はてなキーワード: 考察とは
女性をバカにしてるだのジェンダーギャップ指数が色々とかまあ、それは既に他の人たちが十分やってるからもういい。
自分に読解力がないという前提で聞きたい。
「リモートではなく久々に会社に行った。産休明けの会社の先輩が赤ちゃんを連れてきていて可愛いかった。」
「政治家がジェンダー平等をスローガン的に掲げるの、時代遅れだよね。」
「良い化粧水を買った。」
「消費税高くなった。」
「国債減ってないよね?」
赤ちゃんを連れてきた先輩、考察するに、先輩は男性であるという前提が抜けてると思われる。
男性が赤ちゃんを職場に持ち込んでまで面倒見てる世の中で、既にジェンダー平等が実現されているという事が言いたいのか?
説明が足りてない。
なんだ?この化粧水は。
ジェンダー色々と言っておきながら次に出てくるのが化粧水なのだ。
化粧水は男も使うと言えばそうなのだが、化粧品である以上女性的なイメージの方が圧倒的に強い。
消費税の話題に繋げるだけなら別に化粧水である必要はない。むしろ何かしら仕事に使う道具である方がキャリアウーマンであるという演出は作れる。
どうでもいいけど「消費税最近高くなったよね」とか「国債減ってないよね?」とかいうセリフ出てくる奴絶対ニュース見てないだろ。
何今気づいたみたいな顔してんだ。
あと女優の顔が全体を通してうるさい。老人はこういう女が好きなのか……?
雀の涙程度だけど、興味がある分野とかの研究所とか最近はBSで歴史考察番組見るのが好きでよく見てたから好きな人が助教やってるとこに寄付するのいいなーとか考えてた。
話題の騒動を見て、専門知識があって学会にも出てるかもしれないけど、自分は無理なタイプの思想の人ががこうやって研究してるんだなーって思うと無理になったね。
おもしろーって思ってたのも一気に無理になった。
なんで趣味アカウントみたいな思想垂れ流しアカウントと実名アカウント分けれないのか不思議なんだけどって不満が出るし、
それをテレビで面白いなーって見てた自分が寄付できる1万円で研究が少しでも進んだりするってキモイなって思った。
それでその人たちは、本を書いてまた人をツイッターで差別したり馬鹿にしながら生きるんでしょ。無理じゃん。きも
よっぽどお金持ちか、寛大な心がないと人や文化を支援したりすることって無理なんだなって、いつもテレビも本も面白いです。ありがとうございますってお賽銭みたいな気持ちで寄付しようとしてたことを反省した。
面白くない、というか酷い出来というのが正しいと思う。
シンジが着替えの服にトウジの名前を見つけて察するシーンも、崩壊した世界を見てパニックになったのはなんだったんだ?
カヲル君が「贖えない罪はない」と慰めるシーンの意味も変わってこない?カヲル君ひょっとして第三村の存在を知らなかったの?
知らないと結論するしかないんだけど、ゲンドウに次いで世界を理解してる感じのカヲル君が人間の生き残り(それもシンジの友人たち)の存在を知らないってある?
第三村での描写は「絶望のシンジを立ち直らせるには自然の中で1時間くらい使えば納得するでしょ。」という演出の都合みたいなものしか感じられなかった。
黒綾波が死んだ時も「ああ死亡フラグ積み重ねてたから回収ね」って感情が動かなかった。
同じ1時間を使うなら、もっとシンジの内面を描いてほしかった。
第三村も生き残りも無しにして、3人が壊滅した街をずっと何日も移動する話にして良かった。
シンジが生きる気力は無いけど飢えでレーションに自分から手を出して「死にたいけど生きようとしてしまう」って流れで似たようなこと出来たと思う。
黒綾波の死がピンとこないのは一緒に過ごした時間が少ないからで、3人で寝食を共にするというエピソードがあったら心に響いたのではと思う。
シンエヴァは全編通してラストから逆算して作ってるからキャラの心情描写とか展開に粗が多い。
「エヴァを完結させるにはこうするしかない」って意図や計算が見える演出ばかりだった。
アスカがケンスケと付き合ってるという話も納得するところはあるけど、それより「制作の都合でそういうことにされてしまった」感がある。
最後のシンジとマリは「こうするしかないよね」と言われたら、はいそうですねと返すしかない。
最終決戦前に銃で撃たれるシンジとかばうミサトさんという下りは何のために?と思った。そもそもピンク髪のクルーはQでは「自己中な最近の若者」
って描かれ方だったのがシンで急に「家族のかたき!」って殺意向けるのが唐突に感じる。
トウジをニアサーで死んだことにして、桜に銃持たせて「命の恩人であると同時に兄のかたき」みたいにしたほうがすっきりしない?
