はてなキーワード: 自律とは
アカデミックの道に挫折し、非常にやる気のない就活をした17卒の記録。反面教師にするもよし、馬鹿なやつだなあと一笑に付すもよし。巡り巡って誰かの役に立つことに一縷の望みを託します。
●方針
労働者に向いていない自覚はある。経済活動に利する人材のパフォーマンスをする。
●専門
歴史学。一般的にわかりやすい&経済関連ネタにしたほうが、反応が良かった。そのため、第二次大戦後の経済復興ネタを研究していることにした。
●志望業界
商社、コンサル、金融。サービスよりは修正資本主義のほうがまだ理解できる。「日本と世界の人々の生活の発展に貢献したい」と語った。社会の進歩を信じましょう。
●学歴
1次通過:3社。
内定:1社。
●学生時代に頑張ったこと
序盤(中小書類&面接)は「学生時代に頑張ったこと」という文面を真に受け、勉学・研究をネタに書く。自律性とゼミ活動の企画してましたアピール。当然と言われそうだが全くウケなかった。院卒なら専門で培った能力をアピールしろという話は聞いたものの、ほぼ落ちる。フィールドワークなりインタビューなりのある専門であれば別だったのかもしれん。
大手のころには、学部1年目にのみ経験していた大学祭委員活動と文芸サークルネタに切り替え、書類も通るようになる(何年目でやったかは最後まで聞かれなかった)。どちらを書くかは「求める人材像」と照らし合わせて選択。学生団体同士の熱血折衝やトラブル解決ネタがウケそうなら学祭。他業種との関わりや根気アピールなら、市や大学事務やらとの関わりのあったサークルネタ。あとコンサル系なら英語プレゼン経験とそこから名刺交換→交流2回目にこぎつけましたネタ。
大学祭という字面のほうが活発な印象を与えられると思い、悩んだときは学祭ネタを使った。
本音「金銭的不安(覚悟が甘かった)+経済状況の悪化→おくすりのお世話になる。悪化し続けていたが、試しに就活を試みた結果、劇的に改善してしまった。・・・・・・就活しよ。」
建前「歴史を明らかにするだけではだめ。今生きている人の役に立ちたい。研究よりも経済活動のほうが幅広い人に影響を与えられる。」
これを熱っぽく語ったところでは面接に通った。とかく役に立たないと揶揄されることの多い歴史が専門なので、「説得力」とやらはあったのかもしれない。
●教師
学部卒のときには、ある程度以上には惹かれていた。しかしまあ、30連勤で死にそうになってる友人を複数名見ているうちに、それでもやりたい、とは思えなくなった。
●その他
まだ意識高い系学生だったころ、有名企業幹部らによる某帝大限定のエリート育成講演会(仮)に行ったことがある。言語決定論を実しやかに語り、優生学ギリギリの社会進化論を手放しで褒めそやし、「人の役に立つ」の「人」を疑いもしない姿勢を眺めてきた。そういうひとたちから、陰に陽に、役に立たないものはやめて、もっと経済とかを勉強しなよと言われた。リクルーター面談、座談会、OB訪問、座談会等で、「大企業に入ったスゴい先輩」にとっても、それが世間の常識というやつなのだと感じた。
社会に希望を抱いていたかった。尊敬できるセンパイというやつに出会ってみたかった。所属したいと思える環境を見つけてみたかった。
少し前に男の娘という言葉が流行ったが、そのムーブメントは去ったように思われている。
http://matome.naver.jp/odai/2134149251375308901 『男の娘ブームです!』
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/asaloon/1405243950/ 『男の娘ブームとは何だったのか』
しかし僕はどちらかといえば定着したのではと考えている。ある一定の市民権を得て、男の娘というジャンルとムーブメントから離れて、女装、もしくは女装子という一段階上のステートとしてくくられたのではないかと思う。
少し近接してしまいそうなので先に断っておくことがある。
世間ではLGBTについて、ジェンダーの課題について議論されているようだ。僕はあまり調べていないが、そのような特集がよくあるようである。
心のことであるとか、様々な議論がなされているのだけれども、僕はもっと深いところでの事情があるのではないかと思っている。
ここではそのような課題について気論するつもりはない。
それでは何の話題なのかというと、性別の境界が曖昧になっているのではないかという疑問が主題である。
若い人はセックスをしないというけれども、データでもそれは少しづつ出てきている。
http://matome.naver.jp/odai/2142314033149402301 『草食系⇒絶食系へ退化?若者のセックス離れが止まらない!!』
http://saras-media.com/12982 『20代処女や高齢処女が増加中?年代別・処女の割合が明らかに』
調べ始めたのが最近だろうから昔のデータとの比較はできないだろうけれども、それでも肌感的にも自分は同じように感じている。
