はてなキーワード: 災害救助法とは
災害救助法が切り替わったばかりというのがやばそう
岩瀬惠子のスマートNEWS2021年5月26日 ラジオニッポン 岩瀬惠子のスマートNEWS
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岩瀬 今朝は立憲民主党代表で衆議院議員の枝野幸男さんをお迎えしました。おはようございます宜しくお願い致します
岩瀬 前回2月3日御出演だったんですけども その時も緊急事態宣言中でしたね
枝野 そうでしたね
岩瀬 あれは2回目の緊急事態宣言中で現在は3回目の緊急事態中。何かいつまでたっても緊急事態宣言中ですね
岩瀬 そうなんですかね
枝野 早く解除すればすぐにリバウンドするって、専門家の話聴かなくったって素人にも分かる。
だって沢山感染者がいるってことは症状が出ていない人たちもそれだけ潜在的にたくさんいるんだから、
その人たちが活発に動き出した瞬間に広がるのはもう当たり前のことで、
もう今はとにかく東京で1日100人、悪くても100人できれば50人、ぐらいの水準まで下げないと
そこまで我慢すればそっから先ちゃんとやれば、リバウンドを押さえ込んで4度目なしで済むと思います
岩瀬 そうですか
岩瀬 やりそうですけど、二けたまで減らすには、今日の新聞ね、
あの緊急事態宣言来月の20日ぐらいまでで調整なんじゃないかって、
ここまでで東京もねきっとそうなるんでしょうけど、減りますかね
枝野 そこでどこまで減ってるかですけど、ま多分100切るとかとかそういう話は難しいだろうと思いますけどね、
そうするとまたすぐリバウンドですよ。一か月半ぐらいでまたその医療逼迫で大変だみたいな話、
残念ながらなってしまいますよ。むしろ変異株は感染力強いと言われてるからもっと早いかもしれない
岩瀬 そうですね
枝野 だからとにかく徹底して押さえ込んでからじゃなきゃダメだし、
そこを我慢してくださいっていうのには金配んなきゃ駄目なんですよ
岩瀬 まあ小池知事なんかは疲れないでくださいって言うんですけど、
でも人間ってやっぱりちょっとこう自粛疲れって出てきてしまうのはしょうがないですね
枝野 まあ、とにかく普通の人にとってもそうだし やっぱり商売の関係の人たちにとっては無理ですから、
それからやっぱりもうちょっとメリハリつけた方が良くて、例えば今美術館とかもダメとかになってるみたいですよね
よくわかんないですよね。やっぱりその確かに飲食とか特にお酒飲んでワイワイ騒いだらリスク高いだろうというのは間違 いないですけど、じゃあ表で飲むって話になっちゃったりとかしたし、時短の時は8時までだから7時台にお客さんが集まっ たりとか。
もうちょっと1年以上やってるんだから、やっぱり人の行動のパターンをちゃんと読んで
やっぱりいろんなもの我慢をしていただくにしても、「感染対策どうしても不可欠な部分どこか」「まあ一定のリスクは あってもでもここはリスクは低いからそこは許容しよう」とか、
もうちょっとメリハリつけないと、やっぱりこれもう下手すると ワクチンに、なぜか菅さんはワクチン頼みですけど
ワクチン打ったらかからないのか?とか感染の広がりが抑えられるのか?ってまだ分からないし
最近の変異株が色々と変異してるの見ると、強い良いワクチンがあればそれに打ち勝つ変異が起きるってまあ残念ながらワ クチンあのこういったものの体質だから本質だから、わかんないですから。
ちゃんとワクチン頼みじゃなくても抑えられるようなことに舵切らなきゃダメですね
岩瀬 考えてみたら確かに1年以上はコロナと向き合ってるわけですから、
1回目の緊急事態宣言の時はみんなこう得体の知れない感染症に立ち向かうということで、
本当にあの国民皆が家の中にこもった、だからあの、車なども道路も本当に空いていましたし東京都内もね。
でも今なんて緊急事態宣言なのかなって思うぐらい車も混んでましたし。ただ一年以上のね、
今まさに枝野さんがおっしゃったように私たち知見があるわけですからそれを使った方が良いでしょうね
