はてなキーワード: 1964年とは
まず、下のリンク先を読んでみてほしい。5分もあれば読めるはず。
『どうすれば、差別や偏見をなくせるの?~人権侵害の歴史を考える~』
https://www.jamhsw.or.jp/ugoki/hokokusyo/20110219-kenri/26-30.pdf
"1960年代に、駐日米国大使が、精神障害のある人に刺されてけがをするという事件が起こり、社会で大きな問題となりました。この事件は精神障害のイメージに大きく影響し、地域行政の相談機関が設置されるなどの法制度改革の一方で、強制的に入院させる制度(→入院形態;p.35)が促進され、全国各地で、多くの精神障害のある人が強制入院をさせられました。"
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E5%81%A5%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
"1964年(昭和39年)、ライシャワー駐日大使刺傷事件が発生する。精神障害者を隔離収容すべき、と言う新聞や雑誌などが主張し、世論も野放しは危険と支持して、厚生省も日本のハンセン病問題同様に、精神科病院への隔離収容政策(社会的入院)を始める。"
"2013年(平成25年)、国際連合人権理事会は日本に対し、精神障害者の非常に大勢が自らの意思に反して長期間に渡って社会的入院されていることや、身体拘束と隔離が過剰に用いられていることを警告。"
https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/4/
"現在グループホームで暮らす時男さんが初めて精神科病院に入院したのは、今から46年前の1968年。当時、時男さんは16歳で親戚を頼って福島から上京し、働き始めたばかりでした。しかし、慣れない環境と人間関係のストレスから体調を崩し、妄想などの症状に襲われるようになります。そして都内の精神科病院に入院。
このころ、国は精神障害者の隔離収容政策を進めていました。大きな契機となったのは、1964年に統合失調症の少年が起こした傷害事件。マスコミも一斉にキャンペーンを展開し、精神障害者を「危険な存在」と見なす社会の風潮が作られていきました。"
"精神科病院の入院患者の数はおよそ32万人。そのうち、1年以上入院している人は20万人以上、10年以上同じ病院に入院し続けている人は7万人もいます。しかもこの長期入院者のなかには、社会的入院の人が相当多いといわれており、そのために「日本の精神科の平均在院日数は諸外国に比べて突出して長くなっている」と精神科医の岡崎伸郎さんは言います。"
つまり、一精神障害者が事件を起こす→精神障害者全体が危険視される→「危ないから隔離しとけ」という世論や政策が生まれる→強制入院や退院後の受け入れ先がないための「社会的入院」が多発、というようなことが実際に歴史の中で起きてきた。これはまだ過去の話とも言えず、日本各地の精神病院にはこうして何十年も病院で過ごしてきた高齢の方がたくさんいる。
こういうことを多少とも念頭に置いて見ると、今回の『ルックバック』の描写、幻聴と台詞の内容で(統合失調症とは限らないが)何らかの精神障害を暗示した後、その人物が理不尽に襲いかかってくる殺人犯としてのみ描かれるという描写に、精神障害者やその周辺の人々が危惧を抱くのは合理的に思える。少なくとも、危惧を表明した人に「被害妄想」や「自意識過剰」と言えるほど、現実の歴史は優しくはなかった。
もちろん現在はまた時代が変わっている。また事実として精神障害者が犯罪を起こすこともあり、そういう報道や描写を一律に避けるというのも不自然だろう。報道や表現の自由と偏見強化の危険との間でどうバランスを取るかという議論はこれからも地道に続けていくしかない。
しかしとりあえず今言いたいのは、これを機に上のような日本の精神障害者が置かれてきた状況、いまだに残っているいろいろな問題がもっと知られてほしいということ。それから、昔にはなかったような形で出てきている精神障害の多様な語り方、その面白さももっと知られてほしい。有名でとっつきやすいものとしては、やはり「べてるの家」の記録などだろうか。まあ「べてるの家」も最近は内部告発が出て来たりいろいろ問題含みなのだが、『べてるの家の「非」援助論』(2002年)や「当事者研究」シリーズなど、読み物としても非常に面白かったのでおすすめしたい。「偏見・差別大歓迎」と掲げて近隣住民と交流集会を開くなど、柔軟で斬新な実践の数々に衝撃を受けた。
あらためて、今回の議論が例の描写を認めるか認めないかというような話に終わらず、かかわった人が精神障害について新しく何かを知るきっかけになってほしいと願っている。
小山田圭吾さんが辞任した。
