はてなキーワード: 混沌とは
どうせ誰も悲しむ人間なんか一人もいない
機能不全家族で育ち発達障碍者として生まれた時点でこうなる運命だったのかもしれない
友達も一人もいなくて貧困だから薄暗い団地で古いゲームを繰り返し遊ぶだけしか楽しみがなかった
笑った経験など一度もない
両親はアスペルガー症候群とカサンドラ症候群みたいな感じでいつも口喧嘩ばかりしてた
学校でも過ごしづらかったのに家に帰るといつも情緒不安定な母親に怒鳴り散らされた
あまりのストレスのせいか中学生の頃には身体が不調になり 鬱病や慢性疲労症候群なような状態になった
あの時に死んでおけば良かった
人間の声が本当に嫌いになった
人間の姿も見たくない
ずっと寝たい
ずっと寝ていたいのに眠れない
検索サイトで「死にたい」みたいに検索すると「死んではいけません相談して下さい」みたいなページが出てくる
おせっかいなんだよ
こういうのやめて欲しい
世界を破滅と混沌に導くトランプやテロリストや環境破壊者は正しいと思う
自分でコントロールしてるって感覚がないのに自分の心臓や内臓が勝手に動いていたり腸内に細菌がいると思うと気持ち悪くて吐き気がする
科学者になってたら地球を滅ぼす兵器を作ったり人類を滅ぼす研究をしていたかもしれない
って書きたくなるくらいつらいことあった
http://anond.hatelabo.jp/20170106192307
ポピュリズムがなんでダメなのか、ちゃんとブログに書いておいたのに誰も読まないからこんなとこに改めて書く。読みもしないで「なぜダメか説明しない」と仰る方のためにわざわざ出張ってくるのもなんなのだけど、今夜はちょっとだけ時間があるので。
まず、ポピュリストを支持しているのはアホな大衆であるという決め付けがこの方にはあるようだが、それは事実ではない。ポピュリストを支持するなかには、もちろんアホな連中もいるが、それはそれ以外の政治家であっても同じことで、アホはどこにでもいる。その一方、賢明である人々、賢明であるとされている人々の中に、なぜかポピュリストを積極的に支持する人々が少なくない。ポピュリストの人気は、むしろそういう取り巻き連中の言説によって確保されている。
で、なんでそういう有能な人々がポピュリストを支持するのかといえば、それは自分の主張する政策を取り入れてくれるから。ポピュリストというのは人気商売だから、最大限に人気が確保できる戦略をとる。そして、知識人にとって政治家の評価は、どれだけ自分が主張する政策を取り入れてくれるのかにかかっている。そういった評価を確保したければ、あらゆる政策を見境なしに取り込むのがベストだ。だからポピュリストは、進んでそれをやる。
それって民主主義じゃないのかと思うひとがいるかもしれないが、全ての人々の主張を全て取り込むのは混沌であって、民主主義ではない。あらゆる主張を取り込んだときに生まれるのはカオスでしかない。政策というのは、そういったカオスを避けるため、なにがベストであるのかを議論し、利害を調整して、落とし所をつけていくことだ。ポピュリストはそれをやらない。そして、カオスの収拾がつかなくなってきたら、弱いところを攻撃することで多数派を味方につけ、形だけでも民衆の総意が得られているような演出をする。そうなっても、自分の主張が政策に取り込まれているという事実にしがみつく知識人どもは、眉をひそめながらも、ポピュリストへの支持を続ける。その支持が実際にはポピュリストのパワーの源だということを意識さえせずにね。
ざらっとしか書かなかったけど、「大衆がバカだと諦めるポピュリズム批判」なんて、表層的なマスコミの言い草だということがわかってもらえただろうか。もっと緻密な議論を見たかったら、歴史関係の論文でも読んでみたらいいよ。ポピュリストがどんなふうに実権を握っていったのか、実証的な研究はいくらでもあるんだから。
ブラッディって何がカッコイイの?血なんていやだよ!痛いだけだよ!これのどこがカッコイイの?クレイジーのどこがいいのかわかんない!罪深いって何なの?罪があるの何がいいの!?犯罪者がカッコイイの?そもそも混沌って何!?カオス?だから何なの!?闇って何?黒ければいいの!?正義と悪だと何で悪がいいの!?何で悪い方がいいの?悪いから悪なんじゃないの!?右腕がうずくと何でカッコイイの?自分の力を制御できない感じが堪らないって、何それただの間抜けな人じゃん!ちゃんと制御できる方がカッコいいよ!立派だよ!普段は力隠してると何が凄いの?そんなのただの手抜きだよ!隠したりしないで全力で取り組む人の方がカッコいいよ!どうして二つ名とか異名とか色々付けるの?いっぱい呼び名があったってわかりにくいだけじゃん!英語でもなんでもカタカナつけないでよ!覚えられないんだよ!鎮魂歌って書いてレクイエムって呼ばないでよ!禁忌って書いてタブーって呼ばないでよ!聖戦って書いてジアードって呼ばないでよ!ギリシャ神話とか聖書とか北欧神話とか日本神話とか、ちょっと調べたくらいでそういう話ししないでよ!内容もちゃんと教えてくんなきゃ意味が分かんないよ!教えるならちゃんと教えてよ!神話に出てくる武器の説明されても楽しくないよ!グングニルもロンギヌスもエクスカリバーもデュランダルも天叢雲剣も意味不明だよ!何がカッコいいのかぜんっぜんわかんない!他の用語も謎なんだよ!原罪とか十戒とか創世記とか黙示録とかアルマゲドンとか・・名前が良いだろってどういうこと?雰囲気で感じろとか言われても無理だよ!相対性理論とかシュレティンガーのネコとか万有引力とか、ちょっとネットで調べただけで知ったかぶらないでよ!中途半端に説明されてもちっともわからないんだよ!ニーズとかゲーテの言葉引用しないでよ!知らない人の言葉使われても何が言いたいのか全然わかんないんだよ!自分の言葉で語ってよ!
