「まあオレが何も言わなくても、放送局か広告代理店にマトモな奴が一人でもいれば、そこでストップはかかっていただろうがな」
「でも今こそ向き合ってみませんか、この“幻の10話”と。頑張って作ったものが日の目をみないなんて、クリエーターには残酷なことでしょう」
父が“幻の10話”をリリースしようと言い出したのは、関わったスタッフたちへの贖罪もあったらしい。
その感傷的な語り口調に、場は決定へと傾きつつあった。
「わっはっは! オレはどうやら学級会に迷い込んだらしいな。ヴァリオリは子供向けかもしれんが、作ってるオレたちは大人の筈だぞ?」
しかしシューゴさんの露悪的な笑いは、その空気を一瞬で掻き消した。
「作ったものが日の目を見ないことなんて、この世界じゃあ日常茶飯事だ。世に出たとしても、不十分で満足できないことだって珍しくない。それに日の目を見ないことよりも、もっと残酷なことがあるだろう?」
「え……?」
この10話をリリースすべきでないことを、シューゴさんは何度も説明した。
非常に重たくて、手間のかかるデザイン。
そうして頑張って作っても視聴者は評価してくれず、誰も得しない。
“客にとっては目の前に出された料理が全てで、厨房の裏事情など知ったことではない”のだと。
「最近この業界は優しくなったが、打たれ弱いアニメーターも増えた。そのくせ“世間からの評価”という残酷さはそのままだ。いや、そういった意見は現代の方が可視化されやすいから、むしろ酷くなってるかもしれん」
「酷評されること前提で語るのはやめてください。そうならないように作るのだって我々の仕事でしょう」
「ほぅ、“コレ”を俺たちで手直しするのか? するってぇと、最終的な出来は、この資料とは掛け離れるだろうな。原形ないものを世に出して、それで関わったスタッフたちへの感謝になるとは思えんがな」
主張は乱暴でありつつも、現場の最前線に立つシューゴさんには説得力があった。
上役を幾度となく説得してきた父のエモーショナルな語りも、彼の前では形無しだ。
「今さら寝た子を起こして結果が散々だったら、それは“感謝”という名の“公開処刑”になるんだぞ」
シューゴさんの言葉を聞きながら、新旧スタッフは“幻の10話”の資料を読み返した。
彼らはたまらず身震いをした。
「奴らの努力を無駄にしたくないってんなら、それこそ“無駄のままにしてやる”のが、せめてもの温情……ってオレは思うけどなあ~」
結果として、彼らのいう“激動”は、何も変わっていないまま終わった。
だが、そこには“変わろうとする跡”が確実にあったんだ。
何も変わっていないからこそ、“激動の跡”がより鮮明に見えるってことさ。
……と、まあ、それっぽくはまとめてみたものの、この話には残念な点がある。
実をいうと、この出来事自体がどこまでが本当で、どこまでが嘘なのか分からないんだ。
「で、最終的にシューゴさんのタバコでボヤ騒ぎが起きて、資料は全部燃えてしまい……」
「おい、話を盛るにしても、もう少しマシなこと言え! タバコなんぞ吸ったことねーわ」
なにせ父たちが呑んでいた時、断片的に聞いた話だからだ。
その時に飲んでいたのが、悪酔いしやすい安酒だったから尚更である。
シラフの時に尋ねても、コンプライアンスがどうとかで話してくれない。
なのでこの話はどこかが過剰か、或いは不足している可能性がある。
或いは“幻の10話”の如く、そもそも存在していたのかどうか。
「もし“幻の10話”に、オレの指摘したリスクよりも大きなリターンがあるなら、封殺されるのはオレだったろう。オレのことをよく思っていない上役は、当時からたくさんいたしな。だが結論は、そういうことだ」
こうして、そのエピソードはお蔵入りとなり、“幻の10話”は幻となった。
「10話の放送は、本来11話だったものを修正して話の帳尻を合わせ、それを10話として放送することで事なきを得ました」
とはいえ「事なきを得た」という解釈は、あくまで側面的な話だ。
この“幻の10話”に携わったスタッフたちは、そうは思えなかった。
「そりゃあ、あいつらからすれば不服だろうな。理由があるとはいえ、せっかく作ったものを全部なかったことにされたんだから」
この出来事は彼らから反感を買い、シューゴさんとの間に不和が生じた。
「きっかけはオレの一言だろうが、実際このエピソードに不備があることは、最終的に誰もが認めるところだ」
だが、「シューゴ監督のワンマンぶりが、自分たちの努力と熱意の結晶を砕いた」という印象が強かったのだろう。
「界隈から“ちゃぶ台返しのシューゴ”って呼ばれるようになったのは、その頃でしたっけ」
「あの件を、オレのワガママみたいに言われるのは不服だがな。オレだって、飯に虫が入ってなけりゃあ慌ててひっくり返したりはしねーよ。ましてや後始末はこっちがやってるんだぞ」
「あの時の判断は間違っていなかったと今でも思う。けれどバツの悪さは否定できない。結果としてこのスタジオはシューゴさんと、従来の制作スタイルを選んだ。一作品の一話のために、一部のスタッフを追い出して……」
残った旧スタッフが気まずそうにしていたのも、それが理由だった。
脚本だけではない。
“幻の10話”に携わったスタッフは、そのほとんどが聞き馴染みのない者だった。
つまりシューゴさんなしの、代理スタッフで構成されているってことだ。
「珍しく休みをもらってな。まあ、有給を消費させたかったんだろうが」
それはシューゴ監督の負担を減らすことは勿論、彼なしでクオリティを保障できるかという試みでもあった。
本作の要がシューゴさんであることは確かだが、同時にリスキーな人物であることも確かだったからだ。
彼の気難しい性格と、遠慮知らずな言動は、過去の公式ブログやインタビューなどで遺憾なく発揮されている。
ヴァリオリという知的財産を太く長くしていきたい企業にとって、このまま彼に依存して制作し続けることは避けたかったんだ。
しかし、その試みが失敗に終わったことは“結果”が何よりも物語っている。
「で、休み明けに見せられた資料が“このザマ”ってわけだ。そりゃ反対するだろ」
そういう視点で資料を深く読み込んでみると、確かに歪な点が散見された。
「例えば、この新キャラクターだ。なんだよ、この宝塚みたいなデザイン」
インディーズバンドのライブハウスに、一人だけトップアーティストが参加しているような浮きっぷりだ。
「もし大衆にウケるとしても、誰が描くんだよ。主要人物だから、これからずっと描くんだぞ? こんな線の多いキャラ動かせんのか? アニメは作画じゃなくて動画なんだよ」
メインの視聴者層を無視して、変に凝ったテーマを描こうとしている。
「だから言ったんだよ。“別にオレなしで作っても構わんが、この出来じゃあ炎上するぞ”って」
むしろやる気に満ち溢れていたことは、資料の書き込みを見れば分かる。
ただ、それがどうにも空回っている印象だった。
