました。ブコメも Twitter での言及も。
せっかくなのでそれらを見てまた感じたことを軽く書いてみようと思う。
数々のコメントの内容の前に。
そういれば学級経営についての言及がなかったなと。自分が担任の経験がなく感じたまま書けることが授業くらいなものだった。
自分のこれまでの経歴では職員数の多い高校での勤務しか経験がなくそこでは一人一分掌的に、担任か、それ以外(総務、教務、進路など)といった組織体制だった。当初は常勤講師としての勤務で担任は持たせてもらえず、教諭となった今、前任校で経験のあった同じ部署で仕事をしており、次年度の分掌として学級担任を希望しているという次第。
また後でジョブローテーションなんかについても述べるが、今の勤務校が教育困難校である分不安も大きいが自身の教員としての力量形成・キャリア形成として早くに学級担任を持ちたいと思っている。ちなみに年齢的に言うと大学を卒業してから一般企業に務めた経験があり、ぎりぎり若手というくくりに入れてもらえるかなというところ。
で、HRについてだが、担任経験者にこういった人数についての話を聞くと、自分の近くではこんな感じだ。
学級経営としては大きな差異を具体的に感じるわけでもなさそう。ただやはり教室に5人増えるだけで教壇で感じる圧迫感が強いのは共通している。
これも高校の範囲でしか書かなかったので。ここに書くことは教育業界にいる人間の、現場から聞いた話と少しの憶測である。
例えば高校なんかは義務教育でない上に、多少近い傾向を持った生徒が集まる。それに対し義務教育である小中学校は、公立校には基本的に地域から選り分けられることなく生徒が集まる。で、ここで短絡的に「小中学校は学校による差は無く幅広く多様な生徒が集まる」とは言えない。地域による差があるからだ。
柄の悪い地域というのはどこにでも存在する。よく「団地の多い地域の中学校での教育は大変」なんて言ったりするが、比較的生活水準が低く、片親であったり家庭環境が複雑であったりする家庭の多い地域がある。そういった地域では、家庭でも子供の幼児教育・初等教育に割く余裕がない分、ちょっとした勉強の躓きから ADHD,LD などの障害までが見過ごされたまま子供が育ちがちだったりする。他方では経済的に余裕があり子供の教育にも家計を割くことができる家庭の多い地域があり、そういった地域間で教育格差が生まれるのは必然である。
そういった「落ち着きのない騒がしい小学校」「柄の悪い中学校」を経験した人も多いのではないだろうか。
そんな中で、高校教員の自分が言うのもなんだが小中学校の教員の方が激務だ。これは残業時間などのデータにも出ている。まず小学校は言うまでもなく担任がほとんどの授業を行う。また高校教員は大体の授業数が週 12〜18 コマであるのに対し、中学校では多い場合 20 を超える。まして人格形成も高校よりもなされていない中学校でそれだけの授業をこなさなければいけない。またその上、子供達の部活動には高校よりも張り付いて監督していなければならないし、部活動が終わり職員室へ戻って授業準備でもしようとした所に近所のショッピングモールから万引きの通報が入ったりする。
まとめると、小中学校は平均的とは決して言えず、自分が前記事で書いたような教育困難校は小中学校でもちゃんと存在し、そんな中で上述のような業務をこなさなければいけないのだ。高校で自分が前記事のような主張をしたくなるのだから、小中学校は尚更であろうと思う。
思いの外応援や労いの声が多く嬉しかったです。ありがとうございます。
コメントに多かった声。「5人を隔離すればよいのでは」から「また別の5人が発生」まで色々。
まずその「大変な5人を隔離」については、習熟度別学習もそれに近い性質もあるように思う。試験などの成績でクラス分けを行うことが多いが、それで低学力の子が少人数で集まると、そのチームで学習が行き届くようになるケースは往々にしてある。ただそれで学級一つを作るとなるとそう簡単ではないだろうなとも。