前回までのあらすじ
俺、マスダ!
いま、この世界では『ヴァリアブルオリジナル』がすっげえ流行っているんだ。
かくいう俺も、その流行の住人なんだけどね。
今日も家で何気なくアニメを観ていたら、CMでなんてこったい!
大変だ! 今すぐ買いに行かなきゃ!
俺一人だと年齢制限に引っかかって購入できないから、兄貴を連れてレッツゴーだ。
こうして、俺たちは町に繰り出したんだけど……おっと、ここからは兄貴に語ってもらうよ。
「くそお、どこもかしこも売り切れだ! ネットにも出回っていない情報だから、スタートダッシュは同じはずなのに」
数件ほど回っているが、店主から帰ってくる答えは「売り切れ」だった。
一応、いくつか在庫のある店はあったものの、新パック目的の人たちは多くいるようで混沌としており、泥沼の紛争地帯と化していた。
あの中を掻き分けるのは子供の力では難しく、もちろん俺はハナから興味がないので拒否する。
弟は指を咥えて見ているしかなかった。
「一部のコアなファンの仕業です。これまでの発売時期や期間、アニメから読み取れる僅かな情報からヤマをはって、開店前から並んでいたのでしょう」
いきなり俺たちに近づいて話を展開させてきたのは、俺の通っている学校のOBであるジョウ先輩だった。
大人の中にも熱中している人間がいるとはメディアでも報道されていたが、まさか身近な知り合いにいたとは。
「小癪なのは、意図的に流通を少なくしている上、予約を受け付けていないことです。そうすることで店になだれ込ませて話題性を作り、購買層を煽っているのでしょう」
弟がジョウ先輩に突っかかる。
口調が無意義で鼻についたらしい。
「小童、覚えておきなさい。平日の昼間以外に働く人間だって多くいるのです」
「え、ジョウ先輩って夜間とかの勤務でしたっけ」
「ほほほ、兄弟そろってお子様ね。今日のワタクシは、有給ですのよ!」
つまりジョウ先輩は新カードパックのために、発売時期にヤマを張って有給をとっていたことになる。
何日分使ったかは怖くて聞けなかった。
「既に5箱確保しました」
「5箱も!?」
「同じカードでもデッキに複数入れることが可能ですから、多すぎて困るということはありません。それに運悪く目的のレアカードを引き当てられないこともありますから、出来る限り確保しておきませんと」
「ちくしょう! あんたらみたいな大人がいるから、俺たちに1パックもこないんだ!」
「ほほほ、覚えておきなさい小童。これが“大人買い”というものです!」
「負け惜しみにしか聞こえません。ほらほら、こんなところで油を売っていてよろしいのかしら?」
そもそも先に話しかけてきたのはジョウ先輩からのほうなのだが。
どうやら弟みたいな買い損ねた人間をおちょくって優越感に浸りたかったようだ。
ジョウ先輩は笑いながらその場を悠々と去っていく。
「くっ、まだだ。まだどこかに残っているはずだ!」
弟は踵を返し、走り出していた。
邦画・和ゲー・アニメ、ドメスティックさの観点でそんな受けてる?
