はてなキーワード: 映画館とは
おいそこのオタク どうしたんだよ 早く見に行けよマジで 早く映画館に行って俺みたいに座席でひっくり返ってこいよ
もう、アニメも舞台も劇場版総集編も見なくていい ストーリーが分からんとか、全部見た俺もあんまり分からんから気にすんな
強い作画、強い演出、強い劇伴、強い声だけで意識飛んで異世界転生擦れ擦れまで飛べるぞ
そんで くそでかスクリーンで繰り広げられる女たちのクソデカ感情にひれ伏してきてくれ 頼む
そのあとスタッフロールで立ち上がれなくなって、見終わった後に家でアニメ全話見ろ そんでその後パンフ開いてむせび泣け
全部終わった後このクオリティのものを映画館で見ずにしぬところだったことを回避できたことに喜べ そしてスタッフに感謝ツイートしてあげて下さい頼むほんと
クライマックスでブーブー鳴らすんじゃないよ
通知来たところで返せる状況じゃないんだから
「オレはナニを見せられたんだ…」と思って映画館から出て来た。
ネット上の反応を見てると、絶賛している人が多くて不思議なので、自分の感想を書きたい。
そもそも、原作の漫画「映画大好きポンポさん」のテーマは何か。
ディーン監督、ミスティアさん、フランちゃん…の「ものを作りたい」「何者かになりたい」という「エゴ」がこの作品の肝だと。
「2」でポンポさんが披露した創作術を使って、「舞台×感情」で考えるなら、「映画界×エゴ」が、原作「ポンポさん」の「土台」だろう。
その「創作者のエゴ」を一番象徴するシーンが、ラストの「90分というところですかね」だったはず。
「大作感を出すため序盤はたっぷり…」と編集を始めたディーン監督は、「いや…」と思いとどまり、先輩監督の「その映画を見てもらいたい誰かのため作れば良いんだ」という言葉を思い出す。
そして、最後のシーンに繋がる。ディーン監督は、「大作感」を出すのを止めて、「ポンポさんただ一人のために作る」という「エゴ」で映画を作った。
にもかかわらず、そこの意味を完全に消してしまったのが、映画のオリジナルパート。
本来のテーマと正反対の「観客のために作る」なんてものを入れ込んで来やがった。
先輩監督の「誰か1人のために作る」の回想シーンすらなくして、「90分」の意味も希薄化させてしまった。
なんだったんだ、あれは。
さて。話は変わって。
「映画界×エゴ」が土台である原作の中で、ポンポさんという人物はどういう存在であるか。
彼女には、創作者としての「エゴ」はない。そういう意味で、主人公ではない。
この作品は、デフォルメした絵柄や、「ニャリウッド」というふざけた名前に反して、リアリティラインは、極めて現実に近い側にある。
そんな中で、唯一、現実から解離しているのが、"ポンポさん"の存在。
創作の王道として「大きな嘘は一つだけ」というのがある。自分は、この作品では、それが、”ポンポさん”だと思う。
「現実的に描かれた映画界に舞い降りた大きな嘘」、それが、"ポンポさん"。
ディーン監督らの「才能とエゴを持った創作者」が、"ポンポさん"="映画を作る環境のすべてを与えてくれる無敵超人"に出会ったときに、何が生まれるか。
だから、ポンポさんには不可能はあってはいけない。いや、何らかの壁にぶちあたるのは良いが、それなりに納得感のある理由を付けないとだめ。
ドラえもんだって、大長編では行き詰まることはあったけど、理由が付いていたはず。
たかが(!)、追加撮影ごときで、壁にぶち当たるのは、「大きな嘘」である彼女にはふさわしくない。
そう思うと、映画版のオリジナルパートは、ポンポさんのリアリティライン(無敵超人という「大きな嘘」)と作品自体のリアリティライン(極めて現実より)のどっちつかずの変な話になってる。
アラン君の解決策は、作品全体のリアリティラインを満たすほど現実的では無いし、ポンポさんほど超人的ではない。
「ドラえもんが、なぜか簡単に銀行強盗の人質に取られる。そこへ両津勘吉が乱入して銃を撃って解決」みたいな話になってしまっている。
なんだったんだ、あれは。
あ、あと、
映像コンテンツの倍速視聴に関する話題を目にして、ふと思い出したことがある。以下に記すのは、個人的な昭和の思い出話である。
歳の離れた兄が買っていた『SCREEN』と云う映画雑誌が、実家の本棚に何冊も置かれていることに気づいたのは、私が小学校の高学年になった頃だった。裕福な家庭ではなかったので、我々兄弟は一つの部屋を共有して過ごしていた。だから実際には、もっと以前から、その雑誌が本棚に置かれていたことを私も知っていた。したがって、正確に言えば気づいたではなく、興味を持つようになったと言うべきであろう。
それらは70年代に発売されたもので、ちょうどSF映画、オカルト映画、パニック映画が流行した時期に該当する。だから、これらのジャンル作品のスチール写真を載せたページを眺めるだけでも、子供には十分に楽しめたものだった。
やがて、そう云うビジュアル記事を眺めるだけでは飽き足らず、活字の部分にも目を通すようになった。最初は、やはりSF、オカルト、パニック作品に関係するところから読み始めたが、それらにも限りが有る。こうして、あまり子供向けではない記事にも、当時の私は目を通すようになっていった。現代とは異なり、地方の非富裕層の家に生まれた子供には、娯楽の選択肢が極めて少なかった。従って、ほとんど已むを得ずと云う形で、元々は興味対象外だったものにも手を出すことになったと云う次第である。私と似た境遇に在った地方の名も無き小中学生も、私と大同小異の経験をしたのではなかろうか。例えば、家に置きっぱなしにされた古いジャンプ/マガジン/サンデー/チャンピオンを、何度も何度も読み返し、その結果として、元々は興味が無かった作品の魅力に気付かされたといった、そう云う経験のことである。
話を戻すと、こうして結果的に活字記事も読むようになった私は、雑誌『SCREEN』に淀川長治の連載記事が掲載されていることに気づいた。当時の子供でも、淀川長治の顔と名前は知っていた。テレビに出て「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」のセリフを言うことでお馴染みの、有名なオジサンであった。その連載記事は、読者からの質問や相談に淀川長治が答えるコーナーであった。