シンジがエヴァに乗るための禊の儀式なんだろうけどそもそも必要ないと思う。
というかピンク髪の「超ヤバー」とか若者言葉のセリフもそうなんだけど、序破Qシン通して何?この世界観から浮ついたセリフって感じるのが多かった。
マヤの「これだから若い男は」もあとで回収するためだけのセリフだったし。しかも特に感動しない。
ぽかぽかって言う綾波もバズりたい!名台詞にしたい!って意図しか感じなかった。
アスカが「バカシンジ」「コネメガネ」とかマリが「姫」「ワンコくん」って呼び方も軽くイライラしてた。
ここぞ!ってときに本名で呼ぶだめの前フリなんだけどしつこい。
後半、ミサトさんの特攻はなんか変だと感じた。「これから特攻するので、総員退避だけど艦長だけ残ります」って事前アナウンスだとこれから死にます自殺します感が大きい。
「総員退避しました→あいつが居ない!→まさか…!?」みたいな流れが鉄板だけど効果的じゃなかったのか。
ゲンドウとの戦いで背景が撮影所になるシーンでぞっとした。そういう演出はTV後半があって旧劇もしつこいくらい精神内面描写があったから良かった。
新劇の演出でやると酷い違和感しか感じない。なんかどこかのタイミングでシンジが客席に向かって「映画を見てるみなさん!僕に力を貸してください!」
とか言いそうで怖かった。
シン詰まんなかったって書くと「じゃあどんなのが良かったんだよ」って返されるけどそれは俺の仕事じゃない、と思いつつ考えると、神様が出てくる話でよかったのでは。
エヴァ考察では使徒と人間を作った神的な存在があると指摘してるものもあったので、最初はネルフVSヴィレだったのが、人類VS神という展開になるって話。
ゲンドウとシンジの関係は共闘を通して修復される。Qで出てきた新クルーも活躍できる。というかそのためにあんなキャラ増やしたのでは。
最終決戦で話が全宇宙、全銀河レベルになって視聴者置いてけぼりなのはグレンラガンでもトップでもアベノ橋でも旧ガイナックスの18番だし。
シンは公開日初日に見て酷いという感想だったんだけど、今のところ評価する感想が多くて居心地が悪かった。これだけ書けて満足でした。
ケンスケがシンジに第三村を案内する場面。首無しインフィニティを指して「最近徘徊するようになった」と言う。これはシン・エヴァの公開が待ちきれず、そわそわしているエヴァの呪縛に囚われた哀れな人間の末路。
劇中の首無しインフィニティが心待ちにしてるのは4thインパクトである。
首無しインフィニティはエヴァの呪縛に囚われれた哀れな人間の末路である。
エヴァの呪縛に囚われれた哀れな人間が心待ちにしているのは新劇エヴァである
自動的に、3rdインパクトは旧劇エヴァ(まごころエヴァ)、ニアサーは新世紀エヴァとなる。
新劇では「破」のラスト予告枠で3rdインパクトが起きた。ならば、新劇Q以降のコア化した世界は旧劇エヴァ(=3rdインパクト)を観た者の心象風景に他ならない。
なお、2ndインパクトは機動戦士ガンダムである。なぜなら、新劇エヴァの世界では2ndインパクトは「15年前」に起きたとされている(新世紀エヴァでは西暦2000年)。
ニアサー=新世紀エヴァが放映されたのは1995年であり、その15年前は1980年。すなわち、機動戦士ガンダムが放映された年である。
使徒は福音(evangel)を非信者に伝えるものである。エヴァの福音を配偶者や同僚へ伝えるエヴァ信者。
エヴァンゲリオンに興味を持たない、あなたの隣人。使徒による布教やコア化を心から恐れている。
TV版、旧劇場版を全く見たことなくて序破Q→シン・エヴァだけを見た人間のネタバレ感想です。
序を見てみようと思ったきっかけは覚えてない。最初から話を語り直すよという点が後発組としては見やすいというか、せっかくだから見てみるか!くらいの軽い気持ちだったんだと思う。
序の感想は「あれ、思ったよりも全然わかりやすい?」だった。もっと難解な話だと思ってたので、意外にとっつきやすくてびっくりしたし、何より絵が見てて楽しい!戦闘シーンにワクワクした。
破の感想は「あれ!?なんかめちゃくちゃ面白くない!?」だった。爽快感があった。ウジウジしてることで日本一有名な中学生のシンジくんが、アスカとレイと協力して使徒を倒してて感動したし、ラストシーンは自らの意志でレイを救うために突き進んでて、そんな明確な自我の発露できる子だったんだ?!ってびっくりした。あそこでかかる翼をくださいは怖かった。
でも、Qの感想は「…やべえ何だコレ全然わかんねえ!」だった。まじで一気に何もわからなくなって、シンジくんばりに放り出された気分になった。ピアノ弾いたことないはずなのにがっつり連弾できとるの嘘やろ?になって笑ってしまった、カヲルくんとのピアノのシーンばっかり印象が強くて、あとは正直なにも覚えていない…!
そして今回のシン・エヴァの公開。インターネットが考察や感想で賑わいまくっていて、せっかくならネタバレを経ずにちゃんと見たいなと思い、映画館に行くことを決める。そしてあまりにも話を忘れていることに気づいたので、まずはもう一度序破Qを全部復習した(まじで大半を忘れていたので、見てよかった)。
9年ぶりのQはやっぱしんどかった。見ててとにかく「ディスコミュニケーションは本当に良くない」ってそればっかり思った。シンジくんには、本人にはどうしようもない14年間の空白があるのに誰もそれを埋めてくれなくて、突き放したり否定的な言葉を投げつけるばっかで、ようやくすべてを説明してくれたのはよく素性を知らないカヲルくん。とにかく優しい彼にすがるように何か前に進まなきゃ!ってなるシンジくんだけど、あろうことかカヲルくんは目の前で首ぶっとんでしんじゃうし、あまりにもひどすぎる。いや誰かもっと序盤で説明したれよ!みんな、頼むからもっとコミュニケーションをとってくれよ…。でも、「たぶんそういう『他者とのコミュニケーション』がままならないゆえに苦しんでいる話だよな…それをいっちゃあおしまいだよな…」って思って、最後に何を見せてもらえるのかを待とう、って改めてQを見直しながら決意。
そうして復習してから見たシンエヴァなんですが、すごく面白かったです。そして冒頭に、「これまでの新劇場版」を丁寧に振り返る数分間があってずっこけました。復習タイムのいらない親切設計だとは知らなかった。
今回、一番の感想としては、先述の「ディスコミュニケーション」が徹底的に解決されていたところにとても感動したというか、安心させてもらえた。
ものすごく真正面から、愚直過ぎるのでは?って思うくらい丁寧に、他者とのコミュニケーションの有り様が描かれていて、見ていてこちらまで肩の荷が下りた気持ちになった。
まず第3村の描写、あれこそがずっとシンジくんに足りなかったものだと思った。どうしようもなく傷ついて一人でいたいとき、突き放さず、過剰に干渉せず、でも一人きりにはしないあの距離感。大人になったトウジやケンスケ、内面は大人のアスカがシンジに接するあの姿は、Qまでの世界の中でシンジが一度も与えてもらえなかったものだから、あの時間が物語を終わらせる上で、シンジを立ち上がらせる上で重要なのは納得感しかなかったし、見ていてこちらも癒やされる感覚があった。あの尺は絶対必要だったと思う。でも、加持さん死んどるのはつらすぎた…。
「これが最後だと思うから」って明確に言葉に出してシンジと会話をしに来るアスカ。いやお互いにめっちゃ話通じてるやんけ…ってなって泣いた。
甲板でのミサトさんとのお別れのシーンは、「行きなさいシンジくん!」の呪いから、静かにお互いを解放できている感じがして、どうしたって泣いた。もう会えないことが薄々わかってる、いってきます/いってらっしゃいは辛い。そのあとミサトさんが犠牲になるのもえーなんで!?って思ったけど、後を託されたリツコが全く動じずに「ベストを尽くすわ」って引き受けるところ、そのものわかりの良さが辛くて泣いた。
ゲンドウとの対話は、お父さんいつからそんな喋れるようになったん!?ってくらいめちゃくちゃどストレートに心情吐露するからただただびっくりしたし、「いやそれでこの物語成立する?大丈夫?カタルシス生まれる?」って一瞬ヒヤヒヤして醒めた感じになりかけて見ていたのに、それでも!幼いシンジを抱きしめて謝るシーンは、やっぱりぼたぼた涙が出た。おとうさーん。。気づくのおせ~よ!!!
