俺がテレビの電源を消す前に必ずしていることだ。
なぜ、そんなことをするかって?
さあ、俺にも分からない。
お気に入りの番組が10チャンネルにあるからだとか、テレビをつけたとき大音量にやられないためだとか、後から捻り出した理由で無理やり納得させることはできるだろう。
けれど、あえて言葉にするなら「なんとなく」としか言いようがない。
だが、その「なんとなく」を、案外バカにできる人は少ないんじゃないだろうか。
むしろ、そういうものに“何らかの法則”を見出したがる人だっている。
法則って言葉が大仰に感じるなら、ジンクスだとかルーティンだとか、しっくりくる言葉に変換すればいい。
大事なのは、俺たちは“そういうもの”を時に信じて、優先し、生きようとするってことだ。
その日も、なんて事のない平日だった。
強いて違いをあげるならば、俺は近年まれに見る「学校へ行くのがダルいモード」になっていた。
俺の心と身体が、まだ半分ほど夏休みに取り残されているのだろう。
それに加えて、かったるい選択科目がある日。
億劫なのも止む無しだ。
しかし、それにつけても倦怠感がしつこい。
いつもなら顔を洗って、歯を磨く頃にはシャキっとするものだが、未だ気だるさが抜け切らなかった。
いっそのこと風邪でもひいているのなら話は早いのだが、そういうわけでもないから厄介だ。
テレビから流れるニュースは大脳を揺らし続ける割に、まるで記憶に残ろうとしない。
ただ左上に表示される時刻だけは俺を囃し立てた。
一瞬、「サボタージュ」という言葉が脳裏をよぎるが、首を振って思いを断ち切る。
番組では十二星座の占いがやっていたが、自分の運勢を確認するまでもなく画面を消した。
占いなんて真に受けちゃいないが、もし今日の運勢が最悪だった場合、足取りが重くなる可能性は否定できない。
いずれにしろ学校に行くんだから、それならば重荷は減らすべきだ。
俺は未練なんて初めからなかったかのように、スタスタと部屋を出て行った。
チャンネルを10に、音量を10にしていなかったことに気づいたのは、バス停についてからだった。
日雇いの配達業で保育園に来た際、物置部屋に入ったことが最初らしい。
その時は、荷物を置いたらすぐ出て行くつもりだった。
けれど間が悪く天気予報にない雨が降りしきり、傘を持っていない男は立ち往生してしまう。
仕方なく、しばらく物置部屋で雨宿りすることにした。
誰かが見に来て、少しでも嫌な顔をされたら大人しく出て行けばいい。
それ位の心持ちだった。
その間、手持ち無沙汰だった男は部屋の中を繁々と見て回った。
一階の物置部屋はモノで溢れており、動かした形跡はなく埃をかぶっているのが大半。
二階の物置は用具がまばらにあるだけだが、妙に埃の臭いがした。
どうやら、ここに出入りする職員は少なく、二階に至っては滅多に行かないらしい。
実際、二階に佇んでいたが人の来る気配はなく、それは雨が止む時を経ても変わらなかった。
この時点で出て行ければよかったが、男はそれができなかった。
「あの部屋で手足を伸ばして寝転がったのがマズかった」と男は後に語っている。
そのせいで室内に謎の重力が発生し、出て行きたくても無理だったんだとか。
気にしないようにしていたが大分くたびれていることが分かる。
その時に魔が差したらしい。
決して払えない額ではなく、不当な価格設定というわけでもない。
けれど、やはり“値段相応”というべきか快適とはいえず、雨風をしのぐ寝床として何とか体裁を保っているような環境だった。
そこに自分以外の人間も利用しているのだから、プライベートなんてあってないようなものだ。
そんな場所に払っていた金を別のところに回せれば、今の生活をどの程度マシにできるか。
男は想像を巡らせた。
食事をもう少し健康志向にしたり、たまに酒を嗜む余裕もできるかもしれない。
