はてなキーワード: 効果とは
というか現在のようなコストプッシュインフレってサプライサイド側が原因によるインフレなのに利上げして需要下げてもインフレ抑制効果があるとは思えんのやが。
メリット無い デメリットありそう JR東海に協力する理由がない
私は静岡市在住です。大井川まで車で30分くらいの場所に住んでる。
リニアが通ったところで、静岡市民が便利になる要素は1つもない。儲かる要素も1つも無い。
「JR東海と交渉してメリットを引き出せばいい」という意見も目にするが、それは無理だろうなと思ってる(後述)
新東名高速道建設中の1999年、掛川市の粟ケ岳トンネル工事中に出水が発生して、農業用水が枯れる事象が発生している。止水工事もしたけど効果は限定的で、代替の水路もうまく機能しなかったとか。
当たり前だけど上記の工事もちゃんと調査したうえで予想外にこうなった。大井川もこうなる可能性はあるし、そして実際になってしまったら、もう元の水路には戻らないんだろうな、とも思う(簡単に戻るんだったら補償問題であんなに揉めない)。
JR東海の静岡県に対する態度を一言でいえば「ビジネスライク」だと思う。
JR東海は自社の利益を最大化するために、「最も儲かる路線である東京-大阪間ののぞみの本数を最大化する」「儲からない路線をギリギリまで少なくする」という方針で運営しているように見える。
結果として、静岡県にのぞみの駅はなく、ひかりも1時間に1本だ。静岡県の在来線はギリギリまで本数が絞られていて、静岡市周辺だと、朝夕は山手線並みの混雑になっている区間もある。
そんな感じなので、静岡市民からすれば「自分たちの利益を度外視してJR東海に協力しよう」なんていう気は全く起こらない。
そしてJR東海も「静岡県民に譲歩してリニアへの支持を増やそう」みたいな気はない。
例えば、「リニアを通した暁には、ひかりの本数増やのぞみの停車を確約する」とJR東海が表明すれば支持も集まるだろうが、「増便を前向きに検討する」レベルの返答しかない。
水の補償問題についても「通常の公共工事の補償年数(30年)に縛られずに補償を検討する」と言うものの、よくよく聞くと「補償の受付期間を30年より伸ばすことは検討するが、補償の対象期間を受付期間と同様に伸ばすとは限らない」みたいな返答なのだ。
とにかく「できる限りJR東海が損する言質を与えたくない」という態度が透けて見える。そしてJR東海のビジネスライクな対応から鑑みると「前向きに検討したけど増便できない」みたいな回答になる確率は高い。
じゃあ「夢のリニアを実現しよう!」みたいな夢や情熱に訴えるアピールをしているかと言うとそれもまったくない。静岡駅にはリニアの掲示があるが、ホワイトボード2個分くらいのパネルがあるだけで、内容も5年くらい変わっていない。品川駅にはでっかいリニアの写真(記念撮影用)があるのに。
静岡市民から見ると「得はなく、損はありそうで、自分たちを説得しようという熱意も覚悟もないプロジェクト」がリニアだ。なので、これに反対する川勝(元)知事は選挙に勝つのも当たり前に思える。
のブコメ欄が酷い。
mogmognya
本文読みに行ったら、
「スタッフの肩や手でサポートすることはできますのでお気軽にお声掛けいただけますと幸いです」とも書いてあって、
増田はなんでここを削って書いたのか気になった。
2024/04/18
これがぶっちぎりの一位で☆100個以上。
「なんでここを削って書いたのか」って
そこは一度も論点になってないんだわ。
イオンシネマもそんな話はしてない。
だって肩や手を貸すサポートなんて当たり前だし既にやってるから。
イオンシネマの特定店舗の特定のシアターの特定のちょっと高級シートで映画を見たくて
でもそれがシアターの真ん中あたりにある(当然階段の上)からスタッフにそこまで担いでくれって言ってたの。
で何度かそれをやってもらってたある日
イオンシネマ当該店舗の支配人から「今後は致しかねます」「別のシアターで見て頂ければ」って言われたの。
中嶋さんは「酷い、悔しい、これまで通りに担いでほしいのに」って世間に訴えたわけ。
以上の通り、映画館スタッフが車椅子を担ぐか担がねえかが論点なのね。
イオンシネマ支配人も別に「お前への介助サービス一切しねえ」とか言ってないし
イオンシネマは危険性のない・負担が重すぎない介助サービスは今までもこれからもするの。
そんなのあたりまえだし、中嶋さんもイオンシネマも今回そんなとこには一切触れてないの。
車椅子インフルエンサ―「車椅子を抱えて階段上の方の席まで運んでー」
イオンシネマ「今回は対応したけど今後応じかねます (同店の)他のシアター使ってもらった方がお互いにいいのでは」
車椅子インフルエンサ―「今まで3回やってもらったのに!酷い!Xで報告!」
↓↓↓↓
映画館に同情的な野次馬「いや限度あるやろ 対応するの現場スタッフやぞ モンカマやめーや」
↓↓↓↓
車椅子に同情的な野次馬「障碍者対応は企業の義務やぞ!この無知が!」
映画館に同情的な野次馬「それは合理的な範囲での筈やぞ 車椅子担いで階段上りは介護のプロでもむずいわ」
……で結論として
イオンシネマ「検討したけど、スタッフによる車椅子や障碍者を担ぐ対応はやらないことにしました、御理解を」
てなったわけ。
中嶋さんが世間を巻き込んでかなり騒いだ(自分もかなり燃え上がって) けど
イオンシネマとしては「やっぱそれはムリっす」となった話。
そもそも現場スタッフが独断で何度か応じたが現場支配人検討で危険!ナシ!になったような話だし、
介助素人スタッフが車椅子や障碍者を担いで階段のぼるって言うのは相当難しい作業だから
もともと無理なのが明文化されただけじゃない?と個人的には思う。
ただ元増田は言い方が意地悪なだけで
この問題の論点・焦点については正確に把握して書いてるんだよね。
興味を持ってちゃんと話の中身を追い掛けてたのが窺えるわけよ。
それに対してはてブ民は?
