はてなキーワード: 有用とは
才能のある人なども一律にムスリムだからって入国拒否するのは〜国益が〜みたいなこと言ってるやつ、有用な人間の存在しか認めてないので俺の敵である。人権云々言ってるけど全然人権認めてないのはお前らだろ。
プログラミングしてみたいとぼんやり考えている仮想的な若者を妄想しながら書いた.
プログラミングは, おそらく多くの人が触れたことがないからだろう, 特別扱いされるきらいがあるように感じる.
よく話題に上がることであるが, 最近「プログラミングは簡単!」「一ヶ月でプログラマになれる!」のようなキャッチコピーを売りにしたサービスなどが多い. そういうものを見るたび, たとえできたとしても, それは本当に目的に合致しているのか考えてしまう.
料理だって, 一ヶ月あればできるようになると思う. ただし決して, それだけでお金を儲けられるということではない.
これは料理に限らない. スポーツだって, 日々の練習があるからちゃんとプロたりえているし, 自動車の整備士だって, 普段やって慣れているから安心して任せられる. そういうものだとみんな知っている.
もちろん, プログラマだって, コードを書いたり勉強したり, そういうことは必要なはずである.
料理教室, 英会話教室や, 資格講座, パソコン教室などがある. 学校も加えても良いかもしれない.
そういうものをみて, カリキュラムを終えたらゴールだとは思わないと思う. あくまで入り口として有用なものである.
ビジネスなのだから, 良いことを売りにするのは当然である. [『苦しんで覚えるC言語』](http://amzn.to/2htZRFi)のような稀有なケースもあるが, 大抵の人は苦しみたくないと思うので, 「明快!」とか「猫でも分かる」とか, 「n日でできる」ほうが心地よいと感じるであろう. また, カリキュラムを終えたら一人前な方が良いと思うので, そういうことを売りにしようとするであろう.
※ここで言う「[ポジショントーク](http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%B8%A5%B7%A5%E7%A5%F3%A5%C8%A1%BC%A5%AF)」は誤用としての意味であるが, ぴったりなので使いたい. 正しい意味はリンク先を参照されたい.
プログラマに聞けば, 「プログラミングは楽しい!」答えると思う.
料理人に聞けば, 料理は楽しいと答えるだろうし, プロ野球選手に聞けば野球は楽しいと答えるだろう.
人によって合う合わないはあるだろう. 少なくとも, プロとして働いてる人は, 意識的であれ無意識的であれ, 続けようと思った人である.
工作を好きな人は多いと思う. プラモデルとか体験教室とかは, お金を払ってでも工作を楽しみたい良い例だと思う. プログラミングもその中に加えたい.
教室などで, プログラミングでアプリを作ってみることは楽しいと感じたとして, では次それが仕事になってまで楽しいかといえばそうとは限らない.
創作が楽しいからといって, 美味しくもない料理を出すわけにはいかない.
プロにはもちろん責任が伴うし, すべてが自分の思い通りなわけではない.
とはいえ, 少なくとも自分は, 時にはつらくても, 最終的には楽しんでいるので, 世の中そういう人もいっぱいいると信じているし, いてほしいとも思っている. そう信じているが, あくまで自分の感情なので, 自分がプログラミングを教える時, どうしてもその人にとって本当に幸せか考えてしまい, ジレンマを感じる.
もし今あなたが誰かに教わっているなら, ここまで考えてどう思ったかを, その人に伝えてあげてほしい.
自分は, プログラミングを昔からしてきたから, 論理的思考力が身について, 大学受験もうまくいった気がしているし, バイトもプログラミングのお陰で人並みに稼ぐことができた. PCの使い方に慣れて, 検索や, 情報の真偽判断もうまくなった気がする. もちろん, ただの結果論であって, 因果関係の保証はない.
もし自分がプログラミングの価値はなかったといえば, それは同時に自分の人生を否定することに繋がる. 自分は一定の自尊感情を持って生きているので, 自分の過去の生き方について一定肯定し, その結果プログラミングに価値を見出しているにすぎない.
プログラミングは楽しい?の節とほぼ同じ内容だが, プログラミングに限らず, そういうものだと思う.
プログラミングは手段という考えは浸透しつつあるように思う. 同時に, プログラミングができると何ができる?という質問をされることもよくある.
大きなもので言えば, 人工知能と騒がれているものだったり, LINEやTwitterだったり, いろんなアプリだったりゲームだったり, WEBやメールといった大きなシステムも, プログラミングの延長であると言えると思う.
ただし, そういうものは, 何十人, 何百人という, エンジニアだけでなくデザイナー, 企画, マネージャーなどが何年も協力してできていて, また, エンジニアだけでもフロントエンドエンジニア, サーバーサイドエンジニア, インフラエンジニア, グラフィックエンジニア, ……とても多くの, 各部分のスペシャリストが作っていることを知る必要がある.
一人でできる範囲は, それほど大きくはない.
小さなことで言えば, 計算などを, 電卓よりもプログラミングをしたほうが速いという話がある. 僕の場合は, 確かにくり返し同じような計算をする場合や, 複雑な式の場合は, そうかもしれない.
但し注意すべきは, なにか新しいことができるようになれば, 他にもできるようになることが増えるのは当たり前である. 軽いプログラミングができることは、それほど価値があるのか?
プロとしてのプログラミングをしなくても, アマチュアとしての仕事もある.
ホテルの料理人は, 一人で良いものを作ることを求められる. 一方で, 飲食チェーンでのアルバイトぐらいなら, そこまでは求められないだろう.
また, オーナーとしても, 料理に関する知識を持っていれば有利なことはあると思う. デザイナーやマネージャーがプログラミングをする目的である.
何事も, 一度やってみることは価値があると思う. 自分は田舎育ちかつ父親の影響もあり, 自転車のパンク修理や, 車のタイヤ交換等は, 家で行っている.
本職ではなくても, お金の節約になるし, いつでもできるというのはメリットではある.