以前は特別支援教育についてもそういう生徒を分けて特別な教育をという考えがあったけれど、今は健常な生徒から課題を抱える生徒まで包括して一人ひとりに良い教育をという(理想論に過ぎる)方針に転換しているので(インクルージョン教育)、そこは今の教育の目指すところではないのだろうなぁ。
単位制みたいなイメージだろうか。特定の小規模な学級を持たず自由化ということだろうが、まずもっと教員は必要だろうと思うけどそれにしても現実的ではないだろうなぁ。
特に自分の勤務校にいるような生徒は自分で正しく判断していく力が乏しいし、持続的な集中力が乏しく激しい私語などで授業を引っ掻き回すような生徒はその場の楽しさだけを求めて集団で固まり結果授業が崩壊しそう。そこへのサポート案でもあれば。
甘えだと言われても詮ないのだが、実際ぜんぜん違うだろうし、似たような原因から似たような事も起こる。ただしどちらがいいかは別問題。後述するがそこにいる生徒たちによって理想的な人数はそれぞれ違う。それが現実的でないのもお分かりであろうが、自分の中ではこれ以外に具体的な案はない。
自分は少なければ少ないほど良いとは思わない。集団生活能力、関係形成能力、客観的意識の育成のためにもある程度の人数の集団は必要である。そのための場が生徒にとって、30人前後の学級なのか、10人前後の部活動なのか、15人の特別支援学級なのかはわからない。またこれまでの授業経験でも学級の経営一つで25人の授業が30人になった後でも良くなるケースだってある。生徒たちが自身にとって最も有用な集団に属するのが良いと思う。
http://anon.isc5.com/2014/10/kyousi.html
記事にいくつかの事が書かれているけどそれらについて。
通信制高校も全日制高校も同じ学校だし、それらと塾もまた別だし混同しすぎ。
まず通信制や全日制など様々な学校があるのは当然生徒たちに適した学校教育が受けられるため。
あと教員免許状について誤解されているようだが教科指導技術だけで免許を取得しているわけではない。教科指導のみでなく発達心理を学んだ上での生活指導やカウンセリング、自己実現のための進路選択指導、全てが学校での教育活動でしょう。
目が届くようになるという意味で使っているケアというのは教育でなく管理ではないのか、ということだと理解したけど、その初動からの全てがその生徒のための教育活動。仰る通りだが、教室に座って念仏を聞くだけで教育とは言えない。実際、前記事に書いたような情緒の安定しない課題のある生徒だって、そんな状態で授業を受けなさいといったところで知識・理解なんて深まらない。じゃあどうするのかというと、この場にはいない方が良いと判断した場合、例えばとりあえず付き添いをつけて保健室や職員室の担任の元へ行かせたりする。そこでその場のケア、そしてその後情報交換をし、その子のアフターフォローについて話し合う。その授業一つ一つだけでなく、組織で取り組むのが教育活動である。
教室という空間自体に疑問を持っておられそうだが、当然、そこにいることが有用でないのであれば通信制高校などで高卒資格を取得すればいい。現任校のような全日制課程に所属する生徒に対しては、その学校で高校生活を送り卒業することを希望したと判断し教育を行っている。もちろんそこには保護者も介在しそんなシンプルな話ではないが。
突っ込みを入れられている前記事の事例が極端だったので良くなかったかもしれない。年間を通して指導をしていると、教室にいる・いないの問題だけでなく、成績にも環境による差異は現れる。数人人数の減る科目だけ授業に取り組み、結果その科目のみ伸びるというようなことだ(もちろんそんな単一な要因であることも多くはないが)。あとこれについてだけは無いが大きな要素として理解していただきたいのだが、勉強の学習だけが教育でなく、特にうちのような困難校ではその生徒がいかに健全に学校生活を送れるかが大事。そのためには人数を含め教室環境というのは大きすぎる要素だ。その上にあって生徒が負担を感じることなく教室にいられる環境を敷くことができるのであればそうしたいだろう。
