はてなキーワード: 有用とは
http://anond.hatelabo.jp/20140314233406
論文でコピー&ペーストをしてしまったのは、学部時代からレポートにおいてコピペが常態化していたからという話を聞いて、ではなぜレポートにコピペが蔓延するのか原因を自分の経験を基にして考えてみた。
実験や課題に対して自分の力のみで手法や解法を毎回ひねり出すのは非常に大変なことである。しかも、それが成績に直結するのであれば尚悩ましい。簡易的なレポートであればその作成手順は下のようなプロセスになるだろうか。
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↓
一定の結果を出力し、見直しを行う
他者に頼らないなら、問題解決の基礎は自分の力と文献のみとなるはず。しかし、自分の調査能力や思考能力のみにより、それを採点する側から見て理想的な結果を常に出すことは難しい。自力では想定し得ない領域を減らすために、他者(自分と同じことをしている学生)の力を借りる=相談することは珍しくないだろう
弊害となってくるのは、この他者が現在進行形で問題解決に取り組んでいる人間ではなく過去に行った人間、即ち過去のレポートであった時である。過去のレポートには自分の行為によるフィードバックは無い。また、それは多くの場合何度も多数の学生により推敲されているため完成度の高いものであることが多い。時に誤字脱字や誤答が混じっていることもあるが、それはまだ経過が浅いものであるか、時たま出てくる例外である。
自分で解決する以上の完成度を持つレポートはどのような形で"参考"にしたところで、最終的に自分の解がそれに近づくことを助長するだけである。特に必修範囲の実験レポートのようなものは提起から結論までの道筋が既に決まっている。従って、付け加えることができる領域はとても狭い。理想形が存在し、それが眼前にありながら自分の意思で離れることがどうしてできるだろうか。
提出物に正確な解答が存在しそれと比較して成績が付けられる以上、成績=レポート完成度向上に全力を尽くすのであれば、過去のレポートのコピペこそが最善の手段であることは明らかである。しかも、大学によってレポートの量は半端ではない。時には1日に複数あり、1つあたりの質も問題となる。それに対して毎回プロセスを踏みながら満足な結果を出せない。学生は自身の意思で自分のレポートをよりよいものにするために不正を行っていく。
採点員がコピペレポートに高評価を付ければ、自身の能力向上に繋がっていないことを半ば承知で、その学生の丸写しはさらに加速していくだろう。
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コピペをなくす方法は困難であるが簡単である。レポートを出させる講義の内容を毎年変える、もしくは提起する問題を変えばいいのだ。
そうすれば過去のレポートは無用となる。新聞のスクラップ化しところどころ同じような課題が出てくることもあり一定の有用性は残るだろうが、この時点で全てを写されることは免れ、新たな、または変形した課題に対しては学生自身の応用能力にその解決は委ねられる。
大学生自身に解決を求めることはできない。中身は年ごとに異なるし、コピペへの問題意識の徹底しても成績採点をしている以上より高い点数を求める心理をなくすことはできないため、過去の高完成度レポートの流通を食い止めることにはならない。せいぜい、情報格差が生まれてくる程度である(こちらも別の意味で問題である)。
また、減らすという意味ではコピペを行う意義を減らすために、レポートそのものの数を減らすことも有用である。1つのレポートに熟考できない、していられない環境下においてコピペは省力化という方向で意義がある。使わなくとも平均的学生が注力し続けていれば全てを解決できる程度の分量であれば、自然と不正は減っていくかもしれない。
私自身の経験として、コピペを行ったことは実験レポートにおいては無い。これは1週間に1本しか提出が求められていなかったこと締切が教員によっては緩かったこと、私に同じ学科の先輩のつてがなかったからであろう。私の大学では学部時代の実験では試行のためのコマ以外に記入のためのコマが設けられており、レポートの書き方を一から教えてくれる教員もいたこともコピペを行わなかった一因である。
必修の力学関連においてはしたことがあるが、これは文字通り毎年大量の同じ課題に出され続けており、正に早稲田大学内部と同様の状態にあったためである。その講義の担当教員は試験においてしなければいい程度の認識で、阻もうとしていなかった。
丸写しがいいことでないのは確かである。既に卒業した身としては、学生に解決を求めるよりそれを助長しがちなシステムの方にメスを入れた方がいいと考えている。
トラバもらってから一日よく考えてみた。ちなみに自分が書いた増田はこれね↓
http://anond.hatelabo.jp/20140311150926
元となった増田(学校で教えてほしかった恋愛)からして、なんで分からなかったり不得手なら人に相談したりしないんだろうと思ってたが、考えてみればコミュの問題を解決するために相談という対人コミュニケーションが必要とされるんじゃあ堂々巡りで解決できないって構造なわけか。だからこそマニュアルや教科書という対人以外の方法を求めると。ここまでは把握した。
で、実際の対人コミュニケーションに比べて劣るかもしれないが、世の中には恋愛マニュアルやコミュ障向けTipsみたいに「経験の前段階としてのテクニック的な情報なら腐るほど溢れてる」と私は書いた。
それに対し、
きちんとまとめたコンテンツはついぞお目にかかったことがない
こう返されたわけだ。
確かに巷の恋愛本やテクニック集にはくだらないものも多くある。
ただ個人的には、そうした情報の中でなるほどと納得するものに出会ったこともあるし、他人のリアルな相談を読んで「こうすればいいのに…」と他人事だからこそ冷静に考えられたこともある。そうした知識は多かれ少なかれ判断に影響を及ぼし、大まかに言えば知らなかった頃より知ってからのほうが物事はうまくいくようになった。
「学校で教えて~」の増田も恋愛テクニック的な内容だが、あれをブクマした人たちの中にも「これは役に立つ」と思った人はいるんじゃないの?増田が経験から得た貴重なテクニックだったわけだし。「鼻で笑ってしまう」部分もあっただろう(実際、批判コメも多い)が、個人的にはけっこう納得いくところもあった。カーネギーやルールズなんかも鵜呑みにしたら危ないものの、有用な部分もあるから支持されている。
仰るとおり、「きちんとまとめたコンテンツ」ではないだろう。こういう時はこうする、という個別具体的なケースを全て網羅するのは、たとえ公教育だろうと何だろうと無理だ。人間関係は科学やプログラムではないから。
しかし増田ですらこうした簡易的マニュアルはあって、無償で誰でもアクセスできる状態(義務教育の教科書のよう)になっているのに、そういうマニュアル的情報にすら「活用方法がてんで分かっておらず、ハサミで釘を打つみたいになって失敗ということがありうる」から救済しろと言う。
いくら社会的弱者であり、救済されるべき存在でも、提供される情報を受け入れないならどうすればいいんだ?煽りじゃなくて真面目に聞いてる。もし学校教育でコミュニケーションの授業があっても簡易的・模擬的なものでリアル社会でのそれとはかけ離れてる可能性がある。恋愛マニュアル程度の内容の教科書を受け取って、「鼻で笑」わないと本当に言えるのか?「活用方法が分からない、俺たちは弱者だもっと分かりやすくしろ」と言うんじゃないのか?
