はてなキーワード: 力学とは
という意見に対して、はてなブックマーカーは批判的にとらえ、
大阪なおみの参加こそが多様性があってすばらしいことだという評価が強い。
私はこれを政治が開会式の演出に介入した事例だと考えるのだが、
これが素晴らしいことならば森元や小池百合子の介入も許容しなければならないだろう。
百合子の支援団体の江戸消防記念会を参加させろと要望出してきて、
演出路線に沿わないMIKIKOを電通が排除して言うこと聞く演出家を据えた、
みたいなことが今年の前半に行われましたって書いてあります。実現しちゃったね…
— フタガワカサラ (@FutagawaKasara) July 23, 2021
どちらも政治的な力学で決まったことだ。これらこそがポリティカル・コレクトネスだ。
要するにはてなブックマーカーがいろいろ文句言ってるけど
彼らが開会式演出考えても政治的内紛の末に同じようにグダグダの開会式にしかならないよ。
あーあほくさ。
演出的な美しさがどうかなんてどうでもよくて、政治的な象徴性の方がみんな大事なんだろ?
重視してたらユダヤ人権団体と交渉して演出家解任は開会式終わってからにしようとするだろ。
いいや違うか、
ビジョンを持って全体を統括する演出家なんてものものは存在しなかったということか。
美形で、金持ちで、運動ができて、コミュ力が高く、権力を持ってて、センスがいいみたいな
そういう一部の人気者が子孫を反映させていく
これって当たり前だよな
淘汰という仕組みがあるんだから
多夫多妻制とかなら変化は速いだろうし、ほとんどが結婚してた昭和時代とかなら変化は遅いように思える
本来淘汰されるような人が強権を持ったら変化が遅いかもしれない
どうであれ二極化する仕組みはある
頭が良いと金持ちになって、美形のパートナーをもらい、子孫を増やす
当たり前のこと
美形なやつは性格もいいし頭もいいし金持ち、というケースが増えていくのが当然
でも世界はそれに抗いたい人らがたくさんいる
いや抗いたいのは良い、より悪いのはその二極化するという力学を信じたくない人らだ
そこがどうも納得できない
世の中は確実に平等じゃない
努力することはできるけど、皆が普通に努力してる状況では差が付きづらいし、何なら努力するのも才能の一つだし
あくまで「世界は不平等だよ?」ってところをスタートに物事を考えたいのにそうなっていない
何か知らんが二物も三物も持った人の存在を認めたくないらしい
それで努力してのし上がってみたら、その先に現れるのはスーパーマンたちだ
その絶望感はすごい
この件でひろゆきを叩いている人たちの傾向というのは明らかだよね。
まず、知識や学問に対して謙虚でない。この話を厳密に論じようと思えば、大学2年生レベルの力学とベクトル解析の知識が必要になる。私も専門家ではないので、こんな書き込み一つのためにもなるべく多方面から情報を得て、裏を取るように心がけている。たとえば、質点が剛体になれば考慮しなければいけない条件は変わるし、天体の運動に関しても自転や公転を考慮すれば結果が変わることはあるからだ。ひろゆきを叩いている人たちは、「この程度のことは知っている」と高をくくっており、そういう態度が全く見られない。
そして、わざとなのか無意識なのかは知らんが、やたらと詭弁を使いたがるということ。たとえば、「重力が0」という言葉についても、自分が使うときは「実用上影響がないから無視する」という意味で使うのに、相手が使ったときは「理論的にも0になる」「重力自体が存在しなくなる」などの意味にすり替える。
こういう人たちとは会話できないよね。
まず断っておきます。私はひろゆきの元の発言を知りません。面倒臭いので調べる気もありません。以下の文章は、ネットで見聞きした情報を元に「恐らくこういうことを言ったんだろうな」という想像で書いています。
ひろゆきが、宇宙行ったら位置エネルギーが無いみたいな発言して、なんかネットの面倒くさい自称理系知識人たちに噛み付かれてる。こういう連中って、小学校のテストで掛け算の順序逆にしたらバツになったみたいなくだらないことで、毎年のように腹を立ててる人たちなんだろうな。まあ、こいつらには影響力無いから無視すりゃいいんだけど、今回は俺が個人的にこいつら馬鹿だなあって思ったので、それを書く。
そもそも、今回のひろゆき発言は何が問題なのかが分からん。だって、ひろゆきが言ってることは間違っていないからだ。ひろゆきの主張をまとめるとこうなる。
これはまさに、普通の流儀で書かれたすべての力学の教科書における位置エネルギーの定義そのものである。だから、ひろゆきの主張は結果的には「教科書に載ってる正確な定義に基づいて授業しろ」と言っているに過ぎない。これに噛み付いてる奴は、
のどちらかだ。もしかしたら上記の位置エネルギーの定義よりも厳密で理論的に洗練されたものがあるのかも知れないが、私は物理学科出身ではないので知らない。いずれにせよ、中学や高校の理科には関係無い話だ。
このひろゆき発言を叩いてる連中は、他人を叩いてるつもりが自分の無知を晒している。だから、馬鹿だなあって思うわけだ。
まあ、こういう人たちって、相手が嫌いな奴ならどんなに不合理な理屈を捏ねてでも叩いてやろうって連中なんだよね。だから、議論するだけ無駄なんだろうな。
自分自身のために研究を行なっているのなら、そしてなおかつ給与が欲しいのなら、給与が貰えるところに行けばいいのでは?
べつに日本にしがみつく必要ないでしょう。国士様かな?たとえ国士様でも海外でキャリア積んでから日本に帰って来れば良いのでは?
他人のために、ましてや国(日本)のために、自分自身の人生があるわけじゃないでしょう
もっとも海外なら、必ずしも日本より貰えるとかないですし、たとえ貰えたとしても物価の差分で日本と変わらない・以下とかありそうですけど
ただ明日を未来を掴み取ろうという野心あふれる移民で溢れている国々は、日本と違って競争も苛烈なので、
日本よりは謎の力学や年功序列がなく、日本よりは実力が給与に反映されやすいのでは?