任天堂はいつも、丁度良いもの(と程よいケレン味のあるもの)を作ろうとしてるんであって、ドメスティックさを狙ってるとは思えないのだけど。
今度出すゼルダ新作は完全に海外風オープンワールドだし、そのフォーマットの中での、任天堂が施してくるであろう丁度良いチューニングの上手さに期待と信頼がある。
相当にドメスティックなペルソナは一定の評価を受けつつも、やはり売れてはいない。
日本らしさは混沌(WTF?!な。)に見出す人も多いし、混沌は丁度良いものと対極に在ることが多い。
極めてドメスティックな渡辺謙とマコノヒーの映画はあの顔ぶれでコケた。
などなど、必中足れとは勿論言わないけど、ドメスティック特化が正解なんて、まだまだ何とも言えない。
日本人の桜の花の愛し方は実に変わっている。世界の人は普通、満開の花を愛するものであるが、日本人は散り際の桜をこそ最も愛するからである。
それは諸行無常への愛である。一つの生を生き切った花を見送ると同時に、それは新しい芽吹きへの予感を伴っている。
それは死と生と常に変化し続ける世界をそのまま認める態度である。だから散り際は切なくはあっても悲しくはない、むしろ愛おしい。
同様に、日本人は未完成なもの、左右非対称な歪んだものを愛する(茶道の歪んだ茶器や左右非対称が基本の生け花のように)。
それは「世界には意味がある、完成形がある」という目的論への強烈なアンチテーゼである。
現実をきれいに整理整頓して大きな意味をもって見ようとする欲望は世界中にあるが、この欲望はあるがままの現実を直視できない弱さでもある。
はてなにしろ2chにしろ、00年前後ははわりとぽわぽわしてて礼儀正しく、害があっても広がりにくかったし、各ポータルサイトもゲスさは無かった。
2chは便所の落書きと言われてはいたが、馴れ合いによる相互承認や、情報を求める意識を持った参加者たちで良い空間を作ろうみたいな意識もあったし、クソくだらないジャーゴン(オマエモナーなど)を共有して生まれるゆるい一体感もあった。
今はそうではない。
陰湿で、攻撃的で、快楽主義であり、セクト意識(裏切り者を許さない)はあるけれど共同体意識(助け合いと相互承認)はほぼなくなった。
2chで「氏ね」ではなく普通に「死ね」と使われ始めて久しい。もうみんな心のブレーキがなくなっている。
ネットは「叩くことで上に立ったかのように振る舞う、安上がりな自己欺瞞や他者へのアピール」でありふれている。
中には「叩くこと」への快楽に目覚め、それを目的化し、それを正当化するための言い訳としての「誰かの失敗」と「正論」を求める人もいるように見受けられる。
なんでこんなになっちゃったんだろう?
00年代頃はまだ限られていたインターネット利用者だが、格安ブロードバンドで普及を見せ、その後スマホを介して国民のほとんどがネットの参加者になった。
社会に出て一生懸命働いている人たちや真面目な学生は平日昼間にネットに入り浸ることは少ない。
平日昼間のネットを支配しているのは、無職、ニートである。その中で暗い要素を持った集団を抜き出すと「仕事にあぶれて苛立つ求職者」「世の中を諦めた世捨て人系無職」「登校拒否の延長の引きこもり」「うつ病神経症統合失調症といったメンヘル」「発達障害などで社会に適応できなくなった人たち」「終わらない家事と身近なストレスで心の許容量が狭くなった鬼女」「世の中舐めてる陽キャのニート」「レールからそれて戸惑っているニート」「世の中に喝を入れたいリタイア組」・・・。まあ、とにかくたくさんいるわけである。
もちろん、悪意のある抽出であり、心のきれいな方々もたくさんいるのだが、悪貨は良貨を駆逐するものだ。
そういった人々は暗い感情や怒りを、炎上の快楽で気晴らしするのである。いわばweb放火魔だ。
火を生み出す力の喜び、何かが燃えていく光景を見つめる陶酔、生贄を取り囲む祭りの高揚感・・・。
彼らは毎日ネットに入り浸るうちに中毒になり、炎上が目的化する。
ニコニコ黎明期のようにクリエイティブな方向で承認を求めていれば平和だったのだが、今のニコ生はDQNのほうが受けやすい。
はじめしゃちょーやヒカキンみたいな発想力とパフォーマンスを持っているわけでもない人たちは、過激な毒のショッキングさで目立つしかない。
これはネットの言論空間にも言えることで、有吉や張本みたいに「きっつい毒舌」「鋭いお叱り」を出来る人間が承認されやすい。
熱心な語りもいらない。消化しにくいからだ。
つまり、ワンフレーズで響き、嘲笑と「俺たち情強だよな」といった満足感を生むネガティブな言論をしたがり、見たがるようになっているのだ。
問題は、そういった平日昼間の言論が「ネットの声」「ネットの常識」とされて一般層へ輸出され、ネットの文化となり、新たな放火魔を教育してしまうことだ。
本来ただの過激派、愉快犯にすぎない言論が、いつの間にか「民主主義」になってしまう。
現実でも起きうる/起きているかもしれない事態が、ネットではものすごい勢いで波及している。
誰かが火を消さなければいけないのではないか、誰かが防火壁を作らなければいけないのではないか。
ホッブスによれば自由とは混沌であり、万人の万人に対する闘争だなのだ。ネットはそちらに向かいつつある。
東浩紀はネットにルソー的社会を求めたが、あんなものは絵空事である。
「私達には関係ないこと」と高みの見物を気取る人たちは、いつか自分たちが悪意の生贄にされるかもしれない未来を予期していない。
自分のところまで悪意が登ってくる可能性を考えていないのだろう。しかしすぐとなりをよく見てみると良い。
シェルターの中にいる隣人が、悪意の炎を瞳の奥に隠しているかもしれない。
大人たちが壊れてしまう空間なのに、子供にリテラシーとかいう頼りない防御策を教えて何とかなると?
ネットの治安を維持するための善意の言論を発信していくべきだろう。強硬的な手段ではなく、新しいモラルを共有できる仕組みを考える段階に来ている。
それと同時に平日昼間勢の心を癒やす必要がある。彼らの本当の問題はネットではなく現実にある。現実が変わらなければ彼らは変わらないだろう。
ネットと現実はリンクしており、ネットは日本の未来の実験室である。このまま手をこまねいて見ていれば、現実社会も今よりさらに厳しいものになっていくだろう。
今の所貴女は恋愛という形での他者を必要としていないという、ただそれだけのことと思います。
恋愛というのは、他者という混沌を受け入れてそれまでの己を壊す作業でありますので、いま貴女はそういう状況にないのでしょう。人間そんな簡単に完成してしまうことは出来ませんので、放っておいてもそのうち貴女は恋愛をするのではないでしょうか?
