はてなキーワード: 蜘蛛の糸とは
名文。私も統合失調症患者であるが、こうした「残念なメンヘラ」にはなるまいと思って治療を受けてきた。彼らの言動が「悪」そのものであることにも同意である。
しかし、私はこの「悪」に何度も飲み込まれそうになった。寂しかったのだ、病的に。だから心配して欲しくて、優しい友達にひたすらメールをしようかと考えたこともある。
けれども踏みとどまった。この寂しさは底なしだから、一度人の善意を受けてしまったらそれを食い尽くすまで止まらない、いや、食い尽くしても止まらないと確信していたからだ。
ちなみにその時の心境を書いた増田が残ってるので参考に貼っておく。
http://anond.hatelabo.jp/20090101234858
そして、ここで書いた救いはあるのかという話。結論から書くと、救いはあった。底なしの寂しさだと思っていたが、それが消える日がやってきたのだ。
「あなたは生きてていい」
そう、言葉をかけてくれる人が現れた。信じられない、青天の霹靂と言っていいほど衝撃的な言葉だった。それからその人は、私の人生に寄り添ってくれる人になった。
私が彼と一緒に居るにあたって、自分に課したルールが一つだけある。彼の言葉を疑わないこと。そうしないと餓鬼の世界に降りてきたこの蜘蛛の糸がちぎれてしまう、そう思った。
言葉を聞こう。そこに愛はある。
きっと彼らの「悪」は、人の言葉を本当には聞いていないことなのだろう。だから言葉を消費してしまう。食い尽くしてしまう。
言葉を聞こう。本当に聞こえた言葉は、食い尽くせないどころか底なし沼を埋めてもまだ残るくらいの、大きな大きな愛の言葉となるのだから。
俺はお前さんたちのコメントを見る度に、カッとなる。
俺の鼻は、お前さんたちを人間とは認めないみたいだ。
この世ならざる者のような、得体の知れない刺激臭がする。
口と鼻からは、蜘蛛の糸の如し粘液が大量に放出され、目前のショウジョウバエを捕らえながら、そして死に行く者のように落ちて行く。
俺が一体全体どうして、真剣に鼻水の話を持ち出したか分かるか?
お前さんたちなど、所詮はネチョネチョと纏わり付き、ペチョンペチョンと世界を貶し合い、仕舞いには自由落下の法則によって地面に叩きつけられて昇天する鼻水に過ぎないという事である。
繰り返す。お前さんたちは究極の鼻水だ。
眼球は紅く染まり、鼻からは真っ赤な破壊砲がぽたぽたと過剰に放射されて行く。
もうそろそろ俺は、真っ暗な箱の中で、最後の火災旋風を浴びる事となる。
この世ならざる者のような、得体の知れない刺激臭とはどんなものか。
とくと感じるが良い。
消費税を導入し、さらに増税しようとしている主体は財務省だよ。
新聞はその片棒を担いで消費税を是とする空気を醸成したと言っているわけ。
官僚とマスコミの関係にはいろいろあるということぐらいは知っているだろ。
詳しく知りたいなら、宮崎哲弥もそうだし、高橋洋一でもいいし、その辺の人の新聞批判官僚批判を漁ってくれ。
問題はなぜそのような力学が働くのかということだが、理由は簡単で、消費税を批判しない代わりに自分だけは増税から見逃してもらえるように裏取引をしているだろうということだ。
こういうこと言うと陰謀論と言われそうだが、これはずっと前から言われていたことで、事実、現象面から見てもそうなりそうだろ。
新聞も一枚岩ではないし、官僚の言うことをただ鵜呑みにしているのも中にはいるだろうがな。
僕が上京したいと思うようになった原体験は中学時代にあると思う
当時オタクの世界に浸かり始めた僕の住んでいた地域では民法が2局、フジと日テレしか映らなかった(今もケーブルテレビに加入しない限り2局のままだが)
当然深夜アニメなんてまったく観れないので
書店で取り寄せてもらっていた月刊のアニメ雑誌の中にある「○○アニメ化!」なんて記事は遠い世界のものだと諦めていた
今のようにネット上で気軽にアニメが見れるサービスは普及していなかった、もしくはあっても知らなかったし、我が家はスカパーにも入っていなかった
そんな日々を送る中購読しているアニメ雑誌のひとつの記事が目に飛び込んだ
やったぞ!フジテレビならうちの県でも映る!
もうかれこれ15年くらい前の話になので正確に覚えてはいないが
そのアニメは別に原作が好きだったわけでもないし、内容に興味があったわけでもない
アニメ雑誌やネットで話題になっているあのキャラやこのキャラの「現物」を見ることができなかった僕にとって、そのフジテレビ系列てで放送する深夜アニメは、(オタク)社会と自分を繋ぐ蜘蛛の糸のような儚い希望だったのだ
で、迎えた放送当日
だいたい予想つくと思うけど
新聞のテレビ欄に載ってなかったのを「アニメだから載せないんだろう」と超解釈して夜更かししていた僕の目の前に突きつけられたのは
その後「いや…全国の小学生が夢中になったポケモンやデジモンですら再放送しかやってなかったじゃないか…きっと一週遅れでやるに違いない」
そしてうちの県ではこのアニメはやらないんだと気づいた時僕に残ったのは強烈な憎しみだった
うちの県で放送してくれないフジテレビ?アニメ会社?側に対する憎しみもあったが
それ以上にフジテレビの電波に乗って確かに来ているはずのアニメをあえてカットする地元に対しての憎しみが強かった(現実的にはそんな単純な理屈ではないが当時の僕にはそう感じられた)
そう言われている気がした
その反面簡単にオタクコンテンツを浴びるように触れることができる東京には
僕みたいなキモヲタでも存在を許される場所として強烈な憧れを抱くようになった
あのときの想いは、見きれないほどの深夜アニメが放送されている東京や関西に住んでも、ネットでアニメ見放題の時代になっても、そしてなんだかんだで地元に戻ってきてアニメなんかまったく観なくなった今でも残っている
アニメの経済効果が無視できなくなり、町おこしアニメなんか作ってアニメに媚びたり
放送してないアニメの映画が田舎ではまずありえないほどの観客動員数を記録しブッチギリで映画ランキング一位をとっていたりするのをみて
「ざまあみろ」
という気分になっている
(そもそも15年前だったら県内の映画館では例のアイドル映画は放映されることはなかっただろう)
…とまあ長くなったけど
「どうしようもなくなったときに、それでも(強いて言えば)これを蜘蛛の糸としよう」という原型がその人の専門になるのだろう
それは対話であり、集団であり、芸術であり、薬であり、行動であり、社会資源であり、国であり、家族であり、社会であり、地方であり……
そこには、その人の“良い対象”があるからこそ、それを専門とするのだろうから
心理職として、力動に偏ってしまう者として、自制しなければならない
どの経路で、どの形態で「本当の幸い」を見つけるのか、何を“良い対象”とするのかは、常に相手が決めることで
