はてなキーワード: コーランとは
いや、この言葉がポリティカリーコレクトでないことは知っているのだけど、正しい病名を存じ上げないので。
お店の近くに、後ろ姿からでもそれとわかる気違いさんが突っ立っていて、このくそ暑い日に勘弁してくれよ、と思ったことは覚えてる。
ところが私がご飯を食べ始めた頃、その気違いさんがご入店。カウンターの店員に向かって大声で絶叫しているではないか。
手に持っていたスマホでとっさに110番するべきか、それとも逃げるべきか一瞬迷った。その間にも並んでいた女の子連れは逃げ出していった。
まずは店員の反応を見ることに。すると男性店員は距離を取って即応体制を取りつつ、女性店員がなんとか対応している。一見の客ではないのかもしれない。
その後、トレーを受け取った気違いさんは席について、通常ではあり得ない音を立てながら食べ始めたのだった。騒がしかった店内は水を打ったように静まり、BGMだけが鳴り響く。
大前提として、こういった方々に差別的な視線を向けてはならないとか、むしろ優先席を譲らなければならないというのが道徳的な考え方だろう。
だが、もしこの人が包丁を持っていたとしたら? 釧路のイオンのような事件が目の前で起きようとしているかもしれない。東京だからテロが起こらないとは限らないご時世だ。コーランの暗唱でもできるようになっておくべきだろうか。
だからといって、具体的な暴力行為や器物破損は何もしていない気違いさんを「不審だから」という理由だけで通報できるものだろうか?
そんなことを考えながら、じっと身を縮めて様子をうかがっていたが、それ以上のことは何も起こらず、食事を終えたらしい気違いさんは足早に去っていった。
店内には安堵感が広がり、そのうちに経緯を知らない客が何人か入ってきて日常を取り戻した。わたしは食事どころではなく、そのまま席を立ったのだが。
やりきれない気持ちのまま店を出て歩いていると、今度は別の気違いさんが路上で叫んでいるではないか。ああ、今日は猛暑日だったな。
なにかトラブルがあったわけでもなく、誰彼構わず当たり散らしている様子。しかも有名ホテルの目と鼻の先で、家族連れや外国人観光客もたくさんいるというのに。
どうなることか遠巻きに見ていたら、ホテルの警備員が駆け寄ってきて「ご案内」となり事なきを得た。
百歩譲って公道なら、何をしようと勝手かもしれない。だがお店に入ってきて迷惑行為をするような人が、お日様の下を歩いていいのだろうか。私の700円という昼食代は、誰が補償してくれるというのだろうか。
俺の懇親の増田がスルーされまくりでブログの読者も全然増えない。
ホッテントリに入る記事と俺の力作を比べながら原因を分析するうちにある事実に気づく。
致命的かつ壊滅的に。
世間からズレている事を誇りにしているようなはぐれ者の集まりであることを誇りに思っている所からしてない。
世の中の奴は俺とは感性が違うぜと管を巻くのはセンスのない人間がやることだ。
はてなにはそういう読者しかいないし書き手も同じくクズだらけの置き去りヒツジだ。
冷静にカンがれてみればなるほど通りで俺の記事が評価されないわけである。
相手が悪すぎたのだ。
世間の常識・認識・美意識・センス尽く捨て続けてくだらん身内ネタを振り回す連中に「普通に」面白い記事が評価できるはずもなし。
せいぜい心の殻をすり抜けてきた超有名人のハロー効果にやられ嵐に揺らぐ柳の如くにただ盲目的に拝み倒すだけ。
釈迦に説法を唱えることがアホのすることなら、キリスト教徒にコーランを唱えるのは人のすることにあらず。
俺は人間だ。
お前らとは違う。
まともな奴だけを相手にするのだ。
フランスの漫画家ジョアン・スファール Joann Sfar は、シャルリー・エブドに2004年夏から2005年9月まで"Mon cahier d'éveil"(僕の情操教育ノート)という作品を連載していた。
その後、今年1月のシャルリー・エブド襲撃事件を受けて、ハフィントン・ポスト フランス版ブログに"Si Dieu existe" というイラストエッセイを発表。以下はその連載第2回、"Un concert pour Cabu"の日本語訳である。
イラスト部分は実際にハフィントン・ポスト フランス版でご覧いただきたい。
http://www.huffingtonpost.fr/joann-sfar/dessins-sfar-cabu-hommage_b_6658718.html
なお、ページ番号は連載第1回からの通し番号となっている。
これはお葬式じゃない。
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カブっていう大した奴
いま君は泣いていないけど、それは君が砂漠みたいに乾いちまったからなんだ!」
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それは本物のイスラム教じゃない。
みんなが正しい、そしてみんなが間違っている。
というのもイスラム教徒は信者をとりまとめる最高機関を持ってないからだ。イスラム教に教皇はいないんだ!