(コミュ障は死ねと言ってるわけじゃないから念のため。救済できるならしたほうがいいだろうが、それ以前にコミュ障本人の受け取り方に疑問を持ったので書いた)
http://anond.hatelabo.jp/20140312171400
http://anond.hatelabo.jp/20140312162614
一応、自分は理系の教育を受けたので、放射能怖いとか言う人たちに、非科学的なことを言う人が多いと思う。彼らの主張に思わず笑ってしまうことも多い。
なぜなら、リスクに対する感覚およびそこから来るリスク判断は高度にプライベートなものであり、尊重されるべきであるから。もし、ウンコを食わなければいけないとか、嫌悪感を感じる異性とセックスしないといけない状況になったらどうか?そして、それをしないことで、間接的に傷つく人がいたとしたらどうか?
「このウンコは殺菌されているし、有毒な物質も十分少ないことが確認されている。食べたくないとか言われて傷つく人がいるんだぞ!」「この人は性病検査済みで、避妊もしているんだから、嫌がらずにセックスしなさい。あなたがセックスを断ることで、相手は傷つくんだぞ!」
架空の状況ではあるけれど、もし、こんな状況になっても「科学」や「社会的利益」を取るのか?放射能の問題も同じで、これは個人のプライベートの問題なのだから、間違っていようと何だろうと、その「感覚」は尊重されるべき。
もちろん、科学的に間違った認識は修正されるべきだと思う。というより、放射能怖いという言説のほとんどは、明らかに科学的におかしい認識とセットなので、説明してあげたいとか、教えてあげたいという気持ちはもっともだと思う。でも、根本的なところで、「個人のリスク判断はプライベートな問題」という認識があれば、その感覚そのものは尊重されるべきものだし、「放射脳」という言葉で揶揄することが、非生産的な行為であることくらい分かるだろう。
ちょっと話が変わるが、震災直後、「原子炉の温度計が壊れているかもしれない」「そもそも空中放射線量の測定方法が正しくないかもしれない」という話があったときには、恐怖に震えたのだが、この怖さは実験科学をきちんとやったことがない人間には分からないのだと思う。それまで正しいと思っていたことが、全部ひっくり返ってしまう。それも科学の怖さだし、おもしろさ。
自分は、そういう数字では表せないリスクも含めて、「安全」と判断しているわけだが、これは「何パーセントのリスク」と言うような単純なものではなく、他人に伝えるのはものすごく難しい。自分の頭で科学的に考える習慣があれば、この難しさは分かると思うのだが、科学的権威に寄りかかるようなメンタリティの持ち主には分からないんだろうな。そういう意味で、「非科学的といわれるものを感情的に攻撃する人」と「非科学的なものにだまされやすい人」には、奇妙な共通点があるのではないかと思う。
なので、元増田も、「放射脳」とか言って、他人をバカにするやつは「こいつアホなんだな」と思って無視すれば良いと思う。メンタルな病気はネットでのコミュニケーションでも「うつる」ので気をつけたほうが良い。
ただ、有用なことを言ってくれる人もいると思うので、そういう言葉だけピックアップして読めばよいのではないか。芸能人の死と放射能の関係については、おもしろい視点だと思うけど、もう、震災後3年も経っているわけだし、死亡統計を見れば関係ないことが分かると思う。10年後とか知らんが、とりあえず今ニュースになっている芸能人の死はおそらく関係ない。
参考:
http://anond.hatelabo.jp/20140311113555
昨日の記事の元増田です。
「学校で教えて欲しかった恋愛」というタイトルで、「教えて欲しかった、青春を返してほしい」などと言ってますが、
もちろん本気でそんなふうに思っているわけじゃないです。
最後で冗談だ、ってことを示したつもりだったのですが、思いのほか、タイトル通りに受け取ってしまった方が多いのを見て驚きました。
(あそこに書かれたようなことを思春期前の児童に教えてみたところで、全然ピンとこないでしょう)
でもそこで何か失敗してしまった時に、その原因が...
どれなのかは、なかなか判断がつきません。
そうした時に、やり方が間違っているだけだ、と示すことは、努力を続けるためのよい助けになります。
また、人は「できるはず」だと思っていることに関してだけ、努力できます。
(学校で教えるべきかは疑問ですけどね。)
努力する意志、はとても重要だけれども、ときに袋小路に入ってしまうこともあります。
例えば、初対面の相手に対して、仲良くなろうとして、相手を理解しようとして質問攻めにしたりすると、良くない結果になるでしょう。
例えば、打ちひしがれた誰かがあなたに相談してきたときに、相手は自分と同じ生き物だ、と想定していつもどおりに”アドバイス”すると、あなたが真剣であればあるほど、相手を傷つけてしまうかもしれません。
例えば、いつも相手の愚痴を聞いている自分に対して、相手は心をひらいているはずだ、なのに、なぜ俺は嫌われているんだろう。理不尽だ!と思ってしまうことがあります。
『頑張れば頑張るほど、悪い結果になる。』
そういう哀しさに、私はこれまで何度も陥ってきましたし、その度に相手も傷つけてしまいました。
皆さんが同じ失敗をすることを防げれば、その助けになればと思って記事を書きました。
私は恋愛専門家では無いので、かの記事で書いたこと、男女の性差などは統計に基づいているわけではありません(ウケウリと経験です)。
経済学部生でもないのに、学部教養でかじった程度の経済学の知識で書いてしまいました。
間違っていることも多いと思います。ごめんなさい。
さらっと書いてるけど、好きで調べたりしている人以外には、こういうのがとてもわかりにくいと思う。
自分自身がそうだったからだ。だから簡単に説明してみようと思う。
この証明書を裏付けるのは金の価値。みんなが、「金は高価だ」と思っていて、食べ物や服や家具や機械とか、あるいはおねーさんと酒のんでおしゃべりする権利とかと交換してもいいと考えている。でも、金そのものを持ち歩くのはいろいろと面倒だしあぶない(財布の中に入れておくとすり減ったりする)から、金庫屋が金を預かり、かわりに「金と交換できる券」発行している。それをみんなが金の代わりに使っている。
これはむずかしい。
なんでかというと、この場合の紙の券は、なにか具体的なモノと交換できる証明書ではないから。
とすると、それは一体なんなのか?簡単化した単純な例で考えてみる。