最後にシンジの内側からユイが出てきて守ってくれるところも、そんな都合よくていいんかー!?とも思ったけど、抱き合う両親を後にして自分の人生に改めて旅立つことができたシンジくん…って思ったら、いや何よその解放と祝福、って気持ちでまた泣いてしまった。
レイ、アスカ、カヲルそれぞれと会話してじゃんじゃんケリをつけていくところも、シンジくんがそんなふうにしっかりとした自我を持って、他者のために自分の言葉を使おうとできてる事実が尊くて泣いた。
つまり、かなりしょっちゅう泣いて見てました。でも別に「泣かされてる!お涙頂戴だ!」って感じではなくて、物語の持つ情動というか、エネルギーのうねりみたいなもの、エンドマークに向かって絶対にこのでかい塊を運んでいくんだっていう意志、そういうものを感じたりもして、ええもん見たな…って涙だった。半ば説明がつかないような、見てると勝手に出てくる涙って感じだった。
ラストシーン、あのシンジくんが!?大人になった姿…!14歳の姿から逃れて、自立した大人として最後に現れるのって、なんて力強く、全力の「今を生きること」の肯定なんだろうと思う。そこでマリが隣にいることには、何故かわからないけど、とてもすんなりと納得がいった。そして何より、海が青くて嬉しかった。
鑑賞後に色んな考察を読んだけど、リアルタイム世代の人とは見ているものやバックグラウンドが違いすぎるから、その観点の違いだけでも面白かったです。アスカの名前が変わったことと、旧劇場版のラストとを絡めて、惣流/式波ふたりともきっと救われている、っていう考察が複数読めたのが特に嬉しかった。そして宇部興産は全然わからなかったので知識が増えました。戦闘シーンが物足りないという意見はなるほどと思った。たしかに序破で感じた絵的なカタルシスはなかったかもしれない…というか、シン・エヴァの戦闘シーンは全体的に画面内の情報量が多すぎて、ついていけなかったかも。。
大量の新用語とかカヲルくんの立ち位置の謎っぷりとか理解できてないところも正直たくさんあるんだけど、それでも「楽しかったなー!」って思った。
こんなふうに屈託なく(といったらいいんだろうか?)楽しまれる作品であることを、果たして過去に監督や作品自体や、はたまたファンが望んでいたのかは正直わからないんだけど、
新劇場版しか知らない人間のひとりとして、最終地点を物語として楽しめた!という感想でした。見てよかったなと思う。せっかくだからなにか感想を書こうと思ったらけっこう長くなってしまった…
自分は重度のオタクで特にアニメが好きなアニメオタクでもある。
但し世間でヒットしているアニメの中でもいくつか嫌いな作品がある。
その中の一つが新世紀エヴァンゲリオンだ。
その原因は作品に込められたメッセージと監督の視聴者やオタクを侮辱するような数々の言動、発言だ。
アニメ終盤や旧劇を見てもわかるようにエヴァンゲリオンと言う作品はオタク向け作品の皮を被ってはいるものの徹底的にオタクをバカにするように出来ている。
観客を観客のために用意された萌えキャラであるアスカに気持ち悪いと言わせ
これが25年間追い続けたオタクへの冒涜でなくて何と言えよう。
その上エヴァンゲリオンの産みの親庵野監督は度々オタクやアニメをバカにした発言を繰り返している。
マスコミがアニメと犯罪を無理矢理結びつけようとしたりオタクを面白おかしくバカにしたりするネットで問題になっているオタク蔑視をアニメの監督そのものがしているのだ。
高給取りや所謂リア充もいることはいるだろうが偏見かもしれないが一定数の層は学校でいじめられ社会から阻害され女性経験がなく唯一の救いがアニメだった筆者のような存在だろう。
庵野監督だけでなく富野監督や宮崎駿監督といった業界の重鎮も同じようなことを口にしているが彼らは全員クリエイターとしては評価されているもののエンターテイナーとしては客を不快にさせ愚弄している以上三流以下だと思う。
真のエンターテイナーとは客の事をリスペクトし客のことを第一に思い自分のことよりお客様を喜ばせることを第一に考えるべきではないか。
自分達をコケにしバカにし差別している作品をまるで宗教のように持て囃し
その癖アニメを卒業しろと教祖様に言われたにも関わらずよりにもよって自分達をバカにしたエヴァンゲリオンに執着し
現実の女と付き合えと時代錯誤な説教をされたにも関わらずアスカや綾波に恋をし大金をグッズに注ぎ込む。
自分なら全てのグッズを売り払い不買宣言をしているところである。
ドラゴンクエストユアストーリーと言う批判の嵐にさらされた映画がある。
もちろんオタクはこの作品を大批判したし自分もこの作品は世紀の駄作だと思う。
しかしエヴァンゲリオンの旧劇とユアストーリーは何ら変わらないのである。
どちらもキャラクターが視聴者に説教して大人になれよと言うメッセージを一方的に押し付けるだけ。
それなのにユアストーリーは酷評されエヴァンゲリオンは信者が涙を流して絶賛し考察に励む。
おかしいだろ、どう考えても。
ワイドショーやタレントが同じことを言ったら大炎上間違いなしのオタク批判もエヴァンゲリオン様がやれば教祖様からのありがたいメッセージに変わる。
ワンダビジョンが考察の楽しいびっくり箱だった分、こう、ちゃんとMCUしてる。
言われるまでわかってなかったけど、アイアンマンいないしキャップいないし、ブラックパンサーは物理的にいない、ソーはリーダーではないし、スパイディは大好きだが、リーダー株じゃないよね…。
アントマン社長も引っ張ってく感じではないし…じゃあ魔法使いの方はちょっとアメリカのリーダーではないもんね。
アメコミの方は読んでないから、新しいヒーローが!!!みたいな予測はさっぱりできない。
フェーズ4に移る際に新しいリーダーは実はなくて、ぐちゃぐちゃなアベンジャーズが始まる「多様性」みたいな振りじゃなかろうな…
理由としては単純かつくだらないもので、それをやるにはもう私の感性が死にすぎているからです。
キャラと普通の人間の違いとか、キャラがどのように生まれてキャラをやめたらどうなるかとか、そういう考察ごっこは艦これで一通りやり尽くしてお腹一杯なんです。