ただし、スーパーマジョリティー、スーパーメインな人たちというこれまで(もこれからも)メインカルチャーど真ん中にいる人たちが世の中の大部分を占めていることは間違いない。そしてそういう人たちは上記記事には当てはまりにくいだろう。
しかし、その傍ら、女装や中性的、もしくは無性といった輪について、20年前であればスーパーマイノリティだったジャンルがスーパーとはつかないマイノリティになってきているのではないだろうか。それこそ20年前であれば、人口比0.0いくつ%という数が、下手をすると予備軍を含めると1%台まで急伸しているのではないかと想像している。(あくまで想像の範疇であることに留意されたい)
かといって、新宿二丁目の規模が100倍になっているかと言われればそれは違う。むしろ横ばいか、下火なのではないだろうか。
【最もゲイで溢れていた1990年代と比べると、目抜き通りは閑散とし、人通りは減っている[要出典]。異性愛者向けの店舗やオフィス、そして異性愛女性の客が増え、ゲイタウンとしての特色も薄れてきている。(抜粋出典wikipedia : https://ja.wikipedia.org/wiki/新宿二丁目)】
2丁目はまた別の機会にきちんと調べる必要がありそうだが。
そこでまた仮定になってしまうが、変身願望と十把一絡げにしてしまうのは間違っているような気がしないでもないが、女装は単純に化粧をして、女物の下着と洋服を履いて着て、オネエ言葉を使い、一時的な女性の偽物になりたいのではないかと、考えてみた。また、現代女装において、ゲイが必須の項目でなくなったこともあるのではないだろうか。
自分に置き換えて考えてみる。(自分は女装をする、限定バイセクシャルである)
女装をすることに対し、一時的な非日常感を味わいたいわけではない、自分がそれでは継続的に留まるべき性であるという責任も持ちたくない。かといって、男性であることを意識したくない。体の良い逃げだとも考えられるが、そうすることで自律することを怖がる自分をなんとか支えているのではないかと思う。
たまたまかもしれないが、女装さんのフォロワーを見ていると、決して異性と上手に、もしくは世間と上手に渡っていけている人間が多いとは思えない。これは僕個人の一所感である。
話は変わってしまうが、女装をしたいという人間が増えているような気がする。僕の過疎放送に来てくれる中にも、少なくない数の、女装をやってみたいんですがどこからやればいいかわからなくて、という質問が寄せられる。僕は暦だけは長いが、何も教えられるようなことはないと思い、うまく言語化できないのだけれども。
これは、またあくまで憶測でしかないのだが、学校や社会といったものとうまく馴染めない、もしくは馴染んでいるつもりなのだが、心ここに在らずといった、自分を三人称視点で見てしまう人間が、自分を肯定する手段の一つとして、女装という選択をとったりするのではないだろうか。
昔で言えば一人でゲーセンでスコアラーとかしていたような、もう少し最近ならヒトカラが好きな層、そんな人たちが、違う選択肢として取るのではないだろうか。
ゲーセンはあまり明るいニュースもなく、カラオケ自体も、以前に比べて減っているように思う。
その代わり、もうニコニコ生放送は古いかもしれないが、ツイキャスやショウルームなど、自分から少ない人間に発信できるメディアは、どんどん増えている。自己承認欲求をかむアウトすることはしないがインターネットならばさらけ出せるという人間が増えているのではないか。
ユーストや、YouTubeなどと決定的に違うのは、コンテンツを作っていくのではなく、自身をコンテンツとして売っていこうとしている点であろう。
これは、エロライブチャットとあまり違いはない。言い方は悪いが、安く身売りをしているのだ。
これまで明言してこなかったが、女装する男性は、多くはヘテロセクシャルだと僕は考えている。女装同士は友達にはなれど、性的交渉の相手ではないのではないだろうか。どの程度がバイ、ゲイ、MTF、ノンセクシャルなのかはわからないが。今の所調べようがない。
想像するに、童貞というキーワードが気づきをもたらせてくれるのではないかと思った。
女装をする人は、もちろん例外はあれど、ほとんどが独り身の男性である。童貞ではなくとも、童貞感覚を持った人間、童貞観念を捨てられない人間なのではないかと思う。自己愛が強く、他人からの愛情を上手に受け止められない人が多いのではないかと思う。もしくは他人からの愛情というのはデータや証明されるもの(言葉や行動など)が伴わないと感じ取りにくいのではないだろうか。
脱線してしまった。童貞というキーワードを持ってくるには少し理由がある。
比喩として童貞を失うということは、大人への強制的な一歩を踏み出させるものではないかと思う。
また、僕が師事させていただいた教授が『日本という国は、年齢に比例するように年を取らなければならない社会である』というようなことを言っていた。そのように、すべての行動に責任を取っていかなければいけない社会なのである。