今まではシャワーだけだったが、銭湯で大きい湯船に浸かれるだろう。
日々の生活で培ってきたシビアな金銭感覚が、この状況を受け入れる準備を始めていた。
保育士が言うには、不自然な出来事は以前から起きていたらしい。
誰も使ってないはずのシャワー室が濡れていたり、余りの給食がなくなっているなんてこともあったようだ。
「ふ~ん……そうきたか。そうして男は保育園のドラキュラになったわけだ」
だけど俺の話を真面目に聞く気はないようだった。
話を盛っているか、こじ付けたとでも思っているのだろう。
「なに言ってんだよ兄貴。ドラキュラの方が怖いに決まってるじゃん」
結局のところ、俺の恐れるドラキュラは“あの頃”にしかいなかった。
自分が今よりも無邪気で、無知で、無理解だった“あの頃”にしか。
俺たちの目的は徒労に終わったけれど、それが知れたことだけは唯一の慰めかもしれない。
男は目を泳がせながら、たどたどしく説明を始めた。
「自分は、ここで働く、その、一人で」
俺たちの猛攻がよほど応えていたのか、紡ぐ言葉は途切れ途切れだ。
住まいが遠くにあるため、帰るのが億劫な日は仕事場で泊まっていたらしい。
「それに、ここの扉を塞いでいたのも、あなたでしょう。何でそんなことを」
「そ、そりゃあ職員とはいえ、こんな所で寝泊りするのは、その、ね? あまり誉められたことではない、だろ?」
要領を得ないけれど、何となく言いたいことだけは伝わる。
腑に落ちないところはあったけれど、俺はそんなことを気にも留めなかった。
ドラキュラがいなかったという事実の方に打ちのめされていたからである。
ずっと感じていた寒気も、単に冷房が効いてただけ。
安堵と落胆が同時にやってきて、体全体を疲労感が包んだ。
正直、俺はドラキュラがいることを100%信じていたわけじゃない。
せいぜい五分五分の半信半疑、いや実際には信じていない割合の方が高かったかも。
それでも思い出の中にあるシガラミが頭をもたげることはあった。
保育園のドラキュラについて話した時、兄貴が哀れな目を向けたのはきっかけに過ぎない。
俺たちは物置部屋を後にし、鍵を返すため事務室にとぼとぼ向かった。
結果が拍子抜けでも、帰り道のことを考えないといけないのがツラいところだ。
「あっ」
そんな油断に付け入るかのようだった。
「えっ、えっ」
保育士は混乱していた。
無理もない。
自分が案内している子供とソックリの人間が二人いて、見覚えのない者達までいるのだから。
「というわけで、先生が話していたドラキュラが本当にいるのか確かめようと……」
保育士は終始、怒ることもなく、落ち着いた様子で話を聞いていた。
当時の記憶ではもう少し怖い人だと思っていたので、その反応が少しだけ意外だった。
「わざわざ替え玉まで用意するなんて……回りくどいことするねえ」
感心するような、呆れるような口ぶりで感想を洩らす。
その穏やかな対応に、なんだか俺たちは気恥ずかしくなった。
ちょっとした罰のつもりなのか、保育士はいじわるそうに尋ねてきた。
「え? 屋根裏?」
けれど俺たちの返答は、保育士が思っていたよりも予想外なものだったらしい。
「マスダ、それ内緒にしてくれって言ってたろ」
ここまできたら全部話そう。
「……そんな人ウチでは働いてないよ」
しかし保育士から返ってきた言葉は、俺たちにとっても予想外なものだった。
「な、なに? どういうこと?」
その場にいなかったドッペルは、状況を把握できずオロオロしている。
「や、やめっ……」
察しの通り、放たれたのは聖水だ。
主成分は水と塩で、ここに聖職者の祈りを込めることで完成するらしい。
駅前でいつも何かやってる教祖がいるんで、そいつに作ってもらおうとしたんだけど断られた。