それゆえに独裁者達や過激派は、論破されることもなく、イスラム教を不当にも自分のものにすることができてしまう。
フランスでは、人道的なイスラム教徒を代表する人たちがテロリズムに対して抗議したけれど、その抗議の正当性は、世界的に認められたどれかのイスラム教の機関から来ているわけではなかった。
このところ僕は、「"イスラム教を改革する"必要があるんじゃないか」とみんなが口にするのを聞いている。
数え切れない程のイスラム教徒はいるけれど、彼らが信奉する戒律について、正当性があるのか無いのかを一刀両断で決めてしまえる「誰か」は存在しない。
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「"バチカンII”ってアラビア語でどう言えばいいんだろう?」
目下のところ、僕は神経過敏になっている。
「もうしたよ」
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僕たちがその姿を絵に描く権利があるにせよないにせよ、ムハンマドは剣を持ったただ一人の預言者だ。これは圧倒的大多数のムスリムの、寛大で平和な日々からとても隔たりがある。
逸脱した暴力は、この独特なイメージ、武器を持った神の使者のイメージの下に結集しようとしている。
そうだね、改革が必要だ。でも改革をもたらすのは誰だろう?フランスにはそのための充分な手立てがない。イスラム教を和らげるためにムスリムが声を上げるなら、その運動はペルシャ湾岸から起こらなければならないだろうし、そうすれば豊かなオイルマネーを活用できるに違いない。
もちろん、敵は原理主義者だ。そして今日、僕たちの言うことを聞いてもらうには、とてつもないイマジネーションと力強い声が必要だ。
僕はムスリムに心から敬意を表する。今日の暴力の第一の犠牲者はムスリムだ。そして、「コーランが推奨する聖戦は、何よりもまず心の中の悪魔と戦うことだと考えなければならない」と発言する勇気をムスリムは持っている。
それでも自己批判しろという声がムスリムには突きつけられている。
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僕は、夜明けの光に照らされた雨の中のカブ夫婦の姿を思い出す。シャルリー・エブドの訴訟中のことだった。最後にカブへ挨拶したのは僕の映画の撮影の直前だった。僕たちはオデオンのそばのイタリアンレストランに居合わせたのだった。
僕が最後にヴォランスキと食事をしたのは半年前、サン・ジェルマンだった。
3週間前、僕はおばと会いにリュニベルシテ通りへ行ったのだけど、その時、サン・ペール通りの角で、20メートル離れたところにヴォランスキを見た。彼は僕を見ていなかった。僕は急いでいたので、彼を抱擁しには行かなかった。
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カブを見る時はいつも連想的に、トレネの歌を聞かなければいけないぞ、と思ったものだ。僕はトレネのシャンソン全集を持っている。フレモー版だ。
「君はこんな時にも自分について話そうとしてるのか」って?
そうさ。ストレスを感じたワンコが自分のキンタマをなめて安心しようとするように、僕は自分のスタイルにしがみついて、昔の手帳に書いた話を自分に繰り返してみなければならない。そこに一つの意味を見つけるために。立っているために。僕はシャルリーをやめた。ハリケーン・カトリーナの日だ。ロマンチックで自己防衛的な理由だった。洪水に沈んだニューオーリンズ、それはもう僕にはひどすぎる出来事だった。
そして僕は私小説的なものやフィクションへ避難しようとして、時事ネタときっぱり別れようとしたが、やり損ねた。
ニューオーリンズの音楽が死んだカブのために演奏されている。それは僕の記憶を呼び起こす。僕は洪水の泥に埋まったファッツ・ドミノのピアノのことを考えている。
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「シャンソンが好きなのかカブに聞いた。カブは答えた。トレネが好きなのだと。」
カブの友人達はブラッサンスの仲間達に似ている。ヒゲを生やし、肘に革をあてたコーデュロイを着ている。もちろん、彼らは涙で目を赤くしている。彼らは反レイシストの、反狩猟の、反闘牛の、古株の活動家だ。気のいい男子たちで、勇敢な女子たちだ。移民の為に、書類の無い入国者のために、そして誰もがこの国が立派だと感じられるように、彼らはずっと暴れ回っている。
今日、僕は、このとても優しくとても過激な人たちが、警察の活動のおかげで安心させられてしまっているのを見る。
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マダム・カブは僕に語る。カブはなんでも引き受けて、絵でもポスターでも描いたし本も書いた。ある日彼が罪悪感を感じたのは、フライドポテトの移動販売のトラックの店先に絵を描く時間が無いことだったそうだ。
フレッド・マヌーキアンと楽団は続けてキャブ・キャロウェイの「ミニー・ザ・ムーチャー」を演奏する。
僕に起きる可能性のあること、僕を守ってくれるかもしれないことの中で一番美しいもの――
聴衆に挨拶するや、カブの兄弟がファンファーレを鳴らし、僕はマヌーキアンの楽団とファンファーレにサンドイッチみたいに挟まれているのに気付く。僕が描いているのは、オフィクレイドの音色が僕の真っ正面で鳴った時のエモーションだ。すまない、僕はずっと泣いている。オーケストラのおかげで泣き顔は隠れたから、僕は運が良かった。
P13. カブ Cabu(1938ー2015)、P18. ヴォランスキ Wolinski(1934-2015) いずれもシャルリー・エブド襲撃で殺害された漫画家。
シャルリー・エブドの漫画家達については鵜野孝紀氏のコラムが詳しい。http://books.shopro.co.jp/bdfile/2015/01/bd-19.html
P12.フレッド・マヌーキアン Frédéric Manoukian Big Band のリーダー。
P13.カブの兄弟 Michel Cabut氏。 https://youtu.be/ZX7rZCpl0x4?t=2m23s
P18.「僕の映画の撮影」 スファールの2本目の実写監督作"La Dame dans l'auto avec des lunettes et un fusil"と思われる。2015年夏公開。
P20.「手帳」 スファールはcarnet(手帳)というイラストエッセイのシリーズを刊行している。"Si Dieu existe"は11冊目の"carnet"となった。
P21. ジョルジュ・ブラッサンス Georges Brassens(1921-1981) フランスの歌手。https://youtu.be/84SMQ4Gyz5o
なお、このコンサートはテレビとラジオで放送され、ラジオ音源をFrance Interのサイトで聞くことができる。
http://www.franceinter.fr/emission-un-cabu-extraordinaire-soiree-speciale