読者から寄せられた「僕は映画監督になりたいのですが、どうすれば映画監督になれますか?」と云う質問に、淀川長治は次のような回答をしていたと私は記憶している。
「こうすれば映画監督になれると云うような、確実な方法や手段は無い。それは無いが、強いて言うならば、同じ映画を十回は観なさい」と。
馬鹿な小学生だった私は、これを読んでも何のこっちゃとしか思わなかったが、世の中には淀川長治が言わんとするところを正しく理解して、きちんと実行した人も存在したのだった。それを後に私が知ったのは、中学生になった頃、GAINAXが初の作品『オネアミスの翼』を製作・劇場公開した時のことである。
中学生になった私は「何だか凄いアニメ映画が、若手クリエイターたちによって作られて、劇場で公開されるらしい」との情報を知った。知ったは良いが、そこはド田舎に暮らす非富裕層の哀しさである。公開する映画館は近隣に無かったし、そんな映画館が有る都市部まで行く手段も無かった。当時の私に出来ることといえば、劇場公開に合わせて発売されたムック本を、少ない小遣いで買って、それに掲載された場面の絵を見て、実際のスクリーンで動いているところを想像することぐらいであった。これもまた、同じような経験を持つ人がいることだろう。なお、そのムック本には物語の最後の場面までしっかり掲載されていたので、話そのものに関しては、当時の私も知ることができた。
さて、映画の場面を載せたビジュアル記事を読み終えた私は、もちろん活字記事の部分にも目を通した。そこには、本作品で監督を務めた山賀博之氏のインタビューも掲載されており、映画監督を目指そうとした山賀氏の若き日の思い出も語られていた。その思い出話こそが、淀川長治の「同じ映画を十回は観なさい」に関する話なのである。
雑誌『SCREEN』の淀川長治の当該記事を読んだ当時の山賀博之氏は、その教えどおり、同じ映画を十回観たと語っていた。ちなみに、実際に山賀氏が十回観た作品の例として挙げていたのは、少年野球チームの少年少女とコーチの奮戦を描いた、アメリカ映画『がんばれベアーズ!』である。テイタム・オニール、かわいい。山賀博之氏が語ったことは、概ね以下のようなことであった。
「最初の2〜3回目は、普通に観客として楽しんで観ているだけ。4〜6回目辺りは、もう観たところばかりだと思って、飽きて退屈する。それが7回目頃を過ぎると今度は、場面場面で作り手が何をしようとしているのか、ココで溜めてココで盛り上げようとしているんだなとか、画の見せ方とか、そう云う作り手の意図に気づき始める。同じ映画を十回観ると云うのは、こういうことかと理解した」やはり、何かを成し遂げる人は同じ文を読んでも、凡人とは違い有益な学びを得る能力が高いということなのだろう。
ここで紹介した淀川長治氏の教えと山賀博之氏の実践エピソードは、あくまでもプロを目指す人たちに向けた話なので、我々一般人とは関わりの無い話に思えるかもしれない。また、現代はコンテンツの数量が昔よりも多い時代なので、一つの作品を繰り返し読む/観るという時間的な余裕が無い現代人が大半だろう。しかしそれでも、一つの作品を繰り返し味わうこと、そして運が良ければ、そのリピート鑑賞を通じて何かを気付く/発見することは、貴重で豊かな経験であると私は思う。倍速視聴をしてまで観る作品の数を増やすことにも、一定の理由や合理性は有るのだろうとは思うが、何かしら自分のレーダーに引っ掛かるモノを持つ作品に出会った時には、少しだけ立ち止まって、それを繰り返し味わうことも試してみるのも一興ではないだろうか。
ここまで書いた上に蛇足だが、もう少し思い出を書き残す。昔、Blu-rayやDVD、レーザーディスクはおろか、家庭用ビデオすら普及していなかった時代の思い出話である。その頃は、アニメ映画作品の音声を収録した、LPレコードやカセットテープが販売されていた。(一部では家庭用映写機で上映出来るアニメ映画作品のフィルムテープのリールも販売していたが、これを買って楽しむことが出来るのは、本当の金持ちだけだった。)私は子供の頃、この手の音声収録レコード商品の一つ『ルパン三世/カリオストロの城』を所有する人物から、兄弟のツテでカセットテープにダビングしてもらい、それを何度も何度も繰り返し聞いて、頭の中では『水曜ロードショー』で観た『カリ城』の映像を想い起こして楽しんでいた。この体験のおかげで、私は今でも『カリ城』の全セリフを暗誦できる。何の自慢にもならないが。
そして、歳月が流れた。
後に社会人となって働き始めた兄が、VHSビデオデッキを買ってくれたので、我が家もビデオを利用できるようになった。金曜ロードショーで放映された『カリ城』を録画すると、当然それも繰り返し何度も視聴した。カーチェイス場面などはコマ送り再生で作画をチェックしていたので、倍速視聴とは正反対の行為である。
ほどなく小さなレンタルビデオ屋が我が町にも出来て、兄がスプラッター映画とかゾンビ映画とか借りてきてくれて、一緒に楽しんだりもできるようになった。古い『SCREEN』の記事を読んで、勝手に凄い作品だと思い込んでいた『巨大蟻の帝国』や『スクワーム』が、実際の映像を観るとショボい作品であることも思い知った。
大人になって、現在の宮崎駿のことは反吐が出るくらい大嫌いになり、ルパン三世作品としての個人的な評価も、軍配は『vs.複製人間』の方に上げるようになった。
子供の頃には観ることはおろか、存在を知ることも叶わなかった様々な作品の数々を、今では視聴して楽しむことが出来るのだから、明らかに子供の頃よりも、現在の私は恵まれている。
それでも、熱に浮かされたように古い映画雑誌を何度も読み耽って、観たことも無い映画の内容を勝手に想像したり、何度も何度も『カリ城』のカセットテープに耳を傾けて台詞を暗誦していた子供自体の思い出は、それらが経済的な制約から生じた行為だったにも関わらず、何だか私には宝物のように思えるのである。ただのガラス玉が宝石より愛しく思えるように。
こういう人ってなんで家事やる時間が可処分時間の大部分を奪うはずだというふうにみつもらないんだろう
ほっとけば家はよごれる、トイレットペーパーはなくなる、シャンプーはスコスコ虚しい音をたて薬局にいかねばならない、買ったら次の日リンスがスコスコ
ルンバのメンテ、食洗機のメンテ、自宅の排水管の洗浄、靴の穴をどうにかしなきゃ、こんど前にマンションが立つからテレビの有線が、