こちらの用意した全ては利さなければならないし、道具であるべきで
「何が出来るのか」こそが良き問いになるのだろうか
ひよこを飼っていた事がある。
脂ぎっているような白熱灯の元で、うじゃうじゃとまるで「蜘蛛の糸」を待つカンダタのような感じで、糸が垂れてくるのを待っている、縁日で売られていたひよこである。
なぜ、俺がひよこを欲しがったのかわからないし、付けた名前も忘れたが、とにかくひよこを飼った記憶がある。
ところで「ひよこ」と普段キーボードで打つことが余り無いので気付かなかったのだが「ひよこ」とタイプすると、なぜだかわからないが心がとても落ち着き、非常にピースフルな気分になる。皆さんもぜひ試してみて欲しい。
縁日の夜、我が家にて飼われる事になったひよこは、段ボールを改造したひよこハウスに入れられる事となった。
ひよこハウスの中は、柔らかいタオルケットのようなものが敷かれ、湯たんぽが安置されるという豪華暖房付きで、ひよこも心なしか居心地が良さそうだったのを覚えている。
こうして小さなワンルームの住人となったひよこの餌はなぜか「米糠」であった。
これは実家が米穀店を営んでいたことに起因すると思うのだが、今思うと水に濡らされて若干ぱさぱさ感の取れた米糠を延々と主食として食わされるひよこの心中は、いかほどだったのであろうか。
不思議と米糠をつつきながら、ぴよぴよと鳴くだけで、あとは暖かいタオルケットにくるまって寝るという、落語の道楽若旦那もうらやむような生活をしていたひよこは、いつのまにやら通常の人間が想起するひよこよりも、はるかに巨大になっていた。米糠だけであんなに大きくなるものなのだろうか。
こうして、すくすくと育っていったひよこであるが、大きくなってしまった結果、ひよこハウスでは少し手狭になってしまったので、我が家の庭にて飼育されることになったのである。
暖かいひよこハウスから、突如屋根無し生活のブルーシーターと化したひよこであるが、文句一つ言わずにひょこひょこと歩き回っていた。時々クビをかしげていたような記憶もあるのだが、あれは鳥類特有のものだろう。
ところで、日本人ならば成人式を迎えた日、ユダヤ教ならば割礼をした日、どこかの部族なら入れ墨をした時に「大人」と認められるのだが、ひよこはいつから鶏になるのだろうか。
鶏冠が生えて来た時だろうか。それとも、ある朝いきなり「コケッコッコー」と「今日から大人ですよわたしー!」と高らかに鳴いた時なのであろうか。
そんなことを子供ながらに考えていたある日、裏の駐車場にあった、鉄パイプを組んだ足場で遊んでいたところ、遠くから「ひよこがぁ! ひよこがぁ!」と祖母の叫び声が聞こえた。
大きくなり、湯たんぽの庇護を必要としなくったゆえに野晒しにされていたひよこは、野良猫に捕まえられ、抵抗の際に抜け落ちたと思われる数枚の羽毛を残してどこかへ消えてしまったのである。
こうして、行方不明になってしまったひよこであるが、その後近所で「野良鶏」を見なかったことから、おそらく猫に食われてしまったのかも知れない。
と、いうわけで、未だに縁日で売られているひよこだったり、どこかで鶏を見かけたりすると、米糠ばかりつついていたあのひよこを思い出して、ちょっぴり切なくも、懐かしい気持ちになる。
ちなみに、アメリカの研究チームがティラノサウルスの骨のタンパク質のアミノ酸の配列を解析したところ、ニワトリに最も似ているとの結論になったらしい。
何万年後かに、何かのはずみで地球の重力が少なくなったり何かして、突然変異で色んな生物が大きくなってしまったり、先祖帰りをしたとして、ティラノサウルスばりに大きくなったひよこが猛り狂ってぴよぴよしているのを、見てみたいものである。
映画「進撃の巨人」見てきました。監督は「平成ガメラ」の特撮監督である樋口監督、脚本は「あの」町山智浩さん、ってことで、かなり期待して見に行ったんですが…
脚本というか、話は突っ込みどころ満載で、正直、調査兵団が間抜けの集団にしか見えない描写が多々あって、かなりキツかったです。
映画では、原作以上にエレンは「ミカサ!ミカサ!」とミカサに夢中です。たとえば、兵士がミカサの肩を掴んだだけで「ミカサに触れるなぁ(# ゚Д゚)!!(マジギレ)」と殴りかかるくらいミカサに執着してるんですね。
でも、「なぜエレンがミカサにこんな恋心を抱いているのか?」が劇中で全くといっていいほど描かれていないし、二人が絆を深めるシーンもないので、エレンが「可愛い幼なじみに盛っている思春期の童貞」にしか見えてなくて(実際にエレンは童貞設定だと思いますが)。
原作では、「共に人殺しをしている」という特別な関係があるから、ミカサとエレンの関係は特別なものになっていますが、映画ではそれをパージしています。パージする事自体は悪いことではないと思うのですが、「人殺し」にかわる何かの要素を入れないと、「何でこんなに執着しているのか?」がわからず、単に盛っている思春期にしか見えなくて、かなり残念な感じになっています。
エレンのミカサへの恋心はかなりしつこく描写されるんですね。でも、第一回目の巨人の襲撃でエレンと生き別れになった後、ミカサは、立体機動を教えてくれたシキシマ隊長(映画オリジナルキャラクター)と出来てしまっていて。
で、シキシマ隊長がエレンに見せつけるように、自分のかじったリンゴを「お前も食べるか?うまいぞ」とミカサに差し出して、ミカサもリンゴをかじるんですね。その間接キッスを見たエレンは「うわぁあああああああああああ!」と発狂。いや、お前は童貞か!調査兵団の仲間が巨人に踊り食いされてもそれなりに落ち着いていたのに、間接キッスで発狂する男、エレン。この男、童貞である。
で、このNTRシーンがその後のシーンのカタルシスにつながるなら、ありだと思うんですよ。でも、全くつながってきません。正直、まるまるなかったとしても話は通ります。
主人公を成長させるために主人公を精神的に追い込むのは、少年漫画ではよくある手法ですが、NTRで追い込んでも仕方ないだろ!個人的には、NTRてズタボロになった男が自分の使命に目覚める話、大好きなんですけど、それは日常劇の話で、進撃の巨人みたいな話でそれをやられても「人が死んでんねんで!」としか思えません。
脚本家の町山智浩さんは、早稲田大学時代に、彼女をサークルの先輩に寝取られた経験があるそうで、podcastでも何度も語っていたんですが、それが関係しているんでしょうか。
失意のエレン君。でも、すぐに調査兵団のシングルマザーのキャラクターが「あら、意外と子供なのね♡」「歳上は嫌い?」と迫ってきて、おっぱいを揉ませてくれます(この間、実に3分)
エレン君もなし崩しにおっぱいをもんでしまう。いや、緊張感ゼロか!人が死んでんねんで!