安保法案をめぐるここ一連の流れは、今まで日本という国と国民が先送りしてきた諸々の問題が噴出してきた感がある。それは安全保障だけでなく、日本の行政機構の構造の問題や、ともすると太平洋戦争に至る過程・戦中の流れ・戦後の総括についての話題も含まれるようだ。
先に、これを書いている私個人の意見を述べておくと、憲法違反の疑念の問題を除けば、安保法案に消極的賛成だ。「後ろ向き」賛成ともいう。
たぶん、この3点は、程度の差があれども(で、程度の差によって意見が分かれるところだろうけど)、普通の日本国民の誰もが感じていることではないだろうか。
安保法案に憲法違反の疑念がある問題は、安保法案が主題としている安全保障とは別のところで、大問題だといえる。
乱暴に言えば、「オレオレ憲法解釈」で物事を進めてしまうことは、「オレオレ『コーランの解釈』」で物事を進めているISISと似たようなものだ(「オレオレじゃない『コーランの解釈』」=イスラム法)。ISISを非難できなくなってしまう。
本来は、安保法案を進めたいのなら、憲法を改正すべきなのだ。だが憲法改正に関しては、また別の、根の深い問題がある(後述)。
憲法違反の件を無視するなら、安保法案で示している内容には、傾聴に値するものがある。
それは「俺は殴るつもりはなかったし、むしろなだめようとしたんだけど、興奮した相手が殴りかかってきて……」というケースにどう対応するか、という問題だ。
基本的に、戦争なんて損ばかりだ。人道的にも、財政的にも、経済的にも問題がありすぎる。戦争せずに済むなら、その方がよいのは当然だ。
太平洋戦争を経て日本が学んだことは、第一に「自分から殴りかからない」ということであり、第二に「とりあえず、まずは話し合いをこころみる」ということだ。この2つをまとめると「揉め事には『大人の対応』で臨め! ガキじゃあるまいし、すぐに殴ろうとしなさんな」となる。
(まあアメリカも、「ABCD包囲網での締め上げ」とか「蒋介石にカイロ宣言で『無条件降伏』を要求させちゃった」とか、火に油を注いだところが結構あるのだが)
とはいえ、揉め事は自分だけでなく相手もいるから生じるもので、相手が最初から殴る気で仕掛けてきたら……と考えると、少なくとも護身はできないとマズイ。
この辺のバランスが、(当時の国際政治の状況やら何やら事情があったとはいえども)自衛隊の誕生の一端にある、といえる。
問題は、東アジアの各国が経済成長にともない軍事力も増していることと、経済成長により他国との摩擦が表出してきたことと、世界的な不況の影響で各国国民の不満がたまっていることと、その不満が経済成長による他国との摩擦で高まってきたナショナリズムの気運に流れ込んでいることと、そんなナショナリズムの高まりを各国政府が制御しきれるか否か、である。今の東アジアは、第一次世界大戦前夜のヨーロッパ並みにキナ臭い。
個人的には、政府の戦略として反日を主導している今の中国や韓国よりも、何らかの要因で政府の力が弱まって下からの突き上げを抑えきれなくなった場合の中国や韓国の方が怖い。戦前の日本にもそんな感じ(=下からの突き上げ)があっただけに。
しかも他国の軍事力が増加しているため、自衛隊との相対的な差が縮まることで、相手から「くみしやすい(殴っても問題ない)」と思われてしまう可能性もある。
日本の場合、四方が海で、防衛すべき範囲が広い。海上自衛隊か海上保安庁はともかく、今よりも備えを厚くする必要はあるだろう。現実問題として、離島地域では中国漁船の違法操業の問題があるし、竹島や尖閣諸島のような離島地域での領土問題も抱えている。
備えを厚くする場合、方向性として「自前で全てそろえる」と「仲間を呼ぶ」の2つが考えられる。安保法案は後者の「仲間を呼ぶ」の流れを汲んでいる。
実際のところ、日本の経済状況的に「海上保安庁や自衛隊を拡充して、日本全土を自前の軍隊で守る」というのは厳しい。先に書いたように、四方が海であるために、防衛すべき範囲が広い(というか広すぎる)。また、例えば対中国で考えると、装備や錬度でカバーするのが難しいぐらいに「数」の差がある。
ここで従来のようにアメリカと組むとして、アメリカ軍が度々行われてきた軍縮で縮小していることに留意する必要がある。この影響は、少なからずアメリカ軍の軍事力を頼りに軍縮していた同盟国に影響を与えている。日本も例外ではない。
あと安保法案の話で「自衛隊がアメリカの都合で起きた戦争に駆り出されたら――」的な批判がなされるが、同様の批判はアメリカ国内にもあるだろう。すなわち「他国の都合の戦争に、自国(アメリカ)の若者を送り出すって、どうなのよ?」ということだ。アメリカ軍を引っ張り出したいなら、アメリカ国内が納得する「(アメリカにとっての)大義やメリット」が必要だ。選挙のこともあるだろうし。
安保法案は、いわば「規模を縮小したので一度にカバーできる範囲が狭くなったアメリカ軍の協力をとりつけやすくする(アメリカから見た優先度を上げさせる)」ためのものだ。こうしておくことで、「ワイの後ろには○○の代紋があるんやで」効果で相手を怯ませることも狙えるだろう。
繰り返すが、戦争せずに済むなら、その方がよい。その一方で、万が一への備えそのものは必要だ。
(再三ならが、憲法違反の件を無視するとして)安全保障の点で、安保法案が示す内容は、良し悪しは別として、ある意味で現実路線と言える。
いえるのだが、しかし、実際に日本国民として安保法案に直面して感じるのは、「これ、悪用されずに適切に運用されるのだろうか?」という心配である。
私はとりたてて再軍備主義者ではないが、日本が再軍備化すると仮定した場合、重要になる点を1つだけ知っている。
一言で表すなら、それは「空手の有段者になれ!」ということだ。空手の有段者は強いが、強いからといってむやみに周囲に殴るかかることはない。むしろ、普通の人よりも強い自制が求められる。
仮に日本が再軍備化するとして、再軍備化したからといってすぐにやたらと殴りまわったら、それはガキの態度だ。大人ではない。軍隊を持つ平和路線の他の国家と同様に「(鍛えてますけど、むやみに殴りかかりませんよ。だって)大人ですから……」という方向が望ましい。
民主主義国家において、このような態度をとるには、第一に軍隊自体の暴走を防ぐためのシビリアン・コントロールが必要であり、第二に軍隊を統帥する政府の暴走を防ぐための「国民による政府の監視と、選挙による適切なコントロール」が必要であり、第三に「国民自身の自制」が必要となる。
日本の再軍備化を進めるなら、国民はまず自省して、過激な排外主義を排除しなくてはならない。排外主義は他国や他民族とのいらぬ摩擦を生み出し、火種となってしまう。これは大人の態度ではない。排外主義は排除されるべきだろう。軽挙妄動は許されない。高い倫理観を持つべきだ。
また国民は、日常的に政府の動きを監視し、選挙直前の動きや宣伝に紛らわされることなく、観察した記録にもとづいて投票を行い、政府の暴走の要因となりうる人物を当選させないように努めなくてはならない。
残念ながら、今の日本では、まず選挙による政府のコントロールが効いていない。例えば安倍政権の安保法案の一件は、2014年の選挙の時点で囁かれていた話だ。だが、結果はどうだろうか? 選挙の時、我々は直近の出来事にとらわれて投票していなかっただろうか?