枝野 例えばこれだけ満員電車で毎日通勤をしているんだけれども少なくともそこが感染を爆発的に広めたっていう、
じゅあ例えば客席の数を半分に減らした映画館とか出てないじゃないかとか
じゃあ飲食店だっていわゆるコンパみたいなワイワイ騒ぐ飲み会は危ないかもしれないけど普通に静かに料理を楽しむ店で 客席半分でアクリルボード立ててちゃんと換気したらどれくらいリスクあるのかとか。
ちゃんともうある程度データは色んな所でとってるんだから国で一括でちゃんと集めれば。
あのもうちょっとやれることはある。ゆるめられるところはある。
一方である程度まで減るまではそういう状況でないとすぐリバウンドですよ
例えば吉永小百合さんなんかもね演劇はいいのに映画はダメというのも物凄く悲しいって
岩瀬 そうですよね
岩瀬 ただ思ったのは、あの例えば小池都知事がね、不要不急の外出を止めてください、
言ったけどこの映画であるとか演劇であるとか美術館であるとか、
これを不要不急と言ってしまえば不要不急かもしれないから、そこのこう、
言ってることとやってることが矛盾しちゃうっていうか、ていうのはあるけれども、
あのまあ、物凄く良い展覧会だからたくさん人が集まるってみたいな時に、密になっちゃ困るから入場規制しますとか
枝野 予約制にするとかみんな工夫してるわけですよ
ディズニーランドなんかだって予約制で人数制限でしょ?映画館だってそうでしょ
じゃあ飲食店だって あの本当に変に時短とかするよりは客席の数を絞らせてもらう
そうすると売上はどれぐらい減るかとか読めるから逆に保障しやすいですよ
岩瀬 そうですね 客席が半分になってしまったら、じゃあ半分を補填すればいいとか、その何パーセントとか
枝野 そこに転換をしつつ ちゃんとお金は必要なもの払って、で、なおかつ「少しちょっと長期我慢してください」と
岩瀬 そういうことがないと長期我慢出来ないですよね 実際問題ね。そうですか。
菅総理が賭けているワクチン接種ですけど、あの大規模接種会場は混乱なくスムーズにいったようですね
枝野 ただ、これから各自治体が、「自治体がやってください」って自治体任せ
自治体はそれぞれに工夫をしてスムーズに進めようと思って、で、先行してたわけですよ
それに対して大規模を、別に国が乗り出してきたりとか
枝野 でも東京と大阪を合わせてもその2%にならないわけですよね、100万件の。
という話で、自治体の予約との混乱が出てくるんじゃないのかていう話と、
それからいずれにしてもこれあの接種する医療関係者の数が足りないという問題なので
自衛隊の医療関係者の皆様にご協力いたただく仕組みを作ったことに意味があるので、
問題は医療従事者が足りないという状況は根本的には変わってなくて、
そうするとまあ高齢者だけでもう7月末は多分もう無理だと思います。
その後現役世代に入ってて、とても年内に打ち切るような状況ではないですよね
岩瀬 そうかもしれませんね
枝野 で一方で、じゃあ打ったワクチンどれくらい効果あるの?って何ヶ月も効果あるの?てまだわかんないわけですよ
岩瀬 そうですよね
どうやら半年後にも抗体はあるらしいってところまではエビデンスがあるらしいんですが、
枝野 また一年後に同じオペレーションを繰り返すのかもしれません。これ分かんないわけです
それでだいぶリスクは下げられるけど、一本足打法じゃ危ないです
岩瀬 うーん、そうですか
そういえば昨日ですね 鈴木哲夫さんジャーナリストの、がいらしてたんですけども
「枝野さんは1年前から自衛隊を何らかの形で活用すべきじゃないって話をしていたからその話聞いた方がいいんじゃない の」って言われたんですけれども
枝野 そうですよ 僕ずっと一年前から、国会でもやりましたし、えっとね
災害対策基本法とか災害救助法という主に自然災害で使われてる法律の建て付けをちゃんと使って、
そうすると自動的なぐらいに自衛隊の方がガーッってやってくれるじゃないですか
あの仕組みを使って自衛隊含めてまさにあの総力あげてやらなきゃならないのに何で使わないんだって