コロナの助成金まだ受理されてないの訂正しなきゃ、病院の次の予約いつだっけ、公開した映画の時間帯しらべないと、コロナで映画館の時間帯が・・・
それだけで1人の人生なんてもうおわるんだよ
もう15年くらい筋トレをしている。
特にボディビルや重量挙げの試合に出るわけじゃないが、ジムで筋トレすることが楽しくて
仕事が忙しくても、出張続きでも、なんとかジム通いだけは続けてきた。
でも最近、どうもやる気がでない。惰性というか、習慣として筋トレはするけど
ジムにはもう2年くらい行ってない。嫁はコロナをやはり警戒しているようで、行くなというし
今は家で腕立てを500-600回ほどしたり、会社の屋上にある非常階段で懸垂をしたりしている。
正直、つまらん。やる気が起きない。でもやらないとなんとなく気分が悪い。
いっそ、すぱっとやめたほうが気が楽なのかなーと思う。
仕事も忙しいし、家のこともあるし。でもそうすると趣味は酒とスマホで漫画読むくらいしかない。
どうしたもんかな。
もう15年くらい筋トレをしている。
特にボディビルや重量挙げの試合に出るわけじゃないが、ジムで筋トレすることが楽しくて
仕事が忙しくても、出張続きでも、なんとかジム通いだけは続けてきた。
でも最近、どうもやる気がでない。惰性というか、習慣として筋トレはするけど
ジムにはもう2年くらい行ってない。嫁はコロナをやはり警戒しているようで、行くなというし
今は家で腕立てを500-600回ほどしたり、会社の屋上にある非常階段で懸垂をしたりしている。
正直、つまらん。やる気が起きない。重い物を持ち上げたりするのが楽しい。いまの筋トレはただの作業。楽しくない。でもやらないとなんとなく気分が悪い。
いっそ、すぱっとやめたほうが気が楽なのかなーと思う。
仕事も忙しいし、家のこともあるし。でもそうすると趣味は酒とスマホで漫画読むくらいしかない。
どうしたもんかな。
『映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由』という記事について、
どうせ現代ビジネスで書くようなライターにとって対岸の火事だから無責任なこと書いてんだろうなと思って読み始めたら、
エウレカセブンの脚本家・佐藤大氏がインタビューに答えてて驚いた。
自分は熱心とまで言うほどじゃないけど新作映画が出たら劇場に行く程度にはエウレカのファンで、
特にANEMONEは面白かったから割とハイエボ3にも期待してたんだけど、このインタビューにはかなり腹が立った。
エウレカってTV版は名作と言われてる割にポケ虹やAOは冷ややかな目で見られていて(なおこの2作に佐藤氏は関わっていない)、
それって端的に言えば分かりにくい上に面白くないからなワケじゃん。
”『多少おもしろくなくなってもいいから、わかりやすくしてくれ』というオーダーなら、筋が通っているので聞きますけど”とか言ってて、
「良し悪しが分からん客に合わせてレベルを下げます」って言い放ってるかのような傲慢さを感じたのよ。
ANEMONEは細部はなんだかよく分からんが展開はTV版とのオーバーラップも込みでエモい!みたいな作品で、
とにかくTV版からついてきてくれるファンに対してレベルを落とさずに難解だけど面白いものを作ろうっていう時代に逆行する矜持があるものと思ってたのに、
それが実は細部の良し悪しじゃ客は評価不能だからとにかくラストのエモさの一点突破でなんとかしようっていう技巧的な発想で作られたんじゃないかって疑念が湧いてきた。
仮に後者だとしたらこんな視聴者を馬鹿にした態度で作ってたのかってめちゃくちゃ腹立つんだよな。
エウレカなんてポストエヴァで難解な作品を作っとけば売れた難解さバブル時代の寵児じゃねーか。
そうやってチヤホヤされてたのが時代向きが変わってウケなくなったら客が幼稚化しただの泣き言言いやがって。
”もしリテラシーの低い視聴者が『逃げ恥』の背景にあるテーマを十分に汲み取れなかったとしても、排除された気分にはなりません。ドラマはちゃんと楽しめる。そういうふうに、脚本が書かれているんです”
と言って、作品の作り方自体を変えなきゃいけないというようなことを言ってるんだけど、
TV版は名作と言われてる割にはハイエボが全然一般ウケしてないエウレカの脚本家がそれ言う?みたいな気持ちになった。
こうなるとリテラシーの低い視聴者を排除された気持ちにせずにドラマを楽しめるように作っているであろうハイエボ3EUREKAがどんな作品になってるか楽しみだね。
ANEMONE同様にラストのエモさで一点突破する作品だったら、EUREKAだけじゃなくANEMONEまで見る目変わっちゃうわ。
しかもそれがまたまた一般ウケせずに固定ファンだけが語る作品になってたら目も当てられん・・・・・・。
いや、そういう邪念をもって映画館に行くことになるのが一番悲しいよね。もう純粋に作品を楽しもうって気持ちでEUREKAを見れないことが。
憤懣やるかたない。作り手側が客を評価するようなことは言わないでくれ。
オリンピック開催さえしてしまえば国民は忘れるって国会議員が言ってるの聞くとほんとバカだなーと思うんだけど、ハレの日を設けて息抜きさせるって発想自体はいいと思うんだよね。
間が抜けてんなーって思うのは、みんなに共通するハレの日があるというおっくれってるーな発想の方で、おまけにそのためにみんな一緒に耐えましょうとやってるところで。
別にオリンピックやろうが見ないひとは見ないし、映画館やろうが行かないひとは行かないし、デパートなんかも同じ。
人流を抑制する、というんだけど、例えば俺みたいに外食ラーメンしかいけないおじさん(世の中のA%)の人流を抑制したければラーメン屋だけ閉めればいいし、居酒屋で人と飲むのが好きなひと(世の中のB%)を抑制したければ居酒屋だけ閉めればいいわけで、全部一律に短縮ずーーっとよりは、この期間は居酒屋に休んでもらうけどラーメン屋はやっていいですよ、とか。スポーツなんかも例えば野球なら5万人?6試合で30万人?とかわかってるわけだから、この期間は野球でこの期間はサッカーで、とかやれば数字としてどの程度抑制されるのかわからないもんなのかね。ハレの日がそれぞれの種類の人に定期的にあったほうがまだマシだと思うんだけども。