東京オリンピック2020はオリンピックの成功というプロジェクトに向けて国民が団結して協力するという状況ではない。高度経済成長期だった1964年の東京オリンピックとは異なる。
価値観が多様化したとも言えるし、日本社会の階層化が進んだとも言えると思う。
少なくともみんなでオリンピックを盛り上げようという気持ちはない。
それどころか、国民は少なからずオリンピックに反感を抱いている。
言わばガソリンが気化して充満している状態なので、ちょっとした火の気で爆発する空気感があり、佐野健二郎、森元などが炎上してしまった。
障害者への強烈な虐待を雑誌で自慢するという特異な嗜好を持つ人間がパラリンピックの楽曲を登用するという決断は言わばガソリンが気化して充満している隣の部屋でファイアーダンスを行うようなもので、最初から炎上必至だった。
野球だと9回に抑えで出てきたクローザーが20点取られたような感じ。
組織委員会にはまだ隠しダマがあると思う。
東京オリンピックの開催を僕はそれなりに楽しみにしていた。
2013年に2020年夏、東京でのオリンピック開催が決まったとき、その時は余り感慨は無かった。アルゼンチンから流れてきていた当時の首相の安倍、都知事の猪瀬、滝川クリステルの喜びようはなんとなく空騒ぎのような気がして直視できないような気がした。7年後の出来事が決まる。それが自分の住む街で行われるとはいえ7年先はやはり未来で、しばらくはオリンピックの事は心の辺鄙な片隅に置かれた。
そうは言っても東京の街は少しづつ変わって行った。旧国立競技場は柵に覆われてあっけなく解体され、看板には多言語の表示が増えていった。公式ロゴや新国立競技場をめぐるゴタゴタは日本のシステムやリーダーシップへの既視感的な幻滅とうんざりとした気持ちを新たにさせたけど、自分の中のオリンピックそのものの大まかなポジティブさには余り影響を与えなかったように思う。
1964年のことはもちろん知らないし、その時みたいに無邪気な美しい未来を思い浮かべることはできなかったと思うけど、イギリス人の友人が話していたロンドンオリンピックの時の街の高揚感を東京が感じるための準備は少しづつ工事現場の柵の向こうで進んでいるような気がしていた。
2019年の冬ごろ、用事があって神宮外苑に頻繁に行くことがあった。新国立競技場はほとんど出来上がってきていて柵の向こうのスタジアムは少し安普請にも見えたけど、少し空いたゲートの隙間から見えた芝生は緑で冬の午後の太陽に照らされていた。新国立競技場の他もすっかり模様替えしていくのかと思っていた外苑周りは思いのほか手をつけそうな感じではなく、古びた案内板は昭和の雰囲気もまだ保っていた。
東京の街のそこここに掲げられた(今も掲げられている)TOKYO2020の旗は、みんなが満足するわけではないけど、少なくともいっときの楽しみを持てる未来への予告のようでもあり、それを一緒に収めた街の写真は数年後になったら目が覚めて忘れてしまった夢を思い出すきっかけになるんじゃないかと思えた。
2020年はコロナウイルスで塗り込められた。当然のようにオリンピックの開催は誰にも望まれず、翌年への延期となった。その時でも翌年になったらこれまでのようなオリンピックが開催できると思った人はほとんどいなかっただろう。街にかかったTOKYO2020の旗は街灯にぶら下げられたまま古びていった。
そしてオリンピックの開会式まで一ヶ月も無くなった今日この文章を書いている。
オリンピックはおそらく予定通り開催されて、おそらく観客を少し入れることになるだろう。海外からの観客はほぼゼロだけどメディアにうつされる競技はそれなりに競技者たちの努力を伝えて、見ているものを感動させることもあるだろう。
でもそれが東京で開催されているということを住人として嬉しく感じられることはほとんどないだろう。本当だったら一生に一度あるかないかのような自分の街でオリンピックが開催されるという経験は、オリンピックのの抜け殻のようなイベントの開催に代替されて失われてしまった。
競技者の方の思いはあるだろうけど、僕は本当の正真正銘のオリンピックを東京で体験したかった。普段冴えない街並みがその時だけでも晴れやかに彩られて、少しの間は将来の不安なんかも忘れてスポーツに心を奪われたかった。たとえそれに多額の税金が注ぎ込まれていても、それが誰かの懐を膨らましたとしても、そして祭りの後に思ったような経済的皮算用が実現しなかったとしても、それは受け入れることができると思っていた。
あと三週間もすればオリンピックのニュースとコロナウイルスの感染状況のニュースが同時に語られる。どちらにより時間が割かれるようになるのかはわからない。ただそこにあるオリンピックは僕が体験したかったオリンピックではないし、僕が本当に見たかったオリンピックが自分の住む東京で開催されることはもうない。
