はてなキーワード: 一過性とは
『日本の就活システムは、新卒が“最強カード”?転職の弊害と、切なる願い』
https://mi-mollet.com/articles/-/38184
リーマンショックや東日本大震災、そしてコロナ禍といった未曾有の災害が次々と起こり、少子化による若年層の減少もこれだけ叫ばれているのだから
我々の就職活動を苦しめた新卒至上主義も2022年にもなればもういい加減薄らいだかと思っていたんだが、
実際にはまだまだ残っているというかバリバリ現役らしい。
我々就職氷河期世代の不遇って単なる不景気や企業が採用を絞ったという一過性の問題ではなく、
新卒至上主義故にそれ以降もまともな正社員就職が出来ずに据え置かれるという構造上の欠陥が原因だと思うんだけど
「もう二度と我々のような世代は作らないでほしい」と言って自分らの利益度外視で若年層への優遇を訴える氷河期世代の人達さえも
新卒至上主義というシステム自体を撤廃しようとはほぼ全く言わない謎。
この不合理なシステムを温存したままで、少子化による労働力の低下を憂うなんてあまりにもおかしいと思うんだけどねーー。新卒至上主義さえやめれば、
移民を検討するまでもなく労働力不足なんてすぐに解決しそうなものなのに。
しかしこのヒオカって人、問題提起は良いと思うんだけど、着地点がどうもおかしいというか
現代日本における深刻な社会問題への言及で始めた以上は本来ならば社会や強者に向けて怒りを表明して終わるべき所を
何故かそうならず、無理に企業やそれに携わる人達に阿り、彼等彼女等も頑張っているんだよで終わるのでフラストレーションが溜まる。
無理矢理なポジティブさにいわゆる糸井重里イズム的なものを感じてしまう。
https://fujinkoron.jp/articles/-/6741
『学歴よりも経験』で一時炎上した平原さんについての記事なんだけど、
彼女が本当に言いたかった事は違うのではないのか?と、何の根拠もなく無理にポジティブに捉えて平原さんを擁護している。
「しかし、平原さんが言う経験とは、本当にそういった履歴書にかける経験だったのか?とふと考え直してみた。
確かに現状は、履歴書にかけるのは留学や部活動など、お金で買う経験ばかりだ。
しかし、もっとお金で買えない経験が評価される社会になったらどうだろうか?と考えてみる。」
まあ、文筆業でお金を稼ごうと思ったら結局業界の有名人に媚びなくちゃいけなくて
尖った自己主張や怒りの表明なんてものは出来なくなっていくんだろうな
クリエイティビティが大事だとかなんとかすぐ言うこんな世の中だけど、クリエイティビティは人生のバックグラウンドから醸成される性質であってスキルのようにサクッと身につけられるものじゃない。
と言う自分もクリエイティブな人間に憧れを持っている。クリエイターとして何かを表現する人間になりたいと思う。別にそれで一発当てて富を築いたり、名を残したりしたいわけじゃない。
アートが好きだ。生み出された表現のバックグラウンド、クリエイターの心情を知ることで、何かインスピレーションを得たような気分になる。
だがその実これはクリエイティブへの憧れをアートをただ消費することで満たそうとしているに過ぎない。自分はいつも作品の対面側にいて、作品の背後にはいない。
絵を描くのは元々得意で真面目に練習して描こうとしたり、他にも文章を書こうとしたこともあったが、表現する方法を知っていてもそもそも自分の内側には表現したいものがないことに気付いてしまう。中身のない絵が上手く描けることにも大した喜びを感じられないのでやめてしまった。
プログラミングが生業だが、こんなアプリケーションがあったら便利だとか、こんなものが作れたら面白いとか素敵だとかクールだとか、そんなアイデアも想像力も全くない。それをどんどん思いついて生み出すクリエイティブな人間を身近に見たり、求めずとも情報が入ってくる環境にいるだけに、自分は全くもってクリエイティブな性質ではないということを認めざるを得ない。自分は人のアイデアに乗っかりそれを作る手伝いをして対価を貰っているだけ。
クリエイティブじゃない背景的な理由の一つとして、自分には強い情動のようなものが全然ないということがある気がしている。
一つの物事に真剣に最後まで取り組んで、歓喜したり絶望したり激怒した経験がない。子供の頃から大きく感情を波立てながら何かにぶつかった覚えがない。大した苦難も努力もないままここまで来てしまった。今だって自分はクリエイティブじゃないなんて言っても別にそれが人生の壁になっているわけじゃない。
新しいことを始めるのが好きで趣味は多いが、一生かけて情熱を注ぎ続けられるライフワークと呼べるようなものは持っていない。一生付き合っていたいと思う人間関係も持っていない。そういうものを持つ人に憧れて色々なことに手を出しているというのも無意識下にあるのかもしれない。