コミカライズにノベライズ、関連性のないゲームとのコラボなど。
様々なマルチメディア展開がなされ、ヴァリオリは“出せば売れる”存在となった。
募っても見向きしなかったスポンサー達は、今では頼んでもないのに「出資させてくれ」と言ってくる。
その場しのぎで作られた低予算アニメは、名実共にスタジオの看板作品となったんだ。
さて、話を現代に戻そう。
そこに浮上した、「幻の10話」という余白。
それは一体なぜ“幻”となったのだろうか。
「珍しいな~」
「というより初めてじゃないですか。ヴァリオリに脚本なんて」
現在でも、このアニメシリーズは脚本なしでストーリーを作られている。
しかしスタジオが大きくなった現在でも、基本的な制作スタイルは据え置きである。
「可能な限り自社で作る」、「脚本なしでストーリーを考える」ことがヴァリオリの作風を支えるとされているからだ。
そこにきて、この“幻の10話”には脚本があるのだから、気になるのも無理はないだろう。
「オレに脚本なんて書けるわけねーだろ」
「え、じゃあ誰が書いたんですか。ムラタさんとか?」
「違う、書いたのはモトマスだ」
こうして何とかヴァリオリは「とりあえず見れる作品」として世に出た。
この国で初めてアニメが放送されてから、脈々と受け継がれてきたリミテッド・アニメーションの粋を集め、低予算でありながら完成に漕ぎ着けたんだ。
スポンサーがいないため、外部からの横槍が入ってこなかったのも不幸中の幸いだったといえる。
料理をプロが作っても、レシピ自体に不備があったり、素材に支障があれば美味しくはならない。
それでも「腹がふくれればいい」、「腹に入れば一緒」だと言って飯を作る人だっているんだ。
だから携わったスタッフたちは、誰も本作に期待してはいなかった。
どこかで見たような世界観やストーリー、キャラクターデザイン。
作画は崩れていないのに、見てるとなぜか不安になるビジュアル。
それらを独特な演出でまとめあげた(誤魔化した)怪作だった。
完成させることに必死だったので、監督のシューゴさんすら魅力を説明できない。
しかし、その後の展開は多くの人が知るところだろう。
ある時期から少しずつ“流れ”が変わっていったんだ。
ネタ半分の評価は、口コミで視聴者が増えていくにつれて正当かつ磐石なものへと変わっていく。
インフルエンサーもこぞって首を突っ込み、賞賛や逆張りの意見で盛り上げた。
一部の評論家は「良作の条件は揃っていた」と後出しジャンケンをする。
有象無象は自己欺瞞のボード片手に、こぞってビックウェーブに乗ろうとした。
“流行るべくして流行った”という必然か、“流行ったから流行った”という偶然か。
何がどう作用したのか、何が決定的な出来事だったのかは未だ判然としない。
確かなのは、“ブームになった”という“事実”と“結果”のみだ。
絵の部分においても徹底された。
キャラクターデザインは線を少なくし、左右対称が基本。
背景を減らすため、キャラクターのアップを増やして誤魔化した。
作画ミスが起きそうな箇所は、作監を兼任するシューゴさん自ら担当する。
移動シーンは上半身のみ、キャラが動かない場合は画面や背景を動かす。
普段から多用されている技術はもちろんのこと、その他にも様々な演出を駆使した。
「このシーン、かなり独特ですね」
「継ぎ接ぎなんだけど、あえてそうしているようにも見える」
「昔のインディーズ映画では、低コストで印象的なシーンを作るために、こういった手法が多用されたんだよ。『ヌードル・ハンバーグ』くらい知ってるだろ?」
「ええ、知ってますよ。美味しそうなタイトルだから覚えてます」
多彩な演出を用いることで、手を抜いていると思われないようにした。
毎日みそ汁を作るために、鰹節を削ったり煮干から出汁を取るのは大変だ。
忙しい時は出汁はパックでもいいし、なんならインスタントだってある。
それは不躾に言えば“手抜き”かもしれないが“不味くない手抜き”といえよう。
「『あいつは俺がこらしめてやる! 溜飲を下げさせてもらうぞ!』」
自分たちで声を当てるって発想もあったが、それはさすがにしなかった。
“漫然と観ているピーポーナードでも、そこにはすぐ気づく”というのがシューゴさんの弁だった。
逆に言えば、そこさえ持ちこたえれば「少なくとも見れる作品」にはなるってことらしい。
「一人くらいベテランいれたほうがよくないですか?」
「ベテランの演技は特筆しているから、周りが新人だらけだと逆に浮くんだよ」
実のところは「声優事務所が売り出したい新人をセット販売していたから」というのが理由だった。
セット販売というものは得てして売り手の都合に過ぎないが、それはそれとして需要はあるものだ。
世に跋扈するアニメの多くは、その製作の全てを一つの会社が行っているわけではない。
クレジットを見れば誰にだって分かる(俺は一度もマトモに見たことはないが)。
声優だって他社の事務所からやってくるし、自社で仕事をしているスタッフさえ一時的に契約している者が多い。
その内訳を見ると、実際にスタジオが携わった作業は半分以下ってこともある。
餅は餅屋というわけだ。
だが当然、餅屋だって暇じゃない。
美味しい餅を大量に作ってもらうには相応の人手がいるし、お金と時間だって必要だ。
外注が当たり前の彼らにとって、それは未知数の試みだった。
暗雲立ち込める中、平均台の上を自転車で走り続ける必要がある。
アニメの製作は、その気になれば細かく作業を分担させるが、それだけ人手もいる。
支障が起きないよう、ホウレンソウも徹底しなければならない。
そんなことを悠長にやって、作業を止める余裕なんて残っていなかった。
「そこに置いとけ。先に2話の絵コンテを終わらせたい。あとオレが描いた奴は出来てるから持ってけ」
「早いですね」
「急いでるだけじゃい」
監督が出来そうなことはほとんど一人でやり、少しでも手が空けば他のことまでやった。
“やれることはやろう”と言ったのは嘘ではなく、自らが体現し、主導で行ったんだ。
それを物理的に可能にするため、必要そうな工程まで削るなんてこともあった。
「そういえば、脚本はどこです?」
「ねえよ、そんなもん。ストーリーは絵コンテの段階で考えるんだよ」
「原画マンあがりのオレに、そんなもん求めんな。それに脚本なんて書いてる時間はねえよ」
ここからが本番だ。
それは誰もが知るところだが、だからといって良好なスタートダッシュを切れるとは限らない。
「『女子ダベ』の時は頼んでもないのに大金出してきて、こっちが頼んだら、これだけかよ……」
“頭を抱える”というのは慣用句だが、人間はそのような状況になると実際に頭を抱えた体勢になるらしい。
「それでも大分ねばったんですよ」
「スポンサーが募れない以上、出せる予算はそれが限度なんだとか」
「契約、依頼できる奴は?」
「信頼できるアニメーターは、ほとんど他社に持っていかれてます」
「まあ時期が時期だからな……」
