はてなキーワード: オーラとは
マジこれおすすめ。覗かれてもエクセルで仕事の資料を覗いていると思われるだけ。
家に帰ってから家計簿つけなくていいし、実質勤務時間の短縮だろこれ。
しかもお金をもらいながら家計簿つけてると思うと、俄然家計簿を書いてて楽しくなる(笑)
この人は熱心にメール打って仕事を超絶やってるなと思ってくれる。
ひとつのセルに言葉を書き込んでいけば、まさか日記を書いているなんて思われない。
あと小さい声でぶつぶつ言っとけば何か考えてる風になるから、それも混ぜると尚ヨシ。
たまに天を仰いでみたり(笑)
頭の中は誰にも覗かれないことを生かして、土日の休日のことを考える。
たとえ画面を覗かれても、まさか休日のプランを考えてるなんて思わないだろう。
こんど現地仕事でここに行くんだよねみたいな気持ちで自分を騙せば、
オーラとか表情とかにでてきて、周りも仕事のことを調べてるんだと錯覚してくれる(笑)
基本カチカチだけだし、たまに短文打って検索してるんだろ?耳だけですぐわかります(笑)
通はね、それなりに長いページをメモ帳にドーンと貼って縮小して見る。
例えば掲示板全レス表示して、Ctrl+A Ctrl+C メモ帳開いてCtrl+Vだけで完了。
先日男友達に、その人の彼女(わたしとその男と共通のコミュニティにいるため3人とも知り合い)のこと愚痴られた。
うんうんそっかーって聞いてあげてたら、
相手がなんかあからさまに浮気を持ちかけるみたいなこと言ってきて、家の方向が一緒で2人になるシチュエーションとかでセックスのお誘いを、受けた、たぶん。
断ったら冗談で済ませられるくらいのギリギリのずるくてキモい言い方で。
キモいなぁ。
断ったら断ったで確実に亀裂入るし前のような関係にはならないし(キモいので)、なにより同じコミュニティの2人の女を面倒に巻き込んでもいいと思ってる軽率さや、女同士(主にわたし)が気まずくなることに思い至らない浅はかさがキモいなぁ。
こういうの繰り返すと個人ではなく男性全般がキモくなってしまう。
男、マジで本当に信用ならない
わたしのオーラが浮気相手にちょうどいい雰囲気なのか知らんけどこういうことが2度や3度ではなくて、マジで6〜7回は男にこの手の誘いを受けたり、そのときは明かしてなかったけど後から彼女いることが判明して危ねーーーっ!ってなったりしてる。
吐きそう!
一途アピールする男は裏で他の女に正してるし、実際に一途な男には浮気のチャンスがないだけ。男はチャンスあれば全員浮気する。
かまってオーラ出てる奴なんて見た瞬間めんどくさくて触りたくなくなるじゃん
(答)
facebookやgoogleのアカウントを活用して登録する人が受け答えします。
『無神論者の方にお聞きします。死の床にあるあなたの5歳の娘が「死んだら天国に行くの?」と聞いてきたらどのように答えますか?』
https://jp.quora.com/無神論者の方にお聞きします-死の床にあるあなたの5
こちらを読むと、海外の方のやり取りも翻訳版で読めるようです。
●今の若い人達は、Twitterで【緩募】【急募】○○の質問サイトって使い方をする人も出てるでしょうし。YouTubeのコメント欄で、気に入った方に質問される方も多いですよね。
●以前の知恵袋での回答だとこんな感じみたいですね。(2010/1/7だから、10年前のQ&Aは、こちらです。)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1134955931
参考になれば、嬉しいです。
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...って、回答つけようと思ったら、回答の受付を締め切られていたので。成仏させたい。
「私、増田阿野太郎は!恥ずかしながら!戻ってまいりました!」
暗い気持ちを誤魔化すために、久しぶりにあった両親の前で冗談めかしてそう答えた。つもりだった。
わずかな沈黙のあとで父親が「随分怖い喋り方になったな」と半笑いで応えてくれた。
母が怯えた目をしていたことに気づいた。
嘘が多い。
私、増田阿野太郎が某実力組織への就職を決めたのは、大学を出て無職になった次の秋だった。
惰性で続けていた就活にもバイトにも嫌気がさしていた頃で、親の態度も少しずつ冷たくなっていた。
曰く「デスクワークもある」
なんとなくで、就職先を決めた。
そして、気づけば私は税金で寝食を得る身になった。
総員起こしの前に歯磨きや洗面を済ませる。
着替えを用意し、寝ている間にズレたベッドシーツをベッド下に潜って引っ張りなおす。
そうして、何事もなかったかのようにベッドに戻り、ずっと寝ていましたよというオーラを漂わせつつ喇叭を待つ。
朝の体操と点呼により貴重な血税を一斉にドブに捨てたあとは、朝の掃除である。
上官の靴を磨かせていだくことの喜びを噛み締め、靴墨をこれでもかと塗りたくる。
そうして塗りたくられた靴墨がそこかしかに染み付いた床を必死に擦るのも、下々の者達の公務である。
二度目の点呼、国旗への敬礼、朝の挨拶、行進、大事な大事な公務の時間。
蛆虫が羽ばたく権利を得るために求められる最大のモノ、それはベッドメイク。
人生と同じだ。
もしも明日、訓練中に死んだとして、親が死に目に会いに来ても恥ずかしくないベッドメイクを。
それをシーツに込められぬものが銃を持てば国民が不安になろう。
国民を信頼させろ。
敵国に威勢を見せよ。
それがベッドメイクに現れる。
完璧なベッドメイクをする軍隊を前に、その絶対の統率を前に攻め込もうとするものがあるだろうか?