まず登場するのは、超できる男として有名な出来山さん。この出来山さんがお店を出すことになった。お店を出すには仕入れが必要になる。しかし、裸一貫の出来山さん、仕入品の代わりに提供できるものがまだない。そこで、出来山さんは業者の人にこう言う。「この店がうまくいったら、色をつけてお礼するから、まずは仕入品を納入して欲しい」。仕入れ業者の人は「出来山さんは超できる奴。多分、出来山さんのお店は繁盛するに違いない。まだなにもない出来山さんだけど、そこに納入すれば、後々いい商売になるだろう」と考える。そこで、仕入れ業者は、まず出来山さんのお店に品を納入する。出来山さんは、お店の将来の売上から、仕入れ業者に色をつけて返す約束をする。
出来山さんは、その仕入品を使って自分の商品を魅力的なものにするために色々な努力をする。そして、商品の売上から、仕入れ業者に、前借りしたものよりも多くを返す。そうすると、仕入れ業者は「出来山さんと商売しているとこっちも儲かるな」ということになって、もっと大きな商売をさせるために、仕入れ品をもっと納入するようになったりする。
さて、ここで、出来山さんを日本政府(あるいは中央政府)、仕入れ業者を日本銀行(あるいは中央銀行)と考えてみる。
出来山さん(日本政府)の商品というのは日本経済そのもので、出来山さんの手にする売上は日本経済からくるアガリ(税金)だ。仕入れ業者は、出来山さんの商品(日本経済)が魅力的(活発で生産的)だと見込んで、紙幣を「発行」して出来山さんに貸しつける。つまり、相手がリターン(利子)を返してくれるだろうという「信用」によって紙幣=マネーが生まれる(creating money)。だから、不換紙幣のマネーというのは、兌換紙幣のマネーと違って、モノとは交換できないけれども、より大きなリターンを返してくれるだろうという信用を形にした「信用紙幣」ということになる。
普通、通貨は国単位、経済体単位で流通している。例えば、日本なら1万円券や1千円券の日本銀行券、あるいは、造幣局が発行する100円硬貨なんかが流通しているし、アメリカならドル紙幣が流通している。だから、この信用紙幣の「信用」は何に対する信用なのかというと、その通貨が流通している経済体そのものが活発で成長する、あるいは(すくなくとも規模を維持して)その他の経済体に対して影響力を持つことへの信用だ。例えば、「(日本円を使ってモノを交換している)日本経済がドボンしないだろう」とか「日本円で買える日本の商品が欲しい」とみんなが思っている(日本経済を信用している)限り、日本円はその価値を保つ。
日本円が日本経済の信用を元手にしているということは、逆に言うと、「日本経済はもうダメや!」とか「日本に欲しい物なんかあらへん!」みたいにみんなが思い始める(信用を失う)と、日本円の価値が暴落して流通できなくなってしまう(ハイパーインフレで紙幣が紙くず)。そうすると、日本なのに、みんな日本円を使わなくなってしまい、米ドルなどの外国通貨が流通するようになったりする。そうなったケースが、アルゼンチンなど。
至極単純化したけれども、不換紙幣=信用紙幣、の仕組みは大雑把に言ってこういう感じのものだ。
日本銀行は、自分で紙幣を発行していろんな人に貸し付けている。日本政府はその中のひとりだ。
だから、なにも、日本政府だけが日本銀行が発行するマネーを市中(日本経済)に流しこむパイプ役なわけではない。そこには色々複雑な仕組みがある(らしい)。例えば、日本銀行は、自分が発行したマネーで不動産なんかにも投資したりする。つまり、直接、市中にマネーをぶっこむこともできる。でも、それはあまり勧められることではないとされている。なぜなら、自由にマネーを発行できる日本銀行は、理屈の上では、市中の商品をいくらでも買いあげることが出来る。すると、どんなジャンクな品物や詐欺まがいの商品でも、日本銀行に売りつければ商売になってしまうことになる。ジャンクな品物や詐欺まがいの商品が売れる経済というのは、まったく健康的じゃない。言い方は悪いけれど、そんなのは闇経済と同じことだ。
「日本銀行がなんでも買ってくれるから、適当な商品使ってぼろ儲けしてやれ」「日本銀行がなんとかしてくれるから、いくらでも借金してやれ」なんていうのが、いわゆる「モラルハザード」というやつだ。
少し話がずれたけれど、ここで、わかりやすくするために、日本政府の借金は全部日本銀行が引き受けているとしてしまおう。その額およそ1000兆円。そして、日本政府は借金を返したら、再借金はしないと仮定してみる。すると、どうなるか?
日本経済には、すでに発行済の日本銀行券=マネーが出回っている。そこから日本政府はアガリ(税金)をとり、そこから日本銀行に借金を返して、借用書(国債証書)を取り戻す。つまり、日本政府が日本銀行に借金返済しきってしまうということは、日本経済から1000兆円のマネーを吸い上げて、日本銀行に収めてしまうということになる。マネーはみんなの交換を活発にするものだから(物々交換は、自分の欲しい物と相手の欲しい物がうまく噛み合わないと成立しなかったり、いろいろと面倒くさいのだ)、マネーが減った分だけ、みんなの交換は不活発になる。交換が不活発になるということは、在庫が余ってしまったり、あるいは欲しい物が手に入らなかったりするということだ。
マネーがないと交換が不活発になるということを、また簡単化した例で考えてみよう。あなたはお腹が減っていて、定食屋に入りたい。マネーがないのだから、あなたは、例えば皿洗いなんかの仕事と定食を交換して欲しいけれど、皿洗いの仕事をする人はたくさんいて、定食屋の洗い場ではすでに定食目当ての人が働いていたりする。あなたは機械を直すのが得意だから機械を直しましょうと定食屋のオヤジに言うのだが、定食屋には壊れた機械がない。だから、やっぱり定食を食べられない。
ここにマネーがあったとするとどうなるか。あなたは機械を直して欲しい人を探して、その人の機械を直してあげるかわりにマネーをもらう。そのマネーをもって、定食屋に行き、定食とマネーを交換してもらう。機械を直して欲しい人、お腹の減ったあなた、マネーが欲しい定食屋のオヤジ、と3人ともハッピーになれる。つまり、在庫が余る(あなたの機械を直す能力が活かされない)ことや、欲しい物が手に入らない(あなたが定食を食べられない)ということがなくなる。さらには、それぞれが得意なことをすることで、とても効率よく仕事ができるし、みんなが効率よく欲しい物を手に入れることができる。つまり、それぞれの能力が最大限生かす機会が生まれるということにもなるのだ。マネーすごいぜ!