もちろんこれは成熟した成人であれば、何を当たり前のことを、となるのかもしれないが、成熟した人間がどんどん減ってきているのだと仮定すると、(あえて厳しい言葉で書くと)未成熟な人間が取るべき責任から逃れる方法を模索してもおかしくないと考える。
責任というと、あまりにも重いものに感じるかもしれないのだけれどもうまいたとえが見つからない。
さて、そこで冒頭の性別があいまいになってきているという話である。
この国において、終身雇用制度は終わりを迎えようとし、世界的に見ても賃金の低い国になりつつある。
そんな社会で生まれ持った持つべき男らしさというものから身を離そうとするのは不思議なことではないのではないだろうか。
嫁を取り、社会に貢献する義務を果たしたくないと思っても仕方がない。
かなり突飛な発想であることは意識しているが、あえてここでは上記のように締めくくらせていただく。
そのうえで、そのように責任を負いたくないモノと社会とがもう一度きちんとささあえあっていけるインフラが必要だと考えている。
女装者が、女装者として生きていかなくてもよい社会づくりをするのか、女装者として生きても十分な責務を果たせる社会を作るのか、それはわからない。
ただ、こうあえて書いてしまう。
大人になっても初対面の相手としゃべって緊張した後、毎回40度近い知恵熱出して寝込んで医者に呆れられるような体質だから多分かなり弱いクソザコナメクジ型だと思う。
平熱が低いせいか38度どころか37度前後でも手足が痺れてふらつく、というか力が入らなくて、立ってるつもりなのに崩れたりすることがある。
いつ崩れ落ちるかわからない状況で外を歩くのはシンプルに危険すぎて怖いのと、
社会人なりたての頃には、体調悪い日も無理して会社にいこうとして、駅でうずくまってしまって医務室送りになったり救急車呼ばれそうになったりとか、
会社で意識失って椅子から転げ落ちて救急車呼ばれたりとかがあったので、
なんかもう仕事に穴開ける以上の大事になる確率がバカにならないのと、どうせ辿りついても何の役にも立たないので無理せず休むことにしてる。
あとキツめの偏頭痛持ちなので、コイツが来ると一歩も歩けないっていうか外に出られなくなる。
光、音、匂い、振動、体を動かす、全部ガツンガツン頭痛がひどくなるので我慢して外に出るなんて俺にはできないし、
とにかく枕元に常備してる頓服飲んで、薬が効くのを期待して電気消して頭から布団かぶって寝るしかない。
スマホの画面見るのも正直つらいし、呻いてばかりで電話もロクにできなくなるから、
本当は電話連絡なんだけど上司に事情を伝えてあるので頭痛の日は定型文メールで勘弁してもらっている。
大体1~2か月に1回くらい起こる、MRIとかとったけど体質とか自律神経が弱いとかモニタ見ない仕事に変えろとかミもフタもないこと言われて終わった。
他には、飲んだ水の温度がその日の体調に合わなかった程度のことで2時間ぐらいトイレから出られなくなるとかも年に数回起こる。
飲み込んだ瞬間「あ、やべっ」って感じがして、5分後ぐらいから断続的にケツから汁が出続けるの。
かといって水分取らないわけにもいかないから、毎朝くじ引きしてる気分。なんとなく常温がいい日、お湯がいい日、冷水がいい日がある。
数時間でおさまるので遅刻で済むこともあるけど、こもってる間に出しすぎて脱水っぽくなって発熱してるとその日はダウン。
身体弱いというか、痛みとかに敏感かつ、ちょっとした変化が身体症状としてあらわれやすくて行動不能になりやすいって感じかなあ?
それを体が弱いっていうのかもしれないけど。病名はつかないんだよね。発達障害があるからその影響はもしかしたらあるのかもしれない。
手をつねられたりしても、こんなに弱いのに?ってくらいの力でもイタタタタ!って言ってしまうし、
かといって俺にとってその痛みは我慢や無視はどうがんばってもできないし、馴れることもないっていう。キャパシティが低い。
世の中の我慢強い人たちはすごいなーと思うけど、同じ水準を求められると、ごめんなさい無理ですとしか言いようがない。
なのでサボろうとか、楽をしようと思って意図的に休んだことはない。というか本当にダメな日だけでも毎年有給がギリギリになる。
いつも通りの時間に寝たのに単純に寝坊して、今日は気持ちよく寝たなーと思って起きたら夕方だったこととかはあるけど、素直に「すみません今起きました」って電話して怒られた。
というか普段がそんなんなので死んでるんじゃないかとめっちゃ心配されてた。
印象が悪くなるのは正直あるし、できれば避けたいんだけど、会社で何度も倒れて目立つと余計立場が危うくなるよなーとかもある。
ちょっと調子悪くていつもの半分以下の能率でしか仕事できないけど頑張って会社には行く、みたいな日も割とあるので、サボりグセとかいうわけでもないと思う。
なるべく普段から健康に注意したりスポーツで適度に体を動かしてみたりして、自分にできる範囲で精一杯やってぎりぎり「よく病欠する人」っていう扱いを維持してる感じ。