否!
絶対の統率!
目の輝き!
輝く靴!
輝くバッジ!
無理だった。
「なぜこんな安定した仕事を辞める?」
「定年後も自衛隊員という立派な経歴でガードマンでもバス運転手でもよりどりみどりだぞ?」
役に立ちたいから、こんな所にいたくねえんだ!
その言葉は流石に飲み込んだ。
もう疲れた。
同じく生まれ持った素材が恵まれた外見にだけ自信がある美人だが、増田は過去に容姿をdisられたトラウマから自分の外見へのコンプレックスが根底に残っているのでは。
自分に自信がない美人は男にも女にも良いカモ(≒何でも言っていい対象)にされるから気をつけなね。
外見整えたならそりゃ不審者に付きまとわれたり街中で声かけられたりスカウトとかもザラになるし歩く道さえ用心して選ぶようになるけど、いつでも通報する気持ちと無視する事と危機回避に全力注げ。自分を強く持て。話しかけんなオーラを出せ。ナンパは完全に存在を無視しろ。自分が美人だということを前提に生活するべき。男友達でさえも油断してはいけないし気を持たせる言動しなくても隣にいるだけで勝手に勘違いするから「いい友達」を本人にも周囲にも協調するといいよ。
美人に生まれると周りが親切にしてくれたり得する事も多いけど、目立つ外見ってだけで割を食うことも同じくらい多いから輝かしい自分を抑えるor声をかけづらいような強いファッションに身を包むと多少ましになる。伊達眼鏡と帽子が最強に便利。
なんで自分がそんなことを、じゃない。自分の身を守るためだよ。キラキラ美人の自分をアピールしたい時だけ思いっきりおしゃれしてバチバチにメイクしたらいいんじゃないかな。私はそうしてる。
大正生まれの祖父は、坊主頭でメガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子である父から聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。
対照的に祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。
祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父の遺影はインテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真の遺影の人でしかなかった。
そんな祖父の遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父へ政府が贈ったものだ。戦後、日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父は戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。
去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父は戦後も抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎の山中にある村で、家業は農家という典型的な家だった。時代が時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。
その頃から興味が沸いていたんだと思う。
遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。
私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日、実家で終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。
兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父は陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要なものは、対象者が故人の場合は申請者との繋がりがわかるための除籍謄本と戸籍謄本といった、役所で簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。
まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父の戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言の事実のみであるのだから。
当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。
読み解いてまず驚いたのが、祖父は1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州で国境警備をしていたらしい。大きな作戦や戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。
次に驚いたのは1944年2月、祖父は除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父が満州で終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父の人生はガラリと色を変えた。
千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。
千島列島といえば、日本の降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島(ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵、終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。