そういうわけで、必ずしも、国の借金を減らせばそれでいいというわけではない。それは、日本経済の中に流通するマネーを減らしてしまう=交換が不活発になってしまう→日本経済の信用がなくなってしまう、ということにもつながりかねないからだ。
もちろん、「日本政府は、もう借金の利子を払うこともできない」といった具合に日本国債の信用が失くなってしまうと、これはこれでまた大変なことになる。なぜかというと、そうなれば日本国債を買う人がいなくなってしまうからだ。日本国債を買う人がいなくなってしまうと、日本政府の予算が減ってしまう。つまり、公的サービスが減ってしまう。警官や検察や裁判官が減ると、治安が悪くなって、インチキ詐欺師が蔓延り、経済の健全性が失われてしまうかもしれない。そうすれば、日本経済がダメ経済になってしまって大混乱、交換が不活発になってみんなが貧しくなってしまうかもしれない。あるいは、小中高の学校や大学の運営ができなくなって、将来のビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスやマーク・ザッカーバーグになりかねない若い人達が、ただの非正規雇用ワープアになってしまうかもしれない。これも、日本経済にとって大きな痛手になる。
つまり、まず第一には日本経済が元気なことが大事だし、第二には「日本経済は元気だな!」とみんなに思ってもらうことが大事だし、第三には「日本経済は元気ないな」と思われないことが大事だ。国の借金は、こういうことのバランスを考慮しながら、考えることが必要なのだと思う。
じゃあ、そのバランスはどうやれば取れるの?ということになるのだが、それが簡単に分かることなら、経済学者の議論なんかは存在しないんだろう。
おわり。
わたしが、経済学の講義で学んだことは、「アニマルスピリッツ」を持った方が未来は明るい(らしい)ということです。
簡単に言うと、みんなが「やってみりゃいーじゃーん」(楽観的)で「やってやろーじゃーん」(能動的)で「なんか、よくなるかんじじゃねー」(希望的)な方が、雰囲気=景気は明るい。そして、楽観的で能動的であるためには「(ダメだったとしても)そのうちなんとかなるだろう!」というやつも必要なのだと。
お金が出回っていることはとても有用なことだから、お金を稼ぐことはむしろいいことです。自分にとってだけじゃなく、みんなにとってもいいこと。でも、稼いだお金を貯めこんで使わない守銭奴のような人はお金を回さない人だから悪い人です。自分ばっかり稼ぎすぎて、他の人に稼がせなさ過ぎるのも悪いこと。それはまるで、ヘビー級のボクサーが、モスキート級に混ざってチャンピオンになっても、全然つまらないのと同じ。そんな気がしました。
みんなが気持ちよくお金を稼げて、気前よくお金を使えるような経済や社会にするにはどうすればいいのかを考えることが、当面のわたしの課題です。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20140225
http://d.hatena.ne.jp/locust0138/20140225/1393341659
http://rlee1984.hatenablog.com/entry/2014/02/27/234905
上の三つが目に留まりました。
この記事を書く理由はこれらの議論を見てイライラしたからです。
学生時代は塾講師で中学生に理科国語数学を教えてました。(6年)
ということですべての意見に対して反論することはできるのが
肩書しか見ないで意見を信用するかしないか決める人にもわかると思います
結論から書くと、私はちきりんさんとコウモリさんに反対でバッタさんに賛成です。
以下の四つに関して適当に書きなぐってみました。
結論から言えば私はそこそこ良いものだと思います。よく考えられて作られたのが分かる。個人的に言いたいことは山ほどありますが。
きちんと基本について抑えられているし、応用が利くような項目について教えられているはず。
これを全員がきちんと学べばこんな議論もなくなるのではないでしょうか。
基本的な知識を学んだうえでの応用のほうが適応範囲も広がるし、柔軟な思考もできます。その柔軟な思考が空想、妄想にならないためには論理的思考能力が必要です。
ただ問題なのは、応用について十分な紙面を割いていないこと。そこに関しては確かに問題であると思います。
だから、現実世界に学んだことを応用できない人が多いのです。学んだことを生かそうとする意識を養わないといけません。
では、どう生かせばいいのか。具体的に書くと割と時間がかかるので、ある程度適当に。
・大半の人が選んでしまう住宅ローンの“元利均等払い”の恐ろしさ
数ⅡBを学んでいればわかるはず。特に指数計算と数列を学んでいれば。
保健体育でやったでしょ?セカンドオピニオンとか。そしてその治療方法の妥当性を学ぶためには生物が必要である。
同上
・副作用も指摘されてるワクチンを勧められたんだけど、摂取すべきかどうか、どう考えて決めればいいのか?
これはリスクマネジメントの話であるが、実際に病気にかかるリスクと副作用のリスクを勘案すればよし。
中学校の理科で、血液は全身を循環していると学んだはず。施術中に、脂肪細胞が血液中に入れば血管詰まるリスクがあるのはわかるよね?
高校の化学でやる酸塩基反応、酸化還元反応をしっかり理解していればわかるはず。
・ガスファンヒーターの前にヘアスプレーのカンがあったら、どれほど危ないのか
空気はあったかくなることを膨張することを知っていればいい。中学の理科で空気の力はたいていどの教科書にも写真つきで載っている。
空気は膨張すると上昇すること、冷えてくると空気より重い気体(エアロゾル?)は下がってくることが分かればいい。
・天ぷら油から火がでたら、水をかけるのとマヨネーズをかけるのはどっちがいいのか。なければケチャップでもいいのか?
油の温度と水の三態、そんで水と油どっちが上に行くかということを知っていればいい。ここから水分が多いほど危ないと分かり、できればマヨがいいとわかるはず。
まずイオンを知ろう。その後に、科学的に実証されているものかどうかを調べてみよう。ここで論理的思考能力が必要になる。
・放射能が怖いんだけど、ラジウム温泉でダイエットするのは大丈夫?
最近の高校の教科書には放射能とかも載っているので問題ない。ただ、ラジウム温泉でダイエットはできるのだろうか?
ということでちきりんさんの教えられたい項目は高校までにだいたい教えられていたのです。それをしっかり学んでいたかどうかが問題なんです。
大学へ行くと知識が力になる体験というものをする。主に研究生活でだが。
そういった実感を持つ人にとって、”「生活するために必要な科学知識」を習得する上での一番の近道は普通に理科を勉強することだと思います。”という考えを持つことは当然である。
ただ、わからない人も多くいるので最初に言ったように応用面の記載を増やしてもいいと思うが。
他の基本的な大意についても一番上に書いたことと同様なので基本的には賛成です。
さて、この人が一番問題です。ぶっちゃけて言えばこんなあほな議論を見たためこの記事を書いたといってもいいでしょう。
対象者によって教育内容を変えるという点は同意できます。ただ、それはより経済的、社会的なトレードオフの問題になりますが。
世の中にはできない子がいるという点にも同意できます。それをできるように変えていくのがすべての教育者の仕事であると思いますが。
教育論では素人がなぜか力を持つというのは教育者の間では割と昔から言われてることで、これも特に異論はありませんが、どのように破綻しているのかということを示す義務が、わかっている人にはあると思います。
さて、以下はすべて反論である。
彼らが話しているのはちきりん氏の記事には論理的破綻(つまり科学的基礎は重要である)があるということを指摘しているのである。
レベルという言葉をプログラミング言語における低級高級のような意味で使っているというのならともかく、そうとはどうしても文脈的に読み取れません。
それと、相手に対しては敬意をもった言い回しをしましょう。とてもじゃないがバイアスがかかり過ぎてて読みづらいです。
“バッタさん、やまもとさん「理数の学問的基礎は大事だよ、みんないつか使うかもしんないじゃん <`ヘ´>」”
こんなこと読み取れません。国語能力がよっぽど低いか、バイアスがかかっているのでは?
みんないつか使うから基礎を重視しているのではなく、基礎がなければ応用が成り立たないからと書いてありませんでした?
この言葉の裏にあるのは基礎を教えてそれを応用したほうが短時間でより多くの事が学べ、使えるようになるため、記事で書かれているような時間のトレードオフ的に有利だからです。
“現代では、「情報を網羅して知っていること」以上に、「知らなかった情報を使いこなすこと」こそが重要だからです。その技能を習得してもらうためにこそ、経験学習(問題解決学習)は有効だと言えそうです。”
何を言っているかわからない。系統学習の有用性は上記しました。情報の取捨選択の面からみても基礎的な情報を知っていることが大切です。
また、多くの知識を知っていればいるほど、知らなかった情報をうまく使いこなせると思いませんか?
問題解決だけしていても断片的な情報だたまるだけで、系統的な知識として身につかないので応用が利きません。
応用が利かないということはより余分に学ぶ必要があるということです。これは時間のトレードオフ的に無駄ですよね?
”台形の面積の計算方法から、数学的思考法なんか学ばねーよ。”
そうではありません。単純にあなたの考えが至ってないだけでは?