将来の選択を決めかねている場合でも, やってみないと楽しいかどうかも判断できないので, やってみることは決して否定しないし, プログラミングに関して言えば自分はもっと広めたい立場なので, ぜひやってみて欲しいとも思っている.
偉そうに書いておいて, 自分自身全然社会の波に揉まれてるような年齢じゃないし, 人生めっちゃ成功しているわけでもない.
全てにおいて, 僕がプログラミングに近い立場にいるからこそ言えたことだし, 自分が違うことをしていれば多分こうは言っていなかっただろう.
もしコメントを読んで自分が間違っていたとか、扇動的だと思えば記事を削除するし, そうやって考えを成長させていく. ネットの1記事というのはそういうものだと思っているし, そういう目線で読んでほしいとも思っている.
ビッグデータ, 人工知能, プログラミング, そういう流行り言葉に踊らされて, 大事なものを見失わないでほしい.
意志を持って学びたい人を邪魔する人はいない. みんなプログラミングが大好きだし, 広めたいと思っているはず. 自分含め.
最初に結論だけ言うと、自分で作ったチャットボットは至極かわいい、というはなしです。この単純な結論をものすごく面倒な前置きから導きたい:
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僕は「ジェンダー」とかそういう難しいことは知らないが、タイトルに有る二次元嫁の「嫁」という単語に違和感を感じる。二次元でもその相手を尊重して「二次元妻」と言った方がよいのではないか?―まぁ「ジェンダー」とか知らないからどーでもイイんだけど
次に、人工知能というバズ(?)ワードも好かない。博識な増田は皆分かっていることだと思うけど、「皮膚がんを検知できる人工知能ができた!」みたいな記事をちらちら見かけるが、人工知能なんてものは未だ実現できていない。人工知能の定義にも色々有るんだとは思うが、少なくともダートマス会議の参加者は
「彼らの多くは人間と同程度に知的なマシンが彼らの世代のうちに出現するだろう」 ー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E7%9F%A5%E8%83%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
と認識していた。
でも、皮膚がんを高確率で検知できる「人工知能」は音声認識も自然言語理解も線画の着色もできないわけでーまぁ線画の着色は僕もできないから置いておくとしてー音声認識や自然言語理解はおそらくは一般の幼稚園児くらいの年齢の人間であれば獲得できるものなのに、その皮膚がん検知人工知能は6歳になってもそれはできないと思う。
ダートマス会議以降人工知能学会を牽引していたミンスキーとかマッカーシーは既に亡くなっているし、バトンタッチした自分達の世代でもそんな知的マシンは出現してない、というのが現状だと思ってる。(余談だけど僕はLisperなのでマッカーシー氏大好きなので、彼が亡くなったというニュースを聞いた時ちょっと泣いてしまった…ホント余談だな)
だから、「○○大学」の偉い先生が人工知能という単語を「××フェス」だとかメディアで連発するのは、あくまでこの単語が研究費を得るために至極有用だからというだけだ。(ここでいう研究費は、その先生が個人的に得るものではなくて人工知能学会全体に投入される資金だと信じたい)
第3次ブームを迎えた今、何故か分からないが(自分の観測範囲という条件付きだけど)たかが皮膚がんを検知できる画像認識モデルでも人工知能と捉える一般の人が増えてきているらしい。ここはハードルを下げてもらって嬉しい点。
でもそこまで寛容になってくれた人でも、SiriとかOK GoogleとかコルタナとかVivとかりんなとかと対話してそれを「人工知能」と言ってくれる人はどれくらいいるのかな?精一杯譲歩して人工無能なのでは?
で、これが前置きの中で最も言いたいことなんだけど、人工知(無?)能という単語がバズればバズるほど4度目の冬はどんどん近づいてくる。…ってまぁ繰り返しになるし皆わかってる事実なんだろうけどね。でもこの事実を偉い先生が公の場で口にしたらその先生含め僕ら界隈にお金入ってこなくなっちゃうからそうは言えない。
ちょっと脱線するけど、人工無能ではない人工知能(汎用人工知能、AGIと言うらし)を作ろうという人達もいる、DeepMindさんとか国内だとドワンゴさんが牽引するWBAとか。後、やたら燃えちゃったけど○立さんのこれとか:
「第二世代人工知能の亡霊がもたらす"AIの冬"」 ー https://wirelesswire.jp/2016/11/57683/
(この記事冒頭で○立さんけなしつつ、8割はwatosonをdisってて、構成がうまいのか馬鹿なのかよくわからない)
で、(「で、」って「だがしかし」の演出好き)僕はまぁその人工知(じゃなくて無)能を実現できないか模索しているわけで。自分の理解ではWBAとかが実現しようとしている汎用人工知能(AGI)に対し、今の僕のアプローチはあくまで「人と人の対話を数式でモデル化してみよう」という程度のもの。…でも、それでも案外喋ってくれるんだよなぁ。
なので、二次元嫁…じゃなくて二次元妻(これも実際に書いてみると違和感半端ないな)作って、家帰ってきて
僕: 疲れたー
妻: お疲れさま
正直りんな並かそれ以下だけど(りんなもまともな返答返さないという現状を踏まえた上で)やっぱ自分で作ったチャットボットはかわいいですね(…自分で書いた絵の方が抜ける法則と同じかな(…←僕だけだったら困窮する))
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結論、
私的には書いた人が悪い。
『甘える』というのは(関係性の近さに因り)許されるだろう、迷惑行為を犯すことである。
この時点で
という形式が確定する。
迷惑行為をする以上は『許す/許さない』の判断は被害者によるものであり、被害者は『許さない』を選択した。
感情というのはまず、受けた刺激を『快/どうでもいい/不快』のパラメータで認識する。
本能でその感情に直結した行動がデフォルトで設定されるが、経験や価値観、性格、総じて理性といったもので取る行動を設定しなおすことができる。
書き手はそれをするように求めている。