国会で迫ったんですけど、どうも内閣法制局が嫌がってるのかどこが嫌がってるのか、
うーん今の法律ではできませんと言ってるんですが、
僕一応法律家ですが、条文まで全部行きましたけど別に自然災害に限るなんてどこにも書いてないです
岩瀬 書いてないですか
枝野 現状だって自然災害の時に自衛隊に協力をお願いするのと同じ構造だと思いますよね、仕組みは。法律的にはともかく
枝野 できましたよね
1年前からの知見をもっともっと有効活用すべきだって言うことの一つですよね
枝野 そうですね
岩瀬 じゃゃあ何につけても今の政府のやり方っていうのは枝野さんからすると忸怩たるものが
これは安倍政権の時からですけど、これこそ官邸主導じゃなきゃダメなんですよ
平常もバラバラなことやってて調整するんですけど時間掛かるわけですよ、役所同士て色々やってるのを調整するのを、
岩瀬 これ、でもお得意の分野じゃないんですかね?
今までの安倍さんや菅さんの官邸主導って、自分がやりたいことをやる官邸主導
岩瀬 はは
役所同士の調整を時間かけてできないから、エイや!で官邸からこっちでいけってやるしかないんですよ
それを1年間やってないですね
あの今西村大臣が出てきて色々説明するじゃないですか。あれを西村さんがやってちゃだめなんですよ。
横並びの大臣がやっちゃ駄目なんですよ。あれ官房長官がやんなきゃいけないんですよ
官邸がやるから各役所を言うこと聞かせることができるです。足並み乱れず出来るんです
岩瀬 やっぱりあの東日本大震災の時の枝野さんが官房長官だった時の官邸主導っていうのが
今まさに、今というよりは1年前から求められているのに全然それが機能していない
枝野 言ったんですよ、僕、党首会談で安倍さんに。「官邸がちゃんと司令塔作ってやんなきゃダメですよ」って
岩瀬 でも、その時安倍さんはやっぱりやっているておっしゃったんじゃないですか?
岩瀬 そうですか
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前半 了 後半は著作の話が中心
無理くね?
[FNN]「これ以上わがままは言えない…」震災から9年、被災者向け仮設住宅からの退去期限が3月末に迫る
https://sp.fnn.jp/posts/00050704HDK/202003111840_morimototaro_HDK
富岡、浪江、飯舘の3町村の住民は原発事故の際、福島県内外に避難することを強いられ、そのうち応急仮設住宅に住むことになった人たちが今回の退去期限の対象となる。
つまり、被災者たちは強制的に避難をさせられて住んだことのない土地に移り住み、なんとか慣れて生活を再建したところで、今回、そのようやく慣れた家から出ていかなくてはいけなくなるのである。
今後どうするのかを聞くと、「とりあえず荷物の整理をして運んだりはしているんですけど…。どうしましょう?どこかシェアハウスとかを探すしかないのかな?もしかしたら当面はネカフェで寝泊まりすることになるのかもしれません」
Sさんたちの住む東雲の国家公務員住宅は、被災者が退去した後、国家公務員であるキャリア官僚の住居になるのではないかと見られている。
完全に壊れていない限り仮設住宅へも行けず自費らしい
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190402/index.html
宮城県石巻市に、今も壊れたままの家に1人で住む70代の男性がいる。家の外観は特に問題ないが、1階の柱は朽ちて中が空洞だ。床も抜け落ちそうで不安を抱えながら暮らし続けてきた。
震災直後の被災地には、自宅の1階が壊れ、かろうじて残った2階に逃れた「2階族」と呼ばれる人が数多くいた。男性もその1人。自宅の1階は津波で水没し、大規模半壊と判定された。国から202万円の補助が出たがそれだけでは修理しきれずに住み続けている。