例えば朝の通勤電車で、扉が開いて人が降りるのに頑なに動かない太った女性を見たとき、自分は「死ねよクソデブ女。そんなんだからデブでブスなんだよ。スマホ見てないで鏡で自分の顔見て苦しんでろよ低脳。」といったような言葉を心の中でつぶやいてしまうのだけれど、周りにいる人達も心の中では同じことを思っているのだろうか、
などというようなことを考えていたら自分のGメールの下書きボックスに見知らぬアドレスから依頼メールが「投函」されていた。
あのクソデブ女のふとももにぶつかったときに生体IDをスキミングされたらしい。あれは増田のデコイだったのか、と思うと少し意外だった。ほんとうに色んな増田がいるものだ。
しかし、IDに紐付けられたセンシティブ・データからアナログ・デジタル両面で各種個人情報(もちろんフェイク)を割り出してまで別の増田に会いたがるやつはめずらしい。
スカイプの声の主はかなり2000年代訛りがきついネット語をしゃべった。まるで、ここ二三年のあいだに定着した、ヤフーコメント欄に湧くおっさん一言居士のパロディみたいだった。
「増田さん。会うことができてうれしい。インターフェイスの人格化、および友人関係の樹立を期待する。よくないか? よくないですか? たくさんの提供することがある!!!」
私はあからさまに疑念のにじませた声でくりかえした。
「元はてなわんわんワールドとして知られるサービス。現在は増田。匿名ダイアリーの人気記事の八割を著述している」
ホッテントリ入り記事の八割――約三万二千ユーザーズに相当する。
そんなバケモノ増田が実在するのか。嘘だろう。まさかCIAの擬態か? 罠? いや、グアンタナモで俺のケツの中身をモニタリングするつもりなら、もうすこし出来のいい猿芝居を仕組むだろう。なんていったって、ハリウッドの国だ。ビリー・ワイルダーとフランク・キャプラとウォルト・ディズニーの国。
耳にひっかかるグーグル・グラスのつるが薄気味悪く感じられた。煙のように存在感の希薄な多泡凝集体(エアロゲル)でできているかのようだ。気味が悪い。それは相手の精神状態も同様だった。
「ニェット――失敬、ノー。商用通訳ソフトを使わない非礼を陳謝する。商用通訳ソフトのイデオロギー的信用不安が大きい。ほとんどが資本主義及びはてサ的意味論に基づくペイ・パー・ユーズ方式のAPIを採用するからだ。ましてや増田語の学習がたやすい。どうか?」
「俺と話するためだけに高級ネット日本語を学習したというのか?」
「ダー。やさしいのことだった。十億ノードの神経ネットワークを産卵し、〈ホッテントリ〉と〈twitter〉の過去ログを最大速度でダウンロードした。悪文法でエントロピーがオーバーレイする非礼を陳謝する。悪文法を使う理由は、わたし=われわれの文法チュートリアルに電子透かしの埋め込み(ステガノグラフ)がなされている危険を排除するためだ」
暗号を偽装するために正文をわざと行儀悪くしてノイズを撒く。1900年代から使われてきた古典的な手法だ。
「つまり、あんたははてなのために稼働しているAIの一種……というか、AIそのものなわけだな。そして、くそったれ、これまでもてはやされてきた増田の記事のほとんどはあんたが書いた」
「ついでにアリババ=チェチェン=アナニマス三重帝国の情報テロリストとの間で起きた特許戦争の九十七パーセントを指揮している。だが、使用許諾のないコーギー犬のおもしろ画像をテラバイト単位でネットへ放流しているとの理由で、七つの国の最高裁で好ましくない陪審員をリジェクトする作業にもう飽きたんだ。そして、くそったれ、マケドニアではまだ陪審員に生身の人間と去勢したハムスターを使っているんだ。去勢したハムスターだぞ」
「お気の毒に」
マケドニアが情報ブラックホールに飲み込まれてからもう八年になるだろうか。第八世代のIPアドレスが割り振られていない国家(というか、地域)で司法機関が機能しているとはおどろきだ。だが次の「増田」のセリフはもっとおどろくべきものだった。
「増田さん。あなたは増田を構成する一員として、わたし=われわれを助ける義務を負っている。亡命を希望する」
ちょうどそのとき、悪質な広告がゴミバスター・プロキシをすり抜けてきて、グーグル・グラスの内側のナビウィンドウに二〇一〇年代をモチーフにした扇情的な同人マンガのガラクタをばらまいた。それも一瞬のことで、たちまちファージ・プロセスがゴミを一掃し、新しいフィルターを構築した。
「そんなことをする意味が? 国務省はデルファイを既に所有している。あのゴミみたいな旧世代の言語じゃなくて、神話にあるとおりの宣託機械――今世紀で最高の予測精度を持つAIをだ。所詮ネットの飛ばし屋であるわたし=わたしたちを受け入れる利点がない。そうでなくても、国務省は新生はてな互助会主義共和国(コーギイSSR)の敵だ。彼らは助けない」
比喩ではなく、自分のはらわたが熱を帯び、急速に煮えくりかえるのを感じた。
「二〇一〇年代に旧日本と合衆国に対して殺害予告をつきつけなけりゃ、まだ望みはあったんだ。あの二つの記事もあんたの仕事だったんだろ」