このような場所で他者の意見を求めていることからもその萌芽は窺えますしね。
「なこと言われても私の周りはみんな恋愛してるのになんで私はし難いのかわからないのがやだ」とおっしゃるならば、一つ私見を。
貴女は他者に媚びる演技をすることを不誠実だと仰いますが、この不誠実って誰に対する不誠実でしょう?そのまま読めば、騙された相手への不誠実と言うことになるのでしょうが、果たしてそうでしょうか?
貴女は自立した強い人間たれと自分を律してきたのだと述べておられますが、不誠実はそれに対するものなのではないですか?
勿論相手を騙したくないという気持ちはあるのでしょうが、この「相手」というのは貴女の中には実像として定まっているものではありませんね。
例えば相手によっては貴女が普通にしていれば(その人に比べれば)貴女はとぼけて隙がある、ということにだってなり得るんですからね。
「そんな人間いなかったしそんな関係には憧れない」とお思いでしょうが、
なんにせよなんらかの二人称の関係が想定されているようには見受けられないのです、貴女の文章からは。
つまり、貴女が想定している強い貴女は、他者の前で媚びて嘘をついたりはしないと、だのにそれをやったら自分に対して不誠実だと、そういうお話だと思うんですね。
大体相手に不誠実というのなら、自分が恋愛という役割を演じられないと親に開き直ることはしたくないので、自分の社会的完成の一助のために恋愛をしておきたい、なんて動機で恋愛するなんてことのほうが驚くべき不誠実ではありませんか。
まとめます、要するに貴女は今の所自分のことで手一杯で他人を受け入れる余裕がない、他人に目を向けてないので恋愛が出来ない。身も蓋もない話ですが当たり前の事ですよね。
多分貴女は聡明で、しっかりした性格で、何事もソツなくこなす成熟した大人として他人からも評価されているのでしょうが、その所為で「実は私は他者を受け入れるという事については他の女の子よりも疎いのだ」という事に周りも貴女も気づいていないんですね。
しかし人間そんなに簡単には完成なんて出来ません。貴女が自分を壊す必要に迫られた時必ずや恋愛というものは訪れることでしょう。
そう遠くないうちに。
東に自担の現場あれば、足と宿とりチケ探し。西に自担が載る雑誌あれば、値段を見ずにあるだけ買い。南に自担に興味を持つ人いれば、行ってフォトセを渡してやり。北に自担が映りこむかもしれないデビュー組コンサートの初日を報じるワイドショーあれば、友人に頼んで録画してもらう。
雨にも負けず風にも負けず。長い間そうやって過ごしてきたから、ジャニオタのやめ方が分からない。
今の職場で働きだしてから、例えば初日や千秋楽や自担の誕生日といった、絶対に外せない現場に入れなくなった。でもTLでは誰かしら入っている。数ヶ月前なら自分も入れたのに。という風に思ってしまってしんどい。
同担とは同意見にならなければいけないみたいな圧がしんどい。同じ舞台で同じ人を観ていても、どう感じるかは人それぞれなのに「今年去年より楽しいよね!」と言われるとそうは思ってなくても、肯定せざるを得なくなる。
自担がいるならどこでもついていくタイプのオタクをやめるのってどうしたらいいんだろう。
人と比べるのもしんどいし、昔の自分と比べるのもしんどい。でも自担はかわいいし、見れば好きだと思う。でも今は現場に行きたいという気持ちが無い。確実に自担がいる現場があるのに。
いるなら行くしかと思ってチケット確保したけど、いまひとつノリきれなくて手放した。雑誌も載ってるから買ったけど、開けてもない。義務感というか、起きて顔を洗うのと同じような感覚でオタクをしている。オタクをしていた。
だからジャニオタやめたいと思っていても、仕事が終われば一番にツイッターを見て、何か変わったことは無かったか確認してしまう。息をするように。
ツイッターやめてテレビの録画もやめればやめられるのかもしれないけど、自担はかわいいから見ていたいし。どうしたらいいのか、どうしたいのかが分からない。とにかくこの混沌から抜けたい。
誰が何と言おうと、私はジャニーズ事務所に夢を見続ける。
そして、少しでも前で歌いたい、踊りたいという熱意に満ちたジャニーズJr.のあの煌めきに満ちた目に、何度だって心を奪われるだろう。
歌い、踊り、太鼓を叩き、宙を舞う。華麗なダンクシュートを決め、息ぴったりのファンカッションやダブルダッチも見せてくれる。
あれもこれもと詰め込まれた混沌のようにも思えるステージを秩序立てるのは、彼らの熱量だ。
同じステージに立つ他のジャニーズJr.は、彼らにとっては仲間でありライバルである。
自分たち仲間が「ジャニーズ」であることの誇りと、その仲間へのライバル意識。この相反する二つの感情が融合したとき、彼らは得体の知れない輝きを放つ。
それでも、彼らのとびきりの笑顔や悔し涙、真剣な眼差しには嘘はない。
彼らの作り上げる「ジャニーズワールド」が、どうか彼らのためのものであって欲しい。
永遠なんてものが存在しないことは嫌というほど分かっている。明日には全てが崩れ去る可能性だってある。
それでも私はジャニーズ事務所に夢を見る。ジャニーズ事務所が提供する最高のエンターテインメントに夢を見る。
クソみたいな短レスのトラバ合戦はとても美味しくて、ヤフー糞袋でやるような質問記事についたブクマも想像以上に参考になって満足なひとときだったのだけど、ひとつ不満が残っている。
男児といっても小さな子供ではなく、声変わりも済んで、触腕、鉤爪、手が自在に伸縮する無定形の肉の塊と咆哮する顔のない円錐形の頭部を持つ少年だった。
万物の王である盲目にして白痴の神らしき女性と2人で入ってきたのだが、旧支配者なんてひとりで風呂に入れるだろうに、何故他の増田もいる増田に連れてくるんだ。
私はログインしてからまだ5分ほどだったが、名状しがたきおぞましさを感じたのですぐにあがってしまった。
本当はアザトースの方に非常識ではないかとメッセージをとばしたかったのだが、家族水入らずのインターネットに水を差すような真似はできなかった。
小さなミ=ゴなら微笑ましく見ていられるが、這い寄る混沌を受け入れることはできない。これは、私がもはや正気を失ったためなのか?