地震が起きたとき、男性は倒れてきたたんすの下敷きになり、足に大怪我を負ってしまう。けがのため避難所に行けず、壊れた自宅の2階で過ごすしかなかった。しかし、津波で生活に必要なものを流されてしまったため、厳しい暮らしに耐えかねて仮設住宅への入居を希望したが拒否されたと言う。
「市役所に行って『仮設住宅に入りたいんだけど』と申請したのよ。そうしたら『あなたの場合ダメだ』って。『何でダメなの?』と言ったら、
『あなたの場合、自分の家あるでしょ。2階で避難してたから、2階の部屋があるから2階で住んで下さい』と。」(被災者の男性)
国は災害救助法の運用基準で、仮設住宅に入居できる対象を原則として次のように定義している。
「家が全壊・流出するなどして、居住する住家がない者に供与する。」(内閣府の告示)
70代の男性は、壊れたままの家で8年間も暮らしている。厳しい環境で次第に体調を崩し、病院通いが欠かせない。医療費がかさみ、食費にも困窮している状態だ。
「うどんはね、3袋で百円なのよ。もやしは15円。もやしが一番安いのな、野菜で。おれ最近思ったのはさ、この震災になって7年目になって、自殺する人の気持ちが分かってきた。考えても考えても、生活が苦しくて苦しくてさ。生きる力っていうのが、考えれば考えるほど暗くなってきて、明るい気持ちが持てなくなったのよ。それで死んだ方が楽だなと思って。死んだ方が、何にも考えることないなと思って。」(70代の男性)
[NHK]「震災直後は夢があったけれど…」 老舗菓子店 Tさんの9年
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200311/k10012325051000.html
岩手県宮古市で老舗の菓子店を営むTさん(63)は、今回のアンケートの自由記述に「思い描いていた未来のようにはなっていない」とつづりました。
Tさんは東日本大震災の津波で自宅と店舗、そして工場を流されましたが、それでも震災の直後は前向きな気持ちになれたと言います。
Tさんは、当時の心境について、「すべてを失いましたが、家族で住宅フェアや見学会に行って再建するならどんな家がいいかと考えたりして、不謹慎かもしれないけど、楽しい、夢が持てた時期でした。店の再建もできない訳がない、お菓子屋さんをまたやるんだと、当然のように思っていました」と振り返りました。
しかし、再建は当初思い描いたようには進みませんでした。仮設住宅で不自由な生活を送りながら仮設店舗で営業を続け、震災の2年後には工場を再建。しかし、売り上げは震災前の10分の1にも届かず、不安材料だけが増えていく日々が続きました。
▽「震災1年頃までは明るい夢を持てたが、それが2年たっても実現出来ない。むなしさを感じる時が多々ある」と書き、震災3年のアンケートには「仮設3度目の冬はマイナスイメージの言葉しか思い浮かばない。全てを失った震災直後は、それでも立ち直るという強い意志と希望が芽吹いていた。当時の思いは3年で日に日にやせ細り、しおれかけている」と記しています。
当時の胸の内についてTさんは「復興のつち音が響きたくさんの人が来て復旧復興に尽力してくれていることが励みになって自分も明るい気持ちになれたが、そういう人たちが去っていくと人が減り静かでさみしくなった。売り上げがゼロの日もあり、切なくて、自分たちでお菓子を買ってレジにお金を入れたこともあった」と語りました。
それでも「完全復旧する」と意気込み、店の再建という夢に向かって進んでいたTさんに「建設費の高騰」が追い打ちをかけました。復興需要の増大などで震災前1坪あたり50万円程度だった工事費用が、2.5倍近い120万円程度にまで上がったのです。
工場に加え震災から5年後に自宅を再建し、すでに多額のローンを組んでいたTさんは、震災6年のアンケートに「歩みが減速して、1度勢いを失うと、強い気持ちを持続させるのは難しいと実感している。借金を増やしてでも店舗再建を目指すことは正しいことなのだろうか?」などと、自分が選んだ道は正しかったのかと自問自答を繰り返していた当時の心境を記していました。