アニメ作りに限ったことではなく、人が資本の労働とはそういうものだ。
そんなことができるのは未来の猫型ロボットか、売名目的のセレブだけだろう。
“形になっている”かどうかだ。
しかし、それですら今のシューゴさんには高く険しい道のりだった。
これらの条件で到達するのは無茶振りもいいところだ。
「……癪だが仕方ない。やれることはやろう」
それでも走り続けるしかなかった。
とにかく省けるところは省かないと間に合わない。
シューゴさんは己の流儀をかなぐり捨て、自身の英知と技術をフル活用する他なかった。
すぐさま父たちは急ごしらえの企画を携え、親会社に乗り込んだ。
「オリジナル作品~? ちょっとバクチが過ぎるんじゃないのぉ?」
「ワタシたちは、そのギャンブルを楽しめる程度の額でいいんです」
「でも楽しむにしたって、何らかの勝算は欲しいよ?」
「確かに赤字だったかもしれませんが、作品の出来は客観的に見て悪くなかったでしょう」
「バズりっぷりも、今期ではトップクラスです」
そう言えたら楽なのだが、下手に機嫌を損ねられては企画が通らない。
気前よく予算を出してもらうには、正論や糾弾以外の弁が必要だ。
「シューゴさんを留守にさせて正解でしたね」
「ええ、彼なら既に5回はキレてます」
担当の気だるそうな喋り方と相まって、父とフォンさんは内心イラ立っていた。
それでも二人は根気よく、詭弁を交えながら説得を試みた。
「監督のシューゴって人だけど、実績がないじゃん? それでオリジナル作品ともなると、しんどくない?」
「シューゴさんは監督としては若手ですが、アニメーターとしてはこの道10年以上のベテランです」
「それに実績なら『女子ダベ』があるじゃないですか。あれだって世間の評価自体は高いんです」
不利なことは迂遠に表現し、逆に少しでも有利なら大仰にアピールした。
「でも、スポンサーが集まるかなあ?」
その甲斐もあり、上役は予算をどう捻出するのかと、自ら切り出してきた。
そもそも「予算を出す出さない」の話をしていたのに、気づけば「どうすれば可能か」という話にもつれ込んでいる。
こうなったら、後ひと押しだ。
「……つまりですね、予算を抑えつつ一定のクオリティを維持できる!」
難しい説明は省き、とにかくお得であり、損はしないことを強調した。
「要はコスパがいいんです」
上役が好きそうな言葉を添えることも忘れない。
「おい、フォンさん! お上はいつになったら企画を持ってくるんだ?」
「そろそろ取り掛からないと、放送シーズンに間に合いませんよ」
父とシューゴさんは焦っていた。
当時のハテアニは自転車操業でやっていたのに、企画が全く来なかったからだ。
企画がなければアニメを作りようがなく、漕げなくなった自転車は倒れるしかない。
「フリーランスのアニメーターとの契約、場合によっては様々な専門スタジオに依頼する必要があります。その他スタッフやスケジュールの確保も早めにしておかないと」
「えーと、それがですね……」
フォンさんも気になって、上役の動向を調べていた。
「はあ!? どういうこった」
『女子ダベ』は、週刊ダイアリーにて連載されていた日常系の四コマ漫画(全4巻)。
「女子がダベる(喋る)」ので『女子ダベ』と略されているだけで、方言女子が出てくるわけではない。
そんな知る人ぞ知る漫画は、なぜか大額を投じてアニメ化された。
当時その手のジャンルが流行っていたから、企画を手に入れた上役は「いける」と思ったのかもしれない。
或いは熱烈なファンだったのか。
アニメーター達の努力もあり人気はそこそこで終わるも、それでも予算に見合った成果とはいえなかった。
有り体に言えば大赤字だ。
その結果を顧みて、親会社はスタジオを解体するつもりだったらしい。
「それは些か理不尽じゃないですか? こっちは言われたとおりの予算で過不足なく作ったのに」
「視聴者からの評価も悪くないんだぞ。それで大赤字だってんなら親会社の配分ミスだろ!」
だが父たちは不服だった。
「ワタシもスポンサーたくさん募るとか、製作委員会とか作ろうって言ったんですが、“それだと社員に給料を払えなくなる”って……」
「大赤字になってちゃ意味ねーだろ。リスクヘッジ込みでアニメの企画もってこいよ!」
子会社のスタジオで働く、雇われアニメーター達にできることは少なかった。
では、“できること”とは何か。
上が企画を持ってこないのなら、自分たちで企画を用意してアニメを作ればいい。
「しかし原作不足の昨今、上がOKしてくれるとは思えません。原作を買うのだって金がいりますし」
「となると……オリジナル作品かよ」
こうして生まれたのが『ヴァリアブルオリジナル』、通称“ヴァリオリ”だった。
それから数日後。
「それでは第○○回、『チキチキ! ヴァリオリ制作委員会』の会議を始めます」
「ズズズッ」
「ジュルジュル」
「フーッ……フーッ…………フーッ!」
談合室に集まったスタッフたちは、拍手の代わりにコーヒーをすすって応える。
前回の反省点を活かし、今回は昼食後のブレイクタイムに行われていたんだ。
「フーッ……なあ、いつも思うんだが、砂糖入れすぎじゃないか? フォンさん」
フォンさんの前には、フロストシュガー入りの小袋が大量に開けられていた。
「ふっ、何らかのフィードバックを期待するなら、俺はエナジードリンクでいいな……フーッ」
「エナジードリンクだって、ほとんどカフェインと砂糖がメインでしょ」
「だが煩わしくない」
彼も黒い飲み物は好きではない。
それでも体が欲するから嫌でも飲んでいる。
必須ではないし、好きでもない。
ないならないで構わないが、あるならば漫然と求める。
「では飲みながらでいいので聞いてください。三回目となるヴァリオリの完全版制作について……」
「前回の会議では、三回目となるヴァリオリの完全版制作において、特典映像として“幻の10話”を追加するかどうかで話し合いました」
それでも“幻の10話”と聞くと、室内は途端にピリついた。
「……そこで情報共有のため、今回は当エピソードについて資料をまとめてきました。お手元の資料を御覧ください」
スタッフたちは言われるまま、“幻の10話”に関する資料を読み始める。
中には絵コンテやキャラクターデザインなどがまとめられていた。
「“お手元の資料を”……はんっ、一度は言ってみたいセリフだ」
シューゴさん含む古参スタッフたちは、まるでパラパラ漫画のように読み進めているが、新人スタッフにとっては興味深いものばかりだった。
ヴァリオリの制作には、これまで脚本と呼べるようなものがなかったからだ。
「……“本当の10話”? ちょっと何言ってるか分からねーな」
慌ててシューゴさんは取り繕って見せるが、とぼけているのは明白だった。
「“本当の10話”じゃなくて“幻の10話”です、シューゴさん」
「あっ……と、間違えた」
まともに取り繕える余裕がないほどの事柄、ということなのだろう。