自分にとって趣味と呼べるものほとんど全てが一過性で、表面的に消費することで短期的な快楽を得ているに過ぎない。ある程度まで知識や経験を得たら満足して次に目移りし、浅い知識だけが広がっていく。
短いスパンで大きな意味もなく職場や住居や友人関係など環境を変えたがるのも同じなのかもしれない。
金への執着もない。これはすでに現状何不自由ないというのもあるし、今以上に経済的に豊かな暮らしに憧れているわけでもない。
性愛への情熱もない。異性への好奇心も性欲に駆り立てられて行動することもここ数年でほとんどなくなってしまった。最近は結婚や子供を持つというライフイベントが何か自分を変えてくれるんじゃないかと思って行動しているが、多分そんなことはないと冷笑するもう一人の自分がいる。
失われた20年に生まれ育った自分の同世代には同じように感じている人間が少なくないのではと勝手に憶測している。いわゆるミドルエイジクライシスに似た状態に早くもなってしまっている。
アートに限らず新しいものを生み出す発想の源泉が、生活や仕事のちょっとしたフラストレーションに始まり、自分の置かれた境遇や社会への不満、抑圧への抵抗、強い欲望などの情動であるならば、それらのような感情が枯渇した何も表現できない何にも情熱的になれない自分のような人間が、あと70年近くある人生を何のために過ごせばいいのか分からなくなる。
なんだかもう 言い訳ばかりになるんだけど
私は以前鬱気味だったせいなのか
今もすごく自分のメンテナンスみたいなもんにものすごく時間のかかる性質で
今でこそ何とか普通に働いているけど
毎日普通に風呂に入って洗濯した服を着て仕事に行く、という普通の社会生活がうまくできない時期もあったし
今もやっぱり波がある
そういう波のある状態だと、
誰かと深く付き合うというのがほんとうにきつい
たとえば、毎週同じ人と会うとか毎日ラインで連絡とるだとかがものすごく重荷になる
どれも数ヶ月で終わってしまった
それなりに好きで付き合った相手でも、すぐにしんどさが勝ってしまったから
仕事やたまの親戚関係を除くと私生活における束縛事項を最低限にまで引き下げて
そうして40年弱を生きてきた人間だ
生きてきたというより、そうしないと社会の中で生きてこれなかった人間だ
だから、あなたと親しくなったのはほんとうに想定外のことだった
それでも互いに恋愛に似た熱心さでいると思う
あなたと話すのは本当に楽しくて
「毎日用事もないのにメッセージを交換して、それが楽しい」なんて生まれてはじめての経験だった
そう伝えたら喜んでくれたのも嬉しかった
あなたと共に携わることを滞らせて、メッセージを返せなくなって、
私のこれが単なる怠け心なのか、
たんに数ヶ月経って(以前の恋愛関係のように!)熱が冷めてしまっただけなのか
きっと一過性の疲れだと思っているだろう
けど、そうじゃなくて、
私はずーーーーっとこうなのだ
人を悲しませたり迷惑をかけたりしても動けないときが頻繁にある人間なのだ
自分がこうだとわかっているのにどうしてあなたと親しくなったりしたのだろう
情けなくて涙が出る
…………、と、いう、自責でうまく眠れなくて
でもの感情の沈みが、メンタルの不調によるものだということも私は知ってる
こんなこと話されても困るだろうから、この手紙は出さないけれど
とりあえず増田に流す
勝手ばかりでいつもごめんね
高い薬にグレープフルーツの成分を配合したら薬の量を少なくできるのでは?
(追記)
グレープフルーツによるCYP阻害作用は個人差が大きく、安全だと言えない。なお古いけど高価なシクロスポスポリンとグレープフルーツを一緒に飲むと投薬量を減らせるかもという研究があるhttps://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/7715295/
はぇー、やっぱ研究してる人いるんやな。その個人差がどうにかなればええ感じやな。今はバカ高そうだけど患者の遺伝子を分析して配合を変えるみたいなのが安価でできるようになったら道が拓けるかも?
グレープフルーツジュース、大不作のために姿消したかと思ってるんだけど、具体的に原因の裏付けを探せてないんだよね。どなたか教えてください。
そう!!無性にグレープフルーツジュースが1㍑飲みたくなって帰りにスーパー寄ったら置いてなかったわ。
いやホントは置いてたけど800円くらいのバカ高いやつしかなくて買えるかいボケってなってそれから別のとこ3軒回って入手したんよ。
でも最後の店には250円と150円のが各百本くらい並んでてあるところにはあるんやってなったわ。
戦利品の100㌫グレープフルーツジュースの味は格別やったわ。やっぱ㍑ガブ飲みに限る。
姿消すの?品薄なら一過性であってくれ!