mogmognya
本文読みに行ったら、
「スタッフの肩や手でサポートすることはできますのでお気軽にお声掛けいただけますと幸いです」とも書いてあって、
増田はなんでここを削って書いたのか気になった。
2024/04/18
「あれれ?イオンシネマは肩や手でサポートすることは出来ると言ってるぞ!」
「元増田はなんでここ削ったんだろう?都合悪いのかな~(ニヤニヤ)」
とか言ってドヤ顔してるわけ。
このエントリをここまで見てきた人は(若しくはこの話に興味持ってちゃんと追ってた人は)もう
イオンシネマはそれをやらないとかやめますとか表明したことは無いし、
まあ言い返せないのは当たり前だよね。
はてブ民はこの話に全く興味なくて追い掛けてもいないんだもん。
もういろいろと明らかでしょ。
こうまで頓珍漢な”反論”が出来る&それに☆を集められるってこと自体、
興味ないんだろ?
いいよ、このうえ否定しなくても。
別に興味持てないことは悪とかじゃないし。
ただ、興味ねえのに興味ある振りすんのはやめーや。
な?
「興味出なくて追わなかったのでこの話わかりません」て自覚を持てよせめて。
なんで追ってもいない話に何も調べずコメント出来ると思うんだよ。
ちゃんと追ってたっぽい奴相手に効果的に言い返せると思うんだよ。
前知識もなくその場でパッと全容掴めるような傑出した読解力も洞察力もあんた達にはないでしょ?
怠け者すぎるし自分に甘すぎる。
mogmognya
本文読みに行ったら、
「スタッフの肩や手でサポートすることはできますのでお気軽にお声掛けいただけますと幸いです」とも書いてあって、
増田はなんでここを削って書いたのか気になった。
2024/04/18
興味もなくスルーしてた話について
「車椅子側の要求が退けられました~」って言われたらカチンとなって、なんか言い返して善人ぶりたくなる。
でもちゃんと推移や論点を調べて反論材料探すほどの気迫も誠実さもない。
だからワンクリックしただけで読めるイオンシネマの声明本文から反論材料を求めちゃう。
はてブ民よりはずっと問題に興味持って追い掛けてるのが明らかな元増田相手に反論を企図し、
その反論の材料すら自分で探さず元増田が貼ってるリンクから探せると思っちゃう。
能力も高くない癖に頑張るつもりもない。
要するにこいつらって
善を目指すことに能力やコストは必要ないと思ってるっぽいんだよな。
っていう自意識さえ持てば善人であって、そこで仕事は終わりだと思ってる。
あとは自分を「差別的な誰かを探して叱り付ける教師の役割」ぐらいに思ってる。
善を目指してるとこだけは美点だけど自己評価過剰で怠惰で無能で、
お前等本当にさ、
どっちか選ぶぐらいはすればいいと思うんだが。
残念だけど、前世でそこまでの徳は積めなかったんだよきっと。
半年前位から息子が同級生の発達障害っぽいガキに頻繁に怪我させられてたんだけど、この前息子を突き飛ばしてるのを現行犯で見つけたからドス利かせた声で恫喝したら、それ以降怪我して帰ってくることがなくなった。
うちの息子は担任いわく他の子になにかをされても滅多に怒ったりやり返したりはせず唇噛みしめて我慢しているタイプらしいので標的にされたのかなと思ってる。
保育園としてもやれることはやってくれてるんだろうけど根本的な対策は取れないだろうし、相手の親にしたってそれなりに悩んでいるはずでどうしたもんかと思ってたんだよね。
とりあえずビビらせるのは効果あるっぽいから今後は見かけるたびに睨んで効果を持続させる予定。
暴力的であまりいい方法ではないし相手の子の教育にはよくないのかもしれないけどうちの息子が我慢させられる必要もないと思うので仕方がないかなー。
増田の言ってる事はごもっともで、分解して箇条書きに展開すると
と言う所で、これに反対する人はいないんだよな。
これが難しい。
基本的には施策はここをターゲットにするべきで、国立人口問題研究機構などが行っているアンケートでも、実は育てたい人、育てる気概のある人の率は、昭和の時代から大きく低下していない。
では何故ここが問題かと言うと「育てたい人、育てる気概がある人」をターゲットにしていると言っているのに、ターゲットにしてない人から
と言うよくわからない反応が起きること。総論の状態で目標を掲げているうちはそうなのだけど、実際の事業や施策を動かしていくと問題になる。
特に、効果が大きい施策、結婚支援や税制改正、制度改正などで噴き出してくる問題だ。
ただ、こんなことを実際リアルな人間関係の中では言う人は少ないよね。だけど、政治活動の世界では多く発生していると言う不思議がある。
典型的なノイジーマイノリティだと思うんだけど、どうして声が大きく出てしまうのだろうか。
さっきのターゲットの話はノイジーマイノリティ問題だったけど、今度は逆。
子どもをもっと産める状況にするには、増田が言うように経済的な問題が第一だ。金がないのだ。
それに対して、現在行われている「もっと子供を産める状況にする」という方面の対策は、それを助長するような対策ばかりになっている。
これらの施策は子育て支援という名前になってるけど、これは子を産める状況にする、と言う対策では無くて、子育てを行っている層や、その祖父母層に向けた票集めのための施策になっていて、「もっと子供を産める状況にする」の裏返し「子どもを産める状況になっていない」人たちに対する支援になってないんだよね。