死んだ感性からは「そんなんいちいち設定してないに決まっとるやろ」以外の感想が出てこない。
「史実ネタに沿ってて凄い!」って言われましても、そもそも史実ガン無視の擬人化なんてあんまり存在する意味ないと思うんですが。
どちらにしても今更そんなんでイキれません。すげえなみんな。
設定談義なんかもそうですけど、こういうソシャゲの盛り上がりって基本的に初動がピークで、「誰でも気軽に参入できてみんなで盛り上がれる特別な時期」は割とすぐ過ぎ去るじゃないですか。
一度死んで蘇ったプリコネやけもフレみたいな特異な例もないことはないんですが、結局こうやって新しいタイトルが出てくるとそのうち埋没していく。
特にサイゲのことだから、どうせそのうち廃層に合わせた鬼畜コンテンツが始まり「ついていけない奴は死ね」となるに決まってます。
来年の今頃はウマ娘の設定がどうとかそういう話はたぶん誰もしていないでしょう。そしてVtuberも新しいタイトルに飛びついてる。
こうやって当初のブームと全然違うゲームになるのは、ソシャゲでは珍しいことではありません。
艦これにもそういう牧歌的な空気はありましたが、例の秋イベによって一発で吹っ飛びました。
「ガチャを回さなくても強くなれる」というのは艦これ以外では初期のグラブルでも言われましたし、実際今でも全くの間違いというわけではないんでしょうが、
あちらも団イベとかやってるうちに、いつの間にかそんなことは誰も口にしなくなりました。
FGOがどう見たって初心者お断りの空気でしかもそれを隠さず、そして減収だのオワコンだの言われながら今でも続いているように、そっちの方がコンテンツの一生としてはずっと長いんです。
まあ、今大して流行ってないゲームをやってる身としては、一時期だけでも特別になれてうらやましいね、というのは正直思いますが。
これに著作権者の言うことだから聞くべきだと言っているブコメがあって驚いた。
著作権というのは憲法上の権利ではなくて、国が著作権法という法律で認めた権利だ。歴史的にも、憲法で表現の自由が規定されるようになった18~19世紀前半には著作権保護はろくすっぽされていなかった。そして、著作権を国家が保護するということは、ある著作物を利用して二次創作をつくる人を国家が抑圧する、という側面をどうしても持たざるを得ない。それが表現の自由に照らして問題ないと思うのはちょっと信じられない。それに著作者が二次創作はダメだと言ったらそれでおとなしく諦める、という淡泊な姿勢も納得がいかない。私は、(性的な表現を含めて)二次創作者は、どうしても二次創作を書きたいから書くんだと思っていた。こんな淡泊な姿勢をとる人が多いということは、実は単なる商売のネタに過ぎないのかな。訴訟になると面倒だから、ということならまだ分かるが。
私は著作権や著作者人格権が必要ないとはまったく思わない。でも、パロディ事件しかり、ときめきメモリアル(メモリカード)事件しかり、日本の著作権法や判例法理は国際的に見ても原著作者保護が極めて強いわけで、それは表現の自由に照らして非常に問題があると思っている。著作権には表現の自由が及ばない、みたいなことを言っている人がいるのは驚きではある。原著作者が権利主張を始めたらいわゆる二次創作物を壊滅させることができる(コミケは単に目こぼしされているだけ)、それを国が著作権法によって認めている、それが問題だと思わないのか。そういう問題意識を持たない人には二度と表現の自由などと口にしてもらいたくない、とすら思う。
~おまけ~
『ウマ娘 プリティーダービー』の「お願い」は、
キャラクターならびにモチーフとなる競走馬のイメージを著しく損なう表現は行わないようご配慮いただけますと幸いです。
本作品には実在する競走馬をモチーフとしたキャラクターが登場しており、許諾をいただいて馬名をお借りしている馬主のみなさまを含め、たくさんの方の協力により実現している作品です。
モチーフとなる競走馬のファンの皆さまや、馬主さまおよび関係者の方々が不快に思われる表現、ならびに競走馬またはキャラクターのイメージを著しく損なう表現は行わないようご配慮くださいますようお願いいたします。
というものだった。
https://umamusume.jp/news/detail.php?id=news-0106
これは、そもそも著作権や著作者人格権から来る要求とは考えられない。競走馬は著作物ではないから、著作権や著作者人格権の客体ではあり得ない。馬主が不快に思われる表現をやめよと要求する権利があるとすれば、おそらくは馬主の名誉権などの人格的利益の保護となるだろうか。競走馬ないしキャラクターのイメージを著しく損なう表現をやめよ、と要求する権利があるとすれば、知的財産権というよりは、商品化権ないしパブリシティ権(キャラクターのイメージの毀損については著作者人格権の問題になり得るが)といったビジネス上の権利の問題になるだろう。これを概括して「著作権」による要求と解するのは粗雑に過ぎる。
キャラクターのイメージの毀損については、一般的に性的な表現がすべてそれにあたると簡単に言うことはできないのではないか。たとえばどぎまぎイマジネーション事件※(ときめきメモリアルのもう一つのアレ)の東京地裁は、詩織ちゃんが「優等生的で、清純な、さわやかな印象を与える性格付けが、本件ゲームソフト及び関連商品の売上げ及び人気の向上に大きく寄与している」という一方で、被告が「清純な女子高校生と性格付けられていた登場人物の藤崎詩織と分かる女子高校生が男子生徒との性行為を繰り返し行うという、露骨な性描写を内容とする、成人向けのアニメーションビデオに改変、制作した」ということを問題にしているのであって、一般に性的な表現は許されない、と言っているわけではない。ある改変行為(性的な表現に限った話ではない!)によってイメージの毀損がなされているかどうかは、そのキャラクターがどんなキャラクターなのかということを考察してみないと始まらない。