日本人なら重要閣僚クラスが贈られるもので、庶民には縁がない。
「航空自衛隊の育成ならびに日米両国の親善関係に終始献身的な労力と積極的な熱意とをもって尽力した」ということが理由だった。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55459?page=4
名目上は航空自衛隊育成がうんたらかんたらでも本当は日本を破壊したのが日本政府から見て功績なんだろ
コロナでもわざと感染を広げようとバーベキューして自分ら自身は安全と報道してるワクチンを打たないよね
https://news.yahoo.co.jp/articles/da4098c1709252edba67716f37bd274f3a161a84
1964年のピューリツァー賞を受賞したRichard Hofstadter(1963) “Anti-intellectualism in American Life”は40年後の2003年に日本語訳が出版された。
「反知性主義 (Anti-intellectualism)」という言葉が内田樹などにより、日本で普通に用いられるようになったのは2003年以降のことのようだ。
アメリカのポストモダン文学を代表する小説家Robert Cooverの最も重要な作品である1977年出版の”The Public Burning”にいたっては未だ日本語訳が出版されていない。
こういう本を読むとき「英語を読むことができてよかった」と感じる。
フランス語の場合は反体制とは関係なく20世紀の重要な著作でも日本語訳されないことがしばしばあるようだ。
さらには、重要な著作なのに英語訳もされないことも、しばしばあるようだ。
例えば、ガストン・バシュラールの一連の著作がそれに該当する。
僕はフランス語の本の場合、1冊読み終えるのに数百時間かかってしまう。
従って、上記のような興味深い作品でも、それを読む時間を捻出することはとても困難だ。
本当にとても残念だ。
インターセクショナリティとは、人種や性別、性的指向、階級や国籍、障がいなどの属性が交差したときに起こる、差別や不利益を理解する枠組み
例
例えば黒人の同性愛者の女性であったら、人種差別と性差別、同性愛者への嫌悪を同時に体験することになり、黒人男性や白人女性のレズビアンが経験する差別とは異なってくる
具体例
有名なケースは、ゼネラルモーターズが1964年公民権法成立以前に黒人女性を雇わなかったことで76年に提訴された事件。
同社は白人女性を秘書職で雇い、黒人男性を工場で雇っているので、性差別にも人種差別にも当たらないと主張した。
つまり黒人女性が経験する差別は認識されず、結果として彼女たちはどちらにも属さないことになってしまったのだ。
また南アフリカ共和国では、黒人女性がそのほとんどを占める家事使用人は20年まで唯一社会保障が受けられない職業であり、長く社会の中で排除されてきた。
引用元https://www.vogue.co.jp/change/article/words-matter-intersectionality
勉強になったわ
増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。
同種の百選としては2005年の新建築・臨時増刊『日本の建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。
https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/
2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。
■古代 592-1180
法隆寺西院伽藍 | 飛鳥時代 | 奈良 |
新薬師寺本堂 | 奈良時代末期 | 奈良 |
榮山寺八角堂 | 763年 | 奈良 |
平等院鳳凰堂 | 1053年 | 京都 |
浄瑠璃寺本堂 | 1107年 | 京都 |
三仏寺投入堂(三仏寺奥院) | 平安時代後期 | 鳥取 |
高蔵寺阿弥陀堂 | 1177年 | 宮城 |
■中世 1180-1543
浄土寺浄土堂 | 1194年 | 兵庫 |
東大寺南大門 | 1199年 | 奈良 |
長寿寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
西明寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
熊野神社長床 | 鎌倉時代初期 | 福島 |
法界寺阿弥陀堂 | 鎌倉時代初期 | 京都 |
厳島神社社殿 | 1241年 | 広島 |
永保寺開山堂 | 1352年 | 岐阜 |
