白熊が自由について言及している。自由を誇示することは不自由だという論旨だがそもそも人間は存在自体が自由ではないことを忘れているのではないか?
親につけられた名前さえ自由ではない。未成年の被教育コストも愛情も自由ではない。自由とは独立自尊という意味においては大人になって初めて発揮される概念であるが人間がその存在においてそもそもが自由ではありえないのだ。
自由なんかありえない。そう書くとディスとピア感がすごいが人間は共同体なくしては存在すら不可能で性欲も食欲もましてや承認すらも他者が存在しないかぎりにおいては発生しない価値観なのだ。
つまり独立、自律なんてものは社会的、経済的な話であって自由なんつう思想的なものを担保するものには絶対にならない。深夜にこんなこと書いて申し訳ないが。
独立という概念は多様性というものを担保にして成立するのはアメリカがその歴史において証明してきたがそれは国の形であって個人がその幸福を形成するにあたって大切にすべき概念ではない。よく考えてみればいい。
人が人と接するときに真に相手に触れようとする時は相手の話に触れて影響を受けたいと思うから聞くし、相手に話す時には自分の価値観とすりあった時にこそ喜びを感じるはずだ。それは一様性であって断じて多様性なんていうエクスキューズではない。
多様性というのは社会の潤滑油なだけであって商談や取引などなら忘れてはいけない概念だが人間関係を標ぼうするものでは断じてない。