いろんなタイプの人間が集まるところ、例えば会社だとかで接触したらマズいというのはあるけど、会社がまだルールで締め付けやすいと思うんだよねえ。仕事だし。
みんな一緒に毎日ずっとおんなじダルさで我慢してくださいってのは無理ある気がする。いろんな色混ぜて平均化してからカットするより、混ぜずに分類してローテーションしたほうがたぶんずっとマシなんじゃないかと。提供側はデータもってるとこあるだろうし、なかったとしても試しにしばらくやってみたらそれこそ人流データ集まるだろうし。まあ今更だけど。
デカルトといえば有名なのが「われ思う故にわれあり(コギト)」。ここから近代的自我が始まった。
自我というものの存在を確立したデカルトの三段論法は西洋に影響を与えまくったが、特に注意しなくていけないのは神の存在を使わなくても自我の存在を規定できるという点だった。
でも実際のところデカルト自体はコギトから神の存在証明を行っている。神の存在を証明する時代の要請があったのだけれどそれについては後で触れる。
時代は流れてフランス革命が起こり国民国家が誕生する。国民国家が誕生すると神が死ぬ。
どういうことかというと、それまでの王による国の支配がどういう理屈で正当化されてきたのかということを説明する必要がある。
「王権神授説」というやつだ。それまでの王族による支配権は神が王に与えた権利だった。
神がこの世界を作って人間も作ったのだから神には人間を支配する権利がある。王は神に権利を与えられたので国民を支配する権利がある。
中世の神学者たちが大真面目に神の存在証明に邁進した理由がこれでわかるが、
彼らは頭の体操をしていたのではなく、国家の礎として必要な公共事業として神の存在を証明し続ける必要があったのだ。ご苦労さま。
ところが、王が打倒されて国民が自分たちの代表によって自分たちを支配する国民国家が生まれると、神は必要なくなる。
そして神に変わったものは国民の自我と理性のみとなり、国民は唯一絶対なものであるそれらによって自分自身の足のみによって立つことになる。
これにて「近代的自我」いっちょあがりだ。
なぜなら人間が生まれてくるのは神が「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」といったからだし、日本で言えばイザナキ神が妻ともめて「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」といったためだからだ。
なので神がいる前提だと反出生主義は成り立たない。
フロイトといえば精神分析だが、あとで精神分析の手法が全然間違ってたということがわかったせいで、その功績についても一般的には忘れられている気がする。
フロイトの偉大な功績は2つあって、1つ目は「精神を科学のまな板の上に載せたこと」それ自体。
フロイトは夢分析の過程で人間が表層意識には浮かんでいない、既に忘却している過去のトラウマに影響されて現在の行動を選択していることに気がついた。
患者自身は自分が理性的に考えて選択した結果だと思っていても実は意識に登ってきていない「無意識」によって人間の行動や症状が変化する。
これはすごい発見だった。それまでは人間の行動は意識、つまり自我がコントロールしているとされていたのだから。
フロイト的無意識の例で言うと、チャップリンの「ライムライト」という映画がある。
あの映画のオチでヒロインは忘れていた過去のトラウマを思い出し、それを乗り越えることで身体的な症状も克服する。
これはフィクションだし、ちょっとフロイト的すぎるので、もっと卑近な例を出すと、
犬が苦手だなあと思っていたら、実は記憶にないくらい小さな頃に犬に噛まれたことがあった、とか
梅干しの写真を見たら、「梅干しをこれから食べよう」と意識しなくてもつばが出るとか(パブロフの犬)。
映画の映像の途中で肉眼では認識できないように一枚だけコーラの写真を入れておくと映画館でコーラの売上がのびるだとか(サブリミナル効果)。
こういう感じで無意識が人間の行動に大きく影響を与えるということは、今では常識にまでなっているけれど、これを言い出した始めの人がフロイトというわけだ。
フロイトは原始的な欲望とかが無意識の正体だと考えてなんでもそれで説明しようとして失敗したわけだが、(夢分析の本とか何でも性欲で説明しようとしていてやばい)。フロイトの後続の研究者たちは無意識の概念をさらに発展させていった。
表層意識に上らないのに人間の行動に影響を与えているもの、といえば「不随意運動」だ。
たとえば、眩しい光みたら瞳孔が小さくなるとか、膝を叩いたら足が上がるとかが有名だけどそれだけじゃない。
心臓が動くのを意識して止めたり動かしたりできる人はいないから鼓動も不随意運動には入る。
呼吸も意識すれば止められるけど意識しなくても止まるわけじゃない。意識しているときは随意運動で意識していないときは不随意運動といえる。
ところで人間の意識は脳の一部である大脳新皮質で起こっている反応であることもわかってくる。
脳のその部分以外で起こっているこのと大半も無意識下で行われている。細胞の代謝とか。
さらにさらに、全ての行動に当てはまるわけじゃんないみたいだけど、「人間がある行動をとろうと表層意識で考える一瞬前に、既にその行動を取るためのニューロンが発火している」なんて話も出てくる。
さてそうすると、どうなるかというと、人間が自分の意識で自分の体をコントロールしているという考えは実は間違いで、人間の活動の大部分は無意識がコントロールしていることになる。
意識が肉体(無意識)をコントロールしているという従来の主従の逆転がここで起こっている。
ここまで来ると「無意識」を拡張しすぎて「無意識」ってなにって話になってしまう。細胞の代謝のことを「無意識」という言葉でまとめるのは違和感があるから。
ここでいいたいのは「表層意識下に上らないすべてのもの」みたいな意味であり、一般的な言葉の「無意識」とはちょっと違うものになってしまうので哲学者はこれに「エス」とかいう名前をつけた。
意識ではなくエスが人間の行動を決めるのである。というか人間が何を考えるのかもエスが決めているといえるのだとするとコギトがおかしなことになってくる。
「われ思う故にわれあり」ではなく、「われ思わされているゆえにエスがある。われはあるかどうかわからない」に修正しなければならない。