震災から6年半近くたった2017年の夏、仮設店舗の退去期限が迫る中、Tさんは店の大きさを当初の計画の半分程度に縮小してようやく再建を果たすことができました。
Tさんは「店と工場が離れてしまうなど当初考えていなかったことが重なった。行政の方針が二転三転して読めないのでその時その時で対処していたら借金が1億を超えてしまった」と話しました。
ところが、ようやく戻ることができた街は思い描いた姿とは変わっていました。住宅が高台に移転し商店街もなくなったため店の周囲ににぎわいはなく、震災前は大勢いた自転車や徒歩で店に来る客は今はほとんどいません。
Tさんは「元の場所に戻ったら悪くても震災前の半分は売り上げがあるだろう」と思っていたと言いますが、震災の影響で商品の卸し先が廃業したこともあって、売り上げは震災前の3分の1程度にとどまっています。
基本的に自己責任の国だぞ、生活保護と医療保険があるからなんとかなるだろうの精神だ
にも関わらず、生活保護と医療保険を無くそう・縮小しようというバカがいる
現場猫コラはセンス抜群ですきだが、医療保険のクソキャンペーンにイラストを提供していた オリジナルのくまみね氏の方はブロックしている。お前はすべて自己責任でいけ
[FNN]「これ以上わがままは言えない…」震災から9年、被災者向け仮設住宅からの退去期限が3月末に迫る
https://sp.fnn.jp/posts/00050704HDK/202003111840_morimototaro_HDK
富岡、浪江、飯舘の3町村の住民は原発事故の際、福島県内外に避難することを強いられ、そのうち応急仮設住宅に住むことになった人たちが今回の退去期限の対象となる。
つまり、被災者たちは強制的に避難をさせられて住んだことのない土地に移り住み、なんとか慣れて生活を再建したところで、今回、そのようやく慣れた家から出ていかなくてはいけなくなるのである。
今後どうするのかを聞くと、「とりあえず荷物の整理をして運んだりはしているんですけど…。どうしましょう?どこかシェアハウスとかを探すしかないのかな?もしかしたら当面はネカフェで寝泊まりすることになるのかもしれません」
Sさんたちの住む東雲の国家公務員住宅は、被災者が退去した後、国家公務員であるキャリア官僚の住居になるのではないかと見られている。
完全に壊れていない限り仮設住宅へも行けず自費らしい
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190402/index.html
宮城県石巻市に、今も壊れたままの家に1人で住む70代の男性がいる。家の外観は特に問題ないが、1階の柱は朽ちて中が空洞だ。床も抜け落ちそうで不安を抱えながら暮らし続けてきた。
震災直後の被災地には、自宅の1階が壊れ、かろうじて残った2階に逃れた「2階族」と呼ばれる人が数多くいた。男性もその1人。自宅の1階は津波で水没し、大規模半壊と判定された。国から202万円の補助が出たがそれだけでは修理しきれずに住み続けている。
地震が起きたとき、男性は倒れてきたたんすの下敷きになり、足に大怪我を負ってしまう。けがのため避難所に行けず、壊れた自宅の2階で過ごすしかなかった。しかし、津波で生活に必要なものを流されてしまったため、厳しい暮らしに耐えかねて仮設住宅への入居を希望したが拒否されたと言う。
「市役所に行って『仮設住宅に入りたいんだけど』と申請したのよ。そうしたら『あなたの場合ダメだ』って。『何でダメなの?』と言ったら、
『あなたの場合、自分の家あるでしょ。2階で避難してたから、2階の部屋があるから2階で住んで下さい』と。」(被災者の男性)
国は災害救助法の運用基準で、仮設住宅に入居できる対象を原則として次のように定義している。
「家が全壊・流出するなどして、居住する住家がない者に供与する。」(内閣府の告示)
70代の男性は、壊れたままの家で8年間も暮らしている。厳しい環境で次第に体調を崩し、病院通いが欠かせない。医療費がかさみ、食費にも困窮している状態だ。