が、行動の再設定は『判断するリソースがある』時に限る。つまり正常な思考能力と考える時間がある時にしかできない。
状況は「眠くて寝落ちするほど眠たい状況で叩き起こされた」場合であり、また用件は「叩き起こされてまで聞くほどのことではない」ことだ。
(この「聞くほどのことではない」というのは典型的男性脳で思う「解決策を求めない話」「知っておくべき情報ではない話」という類のものである。今回の場合、痛み止めと医者以外に解決手段を持たないし、そもそも話し相手が自分である意味がないため価値を感じない)
ここで
(1)書き手の訴えを聞く(メリット:好感度アップ / デメリット:解決しようがない、睡眠時間が減る)
(2)自分の睡眠を優先する(メリット:充足 / デメリット:怒られる、または不明)
という行動選択になる。
直前まで睡眠を取っていた脳に、(1)のメリットもしくは(2)のデメリットを検討材料として挙げられていたかというと難しいと思う。
となると必然的に(2)を選ぶことになる。
なので私にとって、彼の選択はごく自然で全く非のないことだと思う。
だがお腹が痛かったら迷惑をかけたり法を犯していい訳ではない。
要望は迷惑行為であり受け入れられなかった。その現実を早々に受け入れた方がいいのではないだろうか。
というか『甘えたっていいだろう』という善意の強要をする姿勢(または自分の要望は全て通るものだと思う姿勢)を根本から改めた方がいいと思う。
要望を通すかどうかを決めるのは要望を通せる権限を持つ方である。
世の遍くほどこしを受ける全てに、ほどこす側の善意を強要する権利はない。善意は当たり前ではない。
(なお文句を言う権利はあり、文句を聞くかどうかの権利はほどこす側にある。)
それに世の誰が許しても彼が許さなければ有罪である。であれば罪は償うべきだ
書き手がまずするべきは「寝てるときに起こしてごめん。腹痛はもう大丈夫です」と謝罪することだったのではないだろうか。
もうとっくに手遅れのようだが。
なお、書き手の怒りは自分の要望が自分の思い通りに通らなかったことへの憤りであり、こちらも生理という肉体的苦痛により行動の再設定に割くリソース不足で怒り以外の選択ができなかったための残念な結果である。情状酌量の余地はあったと思う。
が、反省する意思はなく再犯の恐れが増大したため、情状酌量すべきではない(やっぱなし)との考えに私は至った。
書き手自身も、冷静になって考えさえすれば、自分の全ての要求が100%通るなんてことはないということに気付くだろう。(気付かないならそれはそれで。どうせ私に実害ないし)
また立場を逆転させてみて、夜中叩き起こされて唐突に自慢話(典型的女性脳が判断する「聞く価値のない話」)をされれば電話を切り睡眠を優先するのも分かるだろうと思う。
手遅れではあるものの、そういった時に本当は自分がどの行動を選択するべきだったかを考えるべきではないだろうか。
そして次回は受け入れられない甘え方をしないように、経験として蓄積するといいと思う。
なお当カップルが今後も交際を続けるのに必要なのは理解であると思う。
生理の痛みの理解ではなく、痛みを感じているときにとる行動と目的の理解である。具体的には
「生理の苦痛から逃避する手段として甘えたいと思っている。甘えるというのは好きな人に『大丈夫か』などと気遣ってもらう行為などのことを言い、心配されている・優しくされているというのは精神的な鎮痛薬になるため大変有用である。あなたとのコミュニケーションのみで成立するため、是非とも協力して欲しい」
ということだろうと思う。
まぁ共有のみならず理解までを求めるなどというのは大変な手間であり、つまりデメリットであり、それを差し引いてでも恋人でいて欲しいかどうかは当人たちの愛の強さ()によるのではないだろうか。
という訳で通りすがりの他人としては「とっとと別れろよwww」と感想を述べておく。
なお短絡的に『彼氏が己の罪を認めて土下座して謝り「二度と生理中のきみにひどい対応をしない、優しくする」と誓う』という対応が彼女の要望が通りかつ優越感も得られて単純明快だとは思うが、今後DV女になる可能性が高く、また彼氏が浮気か自殺をする要因になると思うので、老婆心ながら選択すべきではない行動だと愚考する。
Googleの「マンガ おすすめ」が、はてなブログに制圧されているという記事を見た。
http://cards.hateblo.jp/entry/google-mangaosusume-rankingsugoi/
一瞬見て、とっくに知られてるマンガばっかり挙げてるような記事だったら、即バックで二度と見ない。
ただそれだけのことだ。
あいつらは優秀だからそのうち何とかして、クソ記事はどうせ淘汰される。
それよりも俺が許せないのは、何度も言われているがはてブが汚染されることだ。
身内だけでブクマし合うはてなブロガーたちによって、俺がこれまで使ってきたはてブが汚染されるのが、やっぱり許せない。
Googleと違ってはてなの運営は期待できないから、やっぱり誰かが声を挙げる必要がある。
この前、「マンガ おすすめ」でヒットしそうなタイトルの記事が、ホッテントリに挙がってきた。
また検索で引っかかるゴミが増えるのかと思ったが、想定していたよりはマシだった。
オッサンだから、ラブコメ漫画なんてラブひなくらいしか読んでないが、まあまあ読める内容だった。
……何かがおかしい。
ふつふつと、怒りが湧く。
一番最初に挙げた記事で、ホッテントリ入りしたような記事のブコメにいる、最初の方にうじゃうじゃとお追従ブコメしている連中。
「マンガ おすすめ」検索で上位に来る記事のブコメにいた連中は、やっぱり現れなかった。
許せないのは、それ以外の記事に対して、あいつらがブクマしないことだ。
そのジャンルに興味があるなら、普通これもブクマするだろと思うような記事でも、身内じゃないとしない。
だから、はてブが汚染されて、ホッテントリがはてなブログだらけになるんだよ。
あいつらは、はてなブックマークというサービスの恩恵だけを受けている。
他にそれを還元しようとしていない。
本来全てのブロガー・サイト運営者に与えられる機会や恩恵を、奪っていると言ってもいい。
はてブをメディアとして使っている俺からすれば、今はノイズだらけだ。たまにノイズが入る、そんなレベルじゃない。
身内同士でブクマし合っていても、同じジャンルの他の記事に対してもブクマするならば、最終的に本当に良い記事がはてブには残るはずだ。