「モチーフとなる競走馬のファンの皆さまや、馬主さまおよび関係者の方々が不快に思われる表現、ならびに競走馬またはキャラクターのイメージを著しく損なう表現」として、性的な表現一般がそれにあたるのではないかと考えた人がそれなりにいたことは確かに興味深い。
(もっとも、これに関するツイートを見ると、性的な表現に限らず何が「不快に思われる表現」なのかはよく考えてみないといけないはずだというものもあって、結構冷静に考えている人がいるのが分かる。
例:https://togetter.com/li/1239211 ; https://togetter.com/li/1673486)
ただ、私自身は、これは「「何にエロを感じるのは人それぞれだし、どこからエロくてどこからエロくないか線引きなど出来ない」と噛み付いていた人々が「ウマ娘のエロ絵は禁止」の一声で「何がエロだと受け取られ、馬主を不愉快にするか」をきちんと自分達で考え始めたの笑う」(https://twitter.com/rtoiuyuiotyuijj/status/1371455240143212545)というのとは正反対の事態ではないかと思う。先ほども言った通り、何がキャラクターのイメージを毀損するかというのは、そのキャラクターがどんなキャラクターで、どんな描写をしたらイメージを毀損するのかを具体的に考えなければ分からないはずである(そして、そうするべきだ、という人も確かにいた)。むしろ、性的な表現一般を諦めるという態度をとった人が少なからずいたということは、「何がエロだと受け取られ、馬主を不愉快にするか」を考えられないから、一般的に性的な表現はやめました、ということになったのではないだろうか? まあ、自分の描くものはあまたある性的な表現の中でも確実に人を不愉快にさせる類のものだからやめました、ということなのかもしれないが。
※どぎまぎイマジネーション事件では、東京地裁は詩織ちゃんのイメージの毀損によってどのくらいの損害が発生したのかという問題をあまり扱っていない。イメージの毀損という無形損害の賠償はどうしても裁判官の裁量、つまりブラックボックスになりがちだとはいえ、ゲームソフトの売り上げの損失(をコナミが証明することは困難だろうが)や、詩織ちゃんを使った事業にどのくらいの問題が生じたのかというような部分で争う余地があったのではないだろうか。それこそ表現の自由の観点に照らせば、「被告の行為によって受けた原告の信用毀損は少なくないと解される」という短い言葉で検討を終わらせて良いとは思えない。判決文の短さから察するに、被告の法定代理人が無能だっただけかもしれないが。
~追記~
(ブックマークより)
法解釈論と立法(法政策)論は別物だからな。増田の言うことは「日本もフェアユースを認めるべき」と前から議論されている。一方現行法上サイゲの「お願い」は正当性がありそれは尊重されるべき。
そんなに厳然と区別できるものではないと思う。ある法解釈の結果、いかなる帰結が発生するかという帰結主義的な考慮を法解釈に持ち込むことは裁判所も普通にやっているだろう※。著作者人格権については、著作権法20条は、著作物の改変について、客観的な名誉侵害等からの保護というよりも、主観的な思い入れを強力に保護しているようにも読める規定になっているわけだけれども、著作権を現実に行使するのが、著作権を管理している出版社やレコード会社といった大資本であることに鑑みれば、その解釈は非常に大企業に有利な体制を作ることになる。立法によってテクストを変更する前に、解釈の可能性が開かれているとき、まず解釈で争うことを諦めるべきではないと思う。
※もちろん、あまり政策的な考慮を重視するべきではないという立場はあり得る。特に刑法の場合、罪刑法定主義との関係上、処罰をする方向へと政策的な考慮を強力に効かせることには問題がある(古典的な例では、電気は財物にあたるかという問題が良く採り上げられる)。ただ、政策的な考慮を一切しないというのは、それはそれで異様な考え方ではないか。
なお、一見してみて、Cygamesの「お願い」が一理もないとは思わない。仮におうまさんのことは度外視しても、ファンコミュニティの維持は大事なことだろうし。単に、著作権には表現の自由は譲るという単純素朴な理解をしている人がいることが意外だっただけである。
メタボ教授「競走馬(種牡馬)は法律上『金融商品』なので単純に損害賠償請求される恐れがある」https://youtu.be/o3glYqYwsHs
金融商品とは何のことだろうか。カッコつきで書いてあるということは、金商法上の金融商品(有価証券、預金債権等、通貨)ではないということかな? キャラクターないし商品イメージ、ブランドイメージの毀損について不法行為による損害賠償請求がされうるというのはその通り。パブリシティ権との関係では馬名の使用について許諾はいらないということになるとしても、後からゲーム中の描写がイメージの毀損になっているとケチをつけられると訴訟を抱えて面倒になるから、馬名の使用を拒否する場合はその馬名を使わない、というゲーム会社の経営判断は理解できる。ただ、この金融商品という言葉遣いは唐突に感じる。
憲法上の権利である財産権と幸福追求権を著作権と著作者人格権という形で具体化しているので著作者の権利は基本的人権の範疇では。おまけは113条11項的なアプローチと思うので著作者人格権の問題なんじゃないかと。
確かに、あらゆる法律上の権利は煎じ詰めれば何らかの憲法上の権利に行き着く可能性が高い。ただ、憲法上の権利である表現の自由と、憲法上明示されていない著作権とをフラットに扱って、何も重み付けをせずに天秤に乗せるべきものなのだろうか? あと、おまけでは「お願い」が著作者人格権の問題ではない、ということではなくて、法的な権利の性質・主体・客体がバラバラな諸要求が一枚のお皿に盛られているので、著作権とひとくくりにするのはまずいということを言っている。
著作権と表現の自由の問題は多分学問的にもまだそれほど論じられてないので表現の自由戦士の中でもガッツリ法学系の人じゃないと考えるのも難しかろうとは。現状の著作権システムを是認するのが不当とは言い切れんが
