「どうしようもなくなったときに、それでも(強いて言えば)これを蜘蛛の糸としよう」という原型がその人の専門になるのだろう
それは対話であり、集団であり、芸術であり、薬であり、行動であり、社会資源であり、国であり、家族であり、社会であり、地方であり……
そこには、その人の“良い対象”があるからこそ、それを専門とするのだろうから
心理職として、力動に偏ってしまう者として、自制しなければならない
どの経路で、どの形態で「本当の幸い」を見つけるのか、何を“良い対象”とするのかは、常に相手が決めることで
こちらの用意した全ては利さなければならないし、道具であるべきで
「何が出来るのか」こそが良き問いになるのだろうか