お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島にソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前で漠然としているだけで、よくわかっていなかった。
どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。
祖父のいた部隊は結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。
得撫島はもとより、千島列島は自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい、今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空からは米軍の攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれて沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。
得撫島はラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意の戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずにはいられない。
兵籍簿には、祖父の召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的な情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。
古ぼけた紙は語っていた。戦争は8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ、祖父は戦後も長らく闘い続けていた。自分の血縁者である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父の存在への深みが増した。
シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気が流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ。戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。
祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去な抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父は日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷の山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。
ここでは政治的な話はしない。
兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父の存在がぐんと近づいた。存在そのものを実感した。祖父はちゃんと生きていた。過酷な時代を生き抜いた。ドラマや映画の主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷な環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和な世界でツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。
兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分の流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。
仏間へ行き、再び祖父の遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影は漠然とした無機質なものではなく、凄惨な時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。
先日書いた記事に色々とコメント(トラバいうんか?)がついていてなかなか楽しかった。
娘のうんちパンツがキツイとかこんなに赤裸々と「イヤでたまらない」気分を吐露するのは新鮮だった。夫を憎むネット垢の人達の気持ちが何となく分かった。
「ガイの子供はガイ」という「普通」ではちょっと考えられない無神経炸裂なご指摘もあれば、「病院及び児相を試してみたら?」という建設的なご意見も頂いた。
精神医療にはもう既に7歳の息子を除き家族皆でお世話になっている。
私は昔から考えすぎる性分だったので子供の頃は人生に絶望していたし今でもちょっとしたことでイライラが昂じるので「うつ」だという自覚はある。薬は嫌いなので飲んではいないが、俗に言う心理療法に通っている。
娘は8歳から児童精神科のお世話になっている。投薬なしの遊戯セラピーでどんぐりの孤児院を作っているらしい。
旦那と二人でカップルセラピーも試した。「合う」人に中々巡り会えなくてセラピー難民になったが。
病院に行けば即問題解決するものではなく、行くことで問題と取り組む機会が与えられるくらいなので色々と試行錯誤している。
別に増田で問題解決を求めていたわけではなかったが、コメントで「とりま病院へ。。。」とか「どこかに預けてみたら。。。」というご意見がちらほらあったのは興味深い。
助けになりたい。
と思って頂けることはウザいと同時に有り難いものだ。
「思春期女児を理解できない未熟な親」みたいなコメントもあったが、思春期もクソもない。娘のことは生まれた時から理解不可能だった。