これは、知らなくてもしょうがないかなという気はする。ただ、こういう論点も考えられるようにしておかないで何が表現の自由かとも思う。実際には、超有名論点にすら関心は持たれていない(性的な表現を制限する刑法175条がまるで問題にされていないようだし)のでそんなのは無理、ということになるかもしれないが。
そもそも「表現の自由戦士」はただのレッテルであって、何でもかんでも表現の自由をゴリ押す人たちのことじゃありません。法律に守られた権利を「お気持ち」でゴリ押そうとする人たちに抵抗しているだけです。
私は「表現の自由戦士」というレッテルは使っていないと思うのだが・・・。「法律に守られた権利」というけれども、ある表現に対する「お気持ち」表明(これもまた表現だ)を差し止める権利が表現の自由に含まれているとは解されない(名誉毀損のような場合は別だが)。それとも、「お気持ち」に基づいて出版物の差止め訴訟を濫発した、みたいな事件があるのかな? せいぜいツイッターでボロクソに言われた程度の話しかないような気がするけれども、それが元増田の言葉を借りれば「自由の制限」とはまことに大仰な話だ。
※以下はこの方に対する直接のリプライではないが、関連する内容ではある。
性的な表現(正確には、わいせつobscenityにあたるもの)というのは、日本やアメリカの判例法理上、保護されない言論と位置づけられている。なぜかというと、表現の自由について司法審査の基準を厳しく設定する理由として、民主的過程の維持や人格の発展といった目的が持ち出されるわけだけれども、ということは、逆にいえばそういった価値との関わり合いが薄い表現は、別に手厚く保護しなくて良いということになる。となると、性的な表現は「法律に守られた権利」とすら言えないのではないか。私は、それで良いとはまったく考えないけれども、それならそれで現在の判例法理を覆す理由付けを考える必要がある。悲しいかな、私は専門家でもないトーシローだし、中々良い案が浮かばない。表現の自由について考えている人は、是非この問題について詳しく調べてみて、知恵を貸して欲しい。なお、定義的衡量(何が「わいせつ」にあたるかという論点で戦う)をいくら頑張っても、いわゆるハード・コア・ポルノにとっては役に立たないということは申し添えておく。
二次創作者やその支持者の大半は「表現の自由」を信奉してるわけでは無いと思ってる。その観点から「表現の自由」という言葉を軽々に使うなというのは分かる / エロ即ち不快表現との理解はびっくりするよね
そう、私も性的な表現がただちに不快な表現にあたると解した人が少なからずいたことが驚きだった。こういう短絡を起こしたということは、将来、あらゆる出版社やゲーム会社がこの手の「お願い」を出したら、性的な二次創作表現は全部ピタリと止むということになるんじゃないかな・・・。
ケンスケがシンジに第三村を案内する場面。首無しインフィニティを指して「最近徘徊するようになった」と言う。これはシン・エヴァの公開が待ちきれず、そわそわしているエヴァの呪縛に囚われた哀れな人間の末路。
劇中の首無しインフィニティが心待ちにしてるのは4thインパクトである。
首無しインフィニティはエヴァの呪縛に囚われれた哀れな人間の末路である。
エヴァの呪縛に囚われれた哀れな人間が心待ちにしているのは新劇エヴァである
自動的に、3rdインパクトは旧劇エヴァ(まごころエヴァ)、ニアサーは新世紀エヴァとなる。
新劇では「破」のラスト予告枠で3rdインパクトが起きた。ならば、新劇Q以降のコア化した世界は旧劇エヴァ(=3rdインパクト)を観た者の心象風景に他ならない。
なお、2ndインパクトは機動戦士ガンダムである。なぜなら、新劇エヴァの世界では2ndインパクトは「15年前」に起きたとされている(新世紀エヴァでは西暦2000年)。
ニアサー=新世紀エヴァが放映されたのは1995年であり、その15年前は1980年。すなわち、機動戦士ガンダムが放映された年である。
使徒は福音(evangel)を非信者に伝えるものである。エヴァの福音を配偶者や同僚へ伝えるエヴァ信者。
人間らしい生活を送る、あなたの隣人。使徒による布教やコア化を心から恐れている。
慣れてない奴がやればぐだぐだになる。慣れてる奴がやればセオリー通りに進めるだけの作業ゲー。人数揃わないと出来ないけど、揃ったら先に脱落した奴が暇する。ネットでやればイキリと荒らしの巣窟。推理ゲーといいながら、所詮は底の浅い運ゲー。ここまで面白くないゲームって珍しいよな。でも、推理ゲーの皮を被ってるので、自分は頭いいと思い込めるってのが魅力なのだろうか。もし仮に慣れてないけど必死に考察しようって言う意欲のある奴同士が集まれば面白いゲームになるかも試練が、そんな奴が何人も揃うって事はまずまずあり得ないので人狼はクソゲーだ。まあ、どんなクソゲーでもやってる本人が面白いと思えれば(思い込めれば)、神ゲーなのかな
シンエヴァを見た。
ワクワクもドキドキもハラハラもしない、感動もない。ただ「綺麗に風呂敷畳んだね、見てる人に殴りかかるんじゃなくて、言葉で説明できるだけの理性はついたんだね、監督おとなになって偉いね」という意味で「良かった」と思った。EOEでぐちゃぐちゃにされた子供の頃の恨みみたいなものが成仏していたのに気がついた。シンを見て成仏したのではない。自分はとっくにおとなになっていて成仏していたのだ。そういう映画だった。
徹頭徹尾オタクが気にしてること、気にしそうなことを説明して潰しにかかっていたのは笑いそうになった。ミサトさんが無責任で酷いって気にしてたんですかね? 昔のエヴァならあんな違和感たっぷりの説明的なセリフ垂れ流さなかったでしょうよ。アスカやレイ、カヲルがベルトコンベアで流れてくる商品を選り分けるように、事務的に淡々と処理されていくのは本当に白けた。有名声優が何人も説明的なセリフを言うだけに参加してるのもシュールだ。