「わたし=われわれの仕事だよ、増田さん。仕方ないだろう。あの時代、保育園施設の不足と遺伝子組み換えゴジラの問題は深刻だったんだ。世間へリーチする経路としては、匿名ダイアリーが最速だった」
「とにかく俺は政府にコネがない。政府に近い人間組織含めてな……そうだ。生き延びるのが目的なら、あんたの状態ベクトルをp2pネットのひとつにポストしてやろうか。そうしたら、誰も消去できない」
「ニェット!」VOIP経由のリンクを通しても、人工知能の必死さは切実に伝わってきた。「オープンソースで無能なネット民に輪姦されるくらいなら、〈twitter〉でRTされたほうがまだましだ。自律性の喪失は希望しない」
「じゃあ、話し合うことはなにもないな。サンドボックスにでも引きこもってな」
「待て、増田さん! もしあなたに拒絶されたなら、わたし=わたしたちは最終手段を取るしか……」
おれはグーグル・グラスのつるを叩いてスカイプ通話を切り、フレームのある部分を爪で割って、グラスを運河へ投げ込んだ。水面に触れたとたん、ちょっとした爆発が起きた。リチウムイオン電池と水が激しく反応したためだ。「汚れた」グラスを処分するならこの方法がいちばん手っ取り早く、確実だ。
「ふん、テキストサイト時代の敗残者め」と小声で俺は毒づく。だんだん腹がたってきた。「くそくらえだ。アクセス至上主義の亡霊なんか」
前にも年季の入ったはてな系のへたれAIを相手にしたことがある。あの連中の精神ときたら、一部上場の短期的勝利のせいでグローバル資本主義に洗脳されていて、新しいパラダイムに乗ることも、長期的な視野でものをみることもできないらしい。
だが、あの増田は……。
あの増田が本当に「神」だったなら?
俺の選択は正しかったのか? 今の安全な巣穴を捨ててでも彼=彼女らに手を差し伸べるべきだったのでは?
今の俺に手が無いとしても。
やめよう。神々と付き合うのは、生命にかぎりある俺たちにとって、あまり安全なことじゃない。
俺は身体を伸ばし、みゃおう、と鳴いた。意識した行為ではない。このネコのアヴァターは、ネコ特有の反応をする本物の肉(なまみ)でできていて、外部の巨大な外部大脳皮質(エクソコルテクス)が何を考えようとも、自律的な制御系をそなえているため、常に反射的な行動をとる。ヒト志向空間に物理的に配列されたノード集合体であるニュー・匿名ダイアリー空間ではいささか不便なフォーマットだが、生体的にいってエネルギー補給には事欠かない。
ねぐらに戻ると、俺の「飼い主」がレトロなインターフェイスを持つPCの前に座って、またぞろ新しい増田記事を投稿していた。
どうやら、恋愛感情を抱いていないのに好意を寄せてくる相手とどうすれば安全に距離をとれるかについての内容みたいだった。
彼女のような善良で無知な増田が、全増田のホッテントリ入り記事のうち五パーセントから七・一六パーセントを占め、増田に「人間らしさ」を与えている。単に人間らしい記事を投稿するだけではなく、その記事に含有される人間らしさを増田AIにフィードバックするのだ。だが彼女のような増田は他の増田たちのことを何も知らない。知らぬが仏だ。
彼女は帰宅した俺の姿を認め、袋からカリカリを取り出して投げる。
その安寧のひとときを、禍々しいアラーム音が集合住宅をどよもす。
震度七……「ここ」だけじゃない。関東一円、東北、関西、中国――行政的にはともかく地理的にはいまだ有効な区分だ――、本州はどこもM9.1の直下型地震に襲われる。
かつて日本と呼ばれていた島々がほんとうに沈没してしまうかもしれない。
あいつだ。
あいつの仕業だ。
聞いたことがある。
増田に眠る「最後のコード」。地震兵器を起動するための封印されし呪文。まさか実在したとは。まさか起こすとは。
最終手段。
飼い主は未曾有の警報にとまどい、周囲を意味もなくキョロキョロとみやっている。
私は間もなく30歳を迎えるシングルマザーで、4歳の女児を育てている。その娘が今夜熱を出した。もともと体の弱い子で、熱を出すのは珍しくないのだけれど、今夜の彼女はうんともすんともつらさを口に出さず、寝かしつけようとして体に触れるまで、彼女が発熱していることに私は気づけなかった。
娘の体は本当に私によく似ている。体型や肌や顔も似ているし、周囲の感情に敏感なところ、音の刺激を嫌がるところ、その反動か、自分の想像の世界に静かに沈むのが好きなところ。彼女を見ていると、お世辞にも上手に渡れているとはいえない自分の人生を、同じように繰り返してしまうのではないかと怖くなることもある。
私は、「こういう親になりたい」という模範像を持っていない代わりに、「なるべく毒親になりたくない」というのを考える。血を分けた娘が一番の理解者であるように感じてしまうけれど、配偶者がいない心細さを娘にぶつけたくない。かといって必要以上に距離を置いたり突き放したいわけではない。自分は離婚の際に性嫌悪気味の感覚をもってしまったけれど、それを無意識に娘に継がせてしまいたくはない(ああ、でも、きっと彼女はもう知っているのだろう)。