「おっぱいがなければ生きていけない」オーラを出す孫娘を見て、私の母は羨ましそうに言った。「貴女はおっぱいが嫌いで口に含ませてもペッと吐き出されてがっかりした。」グラマラスな母や祖母とは違い、父の家系の女性に似て胸も尻もペラペラな私は「おっぱいでなかったらどうしよう。。。」と不安だったが、授乳は大きな問題もなくすんなりできたし、離乳も3歳を過ぎた頃には、「吸っても吸っても何もない。。。ぺっ」って感じで自主的に止めてくれた。徳川家康みたいに6歳まで吸われたらどうしよう。。。と思っていたのでホッとした。
おっぱいが嫌いな赤ん坊だったことは流石に覚えていないが、子供の頃から「生きるのだるすぎ。。。死んでみたい」くらいに思っていた私には、3歳くらいから夜になると死ぬのがコワイとシクシク泣く娘が理解できなかった。喘息がちで息をするのが「痛い」思いをした私は、6−7歳位から「いきすることがこんなにキツイなら死んだ方がラクだろう」と思い始めていた。
暗くなると心細くなるのか、「眠ったら死んでしまうかもしれない」とか「寝てる間に何か楽しいことを逃してしまうかもしれない」とゴネる娘は、とにかく風呂に入りたがらず、歯ブラシもパジャマもちゃっちゃとしてくれず、おねんねタイムがバトルだった。寝付きも悪かった。学校も小学校中学年くらいまでは朝ごはん、お着替えのバトルを繰り広げた挙げ句、家をでる直前になって「行きたくない」と玄関先ですったもんだすることもあって「詰んだな。。。」となることもしばしばあった。
学校で先生に死ぬのがコワイと言って、カウンセリングを推められたこともあり、児童精神科に相談した。良い先生にあたったので遊戯療法を始めてかれこれ4年目になる。友達と遊びたくても「行きたくない」とは言わないのでかなり楽しいのだろう。
パンツにうんすじも困ったが、幼い頃から家具に性器をこすりつける癖があった。3−4歳の頃、お泊りに行くほど仲良いお友達の家でもやっていたそうだ。一番最初に気づいたのは生後1年目くらいだったと思う。授乳が終わって娘を膝にのせてうとうとしてたら脚にまたがって「これは。。。?交尾されてるのか?」と思ったことがあった。
またまた比較してしまうが。。。息子は「泣くな」と言ったこともないのに、2−3歳くらいから歯ぎしりをして涙を堪えたり、爪を噛んだりもしていたし、お風呂の時にちんをいじることはあっても「交尾されてる?」と感じたことはない。
娘が2−3歳くらいから爪を噛み始めた時は、こんな赤子でも爪かむのか。。。?!とびっくりした。育ってからは貧乏ゆすりや爪を噛むところは見なくなったが、娘の足の爪は伸びても手の爪は切る必要がないくらい短かったのでああ、噛んでるんだろうな。と思った。学齢期には家で宿題をしてると椅子と交尾することが目立つようになったが、そのことで娘に嫌悪感を抱いたことはない。
というのも、私も物心ついた頃から保育園のお昼寝が苦手で、退屈を紛らわせる為にすまた方式の自慰行為をしていたからかもしれない。小学校に上がってからは家の外で自慰をしたことはないが、先生にヒステリックに怒鳴られた時には自慰衝動を感じた。真面目で気弱で優しそうな若い先生で第一印象は好きだったのでショックだった。
自分にそういう経験があったので、娘の自慰行為に対してもああ『こんなことやってられない』と絶望感を感じてるのだろうな。と思っていた。
幼い頃は旦那も私も何も言わなかったが、友達の家でやっていた、と聞いてからは椅子と交尾している時は「椅子がダメになるから止めて。」と言って止めるようにした。注意するようになってからも長いこと続いていたけどいつの間にか見ないようになった。
前記事の整体の先生の話は興味深い。というだけでだからどうだ。という話でもない。人恋しい気持ち、不安、絶望、憤りを自分で慰めるとという「自慰」という言葉はよくできてると思う。
自分が経験したことは「理解」可能なので「何でやねん」と嫌悪感や批判的な感情も抱かないですむので気分がラクだし、寄り添うこともできる。保育園のお昼寝は大嫌いだったが、夜は早く寝たかったし、思春期以降は寝るのが大好きで授業中でも机につっぷして寝てた。6時間睡眠な娘は理解できない。
娘は今でも寝付き悪いし寝言が多い。数日前には夜中に「足が痛い。」と叫んでいた。
学校の成績は中の中くらいで先生や友達とも問題なくやっている。コロナの遠隔授業も課題も自分一人でちゃんと予定表を作って頑張ってこなしていた。
コロナで友達に会えないことや、先が見えないことがキツいと愚痴をこぼすこともあるが、ラインやインスタでなりに楽しくやってるようだ。
ここ2−3年「全て面倒みてあげなければならない」切迫感がないのはラクだが、喧嘩ばかりしていることがキツい。
前の記事でも書いたが息子に意地悪な気持ちになるのは予測できた。男の子のことは理解できない。と思っていたからだ。女同士分かりあえるはずの娘に対してこんなに嫌悪感を感じるとは意外で「自分はこんなはずではなかったのに」感がキツイ。事更にうんちパンツがキツイと書いたが、うんちの扱いは布おむつで慣れているハズだ。前回の記事に汚くて不愉快だ。という感想を頂いたので尾籠な話が嫌いな人はここで止めて欲しいのだが、私は生理用ナプキンが苦手で布を使っている。どんなにサラサラを謳われてもカユイ感じがして嫌いだ。あんなものでお尻を包まれるのはイヤだと思って布にした。おむつの洗濯は苦ではなかった。
娘がパンツについたうんちをまるで存在しない物であるかのように「パンツを変える必要はない」と頑なに抵抗することや、臭いを指摘する私に怒りを顕にすることがキツかった。憎悪すべきはパンツについた臭いうんちなので、ちゃっちゃとうんちを排除できたら良いのだが。。。メッセンジャーの私が憎悪されるのは余りにも理不尽だ。
初潮がきたらどんなことになるのだろう。お赤飯なんて炊いたらめちゃくちゃ怒られそうだ。
私は娘に自分の体や体から出る汗や臭いを嫌悪するような女性になってほしくない。
だから胸がふくらんできた彼女に「ママも大きなおっぱいがよかった」と言ってる。
12歳にもなったのだから自分が汚したものは自分で洗って欲しいのだが、彼女にしてみたら「私はまだ子供なのに何故全部自分でやらなければならないのか」と絶望的になり憤りを感じるらしい。
コメントで娘に無力感が伺われる。と言った人が居た。どこの誰か知らないが、娘のことをよく分かっておられると感じた。