正確にはゲームというより、ピカチュウが出てくる万歩計といった方が良いかもしれない。
万歩計の歩数に応じて、画面の中のピカチュウがさまざまな動きをする。
たまごっちと万歩計とピカチュウを足して3で割ったようなかんじだ。1998年に発売された。
https://www.nintendo.co.jp/n09/pokepika/index.html
いまは東京のビル街で日々精神をすり減らす企業戦士となった私だが、1998年は幼稚園に通っていた。たしか年中だった。
おにいちゃん、おねえちゃんのいる子たちが幼稚園に持ち込んできたのが「ポケットモンスター」というゲーム(アニメ)だった。
それまではミッキー、くまのプーさん、ハローキティくらいのキャラクターに囲まれて生きてきた幼児たちにとっては刺激的な世界観だった。
当時は周りでゲーム(ポケモン 赤/緑)をやっている子は珍しく、アニメを見ては翌日感想を言い合ったり、出てきた新しいポケモンの真似をしたり、サトシ・カスミ・タケシごっこをして園庭を走り回って遊んでいた。
ーーーでもやっぱりゲームが欲しい。
残念ながら、4歳児が「ゲームボーイ買って!欲しい!」と言っても大体は親から一蹴される。
ある日、発売されたのがポケットピカチュウだった。
当時大流行していたたまごっちのスピリットを受け継ぎキャラクター(ピカチュウ)を育てられる(かつ、万歩計という健康的な側面ももつ)。
価格も2500円。ゲームボーイ+ソフトを購入するより断然安い。
流行らないはずがない。
スイミングスクールに行くバスの中で一番の仲良しだった子が宝物を見せるように、小さな手に包まれたそれを見せてくれた。
「えーいいな。ずるい」
あっというまにポケットピカチュウ所持人口が増え、街中の幼児が歩くたびカチカチ万歩計の針が進む音がするようになった。
ーーーー私はまだ買ってもらえない。
ポケットピカチュウをスイミングスクールのバスの子どもたちの半分くらいが持つようになった頃、事件が起こった。
ポケットピカチュウカラー 金・銀といっしょ!が発売されたのである。
https://www.nintendo.co.jp/n09/pika_kg/index.html
ざっくり説明すると画面がカラーになったことに加え、なんと赤外線通信機能がついた。
スイミングスクールに行くバスの中で持っていない子は私一人になった。
私は母に相談した。
「ポケットピカチュウがほしい。みんなもってる。つうしんこうかんしてる」
「みんなが持っているからっていう理由で欲しいのはダメ」 (ーーー今に通じる母の精神だ)
「外の景色を見てたらすぐ着くでしょ」
想定通り蹴られた。
「サンタさんに頼んだらもらえるかもね」
手紙を書くために、一生懸命ひらがなとカタカナを書く練習をした。
クリスマスを、楽しみに、楽しみに、待った。
「サンタさんにポケットピカチュウたのんだから、もうすぐわたしもつうしんできるから!」
「たのしみだね」
「うん」
朝起きてクリスマスツリーの下に駆け寄ると、小さな包みを見つけた。
これで、やっとみんなと遊べる。
ポケットピカチュウが発売されたのが1998年の3月で、ポケットピカチュウカラー 金・銀といっしょ!が発売されたのが1999年の11月だからざっくり1年半は待っている。
5年ちょっとの人生のうち1/3はポケットピカチュウを待ち焦がれて生きていた。
はやる気持ちを抑えて丁寧に包みを開ける。
出てきたのはーーーーーー
ピンクだった。
https://www.nintendo.co.jp/n09/pokekitty/index.html
でも、包みを開けた時の「あっ・・・」という気持ちは何十年経っても忘れられない。
「ピカチュウ」といかいう、一過性のキャラクターより、何十年も生きている「ハローキティ」の方が飽きずに使えるんじゃないか。
キャラクター同士が戦闘をするようなアニメ・ゲームは教育に良くないし、どうせすぐ流行も終わるだろう。だったら女の子らしくキティを持たせた方がいい。
私は2000年に小学生になったので、幼稚園のメンバーとスイミングスクールにバスで通っていたのは3ヶ月ほどか。
みんながポケットピカチュウで通信交換を楽しむ中、私は一人ポケットハローキティでキティを育成していた。当然、ポケットピカチュウとポケットハローキティでは通信はできない。
親は「みんなと同じカチカチ(万歩計)がもらえて良かったね。欲しかったもんね」と言う。
私は「うん、とってもうれしい」と嘘をつく。たぶん、親に嘘を初めてついた。
現実はそんなに甘くないんだなあと言うことを知った5歳の冬だった。
いま思うと、なぜポケットピカチュウが欲しいのか、の説明が不足していたのかな、なんて思ったりもする。
もっと説得力を持って論理的に話せていたらよかったのだろうか。
ーーーー上司からよく言われる「お前は説明が足りない」というのは、幼児期から私のダメなところだったのだろうか。
このお盆に実家を整理していたとき、たまたまポケットハローキティが出てきた。
親は今でも、子供のころ待ちに待って買ってもらって大事に遊んだおもちゃだと思って大切にしている。