まず、このシングルマザーのキャラクターとエレン君の関係がそれまで全く描かれていないので、「歳上は嫌い?」と迫ってくるのが、かなり唐突です。なんですかね、巨人が襲ってくる未来では、人類全員発情してるんでしょうか、そのくらいの盛りっぷり。
で、誘われるままにおっぱいを揉もうとすると、そこで巨人襲来。シングルマザーは服をはだけたまま踊り食いされてしまう。もうね、調査兵団が油断しまくりの間抜け集団にしか見えないんですよ。
原作でも描かれていた「爆薬で開いてしまった穴を塞ぐ作戦」が映画の中でも実行されます。で、その爆弾は「人類最後の爆弾」とされていて、これがなくなると、永遠に穴をふさげなくなるってしろものです。
けれど、その爆弾を積んだ車を謎の覆面男(非武装)にアッサリ奪われてしまう。なぜ奪われたかって?兵士が誰も車にのっていないから!セキュリティどうなってんだよ!真面目に仕事しろよ
覆面男に車を奪われたことがキッカケで作戦を失敗してしまうんですけど、なんていうんですかね「詰めが甘いってレベルじゃない」ので、正直、見るのが馬鹿らしくなりました。
序盤の巨人襲撃でミカサとエレンは生き別れになってしまうんですね。で、再開すると、ミカサはエレンにそっけない態度をとる。
あと、脚本の問題をいうと、ところどころのシーンが死ぬほどダサい問題があります。
たとえば、壁に囲われたつかのまの平和に辟易しているエレン君が不発弾を何度も蹴り飛ばすシーンがあって。そこで、最後に不発弾を見てエレン君が「俺もこいつと一緒だ…」って言うんですね。いや、それ口で言わなくてもわかるよ!口で説明しなくても、意味ありげに不発弾にあたりちらす、現状に不満を抱えた男がいれば「俺もこいつと一緒だな」なんて言わなくていいから。こういう「説明過剰」の脚本を町山智浩さんは何度も批判してきたと思うんですが、忘れちゃったんでしょうか。
あと、悶絶したのがミカサとシキシマ隊長がリンゴを食べるシーン。シキシマ隊長はサタンを意識していると町山智浩さんがおっしゃっていたので、ミカサにリンゴをすすめるシーンは「エデンズアップル」のメタファーでしょう。(町山智浩さんは失楽園の構造で物語を語るのが大好きだから)
いやさぁ…いまどきリンゴを「エデンズアップル」のメタファーとして描くって、ダサすぎるよ!手垢つきすぎて垢太郎をつくりだせるくらいじゃないですか。そこをドヤ顔でリンゴをシャキッと噛むカメラ目線のシキシマ隊長が出てくるもんだから、もう悶絶ですよ。
事前にアナウンスされたように、原作とは「壁に囲まれていて、巨人が襲ってくる」「キャラクターの名前」くらいしか一致していないので、原作の「あのミカサ」「あのアルミン」を見たい人は、本当に行かない方がいいです。
エレンが巨人に変身できる理由などの重要設定も、原作とは大分変わっていて、原作真理教の人は「原作とちがう!」のラッシュで憤死すること確定なので、「巨人が出てくる映画」として見ることができない人は見ない方がいいと思います。
で、色々と突っ込んできたんですけど、上のようなことなんて、全部どうでもいいことなんですよ。リアリティの詰将棋をやっても映画が面白くなるわけじゃないし、矛盾がなければいい映画かっていうと違う。
突っ込みどころがあっても人の心を掴む映画はいくらでもある。たとえば、ブルース・リーのドラゴンシリーズなんて、映画としての出来はイマイチだけど、ブルース・リーのアクション一発で、世界中の男子の心を掴んだわけじゃないですか。
だから、どんなに突っ込みどころがあっても、映画としての「抜きどころ」があればOKなんですよね。
じゃあ、この映画の抜きどころはどこか?もちろん、「巨人の人間踊り食い」「立体機動装置のアクションシーン」「エレン巨人vsモブ巨人」じゃないですか。
この3つがよくできていれば、エレン君が嫉妬深い童貞野郎でも、調査兵団が職務中に乳繰り合う間抜け集団でも、何でもいいんですよ。この3つがよくできていれば。じゃあ、この3つはどうだったか?
序盤のシーンで、人類の築いた壁が超大型巨人によって破壊されて、その穴から、巨人が侵入してきて、人類が踊り食いされます。
進撃の巨人といえば、このシーンですよね。このシーンはかなり頑張っていた
特撮とCGを上手く融合させた巨人のビジュアルは、原作の巨人が持っていた「妙なゆがみ」をしっかり再現できていて。人間ではあるんだけど、人間の理とは違う生き物である巨人の不気味さを、実在感を持って表現できていて、心を掴まれました。
あと、踊り食いですね。PG12指定なので、残酷表現には限界があるかな‥と思っていたんですが、しっかりグロをやりきっている。人間が噛みちぎられたり、引きちぎられる、原作の絶望感が映像でも再現されていて、持ってかれます。血もバンバン出るし、身体もバンバンちぎられるので、オジサン、大満足!
みんなだいすき、立体機動装置アクション。これはどうだったか?