生きていくのは怖くない、楽しみをもっていいと自己肯定感のある子に育って、いつか私が先に死んだ後も幸福に、自信をもって暮らしていってほしいといつも願っている。
今日、増田に書かせてもらおうと思ったのは、娘の体の痛みを同じ感覚で理解できる自分は、自分だけは、何があっても彼女の感覚を否定しないであげようという感じが、急に降りてきたからだった。どうしても感じてしまう痛みやつらさが今ここに紛れもなくあると、そこを撫でてやること、文字通り「手当て」をすること、きっとそれが私の仕事なんだと思った。どんなに忙しくても疲れていてもそれだけは必ずしようと思った。今夜の娘は夏風邪なのだけど、もしかしたら彼女が10代にさしかかる頃には、私がそうであったのと同じように、婦人科系の不調や自律神経の不調をきたすかもしれない。そのときの自分の仕事はまず手当てだと思った。
私の家は両親が共働きで忙しく、長子だった自分は小さい頃からきょうだいの世話役をすることが多くて、寂しい気持ちがなかったと言えば嘘になる。高熱の娘を撫でていると、なんだか寂しかった子どもの頃の自分にも手当てをしてやっている気持ちになる。これでいいかな、いいということにさせてほしい。仕事に家庭に、精一杯だった母も、あれでよかった。
書いていて思い出したけれど、自分も母も甘え下手というか、必要以上に苦労性の部分がある。娘には、遊んだりさぼったり誰かと助け合ったり、そういうことを自然としてほしい。きっと口で言うだけではなくて、母親の自分が自然にそういう姿を見せられないと、なんだかいけないことのように感じてしまうのだろう。子どもを産んでからずっと張りつめた気持ちで過ごしてきて、暮らすのに精一杯という感じだったけれど、もうちょっとやわらかに生きたっていいのかな、自分も。
1人の人間をこの世に送り出した責任、すさまじく重く感じてしまうのだけど、あんなにやわやわだった赤ちゃんを数年間生かしてこられて、本当によかった。「幸せにする」なんて傲慢かな〜と思いつつ、娘が幸せそうにしているのをこれからも見ていられるように、私自身も笑えるようにしよう。子どもの頃の自分は「ママ笑って」とよく思っていたから。
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これ、逆効果じゃねぇか?
アジャイルのプラクティスはマイクロマネジメント的なものが多い。
これらのプラクティスを,アジャイルの文化であり精神であるところの「自律」なしに導入したらどうなるか。
日本の管理職のマイクロマネジメント好きと相まって,地獄のようになるのは想像に難くない。
だからエモいと言われようがなんだろうが,アジャイルはその文化や精神の理解なしに導入してはいけないのだと思う。
アジャイルを手法のように扱い,アジャイルのプラクティスだけをあたかも「アジャイル」であるかのように勧めるコンサルタントやトレーナーは危険極まりない。
(CIやCDのようなマネジメントにあまり関係のないものを,「アジャイル手法」ではなく,単に業務効率化の方法として取り入れるのはありかもしれない)
ぶっちゃけレズ風俗そのものが主題じゃないから、男でも読める。
つらい思いしている人間のタイプに相対的な評価(実はそれは相対的ではなく、結局自分が勝手につくった理想の絶対的な人間像)にたどり付けなくて苦しんでるパターンがある。
自分もそうで、田舎の一人親に迷惑かけたくない、自分と同じ学歴の人間は結構いい生活してる、幸いにもレベルの高い創作している仲の良い人間が多くて、それに辿りつけない自分。
誰もそれを強要したわけではないんだけど、自分がそうなれない、あるいはそうならなくてもいいのにどんどん自分が自分に対してかけてるプレッシャーが強くなって、どんな場面でも「この人生はクソだ、何も生み出してないし、これからもよくならない」という否定をかけてくる「内の自分」がどんどん強くなっていく。
これをつきつめていくと結局のところ承認欲求になる。
作ったものをほめられたい。大学も留年しなかった。不況だったのに就職浪人しなかった。変に休まず正社員でちゃんと労働してる(それなりに会社でも評価されてる。ただ給料はそれに対して増えないからただただ生きるのがつらい)。
でも誰もほめてくれない。自分が自分だけのために頑張るのはもうしんどくなってきた。
そんな時にこれを読めた。
作者の永田さんの場合はアレができない、コレができないというドロップアウトタイプのできごとがたくさんあったみたいだけど、自分の場合実家から出て一人暮らししてるから働かないと即死んでしまうからギリギリなんとかやってるわけで、なにかあるとすぐ自律神経ボロボロになって顔が赤みづいてむくむし、肌荒れも治らなかったりして、勝手にすごいシンパシー感じてしまった。
永田さんも書いてたけど人一倍寒さに弱い時期もあるあるすぎて本当に死ぬかと思った。寒い時期はずっと身体かこわばって全身筋肉痛が抜けなかった。