ポケットピカチュウを手に入れていたら、今の私は何か違ったんだろうか。
*****
追記:
1人目は、間違いなく今の私だ。
20年以上前の幼少期の記憶を引き摺り、今の自分がうまく行っていないことのこじつけにしている。こじらせも良いところだ。もうすぐ30代なのに。
2人目は、当時の親(サンタさん)だ。
私はポケットハローキティがほしいとは一言も頼んでいない(むしろ包みを開けるまでポケットハローキティの存在を知らなかった)。お手紙の中にはポケットピカチュウ(カラー版)とピカチュウの絵を添えていた。
公園を飛び回っている子どもを観察すれば、カチカチ振り回しているモノがグレー(もしくは旧版であれば黄色)であることは一目瞭然だ。
あるいは、公園の片隅でママ友とお喋りしているときに「うちの子ポケットピカチュウなんかを欲しがるのよねえ」と呟けば、ピカチュウがどれだけ大流行していて、幼児の心を掴んでいたか周りのママ友から聞けたはずだ。
そういえば、我が家はポケモンのアニメはポケモン同士が戦い合うという暴力的であるため、赤ちゃん(4歳下の妹)には見せられないと言って禁止されていた。
アニメもダメなのでグッズも当然ダメといえばダメだったのかもしれない。
3人目は、当時の私だ。
包み紙を開けた時に泣き叫べは良かったのだ。「これじゃない!」と言えば良かったのだ。
親は自分の判断が正解だったと思っていたと思う。ピカチュウがハローキティになろうが大した問題ではない(むしろ大成功だ)と思ったはずだ。
私は自分の気持ちを押し殺してしまった。いい子であろうとしてしまった。
これは30歳を手前にした今もずっと同じだ。親に言われたら「そうかもなあ」と思ってしまう。
ブリジットの参戦で色々昔にブリジットに落とされた諸兄どもが沸き立って「ブリジットは男の娘の元祖ですごい存在」ともてはやされていることに何かを言いようのない違和感を覚えていたのだがなんとなく彼らはブリジットの初登場から今回までの歴史が隔絶してるんじゃないかという漠然とした不安を感じた。
ブリジットが男の娘の元祖だと騒ぐが、今のオタクの中では男の娘のジャンルはかなり小さいもので、ニッチな存在と言っていい状況であり、男の娘という言葉自体にさほどの力がない。
そのため「男の娘の元祖」と誇らしげに言うこと自体がかなり情けないというか、粗チンを誇るみたいな話なところがあり、違和感があるのだ。
ブリジットからの「男の娘」の言葉のまでの間は確かに一時期流行って、影響力を持ったジャンルだったこともあった。
しかし、あのあとも追い続けて人間であれば、その後に急激な衰退をしたことも知っているはずだ。
男の娘を題材にしたエロゲは大量に出たが、その殆どがシリーズ化せずに単発で終わった。(その分脳内彼女・の~すとらいくさんには頭が上がらないけど。)ショタアンソロジーである好色少年のススメや少年嗜好も一時期女装少年を載せていたが、次第にそれもなくなり、アンソロ自体も終わったり長らく間が開いたりとするようになっていった。(ぼくのピコの続き誰か作ってくれないかな)
極めつけは男の娘専門雑誌の「わぁい」と「おと☆娘」が休刊したことだった。
あれで世の中の男の娘フリークは、男の娘が一過性の流行であり決定的に衰退してしまったのだと思い知らされたはずだった。
その後も男の娘としてサブキャラ的に出てくることは続いていった。
今でも男の娘キャラは一つのフレーバーとして変化球としてソシャゲに現れていたりする。ただ、結局はその程度であり、色ものキャラと同程度の存在でしかない。一大ジャンルだった昔と比べてしまうと、ショタオンリーやふたなりオンリーに吸収されてしまったことを考えると、もはやだいぶ衰退してしまったという悲しさがある。
そして正直、女装ショタ・LGBT・同性愛といった言葉が浸透していく中で、ことさら「男の娘」という表現をすることはなくなっていった。
ギャルゲなどでも女装するキャラがいたとしても「男の娘」などと書かずに「女装しているが性別は男」、「性別は不明」といった表現が主になっている。「いわゆる男の娘」が通じにくいのか、野暮ったいと思われているのか、言葉は消え始め、性癖として薄く馴染んでしまって終わり始めている。
だから、だいぶ「男の娘」という言葉自体は「死語」になっているという感覚だった。
だから、今回「ブリジットは男の娘の元祖」と騒ぎ立てることに違和感があったのは、もう男の娘ってそんな騒げるほどのものじゃなくない?という感覚なのだ。
なんというか、騒いでる人たちはブリジットの初出から今回までずっと男の娘ってジャンルが興隆していたかのような勢いだ。衰退してたことも知らないかのような紹介の仕方だ。
でもこちらからするともうだいぶ衰退した概念だよ、というのが何となく気持ちがかけ離れてる感じがして気持ちが悪い。
コロナに関して、奥さんがマトモな感性を持ってるとは思えない。なにより周りの人を非常識だというならどうすれば良いのか。披露宴は一生開くなと?コロナになって2年が経つが改善の見込みはない。だったらもう受け入れてやっちゃうしかないよね?