東福寺龍吟庵方丈 | 1387年 | 京都 |
正福寺地蔵堂 | 1407年 | 東京 |
吉備津神社本殿・拝殿 | 1425年 | 岡山 |
慈照寺東求堂 | 1485年 | 京都 |
■近世 1543-1853
妙喜庵待庵 | 1581年 | 京都 |
園城寺勧学院客殿 | 1600年 | 滋賀 |
園城寺光浄院客殿 | 1601年 | 滋賀 |
妙法院庫裏 | 1604年 | 京都 |
大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 | 1607年 | 宮城 |
三渓園聴秋閣 | 1623年 | 神奈川 |
二条城二の丸御殿 | 1626年 | 京都 |
西本願寺飛雲閣 | 1628年 | 京都 |
西本願寺書院 | 1633年 | 京都 |
延暦寺根本中堂 | 1640年(再建) | 滋賀 |
三渓園臨春閣 | 1649年 | 神奈川 |
曼殊院書院 | 1656年 | 京都 |
桂離宮 | 1663年 | 京都 |
慈光院書院 | 1672年 | 奈良 |
江川家住宅 | 江戸時代前期 | 静岡 |
閑谷学校講堂 | 1701年 | 岡山 |
東大寺大仏殿(東大寺金堂) | 1705年(再建) | 奈良 |
大峰山寺本堂 | 1706年 | 奈良 |
大国家住宅 | 1760年 | 岡山 |
岡山後楽園流店 | 江戸時代後期 | 岡山 |
栗林公園掬月亭 | 江戸時代後期 | 香川 |
角屋 | 1787年 | 京都 |
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) | 1796年 | 福島 |
大徳寺孤篷庵忘筌 | 1799年 | 京都 |
渡邉家住宅 | 1817年 | 新潟 |
羽黒山三神合祭殿 | 1818年 | 山形 |
旧高野家住宅 | 江戸時代後期 | 山梨 |
旧金比羅大芝居(金丸座) | 1835年 | 香川 |
岩根沢三山神社本殿・庫裏 | 1841年 | 山形 |
柏倉家住宅座敷蔵 | 1866年 | 山形 | |
旧大明寺聖パウロ教会堂 | 1879年 | 愛知 | ブレル、大渡伊勢吉(棟梁) |
宝山寺獅子閣 | 1882年 | 奈良 | 吉村松太郎(棟梁) |
旧風間家住宅 | 1896年 | 山形 | |
旧武徳殿 | 1899年 | 京都 | 松室重光 |
旧花田家番屋 | 1905年 | 北海道 | |
吉島家住宅 | 1907年 | 岐阜 | 西田伊三郎ほか(棟梁) |
古谿荘 | 1909年 | 静岡 | |
高松城披雲閣 | 1917年 | 香川 | 清水組 |
住友ビルディング | 1926年 | 大阪 | 住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造) |
聴竹居 | 1927年 | 京都 | 藤井厚二 |
旧大倉精神文化研究所本館 | 1932年 | 神奈川 | 長野宇平治 |
軽井沢 夏の家 | 1933年 | 長野 | アントニン・レーモンド |
※両関第二工場酒蔵 | 1933年 | 秋田 | |
旧日向別邸 | 1936年 | 静岡 | ブルーノ・タウト |
近江神宮 | 1940年 | 滋賀 | 角南隆、谷重雄 |
旧前川國男邸 | 1941年 | 東京 | 前川國男 |
旧吉田五十八邸 | 1944年 | 神奈川 | 吉田五十八 |
神奈川県立近代美術館 | 1951年 | 神奈川 | 坂倉準三 |
斎藤助教授の家 | 1952年 | 東京 | 清家清 |
コアのあるH氏のすまい | 1953年 | 東京 | 増沢洵 |
南台の家(吉村順三邸) | 1957年 | 東京 | 吉村順三 |
八幡浜市立日土小学校 | 1956年 | 愛媛 | 松村正恒 |
香川県庁舎 | 1958年 | 香川 | 丹下健三 |
スカイハウス(菊竹清訓邸) | 1958年 | 東京 | 菊竹清訓 |
※ホテルオークラのメインロビー | 1962年 | 東京 | 谷口吉郎 |
日本生命日比谷ビル(日生劇場) | 1963年 | 東京 | 村野藤吾 |
国立屋内総合競技場 | 1964年 | 東京 | 丹下健三 |
大学セミナー・ハウス | 1965年 | 東京 | 吉阪隆正 |
旧千代田生命本社ビル | 1966年 | 東京 | 村野藤吾 |
白の家 | 1966年 | 東京 | 篠原一男 |
塔の家(東孝光邸) | 1966年 | 東京 | 東孝光 |
※虚白庵(白井晟一邸) | 1970年 | 東京 | 白井晟一 |
KIH7004 | 1970年 | 東京 | 鈴木恂 |
中銀カプセルタワービル | 1972年 | 東京 | 黒川紀章 |
※大分県医師会新館 | 1972年 | 大分 | 磯崎新 |