「うどんはね、3袋で百円なのよ。もやしは15円。もやしが一番安いのな、野菜で。おれ最近思ったのはさ、この震災になって7年目になって、自殺する人の気持ちが分かってきた。考えても考えても、生活が苦しくて苦しくてさ。生きる力っていうのが、考えれば考えるほど暗くなってきて、明るい気持ちが持てなくなったのよ。それで死んだ方が楽だなと思って。死んだ方が、何にも考えることないなと思って。」(70代の男性)
[NHK]「震災直後は夢があったけれど…」 老舗菓子店 Tさんの9年
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200311/k10012325051000.html
岩手県宮古市で老舗の菓子店を営むTさん(63)は、今回のアンケートの自由記述に「思い描いていた未来のようにはなっていない」とつづりました。
Tさんは東日本大震災の津波で自宅と店舗、そして工場を流されましたが、それでも震災の直後は前向きな気持ちになれたと言います。
Tさんは、当時の心境について、「すべてを失いましたが、家族で住宅フェアや見学会に行って再建するならどんな家がいいかと考えたりして、不謹慎かもしれないけど、楽しい、夢が持てた時期でした。店の再建もできない訳がない、お菓子屋さんをまたやるんだと、当然のように思っていました」と振り返りました。
しかし、再建は当初思い描いたようには進みませんでした。仮設住宅で不自由な生活を送りながら仮設店舗で営業を続け、震災の2年後には工場を再建。しかし、売り上げは震災前の10分の1にも届かず、不安材料だけが増えていく日々が続きました。
▽「震災1年頃までは明るい夢を持てたが、それが2年たっても実現出来ない。むなしさを感じる時が多々ある」と書き、震災3年のアンケートには「仮設3度目の冬はマイナスイメージの言葉しか思い浮かばない。全てを失った震災直後は、それでも立ち直るという強い意志と希望が芽吹いていた。当時の思いは3年で日に日にやせ細り、しおれかけている」と記しています。
当時の胸の内についてTさんは「復興のつち音が響きたくさんの人が来て復旧復興に尽力してくれていることが励みになって自分も明るい気持ちになれたが、そういう人たちが去っていくと人が減り静かでさみしくなった。売り上げがゼロの日もあり、切なくて、自分たちでお菓子を買ってレジにお金を入れたこともあった」と語りました。
それでも「完全復旧する」と意気込み、店の再建という夢に向かって進んでいたTさんに「建設費の高騰」が追い打ちをかけました。復興需要の増大などで震災前1坪あたり50万円程度だった工事費用が、2.5倍近い120万円程度にまで上がったのです。
工場に加え震災から5年後に自宅を再建し、すでに多額のローンを組んでいたTさんは、震災6年のアンケートに「歩みが減速して、1度勢いを失うと、強い気持ちを持続させるのは難しいと実感している。借金を増やしてでも店舗再建を目指すことは正しいことなのだろうか?」などと、自分が選んだ道は正しかったのかと自問自答を繰り返していた当時の心境を記していました。
震災から6年半近くたった2017年の夏、仮設店舗の退去期限が迫る中、Tさんは店の大きさを当初の計画の半分程度に縮小してようやく再建を果たすことができました。
Tさんは「店と工場が離れてしまうなど当初考えていなかったことが重なった。行政の方針が二転三転して読めないのでその時その時で対処していたら借金が1億を超えてしまった」と話しました。
ところが、ようやく戻ることができた街は思い描いた姿とは変わっていました。住宅が高台に移転し商店街もなくなったため店の周囲ににぎわいはなく、震災前は大勢いた自転車や徒歩で店に来る客は今はほとんどいません。
Tさんは「元の場所に戻ったら悪くても震災前の半分は売り上げがあるだろう」と思っていたと言いますが、震災の影響で商品の卸し先が廃業したこともあって、売り上げは震災前の3分の1程度にとどまっています。
[FNN]「これ以上わがままは言えない…」震災から9年、被災者向け仮設住宅からの退去期限が3月末に迫る