内実を知らない新人たちも、その雰囲気から異様さを感じとった。
「あれリリースするのは、やめといた方がいいと思うけどな~」
「どうしてもって言うなら構わんが……」
「どうしても!……これでいいですか、シューゴさん」
「いや~そういうことじゃねーじゃん?」
「どういうことですか」
偏屈でもアニメを作るのだけはやめなかったシューゴさんが、今はそれを露骨に拒否しようとしている。
彼がそれだけ“幻の10話”を良く思っていない、ということだけは新人たちでも分かった。
「寝ているだけでは子供は育ちませんよ。三年寝太郎だって何もしていなかったわけじゃない」
「おいおい、寓話を論拠にするのはやめろって~」
グダグダな押し問答が繰り返され、場の空気は昼食と共に冷え切っていく。
会議は踊る、されど進まず。
「“幻の10話”とは何なのでしょうか……?」
「あ?……ああ、そっか、第3シーズンから入った奴もいるのか」
新人たちの狼狽ぶりを見て、シューゴさんたちは冷静さを取り戻した。
「ふむ、そうですね……この企画を進めるにしろ、まずは前提を共有してからにしましょう」
「オレは嫌だけどな」
「まあ、とにかく、資料をまとめてきますので、後日また会議ということで」
「そうだな、今あーだこーだ言うより、実際に見てもらったほうがいい」
こうして会議の初日は、昼食を不味くするという結果を残して終わった。
“激動の時代”という文言は、さしずめボジョレー・ヌーボーのようなものだ。
ティーンエイジャーの俺や、その時代に実感の伴わない人間にとっては「10年に1度の出来」という評価ほど空虚なものはない。
だけどワインを飲める人にとって、やはりそれは確かな変化なのだろう。
もちろん変わったのは食べ物だけじゃないけれど。
早口言葉みたいな会社名がついているため、内外共に「ハテアニ」って略称で呼ばれている。
そんなハテアニもまた、激動の時代が訪れようとしていた。
「それでは第○○回、『チキチキ! ヴァリオリ制作委員会』の会議を始めます」
談合室に集まったスタッフたちは、拍手の代わりに咀嚼音で応える。
昼時だったので、会議は昼食と平行して行われていたんだ。
「ああ、もう! カレーの粉が溶けてない!」
そうボヤくのはプロデューサーのフォンさん。
やや神経症の嫌いがあり、この日はカップカレーうどんに苦悩していた。
「ロボットやAIが企業を席巻しているのが当たり前の時代に、いつになったらカップカレーうどんは進歩するんだ!」
「まるでこのスタジオみたい~ってか」
「確かに未だ人材が資本ですが、ハテアニだって進歩はしてますよ。労働待遇は一般企業並みに良くなったでしょう」
「そこは誇るところじゃないだろ。カップ麺に虫が入ってないことを自慢する企業がどこにいる」
ハテアニの看板作品である『ヴァリアブルオリジナル』、通称“ヴァリオリ”の総監督を務めている。
「シューゴさんは、また同じメーカーのランチボックスですか。それ好きですねえ」
「好きじゃねーよ。量も少ないし、味も好みじゃない」
「じゃあ、なんでそればっかりなんです」
食事も満足度は二の次で、“食べるのが楽かどうか”が基準である。
彼にとっては絵コンテを描きこむことよりも、洗う食器を一つ増やす方が遥かに負担なんだ。
「では食事をしながらいいので聞いてください。三回目となるヴァリオリの完全版制作について……」
傍から見ると緊張感に欠ける光景だが、ハテアニで働く者達からすれば日常茶飯事である。
何度もやっている会議で、内容の想像がつくので昼食の合間で十分なんだ。
この日のスタッフたちも、そのつもりで高をくくっていた。
「今回は特典の一つとして……第2シーズン“幻の10話”を追加しようかと」
シューゴさんとフォンさんの箸が止まった。
「これは使命だと思った。全ての人間、いや森羅万象を幸福にせよという己(おれ)の使命だと」
それが世界を分裂させることだった。
「“最大多数の最大幸福”はベターな考え方だったが、ベストではなかった。多様性や自由というものがある以上、その“最大幸福の中心”から近い者ほど幸福になりやすく、遠い者ほど不幸になりやすいからだ」
かといって、人物Bが幸せになれるよう世界Aのルールを変えてしまうと、今度は人物Aが割を食う。
「ならば新たに“最大幸福の中心”を、別の世界線で作ればいい。誰にでも分かるシンプルな解答だろう?」
人物Bが幸せになれる世界Bを、人物Cが幸せになれる世界Cを。
そうしてフラッガーは次元を渡り歩き、世界をどんどん分裂させていったのだ。
「恋愛シミュレーションゲームでマルチエンドを作るようなものだよ。たくさんヒロインが出てくるのに、一人としか結ばれないなんて悲しいじゃないか。結ばれないヒロインも可哀想だ。サブキャラも攻略対象にして、それぞれトゥルーエンドまで用意しなくっちゃ」
フラッガーの例え話はイマイチ分からなかったが、自分のやってきたことを“誰もが幸せな世界”の最適解……だと思い込んでいるのは伝わってきた。
さすがSSS+級の指名手配犯なだけあって、頭のネジがブッ飛んでる。
そもそも世界が分裂すると、形を保てなくて消滅してしまうから意味がない。
仮に維持できたとしても、フラッガーの計画には重大な欠点がある。
世界が分かれている時点で、“人物も分かれてしまっている”からだ。
更に言えば、“世界Bにいる人物A”は幸せになれない可能性が高い。
つまりフラッガーは“幸せな人間を増やしている”と同時に“不幸な人間も増やしている”んだ。
もっとも、それを指摘したところで聞く耳を持たないだろうけど。
「己は全てを幸せにするために、できることをやった。お前らのような輩は邪魔をすることしか考えていない。お前らが理想郷を滅ぼしたんだ。お前達にはそれが分からない」
計画を一通り語りつくすと、フラッガーは「お前達には分からない」と連呼し続けた。
分かる分からないとかじゃなく、俺たちには分かってやる筋合いがないというのに。
自分を理解してもらおうと勝手に期待して、勝手に失望してやがる。
こいつの言う“最大幸福の中心”には、実のところ“己”しかいなかったのかもしれない。
それから十数分後。
かけつけた次元警察にフラッガーを引き渡し、俺はようやく元の世界に返れることになった。
「ちなみに、あの後フラッガーはどうなるんだ?」
帰路の途中、俺はガイドに尋ねた。
「たぶん永遠に眠ってもらうことになるだろうね」
「死刑かよ。容赦ないな」
ガイドによると、フラッガーは刑務所に入れられて、そこで睡眠装置に繋がれるらしい。
「それで心地よい夢を永遠と見れるようにするのさ。脱獄の意志を与えないようにね」
「……いや、フラッガーにとっては“幸せな世界”なのかもしれないな」
俺はその選択肢が残されているだけ、今のフラッガーよりは恵まれている方なのだろう。
理想を追い求めることも、夢を見ることも、譲ることも、面倒くさくなって妥協することもできる。