「生きるのは苦痛である。苦痛でない場合もあるが生んでみないと分からないのでいわばギャンブルである」
「生まれる際に両親は子に生まれてもいいかという同意を取っていない」
「よって生むのは無責任であり生むべきではない」
しかし人間の9割は無意識下の存在であることを踏まえて見ると、見え方が違ってくる。
第一の登場人物である「子」は産まされるという受動的な立場ということになっているが、同意を取るべきタイミングには意識が存在しない。つまり無意識である。
無意識の相手に無理やり生まれることを強制するのかと反出生主義者はいうのだが、これまでの議論で無意識(エス)こそが人間の大部分であることをこれまで延々と説明してきた。
で、重要なことはその「エス」自体は生まれてこようとする方向性を持っている、ということである。
今だに現代人は意識がなければ何も決定することはできないと思っているが、むしろ無意識が先にあって意識が後から形付けられたといえる。そして人間の肉体の不随意運動は生き残ろう、という方向で行動を起こす。
精子の蠕動だって不随意運動だし、卵子の排出だって不随意運動なのでこれらはエスである。
胎児は産道を通るとき自分の体をねじって頭蓋骨を変形させながら外に出てくる。生まれてこようとする意志がそこには感じられるが、もちろん意識も自我もない。
だがそれらの反射が自分自身ではない、というのもおかしな話である。
それらが全て生まれてこようという方向に方向付けられているのに、「本当は生まれてきたくなかった」というのはどういうことなのだろうか。
自意識、理性を過大に評価するのが現代人の病巣であってこれは単に、いまだにデカルトの呪いがとけていないのだと思う。
「生まれてこないほうがよかった」という人間だって、それはそれで大変な状況なのは間違いないのだけれど、ひざを叩けば足が上がるし、急に熱いものに触れられたら自分を守るために手を引っ込める。
生きたくないとか言うけど呼吸は止められなければ、心臓は勝手に動いている。
どう見ても肉体は生きようとしている。
やっていることと言っていることが違う。
でも不思議なことは何もない。自意識なんて人間のほんの一部でしかないからである。
自己の定義を自我に狭めるべきではない。それは単にその方が精神衛生上いいというだけの話ではなく間違っている。
エスの定義は自意識に上がらないすべてのものと書いたが、哲学者によるとこれはつまり「自我」以外の「世界全て」のことを指すらしい。
流石にそこまで悟ることは難しいが、自己の定義を自分の不随意運動、や無意識の習慣程度にまで広げておけばデカルトの作った罠にはまらないで済む。
・面白かった
・映画館で見れてよかった
・クルエラ役の女優さん演技すご
クルエラっぽかった
・字幕版、エンディングがFlorence + The Machineで嬉しかった 好き
・おまいらがあいつらかーい
どこにも言えなくてここに吐き出させてください。
タイトルの通り、声優の青木志貴さんが好きな女ヲタクがもやもやとキモい片思いをして自滅した話。
=
アニメのアイドルマスターシンデレラガールズでデレマスを知り、同時期にリリースされたデレステにハマった。
音ゲーがもともと好きで、ゲーム性もよかったし、曲が好きだった。
ふとデレマスにライブがあるということを知り、曲が好きならライブも楽しいかなと2016年の4thライブ神戸公演をライブビューイングした。
女性声優さんが歌って踊る。。。女の私でも楽しめるものかな。。。と思っていたが、バッチリ落ちた。滅茶苦茶楽しかった。
大音量でかかる音楽、暗い映画館の大画面に向かって振るピカピカヲタク棒。楽しい。
確か小日向美穂さん役の津田美波さんが「楽しい日があるから頑張れると思う。私達はその日になれるように頑張るからまた来てね」的なことを言っていて泣いた。その当時仕事が忙しくて日々がつらかったので、本当に元気をもらった。
=
ライブが楽しすぎて1か月後にあったSSA公演もライブビューイングを取った。
手足が長い。顔がいい。一人だけ世界観の違う顔をしていた。二宮飛鳥(26歳)っていうビジュアル。声優を務める二宮飛鳥ちゃんの曲も好きで、推せる要素しかなかった。
Twitterをフォローして、アップしてくれるお仕事の写真をひとつひとつ保存した。待ち受けもその中のお気に入りにした。
デレマス6thのライブは、志貴くんが出ると聞いて、初めて現地にも出向いた。良い席は取れなかったから、本当に遠巻きだけど、本人を目視出来てうれしかった。
=
何かもやもやし始めたのは、デレステのイベント曲「バベル」が7thライブ名古屋公演でお披露目されたあたりから。
バベルを歌うユニットDimension-3は、気ままなギフテッド一ノ瀬志希にゃんと、厨二全開14歳二宮飛鳥ちゃんのユニット。
そんな二人に最高に格好良い曲が公式についた。
しかも彼女達がもらった曲 バベルは最高で、7thの名古屋公演ではミフメイさんの最強のアレンジも加わって本当に体が震えた。
その7thのステージ上で、中の人の藍原ことみさんと青木志貴さんは手をつないで歌い切った。
これが私の地雷だった。
演者のお二人はリアルでも仲が良いらしい。デレマスライブ後のオフショットでも、仲良さそうなツーショットをよく上げて下さっていた。
7thライブ以降、別にそんなつもりはないのだろうけど、志貴くんが藍原さんを特別扱いしているように見えて仕方がない。
ユニット活動は公式でやっていることだ。全世界公認のカップルに片思いをしている気持ちになった。
=
自分がただ勝手に理想をぶつけているだけなんだけど、うまくこのもやもやを飲み込めない。
こういうことを言っておいて何だが、志貴くんが藍原さんと仲良くするのをやめて欲しいとかではない。
ただのキモヲタにそんな権限あるわけないし、そもそも志貴くんが一緒にいて楽しい人と一緒にいて、幸せでいてくれるのが何よりも嬉しい。
会いたいとか、恋人になりたいとかそういうわけでもない。
志貴くんが幸せでいて欲しい。でももやもやする。こんなファン嫌だろうに。キモイ。もう推さない方がいいんだろう。今そんな感じです。
タイトルやってみたかっただけ。あと他人の話題にかこつけて自分の好きなものの話がしたいだけ。
あとトラバ、演劇関係が自意識過剰? 新感線が30年前? バーカ! 一生そこで半可知識でしたり顔しながらネチネチやってろ!