こういった会食を初期に避けましょうというのはコロナが一過性のものだという前提があったからで、それが崩れたんだから受け入れて生活していくしかないじゃん。そこら辺がわからずにぐだぐだ言う人と一緒にいたら、一生家から出ずつまらない人生を歩むしかないよ。
結構致命的な意見の食い違いだと思う。とはいえ、離婚を考慮するにあたって子供への精神的な影響を考えていなそうなのが気になる。
コロナ入ってから完全リモートワークになり、仕事での外出は2週に1度程度。
客先へ打ち合わせに出たり、半日から1日の撮影などに同行したりするのがたまにある程度。
もともとコロナに入る1年ほど前から年1〜2kg減ぐらいのダイエットを目指して、
「一過性の痩せる」よりも「目指したい体重をキープできる生活」を心がけていたので
その生活をずっと続けているのだけど、目標体重に達しても痩せ続けている。
私としては51kgぐらいでずっととまっいててほしいのだけど、どこまで痩せていくのだろう。
リモートワークになってから、とにかくストレス食いがなくなった。
精神的な疲労におうじて高カロリーなものが食べたくなる体質らしく、
まずリモートになってから1年ぐらいかけて、菓子パン中毒、チョコレート中毒がなくなっていった。
昔は菓子パンを1日2個以上食べないと気が済まなかったけれど、今は2日に1個とか、小さいお菓子をちょこちょこ食べるとかで平気。
袋菓子を買ったら一瞬で消していたけれど、今は1袋で数日は持つ。これはすごく良かったなと思う。
で、ずっと家にいるとウツになるかもだし運動不足にもなるので、
それまで週3程度で通っていたジム通いをコロナの影響を気にして避けていたのもあって
毎日6〜8kmのウォーキングを実施。(片道をゆっくり走って往復時にゆっくり歩いて帰る感じ)
今は平日は毎日こんな感じ。
朝ご飯を食べないと血圧が異様に低くなる体質なので(最低50とかになる)朝ご飯に手作りのチョップドサラダと玄米をモリモリ食べ、
そのデザートに何かしらの甘味とコーヒーを摂取して(朝ご飯の食べる量がいちばんすごい)、仕事を行い、昼ごはんを軽く食べて、仕事して、
昼ごはんが完全消化された夕方頃にウォーキングに出て、帰ってきたときのお腹の空き具合によってご飯を食べたり食べなかったり。
昼は忙しいときはカップラーメンとかだけど、そうでないときはつくったご飯を食べたりする。
夜も上記と同じ感じ。前は「もう少し痩せたい」が先行してたから食べないことが多かったけど、
最近は「このままでいい」ので食べる頻度が増えた。
遅くなったときはコンビニの袋おでんとか低カロリーで済ませたりする。
仕事の合間に疲れたり休憩したくなったらアイスとかチョコとかも食べる。
あと、生理前後は菓子パン3個ぐらい食べたりする。(これはもうしょうがない。生理中は油と糖がないとカラダもココロも持たん)
朝に卵とか鮭とかたんぱく質ぶっこんだいちおう栄養バランス考えたサラダを食べているので「それでいけるっしょ」と昼や夜は適当になりがち。
とは言えリモートがゆえに自炊の頻度は低くはなく、栄養が極端に偏ってるとかはないはず。
1日の摂取カロリーはたぶん2000キロカロリー超えてると思うんだけど、
なんかずっと痩せ続けている。
ああ、あと「電車に間に合わない」とか「人の気配が気になる」とかで我慢することが減ったから
ひどい便秘が解消され、便通がよくなったのも痩せた理由のひとつかもしれない。
今年の健康診断では体重が1kg減なのに対し腹囲が去年より7cmほど減っていて職員さんに訝しがられた。
これは便の影響なのかもしれない。
悪い病気が見つかっているとかでもなく、コレステロールの数値も改善されてるからいいんだけど、
でも、これ以上痩せるとちょっと困るなと最近悩んでいる。筋肉量がないのでカラダが貧相に見えてしまう。おっぱいもこじんまりしてくるし。
痩せる生活が自分のベースになってしまったので、まあムリしてるわけでもないしこんな感じの生活を続けようと思っているけど、
キープするっていうのは本当に難しいんだなって思う今日このごろだ。
あんまり「痩せて困っている」とかを人には言いづらかったりもするのでここに書いた。
そして、もしここに子育てなどが加わったら絶対にこの状態にはならないだろうし、
リモートワークがなくなったらこの悩みも消滅して太っていくのだろう。
痩せて困るなんて本当にちんけな悩みなので(まだ標準体重の域だし)このままな感じで生きていきたいな。
横だけど、創価学会の通話記録窃盗事件と個人情報窃盗恐喝事件貼っとくわ
創価大グループによる携帯電話の通話記録盗み出し事件で電気通信事業法違反に問われた、創大出身でドコモシステムズ元社員嘉村英二被告(28)の公判が二十一日、東京地裁で開かれました。同被告は同法違反で二〇〇二年十一月に有罪判決を受けたのにつづく二度目の裁判。前回裁判のさい、今回の事件も調べられたのに隠し通していたことが、この日の証言で明らかになりました。
嘉村被告には前回と同じく、創価学会副会長らが弁護人につきました。実行犯の嘉村被告や、同被告に犯行を指示した創大副学生課長らが有罪になった前回裁判で弁護人は「私的で一過性、偶発的事件」と主張、執行猶予つき判決になりました。
この日の公判で嘉村被告は、波多江真史裁判長から「前回の取り調べで今回の事件のことを聞かれなかったのか」と質問され、「警察に聞かれた」と証言。「そのさい本当のことを話したのか」との問いには「話さなかった」とのべ、犯罪を隠していたことを認めました。被告弁護団も以前から今回の事件を知っていた可能性も濃くなりました。