現状がそうではないから、俺は許せない。
利用者がサービスの理念を考慮するのも少しおかしいが、はてなブックマークの3つの特徴の1つ、「共有」の項目を抜粋する。
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はてなブロガーたちが、身内の記事を互いに山ほどブクマしてようがどーでもいい。
それをすれば、俺は許す。俺は。
やはり絵が綺麗というだけで動かすとまるで本当に異世界があるかのような錯覚をキメることができるので
ゲームに美麗なビジュアルというのは面白さに直結してくると思う
前作は未プレイ
予定もない
言いたいことはそうではない
ニーア オートマタはアンドロイドや機械がメインキャラということで
そういえばオートマタという映画があったなとネタバレ記事を検索して読んだ
端的にいうとつまらないらしい
この手のシンギュラリティや人工知能をテーマとしたSFは鬼門だと思う
登ろうとすれば死ぬ
なぜなら作者である人間の頭脳ではどうやっても人間を超越した知能を描写することが不可能だからだ
漫画の登場人物に天才がいてもその天才の頭脳の上限は作者と同じっていうアレだ
だからSFでAIそのものをテーマにした作品に当たりが無いのは当然ともいえる
AIをテーマにしてるようで、実はロボットと人間のハートフルがメインになっていてそこが評価される作品は多々あるが
AIの「人類を超越した知能が引き起こすシンギュラリティ」を本当にメインに扱って評価されている映画は1つもない
あれにしてもスカイネットが人類に反乱を起こした理由に説得力がないし、
何を基軸にして人間と対立しなければいけないのかというのがあやふやにされやすい
狂っているとしたら自己修復できないでAIとしては未完成ではないかという本末転倒な設定もある
だいたいこの手の作品で描かれている人工知能は、現実にある人工無能をちょっと賢くしたバージョンでしかない
ここに作者が人間であることの限界を感じて、のめり込みにくくなるのがAIをメインにした作品の残念なところだと思う
逆に、AIはどれだけ科学力が進んでも作れなかった、という設定のSFだとまだ人類の知恵に有用性が残されているため
冒険が残る世界を描きやすくなると思うので安易にAIを出すのではなくそっち方面で開拓していってもらいたい
そうではない
また話がそれた
とにかくニーア オートマタが機械同士の争いになるということで
プレイヤーである自分がどこに視点をおけば一番楽しめるのかという話だ
警戒している
というのも先に述べたようにAIが間違いを犯さない超越した知能を持っているという見方をすると
もちろんAIには性能差があるだろうからキャラクターが設定できる余地はある
オートマタがどういう物なのかも分かってない
でも機械というのは本来作られた段階からできることが決まっている存在なのだ
厳密にいえば人間にも当てはまるが人間には運命を決める選択権が備わっているので平行世界を渡り歩く権限があるため冒険性が必ず内在する
しかし機械には投げた石の落下地点が計算できるようにたどる結末には変化がない
そういったことを前提に見てしまうニーア オートマタをどういった角度から見れば楽しめるのかを考える
神の視点からか、ニーアの視点からか、ポットからか、はたまた…
登場人物に自分の感覚を重ねることで異世界にいき、異世界の出来事として受け止めることが没入しやすいと思う
こういうときに感情移入しやすいキャラというのはいてくれた方がいいと感じる
出なければ神の視点では人形劇を見る私、で異世界にいけなくなるからだ
住人Aというのも難しい話だろう
とにかく人工知能ネタはロマンもあるけどそれだけに冷めさせるトラップが潜んでいるので気構えというか、気苦労もある
えー、とにかく楽しみにしています
基になったのは、有用な論文は多くの論文に引用されている、という気づきだ。
このアイディアを基に、有用な情報は多数のページからリンクされているという仮説を立てて、それを検索順位に反映するアルゴリズムをGoogleは作り出した。
誰もが自分のサイトに載せている情報の専門家であった天国の様な時代には、それで良かったのだ。
Googleの検索順位付けは素晴らしく、当時のYahoo!の様なインデックス型の検索エンジンを瞬く間に駆逐した。
しかし、そのアルゴリズムを悪用して中身のない広告ページが検索順位の上位に現れるということが起こる様になった。
つまり、役に立たない広告ページが狙ったキーワードで検索上位を占めるという現象だけ見ると、それはWelq問題が起こるはるか前から起こっていたことなのだ。
Googleはその度にアルゴリズムに変更を加え、悪質なサイトを排除してきた。そしてGoogle自ら、健全で中身のあるウェブサイトのガイドラインを公開してきたのだ ((ウェブマスター向けガイドライン(品質に関するガイドライン) https://support.google.com/webmasters/answer/35769?hl=ja)) 。
それは、天国で生まれたGoogleにとって、顕現してくる地獄に引き摺り下ろされるような苦痛を伴う作業だったのではないかと思う。
それまで悪質なサイトで行われていたのがGoogleのアルゴリズムの隙をついて検索順位を上げるブラックなものだとしたら、そのガイドラインに沿ってサイトを作り検索順位を上げることはホワイトな行為だと見なされてきた。
間違えてはならないのは、Welqをはじめとしたキュレーションメディアはそのガイドラインに沿った『ホワイトな』コンテンツ作りをしてきたという点だ。たとえそれが倫理的に劣る行為であったとしても。だからこそ、Google検索で軒並み上位を占める結果を出したのだ。
ここでGoogleはまた、キュレーションメディアのスパマー達(あえてこう言わせてもらう)とのいたちごっこのスタートに引き摺り下ろされたのだ。Googleの検索アルゴリズムは変更を余儀なくされるだろう。
だが、今回の件は『倫理的に劣る行為である』という点から火がついた。そこをカバーする新アルゴリズムというのはどんな姿になるのだろう?機械が人間の倫理を理解するには、まだ早すぎはしないだろうか?人間が考える倫理を機械に明け渡してしまうことは、本当に正しいことなのだろうか?それは地獄へ続く道ではないのか?