あの教祖、「うちの宗教はそういう事やってません」とか言ってたが、じゃあ何ができるんだよ。
「一張羅なんだよ、やめてくれっ」
そんなわけで、いま使っているコレは俺の手作りだった。
気休め程度にしか思っていなかったが意外にも効いているようだ。
今まで気づかなかっただけで、俺には魔を祓う力があるのかもしれない。
俺は気を良くして、今度は米袋を聖なるイメージで放り投げる。
「これでも喰らえ!」
「マスダ、その米はバラ撒かないと意味ないよ。吸血鬼は散らばったものを数える習性があって……」
そこからは皆ガムシャラに、持ってきた撃退グッズを手当たり次第に使っていく。
「私も探したんだけど、ウチにある銀製これしかなかったのよ!」
「いででで!」
形勢は一方的だったが、ドラキュラの行動次第では簡単にひっくり返るかもしれない。
何をしてくるか分からない相手だから、そもそも何もさせない必要があった。
「弱り始めたぞ」
気の抜けない攻防が続く中、いよいよドラキュラの動きが鈍った。
やるなら今だ。
「よし、木の杭だ! ハンマーを!」
「……え?」
「え?」
木の杭を持ってきたはいいが、それを打ち付ける道具を忘れていたのである。
「……火種は?」
「他に倒す方法ないのか?」
「えーと、確か首を切り落とすと再生できないらしい」
「そんな刃物、用意できねえよ」
「ま、待ってくれ! さすがに殺される謂れはないぞ!?」
俺たちが止めを刺す方法で悩んでいると、ドラキュラが命乞いを始めた。
「それにさっきからドラキュラ……って、何か勘違いしてないか?」
「往生際が悪いぞ」
「僕たちの攻撃にあれだけ苦しんでおいて人間だなんて無理があるよ」
一理あるかもしれない。
「じゃあ、この植物を自分で食べてみてよ。そしたら話くらいは聞いてやる」
「……これトリカブトじゃないか!? そもそも、これが効くのは狼男の方だろ」
え、そうなのか。
俺はミミセンの方へ顔を向けた。
「確かに元は狼男を退ける物だけど、ついでに吸血鬼にも効いたはず。銀の銃弾とかもそうだし」
なんだか間の抜けたやりとりが続き、そのおかげで俺たちは冷静さを取り戻した。
改めて男の姿を見てみると、なんだかドラキュラって風貌じゃあない。
口から覗かせる歯は並びこそ悪いものの、「牙」といえるほど鋭くはない。
いや、それだけでこうなるとは考えにくい。
そして、それが出来るのは“部屋の中”にいた者だけ。
凍りつくような冷気が背筋を吹き抜けていくのを感じた。
慌てて俺たちは一階と同じように隊列を組む。
何度も周囲を見回した。
いや、焦りから視線が泳いでるだけ、といった方が正しいかもしれない。
「ダメだ、どこにもいないよ!」
「私、女だけど、ミミセンの方が血液サラサラしてて飲みやすいわよ!」
「おい、タオナケ! 仲間を売るんじゃない!」
いつ解かれるかも分からない緊張感に耐えられず、俺たちの陣形は乱れつつあった。
こちらの様子を窺っているかもしれない相手に、そのような隙を晒すのはマズい。
早く見つけないと。
けれど一瞥しただけで分かるほど狭い空間には、どう見ても潜める場所は存在しない。
見落とすような場所なんて……。
その時、ハッとした。
「そうか、屋根裏だ!」
仲間も一斉に天井へ顔を向けた。
「で、出てこい!」
何の反応も返ってこないが、俺たちは警戒を解かない。
「ほれっ!」
シロクロは近くにあったモップを拾いあげると、天井をドンドン突いた。
すると、バタッと大きな音がした。
己を奮い立たせるように、二度目の威喝は全力でやった。
その後またも静寂が流れたが、今回は数秒と続かない。
「えっ!?」
俺たちがその状況を理解する間もなく、その空間から何者かが勢いよく降りてくる。
虚を突かれた俺たちは不覚にも立ちすくんでしまう。
ただ一人、シロクロだけは怯まない。