起訴状や検察冒頭陳述によると、同被告は〇二年三月と四月、東京・江東区にあるNTTドコモの端末を操作し、学会脱会者の福原由紀子さんとジャーナリスト乙骨正生氏の通話記録を不正に引き出しました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-12-22/15_01.html
ところが、好事魔多しで、契約者情報が大量に流出してしまった(最終的には04年1月時点の全顧客情報660万人分が流出したという)。流出した情報の内容は、加入者や申込者、解約者の住所、氏名、電話番号、メールアドレスなどで、不幸中の幸いというべきか、クレジットカードの番号など個人の信用情報は別に格納されていて無事だった。
しかも驚くべきことに、この不祥事を材料にソフトバンクからカネを脅し取ろうとしていた男3人を警視庁が恐喝未遂容疑で逮捕していたというのである。3人は、ヤフーBBの二次代理店を務めるコンサルティング会社エスエスティー(SST)の竹岡誠治社長、湯浅輝昭副社長、それに右翼団体の森洋・元代表だった。ヤフーBBの取引先という〝身内〟と右翼団体元代表という組み合わせには意外感があった。
〜〜〜
彼ら容疑者の素性が明らかになると、事件は別の顔を見せ始めた。SSTの社長の竹岡と副社長の湯浅はともに創価学会の幹部だったのである。
竹岡は創価学会副男子部長や創価班委員長、聖教新聞広告局担当部長などを経て創価学会豊島戸田分区の副区長だった。湯浅は聖教新聞の販売店主などを経て函館五稜郭圏の副圏長だった(ともに事件発覚と同時に辞任)。しかも、竹岡は共産党の宮本顕治委員長宅盗聴事件の実行犯の一人でもあったから大騒ぎになった。もはや、単純な個人情報流出という事件ではなかった。ソフトバンクの広報担当者も「政界を揺るがすかもしれません」と興奮気味に話していた。
https://webronza.asahi.com/business/articles/2021092300001.html?page=1
子供はなんであれ真似をする。それはそう。
でもじゃあ「子供に真似してほしくないものを全部環境から取り除く」とどうなるか?
第一に、それは不可能だ。子供は隠れて禁止されたことをやる。子供の人生や子供が生きる世界全体をコントロールすることはお前にはできない。見えるところで好き勝手されて、それを怒ったほうがマシ。
第二に、仮に実現したら、子供はそれについて良識を持つのではなく、無知になる。大人になってから初めてそれに接するようになったとき、そいつに理性や良識やそれに対する正しい反応は身についてない。
第三に、抑圧されることで、子供はかえってそれに興味を持つようになる。漫画を禁止されたこどもは漫画大好きな大人になるし、駄菓子を子供時代禁じられた大人は駄菓子が大好きだ。同じことが起きる可能性が高い。
子供のためのリスクを全部取り除きたくなる気持ちはわかるが、それはよくない。かわいい子には旅をさせろの精神だ。
それに、クレしんの真似をしていた子供が、3年後も同じことをしていることがあるか?
ないだろ。
「フィクションに悪影響が無い」という研究結果が示すのはそういうことで、そういう影響は基本的に一過性だ。フィクションで大きな人生に影響を受けたとか言ってる奴は、言ってるだけで、実際には親や友達関係の影響のほうがはるかにでかい。他の影響は無視していいほどだ。
いや、今現在のフェミ共の暴れっぷりは、一般層からしても「おかしくない?」ってレベルに達しているぞ
そうして先鋭化した結果、女も叩かれるようになって、フェミニズムが敬遠されるってな逆効果を生んでる
ただ、ジェンダーだの表現の自由だのは、選挙戦ではあんまし情勢を左右してない
赤松氏はTOP得票で当選したが、あれはツイフェミ勢のオウンゴールで、カウンターアクション
一過性の奴だ
リベラルさんがたまに、選挙戦でポリコレやジェンダーは大事なファクターで、それが響かなかったのはーとやるけれど
そもそもマイノリティなんだから、そりゃ影響力はないよねって話
なのに一生懸命、投票率がどうの、統一教会がどうのと、特別な原因により敗れたのだって言ってきかない
「そういうとこだぞ」って話
どこの番組か忘れたが、
「選挙の勝敗はどれだけ多くの有権者と握手したかで決まるといわれます」
と当たり前のように言っていて、卒倒しそうになった。
というのが率直な意見であった。
(注:私は現代政治は詳しくないけど政治史は興味あるおじさんです)
彼の秘書だった早坂氏の記録が興味深い。
選挙前に農村に選挙カーが入るときには、はだしで田んぼに入って、
農作業をしている奥さんやおばあさんに、泥だらけになりながら駆け寄って
このような平民目線に近い行動は、票集めに絶大な効果があった。
一方対照的なできごとがあった。
今回の安倍氏暗殺事件で、「女子高生2人の状況説明がうますぎる」
と、ツイッターで少しバズったのである。(現在は動画は削除されたか)
という興味深い記事があった。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220707/k10013706251000.html
データ処理に基づく冷静な判断を求めている証左ではないだろうか?