さて、劇団☆新感線のことを初めて聞いた人が「2.5次元みたいなことですか?」というのは、当たらずとも遠からずではないかなと思う。
というか2.5次元舞台の多くは新感線の影響下にあるのではないか(数が多すぎるのですべてを把握してはいないが)。
あと、新感線は2.5ブームが来るはるか前に犬夜叉を舞台化していたりするし、距離としてはそこそこ近いと思う。
共通点としては、宮村氏の言う通り、漫画やアニメの世界観を舞台の上でやろうとしてること。
これは話の筋立てや演出もそうだが、往年の漫画の熱気みたいなものを再現する美学みたいなものが共通していると思う。
新感線の舞台は往々にしてかなり過剰にSEを使うのだが、漫画の描き文字の再現と思うと納得がいく。
漫画やアニメの世界観、いいところ、を舞台でやろうとしていることは共通しているが、
舞台のために漫画の良いところを抽出して作り上げるのではやはり出来上がるものが違う。
あとはまあ2.5次元は企画ありきで役者を集める形式が多いのに対し、
劇団☆新感線は「所属劇団員」がいる。ほとんどの主役級は客演の有名役者がやるが、脇を固める劇団員の安心感というのはある。
大きく分けて以下の3つ。
いのうえひでのり演出で上演される時代物。戦国時代モチーフや神話モチーフが多い。
ストーリーは人間の業的なものを中心に据えたものが多く、人がバンバン死にがち。
「髑髏城の七人」、「アテルイ」、「阿修羅城の瞳」、「蛮幽鬼」、「蒼の乱」、「偽義経冥界歌」など。
「Rシリーズ」が正式名称っぽい、ロックミュージカル色の強いもの。
ストーリー内容は割と多岐にわたる。
「五右衛門ロック」シリーズ、「SIROH」、「メタルマクベス」、「Vamp Bamboo Burn」など。
パロディネタが多い。3系統の中では劇団員の占める割合が多い(他シリーズは客演が多い)。
「轟天」シリーズ、「花の紅天狗」、「レッツゴー!忍法帖」、「月影花之丞大逆転」など。
ただどれもギャグシーンは多いし、歌の多い「いのうえ歌舞伎」もあるし時代物の「音もの」「ネタもの」もある。
演劇は高いだとか都市部でなければ見れないだとかと当たり前のように言う人もトラバに散見されるが、
劇団☆新感線に関して言えばゲキ×シネという全国映画館での上映を2004年から続けている。
実際の舞台の撮影ではあるが、何台も仕掛けたカメラによるカット割りがされており映画として見やすくなっている。
(知ってて当然という話ではないが、彼らの不断の努力を、「演劇」全般へのルサンチマン発露のために勝手に無に帰すのはあまりに勝手だなと思う)
なお、今は動画配信でかなり安価で観られるので下記に一部紹介しておく。
戦国時代の終わりかけ、死んだはずの信長の異名「第六天魔王」を名乗る男が現れたことによるあれこれ。
人情噺もつらい過去も凄惨な戦いも少年漫画的な展開もしょうもね~ギャグも、全部乗っけ盛りの濃厚さ。
脚本は座付き作家の中島かずきで、「グレンラガン」「キルラキル」「プロメア」なんかの脚本の人と思えばなんとなく近い。
1990年の初演以来7年ごとに再演し、役者や演出を大きく変えている。
初期は主人公の「捨之介」と悪役の「天魔王」の一人二役の演じ分けがみどころだったが、2011年の上演版以降はその二人を別人が演じることも増えた。
その代わり、「無界屋蘭兵衛」というキャラクターの注目度が高まっていて、
そのきっかけを作ったのはおそらく11年に蘭兵衛を演じた早乙女太一のあまりにも華麗な剣捌きだと思う。
配信で観れるのは2011年「ワカドクロ」と17~18年に連続上演した「花」「鳥」「風」「月」「極」。
個人的に好きなのは「鳥」で、森山未來と早乙女太一の身体能力オバケ二人による殺陣は鬼気迫るものがあるが、全体の流れから言うとキワモノなので2本目にお勧め。
いのうえ歌舞伎。「モンテ・クリスト伯」を翻案し、架空のアジア風世界を舞台にした復讐譚。
上川隆也演じる主人公が自分を落とし入れ親友を殺した相手に復讐する話で、ずっと怒りに目を見開いており怖い。
堺雅人は「ニコニコ顔の最強の暗殺者」という完全に漫画のキャラ立てなのだが、息をつかせぬストーリーの展開によりいつの間にか受け入れてしまう。
このころの中島かずきはこういうどうしようもない人の業により悲劇が加速するような話をやたらめったら書いているのだが、
その、己の業によりずたぼろになっていく人の描き方に容赦がない。
個人的に新感線にはまるきっかけとなった作品なので思い入れが深い。
あと、この作品により稲森いずみが大好きになった。舞台初出演とのことで慣れてはいなかったのだろうがあの細い体で舞台を圧する瞬間に目を奪われた。
音モノ。「五右衛門ロック」「薔薇とサムライ~五右衛門ロックⅡ」「ZIPANG PUNK~五右衛門ロックⅢ」の三部作。
古田新太演じる石川五右衛門が、どっかの島の危機を救ったり、スペインぽい国の危機を救ったり、帰ってきて宝探しをしたりする。
いのうえ歌舞伎的な陰惨さはある程度影を潜めているが、話は冷静に考えると割とヘビー。
ただ、どんなに悲惨な展開で善玉がひどい目に遭って悪者が高笑いしていても、最後に五右衛門かっこよく登場して何もかも解決するので最後はスカっとして終る。
「新感線の看板役者・古田新太」というイメージの具現化みたいな作品だと思っている。決して二枚目ではなく飄々としていて最後に決める。
岩瀬惠子のスマートNEWS2021年5月26日 ラジオニッポン 岩瀬惠子のスマートNEWS