ツール・ド・フランスに関する増田を書いたところ興味を示された方が少しおられましたので、私が考えるツール・ド・フランスの楽しさを少しずつご紹介できればと思います。うまく伝わるとよいのですが。
なお、私なんかの雑な解説よりもはるかにキチンと書かれた解説文献がネット上にはごろごろあります。内容が少し古いのですが JSPORTS の「ツール・ド・フランスを知るための100の入り口:Vive le Tour!」などがオススメです。
https://www.jsports.co.jp/cycle/tour/tour_100/
100年以上の歴史を持つ、世界最大の自転車ロードレースです。町から町、村から村へと移動しながら3週間かけてフランスを一周するというコンセプトの催しです。tour は英語のツアーではなくフランス語の「一周」。定冠詞をつけて le Tour と言えばフランスではツール・ド・フランスを指します。たぶん。
「だんじり祭りのようなもの」という対比が腑に落ちると支持を集めていましたが、さりとて完全に形式的な行事というわけでもなく、UCI(国際自転車競技連合)では最上位の格式を与えられたれっきとした国際競技です。勝者には多くのポイントが与えられ、テニスやスキーのようにランキングされます。
お祭りムードなのはツールの規模や歴史がそうさせているのであって、観客にとってはお祭りだけれど選手たちにとっては重要な(そして最も栄誉のある)国際試合です。
全世界に配信されるツールの中継は観光立国フランスの観光案内の側面も持ちます。
選手たちの熱戦のあいまあいまに風光明媚なフランス国土の景観、雄大なアルプスやピレネーの大自然、中世のたたずまいをそのまま残す町並み、古い城塞や寺院等の生映像がこれでもかと挿入されます。レースの流れはいまいちわからないという人でも、数機の空撮ヘリを駆使して送られてくるそうした風景を眺めているだけでもまったく飽きさせることがありません。
自転車ロードレースには、一日で終了する単発の「ワンデーレース」と、数日かけて開催される「ステージレース」があります。
ツール・ド・フランスに代表されるステージレースは一日一日のレースが独立したひとつのレースで、その都度優勝者がひとりいます(これをステージ優勝といいます)。が、それとは別に、すべてのステージを通して通算ゴールタイムが最も短かった人が総合優勝となり、基本的にはこの総合優勝がそのレースでもっとも名誉のある成績となります。
ツール・ド・フランスはステージレースの中でも最長のもので、途中で2度の休養日を挟みつつ全21ステージを戦います。
勘のいい方なら、ステージ優勝と総合優勝はそれぞれ個別に狙うことができることにお気づきでしょう。
その通り、総合優勝を狙うほどの実力がない選手でもステージ優勝は狙えるし、逆に、大会の最後まで通算トップタイムを維持できれば、必ずしもステージ優勝を獲らなくても総合優勝することができます。
このように、同じひとつのレースを走っているように見えても「ステージ優勝したい選手」と「総合優勝したい選手」とが入り混じって走っていて、それぞれの思惑、それぞれの戦略、それぞれに警戒すべき競争相手がいるという重層構造がステージレースにはあるのです。
総合優勝、ステージ優勝のほかに、ツール・ド・フランスには「ポイント賞」や「山岳賞」といった名誉も同時進行します。
毎日のコースにはそれぞれチェックポイントが設定されていて、そこを上位で通過すると通過順に応じた点数が与えられます。
ポイント賞はスプリンター(短距離を全力疾走する力にすぐれた人)のための賞で、ステージ中間の平地や、平坦なステージのゴール地点に点数が設定されています。
山岳賞はその名の通りクライマー(山登りが得意な人)向けの賞で、上り坂のしんどさに応じて点数が設定されています。
これらの各賞争いのゆくえもレースの進行に奥行きを与える要素となっています。
ツール・ド・フランスには総勢184名の選手がエントリーしていますが、マラソンなどのように「個人参加が184名」ではなく、「8名チームが23組」です。
23のチームは
「ウチはめっちゃ強い選手がひとりおるけん、こいつを総合優勝させたるんや」
「ウチは総合優勝を狙えるような選手はおらんけど、ステージ優勝をいくつかカッさらうつもりやで」
といったように、それぞれに異なる思惑を持って大会に参加しています。こうした目的意識の違いから、あるステージでは空気のようにおとなしくしていたチームが別のステージでは突然はりきりだす、といったことがあります。
このように、どのチームも「ある選手を勝たせる」ことを目標としてチームを作り、作戦を練っています。8人で参加していても、ステージ優勝も総合優勝もワクはどっちみち1人なので、たった1つのそのワクをチーム員8人に互いに競争させて争わせるよりも、かつぐ1人を決めて残りの7人でその選手をバックアップしたほうが勝率は上がりますよね。
かつぐ選手をエースといい、バックアップする選手たちをアシストと言います。
エース格の選手はふだんはアシストたちから様々なサポートを受けながら自分のポジションを守り、ここぞと言う時にその実力でライバルと勝負をします。
アシスト格の選手は自分の体力やタイムと引き換えに(いわば捨て駒として)エースをサポートしつつ、出番がなければ体力を温存したり、エースの出番がないステージならステージ優勝を狙って名前を売ったり、というスタンスでレースに参加しています。
マラソンなどと違い、自転車ロードレースは集団走行をします。これは空気抵抗と大きな関係があります。
前面投影面積の自乗に比例とかそういう難しい話は省略しますが、とにかく平均時速40km/h以上という自転車のレーシングスピードにおいて、もっとも大きな走行抵抗は「空気抵抗」です。
そしてこの空気抵抗は誰かの真後ろを走ることで劇的に軽減することができます。これをスリップストリームとかドラフティングといいます。
長時間長距離となる自転車ロードレースでは、誰かが風よけとなって先頭を走り、みんなでその後ろをついていく省エネ走行をします。たまに風よけ役となる選手を交代しながら、身を寄せ合うようにして走ります。