※プロジェクトマグネット | 1973年 | 店舗模型 | 倉俣史朗 |
阿部勤邸 | 1974年 | 埼玉 | 阿部勤 |
北九州市立中央図書館 | 1974年 | 福岡 | 磯崎新 |
幻庵 | 1975年 | 愛知 | 石山修武 |
上原通りの住宅 | 1976年 | 東京 | 篠原一男 |
※中野本町の家 | 1976年 | 東京 | 伊東豊雄 |
小篠邸 | 1981年 | 兵庫 | 安藤忠雄 |
弘前市斎場 | 1984年 | 青森 | 前川國男 |
SPIRAL | 1985年 | 東京 | 槇文彦 |
※バーオブローモフ | 1989年 | 福岡 | 倉俣史朗 |
海の博物館 | 1992年 | 三重 | 内藤廣 |
豊田市美術館 | 1995年 | 愛知 | 谷口吉生 |
ウィークエンドハウス | 1998年 | 群馬 | 西沢立衛 |
せんだいメディアテーク | 2000年 | 宮城 | 伊東豊雄 |
横浜港大さん橋国際旅客ターミナル | 2002年 | 神奈川 | アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ |
金沢21世紀美術館 | 2004年 | 石川 | 妹島和世、西沢立衛 |
1964年の東京オリンピックは所得倍増計画とセットだった。今回はそういった未来の生活向上が夢見れる副産物があまりないんだよな。
インフラ整備にしても、最低限、国家公式の電子マネーとか旅行者がすぐに使える公共WiFiとかはあってほしいし、できればこの機会に交通渋滞や満員電車、乗り換えのわかりづらさを解消するような抜本的な交通改革をしてほしかった。さらにはそれがリニアだったりドローン技術を使った未来を象徴するものであってほしかった。
前回のオリンピック時期に整備された東海道新幹線、東京モノレール、首都高速、カラーテレビみたいなインパクトが全然ない。高度経済成長とは時代が違うのはわかっているが、もう少し秘策があるのかと思っていた。今思うと国立競技場ザハ案はまだいい線いってたのかも。
つまり、そういったスポーツに興味がない人も受けられる圧倒的な恩恵が見えず、むしろそこを削ったことで低予算オリンピックを実現しようとしている印象でどんどん興醒めしていった。
高校1年生の1953年に、冷蔵庫、洗濯機、トースターなどがようやく登場する。
32歳の1969年に、第32回衆議院議員総選挙に立候補する。
選挙直前の一族会議中に、近隣の家から出火した。この時、森は決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。当時の北陸地方は仏教への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動は風向きを変えることになった。
51歳の1988年に、日本が初めてIPインターネット接続をする。同年、リクルート事件発生。森は約1億円の売却益を得ていたとされ、一時謹慎する。
63歳の2000年に、当時の小渕首相が脳梗塞で倒れる。その3日後に第一次森内閣発足。日本国の長となる。
前任者の急病による就任であり、総裁になるための正式な準備無しでの登板だったため、内心「正直いってえらいことになったな」と思ったという
64歳の2001年に、えひめ丸事故発生。森はプライベートでゴルフ場におり、第一報が入ったとき関係者からその場を離れないよう指示されていたらしいが、第三報が入るまでプレーを続けた。ゴルフを続ける映像が繰り返しテレビ放送されかなりの悪印象となる。
同2001年、森は総理大臣を辞任する。約1年の任期期間だったが支持率は低く、前述のえひめ丸事故の印象やたびたびの「失言」が支持率低下の原因だったとされている。
73歳の2010年に、育ての母が亡くなる。
76歳の2013年に、アルゼンチンのブエノスアイレスで行われた第125次IOC総会に現地入りし、東京オリンピック (2020年)開催決定の瞬間に立ち会った。
77歳の2014年に、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に就任する。
84歳の2021年に、失言により、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を辞任する。
森が物心がついたのはいつ頃だろうか。仮に小学1年生の頃として、この頃は1944年である。母が亡くなった年である。
森が小学2年生のときに第二次世界大戦が終結している。どんな時代であっただろうか。戦後教育なので、今よりはるかに奔放な教育がなされていただろう。有り体に言えば体罰や、現代の倫理観では時代錯誤とされることが、当然の教育としてなされていただろう。
そのような教育を通して、森は育ったのだ。