何者かが降りてきた時には、既に前傾姿勢で走り出していた。
「は? ドラキュ……」
ドラキュラは催眠術を唱えようと言葉を紡ぐが、わずかだけシロクロのタックルが早かった。
「ぐえ! な、なにを……」
床に倒れこんだドラキュラに、すかさずシロクロはマウントポジションをとる。
一気に勝負を決めるつもりのようだ。
「行くぞ!」
そう言ってシロクロは、なぜかニンニクを自分の口に放りこんだ。
突然ニンニクを食べだしたシロクロに、ドラキュラは戸惑いの表情を浮かべる。
俺たちも困惑していた。
「シロクロ……それは自分にじゃなくて、ドラキュラに使うんだ」
「え、そうなのか……ぶうぇっ!」
それがドラキュラの顔にぶっかかる。
「ぎゃああ!?」
ドラキュラが情けない叫び声をあげながら、足をバタつかせている。
どうやらニンニクが効いているようだ。
この隙を見逃してはいけない。
「俺たちも続くぞ!」
踊り場はないようで、10段ほどの短い階段が扉へまっすぐと続いていた。
仕方なく、俺たちは隊列を組みなおす。
「じゃあ俺が前で、ミミセン、タオナケの順で行こう。いちばん後ろは頼むぞ、シロクロ」
「えー、オレが切り込み隊長やりたい!」
シロクロが、これ見よがしに不服のポーズをとった。
俺も戦闘要員のシロクロを一番前にしたいのは山々だ。
けれど何らかのトラブルで階段から転げ落ちたとき、シロクロの巨体を俺たちでは受け止めきれない。
不満げなシロクロをなだめて、俺たちは二階を目指した。
今までは多少なりとも心に余裕があったが、さすがに体が強張っている。
震えで踏み外さないよう、階段をひとつひとつ慎重に上っていく。
そうして短い階段を一分ほどかけて、俺たちは二階の扉前へたどり着いた。
「……よし、開けるぞ」
自分の中で躊躇いが生まれないよう、俺は考える間もなく扉を開けようとする。
バンジージャンプとか絶叫系のアトラクションと同じで、こういうのは思い切りが大切なんだ。
「……あれ」
けれど、そんな俺の勇気を嘲笑うかのように、扉は開こうとしなかった。
ドアノブを見る限り鍵はついていないのに。
念のため引いてもみたが、やはり開かない。
「建てつけが悪くなってるのかな」
この手ごたえは、どちらかというと“内側から何かが押さえつけている”ような……
「任せろ!」
俺がその予感を口にするよりも早く、後列にいたシロクロが声をあげた。
「ちょっ、シロクロ……」
シロクロは長い足を使って、前にいたタオナケとミミセンを強引に跨いでいく。
そして扉前にいた俺に覆いかぶさるような体勢でドアノブに手をかけた。
シロクロはドアノブを勢いよく回すと、体重をかけてグイグイ押し込む。
それに呼応して、扉がミシミシと不吉な音をたてる。
止めようとした時には既に手遅れだった。
「ふんっ!」
シロクロが大きな鼻息をあげると同時に、バキっと鈍い音が響いた。
「よし、開いたぞ」
シロクロは満足げに開いた扉を誇示する。
少し呆れながら、俺たちは中に入っていく。
二階の物置部屋は、一階に比べると小ぢんまりとしていた。
埃をかぶった用具が部屋の隅っこにあるくらいで、棺桶だとか目を見張るようなものはない。
「なーんだ……これのせいだったのか」
扉近くに目をやると、木製の椅子が無残な姿で横たわっていた。
どうやらこれが引っかかっていたせいで開かなかったらしい。
塞いでいた犯人がドラキュラじゃなかったことに、俺は安堵の溜め息をついた。
けれど、それも束の間。
「ちょっと待って。どうやってドアを塞いでいたんだ、これ?」
ミミセンの指摘に俺たちは息を呑んだ。
扉を開くと、中からひんやりとした空気が溢れて俺の肌を掠めた。
どうやら、それを感じたのは自分だけじゃなかったらしい。
それとも中にいる“何か”が発しているのか。
ミミセンの提案で、俺たちは様々な撃退グッズを持ち寄っていた。