集団の人数が多ければ多いほど、すなわち風よけ役となる交代要員の数が多ければ多いほど集団走行のメリットは大きくなるので、敵対関係にあるチーム同士でも「今は一緒に走ってたほうがトクだよね」と利害が一致することになり、敵同士なのでまるで味方同士のように全員で仲良く集団走行をすることになります。
レースの中でもっとも大きな集団をメイン集団とかプロトンと呼びます。
(7/6:今日読み返して間違いに気づきましたが「前面投影面積の自乗に比例」ではなく空気抵抗は「速度の自乗に比例」です)
平坦基調のコースでは、多くの場合「ゴールスプリント」がステージ優勝を決めることになります。瞬発力と最高速度に優れたスプリンターたちがゴール前の数百メートルをお互いに肩をぶつけながら猛ダッシュして着順を争う、とてもエキサイティングな勝負の場面です。
なので、有力なスプリンターを擁するチームの目標は「我がチームのスプリンターをゴール前まで無事に・いい位置で連れて行くこと」になります。
しかしゴールラインは200km先です。スプリンターをゴール前まで無事に連れて行くことが目標のチームばかりだと、レースは終盤近くまで非常にのんびりと穏やかな集団走行になってしまいます。
そこで、抜け駆けを狙う選手が出てきます。長距離を比較的ハイペースで走ることに秀でた選手たちがステージ優勝を狙って一発「逃げ」を打つのです。
たいていの場合逃げ集団は数名から20名ほどの小集団で、「逃げたい」という思惑の一致した色んなチームの選手から構成されます。敵対関係にあるはずの選手同士ですが、「メイン集団から逃げる」という利害関係が一致している間はお互いに協力し合って、メイン集団を突き放そうとします。
一方、メイン集団はスプリンターを勝たせたい人たちの集まりですから、彼らをまんまと逃げおおせさせるわけにはいきません。ただ、上でも書いたとおり集団は大きければ大きいほど有利です。なので、逃げ集団をいつでも捕まえられる位置に泳がせておいてほどよく追いかける、という展開になります。
なぜ逃げを許さずに早々に捕まえてしまわないかと言うと、捕まえてしまって集団がひとつにまとまってしまうと、またそこから逃げを打とうとする選手が出てきて、そのたびに追いかけたりなんだりの悶着があってペースが乱高下し、大事なスプリンターを消耗させてしまうからです。
逃げ集団は多くの場合ゴール寸前でメイン集団にとっ捕まってしまいます。これはレースの力学上しかたのないことなのですが、それでもなお逃げ屋が逃げを打つのはなぜかというと、「絶対にとっ捕まるとは限らないから」です。風向きの変化など様々な要因によってメイン集団が思うように逃げ集団との差を詰められないことがたまにあり、「確率は低いものの狙ってみる価値はある」くらいの勝機があるのです。
今日の放送時間が迫ってしまいました。とりあえずここまでで一旦投稿します。後ほど続きを書き足していきます。
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山岳ステージは峠道の上り坂をコースのメインに組み込んだステージです。1つのステージでの標高差(垂直方向への移動)が2000mから3000m以上にもなります。ツール・ド・フランスではアルプスとピレネーのふたつの山岳地帯が必ず日程に組み込まれていて、大会のハイライトとなります。
当然ながら山岳賞争いが展開しますが、同時に総合優勝候補同士のぶつかり合いになるのが山岳ステージの見どころです。
まず山岳賞を狙うクライマーたちが集団を抜け出してヒルクライム競争をします。一方、メイン集団では総合優勝を狙う選手同士がガチンコの直接対決をし始めます。先頭と後方でふたつの戦いが同時進行するような感じです。
ヒルクライムは走行速度が低くて空気抵抗があまり問題とならないため、アシストを動員した集団走行のメリットが少なく、チーム力よりも個人の登攀力が勝負の鍵になります。山登りの得意な、あるいは調子のいい総合優勝候補にとって、そうでないライバルをふるい落とすチャンスなのです。
大集団の中で体力を温存する(ある意味サボる)ことができない山岳ステージでは選手ひとりひとりのコンディションの良し悪しが表面化するというのもひとつの見どころかと思います。
書いたのはおとといなんだけど今ごろになってブクマがつき始めたぞ?
しばらくブクマもトラバもまったくなかったので投げ出しちゃったんですよね。寄せられたコメントを見る限り、現時点でも読んでくださっているのはすでにサイクルロードレースをよくご覧になっている方々ばかりのようなので、紹介記事という体裁ではありますがのんびりと書き足していきます。
しくみの項で述べたとおり、ステージレースの最終目標は総合優勝です。各ステージのゴールタイムの合計がいちばん短かった人。
総合タイムは毎ステージ加算されていきますので、第1ステージから先は常に「今のところ持ちタイムがいちばん短い暫定首位」が一人いて、この選手は真っ黄色のジャージを着て走ることになっています。いつでもどこでも、あの選手が暫定トップなのね、ということが一目瞭然です。この黄色いジャージをマイヨ・ジョーヌといい、ツール・ド・フランスはこの黄色いジャージの争奪戦と解釈することもできますね。
緒戦第1ステージをいいタイムでステージ優勝すればまずはリーダージャージを着られるので、序盤のうちは総合優勝など全然狙っていない選手が着用するなどリーダージャージのゆくえは流動的です。
ですが、レースも中盤に差しかかってくると各チームの本命選手たちが総合タイムの上位を占めるようになり、ジャージ争奪戦の様相が濃くなっていきます。
2位以下の選手はトップ選手から突き放されないように、トップの選手はライバルに出し抜かれないように、互いが互いをマークしながらレースを進めることになります。
リーダージャージを着てしまえば、あとはずっと2位の選手にぴったりくっついて走ることできればタイム差は縮まらないのでそのまま総合優勝できてしまいそうな気がしますが、これは半分正しくて半分正しくありません。
リーダージャージ防衛の基本戦略はたしかにそれなのですが、必ずしもそう簡単に事は運びません。アシストに守られながら集団のままゴールできるステージばかりではありません。大会中1~2回設定されるタイムトライアルのステージは一人ずつ走るので駆け引きの余地がありませんし、山岳ステージではアシストを使い果たした本命同士の一騎打ちや複数チームが包囲網を敷いてリーダーに波状攻撃をかけたりと、リーダージャージを奪い取るチャンスは時おり訪れます。