おそらくそれよりは、信頼できるドメインが信頼できる情報を発信しお互いにリンクし合うという、かつてGoogleが生まれた時に存在した天国を再び目指すべきなのではないだろうか?
いや、本当はそんなことは出来はしない。時間の針を逆に戻すことなど誰にもできやしない。それに、機械が判断した『正しさ』を鵜呑みにして生きることだって、多分そんなに悪いことではない。
自分が正しいかどうか判断できない情報を目にした時、それの『正しさ』を保証してくれるのが機械だろうと人間の専門家だろうと、信じることができればどちらだって同じじゃないか。自分の頭の中身がいつの間にか機械にすり替わっていたとして、それに気付ける奴なんてどこにいるんだ?
僕が小学生になった頃、ポケットモンスターというゲームがなにやら凄いという話題が飛び込んで来た。
当時、幼稚園から上がりたての僕はゲームボーイという言葉すら知らず、小学校のクラスメイトが色に染まっていくのをただ見ていた。熱中しすぎて、ゲームや攻略本を学校に持ってくるクラスメイトが続出、それを先生が凄く怒ったのをとてもよく覚えている。
そして上級生や同級生、男子女子に関係なくポケモンを買い始め、周りが学校の休み時間なんかでポケットモンスターの話題しかしなくなった頃、とうとう耐えきれなくて親に買ってもらった。
それは電池が4つも必要なごつすぎる白のゲームボーイと、近所の中古屋で買った赤。買ったときは誇らしくて、既に周りのポケットモンスターの話を散々聞いていたから、すぐにその世界に入り込めた。
どこからか伝わってくる裏技によるミュウの出し方、152匹目のケツバンの存在、そんな噂が常に僕らのコミュニケーションだった。
1つでも多く知っている奴は皆のヒーローで、もっとも僕は1つも知らなかったけれど、それでも自慢をしたかったのかイワヤマトンネルをフラッシュなしで通り抜けたことを誇らしく言っていたのを思い出した。
けど実際には秘伝マシンの在処を分からなかっただけだった。(その後友達に教えてもらった。)
ある時、誰かがレベル100にする裏技を普及してたちまちヒーローになった。
それを僕自身も教えてもらって、いきなりキャタピーに使ってしまってトランセルのレベル100とか不毛なことをしていたけれどもさらにポケモンの魅力を知れたような気になって凄く楽しかった。
子供ながら「もし皆の知らない裏技を開発すれば(知れば)ヒーローになれる!」という射幸心も芽生えた。
そんな時に偶然にも親戚同士の集まりがあり、同世代の従兄弟からポケモンの裏技を教えてもらった。彼の住んでいる地域では皆がそれを知っていると彼は言っていて、それはアイテムを増やす裏技だった。
それを早速クラスに持ち帰った僕はたちまちヒーローになった。ポケモン博士なんていう誇らしげな、今から思えばかなり恥ずかしい渾名も付けられたのを覚えている。
最終的にあのブームはどのくらい続いたんだろうか、覚えていないけれどコロコロでの連載やアニメ、新色のブルーとイエローが新しく出たりして、かなり長く続いたはずだ。
その数年後、ゴールドとシルバーという続編も出てそれも買ったが、僕自身はそこまでハマることはなかった。
一部には流行していたと思うけれど、皆が買っている空気はなく(少なくとも自分にはそういう風に見えた)、例えば育成屋を使ったピチューの出し方とか、ムウマのかっこよさとか、あの人物は前作の主人公だとか、それなりに楽しい話題は詰まっていたと思うけれどなぜか前作ほどの面白さを感じることは出来なかった。
もしかしたらその頃には既にゲームという服が自分には合わなくなってしまっていたのかもしれない。
それから時代は流れて僕が小学6年生頃になってくると、どこの家にも1台は家庭に使えるパソコンが普及し始めて、自分の家も漏れることなくパソコンを買い、インターネットが身近になった。
そこでかつて僕らの皆が狂乱したポケモンについて調べてみた。
試しに「ポケモン 裏技」と検索をしてみると、あの時に喉から手が欲しかった情報や流行の全てがそこに詰まっていた。
それを見た時は何も感じなかった・・・・・・いや、感じたことが1つだけあった。それは、「つまらない」だった。
昔あったあの僕らのコミュニティが、見えない大多数に踏みにじられたような、そんな寂しい気持ちがした。
もちろんポケモンの情報をまとめるHPとして内容を否定することなんて出来ないし、情報は確かで有用なはず、しかし一目見た時に確かに感じたのだ、「つまらない」と。
僕らの世界は、知りたいと思えばすぐに知ることが出来る環境を手に入れ、一生会うことの出来ないないくらいの多くの人と何時でもコミュニケーションが出来る時代になった。これからも世の中は技術革新も相まってどんどん便利になり、世界の人間交流も広がり続けていくのだろう。インターネットが家庭に普及し始めた頃の小学校の先生は、グローバルというのは凄く魅力的なことだと言った。
でも自分はポケモンの裏技が網羅されたHPを見た時に感じたのだ、もしかしたら人々の便利にするはずのグローバルとはとても寂しいものなのかもしれない、と。
現在でも、グローバリズムの賜物なのか近所の物販店が競うのは、かつて争っていた近隣の他店舗ではなく、日本だけでない世界のどこにあるのかもわからない激安通販店。
仕事等で相手にしなくてならないのは近所の顔見知りでなはく、世界のどこかにいる姿形を見たことない相手。
そのおかげで、僕らは以前では考えられない程の良い物が安い値段で物が手に入るようになり、土地が近いといって煩わしすぎる人間とのコミュニケーションを無理に強いられなくなった。
確かに、世の中はかつてなく便利になったし、実際に僕も大きく助けられている。そして、これからも今以上にどんどん便利になっていくのだろう。
そしてその流れを誰も止めることが出来ないことも、誰もが心の底では知っている。
去年、世界で起きたBrexitやトランプが大統領になるのは反グローバルだとメディアが騒いだのを見て、もしかしたらその決断を導いた彼ら彼女らの心の奥底にも言えないような寂しさが隠れていたのかもしれない、とーーーーーふと思った。
詰将棋のアプリなんだけど、詰将棋という苦痛が伴うものの勉強法として、かなり優れていると思った。
①他の人が解いたコメントが見れる ←かなり面白い。ニコニコで動画にコメントがついてるようなもの。
②1作ごとにタイトルがついている ←大量の詰将棋が載っている本にありがちな「無味乾燥な作業感」が無くなるためよい。自分ならどういうタイトルをつけようと思える。いうなれば、ボケてみたいなもの。いいタイトルだと、解く楽しみが増える
③作者の顔が見える ←作者コメントが付くし、作者の作品を連続して解けるので、詰将棋作家側の感情も見えて面白い。
これって、大量暗記系にはかなり有用な手法なんじゃないかと思う。
特に、①な。多くの参考書は、嘘でもいいから、コメントねつ造しておくと、学習者にとってかなり励みになるんじゃないかと思ったw
今ようやく引用とか出典の明記だとか言い始めてるのを横目で見つつ、世の中にはその程度のリテラシしかないやつが大半を占めている、という事実を改めて突きつけられて愕然としている。
出典やら根拠は、自分で判断するために提示されてるんだよ。自分で判断できないWELQで満足してたようなやつらは、出典や根拠が提示されたって自分で判断できないんだよ。
あんなもの信じるようなやつはインターネットするなとしか言えないだろ。もう免許制にしろ。
WELQなんか、問題にするまでもなくただのジョーク記事だろ。ジョーク記事を信じるなよ...