さらに、台形の面積の計算方法はは図形の面積の計算方法の一部であり、図形の面積の計算方法を見れば十分に数学的な、論理的な思考法のひな型なのではないでしょうか?
たとえば、同じ三角形を二つつなげれば平行四辺形の問題に帰着でき、それを半分にすれば三角形の面積だよね、ということ自体が数学的な思考法であり、それを証明するためには論理的な思考法が不可欠になりますよね?
台形にも同じことが言えて、上辺と底辺が並行であるならば二つつなげれば平行四辺形になる、ということに数学的で論理的な思考法が必要になることはわかっていただけると思います。
それと、塾講師をしていたという割には大枠で教科全体をとらえるという思考がないような気がします。教材の作成や、指導法について悩んでこなかったのでしょうか?
”台形公式を「知識」と捉えてしまう「さんすう苦手」層に向けては、もっと実用的な計算を教えた方が良いし、それを「理解」して使いこなせる「さんすう得意」層に向けては、もっと本質的な理数教育を施した方が良い。”
本当に塾講師をしていたのでしょうか?教えられていた生徒たちが哀れに思えて来ます。
算数苦手な生徒たちをいかに理解させるか、ということが教師としての仕事なのではないでしょうか?
彼が言っていることはバカはバカのままでいい。ということに他ならないと思うのですが。
最終的にこの記事の結論としては“経験学習vs系統学習への新しい答えの1つとして、「対象者によって分けてみたらどうだろう?」というちきりんさんの提案がある”ということを確認するために書かれたのではないかと考えています。
私は流石にそこまでは、この議論からは読み取れないのではないかと思いますが。
むしろ重要なのは現在の科学教育の妥当性という何度も提案されてきたいわば古い話であってちきりん氏を擁護するためにそこまでしなくてもいいと思います。
また、生活的知識と科学的知識は背反するようなものではないということは上に書いたのでわかっていただけると思います。
私が言いたいのはこの問題は系統学習VS経験学習という対立軸を持ち出す必要もなく、
基本的な知識をしっかりと身につけ、無理解を少なくすれば、ちきりん氏の言っているような実用的な概念を身につけることは現在の教育で十分にできている。ということです。
これはバッタさんも指摘していることですが…
一応誤解がないよう書いておくと、私は系統学習を主にしてそれを応用できるような経験学習をさせるのが最も定着力よく、応用力も利き、かける時間も少なく済むと思っています。
それは私がいろいろと教育について思考錯誤した結果であって論理的な裏付けがあるわけではありません。だからこそ、私は今回、そのことで批判していないと思います。それは教育者一人一人であっていいと思うので。
それ以前の問題、論理の破綻や無理解な部分について的を絞って話していました。それでもこんなに多くなってしまいましたが。
嘘や適当なことを言って自分の意見を補強してはいけません。それはただの害悪な文章であり、知らない人をただ煽るだけなのですから。
さいきんのゆとりは、と言われそうなので、三十代半ばと年齢を先に申告しておく。
試験にノートを持ち込めるわけでないし、教科書に書いてあることを黒板に写して、それをノートに写すなんてどうして?と思ってた。
流石に、大学では「データを残すために」紙に記録することにしたけれども、紙に書くことが理解の助けになるとか、記憶の助けになるとは思わない。
忘れてしまうことはノートやメモに残すけど、忘れてしまう前提だから残すのだ。
逆に、アウトプットのために、紙にかくことはとても有用だと思う。
文章を作る前、数式をたてる前、スライドを作る前、出来上がりのイメージを図にしてから始める。
あれをつくるためには、この順番で組み立てて、それぞれの部品はこうやって表現して、そのためにはあれが必要で、ということを考えるためには、紙とペンはとても有用だと思う。
学校教育では、アウトプットのための紙とペンの使い方をもう少し教えた方がいい。
と、ここまで書いておもったのだが、僕の思考は、まずはアウトラインを決めて、そこに合うように部品を嵌めこむ「トップダウン型」だ。
対して、学校教育は往々にして、知の積み重ね、「ボトムアップ型」だ。
たとえば、乗法の交換法則の証明を終えてはじめて、掛け算の順序問題から開放されるというように。
それはある意味では正しいと思うんだけどね。
インターネッツは『人の注目を集めるとお金を稼ぐ事ができる場』になってしまった、googleとamazonが口火を切ったアフィリエイトプログラムのせいで。
怒り、説教、バッシング、炎上という類いのモノは、人の注目を集める手段の1つであって、
これらを上手く操作できるような『人としてゴミクズofゴミクズ』が、インターネッツ上でお金を稼ぐようになってしまった。
インターネッツにはヘイトスピーチや一方的な極論ばかりが供給されていく。悪貨が良貨を駆逐するが如く、緻密で有用な議論は駆逐される。
googleとamazonの罪は重い。重い。重い。重すぎる。
ということで
『実際に広告が掲載されるブログなり何なりの内容を精査することを広告提供者に義務づけるような、公的な機関が有れば良いのにね』と提案したい。
ウソを書いてるとか、著作権法に違反してるとか、スパムブログであるとか、そういう場合にはアフィリエイトプログラムを容赦なく打ち切ることを義務づけるべきだし、
データが甘くても出しちゃわないとコンペティターに負けるしドツボに嵌って一生論文出なくなる、さらなる発展をした段階に研究が進まなくなるからほどほどにしておいてほしい。
大抵において大意は間違ってないから、論文として発表することが有用と信じてるから、データが甘くても出す。
ねつ造する人は知らんけど。
http://blog.goo.ne.jp/lemon-stoism/e/008ac025ee1ccf4c694869f09b053ee7
いつも気になるのはなぜ別論文から流用元のデータが見つかるのか、ということ。
ゲルの写真なんて俺のごみ箱に捨てるほどあるからそっから取って行きゃいいのに。(ダメ!絶対)
もう流行は過ぎ去ってしまったけど,それでも○○○に住み続ける〜っていうのがありましたよね.
たとえば以下とか.まとめとか.
私がそれでも福岡市に住み続ける、その魅力を6つにまとめて語ります!住と食のクオリティが高すぎる。
http://ushigyu.net/2014/01/21/reason-why-living-fukuoka/
それでも~~に住み続ける 各都市まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2139034918044715401
みんなローカル大好きだから需要あるだろうけど,でも地元愛が強すぎて自慢ばっかり.
だいたいタイトルに「それでも」ってつけてるのに,ほとんどが「それ」に言及してないよ.「それ」ってなに?
本当にお勧めしたいなら「それ」を明らかにしたほうが,移住を考えている人とかに有用なんじゃないかな?
「それ」っていうのは結局デメリットの部分だから,「こんなにひどいよ,でも"それでも"住み続けるんだよ」って主張になる.
ひどいことを書けば書くだけ,それでも住み続ける理由が際立つはず.