次に、日本では政府の暴走の歯止めとなる公的機関が存在しない。例えば憲法裁判所がないため、憲法違反の疑念がある法律であっても、一度可決・公布されてしまえば、何か具体的な事件が起きて誰かが提訴しない限り、違憲性の審査は行われない。
最後に、行政・立法・司法の三権のどの分野でも構造的問題が指摘されているにもかかわらず、何の変化もないため、三権に対する不信がある。
例えば、仮に日本に憲法裁判所があったとして、安保法案に違憲の判断を下すことができるだろうか? 日本の裁判官の大半は実質的に最高裁判所の裁判官に任用されている。最高裁判所の裁判官は内閣によって任命されている。そして最高裁長官の任命過程においては、内閣の意向が少なからず反映されている。このような流れの中に憲法裁判所があるのならば、暗黙のうちに内閣の意向に影響された判決がでても不思議ではない(ことに、内閣の意向を受けた最高裁判所の裁判官の胸三寸で出世も更迭も決まってしまう一般の裁判官の身ともなれば……そして、内閣の意向によって出世の頂点(最高裁の裁判官)に立てるか否かが決まる最高裁判官の候補や、下手すると引き摺り下ろされかねない最高裁判官ともなれば……)。
行政・立法に関しては、外部から見て、どうにも組織に自浄作用があるように思えない。例えば何か問題が起きた場合、大抵はトップの更迭で済んでしまう。何が問題であったか分析し、具体的で効果のある改善案を提示し、改善を行い、その結果を問題分析や改善案を含めて広く公開する……というPDCAサイクル的なものが、組織外部の国民の目にはみえない。
そもそも我々日本人は、失敗を恐れすぎる。もとより人間は失敗する動物だ。何も考えずに突っ走って失敗するべくして失敗するのは、さすがにどうかと思うが……しかしある程度成功確率を高めたなら、その時点でチャレンジしてみて、失敗したならしたで反省会を行い、次に生かすべきなのだ。
だが実際には、なぜか最初から失敗を許さない雰囲気が強いし、失敗するとすぐに責任問題を言い出す(本来は、反省会で色々と分析した上での「責任問題」のはずだが……)。人格攻撃になることもしばしばある。そして早すぎる責任問題に決着がつくことで、本来開かれるべき反省会はなされず、有耶無耶に終わってしまう。
悪いことに、日本社会は失敗に厳しすぎる。一度更迭されたら、ずっとそのままだ。このような環境では、皆失敗を恐れるし、失敗したら隠そうとする。なぜなら、失敗したら、そして失敗したことが発覚すれば、この先一生どん底だからだ。
行政や立法の構造の問題は、この日本社会の「失敗への厳しさ」が悪い方向に作用しているために生じている気がしてならない。誰だって自分の身はかわいいものだ。少なくとも私はそうだ。あんただって、そうだろ?
ともかく、日本国民には少なからず三権への不信があるうえに、政府をうまくコントロールすることもできていない。この状態では、どのような法律であっても、適切に運用されるか否かの疑念が生じる。
特に、安保法案をめぐる安倍政権や自民党の動きはマズかった。政権による強引な進め方や、一部議員による乱暴な発言は、国民にとって「国民が政府・議会をコントロールできていない」という印象を与え、不信を高める結果となった。またオレオレ憲法解釈を持ち出してきたことで、安保法案そのものについて「将来、オレオレ『安保法案の解釈』を持ち出して、滅茶苦茶なことをやらかす政権がでるのではないか?」という疑念を与えてしまった。
「安保法案=戦争法案」と揶揄される背景には、その内容の難解さだけでなく、「誤った運用がなされるだけでなく、将来、拡大解釈して無茶なことをやらかすようにならないか? そして誰にも止められないのではないか?」という三権への不信が見え隠れしている。
蛇足だが、安保法案を通すには、本来は憲法改正が必要だ。だが日本国民には憲法改正へのアレルギーがある。なぜか? 「あいつら絶対に余分な変更(=改悪)も入れてくるから」という政府・議会への不信があるからだ。自民党の憲法改正案は酷かったし、派遣法の改正もアレだった。こんな実例が山ほどあるのだから、不信が高まって憲法改正アレルギーになるのも無理はない。
日本国憲法に関しては、そもそも押し付け憲法論がある。個人的には、押し付けだろうとなんだろうと、ネズミを捕るのが良い猫だと思うのだが……。
仮に押し付け憲法だったとして、ではなぜ世界でも稀な憲法九条が存在するのか、という点を考えてみることは重要だ。世界的には、平和路線の国家でも(規模の大小はあれども)軍隊を持っているものだ。
要するに、大日本帝国は、当時のアメリカに「キ○ガイ」だと思われたのだ。あいつらに刃物を持たせたらあかん、何やらかすか分かったもんじゃねえ――ということだ。
例えば、現在生きている日本人たる我々がニュースで目にする自爆テロを理解しがたいように、当時のアメリカ人は特攻という行為を行う日本人を理解しがたかったのではないか? また国体維持のためだけに南方戦線で損耗率7~8割という無茶(現代戦では損耗率3割で全滅判定)をやらかしたメンタリティーも理解できなかったのではないか?