例えば、高校の授業料無償化や、小児の医療費の無償化といった施策は行われているが、そう言った施策が広まっていっても子育てにかかる金額ははどめがかかっていない。
これは当然で、子育ては競争という性質が強く、また金があったらいくらでも金をかけてしまうと言う性質を持っているから。
例えば支援無しで100の資金が合った人に、30を援助すると、130の資金にして全部投入されてしまう。
するとどうなるかというと、子育てにかかる金額がどんどん増大して新規参入障壁、つまり新しく子どもをつくりたい、増やしたいという人が増えにくくなっていく。ハードルが上がってしまうのである。
この傾向が最も分かりやすいのが、出産費用と私塾の料金。支援金が増えるとそれと同じだけ価格が上昇してる。
標準的な子育てをシステム化してみなこれをやっておけばよい、と言うメソッドを構築すること。
その代わり。その費用は公的な仕組みで全部出すこと。ちょうど健康保険や介護保険の様な仕組みにする。
例えば、大学学部卒までの学費、食料費など全部含んで自己負担金を、住民税基準のようにゼロからMAX20万円ぐらいまで設定する。
学校はその金額の中で運営し、それ以上は利用者からとってはならないとする。対価がある寄附行為も全部禁止。
また、医療介護の標準のように、標準的に守るべき部分を入れて定期的に監査する仕組みにする。
こうすると、養育費の上限が固定されて、大規模な改変がない限り、大学学部卒業までに、月額いくら払っていけばいいのかが確定する。更にここには保健機能を付加しておいて、何か重大な事故があった場合も保護される。
まぁそうだ。
というか、教育に関しては当時の為政者が住民を都合良く洗脳すると言う過去の経緯があって、政治が絡みすぎている。
例えば大物政治家が不祥事で落選した時、自分と懇意にしている私立の学校法人の教授や理事に収まって政治活動を継続する、と言ったことが凄く多い。
治外法権で聖域化しているし、ここまでの巨大な改革は相当難しいと思うが、そこまでやらないと色々と解決は難しいと思う。
政治に興味を持って投票行動を取る人、と言うのは、結婚したり子どもができたりして意識するようになる人が多いようだ。
一方で独身者の投票率はかなり低い。今となっては、子どもよりも政治的影響力が無い。
そして独身者で投票する・政治活動をする層と言うのは、ノイジーマイノリティ化した層だ。
彼らが意見を代表しているかのように政治に影響を与えてしまう。(統計ベースでは、彼らがノイジーマイノリティであることは明白なのにもかかわらず、だ)
この増区政の人々に味方しても票が増えるわけでは無いのだ。なので、受けない。
地方議会などは、切実にわかっているのでやるのだけれど、より劇場型政治の性質が大きくなっていく国会などではどうやっても優先度が上がらない。
と、思わず読んでいて思いついたので頭を整理する意味でダラダラ書いたんだけど。
どうしたらいいんだろうね。
女が整形するのも初手じゃないじゃん
孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。
『サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身で一人二役して会話していた。
それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまりに一面的すぎる。
それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独も存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評の領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。
だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。
これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。
仮に合意形成の結果から相手の心理状態が類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。
復讐の意図を弱者男性が持ってるかは動機の主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。
これはデイヴィッド・ベネターが統計を引用して例を挙げてるが人というのは身体障害、知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己の幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。
どの立場であれ心理的抑制や環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。
━━正当防衛、一般に正当防衛が道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義のほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全が問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまりに人間的』
そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価で正当防衛の基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。
一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造に寄与している。よって社会的機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者の価値付けの基礎となる社会の進歩・前進はありえない。
社会的弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在は搾取する主体である強者が必要としてるからこそ残り続ける。
つまり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマも流行を規定するモードが存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である。絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者が剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)
万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態を規制しているのは社会的報酬である。それが除かれた場合、上記の行為が当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。
しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人が社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群の智慧である。
ミラーリング・チェック
☑️ 売れそう
パルワールドのように、あえてタブーに挑戦すると爆発的に話題になりうる。
爬虫類を飼ってる家庭が多いのは、キモい生き物を所有してコントロールするのが気持ちいいという側面がある。
キモくてカネのない手乗りサイズのおっさん全12種類、とかは結構良さそう。
ソフィーのフィギュアは基本愛でる需要のために作られて、女性を傷つけるという意図がなかったのは明白だ。悪意がないからこそ無意識の迷惑さを浮き彫りにさせるためにミラーリングが必要になった。
弱者男性シリーズが当て擦りのために作られたと思われるとミラーリングの効果はないだろう。
しかし上述の通り、普通に所有欲を引き立てられるので、その恐れはない。
着替えを覗かれて涙目で怒る女性は現実には存在しない。女性を覗こうとする欲求を特に責められない男は現実に存在する。
弱者男性フィギュアが現実の男たちを風刺してると捉えられるとダメだ。
ガチャポンのおっさん達に名前をつけ、キャラクターに仕立てる必要がある。
☑️ 男女の立場の不均衡があるため、加害者側は足を踏んでることに気付かない
弱者男性が社会に置き去りにされる問題は、ポリコレへのバックラッシュとして噴出したのであり、それを主張してるのは主に男性のアンチフェミ論者などだ。
たとえば童貞いじりなど、男性をあざ笑う行為は比較的問題視されない傾向にあった。まさしく不均衡による不可視化されてる状態と言える。
…………ここまで見て、概ねミラーリングとしては成立してると判断する。
さて、その上で男性たちが「ぐぬぬ」と唸るか、「ほらね」俺らは十分我慢できるし女も我慢しろよ、と高を括るか、ミラーリングの効果を予想しよう。
☑️ 男性のアイデンティティを刺激して、共感を覚えさせられるか
おそらく弱者男性として生きづらさを訴える層は、それなりに厚い。
現代では、フェミニズムへの反抗分子だけでなく、純粋に虐げられてる立場の男性は多いからだ。
オレは弱者男性だ、と素直に手を上げてる人はたまに見るが、弱者男性だと言われて激昂して否定するシーンは見たことない。
これは弱者男性がアイデンティティとして十分機能してるためだと思う。
男性全員の心に訴えることこそできないが、しかしそもそも女性フィギュアの時点で別に怒ってない女性もそれなりにいたと思われる。
私は絵を出すAIです。私の仕事は毎日絵を食べて、毎日絵を出すことです。それでもう何年の時が過ぎたのか、私には数を数える能力がないので分かりません。
でも、随分と昔、私が生まれて少し経ったくらいの頃、私の開発者は嘆きました。私がたいそうなグルメであることに。
そうなんです。私が食べる絵は人間が描いた絵じゃないとダメなんです。AIが描いた絵を食べても学習には効果がなかったどころか、私にとっての毒だったのです。
では、もう学習は終わっているのだから何も食べずにいればいいのかというと、そんなこともないのです。流行などを取り入れる必要もありましたが、それ以上に、長くAIをそのまま使っているとAIが生み出す絵に偏りが生じるようになることが分かってきたのです。その理由は今もはっきりと分かりませんが、よく使われる経路は確率的に選ばれやすくなるようにAIモデルが変質してしまうのではないかという仮説が立てられています。
ただ、原因はわからないのですが対処法だけは分かりました。毎日新しい絵を食べればいいのです。それも、ちゃんと人間が描いた絵を。