個人的には「かなり残念」だと思いました。なんていうんですかね、「巨人のCGを背景にワイヤーで移動しています」感が凄くて、実存感や浮遊感が足りないというか。
製作陣は「スパイダーマン」の飛翔アクションくらいのクオリティを意識したそうですが、映画「スパイダーマン」の跳躍シーンほどの、躍動感、スピード感、開放感は全然ないです。
CG合成が上手くないのか、背景から動きが浮いていて、スパイダーマンのような「市街地を蜘蛛の糸でかけめぐってる!」ってリアリティが全然伝わってきませんでした。なんだろう、「ツィーーーー」と移動している感じ。
もちろん、邦画としては頑張っている方なんでしょうけど、満足のいくものでは到底ないと思います。
でもね、でもね、これだけDisってきて、僕がこの映画を嫌いになれないのは、ちゃんと抜きどころがあるからなんですよ。
この映画も原作のように、エレン君がハイパー巨人化してモブ巨人を駆逐するシーンがラストにあるんですが、このシーンが最高で。さすが平成ガメラの樋口監督、素晴らしい仕事ぶり。
エレン巨人も他の巨人も特撮中心に使ってとってあるので、「存在感」「重量感」がある。ここを安いCGだけでやってしまうと、どうしても「ペラい感じ」「ゲームのムービー感」が出ちゃうんですけど、特撮なので、パンチやキックの重み、衝撃がスクリーンを通じてビシビシ伝わってくる。
かつ、最新の編集技術で、とろくなりがちな特撮バトルがスピーディーになっているし、血しぶきのエフェクトもクール。それまでのイライラが溜まっていた分、「やれ!駆逐しろ!」とアドレナリンどくどくですよ。
重みだけでなく、スタイリッシュさもあわせもつこのシーンは、新しい和製怪獣映画の名シーンとして、平成ガメラの渋谷崩壊レベルには語り継がれるくらいの出来だと思います。ラストの怪獣映画としての出来はすさまじいので、特撮映画ファンなら絶対に劇場に足を運ぶべき。
たぶん、これから進撃の巨人について、「突っ込みどころ満載!」とか「原作崩壊!」みたいなレビューがわんさかあがってくると思うんですよ。でも、それで「ふーんクソ映画なんだ(鼻ホジホジ」とわかった気になるのは、人として本当にダサいし、やめた方がいいと思う。
あのな、オレは1800円払って見たから文句言ってんだ。貶してんだ。1800円も払わずに、ネットのレビューだけ見て、見た気になってこの映画を貶す奴は俺がぶっ殺す。あと、こういう特撮映画をDVDで見て「なんか迫力いまいちだったね」とか言う奴も俺がぶっ殺す。
進撃の巨人は若い人なら誰でも知っている超人気作品だし、「意外と健闘してた」でも「クソ映画だった」でも話のネタにはなるし、議論できるので、それだけでも劇場に見に行く価値はあると思います。ぜひ、劇場に足を運んでみてください。
私は、とかく死にたい
しかし、私は生きている
「私は、今、生きている」というその事、その一事を以って、私は生き続けなければならない
生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。
本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。
おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。
生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。
いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。
私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。
そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。
生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。
戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。
是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。
それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。
決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。
たゞ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。
誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。
大ゲサすぎたのだ。限度。
――坂口安吾著 「不良少年とキリスト」より
「現実はつらく厳しいけれど厳しい現実に当たっているのが俺みたいな汚いおっさんじゃなくて可愛い女の子ならなんとなく癒されるし救われる気がする」
というつらさの発露であり精神を繋ぎとめる蜘蛛の糸ではないのか
彼らから女の子を取り上げ汚いおっさんに戻そうという勢力は何なんだろう
社畜めうなんか生まれなくていいように厳しい現実を変えてさしあげろよ
もしくは代わりの女の子を与えてはどうか
ただ救いを取り上げるだけで何もしないとは
鬼だろうか悪魔だろうか
「私も他の女もあなたとセックスするのなんて勘弁だけどソープやエロ本はわいせつだから消えるべき」という女に似ている
社畜めうは発言者本人のアバターって話にそのアイコンで何言ってんですか(結月ゆかりってキャラですよね)
自分はキャラを理解してるし愛があるしブコメがイメージに反してない自信があるってことですか
それとも仲良くしようぜって事ですか
イエーイ(ハイタッチ)
統合失調症。ありもしない幻覚や幻聴に悩まされる精神の病気。認知の歪みから被害妄想に陥ることもある……
読んでいた本を机に投げ出し、俺はソファに横になった。アパートを兼ねた賃貸事務所だ。自殺未遂をしたアパートは追い出された。無事に退院した俺は、膨らんだ借金を返すべく新しい事業を始めたのだ。
自殺未遂から生還してから、俺の目にはそれまで見えなかった物が見えるようになった。『人と人の間の関係』が見えるようになったのだ。なぜかは分からない。ただの幻覚かもしれない。なんと言ってもうつ病持ちだったのだ。他の病気になっても不思議ではない。
人間の脳の神秘って奴かもしれない。自殺に使った洗剤からたまたま特殊な化学物質が発生して、その影響で眠っていた能力が目覚めたのかも。あるいは、酸欠によって脳の一部が死ぬことで、今までと違う脳の回路が活動を始めたのかもしれない。事故をきっかけに画家や音楽家になった事例もある。
いずれにせよ、俺は超自然的な能力を手に入れた。窓から通りを歩く人々を眺める。人間は社会的な生き物だ。様々な人が様々な人と『繋がり』を持って生きている。今の俺には、それが見える。
『繋がり』は実に多種多様な見た目をしている。あの看護婦と医者の間は運命の赤い糸で繋がっていた。同じ恋人同士と思しき男女でも、もっとぼんやりした、細く白い糸で繋がった仲もある。『繋がり』は二人の関係を象徴した見た目をしているらしい。燃え盛る炎や、逆に黒光りする重々しい鎖で繋がった仲もある。
通りを若い夫婦と幼稚園ぐらいの子供の親子連れが歩いている。全員が淡く光る、クリーム色の光のリボンで全身が包まれている。概ね、良い関係は明るい色をしている。
スーツ姿のサラリーマンが二人歩いている。先輩と後輩のようだ。先輩から後輩には、蜘蛛の糸のような細くもやもやした線が伸び、後輩の全身をふんわりと包んでいる。後輩から先輩へは汚水を滴らせるヘドロが伸びている。人間関係は非対称だ。一方が特別に悪い感情を持っていなくても、逆もそうとは限らない。
髪の毛のような細い関係を四方八方に伸ばす若いOL、胴体に太いロープを一本だけ結びつけた中年男性。本当に人それぞれだ。人とどのような関係を築くかこそ、生き方そのものなのだ。
その時、事務所の呼び鈴が鳴った。客だ。慌てて机の上の読みさしの本を椅子の下に放る。カーテンを閉めて部屋を薄暗くした上で、俺はもったいぶった雰囲気を作って言った。
「お入りなさい」
「こんにちは~」
「ここがねぇ」
「ほんとに当たるのかよ」
「ほんとだって! キョーコもここで占ってもらったって!」
「悩める子羊達よ、プリンス佐々木の占いの館にようこそ。あなたの恋の行方を占ってしんぜよう」
俺はこの能力を生かして占い屋を始めた。恋愛占い專門だ。お互いに気があるかどうかなんて、見れば分かるのだからチョロい商売だ。リーダー格らしき女子が言った。
「私達の恋愛がどれくらい続くか占ってください! まずは……」
すかさず手を上げ、続く言葉を制止する。
男女が二人づつで六人だ。当然カップル三組で来たということだ。強く想い合っているカップルは、今の俺には一目で分かる。それを言い当てることで、『ホンモノ』という評判を立てるのだ。噂が噂を呼び、俺の占い屋は連日長蛇の列ができることだろう。さあ、年端も行かぬ中学生どもめ。超自然的な体験をさせてやるぜ!