https://sp.fnn.jp/posts/00050704HDK/202003111840_morimototaro_HDK
富岡、浪江、飯舘の3町村の住民は原発事故の際、福島県内外に避難することを強いられ、そのうち応急仮設住宅に住むことになった人たちが今回の退去期限の対象となる。
つまり、被災者たちは強制的に避難をさせられて住んだことのない土地に移り住み、なんとか慣れて生活を再建したところで、今回、そのようやく慣れた家から出ていかなくてはいけなくなるのである。
今後どうするのかを聞くと、「とりあえず荷物の整理をして運んだりはしているんですけど…。どうしましょう?どこかシェアハウスとかを探すしかないのかな?もしかしたら当面はネカフェで寝泊まりすることになるのかもしれません」
Sさんたちの住む東雲の国家公務員住宅は、被災者が退去した後、国家公務員であるキャリア官僚の住居になるのではないかと見られている。
完全に壊れていない限り仮設住宅へも行けず自費らしい
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190402/index.html
宮城県石巻市に、今も壊れたままの家に1人で住む70代の男性がいる。家の外観は特に問題ないが、1階の柱は朽ちて中が空洞だ。床も抜け落ちそうで不安を抱えながら暮らし続けてきた。
震災直後の被災地には、自宅の1階が壊れ、かろうじて残った2階に逃れた「2階族」と呼ばれる人が数多くいた。男性もその1人。自宅の1階は津波で水没し、大規模半壊と判定された。国から202万円の補助が出たがそれだけでは修理しきれずに住み続けている。
地震が起きたとき、男性は倒れてきたたんすの下敷きになり、足に大怪我を負ってしまう。けがのため避難所に行けず、壊れた自宅の2階で過ごすしかなかった。しかし、津波で生活に必要なものを流されてしまったため、厳しい暮らしに耐えかねて仮設住宅への入居を希望したが拒否されたと言う。
「市役所に行って『仮設住宅に入りたいんだけど』と申請したのよ。そうしたら『あなたの場合ダメだ』って。『何でダメなの?』と言ったら、
『あなたの場合、自分の家あるでしょ。2階で避難してたから、2階の部屋があるから2階で住んで下さい』と。」(被災者の男性)
国は災害救助法の運用基準で、仮設住宅に入居できる対象を原則として次のように定義している。
「家が全壊・流出するなどして、居住する住家がない者に供与する。」(内閣府の告示)
70代の男性は、壊れたままの家で8年間も暮らしている。厳しい環境で次第に体調を崩し、病院通いが欠かせない。医療費がかさみ、食費にも困窮している状態だ。
「うどんはね、3袋で百円なのよ。もやしは15円。もやしが一番安いのな、野菜で。おれ最近思ったのはさ、この震災になって7年目になって、自殺する人の気持ちが分かってきた。考えても考えても、生活が苦しくて苦しくてさ。生きる力っていうのが、考えれば考えるほど暗くなってきて、明るい気持ちが持てなくなったのよ。それで死んだ方が楽だなと思って。死んだ方が、何にも考えることないなと思って。」(70代の男性)
[NHK]「震災直後は夢があったけれど…」 老舗菓子店 Tさんの9年
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200311/k10012325051000.html
岩手県宮古市で老舗の菓子店を営むTさん(63)は、今回のアンケートの自由記述に「思い描いていた未来のようにはなっていない」とつづりました。
Tさんは東日本大震災の津波で自宅と店舗、そして工場を流されましたが、それでも震災の直後は前向きな気持ちになれたと言います。
Tさんは、当時の心境について、「すべてを失いましたが、家族で住宅フェアや見学会に行って再建するならどんな家がいいかと考えたりして、不謹慎かもしれないけど、楽しい、夢が持てた時期でした。店の再建もできない訳がない、お菓子屋さんをまたやるんだと、当然のように思っていました」と振り返りました。