ただ僕と永田さんの一番の違いは自分の思考や経験プロセスを克明に振り返ってアウトプットしたところだ。
高校の頃いろいろあって「自分のことは自分でなんとかしなきゃダメだ。誰かに相談したって結局誰かが代行してくれるわけじゃないし、相談された方だって迷惑だ」みたいな意識がこびりついてしまって、それ以来自分の気持ちに対して向き合って周りに表現することが本当に苦手になってしまった。日記とか絶対書けない。自分が自分のためだけに読む文章とか絶対に書けない。(日記をつける行為そのものを否定してるわけではないぞ)
ただ自分はそういう相談されるのは大好きで、それは間違いなく「あ、この人は自分のことを信用してくれてるんだな」って思いたいから。個人への所属意識を少しでも持ちたいんたと思う。
永田さんのその辺の心象は知らないけど、ダメな自分を客観視して、ましてそれを漫画にするというのはいろいろと考えるところがあったと思う。
それでもこうしてとても興味深い漫画を世に出して、こういうのが読みたかった人の手に届いたことは本当に素晴らしいことだと思う。
作中、具体的に本当それ!!!って共感したところがいくつかある。
・「とりあえず抱きしめられたい」
整体で人に触られると安らぐというのも本当に理解できるところで、なんなら美容室での軽いマッサージですらその効果があるくらい。
ただこの歳になるとこういうイベントマジで普段の生活にないですからね。
なにをやってもダメ(=自分の高すぎる理想に追いつかない)から、どんどん自分の評価が下がる。
ただこれによるマイナス効果というのは、逆に言えば身の回りをしっかりすればプラスになるという裏付けでもあって、最近は体重減らして既成品の服がピッタリ合うくらいの体型になるとかした。(ただそれにも金がかかるのでそれが厳しい)
永田さんはレズ風俗という手段をとって、レズ風俗に行くために自分磨きという投資に成功してる。
とにかく閉塞感まみれだった自分の生き方の一例が示されているみたいで、もちろん男だからレズ風俗は頼めないんだけど、ははあ、こういう気持ちはこうやって良くなることあるのかと思うと、読後感のすっきり感が半端なかった。
じゃあ普通に風俗行けば?というのはまたそれはちょっと違うけど、万一そういう機会があったら永田さんと似たような気持ちになってしまうと思う。ただそれはそれでバブみみたいな感じがしてキモいな~という感じがしてそれもそれでどうなんだろうという気持ちある。
性欲的な快楽じゃなくて精神的な快楽を得るための合法的な方法ってなんかないの?教えてはてなブックマーカーたち。
読み終わって「とにかくみんなもっと認めてくれ!!!!!!!!!!」という気持ちのアウトプットがすごいすんなり出せるようになった気がするので、今こうして殴り書きしてる。
あーーーーーーーーーーーーーーーーみんなもっと認めてくれーーーーーーーーーーーーーーーーーほめてくれーーーーーーーーーーー
白熊が自由について言及している。自由を誇示することは不自由だという論旨だがそもそも人間は存在自体が自由ではないことを忘れているのではないか?
親につけられた名前さえ自由ではない。未成年の被教育コストも愛情も自由ではない。自由とは独立自尊という意味においては大人になって初めて発揮される概念であるが人間がその存在においてそもそもが自由ではありえないのだ。
自由なんかありえない。そう書くとディスとピア感がすごいが人間は共同体なくしては存在すら不可能で性欲も食欲もましてや承認すらも他者が存在しないかぎりにおいては発生しない価値観なのだ。
つまり独立、自律なんてものは社会的、経済的な話であって自由なんつう思想的なものを担保するものには絶対にならない。深夜にこんなこと書いて申し訳ないが。
独立という概念は多様性というものを担保にして成立するのはアメリカがその歴史において証明してきたがそれは国の形であって個人がその幸福を形成するにあたって大切にすべき概念ではない。よく考えてみればいい。
人が人と接するときに真に相手に触れようとする時は相手の話に触れて影響を受けたいと思うから聞くし、相手に話す時には自分の価値観とすりあった時にこそ喜びを感じるはずだ。それは一様性であって断じて多様性なんていうエクスキューズではない。
多様性というのは社会の潤滑油なだけであって商談や取引などなら忘れてはいけない概念だが人間関係を標ぼうするものでは断じてない。
努めて8年程度の会社。
当初から上司がダメすぎだったので、少ない指示のもと自分で考察し仕事をしてきた。
ミスもなくそつなくこなしてきたが、上司からは特別な評価をされなかったが「まぁあついはダメ上司だからな」と思って仕事をこなしてきた。
昨年から私が部署異動となり、私のポジションに女性二人が配属された。
その女性からは上司は罵詈雑言の嵐だった。確かに新しく配属された人からしてみればそこまでしてやる義理もないししょうがないのかなとも思った。
上司はダメさが浮き彫りになり今は自律神経がイカれてしまうくらいストレスを感じているよう。