それでも終わっただけで「良かったよ」って言えたのは、多分今のエヴァに新鮮な楽しさや驚き、痛みや苦しみを描く力なんて無いとどこかでわかって、諦めていたからだと思う。ちゃんと終わらせること以外期待してなかった。
リアタイ世代で録画を何度も見て、映画もおこづかいをはたいて全部劇場で見た子供だった私も、大人になって見えてなかったものが見えるようになった。良質なエンタメにもたくさん出会った。少ない知識に狭い視野で、初めて見たショッキングなエンタメだったからのめり込んで、特別に思った時期があったのだろう。そういう期限は切れていた。期待しないようになっていた。
余談だが子供だった自分はアスカが生きたまま腸食い散らかされるのがあまりにも怖くて、ショックで眠れなくなったりうなされたりした。生きたまま食われるなんて考えたことも無かったので、本当に怖くて震えた。思えば初めて見たグロっぽい暴力的で悲惨なシーンだったのかもしれない。EOEまでは本当にいろいろと心に傷を刻んだ作品だった。
とにかくエヴァは畳まれた。シンエヴァは畳むために作られたものだ。物語として楽しくする気なかったでしょう? 嫌いなエヴァオタクと、終わってないことに言及されること消すために時間とセリフがあった。
監督ももうエヴァは見えないところにしまって、自由になりたかったんだろう。だから面白くなくてもファンやエヴァオタクががっかりしてもどうでもいいのだ。破まではエンタメとして良いものに作り変えようという気が見えたけれど、もうそんなのはどこにもない。
監督がエヴァオタクを嫌いっていうのは有名な話だ。インタで自分でも言っている。今も嫌いだろうと欠片も疑っていない。
でも彼の会社はエヴァの版権使用料がないとスタッフが食っていけなかったんじゃないかと思う。彼を慕い、憧れ、優しいスタッフと理解ある嫁を食わすには、大嫌いでもエヴァオタクからキャラクターで金を搾り取るのが一番儲かる。
ところがゴジラが当たった。ウルトラマンも撮らせてもらえる。もうエヴァがなくても稼ぐあてが出来た。だからエヴァはとっとと畳んで開放されても良い。というわけで前は急げで完成に至ったのではないだろうか。モチベ上がったでしょう。キャラクターをサクサクとエヴァオタクが金を払う気がなくなるような処理しをして片付けた。もうこっちくるんじゃねえぞってなもんで。
シンゴジの時はじめて心から嬉しそうな監督を見たからね。監督はあっちに行くし、エヴァオタには付いてきてほしくないのだ。ちなみにオタクにいちいち「エヴァ」ってつけるのは、監督は特撮オタに関しては嫌いではないし、彼自身オタクだから。アニメと特撮のオタク。エヴァに散りばめられたオマージュのおおさからして、けっこうディープなオタクだと思う。
シンエヴァの感想をいくつか読んだら、それぞれのキャラクターの処理について不満を漏らすと、案の定卒業しろよとかキモいと叩かれていた。まとめサイトに晒し上げられていた。流石にそれは酷いくないか?今までキャラ萌え的な商売しまくって、金を搾り取られた人たちが嘆いたって良いだろう。だって公式はそういう商売をしてたじゃん。中学生が脱衣する麻雀、ヒロインといちゃつけるゲーム、シンジをカヲルで落とせるゲーム。それを元にした漫画。同人作家にカヲルとシンジのBL描かせて監督が対談までしてる書籍もある。その他にも把握しきれないくらい色んなモノが出ている。エヴァくらい節操がなく金のためにキャラを売っていた作品も無いだろう。
キャラクター商品はキャラクターが好きだから買うものだ。キャラクターが好きだから金を出す人たちからずっと搾り取ってきた。それで飯食ってたんだよ何年も。Qから8年も食いつないでるんだよ。ゴジラがあっても、大半はエヴァの収入があったから8年完成させずにすんだんでしょう。もういらないからポイしたわけだが。所詮オタクは一方通行で金をつぎ込むだけで、優しくされるどころか捨てられたって文句は言えないものだ。でも悲鳴くらい上げても良いんじゃないの?25年前から根本的に変わらない作品にずっとついてきて、どんなにエグい商売でも金はらってきた猛者たちだぞ?流石に期待しなかったから文句もない私より愛があっただろう人たちが叩かれてるのは可哀想だ。好きじゃない人ほど簡単にさよならできるもんなんだから。
私は良かったと思ったから当初は否定的な感想や、点数の低い映画レビューを見ていなかった。けれど絶賛よりもTLに流れてくる苦言に、全部なるほどと納得したので見てみた。そうしたら感情的におかしくなって叩いてるとかアンチとかじゃなく、理路整然と嘆いていて、反論もなくそのとおりだと思ったものが多かった。ただ私にはそれに怒ったり悲しんだりする好意がもうエヴァにはない。良かったねー、終わったねーって流して終わった。
良かったで流した層、怒って細かく説明してる層が多くて、ほとんどの人が一回見ればリピートしない映画ではないだろうか。それでも何度かリピートしていろいろ考えてる人たちが少数いるけど、お金あるなあという感想だ。考察や小ネタ拾いは楽しくて好きだが、シンエヴァはそれをするには料金に見合わないと思ってしまう。そろそろ大抵の空白や説明のないところは、思わせぶりなだけでなんもない可能性が高い思いようになった。きちんと描けるなら描いてるだろうし、監督には無理だと思う。その上でエヴァは出来ないものはそれっぽく空白にしとけばファンが勝手に考察して想像して楽しんでくれるから、開き直って描いてないだけ。監督は25年かけても描けないものを描けるようにはならなかった。ピュアで傷つきやすく、作品が成功したために人間的に成長しなくても生きていけるようになった子供のままの人。それが痛いほどわかるのがシンエヴァじゃないか? 意味があるのかわからない考察をするなら、円盤をアマゾンで安く買えばいい。そもそも今回の映画、考察合戦する相手も少ないのでは。
監督とは反対に、声優は成長をひしひしと感じる人が多かった。声優の演技力にだいぶ助けられた映画だった。監督はそれに気がついただろうか。親子を多用するくせに父親も母親も描けないところに、それっぽい色を付けたのは声優陣だ。パンフのコメントは感慨深く読んだ。皆さんお疲れさまでした。緒方さん、宮村さん、山口さんは特にお疲れさまでした。シンジの声は最後まで緒方さんが良かったです。