しかし、再建は当初思い描いたようには進みませんでした。仮設住宅で不自由な生活を送りながら仮設店舗で営業を続け、震災の2年後には工場を再建。しかし、売り上げは震災前の10分の1にも届かず、不安材料だけが増えていく日々が続きました。
▽「震災1年頃までは明るい夢を持てたが、それが2年たっても実現出来ない。むなしさを感じる時が多々ある」と書き、震災3年のアンケートには「仮設3度目の冬はマイナスイメージの言葉しか思い浮かばない。全てを失った震災直後は、それでも立ち直るという強い意志と希望が芽吹いていた。当時の思いは3年で日に日にやせ細り、しおれかけている」と記しています。
当時の胸の内についてTさんは「復興のつち音が響きたくさんの人が来て復旧復興に尽力してくれていることが励みになって自分も明るい気持ちになれたが、そういう人たちが去っていくと人が減り静かでさみしくなった。売り上げがゼロの日もあり、切なくて、自分たちでお菓子を買ってレジにお金を入れたこともあった」と語りました。
それでも「完全復旧する」と意気込み、店の再建という夢に向かって進んでいたTさんに「建設費の高騰」が追い打ちをかけました。復興需要の増大などで震災前1坪あたり50万円程度だった工事費用が、2.5倍近い120万円程度にまで上がったのです。
工場に加え震災から5年後に自宅を再建し、すでに多額のローンを組んでいたTさんは、震災6年のアンケートに「歩みが減速して、1度勢いを失うと、強い気持ちを持続させるのは難しいと実感している。借金を増やしてでも店舗再建を目指すことは正しいことなのだろうか?」などと、自分が選んだ道は正しかったのかと自問自答を繰り返していた当時の心境を記していました。
震災から6年半近くたった2017年の夏、仮設店舗の退去期限が迫る中、Tさんは店の大きさを当初の計画の半分程度に縮小してようやく再建を果たすことができました。
Tさんは「店と工場が離れてしまうなど当初考えていなかったことが重なった。行政の方針が二転三転して読めないのでその時その時で対処していたら借金が1億を超えてしまった」と話しました。
ところが、ようやく戻ることができた街は思い描いた姿とは変わっていました。住宅が高台に移転し商店街もなくなったため店の周囲ににぎわいはなく、震災前は大勢いた自転車や徒歩で店に来る客は今はほとんどいません。
Tさんは「元の場所に戻ったら悪くても震災前の半分は売り上げがあるだろう」と思っていたと言いますが、震災の影響で商品の卸し先が廃業したこともあって、売り上げは震災前の3分の1程度にとどまっています。
今回の豪雨に対する政府の初期対応が非常災害対策本部の設置まで何をしているかわかなかったので調べてみた。
農林水産省:「台風第 7 号接近に伴う事前点検及び災害発生時の復旧箇所における応急対策の実施について」を通知
国土交通省:台風第 7 号の接近に伴い災害への警戒強化や工事の安全管理の徹底・注意喚起を発出
農林水産省:「台風第7号接近に伴う山地災害の未然防止について」を通知
経済産業省:災害救助法が適用されたことを受けて、被災中小企業・小規模事業対策を実施する
農林水産省:「〜被害農林漁業者等に対する資金の円滑な融通、既往債務の償還猶予等について」等を通知
消防庁:災害対策本部へ改組、広島県へ消防庁職員4名派遣を決定
消防庁:各県に緊急消防援助隊の出動可能隊数の報告及び出動準備を依頼、大阪府知事に対し緊急消防援助隊の広島県への出動を求め
消費者庁:災害により消費生活相談窓口が開設できない場合における相談ダイヤルの接続先変更について、各都道府県消費者行政担当課に周知
消費者庁:災害に便乗した悪質商法に関する注意喚起の情報を各都道府県消費者行政担当課に提供
大雨特別警報の発表(福岡県、佐賀県、長崎県、広島県、岡山県、鳥取県、兵庫県、京都府)
*同日内は順不同
ソース http://www.bousai.go.jp/updates/h30typhoon7/pdf/300709_h30typhoon7_01.pdf