日本にインターネットが誕生し、私達がWindows98でテレホタイムをしていたころには、既に森は61歳で定年を過ぎている。
森は内閣時代もとにかく失言が多いイメージであった。生来の性格とみるか?育った時代、教育、環境も影響しているはずだろう。
私達の感覚では、「時代に合わせて感覚をアップデートできないものは置いていかれる」「アップデートできないものが悪い」というのが通常だが、森にこれが可能だったとは到底思えない。
特別に森がというより、一般論としての森の世代がである。Twitterが誕生したころには70手前の世代である。
自分の母親や父親、職場の上司に「感覚をアップデートしろ」というレベルではない。それよりもっと上の世代の人間である。学生時代に戦後を経験した世代にである。
PCが使えなくて当たり前だろう。スマホが使えたら上々だろう。その世代の人間は、感覚をアップデートするのが嫌なのでなく、どう感覚をアップデートすればいいのかわからないのではないのか。
この世代の人達は恐れているのではないか。自分の古くさった感覚をアップデートできてないことは自覚しつつ、言葉ひとつで多くのバッシングが飛んでくるこの時代を恐れているのではないか。
哀れと思うこそすれ、責められないと思うのだ。私達も、いずれきっと行く道である。
結論から言うと、東軍が勝ったパンティーラインに住んでる人かわいそう。
パンティー川家康は関ケ原でパンティーを被り討ち死に。パンティー川秀忠は切腹。両者のフンドシは一条戻橋に晒される。徳川家は結城秀康が引き継ぐも程なくパンティー川家に改名され実質滅亡。
その後パン東ィーには何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。
パン東ィーなんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す。
パンティーケ原の戦い後、小早川秀秋が白パンティーを履くも5年で病死。その後は豊臣秀頼が白パンティーを履く。日本は上杉、宇喜多、毛利、島津などが各地域を100年ほど分割支配し、相互監督をはたらかせていたが、パンティーぬがしっこが起こらず、外国との下着交易も進みパンティー業が発展していったので時代遅れな武士は次第に消えていった。その代わりに交易で利益を上げた大名が豊臣を中心にパンティー体化していく。というわけでこちらの歴史の授業ではいちいち武将の名前なんて覚えない。そちらではやたらと武士がもてはやされているらしいが、こちらでは武士は鎌倉幕府まではともかく、室町幕府以降はフンドシしか履いていなかった印象で、野蛮で恥ずかしい存在でしかない。交易でパンティーが発展しているので、日本のせまーいフンドシでチンポなんてものを覆わせて税金を徴収するなんてバカなことはパンティーケ原の戦いの50年後にはなくなった。18世紀に入ると各地域の下着難民や縫製労働者が蜂起して自パンティー権が漸次的に認められるようになっていく。そちらとは違って武士の強権的な支配がないのでゆるやかにパンティー化していく素地があった。パンティー教も新旧両派が認められ、汎帝教と二大勢力になっている。その後、ヴァンディー教やパンツィル教を信じる人も増えていく。フンドシがいなくなっていくにつれてブリーフやトランクスは消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でもトランクスは消えていった。今でも下着の残骸のようなものは残っているが装着する人は誰もいない。
19世紀になると大名が支配していた地域で縫製労働者や下着難民の代表者からなるパンティー会と豊臣を首班とするパンティー人からなる下着会が設置されていく。いわゆる列強とも条約を締結したが、そちらの江戸幕府とかいうものが結んだような不平等条約ではない。もちろん条約は下着会が承認する。19世紀の半ばにはアメリカやヨーロッパの思想がパンティー語に翻訳され、誰でも読めるようになっているが、モンテスキューやロックの思想はパンティーと大して関係がないということで学校で議論する程度。そちらの学校では武士の強権的な支配によって作られたせいで自由に議論することは認められてないらしいけど、こちらは子どもたちが自由にパンティーを履いて走り回るのがメイン。この教育をきっかけにパンティー族の力は次第に失われていく。19世紀半ば以降は欧米列強に対抗するため、近隣諸国と連合巨大パンティーを形成する構想が何度も浮かぶ。アジア大陸では日本と同様、汎帝教とパンティー教がメイン。フンドシ教は非合理的なので衰退。ここでは一致できるのだが、しかし、ヨーロッパ発の裸体主義思想の影響もありうまくいかない。結局最初は2~3か国の同盟からパンティー連合が始まる。19世紀終盤にはアジア圏と欧米列強との間で大きなパンティー戦争が起きる。フンドシのような抑圧的で野蛮な下着が早い時期になくなり、無駄な戦争はしなくなっていったこともあり、1年ちょっとで早々に講和条約を締結。20世紀を迎える。
