はてなキーワード: コーランとは
そんなことコーランには書かれてないってよ
影響はそりゃあるだろう
あると思ってるから、Twitterの画像でまとめましたみたいなアレも蔓延ってるんだろうし
けどメディアの影響を受けてサッカー選手や棋士になる自由は広く認められても
(現実の)海賊やレイプ魔になる自由なんか認められるわけがない
歴史のある作品だと、その時代では割とOKだったものでも今マネするとヤバいものだってある
聖書やコーラン自体は悪でないとしても、それに忠実にあろうとするあまりテロしたら、
そりゃ殺されたってしょうがないだろう
そこの違いを判断できないのは個人のリテラシーと社会性の問題であって
後はそれらが低い奴に対するパターナリズムをどこまで認めるべきかという話になる
あの作品が面白いのは、戦争・原爆・左翼思想以外の部分があるからだと思う。
単純に教育効果だけ考えた場合、あれほど余計なものが多い作品も珍しい。
ヤクザは出てくる、銃弾は飛び交う、そしてラスト近くには薬物である。
他の反戦ものが楽しくないのは、だいたい罪もない一般市民が戦争の犠牲になって、
ほーらこんなにかわいそうでしょ、という筋書きのテンプレを逸脱するものではないからだ。
仲間や己の生存のためなら強盗も殺人も辞さない、隆太みたいなのはまず出てこない。
考えてみれば、ああも暴力要素の多い作品が学校の図書室に置かれて、
しかも下手すりゃコーランみたいに扱われているという状況自体がギャグである。
しかし、それでメインテーマが置き去りにされているかというとそんなことはなく、
暴力だの恋愛だの他の要素を交えつつも、思い出したかのように原爆に引き戻される。
そういうところに怖さがあると思う。
7月31日フランス全国各地で、26日に殺害されたアメル神父を追悼するミサが行われ、どこでも多くのイスラム教徒が出席しました。
特に事件現場に近いルーアン大聖堂のミサは感動的な空気に包まれていました。
地元のイスラム教徒の代表団に語りかけているのは、先月26日に起きた教会襲撃事件で殺害されたアメル神父の妹です。
深い悲しみの中にいる彼女を、イスラム教徒の女性がなぐさめています。
「お兄様は私達にとっても兄弟同然です。お互いの間に溝を作ってしまったら、テロリストの思う壺です。私たちは隣人であり友人です。神を信じる者同士です。人と人とを結ぶことに尽力されたアメル神父の功績は、我々の記憶に刻まれ、永遠に語り続けられるでしょう。」
ミサには、男性、女性、大人も子供も、様々な宗教の人が出席して、カトリック教徒への連帯の気持ちを表明していました。
「深く感動しています。あのような野蛮な行為には、断じて抗議します。アメル神父を思って今日は出席しました。」
友愛の気持ちを表し、相手をよく知るきっかにもなったミサでした。
「カトリックのミサに出席するのは初めてですが・・・、説教の言葉は、コーランの言葉ととてもよく似ていました。」
カトリック教徒は、イスラム教徒がミサに出席したことに、とても心を打たれていました。
「素晴らしい事であり、殺害事件のようなものを避けるには、宗教間の関係をより密にしていく必要があります。・・・感涙してしまって。すみません。」
今回の悲劇が、カトリック教徒とイスラム教徒の関係を更に密にしたようです。
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@フランスF20
アザーン(اذان adhān)は、イスラム教における礼拝(サラート)への呼び掛けのこと。
ユダヤ教のラッパ、キリスト教の鐘と同じような役割をしているが、肉声で行われることに特徴がある。
「神は偉大なり」という意の句「アッラーフ・アクバル」の四度の繰り返しから始まる。
イスラム教国旅行記ではしばしばアザーンを指して「一日5回モスクから流れるコーランの朗誦」といった記述が見られるが、
アザーンは礼拝への呼び掛けであって、コーランの朗誦ではない。
イスラム教ではアザーンと一緒に音楽を流すことは禁じられている。
そもそも、イスラム教正統派は、教義上、音楽を官能的快楽をもたらすハラームとして容認してはいないからである。
聖典の読誦であるキラーアやアザーン等の詩歌は、音楽的な要素を加えられても音楽では無い物として扱われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%B3