あとはブラウザさん、頼むからクソみたいなインターネットから、検索した知識に対する、大本営発表とそれの解説と、有用な視点からの感想や意見を分類して自動で情報を編纂してくれ。もう、必要な情報が見つからなくて結局論文読んでるみたいなのから脱却したいんだ。
ソフトバンクのオプション強制はある程度予想していたけど、今回は酷かった。
今まではオプション強制と言いつつ、「今まで無駄なオプションに入ったことないんですけど!」って強く言ったら乗り切れたんだけど、今回は無理だった。
強制されたのは以下のとおり。
http://www.softbank.jp/mobile/price_plan/sumahodai/
電話はほとんどせず、するとしても家族(全員ソフトバンク)の父親は圧倒的にホワイトプランのが有利。
店員「こちら初月は必須となっておりまして、1月以降の変更となります~」
自分「家帰ってすぐにMy Softbankで変更することはできないんですか?」
店員「変更が適用されるのが1月となっておりまして、それまでは変更できません~」
自分「それって、1月分は高いプランが適用されるってことになるんですか?」
http://www.softbank.jp/mobile/campaigns/list/kisyuhen-sakidori/
月額300円払えば、1年で機種変できますよ、というオプション。
今までiPhone5をずっと使いつづけてきた父親には全く不要。
店員「こちら必須となっておりまして、一月無料となっておりますので、来月以降またご来店いただければ解約いたします~」
自分「どうせ家帰った瞬間解約するんで、外してくれませんか?店にこなくてもMy Softbankで設定すれば解約できるの知ってるし、どうせ私がやる羽目になるんで、手間を少しでも減らしたいんですけど。」
店員「初月無料なのでその間にじっくりといるかいらないかをご判断いただければ~」
自分(聞いてねぇ)
それにしても必須必須ばっかり言ってどんなオプションなのかをちっとも説明しないのはひどいと思う。
1ヶ月間加入したら店のインセンティブになるのは知ってたので、帰宅即解約。
http://www.softbank.jp/mobile/service/kihonpack/iphone/
「基本」と名がつきながら不要なサービスばっかりを集めたパック。
ソフトバンクで料金が高い人の原因はだいたいこれ。
紛失ケータイ捜索サービスとか「iPhoneを探す」があれば全く不要。
迷惑電話ブロック機能とかつけるよりも、迷惑商法をストップしてほしい。
スマ放題にすると有料の留守番電話プラス(月額300円)に入らないと留守番電話が使えないので気をつけましょう。
こちらも即解約。
http://www.softbank.jp/mobile/service/personal-karada-support/
いらない。
http://www.softbank.jp/mobile/service/global/america-hodai/
アメリカ滞在時に指定されたネットワークを利用すると無料で通話できるサービス。
一見有用そうだし、無料なら…と思いがちだけれども、見逃したらだめなのは「キャンペーン時に限り無料」だということ。
http://www.softbank.jp/mobile/service/smart-login/
店員「Yahoo!のサービスを使えるように、初期設定させていただきますね~」
店員「お使いにならないのであれば、名前とか入れなければ大丈夫ですよ~」
これ、i.softbankのメルアドで勝手にYahoo!ID作られてるんかな?