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中継が始まったので今日はここまで
一部のオーディオマニアは、電源タップやケーブルを「良いもの」に変えると音質が向上すると信じている。
常識で考えて、そんなわけはないのだが、なぜ彼らはそんな荒唐無稽な妄想を抱いてしまうのか。(たとえばケーブルによって変わる電気的な特性は、導線の抵抗値くらいしかないが、それは部屋の温度が数度変わるのと同じ程度の影響しかない)
ここでは、そんな彼らの多くが共通して信じている理論の紹介と、なぜ人はそういうニセ科学を信じてしまうのかについて説明する。
オーディオに関する非科学を信じる人の多くが共通して持っている考えは、電気には「きれいな電気」と「そうでない電気」があるというものだ。これはちょうど、飲料水に「きれいな水」と「そうでない水」があり、きれいな水を飲むと健康に良いと言うようなものだ。電気の場合は当然、「きれいな電気」で駆動したスピーカーからは「良い音」が発せられると彼らは主張する。
彼らによれば、家庭用の電源や大衆向けオーディオ機器に流れる電気は「きれいな電気」ではない。それをオーディオマニア向けの高額製品を使って変換したり、「不純物」の少ないケーブルを通すことで、スピーカーに「きれいな電気」が流れるらしい。
この理論の秀逸なところは、その単純さにある。本来、音質を決定づける要因は無数にあり、それらは複雑に影響しあっている。それらをすべて把握することは容易ではない。しかし、「きれいな電気理論」なら、
「高額オーディオ製品を通す→きれいな電気が流れる→音質がよくなる」
となり、単純明快だ。水質と健康のアナロジーで理解しやすいのもポイントだ。
オーディオオカルトに限らず、多くのニセ科学に共通するのが、問題を過度に単純化して説明を試みる点だ。マイナスイオンは身体に良くてプラスイオンは身体に悪いし、血液型性格判断診断なら人間の性格は4種類に分類できるし、波動測定装置を使えばあらゆる食品が身体にいいかどうかたった1つの指標で判定可能だ。
もちろん、「問題を単純化して説明する」というアプローチ自体は間違っていない。たとえば、力学で摩擦や空気抵抗が非常に小さいならば、それらは無いものとして考える。疑似科学の問題は、その理論を立証する過程で実験者の主観を排除するしくみが備わっていなかったり、そもそも理論中の概念が適切に定義されていなかったりする点だ。オーディオの場合で言えば、音質の評価は聴者の主観や対象製品への先入観に大きく依存するし、そもそも「よい音」とか「きれいな電気」の実態も正確に定義されていない。
だから、この種の「きれいな電気を流せば音質がよくなる論」は疑似科学である。
なぜ、オーディオマニアはこのような疑似科学を信じるのか?結局、人は安易な理屈がつけられるものを信じるということだ。オーディオ機器の内部構造やそれらの音質に与える影響を正確に理解するには、どうしたって大学レベルの物理や工学の知識が要る。一方、オーディオマニアの理論なら
これだけの理解で済む。一部の人達にとっては、小難しい数式を出されるよりも、こちらの方が説得力があるのだろう。
ただ、事実はこの説明の通りにはなっていない。ケーブルや電源タップの変化をブラインドテストで聴き分けられた人は、この世に存在しない。結論としては、音質の向上を期待してそんなところに金をかけるのは、馬鹿げていると言える。
https://anond.hatelabo.jp/20210621222603
ついにきたな、と感じました。
ワイドショーで推し活というワードが聞かれるようになってしまった昨今、ようやくアンチ推し活の声があがりはじめた。
あ、自分はクリエイターサイドの、推される側の人間です。詳細は書きません。特定されやすいので。
実は、推し文化を見直して欲しいな、と思っとります。ので、便乗します。
推し活には、資本主義社会化とSNS時代における正当な活動という空気感があります。
つまるところ、
【推しを応援する→推しが儲かる→推しが更に活動できる→自分が満足できる】
1人でコンテンツを支える、少人数でコンテンツを支えるということが不可能なのです。
まあ、現代のコンテンツというのは何かと生産するのにコストがかかりますからね。
つまり、上の流れは実は成立しないのです。億万長者でもなければ、1人の消費など、焼石に水をかけているだけですね。
ユーザー1人1人が、なんと広告塔になれると。個人が宣伝を行うことが可能になった。
つまり、推し活をすることよって口コミ効果が起きると。そういう力学の発生を、皆様信じておられるのですね。
【推しを応援する→その声を聴いて他の人も推しを応援してくれる→推しがすごく儲かる→推しが更に活動できる→自分が満足できる】
現代人は自分個人の力がいかに無力なのかを、とても良く知っている。
その上で、一人一人がメディア機能を果たして、SNS上で、大声で推し活をすることで、より自分が満足できる環境が構築されるに違いない、と思っているわけです。
◎実はユーザー同士の口コミでコンテンツが盛り上がることはない
企業広告が嫌われ、ユーチューバーなどの個人が行う宣伝は好かれる理由がここにあります。
要するに企業の宣伝って嘘っぽいけど、個人個人が本当に好き!これはいい!というとそれっぽく感じちゃうわけですね。
そして、個人ユーザーがSNSで宣伝を行うと、素人感≒本音感のある声を溢れさせることができる。
だから、ユーザーが推し活をすることでコンテンツが元気になるんだと。そういう思考があるわけです。
ところがどっこい、効果ないです。
(実証ソースは確か海外の研究論文がダイヤモンドオンラインとかで和訳されていたはずなので探してみてください)
さてさて、所謂健全な口コミって、みなさん下記のような流れを想定されると思います。
Aさんがこれいいよ!と言い、Bさんがわかる!といい、それがCさん、Dさん…と流れていく、という形ですね。
ところが、現実は下記のような流れでコンテンツは話題になります。
【ユーザーA→ユーザーB ユーザーA→ユーザーC ユーザーA→ユーザーD】
わかるでしょうか?