「ママと仲良くできないのが悲しい。」発言はどこから出たのか。。。とつらつら考えていたらその晩の、直前の出来事を思い出した。
弟が「ママとお姉ちゃんが一緒じゃないとしっこに行かない」と言うので何があったのか聞いたら姉ちゃんと二人でコワイ動画を観た。という。
「そんなもん観てコワくなるならネットを使うな」みたいなことをイラ立った声で言ったら
娘が明らかにムスっとして何も言わず、息子に携帯で動画を見せ始めた。
「なるほど。そうやってカワイイ動画観たらコワい気持ちもどっかに行っちゃうね。流石はお姉ちゃん、いい考え」
と褒めたら彼女はびっくりしていた。
「ネットを使うな」という私への反抗心丸出しの行動だったので、私が怒らなかったのが意外だったのだろう。
私としては「コワくてトイレに行けなくなるようなもんは見るな。」という意図での発言だったのだが「いらんでモノをまた見せてくれて。。。」とイラついていたし、娘はむっとしてたし「キーキー煩いぞ。」と、戦闘態勢に入りかけていた。息子が一人でトイレに行けるなら万々歳なので苛立ちがどっかに行った。問題解決できるカシコイ娘は嫌いじゃない。
そんなこともあったからか、今朝、開口一番娘が
「ママ変わったね。今週まだ一回も喧嘩してない。まだ水曜日だから先が長いけど。意地悪なことを言いたい気持ちを頑張って我慢してる。」
と言ってきた。黙って弟に動画を見せてた時、むすっとしていたけど何も言わなかったのは頑張ったってことだろうな。と思った。
私が変わったのではなく、変わったのは娘の方だと思うのだが。。。
そういえば旦那も先ごろ似たようなことを言っていた。
と言われた。
「私が変わったのではなく君が『メガネがない。家が汚いから何がどこにあるか分からない』と他責口調で怒鳴ることがなくなったから私も下らないことでイライラしないだけだ。」
と言ったら「僕は今までそんなに怒鳴ってばかりいたのか。。。」と悲しそうだった。
旦那が「怒鳴ってばかりいるので私もイライラする」と言っても「僕は怒鳴ってなんかない」という不毛な会話を繰り返し、私達の話を聞いてた子供に「パパ、いつも怒鳴ってるよ」と横入りされても「そうかなあ。そんなつもりはないのに。おかしいな。」とトボケたことを言っている人だったのに。
娘にも
「娘やパパがきーきー怒鳴らないからママもイライラしないだけ。」
と言いたかったけど、それでは角が立つと思って
とだけ言っておいた。
けど、今から考えるとご指摘にもあったように自分が無力であるという重さに耐えられず逃避行動に耽り、イライラや不安が昂じて感情的に爆発し他責する傾向を示す娘や旦那には
「君が私にムッとしても怒鳴らないで我慢したら私も意地悪な気持ちになっても怒鳴る様なことはしないよ。私が変わったのは、君が変わったからだよ。」
と言えばよかった。と思ってる。
既に見えてる風景でも他者の視線が入ることで見え方が変わった気がする。どこの誰かは知らないが、増田さん、ありがとう。
あと、ネットは好き勝手に何でも言える自由な場所ではあるが見ず知らずの相手に「気持ち悪い」とか「頭も心も悪い」とか「飯も時間通りに食わせられない母親に子供を育てる資格はない」とかいう無神経な暴言を吐くのは止めておけ。リアルでもどんどん自己規制心が緩んでキレ散らかす困った老人になって孤独な最期を迎える可能性を大きくするだけだと思うよ。
不躾な増田達には、どうしても暴言を吐きたいのならせめて何故自分がそう感じるに至ったのか自省し、言語化する努力を見せろ。と言いたい。
ということで、長々と書き綴ったが、気持ちの整理がとりあえずついたのでおしまい。
見ず知らずの増田達よ。私の気分悪いお話にお付き合い下さり、コメント書く時間も費やしてくれて、ありがとう。
またどこかで会う日まで。
と言ってみたけど彼女はまだ12歳だし統合失調発症してるわけでもない。毎日しょーもないことで「ママのせいで…」と恨まれるのがキツイ。くらいの意味だ。
昨晩寝る前に娘が泣きながら抱きついてきた。
めずらしいことだ。
「ママと仲良しできなくて悲しい」
とシクシク泣かれた。
とりあえず
と言ってぎゅっと抱きしめた。
ほんのりとうんちの臭いがして
「ああ、シャワー浴びて欲しいな…」
と思ったけど、夜もとっぷり更けてたので舌かんで耐えた。
「アレした?これは何?」
と責め口調になりがちで
子供を生む前は
息子だったら
鬱陶しいと邪険にしそうで
怖かった。
「男は嫌いだ」
が、
20歳を過ぎて一人暮らしを始めたら、人恋しい気持ちに流されて、なりにイイ人だけど結婚相手とは思えない相手ばかりと恋愛ごっこをしながら30代になった。
「このままではアカンやろ」と婚活して頭のイイ経済力のある誠実な相手を見つけて半年でデキちゃった婚に漕ぎつけた。
ギリギリセーフで子宝にも恵まれた私はとてもラッキーだ。神様に感謝せなアカンな。と思っている。
宗教は嫌いだけど。
娘が生まれた時は
「何かとムツカシそうな男児じゃなくてよかったー。」
と思った。
が、
娘は眠らなかった。いわゆるかんの虫が強い赤ん坊だった。
常に抱っこしてないとダメ。
昼寝も2歳位にはしなくなった。
寝付きが悪く、夜中に泣き叫んで起きる。
午前1時、3時、5時のいずれかに起こされる日々が8歳くらいまで続いたお陰様で、夜驚がない平和な夜でも私は2時間おきに目が醒める体になった。
けど、夜中に目が醒める睡眠障害な体が健全なリズムを回復したのはホントに極最近の話だ。
「いつ怒号が響き渡るのか」
と身構えてた。
と我ながら感心するが、脳が破壊されたのをひしと実感する。
自殺願望や絶望はしてないがイライラするしネットびたりで現実逃避してる自分ははっきり言ってうつだと思う。
娘と喧嘩するようになったのは、彼女が4歳になって息子が生まれた頃からだ。
男児は弱い
育てるのが大変
という先入観があった。
娘は予定日よりも2週間近く遅くデカくて難産だったが息子は1週間前にちっちゃく生まれてお産がラクだった。
娘の時には産後2−3週間は立つだけで息が切れる程消耗したが、息子の時は
え?ホントに?