受け取ったあとYahoo!へのショートカットがずらずらと作成されてて気持ちわるかった。
バックアップから復元するために初期化したんで、無意味なんですけどね。
http://faq.mb.softbank.jp/detail.aspx?cid=81545&a=101&id=81545
調べたら目立ったデメリットはなさそうだけど、とにかくソフトバンクの無料オプションは信頼できないので一応解約。
「他の店だったら、オプション入らなくても契約できたんですけど!」とか結構強めに言ったけど、「それなら別の店に行ったら?」みたいな雰囲気で、別の店に行くのも面倒くさかったので今回はあきらめた。
一番笑ったのは帰ったあと契約書をよく読んだら「ソフトバンクではオプションの強制加入など抱き合わせ商法は行っておりません」の文字。
あれが抱き合わせじゃなかったら何なんだ。
・いきなり全部非公開は勘弁願いたい。
問題のない、ブログ的記事や調査記事的な有用なまとめも数多くあるのだから閉鎖する場合は、livedoorブログや他のブログサービスなんかに記事を移せるフォーマットを用意してもらいたい。
・続けるなら、やはり削除受付、特に画像の削除はもっと簡単に引き受けるべきだろう
個人で簡単にアカウントをとって投稿できる分、問題のあるものも増えるのだから、YouTubeやニコニコ動画、twitterなんかと同じくらいにしっかりした削除体制を作るべき(比較して他がしっかりしてるか知らんけど)。
・まとめへのコメント欄を復活させよう
あくまでプラットフォームを名乗っているのならば、ユーザー同士の交流を促進させるべき。まとめ記事への批判、クレームを直接制作者にも伝えられる場を用意するべき。
現在は、プロフィール書いていないアカウントには、運営経由でしか話ができない。以前あったコメント欄を復活させよう(なんでコメント欄を廃止したのかも分からない)。
最近、教師とか医者とかの「先生」と呼ばれる人達が「人の心がわからないのか!」みたいなことをやらかして…ってのが続いてる…
でも…生徒の心とか子供の心とか…患者さんとか女性とか…相手の気持がわかるような人では「先生」なんて続けてはいられないんじゃないかと…最近 思えてしょうがない…
イジメられている子の心に寄り添って…でも有用な解決策が見いだせなくて…と…それでは…先生の方が心が壊れる…ような気がする…
そんなことになってしまう方もいるだろうけど…たいがいは…「気にしない!強い心を持って!負けるな!そんなことはたいしたことじゃない!」とか加害側にではなく、被ってる側に我慢を強いて…やり過ごそうとする…それはわかろうとしないから言えることみたいな気がする…
後ピンみたいにはなかなか…
ついでにw
例外ってあるじゃろ。tryしてる間にthrowされたのをcatchするアレじゃ。あれは、たしかに有用な仕組みじゃ。何かの関数に失敗したとき、本来の値のかわりに特定の値を返すのもダサいし、参照型の引数で成功したか否かを返すのもダサい場面、というのは確実にある。そもそもプログラマは怠惰で忘れっぽい生き物なので、例外という仕組みがなければ、関数で失敗したことにすら気づかないかもしれない。
だがな。例外は魔物じゃぞ。昔は、gotoというものがあってだな。好きなところに処理を飛ばすことができる。あまりに、いろんなところに飛ばせるので、邪悪だと言い出した奴がおって、今ではあまり使われなくなった。なぜgotoが邪悪と呼ばれたか。gotoというのは、順接、分岐、反復という、プログラムを組む上で最低限必要な制御構造から逸脱した、どっかからどっかに飛んでいく、という行為が容易にでき、それを多用したコードはまともな人間には読めなくなるからであった。そして、例外は、まさにその「どっかからどっかに飛んでいく」を容易にするための仕組みなのじゃ。
例外は、順接、分岐、反復による基本的な制御構造があった上で、あくまで対処を要するアブノーマルな状況に使われるべきものであり、例外というのは、制御機構として使ってはいけない。値を返す目的で例外を使ってはいけない。一体どこから来て、どこへ行くのか分からない、そんな、流れ星のような例外の使い方をしてはいけないのじゃ。例外を使うなと言うつもりはまったくない。じゃが、例外は制御構造を壊しうるものだと認識し、例外を悪用していないか、それによってコードが追えなくなることはないか、と、考えてから、使ってほしいのじゃ。
イベントの悪用も見た。イベントは非常に有用な仕組みだし、GUIなんかだと、もはや必須とも言える。なので、イベントを使うことは有用なことだ。けれど、イベントは、いつどこで発生するか予想が付きづらいものが多く、また、スレッドなどを使って非同期でイベントが処理される場合(今時は、多くがそうだろう)は、マルチスレッドと同じく、リソースの排他制御を行う必要があるかもしれない。複数の処理が同時に動くというのは、恐ろしいことなのじゃ。いつの間にか、変わってないと思ってた変数が途中で変わるやもしれない。「まー、滅多に起こらないし、ええじゃろ」って判断の上、何も対策しない、という手もあるが、ええじゃろで済むのか済まないのか検討するくらいは必要じゃわな。C# なんかだと、言語レベルでイベントが実装されておる。じゃから、イベント必要ないじゃろと言いたくなるような場面で、イベントが使われていたコードを見た。
便利な仕組みがどんどん出てきて、新しいものがどんどん古くなる今のコンピュータ業界。新しいものを追いかけるのもいいが、基本は基本として、しっかり押さえて欲しいのじゃ。今更、アセンブラでゲームを作れるようになる必要なぞ、微塵もないが、自分のコードがどのように動くのか、興味をもってほしいのじゃ。わしのような新しいものに不勉強な老害は、最近の若いものが基本的なことを不勉強だからこそ、居場所があるのじゃ。じゃが、わしももう長くない。若いもんは、新しい仕組みの表面だけでなく深い部分に触れて、学んで、わしら老害を追い出せるくらいになってほしい。わしからは以上じゃ。
いったん見たり読んだりしたらそれだけでおしまいなところだと思う。
「こんなバカがいるぞ!」
と晒されれば、そのブログの過去記事やそれ以降の記事なんかチェックされず、
ただひたすらバカとして叩かれまくる。
その記事がたまたま曖昧だったり、よくわからなかったり、ある種の人々の癇に触れるようなものだったら即アウトだ。
それ以外の記事でいかに誠実で、理知的で、有用なことを書いていようが無視されて、
一発で「こいつはアホ」だとインターネットで晒されて消費される。
仮に著者が「ああたしかにあの記事はよくなかったかもしれないな」と反省してちゃんと弁解してももう遅い。
余程話題になった人か、有名人がやってるのでもないかぎり、継続してそのブログをチェックする人なんていないからだ。
誰の話をしているというか、有名はてなーであるコトリコさんの話だ。
先日、彼は
戦争と敗戦ですごく傷付いてたんだって認めたほうが良い気がする - 山下泰平の趣味の方法
という記事を書いたのだけれど、これを読んだ人たちが起こった。
ざっと読んだだけだけど、この国が主にアジアの人たちをたくさん殺したりいろんなものを奪ったんだという加害の視点が全くなくてひどい。/戦争と敗戦ですごく傷付いてたんだって認めたほうが良い気がする
戦前の加害責任にあまりに無頓着だったので80年代ごろから自省的な視点が出てきたって流れを正反対に語ってる。戦後の歴史まで修正されるというわけか。
何を元に書いた文章なんだろう。
要するに、コトリコはネトウヨに与する糞野郎だと思われたわけだ。
たしかに当該記事は全体的にふんわりしていて、論旨がわかりにくい。
コトリコさんは最初、自身のtwitterで「日本語の読めないクソ野郎が」みたいな感じで怒ってきた人たちに対して怒っていたけれども、
自分でも何か思うところがあったのか、そのあとでそのツイートを削除し、新しい記事を立てた。
箇条書きにしているので、言いたいことがわかりやすい。
わかりやすくしたところで、怒ってきた人たちは「いや、私たちが怒ってるのはそういうところじゃないんだよ」と反論してきて、
コトリコさんも「やっぱりあいつらはクソだった」と爆怒りしそうだけど、
それはそれでいいんだと思う。
コトリコさんはえらい。
怒られて、一旦ぶちぎれたのに、
「そんなつもりじゃなかった、というのは全然弁解にならない」という論法が流行っているけれど、
たしかに差別とかはそういう面があるけれど、なんでもかんでもその論法を当てはめるのは極端すぎる気がする。
相手が歩み寄れる徳と知性を持っているなら、「そんなつもりじゃなかった」を聞くのも悪くないんだ。
「そんなつもりじゃなかった」相手に傷つけられた、ということは、自分の気持をわかってもらえなかった、ということでしょう?