ショーとしては成り立っているものの、
そこでなんらかの「結論」が導かれることはない。
また、テレワークが普及し2年が経ち、
「事前に資料を共有したり、時間を決めて会議するようになった」
「顔を交えて議論しないと進まない」と感じる人も多いようだ。
「胸襟を開いて」「心を通わせて」といった表現を好むのも、
ここにあるのは、老人は決定プロセスに感情を必須としていることである。
もちろん、個々人の行動は感情をもとにしているのが当然で、
服を買うときのような、ジュースを選ぶときのようなものとは違う。
そこに、これまでの日本人の投票行動の未熟があったのではないだろうか。
有名人の認知度、という「親しみ」という感情をもとに判断しやすく、
それを実現するために提言した結果立候補する、というなら歓迎である。
しかし、
権力基盤があって、それの広告塔としてタレントが採用されるのであれば、
理想・構想のない人間が国会の椅子に座る意味とは?という純粋な疑問である。
ブラウン管を通じて、感情を動かされた人に、親しみを感じたのである。
しかし多くの日本人は、それを判断できなかった、ということもあるのではないか。
このような蒙昧で前時代的なシステムに立脚している選挙に、価値はあるのだろうか。
もはや、すべてオンライン投票でいいのではないか?とすら思う。
票を入れる前に、候補者の思想・政策を何千文字くらいで詳細に読めるようにする。
経歴だとかは細かくはいらない。
「どんな業種で、長年従事してきた、〇〇のプロである」が分かればいい。
そこで判断すればいいと思う。
これはデジタル学習に長けた若者にとっても歓迎されるのではないか。
断っておきたいが、私は田中角栄氏が嫌いではない。
「おーっ!奥さん!よろしく!」と握手をしに行ったエピソードが好きである。
「その時代において」「もっとも適切に・合理的に票を獲得する」方法を、
つまりその時代にあった方法を、常に探り続ける、というのが重要なのだ。
違うところを挙げるほうが難しいのではないだろうか。
そういうことである。
ダルマに目を入れたり、赤いバラを当確者の名前に張り付けることが悪いわけではない。
「今、この方法が最適なの?」「街頭で無防備に叫んで、握手することが必要なの?」
と問うことが重要なのではないだろうか。
外国によっては、その「問うこと」自体が禁止されている国もある。
民主主義を最大化する、そのためには、
歴史を見ても、老人が意思決定すると、独裁・強圧的な国家が生まれる。
戦国時代を終わらせるきっかけとなった桶狭間の戦いのとき、信長は20代であった。
天安門に集まり、戦車の前に立ちはだかったのも、若者であった。
もはや取引先からの選択対象から外れ、成長が困難な時代になっている。
という企業は潰れていく。
逆に、若い社員にまかせて企画したり、SNSを通じて発信するような企業は、伸びている。
デジタル世代が急速に育っていて、ポテンシャルの高い人材が生まれている。
彼らを押しつぶすことのないよう、彼らの才能を最大限活かして、
20代の頃、仕事中に目がかすむ症状がでました。その日の帰宅中のバスの中で視界が急激になくなり、バスから降りて「これはやばい、どこかに連絡しなきゃ、救急車、家、」と考えていたら、思考と身体が一致しなくなりました。
声も「あー、うおー」としか出ず、立っていられずに道端のポールに倒れかかっていたところ、通行人の方が救急車を呼んでくれました。
運ばれた先では、医師の言っていることは分かるのに口からは「あああ、あああ」としか発することができず、視界は完全になくなり、こちらの意思を伝えることができません。
見た目ではパニック状態と判断されたのか安定剤を飲ませてもらいましたが、水が飲み込めず錠剤ごと口から漏れてしまいます。
数時間ほどベッドに寝かされていたら視界が開けてきて、喋ることもできるようになりましたが、頭がチカチカする感じと目の焦点が合わない状態が数週間続きました。
後日精密検査を行ったところ、身体や脳に異常はみられないが「一過性脳虚血発作」の可能性があるということでした。この病気の予後自体は悪くないのですが、脳梗塞の予兆でもあるので注意が必要だそうです。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190624/1561360692
『街で未婚の異性といくらすれ違っても「出会い」にはならないし、レジで未婚の異性といくら会話しても「出会い」にはならない。職場に「出会い」を求めることも容易ではない。うかつなことをすれば、セクハラとみなされるだろう。』
これって何も男女間の、恋愛や結婚に繋がるような出会いに限らないよなーと思う
街ですれ違って好みだと思った男性や、レジで愛想の良い女性、職場で尊敬する先輩や趣味のサークルで気の合う女性、……話しかけてみたいと思ったりしてもそんな事は出来ないし
仮に話しかける事は出来たとしてもそれが継続的な人間関係へと繋がっていく事なんて有り得なくてあくまで一過性のやり取りに過ぎないんだろう
寂しいな、とつくづく思う
まあ、下手に「出会って」しまうとそこから犯罪に巻き込まれたり宗教に勧誘されたりする可能性が高いんだから
今の時代見知らぬ他人と下手に「出会った」りはしない方が良いんだろうな
実に寂しい世の中だ、とは思う
ただ、これよりもものすごい化け物みたいな漫画家が現代にはいるので、目の肥えた視点だといくらでもイチャモンはつけられるかなぁってところですかね。
基本的に発端の増田(anond:20220603170344)の文章を最初に読んだのでその影響はあるものとする。
なんか勇者が魔王を好きになる過程が雑というか、腹落ちしない話の流れだったな。
声が綺麗って言われたから?好きになったんだけど。普通の人間てそんな事ある?