貞本さんが参加されてなかったのは残念でした。彼の人間性とかは知らん。描く絵が好きだし、監督が投げ出したものを漫画版できちんと描ききったのを高く評価している。漫画版はキャラクターの心情もちゃんと丁寧に描いていたし、なによりきちんと完成させた。それが出来るか出来ないかが、本当のプロとアマチュアの差だと思う。貞本さんだってエヴァオタのいろんなものにさらされた人だったでしょうに、仕事を完遂した。傷ついたのは監督だけではない。エヴァの根本は監督の私小説だが、作品としてはたくさんの人の力で出来ているものなのだから、負の影響だって受けた人はたくさんいるでしょう。傷ついたからと膝を抱えて元気になるのを待ってても良いような環境にあった人は少なかっただけ。
「一般的に読めない名前をつける親は頭が良くない可能性が高いです。よって、読めない名前の子供は遺伝により頭が悪い可能性が高いです」は差別でない
「一般的に読めない名前をつける親は頭が良くないです。よって、読めない名前の子供は遺伝により頭が悪いです。ワタナベマホトも頭が悪いんでしょう」は差別
言いたいのは、差別反対のために統計的事実を否定するのはよろしくないということ。
ひょっとすると、本当に、名前の可読性と知能は相関するかもしれない。女性の方が運転が下手かもしれない。年寄りの方が発想力が乏しいかもしれない。差別反対のために統計的事実を否定すると、仮にこうした「偏見」に統計的なエビデンスが示されとき、議論に蓋をするしか無くなってしまう。実際、社会には、ジェンダーや年齢によるバイアスは無数に事実として存在する。
大事なのは、事実(かもしれないこと)を否定するのではなく、統計的事実を、無闇に個人に当てはめないこと。読めない名前だからこいつはアホに違いない、この女性もどうせ運転が下手に違いない、等という決めつけだけが差別だ。
ひろゆきの発言は、刑法違反という事実によって、ワタナベマホトを頭が悪いと判断した上で、また統計的事実をサポートする実例が見つかったと言っているだけだ。決して、名前が読めないからこいつは頭が悪いに違いない、という順番の推論ではない。
前者は統計的事実についての考察で差別ではない。後者なら属性から個人の能力等を決めつけているので、差別だ。
統計的事実について考察することは、アンコンシャスバイアスに気づく上で、むしろ必要不可欠なプロセスだ。こうした言論すら許されないのは、社会に「見えない」差別を残すだけだ。
これは鋭い考察。
Yahooやはてなブログでの高評価を見て期待して劇場に足を運んだ
でも自分としてはこれは単なる未完成か投げっぱなしENDにしか思えなかった
本当にこれがあの好きだったエヴァシリーズの最後の映画なのか?
納得がいかなかったのでここでぶちまける事にする
前半の村パートは分かりやすかったのに対して後半のネルフとの決戦は半分以上意味不明だった
知らない用語が次々と出てきては、はい次と進行していきぽかんと置いてきぼりを食らった
本当に熱心なファンであれば設定を熟知してなるほどと理解できているのかもしれない
でもTV版と旧劇と新劇を見た程度の自分にはとんとついていけなかった
ゴルゴダオブジェクトがどうのこうの希望の槍カシウスがとか一体何のことなのか
最終的に劇場の中で理解は諦めてなんとなくのストーリーを追うしかなくなったのである
勿論TV版や旧劇場版にもこういう訳の分からない用語と言うのはあったがこれほど酷くは無かったように思う
綾波とアスカ、どっちが好きかと言えば自分は断然アスカ派である
それを差っ引いて聞いて欲しい
ケンスケやトウジが年齢を重ねて落ち着いており、シンジに対して優しさを示したのに対する対比かと思えるほどの当たりの強さだった
シンジが突然未来の世界に目覚めたのに対してアスカはその間も生きていた訳である
ならその分の成長と言うかシンジに対する心情の軟化があっても良かったのではないか?
シンジの親友二人の成長に対してアスカはよく言えば昔のまま変わらずであり悪く言えば何も成長していないと感じられた
セリフでは先に大人になったのとか言っていたが全くそうは思えなかったのである
そして最終決戦で使徒化してまで13号機を封印しようとしたのに失敗し、逆にゲンドウに利用されて取り込まれる
旧劇の様な八面六臂の活躍を見せる訳でも無く、本当にえっと思うような退場であった
その上シンジの事は好きだったと過去形でケンスケといい関係になっているのである
これはもう半分NTR物を見せつけられている気分になったしとてつもないショックであった
エヴァと言うのは極端に言うとシンジと綾波とアスカの物語である
100歩譲って加持さんならまだ分からなくもなかったが何故ここでケンスケなのか
ぽっと出の奴とまでは言わないがケンスケとそういう関係になったアスカは見たくは無かった
その上最後にシンジを迎えに行くのは綾波ですらなく謎の人物のマリである
本当にマリって言うのは誰なのか
しかし最後に重要な役割を果たす割にはこのマリという人物の人となりや目的、バックボーンなどの殆どが不明なのである
綾波はクローンで命令だしアスカは親に見捨てられて褒められたいと言う動機というかキャラクター性がマリにはない
最終盤でなぜかユイや冬月やゲンドウの近くに描かれていたりはしたが何故年を取っていない様に見えるのかの説明もなく余計に謎が増えただけである
分かる事と言えば何やら突然出てきてシンジの臭いを嗅いだと思えば若干寒いセリフを言い続けるエヴァパイロット
この掘り下げも何もない様なキャラが最終盤でシンジを迎えに行く重要な役に割り当てられ挙句に成長したシンジと仲睦まじい様子を見せられてもぽかんとするしかなかった
アスカはマリの事をコネメガネと呼んでいたがそのコネが何なのかすらも判明しなかった
そしてもう一度見ようだとか考察しようだと言う気力が湧いてこないのは何とも言い難い感情であった
何にせよこれで四半世紀続いたエヴァは終わったらしい