このあたりは俺もよく知っている吸血鬼の弱点だ。
塩水入りの水鉄砲、サンザシの枝、兄貴が修学旅行で買ったアクセサリ。
纏まりのない物ばかりのように見えるけれど、どれか一つでも効いてくれることを祈るしかない。
「さあ、行こうか」
意を決し、俺たちは物置部屋へ足を踏み入れた。
室内の温度は、まるで真夏を感じさせない程ひんやりとしている。
この寒気、やはり気のせいでは済ませられない。
「ここから厳戒態勢だ」
物置部屋は行事で使うオブジェで溢れており、10畳ほどの面積を半分は埋め尽くしている。
まだ日中だから吸血鬼は寝ているだろうけど、これらオブジェの中に紛れ込んで隙を窺っているかもしれない。
俺たちは背中合わせに隊列を組むと、その状態でゆっくりと進行していく。
ミミセンは全ての音を拾おうと、ここに入ってからずっと耳当てを外したままだ。
タオナケはいつも以上に眼光が鋭く、いつでも超能力を発動できるよう神経を尖らせている。
シロクロだけはいつも通りだったが、この状況下ではそれが俺たちの精神的支柱にもなっていた。
「みんな、棺桶を探すんだ。ドラキュラがいるなら絶対にあるはず」
俺も小さい頃は同じ枕じゃなきゃ寝られなかったけど、ベットごと必要だなんて随分と繊細なんだな。
数々の弱点といい、何だかドラキュラが少し可哀相にも思えてきた。
「僕の見ている方には何もないね」
「私も見る限り、それっぽいものはないわ」
そうして、しばらくオブジェの山を見渡していたが、目ぼしいものは見つからなかった。
念入りに調べたい気持ちもあるが、人ひとり入っているような箱だ。
「となると……やはり二階か」
当時の俺も、一階の物置部屋は何度も見たことがある。
その時も、それらしいものを見た覚えはなかった。
だから可能性として高いのは、俺が見たことも行ったことすらない二階だろう。
「ちょっと待って」
それを使って、中の様子を間接的に覗き込むようだ。
「何でそんなもの持ってるんだ」
「吸血鬼は鏡に映らないから、人間かどうか見分けるために持ってきたんだ。けれど、こんな形で役立つとはね」
そう言ってミミセンは自嘲気味に笑ったが、おかげで部屋の様子は分かった。
現在、中には年長の男性が一人、室内で最も奥にあるであろう場所で座っているらしい。
特徴的な髭を貯えていたから、たぶん俺の知っている園長と同一人物だろう。
しかし肝心の鍵が、どこにあるか見えない。
「ひょっとして、事務室にはないのかも……」
「いや、俺の記憶が正しければ鍵棚があったはず。ここからだと死角になってて見えないんだと思う」
となると、後は園長の気をどう逸らすかだ。
「頼む、タオナケ」
「私、待ちわびてたんだけど、ここでやっと出番ってわけね」
そして園長の近くにあった表彰状へ向けて、鋭い視線を突き刺す。
そのまま凝視し続けること、5秒、6秒、7秒……
「……まだか?」
「私、急いでいるけど、あんたらが急かしても早くはならないわ」
タオナケは特定の物体を破壊することが出来る超能力を持っている。
けれど色々と制約が多く、しかも成功率は5回に1回といったところ。
その上、この日は本調子じゃないようで、いつも以上に手間取っていた。
「ああ、もう!」
タオナケが苛立ちの声を上げると同時に、周りの空間が一瞬だけ歪んだ。
「わっ、なんだあ?」
「背を向けたぞ、今だ」
近くにいる園長のプレッシャーを感じながら、鍵棚があるであろう場所へ直進する。
記憶どおり、鍵棚はそこにあった。
自分の記憶力を誉めてやりたいところだが、今はそんな暇はない。
俺はすぐさま物置部屋の鍵を拝借し、そそくさと事務室から出て行った。
とんだ回り道もしたが、俺たちはやっと物置部屋までたどり着いた。
入り口の扉は何の変哲もなく、表札には「物置」と素っ気なく書かれているだけ。