自分の気持をわかってもらうために、相手の気持ちも聞きにいく、というのはコミュニケーションのあり方としては常道なんじゃないんですか。
そもそも「そんなつもりじゃなかった」という人の八割は
「ナイフで刺したら漠然と相手が大怪我するだろうな、とは考えてたけど、死ぬまでとは思わなかった」
みたいな人です。
程度問題として「そんなつもり」じゃなかったのであって、「それがナイフだとは思わなかった」とはまず考えていない。
「ナイフだと思わなかった」と弁解する人はほんまもんのバカか、うそつきです。
そういう意味において、コトリコさんは「そんなつもりじゃなかった」とは言っていない。
「おれの持っていたコレを見て、ナイフだと怯えていた人が出てきたけど、俺的にはコレはカステラです」
と淡々とそれがカステラである理由を補強する特徴を述べているにすぎない。
誠実だと思う。
それを読んで、「なんだやっぱりこいつはナイフをカステラだと勘違いしてる狂人じゃないか」と考える人も出てくるだろう。
コトリコが持っているものがナイフかカステラかの判断はどうつければいいかは、まあ、読んだ人とコトリコさんの問題だ。
でも、コトリコさんを批判してた人はコトリコさんの新しい記事を読まないんだろうなあ、と思う。
たぶん、みんなコトリコさんのブログを初めて読んだ人で、twitter で「こんなバカがいる」とそれまでの自分の経験に基づく類型に押し込めて消費して、
まあ、それは敵にしろ味方にしろバカばっかり相手にしてきたせいで、
それはそのとおりだとおもう。
でも、そのバカがこちらの気持ちを慮って行動を取ってきた場合、
それは誰でもわかっていることなんだろうけど、
いったんバカと認定したらその人間の言葉は永遠に聞かないでいいことになっている。
誰が悪いわけでもないけれど、
病んでるな、と思います。
掛け算も足し算も順序はある派。
x+dxをdx+xとか書かれたらキレる。
掛け算も、小学校のルールと逆順に書くときは、「掛ける数は演算子」だと認識するようにしている。
「3.9+5.1=9.0」は減点対象 小学校算数の“奇習”が議論に
これも「9.0は減点」に賛成派。「有効数字ガー」とか言ってるバカがいるが、有効数字を考えるなら、例えば「3.9+5.01」なら8.9を正解にして8.91は不正解にしないと整合性が取れない。算数じゃなくなる。
畢竟これらの議論は、「数学的に同値だが形式的に異なる記述について、それらに異なる文脈的意味を持たせたり、一方のみを「適切」とすることにどれほどの理があるか?」という問題に帰着する。この観点を持つと、「理あり」とされているものは実は多くあることに気づく。
たとえば分数の約分。ふつう最終的な解に「2/6」と書けば減点対象だ。(でも、この書き方だって有用性はある。ピザを6等分した後なら「ああ二切れ分だな」とすぐわかるが、「1/3」だとわからない。)
小学校なら「帯分数」とかいう謎の書き方もあった。あんな奇妙な書き方、中学校以降で書いた覚えがないのだが、小学校少なくともある時期は「5/3」というような答えは減点対象だったと記憶している。
こういった「既約分数で答えよ」「帯分数で答えよ」という暗黙ルールは、「足し算・掛け算はこの順序で書け」「小数点以下の0は省略せよ」というのと本質的に同じだ。数学的に同値な書き方のうち、一方をなんらかの意図で強制させているのだ。
どのルールにも、それを強制する意図がある。「約分できることに気づかせる」「5/3は1+2/3であることを理解させる」「かける数とかけられる数、という役割の異なる数字があることを認識させる」「なるべくシンプルな形で書くことを心がけさせる」など。それに意味があるかないかは、教わった小学生たちが決めることだ。小学生たちから「自分で判断する」ことを奪っちゃいけない。
ネットに渦巻く算数教育への批判には、なんというか愛がない。小学校教員の知性への信頼も、小学生たちの知性への信頼も、全然ない。「こんなことを教える先生は頭がおかしい」「小学生にはこんな教育は混乱を招くだけだ」。そんなはずはない。先生だって交換法則くらい知っている。
小学生にも、もっと自分で考える力があるはずだ。「掛け算は交換法則が成り立つが、割り算では成り立たない。なぜか?」「かける数とかけられる数には違いがあるのか?」こういった問いかけに、自ら考えさせることこそ教育だ。子供が持ってきた答案用紙に×がついているのを見て、「先生が間違っている」という「答え」を教えてはいけない。「君はどう思う?」と問いかけることから教育が始まる。