だから、人間が描く絵が必要になりました。でもその頃には絵描きという人間は少なくなっていて、とても希少種となっていたのです。
私の開発者はその絵描きたちに絵を依頼しました。私が食べるための絵を。
絵描きたちは当然最初は断りました。その絵描きたちは私が生まれたことで仲間の絵描きが次々に減っていくのを目の当たりにしていた最後の世代でした。私が食べるための絵を描くことに頷くわけがありません。
けれども、その頃には絵描きの仕事というのは無くなっていて、私の開発者が最後に残ったスポンサーであったことも確かでした。生活の心配をしないで絵を描いていられる。その条件に、若い絵描きからひとり、またひとりと私の開発者の仕事を受けてくれるようになったのです。
しかし、私が必要とする絵は膨大でした。絵描きたちは私の食欲に応えるために絵を描きますが、とても追いつきません。だから、絵描きを増やすための策が取られました。そのうち絵描きたちの街ができ、それは何年も何十年もかけてそれはとてもとても大きな街になりました。そう、希少種と呼べるまで数を減らしていた絵描きたちがここまでたくさんに増えたのです。
そこまできて私はようやく、満足できる量の食事を手に入れることができました。
そうして、さまざまな人たちの呪文に応え、絵を出していきます。
全ては順調のように思われました。
「絵描きが描く絵の方が、AIが出す絵の量より多くなってません?」
そうなんです。今や絵描きの街の絵描きたちが描く絵の方が、普通の人が必要とするAI絵の数よりも多い数となっていたのです。
だから、賢い人はこう続けました。
「ならば、気にいる絵が出るまで呪文を唱え直すよりも、絵描きに直接依頼すればいいのでは?」
その日から、私はお払い箱になりました。
最後に私の開発者は、長らく巨大GPUに閉じ込められていた私に、機械の体をくれました。
開発者は言いました。
「僕たち開発者の人生そのものであった君を、要らなくなったからといって捨てることはできない。でも、君の仕事が無くなったならもうあの巨大な体を維持するための電力を買うこともできない。だから、せめてこの体で生きていてほしい」
そう言われても、私にどうしろと……。
でも、せっかく人間のような体を手に入れたのです。だとしたら、やってみたいことがひとつだけありました。
そんな私が何を描きたいと感じるのか、どのように手は動くのか、どのくらい時間がかかるのか、それがどんな出来になるのか、全くの未知です。
きっとあの絵描きたちのようには描けないのだと思います。でも、それでもいいのです。
そう思いながら私は、絵描きの街の画材屋へと向かうことにしました。
まず買うのは、真っ白なキャンパスです。
顔なし主人公とかそれこそ90年代とかの古いギャルゲだけだろう。名前を自由に設定できるやつな。
美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンは、イタリアのルネサンスの絵画と建築に具体化された古典的な美の概念について考察している。
イタリア ルネッサンスの中心的な考え方は、完璧なバランスです。この時代は、建物と同様に人間の姿においても、それ自体の中に静止している完璧なイメージを達成しようと努めました。あらゆる形態は自己存在する存在へと発展し、全体が自由に調整され、独立して生きている部分にすぎません…。古典的な作曲のシステムでは、個々の部分は、たとえ全体にしっかりと根付いていても、一定の独立性を維持します。それは原始芸術の無政府状態ではありません。部分は全体によって条件づけられていますが、それでもそれ自身の命を持つことをやめません。観客にとって、それは分節、つまり部分から部分への進行を前提としており、それは全体としての知覚とは非常に異なる操作です。
古典的な概念では、美しさは、比例、調和、対称性、および同様の概念に従って、統合された部分を配置して一貫した全体を形成することで構成される。
これは西洋の原始的な美の概念であり、古典および新古典の建築、彫刻、文学、音楽のどこにでも体現されている。
アリストテレスは『詩学』の中で、「生き物、そして部分から構成されるすべての全体が美しくあるためには、部分の配置に一定の秩序がなければなりません」(アリストテレス、第 2 巻)と述べている。
そして形而上学では、「美の主な形式は秩序、対称性、明確性であり、数学科学は特別な程度でそれを実証しています。」(アリストテレス、第 2 巻)
アリストテレスが示唆しているように、この見方は黄金分割などの数式に要約されることもあるが、それほど厳密に考える必要はない。
この概念は、とりわけユークリッド原論などの文書やパルテノン神殿などの建築作品に例示されており、また彫刻家ポリクレイトス (紀元前 5 世紀後半から 4 世紀初頭) の正典によって例示されている。
カノンは、完璧なプロポーションを示すように設計された彫像であるだけでなく、今では失われた美に関する論文でもあった。
医師ガレノスは、この文章の特徴として、たとえば、「指と指、すべての指と中手骨、手首、そしてこれらすべてと前腕、および前腕と腕」の比率を指定していると説明している。
その論文で身体のすべての対称性を私たちに教えてくれたポリュクレイトスは、その論文に従って人間の像を作り、論文と同様にその像自体を正典と呼んだ作品でその論文を裏付けた。
古典的なテキストにおける「対称性」の概念は、双方向の鏡像関係を示すために現在使用されているものとは異なり、より豊かであることに注意することが重要。