理解できないことが、恐怖をあおる。戦略的には、特攻も南方戦線での戦いも、大日本帝国の政府にとっては裏目に出てしまった。日本は軍隊を持つ資格はない、とんだキ○ガイだと認定されてしまったのだ。
しかしこれは、裏を返せば「まともな国になったなら、まあ、軍隊を持ってもええんじゃね?」ということにもなる。まともな大人は刃物を振り回しません、ということだ。
さて、「安保法案=戦争法案」と揶揄される背景をもう少し考えてみると、興味深いことに気づく。それは、日本国は未だに「キ○ガイ」ではないか、という疑念だ。これは中国や韓国の主張(実際に彼らの言っていることから類推すると、そういうことになる)のことではなくて、日本国民から日本国政府ならび議会への疑念のことだ。
というのも、「安保法案=戦争法案」という構図には、どこか「また『特攻』や『ニューギニア戦線での地獄』が繰り返されるのでは」という不安があるからだ。
これは、太平洋戦争について国民と国家をひっくるめた反省会(失敗の原因の分析、具体的な改善案の提示、改善案の適用)が行われなかった弊害だろう。
そもそも太平洋戦争は大失敗だった(戦争に懲りたということは、つまり、失敗だったということだ)。大失敗だったからこそ、三権と国民を巻き込んでの大反省会が必要不可欠で――もしかしたらどこかで行われていたのかもしれないが、残念ながら私は寡聞にして知らない。
国民と国家自らによる反省会(総括)が行われて、落とし前がついていたなら、ここまで疑念は膨れ上がらなかったはずだ。でも反省会無し・対策も無しなら、「またやっちゃうかも」という心配は残ったままとなる。
戦後に反省会が行われず、そのまま70年が経過した。その間、残念ながら三権への国民の不信が高まった。そしてここ20年ほどの政府・議会の混乱や暴走ともとれかねない動きは、国民に「政府と議会=我々がコントロールできない代物」という印象を強く与えてしまった(仮にも民主主義国家だというのに……)。
再度繰り返すが、戦争せずに済むなら、その方がよい。その一方で、万が一への備えそのものは必要だ。
必要だが、しかしまた「キ○ガイ」のごとく暴走してしまわないか? やむをえない自衛のための戦争ならともかく、暴走して要らぬ戦争を起こしてしまわないだろうか? 三権への根深い不信と、国民が政府と議会をコントロールできていないのではないかという疑念ゆえに、日本国民は、日本という国が「キ○ガイ」のままではないかという恐怖を感じているのだ。
私は憲法違反の疑念より安保法案に否定的であり、安全保障の面では安保法案に Permalink | 記事への反応(1) | 18:20
http://anond.hatelabo.jp/20150913145957
憲法はあくまで人間至上主義のもとで人間によって作成されてるから、人間が改定できる仕組みをそれ自体が持ってるじゃん。
解釈改憲で損なわれるのはあくまで法的安定性に過ぎないし、人間が手続きを踏んで改憲した結果が解釈改憲によるものと同一になることはあり得るじゃん。
イスラム教が女性を蔑視していない理由という記事があって要約するとこういうものだった。
1.イスラム教は成立当時の社会において極端な男性支配から女性を救う革命的な考え方を持っていた。
2.しかしコーランの記述には、現代において普遍的な人権等の概念にそぐわない部分があることも事実である。
3.そうした記述についてイスラム教徒のフェミニスト等は、再解釈に取り組んでいる。
4.性差別はイスラム教の教義じゃないからイスラム社会においてこれから改善していくだろう。
2はわかる、ムハンマドは昔の人なので世界人権宣言に着想を得てコーランを執筆したということはありえない。齟齬はたくさん出るだろう。
コーランを文字通り読んでいくのは理解できる。ISは異教徒や女性に対する蔑視を所与のものとしてイスラム的に振舞っている。
でもコーランに対して、現代のイスラム外世界の規範に基づいて、執筆当時決して存在し得なかった解釈を試みるというのは意味がわからない。
コーランの記述は神の啓示を書きとめたものだから価値があるんじゃないの?現代の社会学者による創造的な再解釈は何がその価値を担保しているの?
これ当のムスリムに受け入れてもらえるの?世俗的な地域ならいけるけど、そこ以外は仕方ないという考えなの?
あと現代における人権概念も日々変質し拡張してるわけで、それとの差異が広がるその都度再解釈を試みていく予定なの?コーランってそういう性質のものなの?捨てたらダメなの?
誰か詳しい人おしえてもんじゃ
(いとくほうえん)
老子の言葉。これを日本語にすると怨みに報ゆるに徳を以てす(うらみに むくゆるに とくをもってす)。
ひどい目にあって怨みを抱くような相手であっても、仕返しをするのではなく、 許しの心で、あたたかく接するべきである、ということ。
怒りの感情というものは、多くの場合、ささいなことが原因で起こるものです。
たとえ憎いと思っても、できるだけ相手を許し、逆に恩恵を与えるような気持で 接するべきである。ということのようです。
このことわざは、老子の言葉ですが、論語の中にも書かれているようですから、中国では、 かなり古くからあった言葉のようです。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=377286345747800&id=287957014680734
老子がこの言葉を言ったのは、「以怨報怨」つまり「怨みに報いるに、恨みを以ってす」だと、恨みの連鎖が起きて
何時までたっても怨みは解けず、復讐が復讐をよび報復合戦になってしまう。
そうならないためには「怨みに報いるに、徳を以ってすべきである」という意味であると解釈されています。
旧約聖書とコーランを基とする「目には目を、歯には歯を」の反対の考えです。
「目には目を、歯に歯を」を信奉している、アラブとユダヤの間で三千年も争いが続いていることを考えると、
この老子の教えは的を射ているのかもしれません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1394880143
隣の県の住民ですが、最近石見神楽が持ち上げられすぎじゃないですか?
そりゃ貴重な地域おこしのネタですし、盛り上げようと頑張ってらっしゃるのはわかります。
けど、片道○時間かけて練習行ってます! とか、週××時間練習してます! とかいう自己満が地元紙に載り、
しかもそれが地方創生の救世主! と美談みたいに扱われてるの見ると、ただただ寒いなぁって思うんですけど。
他の趣味なら単なる道楽でしょこれ。神楽だったら許されるんですか?
実際、神楽に打ち込むあまりに家庭崩壊というケースもあるらしいですし。
でもそれを表立って批判するのはタブーになっちゃってんじゃないですか?