それ自体は幸せではないのかもしれないが、“目を瞑るかどうか”自分の意志で選べる余地はあるんだ。
俺たちはフラッガーを拘束して、次元警察に引き渡すまで船で待機することになった。
「ふふふ……己(おれ)も年貢の納め時が来たというわけか」
信者達が俺たちを捕まえようとしたとき、「神妙にお縄を頂戴しろ」とか言っていたのがフラッガーだ。
独特な言葉選びをする奴だとは思っていたが、こいつがフラッガーだったとは。
いや、そういえばガイドも「そうは問屋が卸さない」だの宣ってたな。
「ああ……次元が元に戻っていくのが分かる」
スタングレネードの後遺症なのか、フラッガーは意識が混濁しているようだった。
先ほどから虚空に向けて喋り続け、リアルでツイッターみたいなことをやっている。
或いは、あの状態で俺たちに話しかけているつもりなのかもしれない。
「せっかく……せっかくフラグを立てたのに」
そして聞いてもいないのに、フラッガーは身の上話を始めた。
次元警察に引き渡されるまでの間、フラッガーは長々と自身の思惑を語り続けた。
だが、どうでもいい他人の自分語りを親身に聞いてやれるほど、俺は真面目じゃあない。
なので、ここの件は要約させてもらおう。
「己(おれ)は“誰もが幸せな世界”を作りたかっただけなんだ……」
昔のフラッガーは、世界の全てを幸せにしたいと願う、善良な若者だった。
そのために彼はエンジニアとして努力し、その過程で様々なものを発明していったという。
しかし頑張れば頑張るほど、その願いには限界があることを彼は思い知らされた。
「無駄だった……いや、無駄であることを知れたという点では、無駄ではなかったかもしれないが」
なぜなら、幸せの形は人の数だけ存在するのに、人々は同じ世界で共存しなければならないからだ。
例えば人物Aの幸せが、人物Bの幸せと相反する場合、どちらかは妥協する必要がある。
彼らどちらかの幸せが、その世界のルールにそぐわないってこともあるだろう。
「己(おれ)の世界において、幸せとは妥協の連続だ。多くの人間は我慢して、たまたま世界のルールに適合できた者が幸せを謳歌する。そういう幸せの譲り合いを“優しい世界”と奴らは呼んでいたが、“ぬるま湯”がいいところだ」
そんな時、彼の元に舞い降りたのが“フラグ”という次元干渉システムだった。
「なあ、今すぐじゃないとダメなのか? また次回にでも……」
「頼むよ。こんなチャンス、二度とこないかもしれない」
ガイドたちは、今までフラッガーの犯行に悪戦苦闘していたらしい。
フラグを立てられたら修正して、他の世界が分裂したら繋げて……
だがフラッガーを捕らえることができれば、その“ごっこ遊び”も風化していく。
俺の世界でも転売ヤーとかがイタチごっこに興じているが、もしいなくなったら世界はより良くなるかもしれない。
次元の分裂だとかは壮大すぎてピンとこないが、そう考えると躍起になるのも分かる気がしてきた。
「さあ着いたよ、この辺りだ」
移動を始めて数分、あっという間に人気のない森深くまで辿りついた。
船には窓がついていないので分からなかったが、とてつもないスピードで走っていたようだ。
「ステルス機能で隠していたようだけど、場所さえ分かれば関係ないね」
ガイドが手元の端末を操作すると、目の前にフラッガーの船が現れた。
俺たちが乗ってきた船とフォルムが似ている。
だが、こちらは全体的にチグハグなデザインで、機体に見合わない部品が至る所に取り付けられている。
たぶん改造しているのだろう。
つつがなくフラッガーの船を見つけたはいいものの、肝心の本人がいない。
「こんな大きな痕跡を残したら、見つけてくれと言っているようなもの。ただでも防護バリアを破るために、一刻も早く船に乗って脱出したいはずなのに」
「一刻も早く船に乗れない事情でもあるんじゃないか? 昼寝の真っ最中とか」
「昼寝……そうか、それだよ!」
一体どこに行くかと思いきや、そこは俺たちが先ほどまでいた、次元が分裂した場所だった。
「現在進行形でね」
しばらく経っているはずだが、信者達は未だ痺れて動けないようだ。
ガイドはまたも珍妙な装置を取り出すと、彼らにそれをあてがう。
「お次は何だ?」
「この中にフラッガーが紛れてるってのか?」
「いま考えると、辻褄は合うよ。この世界はボクたちに敵意を感じるようルールが設けられていた。次元を元に戻そうとする者たちの妨害、あわよくば排除が目的だろうね」
「この世界の俺が粛清されたのも、フラッガーの思惑通りだったってわけか」
ルールを作るには裁定者に取り入って、内部から民意をコントロールする方が合理的だ。
もし俺たちのような存在が別次元から来て、偶然かち合ったとしても逃げる時間を稼げる。
しかしガイドが世界全体にバリアを張ったことで、早期の脱出が困難になってしまった。
そこで俺たちを排除してから、ゆっくりと時間をかけて脱出することにしたんだ。
「確実に始末するため、念には念を入れて自ら前線に出たんだろうね」
「周りくどい割に、強引なやり方だな。クレバーなんだかクレイジーなんだか」
「それほど追い詰められていたってことさ」
そして、俺たちを捕らえる寸前までいったはいいものの、ここでも誤算が起きる。
あえなく他の信者共々、スタングレネードの餌食となってしまう。
こうして俺たちが世界を元に戻すのに必死だった間、フラッガーはずっと地面に突っ伏していたわけだ。
「いたよ、こいつがフラッガーだ!」
「フラッガー?」
そのフラッガーとやらは様々な世界を行き来して、幾度も次元を分裂させているらしい。
次元を分裂させる犯罪者は他にもいるが、フラッガーはその元祖なんだとか。
「フィクションとかで、特定の因果律を“フラグ”っていうのは聞いたことあるだろ?」
「ああ、“死亡フラグ”とかってよく言われてるな」
「あれは架空の概念じゃないんだよ。実在していることが分かったんだ」
遥か未来では次元を行き来できるようになり、その過程で“フラグ”という概念も発明された。
そのフラグを使うことで、次元に大きく干渉することが可能になったらしい。
「つまり、そのフラッガーって奴は独学でフラグを発見して、自在に干渉する方法を見つけたと」
「というより、フラグを最初に見つけたのがフラッガーなんだよ。発明したのもね」
フラッガーは元の世界では、かなり著名なエンジニアだったらしい。
特に次元の行き来については、宇宙全体を見回してもトップクラスなんだとか。
「だから今まで捕まえることはおろか、足取りを掴むことすら困難だったんだ。けれど、今そのチャンスを“ボクたち”は与えられた!」
“ボクたち”っていうのが、すごく引っかかる。
このままフラッガー探しに突入しそうな勢いだ。
「もう、ここにはいないんだろう? 今さら追いかけて捕まえるのは無理じゃないか?」
「世界が分裂を始めた時、ボクはあらかじめ世界全体に防護バリアを張っておいたんだ。分裂した世界が、すぐに消滅してしまわないようにね」