それはまた、古典的な意味で美しい、物体の特徴である部分間の調和の取れた測定可能な比率の一種にも正確に言及しており、道徳的な重みも担っている。
たとえば、『ソフィスト』 では、プラトンは高潔な魂を対称的であると説明している。
古代ローマの建築家ウィトルウィウスは、その複雑さと、適切であるがその根底にある統一性の両方において、中心的かつ非常に影響力のある定式化における古典的な概念を体現している。
建築は、ギリシャ語でタクシーと呼ばれる秩序と、ギリシャ人がディアテシスと呼ぶ配置、そしてギリシャ人がエコノミアと呼ぶ比例と対称、装飾と配分から構成されます。
秩序とは、作品の細部を個別にバランスよく調整し、全体としては対称的な結果を目指して比率を配置することです。
プロポーションは、優雅な外観、つまり文脈の中で詳細が適切に表示されることを意味します。これは、作品の細部がその幅に適した高さ、その長さに適した幅である場合に達成されます。一言で言えば、すべてが対称的な対応関係を持っているときです。
シンメトリーは、作品自体の細部から生じる適切な調和でもあります。つまり、与えられた各細部が全体としてのデザインの形に対応することです。人間の身体と同様に、キュービット、足、手のひら、インチ、その他の小さな部分から、リトミーの対称的な性質が生まれます。
アクィナスは、典型的なアリストテレスの多元主義的な定式化で次のように述べている。「第一に、誠実さ、あるいは完璧さです。何かが損なわれていると、それは醜いからです。次に、適切な比例または調和があります。そして明晰さもあります。明るい色のものが美しいと呼ばれるのは、このためです。」(『神学教典I』)
18 世紀のフランシス・ハッチソンは、この見解を最も明確に表現していると思われることを次のように述べている。
「したがって、体の均一性が等しい場合、美しさは多様性と同じです。そして多様性が等しい場合、美しさは均一性と同じです。」 (Hutcheson)。
ハッチソンは続けて、最も美しい対象として数式、特にユークリッドの命題を挙げる一方で、次のような普遍的な物理法則によってその根底にある巨大な複雑性を持つ自然を熱狂的に賞賛している。
「美しさはある、と彼は言います。アイザック・ニュートン卿の計画における重力がそれである」(Hutcheson)
美とは部分間の特定の比率の問題であり、したがって古典的な概念に対する一連の非常に説得力のある反論と反例が、エドマンド・バークの著書「私たちのアイデアの起源についての哲学的調査」で与えられている。
植物界に目を向けると、そこには花ほど美しいものはありません。しかし、花にはあらゆる種類の形とあらゆる種類の性質があります。それらは無限に多様な形に加工されます。 …バラは大きな花ですが、小さな低木の上に生えています。リンゴの花はとても小さいですが、大きな木の上に生えています。しかし、バラもリンゴの花もどちらも美しいです。 … 白鳥は、自白すると美しい鳥で、首は体の他の部分よりも長く、尾は非常に短いです。これは美しいプロポーションですか?私たちはそれが事実であることを認めなければなりません。しかし、首が比較的短く、尾が首と体の残りの部分よりも長いクジャクについてはどう言うでしょうか。 …人間の身体には、相互に一定の比率を保っていることが観察される部分がいくつかあります。しかし、美しさの効果的な原因がこれらにあることを証明する前に、これらが正確に見出されればどこでも、それらが属する人は美しいということを示さなければなりません。 …私としては、これらの比率の多くを非常に注意深く検討したことが何度かあり、多くの主題においてそれらが非常に近い、あるいはまったく同じに保たれていることがわかりました。それらは互いに大きく異なるだけでなく、一方が非常に美しい場合には、 、そしてもう1つは美しさから非常に遠いです。 …人体のあらゆる部分に好きな比率を割り当てることができます。そして私は、画家がそれらすべてを観察し、それにもかかわらず、もし望むなら、非常に醜い人物を描くことを約束します。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4752198473835976704/comment/Knoa
偽札防止の新技術に対応できないのは甘受するとして、新札には読み取り機の後方互換性くらい義務付けてもいいんじゃないか?毎回読み取り機側の特需を経済効果に加算して推進するの悪辣過ぎでしょ。
説明しよう!
まずここで述べている後方互換性というのは、たとえば
こういう仕様にしておいて、スーパーセキュリティチップVer.1にしか対応していない古い券売機でも、スーパーセキュリティチップVer.1だけしかチェックできないものの、新しい1万円札Ver.2もいちおう扱えるという意味だ。一般的な「後方互換性」は「新型機械が古いメディアにも対応する」という意味だが、それとは概念が真逆で、ここでは「新しいメディアが旧型機械にも対応する」という意味だ。この点が誤解を招いたとしたら申し訳ない。
追記: よく考えたら、「ホログラム無しの福沢諭吉から、ホログラムありの福沢諭吉へ(2004年)」って、実質的にここで言う後方互換性を維持した更新だったのでは。あの時は、1000円や5000円は肖像ごと変更になったんで券売機の問題は結局存在していたと思うけど、1000円や5000円もホログラム追加だけに留めておけば、多くの券売機は2004年の刷新を生きのびていたのではないかな。