ってくらいラクで、3日めには家の掃除ができるくらいには回復してた。
「もしかして…
娘はめちゃくちゃ難しい子供だったのかも」
と思うようになった。
娘に比べると息子は一人で放っておいても平気な赤ちゃんだった。
「常に抱っこしなきゃ」
という焦りがないことがこんなにラクだとは。。。
と衝撃だった。
となると
一時が万事きーきー泣く娘に
何でそんなことで。。。
先月娘は12歳になったが今でも時々パンツにウンスジをつける。
拭き忘れた
というレベルではない。
べったりとうんちで汚れたパンツを洗うのは私だ。
幼い頃は
と促すと
と彼女は怒った。
「臭いな。。。」
と私が気づく前にパンツを変えるようにはなったが。。。
丸めて洗濯かごに突っ込むので、うんちに気づかずそのまま洗濯機に放り込んで干す時にパンツにうんちがついたままで洗濯し直しということが何回かあった。
「できたら自分で手洗いして欲しいけど、無理ならせめてバケツに入れておいてくれないと洗濯機だけではうんちはキレイに落ちない」
と頼んだら、1回だけ自分で洗ってくれたが、その後は汚れたパンツがバケツに放り込まれるようになった。
自分も不安が強くIBS(男性は下痢、女性は便秘と症状に性差がある)な旦那は彼女の気持ちがよく分かるらしい。
羞恥心が強い余り自分に否があることを指摘されることに怒りを感じる
うんちを指摘されるなんてもってのほか
だそうだ。
確かに引っ込み思案で恥ずかしがり屋な子供だったかもしれない。
が、ステージでダンスをしたり学校の初日もやる気満々で臨んでいた。
そこまで人見知りで困ることもなかった。
が、一度
「ダメだ」
「できない」
と言えず、嫌なことを無理にやらされて拒絶反応になるらしい。
泳ぎだけは早く覚えて欲しかったので嫌がられるのは困った。
注射が大嫌いで定期検診も全力で嫌がる。
「今やっとかないと大人になってから受けても効果が薄いですよ。」
と医者に説得されて受けさせることを承諾した。すごく痛かったらしい。3−4日痛い痛いと文句を言われた。この調子では旦那がアイスクリームか有料アプリで釣って連れて行くことになるのだろう。私はやらなければならないことを甘いもので釣ってやらせるのが嫌いなのでいつもバトルになる。
彼女のために
と思ってやらせることを「ものすごくイヤだ」オーラ全開で拒絶されると私もムカついて
と怒鳴ってしまう。
息子は何でもオッケーなイージーモードで
「言いなさい。」と教えてもないのに
「御願い」
「礼儀正しく」と躾けるのは趣味に合わなかったので娘の時には何も言わなかったら、彼女は「ありがとう」も「御願い」も言わない娘になった。「何で私の〇〇がないの?」「誰も私の〇〇を持ってきてくれない」等と彼女の前で誰がそんな話し方をしてるわけでもないのに常に非難がましいのもムカつく所以だ。給食のおばちゃんにも意地悪をされたらしい。「ありがとうございます」とちゃんと言えないからではないだろうか。。。と思い、それを聞いてからは事ある毎に
「『ありがとう』は?」
と促すようにした。
彼女が事更に
とか
とか言っても
「口先だけじゃなかろうか。。。」
と常に疑ってしまう。
娘には注意欠陥や学習障害の傾向もあるのだろう。
診断されるほど顕著ではないが
他人の話を聞いてない
理解してない
ということが多い。
息子は
宿題も、
「え?!もう、終わったの?!」
となる日も珠にあるというのに、ダラダラ終わらない日の地獄が壮絶を極める。
「これ分からない」
と質問するくせに教えると
「そんなこと習ってない」
と怒る。地団駄を踏んで泣き叫ぶ。
なのは分かっていたが、私には毎日同じ時間にご飯を食べさせて寝かせることが難しかった。
家族に予定を事前に一々言葉で伝えることも億劫だった。努力して改善を目指したが今でもキツイ。
娘の友達が遊びに来た時
と無邪気に聞かれて衝撃を受けた。
娘は
「そんなこと聞いてない」
「今日の予定は何?」
と聞くことは全くなかった。
旅行の時にはトラブルが予測されたので細心の注意を払い、予定を紙に書いて伝えた。が、無駄だった。
移動の度に
「そんなこと聞いてない」
と怒られる2週間は地獄だった。
子供たちの中では今となっては良い思い出となっているのか
「また行きたいね」
と言われるが
と誓った私の心のもやもやは中々晴れない。
夜寝るのも嫌がった。
風呂に入るのも嫌がった。
外出するものバトルだった。
一々
「服を着て」
「靴下履いて」
「かばんはどこ?」