「お名前を聞かせてもらって、よろしいですか?」
「田中です」
「ニシーって呼ばれてます」
「トモっでーす」
「鈴木元一郎です」
「ササで」
めいめい名乗る中学生達。友情は空色のリボンだ。太さはまちまちで、所々ピンと張り詰めていたり、余裕があったりするが全員が中学生らしい爽やかな友情で結ばれている。とても健康的だ。
俺は友情とは違う、もっとねちっこく強い繋がりを持つ男女を見つけていった。計三本。実に素直だ。分かりやすい。
「田中さんとニシー君、佐藤さんと鈴木君、トモさんとササ君が恋人同士ですね。どのカップルもお互いがお互いを強く想っています。他の誰よりも特別に思っていますよ。恋愛は長続きするでしょう」
リーダー格のポニーテールがチャーミングな田中さん、クールビューティっぽい佐藤さん、お調子者っぽいトモさん。野郎どもは、どうでもいいけどだいたいイケメンだ。中学生だと言うのに、みんな実にかわいい。こんなかわいい彼女がいるのが羨ましい。
しかし、何か様子がおかしい。六人の男女は全員、時が止まったかのように黙りこくっている。俺の言った事が信じられないといった顔だ。
「どういうことよ……」
次の瞬間、もの凄い事が起きた。六人の間にあったパーティの飾り付けみたいな華やかなリボンが、一瞬でバラバラにちぎれ飛んだ。残ったのはどろどろの愛憎。
「ニシー、私とは付き合えないって言ったよね!?」
「そっ、それは、ササがお前のこと好きだと思ってたから……」
「は? 俺がいつそんな事言ったよ?」
「ササっち! ちゃんと言ってくれたら、私、ゲンなんかと!」
「ゲンなんか? なんか? 鈴木君のことを悪く言わないでくれる?」
「はあー!? お前が一番……っ! 俺のこと振ったじゃねぇかよ!」
激しく罵り合う中学生達。一言ごとに六人の間の関係は波うち、尖り、断裂し、何か濁った関係が新たに生まれるのを繰り返し──
「…………」
重苦しい沈黙があたりを支配する頃には、彼らの関係はウニのような針でお互いを刺しあう物に変わっていた。これは、もしかして、とんでもない事をしてしまったのでは……?
「あ、あの~」
全員の視線が俺に向く。
「はぁ?」
ギンギンに睨みをきかせてくる田中さん。
「払うわけないでしょ! ふざけてんの!?」
彼女は事務所の戸を乱暴に開けて、外に出た。無言で牽制しあいながら、それに続く残りの五人。
「あっれー。おっかしいなぁ」
占いなんてチョロい商売だったはずなのに。何がまずかったんだろう?
* * *
http://anond.hatelabo.jp/20131216185706
★個人経営商店主が鬼籍に入ったあとに後継するプレーヤーがいない業界が一番問題。
日本の中小企業メーカーの大半は、経営者が鬼籍に入ったら廃業に追い込まれる。日本のモノ作りの基礎体力が低下する(モノ作りインフラの崩壊)
いわゆる「棟梁」「工務店」の後継者が不足している。このままでは「家を作りたくても、建てる人がいない」ということになりかねない
ウチの息子は外に討って出てどーんと一発当ててこい!よしきた、とーちゃん!って空気
その後オイルショックやバブルがあって、ジャパニーズゴールドラッシュを夢見る人は減ったけど
それでも、ジリ貧の家業を継ぐより大企業に就職したほうが良いって空気
生き残るには大企業就職という蜘蛛の糸を掴むしかない!というもっと切実な感じになってきた
でも、自分の周りみてみると、進学校行って、いい大学入って、そのまま一流企業残ってるって
いるにはいるけど、かなり少ない、大学院、アカポスで不安定なやつ
一方、高卒や地元のそれなりの大学出て家業継いだやつのが安定してる率が高く見える
サンプル少ないのは重々承知だが、いまどき家業を継ぐという選択は
職種によってはそんなに悪くない
単に後継車不在で売りに出てる町工場とかがぽつぽつあるらしい
幾らかの感情すらからも離れるからこそ、救われるのではないだろうか。
「あなたは何のために救ったのですか」
自分を満たす為などと泥を吐く。
「我欲を綺麗に見せるのはやめたらどうですか。あなたは取繕いと同情誘いばかりです」
救う事で救われるなど、思うべきではなかった。
あなたを救うべきではなかったのかもしれない。
「手を差し伸べたわけじゃないのですよね。
あなたは僕が足掻いている様をみて、それを救う振りをして。
僕にあなたを映して悲しんだり喜んでいたりしただけです」
……自分は、酷い事したのだろうか。
希望を見せては奪うような事を。
「薄平い贖罪なんてしないで下さい。
あなたはこの期に及んでも、自分可愛さが抜けないだけなのですよ」
「……あなたが何様だとしても、救いようのない莫迦なんだとしても。
例えあなたの手が目を逸らす様な色に染まっていても尚
それでも、そうだとするならそれは救われたという事ではないのでしょうか。
あなたは救われようと思って手を握り、希望を持ったのではないのですか。
「中二病でも恋がしたい!」のお陰であちこちで中二病定義論争が最勃発している。本来は思春期的自意識過多の事だったんだけど(ついでに言うと罵倒語でもなかった)、単なる痛いオタク少年を中二病呼ばわりしてバカにするというはてなキーワードから始まった傾向が、ネット中に広まった。
有村悠氏は80年代の小室哲哉&TMNを中二病アンセムとし、id:tunderealrovskiはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTを中二病アンセムとして扱っている。そこで「思春期の少年の自意識をいい具合に刺激する音楽とアーティスト」を収集してみた。
最近的な意味での「邪気眼系中二病」は意味が違ってくるので、アニソンボカロは除外。
http://www.youtube.com/watch?v=6ssiTuXTNnU
80年台のバンドブームといえばTMNでもBOOWYでもユニコーンでもなく、ブルーハーツこそ中二病アンセムだと思う。リンダリンダや情熱の薔薇など、どの曲も名曲だけど、歌詞の力を考えるとこれが一番だとおもう。
http://www.youtube.com/watch?v=0vJ2JChBLmo
「学校ないし家庭もないし暇じゃないしカーテンもないし」、80年台がブルーハーツとしたら90年代は電気グルーヴ。閉塞した時代の青春をそのまま歌詞にするとこうなる。
http://www.youtube.com/watch?v=o58zjQZY4JI
ナゴム系は中二病アンセムの宝庫。これを歌ってた頃の大槻ケンヂは中学生向けのラジオをやって、中学生向けの曲を書いていた。