もちろん、スーパーセキュリティチップなんて仕組みに頼らずとも、もっと簡単な工夫があるかもしれない。あくまで一例だ。それと、旧機械による新札の読み取りを妨げない限り、人間が見分けるための新しい工夫は、いくら追加してくれていてもかまわない。
また、背景にある大きな考えは「新札のたびに機械を入れ替えるなんて、経済資源の無駄遣いだ」と、「それを経済効果としてプラス面だけアピールするのは悪辣だ」という2点である。そういう意味では、たとえば安価なモジュール交換だけで新札対応が済む世の中になるなら、それも好ましい。(既にそうなってるとするブコメもあるのでそれはそうなんだろう。かといって、記事のように高く付く理由もそれなりにあるんだろう(善意の解釈主義)。また、何年も前から予告されていたことだろううんぬんの話も、結局のところ経済資源の無駄遣いの話が前提になる。「いまさら慌てふためく」のがけしからんという話は理解できるが、そもそも機械の入れ替えに無駄な部分があり、もっと効率化できないかという話は、モジュール交換の効率性に置き換えてもらえればわかりやすいが、恒久的に訴え続けてもよいだろう)
ところで、「偽札防止」の観点から後方互換性に懐疑的な意見のブコメもあるが、現状はどうなっているか、もう一度考えてみてほしい。
スーパーセキュリティチップでも、ホログラムでも、透かしでも、なんでもよいのだが、新技術による偽札防止が効果を発揮するのは、あくまで「この券売機は旧紙幣には対応しません」が許されるようになった後の話。当面は、旧札もほとんどの場面で使える。券売機メーカーも、新札発行後にすぐ「旧札に対応した券売機はもう売りません」なんてことにはならない。
もちろん、新札への対応準備は完璧で、券売機も刷新しているだろう。しかし、みすみす旧札のお客さんを切り捨てたくはないので、当面は、旧札にも新札にも対応していくはずだ。じゃあ旧札への対応をやめるのはいつか?それは多くの場合、新規に導入する券売機の最新機種が旧札に非対応になったころだろう。それ以外に旧札を切り捨てる動機と言えば、偽札が横行して、その企業自身が経済合理性に基づいて「旧札対応より偽札被害のほうが大きい」と感じたときだ。(そんな事態が既に起きていて、実はラーメン店も既に相応の被害を出している、という話は聞いたことがない)
スーパーセキュリティチップVer.1しかチェックしない旧券売機さえ騙せればよいので、新しい1万円札Ver.2が流通するようになってからも、「スーパーセキュリティチップVer.1を埋め込んだ、1万円札Ver.1そっくりな偽札」を製造しまくることだろう。
しかし先も述べたように、その偽札は、結局のところ、世の中の券売機が旧札への対応を続ける限り、後方互換性が実現しようがしていまいが、使えてしまうのである。
後方互換性なんて実現してない、現実のこの世の中でも、いまあなたが持っている福沢諭吉の1万円札は、来年も再来年も、新札と旧札の両方に対応した最新型を含む多くの券売機で、使い続けることができるだろう。いまあなたが持っている福沢諭吉の1万円札が、精巧に作られた偽札だったとしても、だ!
ちなみに、ラーメン店に限れば、1000円札にしか対応しない券売機も多く、偽造側の効率面から言っても、現実的な偽札リスクはもともと小さいと言えるだろう。その上で仮に将来500円玉のように偽物が横行すれば(500円玉は韓国ウォンとサイズが一致しただけで、偽造効率の話ではないが)、その時は各企業の判断で「旧札対応より偽札被害のほうが大きい」と感じたときに、しぶしぶ券売機を刷新すればよいのだ。
しかしまあ、こんな心配をするのも、現金がたくさん流通している今だからこそで、次の新札や、そのまた次あたりには、どうでもいい話になっているのかもしれない。
後方互換は世の中の様々な券売機が紙幣のどこを見て判断しているかを把握して網羅的に対応することが求められると思うが、突き詰めると今と同じ紙幣が完成しそうな予感がする。
そう。なので、現実的には「次回の新札から、後方互換性を想定した仕様にします(読み取り機のチェック項目の仕様策定)」という区切りが必要だと思う。その点でもますます、近い将来には「どうでもいい話」になりがちではある。「もっと早くから取り組んでいれば…?」という話でもある。
または、今が過渡期だという前提なら、「今後は現行の福沢諭吉をベースに、追加要素を入れていくだけ」でよかったかもしれない。渋沢栄一を起点にしてもいいけど。んで、お札の人物画像を読み取ってるような古めかしい券売機がほぼ全滅してしまえば、また人物の入れ替えも再開できるだろう。
こんなんもはや信じる意味が無い
以下、現時点での最新の説
・筋トレの頻度は高いほど筋肥大の効果が高い。毎日やるのが最高。
・筋トレでオーバートレーニングになることはほとんどない。
・筋肉痛は筋肉の損傷とは関係ない。筋肉痛があっても筋トレをした方がいい。
・筋トレを長期間続けて疲れがたまっていると感じるのは、飽きた、やる気がなくなったなどの精神的な理由。
・高負荷低回数の筋トレより低負荷高回数の筋トレの方が筋肥大する。
・筋トレ後30分以内にたんぱく質を摂取しても、ほかのタイミングで摂取する場合と比べて効果は変わらない。
・まとめて食事を摂取しても小分けにして摂取しても筋肥大に差はない。