「靴はいて」
と指示しないと何もしない。
息子が3歳になる頃には、私が娘と外出前のバトルに興じている間に彼は一人で服を着て靴を履いて玄関で待機していた。
彼にはできる
「次は何をする」
という「予測」が娘には何故できないのかとイラ立ちが募るようになった。
頭では分かるのだ。
痴呆老人が、
「全てを忘れてしまった」
ことにおののき攻撃的な言動に出るように、娘も自分の注意欠陥傾向にうすうす感づいている。
と他責するのも、私に甘えられるからだ。と頭では分かっていても、怒鳴られるのはキツイ。
怒鳴り返す衝動を抑えようと頑張っても邪険な反応をしてしまう。
最初は耐えてても最終的には怒鳴り合いに進展することも頻繁だ。
昨晩シクシク泣いてたのは
と聞いたら、娘は2−3年前の喧嘩を思い出して罪悪感を感じたから
みたいなことを言った。
いつものようにくだらないことでものすごい喧嘩をしたことは何となく覚えているが詳細は忘れてしまったその事件は
娘が楽しみにしていたケーキを食べようとしていたら私の手があたってケーキが床に落ちてしまったみたいなことで始まった。
多分最初は泣きわめく娘に
「ごめんね。もう一つ買ってこよう。」みたいなことを言って場をおさめようとしたのだと思う。が、いつまでも泣き叫ぶ彼女に最終的には私がぶちキレる修羅場となり娘は
みたいなことを言ったらしい。
「本当はそんなこと思ってなかったのに。。。」
…
「失敗」だったのではないか
と今でも思う。
息子は4歳になるまで
保育所に入れなかった。
自覚は薄かったが、今から思うと、娘の時には、とにかく彼女から離れないとやってられない。くらい切羽詰まってた。
息子が生まれてからもキツイことはキツかった。彼には八つ当たりもした。
娘に手を出したら只でさえ手のつけられない癇癪が修羅場に発展すると思うと絶対に手を出せなかった。が、息子は立ち直りの早い「簡単な」やつだ。という甘えからべしべし頭を叩いた。息子には何回も
「ママはヒドイことをした。すまない。」
と謝っているが
「ママは昔僕の頭を叩いたね。本気でべしっとやったよね。スゴく痛かった」
と息子からは事ある毎に言われる。
息子が生まれてから気持ち的にはどんどん余裕がなくなって暴力的な衝動を抑えられなくなってはいったが、娘の時に感じた
「とにかく赤子と離れなければおちおちトイレにも行けやしない。」
という追い詰められた感はなかった。
物怖じせず社交的な息子なら2歳児保育でも全くオッケーだったと思う。
が、娘は毎朝泣いた。
お弁当直後にお迎えに行くとなりに楽しそうに遊んではいたが、居残りさせるとしばしばうんちのついたおむつでお昼寝させられていた。
最初はちゃんとトイレに行かせてくれてたけどそのうち寝たくないが為トイレで長居するのだと見破られたようだ。そんな託児所に預けるのは気が引けたが徒歩で行けるのはそこだけだった。
カーシートで泣き叫ぶ娘を車に乗せることが苦痛だった。
彼女が分離不安の強い赤ん坊だということは分かっていた。寝付きの悪い娘はおっぱいがないと眠らなかった。寝たかと思って離れると泣き叫んだ。赤子ながら彼女に「ワシのおっぱいはどこや?口の中にあったはずなのに、どこへやってくれたんや?ごるらあ。」と怒られてる気分だった。
常に抱っこしていないと怒られるストレスから逃れる為に私は彼女を納得できない託児所に置き去りにした。
何かを恐れる心はその恐怖を現実のモノにする。とどこかで読んだ。
怒られるのがコワイ娘が、他者をイラ立たせ理不尽に怒られる不遇に遭わないためにも
仲良くしなきゃダメだ。と思った。
うんち我慢しないで欲しい(切実)。シャワーも毎日浴びて欲しい。1年くらい後にはきっと朝晩2回シャワー浴びるようになって、お願いだからそんなにお水使わないで。。。となるのだろうが。。。
※注※基本的にただの自分語りなので、アドバイス系の話ではありません
思い出したら「痛い」としか言いようがないのだが、現在30代の私は中学時代、本当に見た目からして恥ずかしいオタクだった。
中学受験をして私立一貫校に入学したんだけど、小学校生活の後半をほとんど受験勉強に費やしてきた私は中学でアニメや同人誌の存在を知り、あっという間にオタク・腐女子の道に足を踏み入れた。
思えば小学生の頃からクラスの男子に「ガリ勉」なんてからかわれていたけど、ただのガリ勉でいれば良かったのにオタク要素を追加してしまった。