個人的に、女性専用車両の痴漢撲滅に対する有用性には、議論の余地があると思う。
映画館でレディースデー実施館に対し、メンズデー実施館が極端に少ないのも事実だと思う。
仕事に関しての男尊女卑はいまもまだひどいものだとは思うし、それまで否定する人は無知だなァとは思うが、
それとはまったく別に、生活の中のちょっとした「女性優遇」に対して、
違和感や怒りを覚えてしまうのは人間としてごく普通の感覚だろうな、と思える。
女性専用車両にのりこんで乗客を論破したり、彼女や奥さんに議論を吹っ掛けて論破した話は
最近減った気がするが、一時期はずいぶんたくさん見た。
それにしても彼らはどうして、それをきちんと公的に訴えないのかが疑問である。
たとえばJRや鉄道各社に対して抗議文を発表する、女性専用車両導入による経済的損失を論じる、
映画館にメンズデー導入によるメリットを訴える。そうやって、それを「大元の企業と」議論しているという件についてはとんと聞かない。
少なくとも、「身近な女性をやりこめた」話よりずっと矮小にしか扱われていない。
たとえば家の中のルールやちょっとした職場のルールを変えたいだけならば身近な女性が攻撃対象になるのも分かるが、
企業や行政が実行しているルールについて、エンドユーザーでしかない女性を攻撃したところで
うっぷん晴らし以上の意味があるとは思えない。
日本を滅ぼす「女性優遇」とやらを「フェミ」という恐ろしい団体が勝ち取ったのだというが、
それはやはり「フェミ」が大元の企業や体制と戦ったからではないのだろうか。
「女性の抑圧された権利」に敏感なフェミ層は戦い「女性優遇」を勝ち得たというのに、
1.時報
特に深夜0時の時報、何故に深夜帯にも拘らず大音響なのか未だに分からない。
2.アンケート
「突然ですが……」で始まる強制アンケートシステム。強制性が異常でF5を押させる位しか動画を再度見直す事が出来ない。
さらに、エコノミーユーザーにとって折角シークバーを最後まで読み込んだのに再度更新させられる苦痛は計り知れない。
最近、頻繁にネット投票を行い、深夜帯も関係なく実施されるため、アンケート協力という名の強制実施が果たしてネットの有用性に比するか疑問。
また、右寄りの質問と誘導尋問が見られる。「その他」の項目の意味がない。
マイページに“①”が赤字点滅した時、以前なら入会コミュニティからのお知らせだとかお気に入りユーザーの新着、個人的な物関係の通知であったのに
実際入ると「〇〇wwwwww」といった、どうでもいい単語につぶやくだけの物が他の通知を押しのけてマイページの新着に出現する。
多くの目に触れるようになる前から価格が高騰し、入手困難なCDであるため、これを引用公開することで、多くの人の目に触れることは、昨今の事情に照らし、有用だろうと思い、ここに記しておきます。じゃあ増田で書くなよ、というツッコミは効きません。たぶん期間限定。
佐村河内のスコアを詳細に眺め評価することは、近頃の劇音楽に屡々見られる基本的な技術不足や、必要以上に技を凝らそうとする過剰なテクニックの持て余し。
これらとは明かに一線を画しているという事だ。
第一楽章、邦楽の静謐な、それでいて熱いエネルギーを内に秘めた佇まいから戦いを表現する大オーケストラへの見事な転換、目の眩むような、あたかも生物の細胞分裂の様な声部の増殖の緊張は、来たるべく英雄の出現(心に強く刻み込まれる主題[テーマ])を準備しているのだ。
第二楽章では、一楽章の主要な動機[モティーフ]や主題[テーマ]を巧みに変奏発展させてゆく、限られた時間の中で超絶的展開能力。
全く隙の無い構築力と完璧なオーケストレーションには唯々感嘆するばかりだ。
これらの事が自然に在る、ということ、技術はその為にこそ使われなくてはならない事をこの奇麗なスコアは私達に示してくれている。
私がコーダ部の総譜を受け取りに氏宅に伺った日のこと。
着いてすぐ筆談で、まだ出来てないので待てとのこと。
以降氏は黙したまま延々4時間が流れた。
と突然立ち上がり、未だ見た事も無い80段はあろう巨大な五線紙を取り出し席に着くや否や、嵐の如くペンを走らせ始めた。
それは神憑り的な速さといった感じだった。
何やらスケッチでも書き写しているようだった。
10分も経った頃、「写譜なら手伝おう」と立ち上がり氏に近づいた私は思わず目を疑った。
氏が書き写している筈の五線紙の向こうには何も無かったのだ・・・・。
その恐ろしい光影に立ち尽くすばかりだった。
写し取っていたのは頭の中のスケッチだった、以降ペンは一度と止む事無く僅か20分で全ては終わった。
氏は見直しもせず「ポイ」と私に手渡した。
後に私が見直したところ、何の落度も無かった事は言う迄も無い。
注:引用者により、ルビを該当する熟語のあとに[]で読みを挿入してある。また、句点ごとに改行し、アラビア数字は半角に変更した。
遠い古からの声―長い間日本の風土の中で培われてきた都節と呼ばれる伝統的な様式―からこの曲は始まる。
この尺八の「息」が、はじめは琵琶の力強い一打や笙の開放的な響きを導き、外に開かれていく空間を形づくるが、つづく締太鼓の合いの手を橋渡しとして、今度は逆に人間の持つ陰の部分、尺八の内に籠った響き、そこに影を落とす琴の不穏な調弦や笛の虚ろな息づかいなどが、前との微妙なコントラストとして対置される―ここで提示された様々な要素(おもにコントラストという概念)がこの作品の全体を紡いでいく上での重要なポイントとなっている―。
やがて一本の竹のひびきは12本もの竹(尺八)を呼び(ff)、静かに、しかし豊かにひびき渡る和太鼓の一打が大オーケストラを迎え入れ一転としてスペクタクルな場面に突入する。
前の部分と全く別な世界の様にみえるこの部分は実は冒頭の尺八の旋律と深い関わりを持っている。
譜面を見てみよう。
(譜例1)ここでフレーズの後半にあたるAという部分にオーケストラが対応する。
(A')。
そして英雄の出現を伝えるファンファーレ(これは西洋で培われてきた伝統だ)につづいて(やはりこれも西洋の伝統的な)ハーモニーのゼクエンツ(鎖)に乗って英雄のテーマが提示され(譜例2)クライマックスを迎えた後、譜例1のBの和音の固定(オスティナート)による経過句に入る。