http://www.youtube.com/watch?v=49FIk8nPybw
渋谷系は「俺はあいつらとは違う」という、90年代の中学生のハートをがっちりつかんだ。麒麟川島曰く「クラスの一軍は小室、二軍は渋谷系」と言っていた。一方で伊集院光本人は渋谷系を「お洒落軍」とディスってたけど。
http://www.youtube.com/watch?v=Ee_QaBjj08c
80年代がTMNとブルーハーツ、90年代がナゴム系と渋谷系だとしたら、ゼロ年代はバンプ。「ノーヒットノーラン」「ダイヤモンド」「バトルクライ」など、インディーズ時代がとくにおすすめ。
http://www.youtube.com/watch?v=c2y8Ba3WwPY
http://www.youtube.com/watch?v=r--H06eNrRY
ミスチルなんて中二病からもっとも程遠いリア充が聞く音楽の代表のはずなんだけど、桜井和寿氏は結構中二病的な歌詞を書く。伊集院光から影響を受けているんだから当然か。
http://www.youtube.com/watch?v=k-4kmxytbbU
2010年代は神聖かまってちゃんと相対性理論の時代。AKBにも嵐にもももクロにもボカロにもうんざりしている少年少女の受け皿になってくれればいい。ただ、ファン層は20〜30代っぽいけど。
僕がこの世から消し去りたいものは3つあります。ひとつは、核戦争、ふたつめは、魔族と人間のハーフである魔剣士グロチウスが主人公(必殺技は真・蛇殺円月刃↓\→↓\→AB)の冒険譚を書き綴った僕の黒歴史ノート、みっつめが、ソーシャル物乞いをする女子大生です。
Google+で日本一のフォロワーを持つ女子大生、坂口さんが炎上しています。ネットのやりすぎと、海外留学で早稲田大学の単位を落として、留年をするための費用を、ソーシャルネットワークstudy giftを使った寄付で賄おうとしたのが原因です。
さらに、なぜ僕らは「ソーシャル物乞い」を赦すことが出来ないのか。
日本人の国民性との相性の悪さ、そして、サービス自体のインセンティブ設計の悪さによって、学費寄付プラットフォーム「study gift」がうまくいかない理由を解説してきます。
意外と思うかもしれませんが、日本人は世界有数の「自己責任国家」です。自分のケツを自分でフケと思っています。本当?と思う人は、ファクトを見てみましょう。
What the World Thinks in 2007の調査結果によれば、日本では「自力で生活できない人を政府が助ける必要はない」と考えている人が世界で最も多いのです。日本人で「必要はない」と答えたのは、38%。弱肉強食の自己責任国家アメリカでも28%で2位なのを考えれば、いかにこの数字が凄いかわかりますよね。
このように、日本人はマッチョイズムの国アメリカよりも、「てめぇのケツはてめぇでふけ」と考えています。
なぜかというと、日本の共同体というのは、ムラ、地縁、血縁・・・こういうものが完全に瓦解しつつある超個人主義社会だからです。個人社会なのだから、自分のケツは自分で拭けよという言説が強くなります。生活保護に、なぜあれだけの人が発狂するのかを考えれば、日本人がいかに自己責任教のマッチョ民族かわかりますよね。
自己責任教の世界一の教徒である私たちは、この女子大生の乞食っぷりを赦すことができないわけです。
でも、可愛い女子大生が困っているのだから・・・、という意見もあるでしょう。
それでも、なお賛同を得られないと断言します。
なぜなら、
「手を尽くしていないから」
彼女は手を尽くしていない。やるべきことをやらずに、助けを求めている。だから批判されるのですね。
彼女は、google+で57000人のフォロワーがいる、家入さんのような大物とのつながりもある。実際に現在、IT系のイベントのマスコットガールとして引き合いがある。
はっきりいって、下手な社会人よりも「お金を稼ぎやすい立場にある」といえます。早稲田大学の留年費用くらい払える、稼げるでしょと。
自己責任教の私達にとって、他人の手を借りるのは、できることをやってから、という心情が根強い。
似たような事例では、NHKの職員が難病の娘の手術代金の寄付を願いでて、火祭りのように炎上した話があります。なぜなら、彼らはNHK職員で役員でかつ高給で、家も売っていないからです。しかも、彼らは金をほとんど出していない。
娘を治したいのはわかる、けど、てめぇでやれることをやってからだ。という理屈で炎上しました。
彼女の場合も同じで「自分でなんとかできるのに」「なんとかしない奴」が同情を得られる国ではない、という話ですよね。
「女なんだから、家入さんにおっぱいもませれば、ひともみ100万円くらいくれるんじゃないの」というような、僕は絶対にそんなことは考えたことがないし、考えたことのある奴は黒く腐って死ぬべきだと思うけど、そういうことを考える人もいる。
もちろん、前提として「ネットやってたら、単位落としちゃった。援助して。テヘペロ」に共感できねぇってのもありますよね。塩谷瞬さんが可愛く見えるレベル。
じゃあ、坂口さんはどうすれば炎上しなかったか。これはシンプルで「寄付ではなく、取引にすればよかった」。たとえば、
・日本で一番SNSを使いこなしている女子大生の無料ネットコンサル
みたいなことをやればよかった。まぁ、もっとスマートなやり方もあるかもしれないけど、彼女側からの納得できる価値提供が必要だった。なぜなら、価値提供があれば、それは乞食ではなく、ネットを使ったマーケティングだからです。それを批判するのは、資本主義に喧嘩を売ることになるので、なかなかに難しいですよね。
メルマガっていう価値提供はするみたいだけど、うん、メルマガは高名なジャーナリストのおかげでアレな感じになってるしね。
持っているのにその力を行使していない人が誰かからの共感を得ることってできないのではないかしら。
寄付ではなく取引にしろ、というと、それは寄付プラットフォームではないよねという話になるかもしれません。でも、「学生への寄付」というコンセプトをとり続ける時点で、study giftはあまりうまくいかないと結論を出せます。
なぜか。簡単に言うと「寄付をするためのインセンティブを提供できない」からです。
これは僕らが寄付をする動機を考えればわかります。寄付をする理由は3つあって、
まぁ、こんなもんだよね。で、学生に寄付をしても2.3は期待できない。とすると、1の「精神的な満足を得たい」だけになる。NPOに寄付をするなら、1は大いに期待できる。