例えば浜田あたりに住んだとして、「いや、俺は神楽嫌いだから」って、参加せず金も出さず、
付き合いで見に行くこともせず、神楽と無関係でいられる自由って、本当にあるんですか?
と、こうした地方の全体主義的な何かに対して、よそ者の立場から揶揄するのは簡単だ。
しかしこっちはこっちで、「『はだしのゲン』をコーランみたいに神格化してるお前らが言うな」
と返されてしまうとぐうの音も出ないし、これといった対策も思いつかない。
実際のところ、あの作品のグロさや左翼的な表現については県民の中でも意見が分かれているのだが、
しかしそれを堂々と批判してはいけないという風潮は確かにある。
どうにかならんもんかなあ。
http://www.discogs.com/Nusrat-Fateh-Ali-Khan-Qawwal-And-Party-Volume-Two/release/1444291
Nusrat Fateh Ali Khan(ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン)のレコードをgetしたから投稿します。
イスラム教に様々な宗派はあるのは皆さんご存知ですが、今回紹介するのは、その中でもイスラム教神秘主義に分類されるスーフィズムの宗教音楽です。
スーフィズムはイスラム教の中で珍しく、歌や踊りを通じて神と一体化することを目的としています。そのための踊りがセマーであり、歌がカッワーリーなのです。(セマーに関しては映画「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」なんかで見れます。スカートはいてクルクル回る。)
Nusrat Fateh Ali Khanはカッワーリーの第一人者で、数多くのCD、レコード、カセットの作品を残しています。
何を歌っているのかも分かりませんし、どれも同じに聴こえますが、それらから伝わる熱量、ぐっときます。
床に置くタイプのアコーディオンの様なものや、太鼓、手拍子でトライバルなリズムを作り出し、そこに甲高いおっさんボイスが冴え渡ります。
youtubeでこの人のライブ動画を見ることが出来るのですが、みんな楽しそうですね。
5:25付近のDum Mast Mast Mast Mast Mast Mast Qalandar~のブレイクで昇天確実^^
イスラム教的には、現代社会に合わせてコーランを何とかマイルドに解釈しようとしているほうが「牽強付会」なんだよね、たぶん。
もちろん、非ムスリムからすれば、どんどん牽強付会してマイルドになってくださいって感じなんだけど。
自由主義者の「イスラーム国」論~あるいは中田考「先輩」について - 中東・イスラーム学の風姿花伝
ジハードに関する中田考氏の立場は、イスラーム世界の中で、少なくともアラブ世界においては、さほど極端な意見ではなく、一つの有力な考え方であると見られます。ただし実際に実践することができる人はそれほど多くないとされる立場です。
中田考さん(イスラム法学者でムスリム)が叩かれてるようなので、ちょっとだけフォローしたい。
(なお自分はムスリムではないし、かの美しいと有名なクルアーン(コーラン)も注釈でしか触れたことがない)
六信五行なんて訳されることもあるが、ムスリムは義務としての決め事が多い。
判りやすいところでいくと、ザカート(Zakat)というのがあって、これは義務的な施しにあたる。
翻訳の難しいところで、これは税金として解釈されることもあるし、喜捨つまり寄付の一種と看做されることもある。
財産税による社会福祉と言うのが実体に近く、アッラーフに寄進して、それを皆が使う、という再分配機能になっている。
と、言うようにイスラームというのは宗教であるのだが、その根幹が社会制度になっている。
王様が世捨て人を経て悟った宗教とか、大工の息子が突如悟って国教になっちゃった宗教とは違い、
砂漠のど真ん中で戦国時代やってたような連中をまとめ上げてサバイブしてきた宗教なので、
政(まつりごと)やってる連中に好きに利用されちゃう宗教とは違って、
なので、イスラーム共同体を作り守り広げるぞ、いう感じなわけだ。
ウンマ・イスラーミーヤ(ummma islamiya)とか言われるものがそれになる。
で、ジハードのことを聖戦と訳すとまたややこしいことになるんだが、
「アッラーフのための奮闘努力」が多分一番近いニュアンスになる。
意外(?)な事に、大ジハードとは個人的な内面の戦いになる。現実の戦争とか小ジハードなのね。
ラマダーン(断食月間)だとか、宗教的に正しい行いをするのはより困難で重要である、というわけ。
これは、大体の法学者が見解を一致する数少ない部分でもあって、かなり重要な概念なのです。
宗教というよりは生活様式というかまんま国是みたいなものですというのを理解してもらった上で、
さらにムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、というのが義務として五行に組み込まれていて、
ムスリムはみんなそれを守るのは重要だと考えている、という前提をおいた上で、
ダール・アル=イスラームと呼ばれる、イスラーム世界というのがあるわけです。
ダール・アル=ハルブと呼ばれる、非イスラーム世界というのもあるのです。
自分たちのルールとは、違うルールを使ってる世界、というニュアンス。
すると、当然、自分の家を守るのは義務、ということでイスラーム世界を守るのは義務なわけです。
宗教は自由なので無理強いはしないけど、イスラーム世界のルールには従おう、みたいなのがあるのです。
結果、非ムスリムは許容するけど、非イスラーム世界をイスラーム世界に組み入れる努力を怠ってはならない、
という、ワリと複雑なことになっているわけです。
まあ、正確にはアラビア語のクルアーンを読むべきなんだけれども、
不信仰者の攻撃を受けて背を向けてはならない、戦略的撤退等を除いてはアッラーフの怒りを被り地獄に住むことになる、とか書いてある。
そうすると、非イスラーム世界からの攻撃に、ムスリムは防衛する義務があって、背を向けてはならないわけです。
そして、非イスラーム世界の代表例とも言えるのがアメリカ合衆国で、これに背を向けられないと。
ただし、害がない場合(イスラーム世界と和平を結びたがってる異教徒)には、和平を結んでも良い、とされている。
ムスリムである中田考さんの会見は、同胞であるムスリムに対する呼びかけになるわけですね。