つまり、大本になる発信力の強いAさんの情報が、バラバラに、それぞれに届いているのです。
宣伝能力という面で、ユーザーBさんやユーザーCさん、ユーザーDさんには価値がないということです。
Aさんは何者なのか。多くの場合はインフルエンサーと呼ばれる存在です。
もしくは、クリエイターやまとめサイトの管理人でしょうか。皆さんも心当たりがあるのではないでしょうか。
たまに、ズブの素人が下の図のユーザーAさんになることもあります。しかし、本当に稀な話です。
そして、コンスタントに下図のAさんのような立場になれるなら、自然インフルエンサーになるでしょう。
簡単に言っちゃいましょう。
『インフルエンサーでなければ宣伝をする意味は全くない』=『インフルエンサーでなければ推し活をする意味は全くない』
ということです。
つまり、ここに
【推しを応援する→その声を聴いて他の人も推しを応援してくれる→推しがすごく儲かる→推しが更に活動できる→自分が満足できる】
だって世の中のほとんどの人は、インフルエンサーじゃないんですから。
◎推され疲れ
ズブの素人だろうとなんだろうと、インフルエンサー的な力を簡単に持つ方法があるんです。
それは、悪評です。
つまり、○○はこんなひどいやつだ!と、できればソースつきで言うことですね。
その場合、どういうわけだか、非常に簡単に広まってしまうんですね。
まあ、端的に言っちゃうと、まとめサイトとかのゴシップ好きや、善意のフリをして悪評を広めるインフルエンサーが多いからなんですが。
(インフルエンサーサイドも、話の正誤を他人に預けられるというリスクヘッジができますし)
小さい声を拡声する機能は、コンテンツのクリエイターを攻撃する場合に、非常に簡単に、かつ効果的に発揮されるんですね。
ハッキリ言って、やってられないですよ。作る側としては。
だって良い声には意味がなく、悪い声は意味を持ちやすい。それが現代ですから。
良い声がいっぱいSNSに溢れている状態というのは、まあありがたいっちゃありがたいんですが、結局、その状態に持って行った時点でもうコンテンツとしては勝ってるんです。
つまり、ほぼ初動でインフルエンサー的存在が、推してくれるかどうかだけが、売上にとっては重要なのです。
多くの人に推されたから売れるのではなく、売れたから多くの人に推されるのです。
だから、その、申し訳ないのですが、人気になった後は推してくれようがくれまいが、あまり関係ないんですよね。
なのに、推してくれる人のご機嫌は常に伺わねばならない。
◎最後に
結局、グッズや商品、情報コンテンツを多数の人にお金を出して買ってもらわねば、クリエイターは生きられないのは確かなのです。
この話は、
【推しを応援する→その声を聴いて他の人も推しを応援してくれる→推しがすごく儲かる→推しが更に活動できる→自分が満足できる】という論理を否定するものです。
推し活の定義や、細かい部分でそれは違うぞ!というお話はあると思います。
同級生にベーマガとかプログラムポシェットに掲載される常連がいて、
というか、今から考えてみてもスゲー奴だよなぁ、偏差値高い高専行ったけど
そういう他人見ててスゲーなと思いつつ大学までプログラミングはやらんかった
大学入ってCをやるも何かが作れる感じではなかった
でも、描画が遅くて自分よりメガデモとか書けるような人の方がバリバリ高速なの書いてた
学部1年の頃はまだCというかまともなプログラムも書けなかったけど、
情報化じゃないから論理回路とか材料工学とか材料力学もやったけど、
建築工学の建築力学(材料力学)のモーメントとかそのまま使える
あと、大学入って実家で親が捨てようとしてたMSXを持って帰って、
MSX買ったときに親がマシン語の本とかMSXの規格のマニュアルとか買ってたので、
それを再勉強したら、子供の頃理解できなかったことが普通に理解できるようになってた
自分のMSXにはマシン語開発の簡易的な環境が入ってたのも大きい
いよいよ来週Formula-1が開幕する。
事前のテストではホンダとパートナーシップを組むレッドブルのマシンの調子が良い。
今年のFormula-1のレギュレーションの改正による空力学的な変更の要素がレッドブルのマシンにはプラスに働いたようだ。
ライバルのメルセデスチームのマシンの特徴はレーキ角と呼ばれる、
マシンの後方から前方に向けての傾斜が比較的緩やかなのが特徴だ。
対してレッドブルチームのマシンはハイレーキと言われる傾斜が急なことが特徴である。
今季のレギュレーション改正はマシンのフロア面積を縮小することにより、
ダウンフォースの削減を行い、タイヤに対するダメージとスピードの抑制を図るというものであった。
どちらに有利であるかというのは事前予測されていたものの結局走行しなくてはわからなかったのだが、
とはいえ実際にシリーズが開幕しなくては真の実力はわからない。
特に、メルセデスチームはパワーユニットの出力を抑えて走行していたのではないか?という疑問を個人的に抱いている。
いざ走り出してみたら、パワー差での文字通りの力技を発揮してくるのではないだろうか?
https://anond.hatelabo.jp/20210318185716
これを見落としててレスポンスが遅れた。
素晴らしい。あなたのことが大好きだ。
ブコメやレスで元増田を擁護してる人達の多くが、派閥的な「敵/味方」の判定をして味方側だとみなしたからか、
同人活動・二次創作を擁護する人々の一般的見解とも違ってると思う。
もう一度元のエントリをよく読んで、みなさん本当にこの増田の言い分に乗っていいのか、
改めて考えてみたほうがいいんじゃないかしらん。
"
その通りです。
私がキモオタについて語ってる部分は、彼等とスタンスの異なる他者の視座から「彼らはこう見えるよ」つってます。
(国語の点数低い馬鹿が「勝手にオタクを代表してるのがよくない」とか言っててうんざりしました)
表現の自由の本義に立てばそうなりまさーね。
一次権利者にお願いされようが何されようが二次利用は原則的に「なんでもあり」で、
いまウマ娘がそうなってないのは〈たまたま〉ウマ娘公式が面白くて人気があって
ファンに好感を持たれてるから、ファンに対して特権的な「お願い」権を持ってるんだ、
人気あるゆえの特別扱いなんだ、と言っている。ヤベーじゃん。
やべーよ?
一方で、ブコメへの追記反論の部分を見てみると、突然「土地を人に駐車場として貸す」「契約書」という例え話が出てきたりもする。つまり元増田も、心の中ではこれが権利者と利用者の関係、何かについて権利を持つ側と利用する側の関係であることは薄々理解してるんだけど、このエントリで「フェミや表現規制派は俺たちに好意的じゃないから、俺たちもお前らの『お願い』は聞いてやらん」というストーリーに沿って話を進めるために、その核心には徹底して触れないようにしてたということ。最後にポロリしちゃったけど。
あらここは残念。
あのさあ、どっちを権利者に例えてるかわかってる?
キモオタ側よ?