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岩瀬 今朝は立憲民主党代表で衆議院議員の枝野幸男さんをお迎えしました。おはようございます宜しくお願い致します
岩瀬 前回2月3日御出演だったんですけども その時も緊急事態宣言中でしたね
枝野 そうでしたね
岩瀬 あれは2回目の緊急事態宣言中で現在は3回目の緊急事態中。何かいつまでたっても緊急事態宣言中ですね
岩瀬 そうなんですかね
枝野 早く解除すればすぐにリバウンドするって、専門家の話聴かなくったって素人にも分かる。
だって沢山感染者がいるってことは症状が出ていない人たちもそれだけ潜在的にたくさんいるんだから、
その人たちが活発に動き出した瞬間に広がるのはもう当たり前のことで、
もう今はとにかく東京で1日100人、悪くても100人できれば50人、ぐらいの水準まで下げないと
そこまで我慢すればそっから先ちゃんとやれば、リバウンドを押さえ込んで4度目なしで済むと思います
岩瀬 そうですか
岩瀬 やりそうですけど、二けたまで減らすには、今日の新聞ね、
あの緊急事態宣言来月の20日ぐらいまでで調整なんじゃないかって、
ここまでで東京もねきっとそうなるんでしょうけど、減りますかね
枝野 そこでどこまで減ってるかですけど、ま多分100切るとかとかそういう話は難しいだろうと思いますけどね、
そうするとまたすぐリバウンドですよ。一か月半ぐらいでまたその医療逼迫で大変だみたいな話、
残念ながらなってしまいますよ。むしろ変異株は感染力強いと言われてるからもっと早いかもしれない
岩瀬 そうですね
枝野 だからとにかく徹底して押さえ込んでからじゃなきゃダメだし、
そこを我慢してくださいっていうのには金配んなきゃ駄目なんですよ
岩瀬 まあ小池知事なんかは疲れないでくださいって言うんですけど、
でも人間ってやっぱりちょっとこう自粛疲れって出てきてしまうのはしょうがないですね
枝野 まあ、とにかく普通の人にとってもそうだし やっぱり商売の関係の人たちにとっては無理ですから、
それからやっぱりもうちょっとメリハリつけた方が良くて、例えば今美術館とかもダメとかになってるみたいですよね
よくわかんないですよね。やっぱりその確かに飲食とか特にお酒飲んでワイワイ騒いだらリスク高いだろうというのは間違 いないですけど、じゃあ表で飲むって話になっちゃったりとかしたし、時短の時は8時までだから7時台にお客さんが集まっ たりとか。
もうちょっと1年以上やってるんだから、やっぱり人の行動のパターンをちゃんと読んで
やっぱりいろんなもの我慢をしていただくにしても、「感染対策どうしても不可欠な部分どこか」「まあ一定のリスクは あってもでもここはリスクは低いからそこは許容しよう」とか、
もうちょっとメリハリつけないと、やっぱりこれもう下手すると ワクチンに、なぜか菅さんはワクチン頼みですけど
ワクチン打ったらかからないのか?とか感染の広がりが抑えられるのか?ってまだ分からないし
最近の変異株が色々と変異してるの見ると、強い良いワクチンがあればそれに打ち勝つ変異が起きるってまあ残念ながらワ クチンあのこういったものの体質だから本質だから、わかんないですから。
ちゃんとワクチン頼みじゃなくても抑えられるようなことに舵切らなきゃダメですね
岩瀬 考えてみたら確かに1年以上はコロナと向き合ってるわけですから、
1回目の緊急事態宣言の時はみんなこう得体の知れない感染症に立ち向かうということで、
本当にあの国民皆が家の中にこもった、だからあの、車なども道路も本当に空いていましたし東京都内もね。
でも今なんて緊急事態宣言なのかなって思うぐらい車も混んでましたし。ただ一年以上のね、
今まさに枝野さんがおっしゃったように私たち知見があるわけですからそれを使った方が良いでしょうね
枝野 例えばこれだけ満員電車で毎日通勤をしているんだけれども少なくともそこが感染を爆発的に広めたっていう、
じゅあ例えば客席の数を半分に減らした映画館とか出てないじゃないかとか
じゃあ飲食店だっていわゆるコンパみたいなワイワイ騒ぐ飲み会は危ないかもしれないけど普通に静かに料理を楽しむ店で 客席半分でアクリルボード立ててちゃんと換気したらどれくらいリスクあるのかとか。
ちゃんともうある程度データは色んな所でとってるんだから国で一括でちゃんと集めれば。
あのもうちょっとやれることはある。ゆるめられるところはある。
一方である程度まで減るまではそういう状況でないとすぐリバウンドですよ
例えば吉永小百合さんなんかもね演劇はいいのに映画はダメというのも物凄く悲しいって
岩瀬 そうですよね
岩瀬 ただ思ったのは、あの例えば小池都知事がね、不要不急の外出を止めてください、
言ったけどこの映画であるとか演劇であるとか美術館であるとか、
これを不要不急と言ってしまえば不要不急かもしれないから、そこのこう、
言ってることとやってることが矛盾しちゃうっていうか、ていうのはあるけれども、
あのまあ、物凄く良い展覧会だからたくさん人が集まるってみたいな時に、密になっちゃ困るから入場規制しますとか
枝野 予約制にするとかみんな工夫してるわけですよ
ディズニーランドなんかだって予約制で人数制限でしょ?映画館だってそうでしょ
じゃあ飲食店だって あの本当に変に時短とかするよりは客席の数を絞らせてもらう
そうすると売上はどれぐらい減るかとか読めるから逆に保障しやすいですよ
岩瀬 そうですね 客席が半分になってしまったら、じゃあ半分を補填すればいいとか、その何パーセントとか
枝野 そこに転換をしつつ ちゃんとお金は必要なもの払って、で、なおかつ「少しちょっと長期我慢してください」と