イスラーム国をムスリムでないと断定できれば攻撃したり非難したりすることは簡単なんだけど、それは出来ない。
すると、非イスラーム世界と戦っている!と言われれば、背を向けよ、とは声掛け出来ない。
日本政府側には「ムスリムは異教徒と戦って背を向ける事は出来ない(地獄に落ちる)ので、戦うとか言わないで」とまず言ったと。
テロリスト、非テロリストという枠組みではなく、まずイスラーム世界と非イスラーム世界との枠組みの話ね。
で、トルコ経由で人道支援に限って渡すことも出来るよ、仲介するよ、と。
「日本政府の資金は、人道支援に限ってるよ(戦うために使っているわけではない≒非イスラーム世界だが敵対中ではない)」
「(君らも知ってると思うが、安部総理はトルコ・レバノンへ支援すると言ってるわけで)トルコ経由で渡すこともできるよ」
「双方にとって時間が短すぎるよ、そこはなんとかならんかね。自分もそっちに行くよ」
「ヤージディー教徒は解放したよね。そういう態度の方が、主張は通りやすいよ」
ムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、という前提のもとでは、攻撃に折れよとは絶対に言えないわけです。
ただ、テロリストとは交渉しない、テロリストに金を払わないという日本政府側の前提も曲げられないと。
すると、日本は非イスラーム世界だが、人道支援に限って金を出しているので敵対中ではなく、和平を望んでいると、
イスラーム国もムスリムなら、小ジハードを止めろとは言わないから、異教徒に寛大でも良くないか、
そもそも時間も短すぎるし、ちょっとムスリムの法学者たる自分が間に入るから話を聞いてくれまいか、
と、そういう声掛けになるわけです。
質疑応答でも、身代金を払うんじゃない人道支援だ、と繰り返し言ってるのが、板挟みの回答になってるわけですよ。
まあ、ワリと中田考さんはイスラーム国側に立った物言いしてるわけですね。どちらかと言うとメッセージになってる。
敵対すると同じ派閥であっても即処刑する人達なので、非難して即斬首とか困るわけですよ。当然ながら。
(もちろん、ムスリムがみんなこうかとういとそうじゃなくて、過激派は認めないとか、イスラムの名を利用した単なる侵略だ、とか言ってるトコロも多くある)
とういわけで、ワリと詰んでる状況で、譲歩を引き出す限界ギリギリのところだったんじゃないかなあと思うわけです。
だって、日本は米国と協調路線で、ガッツリ名前出してISIL壊滅の為にイラク政府に手を貸すとか言っちゃってるわけで。
本来なら政府はテロリストと交渉しないので、引き伸ばしつつ救出(奪還)作戦を展開して成功させないといけないわけで。
家族とか所属会社経由で身代金に応じるっていう裏取引(政府は目をつぶる)も、時間が短すぎると。
「偶像崇拝の禁止!」 だから、イスラーム映画では弟子や信徒たちが「画面の外にいるムハンマド」に話かけたりしながら物語が進む。「提督」がぜったい画面に映らない仕様なのは、絶対にムハンマドを写さないイスラムの宗教映画みたいだった。
ムハンマドが画面映らないのは、ムハンマドの「偶像」なんかを、ムハンマド本人であるかのように崇めてはいけないからである。
「汝らのために大地を置いて敷床となし蒼穹を建立し、蒼穹から雨を下して種々の果実を実らせ、それで汝らの日々の養いとなし給うた御方。されば偶像のたぐいを、それと知りつつアッラーと等し並に崇めたりしてはならぬ」(コーラン2.21)。アッラーは唯一神なので、偶像みたいな複数あるものはダメとも言える。ムハンマドも最高の預言者なので(ry
艦これの場合は、もともとの意図は「艦娘という偶像を楽しむには唯一特定の提督は不要」ということなんだろう。でも提督が映らないことで提督の「唯一性」を確保することになり、それは結局、「提督は艦娘にとってはアッラーにも等しい存在なんである」なんていう男性視聴者の痛い妄想が暴露されっちゃったようで、ちょっと気まずくなった。男性視聴者「たち」の一人だから、この自分は。
日本は宗教に寛容な国であるので、境界線もあやふやで、曖昧だったりする。
例えば、イスラム教徒のことをムスリム(Muslim)と呼ぶということは知っていても、
その認識は、回教徒と呼んでいた頃から変わっていなかったりすることが多い。
襲撃を受けたフランスの新聞が、ムハンマド(Muhammad)を風刺画に書くことの何が問題か、
できるだけ、テロとは距離をおいた形で、少し話してみたい。
イスラームの話をする前に、我が身を振り返ってその曖昧ぶりを思い返してもらいたい。
まあ、宗教のテクニカルな話をすると、はてな村のギーク達は「あとで読む」を付けるだろうから、ちょっと例えてみよう。
まず、仏教には「世界はこういうものだ」という物理層がある。輪廻だとか解脱だとかだ。
モノリシックカーネルもマイクロカーネルも、OSの設計思想も、
結局のところ、ノイマン型アーキテクチャを基にした世界観の上に構築されているわけだ。
宗教とは、目の前に存在する「現実」をリバース・エンジニアリングしている。
その構造分析の結果、あるモデルにピッタリハマれば「悟った」と言われる。
般若心経は、Z80の手書きのニーモニック表と同様だと思えば、親しみも湧くだろうか。
さて、「現実世界」は中々簡単にディスアセンブル出来ないので、
できればインテルから直接、回路図なんかの技術資料をもらうみたいに、
「現実世界」を作り上げたり、その内部構成を知ってる相手に教えを請いたい。
その教えを請うことに成功したのが、預言者であるムハンマドだ。
大天使ジブリールに出会い、アッラーフの啓示を受けたとされている。
電気屋で悩んでたら嶋正利さんにCPUの論理設計について教えてもらえた、みたいなものだ。
まあこのへんでやめとくが、この教えてもらった世界の仕組みを書き留めたものが、クルアーン(コーラン)だ。
血なまぐさい話になるのでさらっと流すが、まあ日本でも大覚寺統と持明院統とが大揉めに揉めて南北朝同時成立したりしてたわけだ。
さて、「現実世界」を理解しハックしたのがムハンマドってことは、クルアーンに従って生活するのが良いわけだ。
つまり、本質的に宗教は「現実世界への関わり方」を示していることになる。
(残念ながら注釈でしか読んだことがなく、その美しいアラビア語による原典に触れたことはないが)
世界への関わり方は、時として人によって酷く違った解釈をされることがある。
デヴィット・フィンチャーの「セブン」という映画を観たことがあるだろうか?