20世紀に入ると漸次的に汎アジア国家条約連合(PANTY)が形成されていく。PANTYはそれぞれの装着者で温度差はあるものの人体の曲線的な魅力を布地が補強するコンセプトからなる。パンティー列島地域は力を失ったパンティー族が政治的な実権を失い、国民代表からなる下着会と各地域の代表者からなる元パンティー院、PANTY議会に派遣される議員が存在している。ヨーロッパで発生したヌーディズムと戦う第二次世界大戦はこちらの世界でも勃発する。しかし、パンティー地域に没個性で野蛮なフンドシが存在しないこちらの世界では他国に侵略を行うようなことはない。PANTY含む連合国がイタリアのヌーディストとノーパンドイツを倒して戦争は2年半で終結。その後、PANTYとブルマ圏、欧米諸国との間でイタリアとドイツを再建。アジア大陸では中国全裸党とPANTYの戦いが続くが、1964年に休戦。中華全裸共和国はそちらの世界よりも規模がかなり小さく(朝鮮半島の付け根北部地域のみ)、影響力もあまりない。PANTYは中東諸国に対するブルマ圏やアメリカの侵略からの防衛にあたり、友好関係を現在に至るまで結び、勢力圏を拡大。意地でもヌーディズムを譲らないソ連と意地でもブリーフを手放さないアメリカは1980年代になると衰退していく。インドや中東諸国が加入したことでPANTYは汎アジア・インド・中東国家条約連合(PANTIES)へと改組される。PANTIESとブルマ連合がアメリカとソ連の再建の中心となる。
21世紀に入ると世界はPANTIES、ブルマ連合、全裸連合、ノーパン連合、紐パン連合の連邦国家で構成されていく。返す返すも、そっちの世界のように東パンティーの野蛮な武士が支配権を握らなくてよかったと思ってる。
徳川家康は関ケ原で討ち死に。徳川秀忠は切腹。両者の首は一条戻橋に晒される。徳川家は結城秀康が引き継ぐも実質滅亡。
その後関東には何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。
関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す。
関ケ原の戦い後、小早川秀秋が関白になるも5年で病死。その後は豊臣秀頼が関白になる。日本は上杉、宇喜多、毛利、島津などが各地域を100年ほど分割支配し、相互監督をはたらかせていたが、戦争が起こらず、外国との交易も進み商業が発展していったので時代遅れな武士は次第に消えていった。その代わりに交易で利益を上げた大名が豊臣を中心に貴族化していく。というわけでこちらの歴史の授業ではいちいち武将の名前なんて覚えない。そちらではやたらと武士がもてはやされているらしいが、こちらでは武士は鎌倉幕府まではともかく、室町幕府以降はの混乱を引き起こした元凶で、野蛮で恥ずかしい存在でしかない。交易で経済が発展しているので、日本のせまーい土地で米なんてものを作らせて税金を徴収するなんてバカなことは関ケ原の戦いの50年後にはなくなった。18世紀に入ると各地域の農民や労働者が蜂起して自治権が漸次的に認められるようになっていく。そちらとは違って武士の強権的な支配がないのでゆるやかにリベラル化していく素地があった。キリスト教も新旧両派が認められ、仏教と二大勢力になっている。その後、ユダヤ教やイスラム教を信じる人も増えていく。武士がいなくなっていくにつれて神道や儒教は消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でも儒教は消えていった。今でも神社の残骸のようなものは残っているが参拝する人は誰もいない。
19世紀になると大名が支配していた地域で労働者や農民の代表者からなる議会と豊臣を首班とする貴族からなる議会が設置されていく。いわゆる列強とも条約を締結したが、そちらの江戸幕府とかいうものが結んだような不平等条約ではない。もちろん条約は議会が承認する。19世紀の半ばにはアメリカやヨーロッパの思想が日本語に翻訳され、誰でも読めるようになっているが、モンテスキューやロックの思想は自分たちのやっていることと大して変わらないということで学校で議論する程度。そちらの学校では武士の強権的な支配によって作られたせいで自由に議論することは認められてないらしいけど、こちらは子どもたちが自由に議論して学ぶのがメイン。この教育をきっかけに貴族の力は次第に失われていく。19世紀半ば以降は欧米列強に対抗するため、近隣諸国と連合国家を形成する構想が何度も浮かぶ。アジア大陸では日本と同様、仏教とキリスト教がメイン。儒教は非合理的なので衰退。ここでは一致できるのだが、しかし、ヨーロッパ発の社会主義思想の影響もありうまくいかない。結局最初は2~3か国の同盟から連合が始まる。19世紀終盤にはアジア圏と欧米列強との間で大きな戦争が起きる。武士のような強権的で野蛮な人間が早い時期にいなくなり、無駄な戦争はしなくなっていったこともあり、1年ちょっとで早々に講和条約を締結。20世紀を迎える。