岩瀬 そういうことがないと長期我慢出来ないですよね 実際問題ね。そうですか。
菅総理が賭けているワクチン接種ですけど、あの大規模接種会場は混乱なくスムーズにいったようですね
枝野 ただ、これから各自治体が、「自治体がやってください」って自治体任せ
自治体はそれぞれに工夫をしてスムーズに進めようと思って、で、先行してたわけですよ
それに対して大規模を、別に国が乗り出してきたりとか
枝野 でも東京と大阪を合わせてもその2%にならないわけですよね、100万件の。
という話で、自治体の予約との混乱が出てくるんじゃないのかていう話と、
それからいずれにしてもこれあの接種する医療関係者の数が足りないという問題なので
自衛隊の医療関係者の皆様にご協力いたただく仕組みを作ったことに意味があるので、
問題は医療従事者が足りないという状況は根本的には変わってなくて、
そうするとまあ高齢者だけでもう7月末は多分もう無理だと思います。
その後現役世代に入ってて、とても年内に打ち切るような状況ではないですよね
岩瀬 そうかもしれませんね
枝野 で一方で、じゃあ打ったワクチンどれくらい効果あるの?って何ヶ月も効果あるの?てまだわかんないわけですよ
岩瀬 そうですよね
どうやら半年後にも抗体はあるらしいってところまではエビデンスがあるらしいんですが、
枝野 また一年後に同じオペレーションを繰り返すのかもしれません。これ分かんないわけです
それでだいぶリスクは下げられるけど、一本足打法じゃ危ないです
岩瀬 うーん、そうですか
そういえば昨日ですね 鈴木哲夫さんジャーナリストの、がいらしてたんですけども
「枝野さんは1年前から自衛隊を何らかの形で活用すべきじゃないって話をしていたからその話聞いた方がいいんじゃない の」って言われたんですけれども
枝野 そうですよ 僕ずっと一年前から、国会でもやりましたし、えっとね
災害対策基本法とか災害救助法という主に自然災害で使われてる法律の建て付けをちゃんと使って、
そうすると自動的なぐらいに自衛隊の方がガーッってやってくれるじゃないですか
あの仕組みを使って自衛隊含めてまさにあの総力あげてやらなきゃならないのに何で使わないんだって
国会で迫ったんですけど、どうも内閣法制局が嫌がってるのかどこが嫌がってるのか、
うーん今の法律ではできませんと言ってるんですが、
僕一応法律家ですが、条文まで全部行きましたけど別に自然災害に限るなんてどこにも書いてないです
岩瀬 書いてないですか
枝野 現状だって自然災害の時に自衛隊に協力をお願いするのと同じ構造だと思いますよね、仕組みは。法律的にはともかく
枝野 できましたよね
1年前からの知見をもっともっと有効活用すべきだって言うことの一つですよね
枝野 そうですね
岩瀬 じゃゃあ何につけても今の政府のやり方っていうのは枝野さんからすると忸怩たるものが
これは安倍政権の時からですけど、これこそ官邸主導じゃなきゃダメなんですよ
平常もバラバラなことやってて調整するんですけど時間掛かるわけですよ、役所同士て色々やってるのを調整するのを、
岩瀬 これ、でもお得意の分野じゃないんですかね?
今までの安倍さんや菅さんの官邸主導って、自分がやりたいことをやる官邸主導
岩瀬 はは
役所同士の調整を時間かけてできないから、エイや!で官邸からこっちでいけってやるしかないんですよ
それを1年間やってないですね
あの今西村大臣が出てきて色々説明するじゃないですか。あれを西村さんがやってちゃだめなんですよ。
横並びの大臣がやっちゃ駄目なんですよ。あれ官房長官がやんなきゃいけないんですよ
官邸がやるから各役所を言うこと聞かせることができるです。足並み乱れず出来るんです
岩瀬 やっぱりあの東日本大震災の時の枝野さんが官房長官だった時の官邸主導っていうのが
今まさに、今というよりは1年前から求められているのに全然それが機能していない
枝野 言ったんですよ、僕、党首会談で安倍さんに。「官邸がちゃんと司令塔作ってやんなきゃダメですよ」って
岩瀬 でも、その時安倍さんはやっぱりやっているておっしゃったんじゃないですか?
岩瀬 そうですか
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前半 了 後半は著作の話が中心
今朝大阪が緊急事態制限の再延長を要請したニュースを見て、あ、そういえば緊急事態宣言なんだっけって思った。
今緊急事態宣言なんだっけ。ちょっと前に解除されたんじゃなかったっけ。そうか、緊急事態だったんだな忘れてたわ。
って調べてみたら自分の住んでる地域は緊急事態じゃなくて蔓延防止の方だった。やっぱり緊急事態宣言ではなかった。
コロナ禍も一年を越え、最初の方の緊急事態宣言はいよいよヤバイ感が出ていて結構しっかりと印象的に刻まれているものだが、だんだん良く分からなくなってきた。
「蔓延防止等重点措置」なるものが出てきたり、「独自の緊急事態宣言」なるものが出てきたり、解除されたと思いきやすぐ翌々週ぐらいにまた宣言に入ってしまったり……。
そんで今この瞬間どこの都道府県に何が出てるのか全然把握していない事に気付いた。
それなりにニュースは見る側の方だと思ってたけど、リアルタイム事情の把握が追い付いていない。
先日東京の友達が話題の映画が公開したけど見に行くなら隣県の映画館まで行かなくてはいけないというから、近くに映画館はないのかと尋ねると、東京は緊急事態宣言だから映画館が閉まっているのだという。
そういうのもなんか全然分かっていない。