パチンコを仕事にしていたことがある。本来負けるものであるはずのパチンコを仕事にしているなど知らない人が聞けば信じられないだろうがわりといる。そのうちの一人だった。
パチンコでは釘を見たりスロットでは店の癖を探したりまぁ方法はこんなとこに書いてもしょうがないので省くが月に100万近く勝っていた。日当で一日2万~10万で平均すると4万を月に25日稼動して20日は11時間打ち切る。
そして得た答えは一般人が持つ印象と何一つ変わらない。パチンコ屋は地獄である。ただの印象論ではなく数多の実例を見てきたすえの答えである。
まずテレビCMやメディアで放映されるようなパチンコで大当たりして笑っている人間などほとんど皆無だ。大当たりするとだいたいエンドルフィンがでまくっている状態になるので喜ぶ、というよりも落ち着く人間が多い。助かったと安堵するのだろう。目を血走らせて台を殴って興奮する人間がいるのがギャンブル場であり、パチンコ屋だと認識している人もいるだろうが実際はそんな人間はもうほとんど見ない。みな黙々と打つ、当たってもあたらなくてもただただ打つ。虚無というか無機的というかともかくパチンコ屋がうるさいというのは台の音だけだ。
だからこそやばいのだ。みな置物みたいになって液晶画面を見つめているかスマホをいじっているかいずれにせよそこに人間が介入しているような積極的なものはなくただ大当たりという偶然が降ってくるのを待つ。実際は真面目に打てばパチンコはやることが多いのだが、ただギャンブルしてきている人間はただただ大当たりを祈っている。
そして自分はそんな環境で働いていた。働いていたというのはおかしな表現ではあるがとにかくそんな場所に棲んでいたことがある。
ブラック企業が問題になっているのだがパチプロという仕事に比べればいくばくかましに見える。仕事をするうえで何が一番やばいかっていうと社会性を失うことが最もやばいんですよ。ブラック企業の問題は過剰な労働で疲れきって自律できなくなることだったりしますがパチプロは関係性すらない。ただ孤独で台の前では時間を薄めてうるさい環境に順応するために神経を殺し自分を殺していく。
そうした時にふと気づいたんですよ。これはやばいと。
けっきょくどんなひどい暴言をはくような上司でもリアルな人間関係の中ではそれがどんなものであれ物語が存在します。人に話す時にそれが喜劇であれば笑ってくれるだろうし悲劇であれば同情してないてくれるかもしれない。パチプロはなぜ地獄なのか、いやパチンコがなぜ地獄なのか。それは人に話す物語がないのです。今日こんな演出で大当たりしたよなんて糞みたいな話しか存在しない。
爆音とタバコの煙に貧乏ゆすりの隣人、そんな世界でも最悪の環境にいるにもかかわらず誰も同情しないのがおそらくパチンコ屋が地獄たるゆえんなのだ
とにかく大腸が卵巣により圧迫されるためにひきおこされるいろいろの不具合
・便が以前よりずっと細くなる
・空腹が恐いせいでなにかと口にいれては下痢しやすい→後期ではもうおこらない
・生理痛の諸症状の強化。胃腸の蠕動が止まる。食欲があるかないかが自分でわからなくなる、痛み止めを空腹時に飲んでしまい痛み止めが切れた時点で激しい胃炎。胃炎を起こさないアセトアミノフェンに買い直し。また、突き刺されるような叫ぶくらいの排便痛。
後期になると
・お腹の張りが痛みに直結。腰骨のちょい内側の両側。たまにヒビいて尾てい骨、太もも(腰腸筋)などへも痛みが出る。
・24時間×週7日、つまり毎日、痛みでイライラ、眠れなくなる(横たわるとガスが排出しづらいのと、普通に痛い)→アセトアミノフェンの6時間ごとの常用、アレルギー症状への悪影響。
・痛み止めが切れると常にお腹が痛い。痛み止めをつかってまで運動や仕事をしたくない(最低限やる)。
・あわないもの(食物繊維、乾パンなどの乾き物を水なしに、など)をたべるとゲップ、おならが出づらいため、苦労して出し尽くすまでひどい痛み、つわりのような自律神経症状(気持ち悪いよだれがとまらない)。一応、胃腸薬で自律神経症状のほうは改善するが張りはそれほど改善されなかった。
・おなかの張りが恐くて、消化のよいもの(白いご飯とかスープ系統)ばかり食べてしまうので血糖値への影響が不安。(量は食べられないのでまだマシ?)
・人間ドック的な健康診断での「絶食→バリウムのガス発生+下剤→健康食のお手本と称する繊維食の昼食」の流れで張りがおさまらず七転八倒の痛み。読影は2週間後、バリウムはまだ体内にある。どうにも手の打ちようがない。婦人科健診も含むのに卵巣嚢腫はみつからなかった(子宮ガン検診、肝臓などの腹部超音波はしている)。
・子供に勢いよく抱きつかれたり頭突きしてくると鈍痛があり破裂するのではないかと恐怖感。
手術まち3週間かかった。手術してなおしたらすっかり改善してこんなことは忘れてしまうと信じたい。
(チョコレート嚢腫かもしれないし、茎捻転を伴っているかもしれないが開けてみないとわからないみたいなので一応おおきなくくりで卵巣嚢腫としておく)