そうだと思ってやっています。教科指導、生活指導、進路指導、全て教員の仕事です。
結論から言うとそこの相関関係は無い。地域による違いもあると思うけど、一応教員の力量形成のためのジョブローテーションは存在する。
まず基本としては、様々な学校で勤務をすることが教員の経験・力量にもなるし、さらに言うと管理職候補も養成しなければならない。そのために普通の学校だけでなく、工農商の実業高校、定時制や単位制高校、進学校など様々な環境の学校を出来る限り経験しましょうというような方針がある。その上で自分の勤務経歴は、まず常勤講師は力量関係なく空いた枠に入るしかない。そして正規教諭になり、まず最初の経験を積むという段になっている。そのため、自分も数年後には異動することになる。優しいコメントもあったけどその異動までは現任校で頑張る所存。
ただ実態としてそうもいっていない現実もある。例えばある都道府県は初任者はちょっとした郊外、田舎に勤務することが割合として多い。何故かと言うと都心部から中堅教員が動きたがらないから。そこには持ち家を持っているとかそういう事情もあるが、なんせ勤務年数の長い教員はわがままを言う。都心部、通勤が楽、その上学校が中堅進学校であったりすると居心地がよくなる。進学指導に躍起になることもなく生徒指導も手がかからないからだ。初任者は数年で異動させる慣例があったりするが中堅はそうでもなく、異動希望を出さなければ長年在籍することができるので、そこにつけいって、なかなか異動しない。自分は割りと本気で様々な問題の病巣がここにあると思っている。
またそんな中にも、様々な問題のある定時制高校でも勤務時間と仕事量の少なさから長い間在籍する変わり者もいる。定時制なんかには変な教員・使い物にならない教員が多いなんて声を見たことがあるが、自分はそこまで極端な話ではないとは思いつつも、組織の中で周りと上手くやっていくことが苦手で職員数の少ない定時制に在籍する教員もいるので、まぁねぇ、というところ。
※個人の感想です
教育困難校は本当に、高校生とはいえその時その時の刹那的な感情に素直な生徒ばかりなんです。そんなわけにいかない。
高校を出て就職をする。そのために就職試験がありその中では「高校数学なんて世の中で使わねーよww」なんて言っていられない。就職試験で因数分解や三角比の問題を解くことが就職につながる。
そんな、教科教育の意義・理想論なんて話以前の、これ以上なく現実的なことでさえ、生徒たちは自分で判断し学校生活を過ごすことはできない。数学なんて知らねーよ。約数ってなんだっけ。分数って上割る下だっけ。あーもうやだ数学嫌い。ツムツムしよ。
感覚として、今授業をしていて、まだ大人しい1年生の教室の中で、集中してついてこれている生徒 4/5 ,残りがちょっと厳しそうというところだ。そこで自分が授業中、注意や指摘など、教科指導以外のことを放棄したとしよう。怒られない。喋る声で授業聞こえない。あ、LINE きた。そんなこんなで授業を聞く生徒は 3,4 人になるだろうなと思う。
そうなると学校の経営は破綻する。ただでさえ入学から卒業までに数十人が転退学するような学校だ。進級・卒業・就職と進んでいける生徒がいなくなるだろう。そしてそこに「義務教育じゃないんだから」は酷だ。生徒の声に答える事だけが我々の職務でなく、そこには子供の自己実現を願う親がいる。それを求める地域社会がある。そのために学校は存在する。
繰り返しになりますが、多くのコメントの中様々な視点があり本当に面白かったです。たかだか学級人数の話から少し広がりすぎたが、まぁ面白く読んでいただければ幸い。
皆様の生活があり自分の仕事があることも事実であり、そんな社会に少しでも還元できればと思って働いてまいります。仕事が楽になればとも思うけど、それ以上に生徒たちが少しでも良くなればとお祈りして、今回の件についての記事を締めます。