障害をもっていてひとりで無限の宇宙の中心部で不浄な言葉を吐き出せなかったのだろうか。それなら、ランドルフ・カーターは何をしているんだ?
どうしても母親なしで増田に入れないのなら有料の輝くトラペゾヘドロンがあるだろう。そちらを使えばいいのに。
はてなもはてなで、千の異なる顕現のうちいくつまでがはてなのサービスを利用していいのかを明記していない。そもそも増田の入口に90度以下の鋭角がないのでわんわんパークもできない。
私は混沌宇宙に入りたくてわざわざグン増田まで来たのではない。気分が悪かった。さっきも吐いた。濃緑色の嘔吐物に、無数の蛆がのたうっている。その一匹一匹が妙なる甘きコーラスを織りなし、まるで天上の音楽を聴いているようだ……ああ、ブラウザに、ブラウザに!
これはもう、文学のせいですよ。
でもよく考えたら、両方とも対義語じゃない罠。
対義語はどちらかというと『話し合い』。
ちなみに『罪』の反対は『功績』。
『罰』の反対は『報償』。
図書館戦争を読み、司書資格を取得した。(TSUTAYA図書館はいかんですよ)
最近思うのは「もうあの作品の図書館は必要でない」ということだ。
※図書館戦争のコラボCMで電子書籍とコラボしていたが、いかがなものか。
日本特有の文化にあるのかもしれない。「舟を編む」などを見ると、質感やビジュアル、物に拘る日本人らしい購入欲ともいえる気がする。
情報は電子化すれば良い時代になった。だから本も電子化すればいいのだ。
そうはいかない日本人の頑固なところではあるけれど、その価値観はいずれ若い人たちによって変革を遂げていく。
今30代の人が80歳まで生きるとする。あと50年くらいか。30代というと、電子書籍を理解しつつも、紙の本に執着してしまうお年頃だろう。
その人たちは、きっと死ぬまで紙の本が無くならないでほしいと祈る。また人口比率も多い世代ではないだろうか。
なので後50年以上は、紙の書籍は消えないだろう。
しかし50年後は「紙の本なんて見たことなぁい!」と言うギャルが増殖しているだろう。某理系ミステリィ作家が、近未来もので似たようなことを書いていた気がする。
対して「は?バカじゃないの?」と言う争いもネット上で起こっているだろう。人間は進歩しない。
まぁ、紙の本はコレクション的に売れるのかもしれない。
本は電子書籍にすることによって、出版社を通さずとも発売できる時代にもなった(出版社の未来も危うい)。
出版不況とも言われている。わざわざ自分の本を買ってもらえずに、タダで置こう。と、思える作家がどれだけいるだろうか。
図書館に本を置くことで作家に利益が出るのか、個人的にいろいろ考えてみた。現段階で言えることは、そういう仕組みは確立されていない。そして確立するのもまだまだ時間がかかりそうだということだ。色々と理屈はあるのだが全体的に見ると「図書館によって作家は損している」としか言いようが無い。新規読者を獲得しても早々に新作を入荷する図書館がある。その時点で購入意欲は収まり、作家は損をすることになるのだ。
こうなると、図書館は誰のためにあるものかという話になるだろう。
お金を払えない人のために存在する。これで間違いが無いだろう。
しかしお金が払える人も借りている。本が売れない。図書館だけのせい、とは言わない。でも悪循環は止まらない。
このままだと作家団体にボイコットされても仕方がない(既に抗議はされていたり…)。近い将来の図書館存続のために必要なのは「作者」と「図書館」のwinwinな関係であろう。
しかし考えなければならない。もっと遠くの未来。紙の本に必要性が無くなった時代の話。
著作権が切れたものは、電子書籍で無料配信される。作者が本の金額を定めることも可能になった。無料~300円程度で永久に手に入る状況だ。
もっといえば月額金を払うと、図書館に置いてないようなものもレンタルできる時代だ。
それはつまり、『図書館』の必要性が無くなることと同義である。
勉強する場所なら、静かで、もってきたコーヒーが飲める施設でもあればいい。つまり公民館など。
なかなか手に入らない本といえば、専門書だろうか。分厚いし、高いし、そういうのは図書館が必要になるのだろう。
しかし専門書だって今は専門ごとがほとんどネットに載っている時代だしなぁ。困ったもんですね。
はたして少し遠い未来に図書館を必要としてくれる人が居るんだろうか。みなさん図書館は好きですか?