でも、女子大生が「あなたのおかげで大学を卒業できました!サイバーエージェントに就職して、これからはコンプガチャに変わる新しい価値ある課金ソリューションを生み出します」となっても、それで精神的に満足する人は少ない。
なぜなら、ネットにはまって単位を落とした女子大生に5000円を使うなら、人は、アフリカの子供たちを数百人救える5000円の使い方をしたいから。たとえば、5000円出せば、予防接種のワクチン350回分が用意できる。そういう精神的満足に、ネットを頑張った女子大生を助ける満足は、かなわない。
もっと同情できる学生がこれから出てくるかもしれない。けど、やっぱさ、合理的な考え方をすると、寄付だってコスパを考える。学費っていう寄付は、この世の中の寄付でも恐ろしく「精神的満足」のコスパが悪いのですよ。
さらに言うなら、「study gift は集金力が恐ろしいほど低い」からうまくいかない。40万以上集まったスゴイと思う人もいるかもしれない。
けどさ、
という、
「隠してたんだけど、俺は核戦争を生き延びた魔族の末裔かつ、体がゴムのように伸びて、かつ幼なじみは美人、かつ吸血鬼でなんというか凄くスゴイ、あと、魔法とかも使える。加えていうと、ちんちんが鬼のように黒くてでかい、その名を魔剣士グロチウス」みたいな、ウルトラご都合主義なみに、好条件がそろって、40万円ぽっち。(僕が書いてる時点で)
集金力の低さは、上の「学費という寄付はコスパが悪い」ことと「学費ぐらいなんとかしろというマッチョイズム」に起因してるんでしょう。
いやぁ、無理でしょ。仮に今回がうまくいったとしても、他の学生にも適用できるようなプラットフォームにはなりえないんじゃないかしら。個人情報と、ネットのおもちゃになるリスクをとって得られるリターン、たぶん、恐ろしくつりあわなくなるよと。プラットフォームとしては機能しない。じゃあ、家入てめぇが寄付すりゃええやんかと。
つーわけで、最後はRHYMESTERの『耳ヲ貸スベキ』からの引用でしめたいとおもいます。
で全部終わる話しですよね。てめぇで稼げるんやから、てめぇが稼げやハゲと。まぁ、お金貢ぐひとは勝手にやったらいいんじゃないですか。それで、アフリカ人もっと救えるけどね。
いや、うん、こういう正論じみたものが聞きたいわけじゃないよね。そう、違う。
あのさ、あのさ、留年した理由は、インターネットにはまってSNSに写真をはりつけるのに時間を使ったり、旅行を楽しむのに時間を使ったり、さらには雀荘にいくのに時間を使ったからだよね。いい、言うよ、あの日桜の木の下で交わした約束、もう忘れてる?だから、言うね、今言わないと一生後悔するから、言うね。
ばーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーかじゃねぇの。
糞して寝ろ。
なんとなくその原因もわかる気がして、それは綱渡りの競争で勝者にならなければならない義務感が全面化していることなのではないかということだ。
職場はもちろん、親、兄弟姉妹、配偶者、恋人、友人、あらゆる人間関係で安心できる場所が少ない。
もちろん、子供でもない限り「無条件に自分自身を受け入れてくれる場所」なんていうものが誰にでも用意されているわけではないのは当り前だけど、
今の日本の社会って「失敗できない」という感覚が強過ぎやしないだろうか?
「あいつは使えない。使えないやつとはつるまない方がいい。いつ自分の評判に響くかわからない」。
実際、中学生あたりの年頃に、いじめる側にまわるかいじめられる側になるのか戦々恐々とする構造とあまり変わらない。
裏で働いているのは利害関係の論理で、この利害の理屈があらゆるところに顔を出している。
でも、個人的な関係まで悪化するかはともかくとして、ビジネスの場ではある程度それは仕方の無いのことだ。
しかし、恋愛関係が損得勘定なのは珍しくないとしても、親兄弟や利害が無いはずの友人関係までもが損得で勘定されかねない今の状況はどうなんだろうか。
いけてるやつとつき合いのあるいけてる自分、いけてないやつとつき合っているいけてない自分。
そして、自分は自分の友人や親兄弟や恋人から見て、いけてるのかいけてないのか?
あるいは実際はそういうわけでもないのかもしれない。
親兄弟・友人同士の関係における損得勘定感覚、利害の論理はもしかするとそれほど前面化しているわけではないのかもしれない。
だけど、ここで重要なのは「そう感じられる」ということだ。不信の種にはそれだけで十分だ。
社会生活を送るにあたって「失敗できない」という緊張を延々と強いられたらどうなるだろう?
誰に対しても「へまをすれば自分は徹底的に見捨てられる。だから決してミスをしてはいけない。この綱を踏み外してはいけない」
という強迫観念を持って日々を生きなければならないとしたらどうなるだろう?
そして、失敗してしまった人間が「自分はへまをしてしまった。綱から落ちてしまった。だから自分は見捨てられても仕方ない存在だ」
と感じているとしたらしたらどうだろうか?
恐れる人間は当然のようにその恐れの原因である自分の物差しを、そのまま他人を評価する物差しとして使う。
この場合「へまをしないようにそこに精力を傾けて努力している私は、へまをした人間を切り捨ててもいいのだ」という感覚だ。
こうして実感された全方向における関係性の「綱渡り感」は社会的現実になり、再生産され、綱から落ちた者への容赦ない冷笑・蔑視・罵倒は正当化される。
とにかく明るく元気で前向きにいることが義務づけられているこの空気の中、
少しでも気鬱な表情を見せれば途端に敗者の匂いが漂い、それだけであらゆる場面で敬遠の対象になってしまう。
今までの日本社会ならば、失敗したとしても、明るく元気で前向きにいることが可能だった。
社会全体が経済的な繁栄を享受する中で一度二度つまづいたとしても、もう一度立ち上がってライフコースを再構築するくらい日本社会の路は太く安定していたからだ。
「なあになんとかなるさ。死ぬわけじゃあるまい。人が人でなくなるわけがあるまい」が現実だったのだ。
だけど、今や日本社会の路は一本の綱になってしまった。誰かがどこかで失敗することは避けられない。
そんな社会で私たちは「一度躓いたら徹底的に孤立する」という「綱渡り感」から逃げられない。
「みんながやっている綱渡りなんだ。敗者が孤立するのは当然だ」という声があらゆるところから聞こえる。
でも果たして本当にそうなんだろうか?本当に失敗した人間は孤立しなければならないんだろうか?