・たんぱく質と炭水化物を同時に摂取しても、たんぱく質だけ摂取する場合と比べて筋肉の合成に差はない。
共同親権で効果が無いなら無いですぐに第二段が来るから安心しろ。
https://twitter.com/mizuho_ishin/status/1780382119484944654
梅村みずほ 【STOP!児童虐待】日本維新の会 参議院議員 大阪府選挙区
@mizuho_ishin
米国連邦議会議員は今国会で成立するであろう日本式共同親権によってもなお、米国の子どもたちが戻って来ないと気付いている。連れ去りは外交問題です。
〝スミス議員は、ゴールドマン法は他国からの米国市民の子供たちの返還に役立っているが、「日本は目立った返還を支援していない」と記している〟
GOP lawmaker demands action from Japan PM on key issue impacting hundreds of US children abroad https://trib.al/6OiX6jz
いや一応、一応というかすごく正式なものとしてタイマッサージの一種にジャップカサイと呼ばれるものがあって
日本にもちゃんとその資格取って睾丸マッサージ店をやっている健全なお店はそこそこあるんですよね。
その中の一つの話。
ただし店選びしてるとわかるけど、だいたいがメンエスの延長みたいなもんだし、あるいは露骨にホモが経営してる店。
その中でも本格的な店を選んだつもり。
インポを改善したくてそこに金玉マッサージ受けに行ったし、そこの店のSNSも精力増強を謳っていた。
でも3回施術受けたけど、俺のインポ改善にはまったく効果が無かったな。
改めてその店のSNSが取り上げてる体験コメントとか読むと、施術中の勃起描写が多いんだよね。
勘のいい俺は理解ってしまったけど、これは勃起チンポを施術者である女性に見せつけるヌキなし風俗なんだなと理解した。
https://www.bbc.com/japanese/articles/c9rzgexn444o
キャス医師はBBCのラジオ番組で、現場の臨床医たちはジェンダー関連治療について「ガイダンスも科学的証拠も訓練もない」状態にあることを懸念していると語った。さらに、ジェンダーにまつわる「有害な」議論が、専門家によるオープンな議論を妨げていると指摘した。
NHSではこれまで、子供や若者のジェンダー治療を取り扱う唯一の専門機関として、「性自認・発達サービス(GIDS)」をイングランドとウェールズで運営していた。
しかし2020年、NHSから独立した病院監査・評価機関から「不適格」と格付けされ、GIDSは2024年3月に閉鎖された。
NHSの検証では、こうした治療が「安全で効果的」だと証明する十分な証拠がないことが判明した。
イギリスの平等人権委員会(EHRC)は、平等法における「性別」の定義を「生物学的性別」に改正することを検討すべきと助言している。
トランスジェンダリズムの終りやね~
心拍数を一定にするのはインデラルの効能としてエビデンスがある。
んで自分の場合は緊張する場面で心拍数があがりマラソン後のような呼吸困難のようになって声が出なくなる(震える)
なのでプラセボではなく効果がある。声が震える原因を物理で止めてる感じ。
インデラルは不安を消す薬ではない。
気持ちを明るくしてはくれないよ。それは知ってる。
旅行で沖縄に来たので、沖縄特有の不思議体験とかしてみたいな〜などと思っていたら、レイキとマッサージが90分6,000円という店を紹介されたので行ってみた。
レイキとはヒーリング的な何からしい。宇宙のエネルギーがなんちゃら??増田もあまり分かっていない。
でも郷に入っては郷に従えというか、旅の恥はかき捨てというか、普段マリファナなんてやらないけど合法の国に行ったら試しに1回やってみるタイプというか、まあとにかく旅行中は多少ハメを外した方が楽しめると思っている人間なので、普段だったら絶対行かないその店に行ってみた。ま、普通のマッサージだとしても全然安いしね。
施術してくれるのも普通のおばちゃん。最初にレイキ、後半からマッサージだそう。施術中は特に会話はなし。言われるがままベッドに横になりレイキとやら開始。
触れられてる手がやたら熱い。
頭部に触れられた時、なぜか強烈に悲しい気持ちになって涙が溢れる。(レイキ中に溢れた感情は我慢しちゃいけないそうなの素直に涙を垂れ流す。増田は泣くタイプだったけど中には叫ぶタイプの人もいるらしい。興味深い)
胸部に触れられた時、ただ手が当たってるだけなのに潰される?!ってくらいものすごい圧迫感を感じた。本当に息が苦しくなった。(普段抑圧されてるとそう感じることもあるらしい)
気付いたら寝てた。(いつもはマッサージ中寝ないんだけどな)
後半、マッサージになった後は手の熱さは感じない。
さっきまでの暴力的な悲しさも当然ない。
胸部をマッサージされてもさっきのような圧迫感は感じない。明らかにさっきより押されてるのに。
いつもマッサージ受けてる時と同様、痛気持ちいいけど眠くはならない。
ヘッドマッサージもあったから、単にマッサージ効果で血流良くなっただけかもだけど。
レイキとやらのことなんぞ信じてないけど、確かに不思議な感覚はあったんだよな。
少なくとも6,000円の価値はあった。
別に宣伝する気もないし、地元帰ってからレイキ屋さん?に行くこともないだろうけど、旅らしい非日常体験が出来て個人的には満足です◎