ああ、こりゃー日本の図書館は生き残れないって思ってしまう。海外の図書館は「ここに行きたい」と思わせる。博物館化している。
日本の図書館は公民館の延長のようなものがほとんど。そして今から図書館を増設しようという時代でもないので、世界の素晴らしき図書館を模倣し新たに作ることもできない。
図書館が無くなれば、リファレンス能力を持った司書の行き場もなくなるのだ。
書いてることがまばらになっている。これが今の自分の感情である。
「紙の本はもう古い。しかし愛着を持っている。でも電子書籍の方が圧倒的に便利だし、電子書籍の時代はあっという間に訪れる。図書館は好きだけど、このまま図書館が存続するとは思えない。どうすればいいんだろう。わからない。しょうがないのかもしれない」
そういう時心の中では「ンオアッハー!ホンガガホンガッ、ポーーン!!」とか思ってる。
あとからTwitterとかに出力しようとすると(今のは早くどけよ!的な苛立ちの感情だったかな?)って語勢やテンションから分析する感じ。
そうでなければ、すぐどっかに流れていくから消えてしまう。だって直後じゃないと意味わかんないし。
チッって舌打ちですら、その場で即座にレスポンスできる人はすごいなって思う。マナーは悪いけど。
頭の中では、意識して紡ごうとしないと、意味のある日本語にはならないので、嫌な事があっても悪口が頭に浮かぶってことも全然ない。
上司にイラついたら「フンギャラホンギャードコドコドゥー」とか思ってる。怒りを表明するときだけそこから言語化する感じ。
正直、黙ってたら何かを書くとか打ち込むとかしないと、頭の中はなかなか言語化されないので、
おばちゃんの「ここグーっといってグイっ!といってキュンや」みたいなのも真っ青な混沌の渦に沈む。
黙って、手も動かさずに、ってなると思考がロクにできない。
主に絡まれてたのは一緒にいた友達だったけど、飲んでた店の閉店で家に帰ろうとしたら強引にスナックに連れていかれた。
ジジイ足元フラッフラになってたし、帰ろうとしたら何言ってるかわからないけど大声出すしで、
放置してのたれ死なれてもあれかなーと思って、一応ついて行ったけど、自分の体力とか精神力に余裕がない場合はあーいうのは見捨てるのが正解だったっぽい。
ロクなもんじゃないね。もっとちゃんと自分が気乗りするかどうかで判断しておけばよかった。
ジジイ語録
「ここらじゃ同和も総連もヤクザも一緒くたじゃ!」(まあそういう混沌とした土地柄ではある)
「それぞれもう随分偉い立場になってるけど、誰かが調子に乗ってナメたこと言ったらすぐ地区の上の者がシメ上げるし、今の立場がどうでも先輩には逆らえん」
「総連のお偉いさんになっとる奴も、ここに来てワシらが「オゥ」って声かけたらペコペコするんじゃ!」
「高校生の頃は同級生がいたから組長のトコに「オーッス」って遊びに行ってたもんじゃ」
「(通りすがりのスナックで)なんやこの店は!こんな店知らんぞ、この辺は○○が仕切っとんじゃないのか!」
「オゥママ、ワシ○○の連れやけどな、ここらで商売やっとったら○○知っとるやろ?ここの店はいつからやっとる?」「○○さん?ちょっと存じ上げませんが……お店はかれこれ20年ほど……」
喋ることの9割が地域と自分のろくでもなさの自慢と、各組織の親玉と繋がろうと思えば繋がれるんだぞ的な自慢。
ボスと直接マブダチとかですらなさそうだった、後輩(同じ学校だっただけで絡んだことない)とか同級生の親とか、そんな感じ。
田舎で実家が地主とかだとたまにいるよね、昔同じ学校に1年通ってただけで、「昔ここの息子を中学でよく世話してやったんだけど!」って急に何か変な頼み事しに来る頭のおかしな人。
名前聞いてもそんなのが学校にいたようないなかったような程度で、誰お前喋ったこともねえよみたいな。なんかそういう人と同じ匂いを感じた。
田舎のDQNがそのまま育ったような?地域密着型DQNジジイ。
言ってる本人もなんか社長らしくて、まあ俺らなんかよりははるかに金持ってんだろうに、なんか全体的に小物っぽくて哀しくなる。
喋れば喋るほどジジイ自身が自分には特に何もないと思ってるんだろうなーっていう。
ちゃんと自分の生業の話でもしてくれればなんだかんだスゲーって思う事ありそうなもんなのに。
スナックで隙あらば店員さんにボディタッチしようとしてさりげなく手を引き剥がされてたりしててホントお店の人に申し訳なかった。
その1はこちら。
We watched the first 10 minutes of Kingsglaive: Final Fantasy XV
By André Mackowiak on July 11, 2016
こちらは、最初の10分間のみの映像を観た人のレポートですが、ネタバレが含まれます。