ここで邦楽の冒頭部分が新しい状況の上で再び現われる。
尺八がサキソフォーンに、笙がヴァイオリン群に、また12本の尺八は今度は虚ろで怪しげなハーモニーを醸し出し、三味線は乱れ(冒頭の拡大)、琴はますます不穏なアルペジュを掻き鳴らす、一瞬の閃光、地底から沸き起こったかのような轟音から出現したものは英雄のテーマのヴァリエーション、そして輝かしいマーチ(ファンファーレの変奏)―ここで西洋にハーモニーのコントラスト(長三和音と短三和音)を挙げておく。(譜例3)
そして再びスペクタキュラーなシーンが登場し、コーダ(ゼクエンツ部分の変奏、このモティースがその後の楽章で大変重要な役割を果たす)(譜例4)。
二楽章は前半の静かな部分「夜の音楽」(佐村河内談)と後半の激しいアレグロからなるが、前章であらわれた様々なモティーフによる更なるヴァリエーションである。
(一楽章をソナタ形式に於ける提示部と捉えるならば二楽章は展開部、三楽章は再現部とみなすこともできる)
三楽章は前の余韻を受けて「能楽」の囃子、コラージュ的部分を経て尺八の冒頭が再現される、ここでは笙のか代わりに弦楽器が増四度上で現れる、実に美事である。
メインテーマがアダージュで(本来の姿で)再現され圧倒的なコーダで締めくくる……
以下は若干の譜例による指摘にとどめるが、この作品は様々な要素を複雑縦横に織り込んだ大変興味深い大曲であり、聴き手は注意深く聴き込む毎に新たな発見を見いださせる至宝の逸品と言える。
引用者注:譜例3には『マーラーの交響曲第8番(第6番かも、とにかく字が小さくて読みにくい)が想起される!』と書いてあるので、もともとマーラーが好きなんだろうと思う。また、誤字と思しきものも原文ママにしてある。
www.youtube.com/watch?v=ukFtX9iZPjU
余談だが、このサウンドトラックは贅沢にもxrcd2を採用している。ネットにある音源とは比べられないぐらい素晴らしい音楽が堪能できる。
http://getlife.hateblo.jp/entry/2014/02/06/030300
こういう無知なおっさんが居るから、日本のIT業には魅力がないのだよなぁ、という印象
自分はプログラマというよりは、どちらかというと研究で飯を食ってる非SIのエンジニア
このブログの著者のおっさんが言うところの、プラスアルファは手に入れてる側ではあるんでしょう
普通のプログラマであることでは、差別化が出来ないと考えたからこそ様々な挑戦を繰り返し
基本的には、実装スキルのない人間の設計などはものの役に立たない、という所は同意して貰えるだろうけど
逆に、コーディング以外の技術、例えば無知なおっさんが例にだしてるデータサイエンティストであれば
統計だの機械学習の学術的な知識、体系だって勉強してきた数学力がなければ、まともな設計はできない。
各アルゴリズムがどんな計算をしていて、どの程度の計算量を要求し、どの程度の資源を求めるか、誤差はどうか、
負荷はスケールアウト出来るのか、他にいい手法は存在しないか、といった知識は一朝一夕には手に入らない
実際のコードをイメージしながら、各モジュール群を適切に設計し運用するには、どちらかでは不足がある
つまりコーディングスキルを含めた言語などの道具への理解と、それを使った技術力、そして経験は不可分のもので
揃ってやっと1人前の”プログラマ”と呼べる。そういう人間だからこそ、高給取りになれる。
プログラマ=コーダという認識は、プログラマという職業や技術を軽視しすぎている人間に見られる
結局のところ、プログラムを書く人(=コーダ)ではなく、プログラムを使ってビジネスが出来る人(≠コーダ)が生き残るって面では日米大差ありません。
ちっちゃい商売で食えてることがこの人の自慢なんだろうけど、これこそが日本のSierがゴミな理由だ
世の中にどんな技術があり、どんな研究が進んでいて、何が出来て、何が出来ていないのか?
それを知らない人間が良くこういうことを言う、顧客のニーズを汲み取れるだけでビジネス(笑)が生まれるとかないでしょ
例をあげると、海外ではCADのソフトの研究開発は盛んだけど、もう国内では殆ど生き残ってない。
国内には世界的な自動車メーカーがあれほどあるにも関わらず、CADソフトは国内には著名なソフトがない
こういう例には枚挙にいとまがない。日本のゲーム企業は世界的だがそこで使われている、ツールやらレンダラは海外製だし
SIerお得意のビジネス(笑)を生み出す、クラウド、分散コンピューティング関係でも、OpenMPIなど海外製だ
GitもMercurialも海外で生まれているし、OpenCVを初めとした画像認識ソフトやその技術も海外で生まれている
カメラによる画像認識で車や人を判断してブレーキする車は日本で作られるが、その根幹を為すアルゴリズムは
海外の研究者やらエンジニアが作っている訳だ。広大の栗田先生など一部例外はあるけれど。
それぞれ、SIerが言うビジネス(笑)なんか比較にならないほどの市場規模を持っているのに、それらを無視してビジネスとはなんだろうか?w
電機・機械系では、研究開発が盛んで、技術と儲けることは不可分なのに、IT業界だけはどういうわけか
ビジネスとは技術を何一つしらない無知なおっさんが作るものであるらしい
本物のプログラマにとっては、全く魅力がない、そんな業界な訳だ
お客からしたら技術の中身なんかぶっちゃけどうでもいいんです。JAVA で書こうが、Cで書こうが、COBOLで書こうが、そこに価値の本質はないから。
道具というのは、それを適切に選択して使ってこそ価値がある。
フランスではOCAMLが普及しているが、なぜだか考えたことがあるか?
何を選択すればコストが抑えられるかをすら考えたことすらない
言語なんかなんでも一緒?w
なるほど、鋸でなくともノミでも木は切れるだろうなw
切断面の美しさやかかった時間などは客には関係ない、切れてさえいればいいかw
お客にとっては技術などは確かにどうでもいい、しかし、それを上回る製品がないという前提だ
どうやって世界と伍して戦う?
どうやって他の製品を上回る?