湧き上がる恐怖を振り払うかのように、俺は思い切って錠に鍵を差し込む。
そして勢いよく捻ると、扉はガチャリと開錠を告げる。
「……開いてしまった」
その言葉が口から漏れ出るのを、俺はギリギリ間一髪すんでの所で止めた。
まったく、ここまで来ておいて、何を弱気になっているんだ。
心の中で自分のケツを引っ叩きながら、俺はドアノブに手をかけた。
ミミセンの作戦は、こうだ。
それぞれ配置についたらトイレで合流。
そこでドッペルが俺と入れ替わり、同伴の先生を陽動する。
そう、さっきトイレから出てきたのは俺じゃなくて、俺に変装したドッペルだったんだ。
「久々に会った相手の顔なんて、正確に覚えているはずがない。それにドッペルの変装だ」
ドッペルは変装の達人で、特に俺に化けた場合は仲間でも見分けることができない。
あの先生が兄貴並に勘が良かったとしても、しばらくの間は大丈夫だろう。
「二人が向かった広場は、物置部屋の反対方向にある。しばらくは戻ってこないはずだ」
そうは言っても悠長にはしていられない。
そうなったら隠れようがない。
俺たちは足早に物置部屋を目指す。
廊下に並んだ各部屋の扉は窓突きであり、その面積は上半分にも及ぶ。
なので俺たちは屈みながら移動していたんだが、長身のシロクロは四つんばいで歩いていた。
「みんな走るんじゃないぞ。常に足のどちらかは地面に接地して、素早く歩くんだ」
「くねくね、競歩スタイル! NA・KA・TA! NA・KA・TA!」
「やめろシロクロ」
「私、シロクロは仲間だと思っているけど、今回の作戦に連れて行くのは失敗だったんじゃないの?」
「そう言うなよタオナケ」
もしドラキュラと相対した場合、正面からマトモにやり合えるのはシロクロだけだ。
それに何だかんだいって物置部屋までもうすぐだ。
「よし、後はこの突き当りを曲がれば……」
「ちょっと待って、マスダ」
その時、ミミセンの静止が入って俺はギクリとした。
「誰か来るのか!?」
このタイミングで誰か出てくるのはマズいぞ。
俺たちが今いる場所は一本道な上、周りに遮蔽物が少なく隠れるのが難しい。
「そうじゃなくて、事務室に行かなくていいの?」
「……あっ」
思わず声を漏らす。
そうだ、気が急いて大事なことを忘れていた。
物置部屋には鍵がかかっているはず。
俺たちは鍵を手に入れるため、少し進路を変えて事務室に向かった。
突然の訪問だったが、知り合いの保育士がいたためスンナリと入ることできた。
「おー、マスダくん。また会えて嬉しいよ」
「久しぶり、先生」
先生はプールの時間、水に顔をつけることすら出来なかった俺を半ば強引に潜らせたことがあった。
この人と対面すると、あの時の息苦しさを思い出して言葉を詰まらせてしまう。
おかげで泳げるようになったわけだから感謝してはいるけれど、だからといって割り切れるものじゃあない。
「それにしても今日はどうしたの?」
「え、いやー、たまたま近くを通りかかったから懐かしくなっちゃって……」
物置部屋の件は伏せて、取りとめもない返事で誤魔化した。
吸血鬼は招待されなければ家の中に入ることが出来ない。
つまり、もし本当にドラキュラが園内にいた場合、奴を匿っている人間がいることになる。
その疑いは園内の関係者全てに及ぶ。
もし俺の考えすぎだったとしても、現時点で“ドラキュラがいるのか確かめに来ました”なんて言うのは賢明じゃないだろう。
こうして先生の案内の下、一通り園内を見て回った。
後は俺に同伴している先生だけどうにかすればいい。
やるなら今のうちだろう。
俺はわざとらしく股間を押さえながら、近くのトイレルームに駆け込んだ。
「おっと、大丈夫? じゃー、終わったら言ってね」
先生は出入り口近くで待機し、さすがにここまではついてこない。