防護バリアは内外問わず、ちょっとそっとのことでは破れないようになっているらしい。
そしてバリアは世界が分裂した直前、つまりフラッガーが犯行に及んでいる最中に張られた。
ということは、まだフラッガーはこの世界のどこかにいるってことだ。
「フラッガーがまだいるのは分かったが、この世界も宇宙より狭いってだけで、俺からすれば十分広いんだぞ」
「もちろんアテはある。さっきも言ったように、分裂世界では次元が不安定だから生身での行き来は出来ない。だからフラッガーも専用の船を持っているはずなんだ」
その船とやらは、持っている探査機を使えば、間もなく見つかるものだという。
「じゃあ俺はこれで……」
いよいよマズい展開になってきたな。
「悪いけど、もう少しだけ力を貸してくれ」
扉に手をかけるが、うんともすんともいわない。
「俺の出る幕じゃないだろ」
「フラッガーは次元移動のスペシャリストだ。追い詰められた時、どんな奥の手を使ってくるか分からない。万全を期すなら、次元の影響を受けにくいキミがいるんだ」
その万全を期したとき、俺の身の安全は誰が期してくれるんだよ。
抗議も空しく、船はゆっくりと移動を始めた。
「ほら! 起きて! しっかり!」
朧げだが、既視感のある声が聴こえる。
俺はゆっくりと瞼を開いた。
「あ、やっと起きた。あの後キミはぐったりしちゃってね。ボクの船まで運んで、休ませていたのさ」
どうやら、また気絶してしまったようだ。
「……いつつ」
全身の倦怠感と共に、頬に僅かな痛みを感じる。
俺を起こそうと、ガイドがまたも引っ叩いたのだろう。
全くもって嬉しくないが。
「大丈夫? メディカルキットで見る限りは大きな創傷はないようだけど……」
現状を把握しきれていない状態だったが、俺はとりあえずガイドに拳骨をお見舞いした。
それだけは真っ先にやっておこうと、潜在意識が働いたのだと思う。
「あたた……ひとまず元気そうなのは分かったよ」
こんな漫然と暴力を振るったのは初めてだったが後悔はしていない。
今回の出来事は大局的に見れば、こいつが原因じゃないのは分かっている。
それでも俺に対して、払うべきツケがないといったら嘘になるだろう。
なし崩し的に酷い目に合った身から言わせれば、むしろ拳骨一発はリーズナブルだとすら思っている。
「で、今どういう状況なんだ」
「おかげで次元の再結合は果たされた。後は因果力によって、裂かれた箇所は自然と修復されるだろう」
「そりゃあ、何よりだな」
やれやれ、これでようやく帰れる。
「ほら、モニターを見てみなよ。次元の縫い目が出来て、徐々に接合されて、跡すら綺麗に……って、あれ?」
もう完全に休憩モードだったのに、ガイドが不穏なリアクションをする。
俺はそれを見なかったことにして、そのまま寝てしまいたかった。
当然そうもいかないのは分かっていたが。
「なんだよ、その反応は。再結合は成功したんじゃないのかよ」
俺もモニターを覗いて確認してみるが、イマイチよく分からない。
「そもそも俺は何が自然か知らないんだが、何がどう不自然なんだ」
「“綺麗に分かれすぎてる”んだよ。自然に破けたら、こうはならない」
そう言われてみると、確かに次元が分かれた箇所は平行に破けている。
いや、これでは破けたというより、まるでハサミで切り取られたみたいだ。
「じゃあ、何か? 誰かが意図的に、次元を分裂させたってか?」
「恐らくね。それでも、ここまで芸術的な分かれ方は……まさか!?」
ガイドの素っ頓狂な声が船内に響き渡る。
どうやら心当たりがあるようだ。
「これは……“フラッガー”の仕業だ!」
「なんで俺が?」
「キミじゃなきゃ次元に直接干渉できないからだよ。厳密には“普遍的存在”じゃなきゃ、だけど」
さも当然のように、また固有名詞を出してきた。
いや確かに、この“普遍的存在”って言葉と、俺がそうらしいってのは以前も聞いたことはある。
ガイドの説明によると、この世に存在するものは、有形無形によらず流動的なものだという。
世界が変われば人も変わる。
俺のいる世界ではマイナーで無害な新興宗教でも、ここでは一大カルト教団だ。
しかし中には、そういった変化に乏しい存在もいて、それを“普遍的存在”というようだ。
「それ嫌味か?」
“お前はどこまでいっても変わらない人間だ”って言われているみたいで癪なんだが。
「それは初耳だぞ」
「何となく分かるだろ。だからタイムスリップも許されているわけで」
そもそもSFまがいの概念に馴染みがないんだから、分かるわけがない。
「あくまでボクは“未来の世界で普遍的存在”なんだ。時間軸が違う」
「あ~ん?」
自分なりに咀嚼してみたが、要はXYグラフみたいなものだと思う。
ガイドは“蓋然性という横軸”は合っていても、“時間という縦軸”が合っていない。
その両方がより近いのが俺ってことなのだろう。
「いわば“波長が合う”ってやつさ」
この世界にいるはずの俺は粛清されているので、“波長が合う”といわれてもしっくりこないんだが。
「詳しく説明している暇はない。“彼ら”だって、いつまでも待っててくれるわけじゃないんだ」
信者達は未だ痙攣しているが、いずれ回復するだろうし、増援がくる可能性だってある。
何だか言い包められている気もするが、悠長なやり取りをしていられる状況じゃないのは確かだった。
「じゃあ、具体的なやり方を教えてくれ」
「まず、ボクが“入り口”を開こう」
ガイドは銃らしきものを取り出すと、次元の歪みに向かってレーザーを打ち出す。
レーザーは弧を描くと、空間にぽっかりと数十センチほどの“穴”を開けた。
「さあ、中にある“次元が裂かれた箇所”を掴んで」
不可思議な“穴”を、俺は恐る恐る覗き込んだ。
そこには俺の目では知覚しきれない、凄まじい情報量が詰まっていた。
だが目を凝らしてみると、一点だけ“糸”のようなものが存在感を放っているのが見える。
“次元が裂かれた箇所”とは、あれのことだろうか。
「ぐっ!」
それを見た瞬間、俺の頭に衝撃が走った。
後で知ったが、俺の鼻や耳からは血が流れていたらしい。
「あ、あんまり見続けちゃダメだよ! 多次元の情報は、肉眼で見るには刺激が強すぎる。脳に過負荷を与える」
穴の中に右手を突っ込む。
「掴んだら、引っ張って!」
朦朧とした意識の中、俺は言われるまま“それ”をガムシャラに引きずりだした。
レーダーを頼りに信者達の目を掻い潜り、俺たちは慎重に歩を進めていく。
不幸中の幸いというべきか、道中は信者たちの手が及んでいない場所が多く、労せず次元の歪みに辿り着くことが出来た。
「あった、あれだ!」
「何もないぞ」
「よく見て!」
言われたとおり凝視してみる。
「……あっ」
景色が淀み、歪んでいるのが分かる。
「あれが“次元の歪み”ってやつか」
そして世界が分裂した箇所でもある。
あそこを再結合してやれば元通りってわけだ。