微々たる使い勝手の差などは、技術力の差の前では圧倒的に無力だということは
データベースはオラクルだのSQLに依存し、製品ではSAPなどに完敗を喫し続けているSIerこそ理解すべきだろう
本当にビジネスを作る、というのが、技術と不可分なのは言うまでもない。
もちろん、その技術にはコーディングスキルも含まれている、という当たり前の話です。
オッサン論法でいけば、SIerがサービスとして提供するものと、同一の機能を持った製品との間の明確な区分など
客には存在しない。どっちのほうが凄くて安いか、だ。
そんで、もう、そういう勝負に負けまくってるのがSIer、技術で勝てないから安さで勝負するために
オフショアに必死になったり、ブラック企業化してプログラマを潰しては、ますます技術力とサヨナラしていってるね
http://anond.hatelabo.jp/20140206172641
普通は「IT系」って企業の一部門だし実際日本でも自動車メーカーやら電機メーカーやらゲーム会社やら内部でプログラマーを雇用して国際的な成果も上げてる企業なんていくらでもあるんですよね。
全くだな。
技術力をもった企業やエンジニアがフィーチャーされるべきなんだが、例えばゲーム屋だと
プロデューサーだのディレクターだのが表に出て学生のあこがれの対象になるし、
他もプロマネが表に出てくる事が多いので、文系職の比重の高さが問題なんでは・・・みたいな方向になるよな
大手でもホンダ、ソニー、日立など、研究部門が成果を上げている、中規模でもデンソーとか良い企業もあるし
小さい会社だと、先日googleに買われたシャフトとか、CADのラティスとか、モーションポートレイトなど、固有技術で食ってる会社もある
原子力発電所を撤廃すべきだという議論があるとする。
そこには
撤廃の為のハードルとして、
あるいは、
現時点の技術では、使用済み核燃料を処理する為に半永久的に必要とされるものだ。
議論には様々な観点がある。
文脈を読めないタイプは、
それぞれの観点を守るため、
行動を決める必要がある。
行動の決定が国会で行われ、実行が内閣であり行政によって執られる。
大きな物事というのは一人で動かせない。
って類の話をしているときに、
”日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。”
なくす為の方法を一刻も早く考案して、行動に移したい。
http://www.asahi.com/eco/articles/NGY201309070047.html
悪質な釣り人が、ため池にブラックバスを違法放流したという話。別にこの記事が嘘だと言うつもりはないのだが、「本来いないところにブラックバスがいるのは釣り人の違法放流のせい」というイメージが過剰に流布されていて、皆もそれを疑っていないという気がする。誤解してほしくないのだが、違法放流は実際にあると私もわかっている。ただ、分布が全国津々浦々に広がってしまった要因としては、違法放流よりも、かなり小さな水路も含めて水系の中を移動し、旺盛な繁殖力で生息域を広げた彼らの能動的な繁殖力のほうが圧倒的に大きいのではないかと考える。違法放流が原因というのは、マスコミがニュースにしやすい。自らの利益のために生態系を破壊する釣り人というニュースのストーリがー作りやすいだけに、それは実態以上に過剰に流布されたイメージであり、真の原因はブラックバス自身の絶望的な繁殖力であり、より深刻な状況なのではないかと思う。すなわち、池干しした後、違法放流がなくてもまたすぐに池にブラックバスが出てきてしまうおそれが高い。
なぜそう思うかというと、同じ外来肉食魚であるブルーギルの存在だ。ブラックバスがいるところには大概ブルーギルもいる。しかしブルーギルをわざわざ違法放流する釣り人はほとんどいない。ブルーギルはブラックバスに比べて格段に小さく、厚みもペラペラなので釣りのターゲットとしては魅力がない。仮に釣れても「あーあギルかよ」とガッカリするのが普通のバス釣り人の反応である。さらに、ブルーギルは在来種の卵を食べることで問題になっているが、ブラックバスの卵も食べるのだ。そのためブラックバス釣りの愛好家からはむしろ嫌われる存在である。
このブルーギルももはや駆除不能なレベルで全国津々浦々に拡大してしまっている。これが示唆する事実は、違法放流がなくてもバスやギルは全国あまたの河川・湖沼に拡大していく力を持っているということだ。一方で違法放流で新たにブラックバスを生息させるには、少なくとも数匹以上を放流する必要がある。もちろん、特に過去において、しばしばそういうことが行われていたことは知っている。
別に釣り人の方を持つわけでもなく、一方でバス・ギル問題の解決策を持っているわけではない。そして誰からも歓迎されない指摘だと思うが、ひとつの池単位であっても駆逐は不可能だと思われる。その水系すべてからバス・ギルを締め出さない限り。例えば、最終的に利根川に繋がる河川、池、沼のどこかにバス・ギルがいたら、それが全体に拡大していく。おそらく想像よりもずっと小さな水路も含めて。そして、ギル問題から推察すると、水系すら何かに混ざって跨いでいる可能性がある。それが何かはわからないが。
勿論、匹数をコントロールするというのが目的であれば池干しは有用であろう。
何の役にも立たないエントリで恐縮だが、ここで言いたかったのは、悪辣な釣り人の違法放流が外来魚問題の主要因のような形の報道がなされているが、事実はそうではないのではないか、という冷静な事実の指摘である。
「ニセ科学」批判者として、一部の人には依然として高く評価されているらしい菊池誠氏がこんなツイートをした:
なぜ左翼はトンデモに弱いのかと残念な気分になるけど、ルイセンコの昔からそうなのよね。日本の左翼科学者は軒並みころっとルイセンコに騙された
当選、批判を受ける:「なぜ左翼はトンデモに弱いのか」? 「左翼がニセ科学に弱いのが残念なのよ。」? - Interdisciplinary。メタブでヤロビ農法の支持者が広範に及んでいたことも指摘されてる:はてなブックマーク - はてなブックマーク - 「なぜ左翼はトンデモに弱いのか」? 「左翼がニセ科学に弱いのが残念なのよ。」? - Interdisciplinaryのリンク先。
ちょうどいい(悪い)タイミングで有用微生物利活用推進議員連盟 - Togetterまとめ、はてなブックマーク - 有用微生物利活用推進議員連盟 - Togetterまとめなんてのも知られてしまった。左翼じゃないよね。
田崎晴明さんが指摘する、原発・反原発の議論に潜むヤンキー思考 - Togetterまとめも、なんか田崎氏らしくない、とブクマ(はてなブックマーク - 田崎晴明さんが指摘する、原発・反原発の議論に潜むヤンキー思考 - Togetterまとめ)で指摘されてるけど、あれは上掲の菊池誠氏のツイートに対する「強烈なアンチ・テーゼ」として捉えるべきだと思う。「ヤンキー」と「左翼」って対極に近いイメージでしょ。
でも、ここで私が言いたいのはそういうことじゃない。もっと基本的なこと。
『もうダマされないための「科学」講義』(光文社新書)冒頭の「1章 科学と科学ではないもの」で、菊池誠氏がルイセンコ学説についてどう説明しているか、見てみよう:
これと似たような話がルイセンコ事件です。ルイセンコというソビエト連邦の生物学者が1935年に、小麦の遺伝的性質を人工的に変えられるという主張をしました。これだけなら、奇妙ではあっても「学説」のひとつと言っていいのだろうと思います。
小麦の遺伝的性質を人工的に変えられるという主張
いや、これなら左翼も右翼も中道もなびくでしょう。私たちの世界では「品種改良」と言うと思いますが。
試験で「ルイセンコ学説を説明しなさい」という問題に、上の答案がでてきたら○をつける人いますか?
『もうダマされないための「科学」講義』1章って、ろくに準備しないでしゃべったのが丸分かりで、論旨が支離滅裂に近いけど、これは一番ひどい例。でも、仮に準備不足でしゃべったにしても、活字にするときにチェックしませんかね?
そして、仮にとっさに出た説明だとして、そういうときでも「しっかり理解できていたら」こんな不十分な説明にはならないんじゃないかなあ? 「獲得形質」「ラマルキズム」などがパッと出てこない、ってどういうことなの?
モチベーションって手で触れられないでしょ。
手で触れられないものを直接変化させる事は出来ないよ。
空き缶があって、
それを変化させるには、
手を触れて力を加えればいい。
つぶれる。
モチベーションには触れられない。
だから直接変化させることは出来ない。
モチベーションをあげたい時は、
直接手を触れられるもので、
変化させられるものを列挙すると良い。
先ずはそこから。
直接の変化を期待できない時は、
間接的な変化を期待しようということ。
そして、
変化させられるもので、
それを探し、行う。
例えば私の場合、
長文を書くモチベーションを保つことは本当に難しい。
そもそも書くことが向いていないのかもしれない。
長文を書くとなると途端に筆を持つ気になれないのである。
そういう時は、
とっつきやすい議題で短文を書く。
この変化によってリズムがついて、長文を書くモチベーションが湧いてくる。
私にとって短文の構築は
モチベーションが低そうな誰かのそれをあげたい時、
その人が何であればたやすく変化させられるかを注意深く見る。
そしてその中でどれが一番モチベーションに連結しやすいかを考える。
それをサポートする。
メンバーとして日々を生きる人。
それは、取捨選択が下手なだけかも。
君を思う気持ちに触れたら、少しは温かく出来るかもよ。