という意見に対して、はてなブックマーカーは批判的にとらえ、
大阪なおみの参加こそが多様性があってすばらしいことだという評価が強い。
私はこれを政治が開会式の演出に介入した事例だと考えるのだが、
これが素晴らしいことならば森元や小池百合子の介入も許容しなければならないだろう。
百合子の支援団体の江戸消防記念会を参加させろと要望出してきて、
演出路線に沿わないMIKIKOを電通が排除して言うこと聞く演出家を据えた、
みたいなことが今年の前半に行われましたって書いてあります。実現しちゃったね…
— フタガワカサラ (@FutagawaKasara) July 23, 2021
どちらも政治的な力学で決まったことだ。これらこそがポリティカル・コレクトネスだ。
要するにはてなブックマーカーがいろいろ文句言ってるけど
彼らが開会式演出考えても政治的内紛の末に同じようにグダグダの開会式にしかならないよ。
あーあほくさ。
演出的な美しさがどうかなんてどうでもよくて、政治的な象徴性の方がみんな大事なんだろ?
重視してたらユダヤ人権団体と交渉して演出家解任は開会式終わってからにしようとするだろ。
いいや違うか、
ビジョンを持って全体を統括する演出家なんてものものは存在しなかったということか。
もうサブカルを口にすることが恥の時代が来ているかも知れない。 昭和、平成、令和と、時代が変われば笑いも変わる。 考え方も変わる。 人も変わる。 ただ、それだ...
増田の指摘にはだいたい同感だけど、サブカル対反サブカル、サブカル対オタクみたいな党派的議論に落とし込まないほうがいいと思うなあ。
創作において捨てるという行為はどうしても発生するものだ。 つまりあらゆる社会的グループの平等に扱うという命題ととても相性が悪い。 何を選び何を捨てたか、常に政治的な目に晒...
演出的な美しさがどうかなんてどうでもよくて、政治的な象徴性の方がみんな大事なんだろ? この辺はSNSの影響強いと思う