17年も生きてて声が良いって言われたこと今まで一度も言われなかったのか。魔王でさえ初手で褒めてくるくらいには声きれいだったら、どこかで誰かに言われてるだろう。まあ描写がないのでなんとも言えませんが、描写がないので腑に落ちないよね〜
なんで好きなん?みたいなのが最後まであとを引いているので、後半の話の流れが心に全然響かない感じで、むーん。って感じ
自分で好きでもなく勇者ヤッてるって言ってるけど、勇者のモノローグでしかなくて、実際に勇者としての不満のある生活とか、人として扱われない悲哀みたいなシーンがないので、口だけで言われてもという納得感のなさがつきまとってくる
もと増田の言ってたとおり、なんか無駄にトカゲを殺すのが取ってつけたような流れで、はぁ君そういうことしちゃうやつなんだね。そりゃ人間から嫌われたり信用されないだろうなっていう感想になるかなぁ
なのに、そのトカゲ殺しちゃう魔王に対して勇者が好意持つのも、作者に感情を操られてる感じがして気持ち悪い、腹落ちしない。
17歳だから、未熟だからそうやって年配の人に対して一過性の恋心をいだいてしまった、みたいな一時の感情のゆらぎとも取れそうだったけど、その後に22歳のシーンがきて
えぇ、トカゲ殺すようなやつのこと、声が綺麗だって言われただけでずっと好きなん
勇者は人間社会でどんだけ貧しい人間関係のなか生きてるんだよ。みたいな感じになる。
その人間社会での勇者の扱いが描写されないので、気持ち悪さがつきまとう。
人間社会でのパートを削ぎ落としてるというよりは、描写不足としか見えないかな……。作者が人間社会での勇者がどういうふうに誰と生活しているのか考えてないだけっていう感じが臭ってくる。
もちろんプロット上不要だと判断したからわざわざそのへんの設定を深堀りして考えていないってのは戦略としてあるだろうけど、だとしたら作品設定の要不要の判断がまだ甘かったな〜といった雰囲気。
魔王と勇者は敵対関係なんだから、その圧倒的な障壁を超えさせるだけの強烈な説得力は欲しかったなぁ。勇者なんで顔赤いの?とか勇者なんでこいつのこと好きなの?みたいなのがあんまり入ってこないまま(いわゆる読者が置いていかれる)話が流れていく感じですね。
魔王、勇者の腕を傷つけたあとショックを受けてる(というふうに勇者が認識してる)んだけど、話のまえでもずっと魔王は「防御魔法でどうにかなるものじゃない」ってさんざん忠告してるし、やっぱりな、的な反応になると思うんだけど、なんでショック受けてるんですかねぇ
どう見ても、勇者ちゃんにとって魔王がそうやって勇者を傷つけてしまったことでショックを受けて欲しい!っていう話の展開ありきでの描写になってるんだよなぁ。
まあこのくらいのガバ別にどうってことないといえばどうってこと無いけども、多少は鼻につくよなぁ。
ドラゴン殺すイキリ描写もきついものがあるなぁ。いる?要らないよなぁ
強くなったって言いたいだろうけど、別に魔王の呪い解くのに、ドラゴン殺すことで勇者の強さを表現する必要ないだろう。漫画としてのキャッチーさはあるけど、物語上は不要だよなぁ
むしろなんで殺してたの?みたいな思考が入ってきて、魔王の呪いを解くっていう趣旨がブレる。
ただガバがあるし、構成有線でキャラの人格を捻じ曲げてる部分も散見されるので、Web上での祭り上げられ方によっては、なんでそんなに素晴らしい作品だと持ち上げられてるんだプンプン!ってなる人が出るかもねぇ