キリスト教の七つの大罪をモチーフにした連続猟奇殺人事件と、それを追う刑事達の物語だ。
フィクションでは分が悪いと思うのであれば、エド・ゲインを思い出しても良い。
母親が狂信的なキリスト教信者であり、女性は悪魔だと教わって育ったと言う。
彼らは、その教えを忠実に守り、どちらかと言えば善意からその行為を行っている。
こうした連続殺人を観て、キリスト教信者をなじったり、キリストを風刺するのは、あまり面白いとは言えない。
彼らは、キリスト教信者ではあったかもしれないが、本来の教えとは異なる解釈をした、単なる犯罪者だからだ。
まあ、現代でもキリスト系のパロディー映画には苛烈な抗議文が届いたりするようだが、
過去、キリスト教会に対する風刺や批判は、即刻刑罰の対象になっていた時代が確かにあった。
「聖☆おにいさん」を書いたら暗殺され、それを民衆が支持する時代だ。
これは信教の自由と、表現の自由の、長い戦いの歴史がもたらした冷戦構造でもある。
表現者は、今回のフランスの新聞社への襲撃は、反対の異を唱えるだろう。
端的に言えば「オマエの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」だ。
疎い人ほど、「ムスリムはそういう過激な宗教の人なんでしょ」という理解をする。
また、「その風刺はいかがなものか」と「表現の自由を守る」が、矛盾なく同時に主張できると判らない人も居る。
そうすると、「表現の自由を尊重しない宗教が、テロに走った」と捉えられてしまう。
「表現の自由を守るためには、テロに屈せず、また風刺画を描く」のが正しいと思われてしまう。
人は理屈ではなく感情で行動するので、こうした時に、出来る事はほとんど無い。
淡々と、「その風刺は侮辱なので訴えます」とフランスの法律の範囲内で行動するしかないのだろう。
ブリジット・バルドーは、何度もそうやって訴えられ、フランス司法はキチンと刑罰を下している。
(またフランスはユダヤ人に対する人種的差別には敏感で、割とちょくちょく出版社に罰金刑を出している)
日本人が日本を馬鹿にした出版社を襲撃する事件があれば、その日本人を非難し、襲撃された出版社側に立つだろう。
その後、日本を馬鹿にした出版社の表現の自由を守りつつ、淡々と法律に則って侮辱されたとして訴えるしかない。
今回、欧州の各種ムスリム団体がテロ行為を非難している事は、忘れてはいけないと思う。
Je suis Charlie(私はシャルリー)とつぶやく前に、Je suis Ahmed(私はアフメド)として呟いたムスリムの言葉も聞いて欲しい。
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so.
最近の韓国批判は酷いもので、ネットも書籍もとりあえず韓国を批判しときゃいいだろみたな風潮である。
そんな中ふと、このネトウヨの嫌韓はいわば宗教みないなもののように思ったので書き出してみる。
「私、K-POPが好きです。」という書き込みをネットで見かけた。しかしその後のネットの反応たるや誹謗中傷の嵐である。
「頭おかしいんですか?」
「奴らはクソだ。奴らを肯定するお前もクソだ。」
しかし日本では個々人の趣味趣向は自由のハズ。なんで好みを言っただけで、国民であることや彼女(多分女性)自身が否定されなきゃならないんだろうか。
そしてふと何かに似ているような気がした。
そうだ「イスラム国」だ。
ご存じの通りイスラム教はアッラーを唯一神とし、教えはコーランに準ずる。そしてイスラム国は自分たちの思想以外は認めない。思想が違えば「悪魔(異教徒)の手先」として殺される。十字架を持っている?悪だ。殺すべし。
ネトウヨにとっての思想・教義は「韓国は敵だ」ということだろう。それに従わない場合は容赦なく攻撃する。それが趣味や好みの範疇だろうが関係ない。教義に反したのだ。それはつまり悪であるということだ。悪なら攻撃して問題ない。キムチが好きだ?悪だ。死んだ方が良い。
宗教全般にそうだが、人生や生活への不安を神と共にあると信じることで和らげ、心の拠り所にする。
ネトウヨは韓国を批判することで、心の平穏を保つ。例え自分が将来に何の可能性を感じない底辺な存在だろうが、自分は日本国人、彼らはそれより下。そう信じることで自尊心やアイデンティティを維持する。
イスラム教では日々神に祈りを捧げることにより、神を身近に感じ、心の平安を得ている。
ネトウヨは日々韓国の悪口を書くことで、ストレスを発散し、仲間の同意を得て教義を再確認し、心の平安を得ている。
イスラム国の戦闘員たちに、いくら「神様なんていないんだ」と説明しても通じない。科学や論理など意味をなさない。彼らにとってコーランが世界の法則であり、その歪曲解釈が正義なのである。
ネトウヨにとって「韓国が敵」であることが世界の法則で、韓国の批判こそが彼らの正義。彼らは根拠のない根拠や出所不明なデータ、使い方を誤った統計データ、そして完全な主観を繰り広げ韓国を批判するが、しかしそんな内容など実はどうでもいいのだ。教義に準じていればそれで良い。客観性やソースへの批判?それは教義に反する悪だから無視して良いのだ。
イスラム教には「異教徒を殺しても良い」という教えは含まれていない。しかし過激派は教育を受けていないので本が読めず、勝手な解釈をして乱暴な手段を講ずる。
韓国政府のやり方は褒められない点も多いが、イコール韓国全体・韓国人全体の批判には結びつかないハズだ。しかしネトウヨは無知なので、嫌韓の教えを無抵抗に信じ歪曲解釈をして乱暴な手段を講じる。
そのうちどこかでテロが起きるんじゃないだろうか。