先週フランスで行われたJapan Expoで大きな出来事となったのが、Final Fantasy XVだ。イベント中、ファンは「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」(以下キングレ)の最初の10分のワールドプレミア特別上映などの新しいコンテンツに触れる栄誉に浴した。ちょっとしたサプライズとして、映画を監督した野末武志氏による90分にもおよぶ講演もあった。
壇上で野末氏は、キングレの開発について一歩踏み込んだ解説を行い、アドベントチルドレン(FF7ACC)よりも格段に大きな役割をどのように果たしたかを語ってくれた。
以下のレポートには、ちょっとしたネタバレや、記憶を頼りにプロットを要約したために起きる矛盾が含まれる可能性がある。というのも、最初の10分間にはかなりたくさんの情報が詰まっているからだ。
映画は、いくつかのフラッシュバックから始まり、観客は、ルシス王国を守り続けてきた最後のクリスタルの魔力の概要を知ることができる。
しかし、このクリスタルが敵対するニフルハイムの嫉妬を生むこととなるのである。
開始後すぐ、ニフルハイム兵によるルナフレーナ・ノックス・フルーレの故郷であるテネブラエ自治区侵攻が描かれる。
ここで我々は、幼いノクティスが重篤なケガから回復中であり、車いす生活を余儀なくされていることを知る。
敵兵たちが空から雨のように降下してきたとき、ノクトとルーナは2人とも森におり、周りを取り囲まれてしまう。
強力な相手に二人は追い詰められ、あわや斬り殺されようかというところで、レギス国王が現れ、剣をふるい強力な炎の呪文で敵を蹴散らして彼らを救う。
レギスは素早く意思を固めるとノクトを肩に担ぎあげて、ルナフレーナと共に逃げる。
呪文による炎に逃げ道を塞がれたルーナの兄レイヴスは、倒れた母を救ってくれるようレギスに懇願するが、敵兵が背後に迫っているレギスには届かない。
このままでは逃げ切れないと判断したルーナは突然立ち止まり、引き返して自らニフルハイムに捕らわれ、友人たちが逃亡するための時間を稼ぐ。
それから月日が経過し、物語の時点ではニフルハイムの軍勢はルシス王国の首都インソムニアのすぐそばに展開している。
この「王都」はクリスタルによって維持される強力な魔法障壁によって保護されているが、どれだけそのバリアが攻撃をしのげるのかはわからない。
都市を取り囲むエリアは、すでに帝国軍に制圧されており、城壁部分は空からの攻撃にさらされている。
ニフルハイムの揚陸艇が兵士を降下させ、戦場では銃弾が飛び交い、廃墟と化した建物の周りに死体の山が築き上げられていく。
敵軍は機械や魔導アーマーだけではなく、FFシリーズでおなじみのモンスターさえも操ってルシスに攻撃を仕掛けてくる。
混沌の中をべヒモスが突進すれば、通り過ぎた場所にはルシスの兵士たちが斃れる道が残る。
そうかと思えば別の場所では、巨大な蟲の大群が戦場を横切っていく。
巨大なファイアストームが地平線のかなたに出現し、インソムニアに向かってゆっくりと近づいてくる。
壁の上では、王の剣(Kingsglaive)の魔導マスターであるクロウ・アルティウスが仲間たちと共に町を覆うバリアを維持しようと必死の努力を続けている。
主役であるニックスの親友リベルト・オスティウムは、敵に奇襲をかけようとしている。身につけた制服や装飾品は、FFシリーズのジョブ「忍者」を思わせる。
リベルトは、隠れて相手に知覚されずに複数の敵を倒す術を使う。
空襲が激しさを増すと、地面が打ち震え、建物が崩れ、足元にひびが走る。
嵐が近づく中、我々は敵軍の飛空艇がさらに増え、ケルベロスなどのより危険な敵が出現したことを知る。
嵐の向こう側には、まだ奥の手が隠されていたようである。鎖につながれ、煙に包まれた巨大なモンスターが飛空艇によってインソムニアに向かって引きずってこられる。
モンスターは暴れだし、いくつかの飛空艇を破壊すると、鎖を引きちぎって地上の兵のもとへと落ちてくる。
リベルトは、突進してくるべヒモスの首もとに強烈な一撃を放つことに成功する。一方クロウは最後の力をふりしぼっているが、もはやこれ以上バリアを維持することができそうにない。
王の剣を率いるドラットー将軍は敗北を悟り、撤退命令を下す。リベルトは炎を吐くケルベロスと遭遇し、呪文を使って気をそらそうとするが失敗に終わり、崩れたガレキに挟まれ、刃も手の届かないところに転がるというピンチに陥る。
ニックスは、ドラットーの命令に背き、倒れたリベルトを救うために走り出す。ニックスは、投げた刀のところにワープ魔法を使って移動することができる。
ケルベロスを警戒しつつ、ニックスは戦闘区域外へとワープできるようにリベルトの剣を拾う。
後方に戻った王の剣の隊員は無事を喜び合うが、ドラットー将軍はニックスの命令違反を咎め、彼の力はレギス国王から借りたものであると諫める。
たった10分間の映像だったが、おそらく何時間でもいかにキングレの映像が素晴らしかったかを語り続けられるだろう。それぐらい圧倒的な映像美だった。