ほんとは書きたくなかったけどそこは注釈まで入れたのに
私がヤバイと気づいたあなたが誤読してしまったのはとても残念だ。
「オタクがウマ娘公式のお願いを聞く理由」が「権利者と利用者の力関係」にあるのはみんなわかってる
でも、この「権利を持つ側と利用する側との力関係」こそが「オタクがウマ娘公式のお願いを聞ける理由」だってことは、多くのウマ娘擁護派にとっても自明の話でしょ?
彼らの自認としてはそうなんだろうけど
彼らの行動だってよくよく見ていくとその自認と実態が違うと思うよ。
といった内容が多数ある。御説ごもっともで、自分もこのことが「お願いを聞く理由」の根本にあると思う。でも元増田は、ウマ娘コミュニティの公式への反応の根底にはこの著作者と利用者の権利関係があることを認識しつつ、あくまで「そうではないことにしたい」のね。著作物の二次利用という行為につきものの権利関係の力学をわかっていながら、あたかもそれが存在しないかように、純粋に公式とオタクの好意的な関係性にもとづいて、オタクの側が「お願い」を聞いてあげているかのように書いてる。これって、明らかに増田の自己欺瞞でしょ。
私の欺瞞とはなんでしょうか。
著作権者のお願いがあったのに二次創作やり続けた例なんかごまんとあります。
自分で意識してるかどうかは別として、彼等は自己説明ほど行儀がよいわけではない。
(または、もしかしてもしかすると、元増田は二次創作という営為に伴って同人界がず〜っと抱えてきた権利関係をめぐる緊張感や危機意識について全く理解せず、「表現の自由は全てに優越する」と考えてる、マジモンの「表現の自由戦士」だという可能性もあるけど、それはそれで皆さんお困りでしょう。)
判断がおそい。
もし元増田が「コンテンツの二次利用は権利者のお目こぼしのもとで成り立ってるグレーゾーンで、『お願い』を無視し続ければより厳しい使用規制が課せられたり、コンテンツ自体が供給されなくなっちゃう危険があるから、みんなそれを避けるために『お願い』を遵守してる。そうした権利関係のない第三者からああしろこうしろと『お願い』されるのとは状況が全く異なる。それを『態度が異なる』と笑うならどうぞご自由に」と(他の擁護派の方々と同じような)模範解答を言ってれば、多少の揶揄やあてこすりをされる余地はあっても、主張の筋道自体には文句のつけようがなかったと思う。
私は別にオタクの権利のためにモノ言ってないからそういう答弁どうでもいいんです。
なんどもそういってるよね。
そもそも私が今回興味持ったのはフェミニストの認知で、キモオタについては枝論です。
何重にも地雷を孕んだ主張をゴリ押ししている。これにウマ娘ファンのみなさんは「そうだそうだ」と乗っちゃっていいのか?という話。
ただこれじゃ当たりやじみてるのでキモオタの名誉のために言っておくと
キモオタ側っぽいidの人たちの方が「こいつなんか変だぞ」「俺たちと違うぞ」って気づいてる反応をしてる人が多かったと思う。
フェミニスト側の人は完全に私をキモオタの弁護人やキモオタの代表だと思ってる(そんなこと一度も言ってないし内容もそういうじゃないの読めばわかるのに)レスポンスばっかりで
やはり相対的に認知能力低いのはキモオタサイダーではなくフェミニストサイダーだと思いました。
単にフェミニストが嫌いな人は私に乗れても
オタクの立場や進退を考えてる人は私に乗るのを躊躇や留保してたんじゃないのかな。
後半について
あなたはやっぱり著作権が表現の自由の上位だと思ってるのでそこではっきり立場が別れる。
あなたの著作権に諂うぞ笑いたけりゃ笑えという論理は力の論理であって自由の論理とは違う。
たぶんあなたのステートメントの方がオタクに支持されるものではあると思う。
こうやって書いてみて皆さんのレスポンスを拝読して、なんだろう、
ブコメやレスで元増田を擁護してる人達の多くが、派閥的な「敵/味方」の判定をして味方側だとみなしたからか、元増田が言ってることの過激さに気づいてないように見える。元増田の主張は、おそらくウマ娘ファンの多くの認識とも、同人活動・二次創作を擁護する人々の一般的見解とも違ってると思う。もう一度元のエントリをよく読んで、みなさん本当にこの増田の言い分に乗っていいのか、改めて考えてみたほうがいいんじゃないかしらん。
元増田の主張の核となるのは:
①ウマ娘公式は好感度と信頼度が高いから、オタクもふわっとした公式のお願いに従っている
②彼らは人気者ゆえに特権的な「お願い」権がある
③人気者ゆえ多少スジの通ってない横着なお願いも聞いてもらえる
という理屈。
その「お願い」を聞くかどうかはあくまでオタク側の裁量や判断だけど、〈ウマ娘公式は〉面白いし、評判を落とす事件もなくて好感度が高いから、公式の「多少スジの通ってない、聞かなくてもいいお願い」をオタクも聞いてやっているんだ、ということ。フェミや表現規制派の「お願い」は聞かないが、ウマ娘公式の「お願い」は聞いてやる。それは〈ウマ娘公式が〉ファンに好意を持たれているからにすぎない。もしその好意が失われれば、ファンがウマ娘公式の「お願い」に付き合う義理はない、ということ。
つまり元増田は「オタクがウマ娘公式のお願いなら聞ける」理由は、権利者と利用者の権利関係を考慮しているからではなくて、権利者と対等(または優越的)な立場にある二次利用者や鑑賞者側が、あくまで「権利者への好意」にもとづいて、本当はどれだけやっても構わないことをあえて手控えているかのように語ってるわけ。具体的には:
「お願いはお願いでしかない」
「この状況下、別にウマ娘を同人誌でエロく描こうがグロく描こうが殺そうが馬刺しにして食おうがなんでもありでしょ?」
とまで言ってる。勇ましい。でもこの主張って、ウマ娘やその他の同人コンテンツのファンにとって本当に味方といえるんすかねえ。だって公式が何かポカやってファンからの「好意」が失われたら、ファンのほうも公式の「お願い」なんか無視してあらゆる毀損表現を尽くしたっていいって言ってるんだよ。一次権利者にお願いされようが何されようが二次利用は原則的に「なんでもあり」で、いまウマ娘がそうなってないのは〈たまたま〉ウマ娘公式が面白くて人気があってファンに好感を持たれてるから、ファンに対して特権的な「お願い」権を持ってるんだ、人気あるゆえの特別扱いなんだ、と言っている。ヤベーじゃん。
一方で、ブコメへの追記反論の部分を見てみると、突然「土地を人に駐車場として貸す」「契約書」という例え話が出てきたりもする。つまり元増田も、心の中ではこれが権利者と利用者の関係、何かについて権利を持つ側と利用する側の関係であることは薄々理解してるんだけど、このエントリで「フェミや表現規制派は俺たちに好意的じゃないから、俺たちもお前らの『お願い』は聞いてやらん」というストーリーに沿って話を進めるために、その核心には徹底して触れないようにしてたということ。最後にポロリしちゃったけど。
でも、この「権利を持つ側と利用する側との力関係」こそが「オタクがウマ娘公式のお願いを聞ける理由」だってことは、多くのウマ娘擁護派にとっても自明の話でしょ?