中学入学当時は肩くらいまでの髪を母が三つ編みにしてくれていたけど、私は何故か髪を延々と伸ばし続けてほどなく貞子のようになった。
伸ばすだけで手入れもしない髪。結ぶにしても、何故か顔の横だけ少し残して低い位置でひとつ結び。
眉毛もボサボサで手入れなし。小学生の頃から使っているガリ勉メガネ。
体型的には当時153cm43kgくらい、「体型からしてオタク」という訳ではなかったと思うけど、そんな問題ではない程のオタクオーラを纏っていたと思う。
オタクテンションが上がりまくって周りが見えなくなっていた私は、ハマったアニメの絵をプリントアウトし、それを白Tにアイロンプリントして学校に着ていった。
電車通学だったから、電車の中でも堂々と。むしろ電車の窓に映るアニメTにたまらない自己満足を覚えた。
クラスメイトに聞かれたんだよね、「恥ずかしくないの?」って。その時は堂々と「全然」って答えたけど、思い返すと黒歴史でしかない。
覚えているけど、学年のギャルグループにしょっちゅうプークスされてた。
中学入学と同時に入った塾で知り合った他校の女子にも腐はいたけど、きちんとした制服のある学校の子だったから、見た目で感じる痛さはなかった。
親がなぜ止めなかったのか未だに謎。諦められていたのかもしれない。
そんな私が方向転換したきっかけは、高校に進学してから三次元の芸能人にハマったことと、趣味のスポーツを通じて大人との交流が増えたことだった。
ハマった芸能人みたいになりたくて、その芸能人の写真を美容院に持っていって髪をばっさりショートにした。
大人たちのコミュニティに参加する中、自分も少しでも大人っぽく見えるようにと服装に変化が出て、コンタクトデビューして眉毛を整えたりもし始めた。
そんなこんなで、高2になる頃には中学生の後輩から「増田さんてイケ女子って感じですよね」と言われるほどの変貌を遂げた。
趣味のスポーツもアニメがきっかけでハマったオタク趣味の延長だったけど、運動習慣がついて何となく体型もかっこよくなったので結果オーライ。
その頃高校では白Tの体操着に油性ペンで絵を描くのが流行っていて、私は以前私をプークスしていたギャル達から頼まれてとある漫画のキャラの絵を描いた。
ちなみに海外アーティストの似顔絵とかを頼まれて描いていためちゃくちゃ絵のうまい同級生は、卒業後ほどなくして漫画家になった。
情報番組で仕事場が紹介されたり、たまにツイッターの発言がバズっていたりと、漫画一本で生計を立てているはず。彼女にオタクオーラは全然なかった。
私はというと、高3後半には色々面倒になった時期があって、たまにジャージで登校したりしていた。アニメプリントTよりはマシだったはず。
時間は飛ぶが、変わらずオタクな私は今は毎日ジャケットを着て仕事に行っている。
会社的なドレスコードはないんだけど、ジャケットを着ていればそれなりにきちんとして見えるし、内ポケットがある物を選んで着ているので色々便利。
インナーは季節に応じてTシャツだったりニットだったり、ボトムは基本黒パンツで、体型が気になるのでガウチョが増えた。
靴は20代のうちはハイヒールとか履いてたけど、巻爪がひどくなったりして最近はめっきりローヒール。ローファーだったりスニーカーのこともある。
平日も休日も同じ服を着られるように(服を増やさないように)、シンプルで楽な服を選んで買っている。
声優の朗読劇とか行く時も気がついたら仕事に行く時と同じ服装だったりするし。ヘタにオシャレしよう!と思ってしくじるよりはマシかと思って。
>髪を切る場所は美容室でも床屋でもいい。彼らの腕前なんて大差ないから
メチャクチャ笑ったwwww
オタクにはわからないんだろうなあ。美容師は月1で技術会やるし、俺らはコロナ前は年2でNY出張で技術会やってた
カットはさることながらカラーリングは一朝一夕じゃ身につかないくらい技術がいるんだよ
あとさ、上下黒でスニーカーは白とかオタク丸出しじゃん。オタクって黒と白しか着ないからすぐ判別できるんだよ
顔と体型で似合う、似合わないってのは差が出ることを知らないから、いつまでもオタクっぽいオーラが出るんだろ
ファッションはカラー、フォルムが重要なんだよ。特にオタクはフォルムを全く気にしないから、野暮ったさが出る
それにオタクは顔つきがオタクっぽい。表情筋を使わないせいで、年齢に合ってないシワやほうれい線でバレてる
どんな服を着ても来店した時点で判別できるし、喋ったら丸わかり
オタクが嫌いってわけじゃないが、背伸びしてもバレてるってことだけは理解しておいたほうがいい