意外だったのは、その歪みが見覚えのある場所に存在していたことだ。
それはシロクロと呼ばれる、弟の友達が住んでいる屋敷に酷似していた。
ガイドはそこに居候しているため、尚さら馴染み深かっただろう。
「跳ぶ前に、あらかじめ知れていたら、もっと楽できたかもしれないな」
「ボクだって出来るならそうしたかったけど、別世界からだと探知できないんだよ」
まあ、今さら言っても仕方ない。
「人がいないうちに、さっさとやってしまおう」
取り掛かろうとした、その時である。
「いたぞー!」
遠くから声が聴こえ、俺たちはギクりとした。
「まずい、見つかった!?」
逃げようという間もなく、すぐさま信者達が寄り集まり、俺たちの周りを囲んだ。
「ちくしょう、展開が早すぎるだろ」
ここまできて万事休すか。
その距離が1メートルほど近づいた時、ガイドはおもむろに手首の端末を弾くように押した。
瞬時、落雷の如き轟音が鳴り響く。
「な、何だ……これは!?」
「体が、し、痺れるっ」
「これが悪魔……じゃなくて闇の精霊の力だとでもいうのか!?」
信者たちは身動きがとれず、自分の身に何が起きたのか理解できないようだ。
「お前、何をしたんだ?」
「多人数を無力化する、ハイパースタングレネードさ。これで数十分はマトモに動けないよ」
「あの数を、しかも広範囲に無力化するのはさすがに無理だよ。それにキミを巻き込まないように射程を設定する必要もある」
厳密には、爆音のせいで耳がキンキン鳴っているから無事ではないが。
「連発はできない。次、来られたら本当におしまいだよ」
「だったら今度こそ、さっさとやってしまおう」
「……どうした? 早く再結合とやらをやれよ」
「いや、再結合はキミがやるんだよ」
ちょっと待て、そんなの聞いてないぞ。
信者たちは難なく撒くことができた。
彼らのダボダボな白装束は、人を追いかけるのには適していないからな。
こういう時ですら、なりふり構う必要があるんだから信者は大変だ。
それでも、いつまでも走り続けるのは無理だ。
「……半径1000、レーダー反応なし」
「しばらくは安全そうだな」
ガイドの持っている索敵機を使い、見つからないよう動けてはいるが、それも時間の問題だった。
いくら信者達が遅いといっても、多勢に無勢であるのは変わらない。
単純な人海戦術をとられるだけでも厄介なんだ。
それに全員がよほど愚鈍でもない限り、それなりの対策はしてくるはず。
乗り物で追跡してきたり、進路を塞いだりもするだろう。
いずれ身動きをとるのすら難しくなる。
こうなったら一旦、帰るのが懸命だ。
「……遠いね」
しかし肝心の船は、逃げた先とは逆方向に停めてあった。
道中、隠れながら移動できる箇所も少なく、ほぼ確実に見つかってしまう。
「ボク一人だけなら、スーツのステルス機能で辿り着けるけど……」
「お前が迎えに来るまで逃げ切れってか。そのレーダー使わせてくれるなら考えるが」
「さっきも言ったように、生身で歪んだ次元に跳ぶのは危険すぎる。体がバラバラに引き裂かれるか、運が良くても次元の海を漂流することになる」
「やっぱり、帰りも船が必要ってわけか」
旧来的な集団にもコソコソしなきゃいけないとは、なんとも情けない話だ。
「一応、これで跳べる方法は残っているよ」
“一応”って前置きが気になるが、他に案もないので聞くしかなかった。
「とりあえず言ってみろ」
「“次元の歪み”を再結合してやればいい。そうすれば歪みは修正され、手元の転移装置で跳べるようになる」
それはつまり、この期に及んで「当初の目的を果たそう」って言っているのと同じだった。
「結局、そうなるわけか」
なんだか、ここまでの出来事がガイドの思惑通りな気がしてならない。
わざと自分の手札を出し惜しみして、俺が協力せざるを得ないよう追い込んでいるんじゃないか。
実際どうあれ、俺が出せる持ち札は限られていた。
「分かった、その“次元の歪み”とやらに向かおう」
価値観が矯正されているから、彼らにとっては問題ではないのかもしれない。
集金が阿漕だとしても、それが“救い”への福音をもたらし、“幸福”に繋がるのなら躍起になる。
「まわる まわるよ 救いは まわる」
……いや、よく見たら教祖は全くの別人だ。
あんな、これ見よがしな髭を蓄えている、如何にもな中年じゃなかった。
もしかして、俺の知り合いも別人だったりするのか?
「そんなに気になる? 再結合したら失くなる世界だよ」
「ああ……この世界の俺や知り合いとかが、“あの中”にいるのかなと思ってな」
「思うところもあるんだろうけれど、ここはキミの知っている世界じゃあない。だから、この世界にいる人々も実質的に違う個体だよ」
パっと見は同じでも、やっぱり世界もヒトも違うってわけか。
もし見知った顔があったら、しばらく引きずりそうだからホッとした。
「さあ、早く行こう。次元の歪みはもう少し先だ」
「あ」
「そこの 黒いのと 青っぽいの!」
恐らく「黒いの」は俺で、「青っぽいの」はガイドのことだろう。
“だろう”というか、そのほか全員は白装束だから絶対に俺たちのことだが。
教祖の慌てようからして、今の俺たちの格好は重大なタブーらしい。
このまま物理的にも刺してくるんじゃないか、と思わせるほどのプレッシャーを感じた。
「えーと……クリーニングに出してて……待てよ、この世界ってクリーニング屋とかあるのか? あったとして、別の呼称だったり……」
このままではマズいと思い、なんとか言い訳を捻り出そうとする。
「んん?」
俺が言い淀んでいる間に、また教祖は何かに気づく素振りを見せた。
なぜ俺のことを知っているんだ。
「“粛清”したはず! だのに なぜ ホワイ」
“粛清”が具体的に何なのかは知らないが、ロクでもないことだけは確かだ。
「悪魔め! じゃなくて 闇の精霊め! ならば 何度でも 滅ぼして くれる!」
明確な敵意を向けられているのは明らかだ。
「マスダ……これは逃げた方がよさそうだよ」
そうガイドが言い切る前に、俺は既に走り出していた。
生活教は“生活をより良くする”という教義のもと、日々ライフハック的なことを広めている。
この辺りを中心に活動しており、地域新聞に載る程度には有名な新興宗教だ。
宗教そのものが形骸化している現代では、信仰心が薄れているからだ。
数少ない信者も面白半分で入信しているのがほとんどで、実質的に布教しているのは教祖のみだ。
そんなローカルマイナー宗教が、この世界では熱狂的に信仰されているとは。
「いくら可能性の数だけ未来があるとはいえ、俺の世界にこんな可能性が?」
「これこそが“分裂世界”さ」
俺の世界では、そもそも宗教が廃れているから、信仰が盛んになる分岐点が存在しない。
だが分裂した世界では、このように有り得ない未来すら有り得てしまうのか。
「宗教は民意を意図的に調整できるからね。それが実権を握れば、こういう世界になるんだろう。まあ分裂した世界では、何がどう変わってもおかしくない」