20世紀に入ると漸次的にアジア太平洋連合国家(APS)が形成されていく。APSはそれぞれの構成国で温度差はあるものの民主的な憲法を国民が制定した国家からなる。日本列島地域は力を失った貴族が政治的な実権を失い、国民代表からなる議会と各地域の代表者からなる元老院、APS議会に派遣される議員が存在している。ヨーロッパで発生したファシズムと戦う第二次世界大戦はこちらの世界でも勃発する。しかし、日本地域に強権的で野蛮な武士が存在しないこちらの世界では他国に侵略を行うようなことはない。APS含む連合国がイタリアのファシストとナチスドイツを倒して戦争は2年半で終結。その後、APSと共産圏、欧米諸国との間でイタリアとドイツを再建。アジア大陸では中国共産党とAPSの戦いが続くが、1964年に休戦。中華人民共和国はそちらの世界よりも規模がかなり小さく(朝鮮半島の付け根北部地域のみ)、影響力もあまりない。APSは中東諸国に対する共産圏やアメリカの侵略からの防衛にあたり、友好関係を現在に至るまで結び、勢力圏を拡大。意地でも共産主義を譲らないソ連と意地でも資本主義を手放さないアメリカは1980年代になると衰退していく。インドや中東諸国が加入したことでAPSはアジア太平洋連邦共和国(FRAP)へと改組される。FRAPと欧州連合がアメリカとソ連の再建の中心となる。
21世紀に入ると世界はFRAP、欧州連合、北米連合、南米連合、アフリカ連合の連邦国家で構成されていく。返す返すも、そっちの世界のように東日本の野蛮な武士が支配権を握らなくてよかったと思ってる。
1964年から1967年まで4年連続二桁勝利。スワローズ通算48勝。
1966年から1969年まで4年連続二桁勝利。スワローズ一筋で通算70勝。
V9を謳歌する巨人とは対照的に、1967年から1974年までの8年間で5回の最下位。
1965年に広島カープへ入団して、プロ初勝利がノーヒットノーラン。
1968年に21勝を挙げてエースとなると、1976年まで8回の二桁勝利を挙げる。
カープ一筋で通算131勝。キャリアで3回のノーヒットノーランを達成した。
1982年に12勝を挙げると、そこから6回の二桁勝利を挙げた。スワローズ一筋で通算112勝。
尾花と並ぶエースとして5回の二桁勝利。スワローズ一筋で通算85勝。
1997年に10勝して以降、ベイスターズ一筋で7度の二桁勝利。通算184勝。
90年代のゲーム雑誌を「懐かしいな~」とめくっていてね、花形クリエイターのインタビューとか読んでてね、「あれ、こいつら、この時代めっちゃ若くないか?」ってことでゲームクリエイターの年齢を調べてた。
はあああああ~~~若い。業界自体がほとんど80年代に興ったような若い業界だから作り手も若いのは当たり前なんだけど、それにしたって若い。
神童みたいな存在だった中村光一や中裕司が若いうちから代表作を残しているのは当たり前としても、あんな清濁併せ呑むような作風の『タクティクスオウガ』作ったときの松野泰己が20代なんだよ。「ガキが...舐めてると潰すぞ」ってならんか?ならんか?
あと何気にショッキングだったのは、堀井雄二と広井王子ね。元々ゲーム業界外の出身であるこのへんは年齢も高く、ゲーム雑誌を熱心に読んでいた90年代中盤の自分にとっては「おじさん」っていうか殆ど「初老」って感じだったんだけど、年齢みたら40歳前半くらいなんだよな。全然若いなオイ、ソシャゲのディレクターとかのが全然年齢上だぞ、ってなる。
だから年齢の問題はともかく、橋野さんや外山さんに比べて一回り遅れている気持ちが、どうしても僕の中にはあります。若い頃に芽が出なくて、やっと32歳のときに『ドラッグオンドラグーン』でディレクターでしたから。
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ニーア、ペルソナ等の人気ゲーム開発者が激論! 国内ゲーム産業を支える40代クリエイターの苦悩とは【SIE外山圭一郎×アトラス橋野桂×スクエニ藤澤仁×ヨコオタロウ】
ヨコオタロウの「やっと32歳でディレクター」というのは、現在の感覚からすると随分順調なように思えるが、2003年(『ドラッグオンドラグーン』のリリース年)であっても、なおそれくらいの若々しさが残っていた業界だったということだ。この座談会のなかで、外山はコナミで3年目、橋野はアトラスで5年目で初ディレクターを任されたと語っている。