何年もの昔、初めて「Final Fantasy: The Spirits Within」を劇場鑑賞したときですら、スクウェア・エニックスがCG業界でトップクラスの才能を揃えており、あの映画が写実的な表現への彼らの最初の一歩となったことは明らかだった。その数年後、アクション満載のFF7ACCでその路線はさらに深まり、ついにこのキングレですべてが結実した。信じられないほどの視覚的なクォリティを実現するために、スクウェア・エニックス内のチームであるビジュアルワークスは、「アサシンクリード」、「ジュラシックワールド」、「ゲームオブスローンズ」などで知られるDigic PicturesやImage Engineなどの欧米のスタジオにも協力を仰いだという。
映画に登場するキャラクターは、あまりにも人間らしいため、うっかりするとコンピューターで生成されているのだということを忘れてしまう。
このまとまりの良さがあるからこそ、合成用のグリーンバックの前で俳優が演技をする従来の映画に比べて映画の世界の説得力が増しているのだ。
べヒモス、ケルベロス、呪文の効果などの見慣れたFFの要素の取り入れられ方も素晴らしい。
個人的には、特にワープのエフェクトが気に入った。ゲーム本編のものと似ているが、人物のまわりに火花が散り、効果音も非常にマッチしているのでとにかくスタイリッシュなのだ。
キングレは、「現実に基づくファンタジー」というコンセプトを驚くほどうまく体現している。
建造物、衣服、技術、車などの中には現実世界を思わせるものもあるが、呪文や魔導アーマー、モンスターとの親和性もある。
2つの世界の融合が、FFXVを単にゲームとしてではなく、より広い観客を対象とした映画として非常に魅力的な存在にしている。
始めのうち、John R. Grahamが下村陽子とのコラボレーションで制作したというサウンドトラックについては不安を覚えていた。
プレビュー映像では、音楽が少し単調で陰鬱すぎるように思われたのだが、最初の10分のBGMは、控えめに言って非常に堅実な出来だった。
ほんの短い時間のうちに、キングレで展開されるストーリーが複雑でワクワクするものになることがわかった。
アクションシーンは「ゴジラ」のように素晴らしく、徐々にモンスターや召喚獣が明らかにされていく手法も良かった。
キャラクターが物語のカギを握るようなので、ニックスとルーナが映画やアニメ、ゲームの中でどのように関わっていくのかが楽しみだ。
これだけのプロジェクトである。映画館で観るのが正しいというのは明らかだ。
10分間見ただけでこの把握力。
訳者は実際に映画を観たので、ちょっと解釈が違うところもあるのですが、あえて訳注はつけないでおきます。
黒白を読んだ。脳髄が痺れる感覚ってこういうことを云うんだと思う。何と言えばいいか、すさまじい物語を読んでしまった。
民俗伝承がテーマになった漫画というと、最近では千年万年りんごの子を読んだ記憶があるのだけれど、それとこの黒白とでは全然毛色が違った。
無論、大いなる“山のもの“を扱った漫画ではあるんだけれど、黒白のほうがタイトル通り黒くて白い物語だった。深みがあるとか考察のしがいがあるとかそういうんじゃないんだけれど、より幻想的というか混沌としていて、勢いのある下巻の最終部の読後感も相まって物語に呑み込まれてしまった。
黒白は雪女伝説が秘匿されているとある東北の村を舞台にした漫画なんだけれど、文献からの引用や、重要な人物となるユキが三人もいることもあって、結構難しい内容になっていたと思う。自分は阿呆なのでたくさんよく分からない部分があったんだけれど、なんとかかんとか読み続けて、結果として切り取られた物語に打ちのめされてしまった。中巻冒頭のゼミ内容から類推するに、かなり難解で意味の分からない物語になっているけれど、根本的にそれ自体には意味などなくて、どのような物語で区切るのかが意味の創生であり、人間としての特性なんだろうなって思った。
年齢的に真ん中にあたるユキをめぐるミステリアスなストーリー展開は、ケイゾクの映画を髣髴とさせる感じで面白かった。主人公と幼なじみの関係は下巻で怒涛の展開を見せるんだけど、その辺りの勢いの付け方や、そこから繋がる神楽狩家内部のある種猟奇的な描写がスリリングで読んでいてゾクゾクした。
最終的にユキは”山のもの”を鎮める巫女のような存在になったのかな。本物の雪女のような姿になってしまったけれど、その変貌を遂げたことで何を失ったのだろう。まだ分かんないからよく整理して考えてみよう。あと考えて分かんないことの一つに、主人公が受講しているゼミの教授が挙げられるんだけれど、一体全体彼(あるいは彼女か?)は何者なんだろう。松樫教授も気になる。この二人はなんか不思議。九車教授は何かしらの観測者なんだろうけど、うーん。