たとえば id:aa_R_waiwai さんがブコメで張ったURL http://doujinsokuhou45.com/archives/8925157.html では、元増田のエントリに対して、擁護派の多くが
「二次創作の可否は著作権法上の問題だからウマ娘だからは関係ない」
と書いてるし、元増田へのブコメでも、増田を擁護する立場から(実は擁護になってないんだけど)、
「いうこと聞かないと飯の種が奪われるか奪われないかの違い」
「権利者からの要請なんだから従うか訴えられるリスクを背負うかの2択で普通は前者を選ぶってだけの話」
「そらそうやろその気になればコンテンツ自体取り下げれる立場なんやし…」
といった内容が多数ある。御説ごもっともで、自分もこのことが「お願いを聞く理由」の根本にあると思う。でも元増田は、ウマ娘コミュニティの公式への反応の根底にはこの著作者と利用者の権利関係があることを認識しつつ、あくまで「そうではないことにしたい」のね。著作物の二次利用という行為につきものの権利関係の力学をわかっていながら、あたかもそれが存在しないかように、純粋に公式とオタクの好意的な関係性にもとづいて、オタクの側が「お願い」を聞いてあげているかのように書いてる。これって、明らかに増田の自己欺瞞でしょ。
(または、もしかしてもしかすると、元増田は二次創作という営為に伴って同人界がず〜っと抱えてきた権利関係をめぐる緊張感や危機意識について全く理解せず、「表現の自由は全てに優越する」と考えてる、マジモンの「表現の自由戦士」だという可能性もあるけど、それはそれで皆さんお困りでしょう。)
もし元増田が「コンテンツの二次利用は権利者のお目こぼしのもとで成り立ってるグレーゾーンで、『お願い』を無視し続ければより厳しい使用規制が課せられたり、コンテンツ自体が供給されなくなっちゃう危険があるから、みんなそれを避けるために『お願い』を遵守してる。そうした権利関係のない第三者からああしろこうしろと『お願い』されるのとは状況が全く異なる。それを『態度が異なる』と笑うならどうぞご自由に」と(他の擁護派の方々と同じような)模範解答を言ってれば、多少の揶揄やあてこすりをされる余地はあっても、主張の筋道自体には文句のつけようがなかったと思う。でも実際は、元増田は「二次利用はなんでもありだが、ウマ娘公式はオタクに好意を持たれているから、オタクのほうも彼らの『お願い』を聞いてやってる。でもフェミニストや表現規制派はオタクに好意を持っていないし持たれてもいないから、オタクにも彼らの『お願い』を聞く義理はない」という、何重にも地雷を孕んだ主張をゴリ押ししている。これにウマ娘ファンのみなさんは「そうだそうだ」と乗っちゃっていいのか?という話。
自分は、著作物に対する著作者の諸権利には二次利用者の表現の自由に優越する要素が確実にあると思う。だから、著作権を持つコンテンツホルダーに対して二次利用者が配慮を示すこと自体は、何らおかしなことじゃない。「コンテンツに対する権利を持ってる人達がガチで怒ったらどうなるかわからないから、謙抑的にやりましょう」というのは二次利用者としてごく常識的な判断だし、自分だって似た状況が発生したらフツーに相手の「お願い」に従うし、何ならゴロニャンする。日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい。
それはコンテンツホルダーの権利との関係でそうするのが当然だと思うからで、間違っても「あいつらのお願いに従うかどうかはこちらの腹ひとつだが(何だったらエロく描いたりグロく描いたり○したり馬刺しにして食うこともできるんだが)、あいつらには好感を持っているし、我々の評価を落とすような事件も起こしてないから、今はその〈お願い〉を聞いてやってるんだ。テメーらはそうじゃないだろ!」なんてことを第三者に向かって言わない。
エヴァが、おたく達へのメッセージとして結局、「普通にしてさえいればいいんだよ」ということしか言えなかったのが悲しい。そりゃ俺も、きっとほとんどの大人も、他に何も思いつかないわけで、だからこそおたくは、どうしようも無くおたくな訳だけど。
「あんまり拗らせずに、ただ普通にしていればいい。普通にしていれば、普通の力学がはたらいて、普通に周りの助けを借りて、あるべき所に収まることが出来る。心配しなくても、あなたの出番、あなたにしか出来ない仕事というものも絶対にやって来る。それも、誰の目にも、もちろん、あなたの目にも明白な形で、やって来る。」っていうメッセージは、悩み一般をテーマにした物語の結末としてはよくあるし、実際、ほとんどの”元・拗らせてた”大人は、そういう結論を通って、まともになったんだと思う。
もうそういう結論でしかエヴァを終わりに出来なかったって言うのも分かるし、庵野が新劇場版を始めた意図は全然違うところなのかもしれないけど、やっぱり26年おたくを待たせておいて、最後の最後でいつもの「納得感」をフルスクリーンで叩きつける、っていうのもどうなんだろう。
アスカのケンスケとのあれこれだって、おたくを舐めているとしか思えない。アスカがケンスケと過ごして居心地良いのは納得できるけど、ある一つの言葉がアスカを救ったような描き方をするのは辞めて欲しい。エヴァは「人を劇的に救う、核心的な一言」みたいな安いドラマのアンチテーゼではなかったのか。
安易な「この世界の片隅に」みたいな場面も、本当にエヴァでやる必要があったのか?どんな状況でもしたたかに暮らす人々の力(に触れたアヤナミ)でしか、シンジを立ち直らせることは出来なかったのか?エヴァは「人をやがて救うのは、時の流れと日々の暮らし」みたいな、安いドラマのアンチテーゼではなかったのか?