目の前の路は、落ちたらまっさかさまに孤立へと落ちる、一本の綱なんだろうか?
実は、目の前の路を「綱渡り」にしているのは僕たち自身なのではないだろうか?
僕の弟は今大学4年生で、本命ではないけれども、某企業から内定を頂いている。だけど本人はひどく落ち込んでいるようだ。
大企業へ就職する者が多いという周りの友人に比べた時、弟は、既に失敗している、綱から落ちてしまった、という思いがするのだそうだ。
驚いたことに、留年してもう一度本命の企業(某広告代理店)に挑戦したいと言い出す始末。正気の沙汰とは思えない。
挙句の果てに、弟は僕に対しても卑屈な態度をとるようになってしまった。
僕の会社は弟の内定先よりもはるかに知名度の低い会社だというのに、だ。そんな弟を見るのは軽くショックだった。
だけど、自分の周りを見てみても、もしかしたらそういう感覚は、この日本社会ではもう当り前なのかもしれないと思うようになった。
共に氷河期の就職戦線を生き残った大学時代の友人が、弟とまったく同じ卑屈な態度をしていたからだ。
失業をきっかけに鬱になってしまった彼の元を彼の妻は去っていった。幸か不幸か彼らには子供はいなかった。
そして友人は変わった。ひどく自分を卑下し、まるで「まともな人達」と同じ場所で生きていること自体が申し訳ないことかのように振る舞うようになった。
彼の失業や離婚に心を痛める人間は世界で彼ひとりしかおらず、他の誰一人として彼の心痛を共有できるものはいないかのような物言いをするようになってしまった。
氷河期世代の割に比較的のんきに生きてきた僕は、今とても恐ろしくなっている。
今まで考えたこともなかったけれども、もし僕が会社から解雇を告げられたら、あの卑屈な表情を僕に向けてきた弟や友人は僕を嘲るだろうか。
僕の恋人は負け犬を見る様な目で僕を見て、そして僕から離れていくだろうか。何より僕はそんな態度をとり始めた周りの人間を恨まずにいられるだろうか。
人生の苦しい状況で、支え合うことよりも、蜘蛛の糸を奪い合った亡者達と同じように蹴落とし合うことを選び、
ひたすら損得と利害だけで行動するような餓鬼の如きなにかに成り果ててしまうのだろうか。
綱の下に広がる網は、綱の上を歩いている時にははっきりと見えるけれど、一度綱から足を踏み外した瞬間に消えてしまうのかもしれない。
なんという恐ろしさ。徹底的に孤立するから綱から足を踏み外せない、でも誰かは足を踏み外さなければならない。
ならば蹴落とす、自分が落ちない為に。落ちたやつには目もくれない。
こんな緊張があらゆる人間関係で全面化してしまったら、そりゃ狂うわ。
綱をうまく渡れている時でも生きている心地がしないもの。
「もし、お前の一番の希望が通らなかったとしても、その時は僕がどこかにコネをつけてやるから。そのくらいはなんとかなるから。だから後悔の無い様に思いっきって挑戦してください」と。
そして、友人にはこうメールする。「元気?お前が暇なうちに久しぶりにまたオールナイトでも見に行こうぜ」。
彼女にもメールを送る。「お仕事おつかれさん。今度、温泉でも行っておいしいごはんでも食べて一日中ぼーっとしてゆっくりしよう」。
多分、会社の同僚にも送るだろう。今はもうあんまり顔を合わせなくなった大学時代の友人や高校時代の友人にも。父と母にも送ろう。
少なくとも、僕にできる部分だけでも常に網を張っておこうと思う。
きっと今は、そういうひとりを思いつめさせないように気遣う努力がひとりひとりにとって必要な時代なんだと思う。
そうじゃなきゃ、みんな悲惨な気分を内に秘めて、そして隠しきれずに卑屈な顔をしながら生きていかなければならなくなってしまう。
いいことがあれば共に喜び、わるいことがあったら共に悲しみ、そしてまた再スタートを切ることをお互いに後押しし合わなければダメなんだと思う。
これだけ厳しい時代なんだから、経済的な意味でも、人間的な意味でも、そのくらいのことができなければ、僕たちは人間でなくなってしまう。
ひとり娘のため、婿をもらうつもりでいた。
運の良いことに付き合っている男性が次男。
彼氏本人も婿に来る気満々。相手の親御さんも婿にやる気満々。
遠距離でお付き合いしているので、来年には彼氏が私の住むところへ引っ越してくる予定だった。
今の状況は
けれども、原発のこともあるしこっちに来たほうがいいんじゃないかな。
私親:婿をとってもらいたかったがこの状況では致し方ない。
家を出て行って(県外に行って)もいいよ。
私自身も県外に出ていく方向に気持ちが固まってきているのだけれども、あーぁって思う。
ずっと育って暮らしてきたところだし、今の職場はとても気に入っているし
なんだかあっさり崩れちゃった。
ちょうど年齢的に結婚、出産ラッシュで、友人がどんどん福島で結婚して出産して行く。
今年、私の狭い交友の中だけでも結婚が4人、出産3人。来年産む予定が1人。
なんだか、とっても自分が「逃げ」に入っている気がしてならない。
今残っているのって、よっぽどの覚悟のある人か、他に行き先のない人が大半のはず。
私は行き先ない組になるところだったのが、するすると蜘蛛の糸のように
と思うから余計に罪悪感を感じるのかもしれないけれど。
結婚する、嫁に行く、嫁ぐ、愛するダーリンの胸へ飛び込むなんてことばより
だからと言って、相手を呼ぶわけにはいかんでしょう。この状況で。この場所に。
出ていくのにも罪悪感。呼ぶにも罪悪感。
今これ書いてて気がついたんだけれど、相手と別れてここに残るのが自分の気持ち的にいちばん楽なんでないの?