それにしても、見れば見るほど異様な光景だ。
同じ服を着た人間が一堂に会すると、こんなに気色悪くなるんだな。
「さあ 回しなさい 救いは 回した 先に あるの です」
信者たちの喚声に紛れて聴こえるが、独特なイントネーションがすごく耳に残る。
聴こえた方向に目を向けると、声の主はすぐに分かった。
一際、装飾が豪華なあたり、恐らくあれが教祖だろう。
「さあ 布施て “生活式回転抽選器”を そして 自分を 信じて 回しな さい」
大層な名で呼ばれているが、あれはカプセルトイマシン、いわゆる“ガチャ”っていうやつだ。
さっきから言っている「回す」ってのはガチャのことだったのか。
遠巻きからじゃ中身は見えないが、どうやら信者たちの信仰心をくすぐるものが無作為に入っているようだ。
「やった! 『過剰な転売』の免罪符と、『非合法に動画をアップロード』の免罪符だ!」
それをランダムのガチャって、霊験あらたかな感じがまるでしない。
しかし信者達はガチャに列を成して、取り憑かれたように一心不乱に回していた。
「同じものが 出ても 大丈夫 掛け合わせると 効果が 上がり ます! だから 布施て! 布施て!」
金を巻き上げるにしろ、もっとマシな方法がありそうなもんだが。
その地に足を踏み入れた瞬間、すぐに異様な空気感が襲った。
場所は先ほどいた庭と同じ。
目に映る景色も代わり映えしない。
だが「何かが違う」という感覚。
同じようで違う。
違うようで同じ。
確信はあるけれど、その“違い”を正確に表現しようとすると難しくなる。
表象だけ語ろうとすれば陳腐になり、個人的な思いを言葉にすれば漠然としすぎてしまう。
あえて言葉にするなら、俺のボキャブラリーでは“第六感が告げている”としかいいようがない。
「体全体がグラグラする……」
あの時が吊り橋の上に立っているような状態だとするなら、今回はその吊り橋から落っこちているような状態だ。
「“次元酔い”だね。跳んだ先の世界が近い場所だと、細かなギャップに体が拒否反応を示すんだ」
「……何でお前は平気そうなんだ」
他意はないんだろうが、言い方が妙に鼻につく。
「この分裂世界は、キミのいた世界でもあったんだから酔ってしまうのは仕方ないよ。むしろ、それくらいで済んでいるのは幸いといっていい」
そういえば別次元を旅行したとき、同行していたドッペルは大変なことになってたな。
“世界の分裂”ってのは“可能性の分裂”でもあるから、別次元では存在を保ちにくいとかで……。
「ん? だったら俺もここに長居したらヤバいんじゃないか? この世界にいるであろう俺に接触でもしたら、かなりの影響があるんじゃ……」
にわか仕込みのSF知識だが、そういうのは大抵マズいことになりやすい。
次元がしっちゃかめっちゃかになったり、未来が大きく変わったりするんじゃないか。
「そのあたりは大丈夫だよ」
ガイドはあっけらかんと答えたが、その態度がより不安を掻き立てた。
不思議な造形の小道具を取り出し、何かを解析しているようだった。
「よし、座標が分かった! こっちだ!」
どうにも要領を得ないが、俺は大人しくついていくことにした。
質問攻めをしてガイドが機嫌を損ねでもしたら、ここに置いていかれるかもしれないからな。
「それにしても、この時間帯にしては人通りが少ないなあ。というか、今のところ誰とも会ってない」
「あー、この喫茶店、こっちでは潰れてるんだな……」
冷静に辺りを見回し、その差異に思いを巡らせる余裕すら戻ってきた。
けれども駅前の広場を通りがかった時は、さすがに驚きを隠せなかった。
「さあ 皆さん 救いが 欲しければ 回すの です!」
突如として何者かの声が爆音で轟き、耳を劈く。
「な、何だ!?」
聴こえた方角に目を向けると、そこには白銀の世界が広がっていた。
その白銀の正体は、数え切れないほどの人、ヒト、ひと……。
白い装束の人々が、広場にごった返していたんだ。
「さっきから人を見かけないと思っていたが、まさか全員ここに集まってるのか……?」
そして、俺はその装束に見覚えがあった。
「さっきの続きだが、“本来なら存在しなかった世界”って何だ?」
「分岐によって自然発生的に生まれた世界ではなく、次元の過干渉により発生した世界。システムの不具合、バグのようなものだよ」
それからガイドは色々と説明してくれたが、俺はSFが得意ではないため雰囲気で理解することにした。
可能性の数だけ枝分かれするが、逆に言えば可能性が0ならば枝分かれもしない。
しかし“本来なら存在しなかった世界”は、その“0を無理やり1にする”ことで生まれる。
木をいじくって枝分かれさせたり、枝を折って別の土地に植えているってことだ。
「だが、お前も未来からやってきて俺の時代に干渉しているじゃないか。それと何が違うんだ?」
「俺の知る限り、そうとは思えないんだが」
ガイド曰く、その“因果力”ってものが働いているおかげで、多少の変化なら世界は帳尻を合わせてくれるらしい。
要はフィクションとかでよくある“運命は変えられない”ってやつだ。
しかし、その“因果力”を超える程の変化が起きると、運命は変えられる。
そして“因果力”は世界そのものが持っており、分裂すると弱まってしまう。
そのまま弱り続ける(分裂し続ける)と世界は形そのものを保てなくなり、やがて消滅してしまうってわけだ。
「ポケットを叩くとビスケットが増えるが、実際は割れて二つになるだけってことだな。そのまま叩き続けると粉々になる、と」
「その分かりにくい比喩、前も言ってたけど……本当に覚えてない?」
そういえば、何となく覚えがあるな。
同じ喩えを使いまわすとは、我ながらよほど気に入ってたと見える。
このままだと俺のいる世界も消えてしまうから、放っておくのがマズいってのも分かる。
今までガイドの目的を知らないでいたが、こういった次元トラブルを解決するためだったんだな。
にわかには信じがたいが、信じなかった時の代償があまりにも大きいので協力するしかない。
だけど、まだ気になることは残っている。
「もう一つ疑問があるんだが……」
尋ねようとした時、間が悪くアナウンスが入る。
「衝撃ニ備エテクダサイ」
「気をつけてって、一体どう気をつけ……」
その後、体全体に凄まじい衝撃が走り、またも俺の言葉は掻き消された。
「ほら、着いたよ! 起きて! しっかり!」
心なしか、声が聴こえる。
俺はゆっくりと瞼を開いた。
「あ、やっと起きた」
どうやら気絶してしまったようだ。
「気絶って、こんな風になるんだな……いつつ」
気だるさと共に、頬に僅かな痛みを感じる。
俺を起こそうと、ガイドが引っ叩いたのだろう。
「さあ、ついてきて!」
だが、酷い目に遭っているのだけは確かだ。
やっぱりエイプリルフールで、俺は弄ばれているんじゃないのか。
何はともあれガイドの頬を引っ叩こうと、俺は身を乗り出した。
「なんだ、ここは……」