庵野、結局お前さえ結論を出せなかったせいで、おたくたちは今でも、どこで聞いてきた言葉なのだろうか、”他者の痛み”がどうだとか言ってエヴァを語っているぞ。おい見ろよ、「ガフの扉」だとか「ゴルゴダ・オブジェクト」だとかの話は凄く厳密に考察できるのに、心の問題になるといきなり、曖昧な言葉でなんとなく語ることしか出来ないおたくのありさまを。心の問題は、「絵コンテにはこう書いてある」だとか、「ウルトラマンのオマージュだ」だとか、とにかく情報を集めていけば解明できるような事じゃなく、おたく自身がその”他者の痛み”とやらにしっかり向き合って、「普通に」自分の心を見つめ直していかなければいけないのに、おたくはそれが分からないんだよ。そもそもシンジだって、そういう面倒臭い奴として描かれていたのに、結局、じゃあそんなシンジが(そしておたくが)どうすれば救われるか、庵野、お前にも、結局分からなくて、急遽シンジを一定時間黙らせて、それから別人格にシンジをやらせることにしたんだろ。それであんなに、シンジの心の動きが追えないような造りになってしまったんだろ。庵野。あんまりじゃないか、庵野。ほとんど前田真宏が作ったって言うのは本当なのか、庵野。本当にあれで、シンジをシンジのまま救うことがないままで、いいのか庵野。
ある程度おっさんになって思うんだけど、実際に「モテ-非モテ」軸で存在が測られる場って、必要以上に「男女」を意識し合う、人生の中で性欲が支配的な時期(・人種?)だけなんじゃないだろうか。
なので、「非モテの辛さは永続的なもの」と思わない方がいいんじゃないかとも思う。
仮に女性の視点を考えたとしても、子どもができた以降の視点だと「モテ-非モテ」軸以上に、「子育て・家事貢献度」軸の方が受けに対して支配的だったような気がするし。
最近飲み屋で親しくなった老若男女ごちゃまぜのグループだと、もっと楽っていうか、話が面白ければいいっていう感じだし。
別に「コミュ力が必要」っていう意味じゃなく、何がしかのこだわりとか体験談があって、それをネタに話したり、最悪相槌打てればOKな感じ。
中に「無口が取り柄」っていう人がいて、ひたすら居るだけでも受け入れられてる。
性欲枯れてる年寄りも多いから、「男女」の意識なんてほとんどないのもあるんじゃないかな。
集団ごとの「場の力学」で、「男女(性欲)」だったり「収入」だったり「学歴」だったり「運動神経」だったり「アイドルへの投資額」だったり、色んな「場の力学」があると思うけど。
昔と違って、何も自分が出くわした場の全部で勝負しなくてもいいって思えてきたかな。
たまに「出世」の場とか、すげえ嫌な場に出くわすときもある。ドロップして我慢してその場にとどまることもあるけど、確かにどこ吹く風ってするのはツラいのはツラい。
それよかそんな場自体には近づかないのが一番。君子危うきに近づかず。
自分と関係ない軸で「透明」と思われても知ったこっちゃないしね。俺アイドルに投資してねえし。
ただその中で、適齢期前後の時期を中心に「男女の場の力学」が支配的な場が多いのも事実かもしれない。
そこで張り合いたければ真向張り合うとして、そうじゃないなら今の世の中いろんな生き方があって、別に男女の場にコミットするばかりじゃないので、距離を置けるものなら距離を置くに越したことないんじゃないか。
(もし性欲に未練があれば別なのかな。その場合は張り合うしかないのかもしれない。)
もしくは「俺には別軸がある」って場を超越して飄々としてるか。ぱっと思いつくのは「笑いをとる」方面とか。
みずほ銀行は、3つの銀行が悪魔合体して生まれた銀行で、当初から「3つの銀行のシステムを温存したままやりましょう」ということになっていた。
で、なんでこの話になったのかと言うと、結局「どの銀行のアーキテクチャをベースに新アーキテクチャを構築するか」という話し合いが決着を見いだせなかったからだ。
大前健一はこのことを大批判していて「こんな事やってうまく行かないなていうことはシステム屋でなくてもわかる、いわんや大銀行の頭取をや」と結構激しい論調だった。
当然うまく行かなかったが、一度走り出したシステムは通常は直せない。特に今は銀行だけで判断することができず、金融庁に話を通さなくてはならないし、金融庁が一度Goを出した金港堂郷プロジェクトが間違ってましたとかは金融庁は絶対に同意も納得もしない。そんな顔に泥を塗られるようなことを許すわけがない。
なので、「システムの老朽化に伴い、新アーキテクチャでシステムを更改します」としか言いようがなかった。
だが、表面化はしないが今でもこの力学は働いたままだ。統合システムがどうにかできたようだが、人の気持ちは全く統合できていない。
この3つの銀行の怨霊のようなものは今も社風(行風?)にしっかりと溶け込んでいて、それぞれの銀行の縄張り争いは今も続いている。
例えば、こんなかんじだ。
旧第一勧業銀行系派閥「システムプロジェクトを始めるので、協力をお願いしたい」
旧富士銀行派閥と、旧日本銀行派閥「知りません、そっちでやってください」
旧第一勧業銀行系派閥「いやそちらのシステムにあるこの情報とあの情報が必要なんですが」
旧富士銀行派閥と、旧日本銀行派閥「そんなにどうしてもほしいなら上を通してもらえますか?」
部長級の話し合いでどのような内容の話をしているかなんか誰も知らないが、どの派閥も「どうせ無理だろうな・・・」と思いつつ部長に相談して「やっぱり派閥の壁には勝てなかったよ・・・」という茶番を誰も困らないように飾って終わる。
K部長「こういうのが下から上がってたんだけど、こういう議事録でいい?答えキマってるっしょ?」
F部長「あー、それ下から聞いてたわ。派閥の壁とか破ろうとするやつなんて評価下げとけばいいよ」
N部長「それな、とりま議事録できたら判子押すから持ってきて、答えなんか決まってんのにマジ茶番、受けるわー」