「予定変更なし。みんな配置につけ」
間もなく、俺の入っている個室の扉が開かれる。
「もういいの?」
洗面所で手を洗いながら、そう答えた。
「じゃー次はどこ行く?」
聴こえるのは“俺たち”の吐息だけだ。
「……どうだ、ミミセン。周りに誰かいるか?」
ミミセンはヘッドホンを外すと目を瞑り、全神経を耳元に集中させた。
「私、共用トイレの匂いは気にしない方なんだけど、この湿気っぽい感じは何か慣れないわ」
「水洗の音を聞いてたら催してきた……」
「しっ! みんな黙ってて。音の選別は苦手なんだから……」
敏感なので普段は封印しているが、いざ解放されれば精密な索敵機と化す。
「……音がしない、近くには誰もいないよ」
「よし、行こう!」
意味のない意地を張ったとは思う。
だが張ったからには、自分の思い出に決着をつけなければいけなかった。
あの物置部屋に行って、ドラキュラがいるかどうか確かめなければ。
鬼が出るか蛇が出るか、いずれにしても怖気づいてはいられない。
たとえ不都合な真実が待っていたとしても、このまま家にノコノコ帰るわけにはいかなかった。
「……というわけで、ちょっと協力してくれ」
「にわかには信じがたいね。そもそも“ドラキュラ”はキャラクター名であって、吸血鬼全般を指す言葉ではないし」
ミミセンがどうでもいい薀蓄を垂れる。
ドラキュラが固有名詞かどうかなんて今は問題にしていないんだけれど。
「ま、マスダの兄ちゃんが言ってることの方が……す、筋は通ってる、かな」
たどたどしく喋っているのはドッペルだ。
いつもは割と乗っかってくれるのだが、説明するのに兄貴の名前を出したのが迂闊だった。
ドッペルは兄貴に懐いているから、意見が割れたらあっちに味方する。
「私、予定あんだけど、そんなことのために呼びつけたの?」
タオナケが溜め息交じりにボヤいた。
連絡の際に二つ返事で応じていたから、どうせ大した予定じゃないだろう。
それでも期待はずれな用事だったせいか、かなり不機嫌になっている。
そんな感じで、皆あまり協力的ではなかった。
ドラキュラの存在を疑っていたと同時に、内心恐れてもいたからだろう。
「そいつは強いのか?」
「つまり、そいつを倒せば俺は名実ともに最強の男になるわけだ」
けれど、ただ一人、仲間のシロクロはやる気に満ち溢れていた。
けれども、さすがに俺とシロクロだけじゃ不安だった。
万全を期すなら全員の力が必要だ。
「みんなは不安じゃないのか? この町にドラキュラがいるかもしれないのに。その可能性を、大人たちは可能性とすら考えない。でも俺たちは違う!」
多少の無理を承知で、俺は勢いに任せて皆を説得する。
「夜になると、ヤツは目を覚まして血を追い求める。蚊にさされる方がマシだってくらい吸われるんだ。それは俺たちかもしれないし、俺たちの家族かもしれない」
不安を煽りながら、これは必要なことで、自分たちにしかできないことだと熱弁した。
「私、ドラキュラなんて信じてないけど、まあ確認するだけならいいかもね」
その甲斐もあり、皆も腹も括ったようだ。
俺たちは阿吽の呼吸で頷くと、おもむろに保育園のある方角へ走り出した。
そのことを知らされたのは俺が保育園に来て数ヵ月後のことで、その日は何もかもが不自然だった。
保育士の先生は紙芝居の続きを読み聞かせると言って、俺たち園児を物置部屋へと連れていったんだ。
廊下からして人けがなくて暗がりだったから、みんな怖がって通らないようにしていたんだ。
「入る前に言っておきたいことがあるんだけど……この部屋の二階にはね、とっても“こわーいヒト”が眠ってるの」
先生はおどろおどろしく言った。
「そのヒトはね……青白い顔で……牙があって……人間の血が大好物なの」
勿体つけて、重苦しく、先生は“そのヒト”の断片的な特徴を紡いでいく。
園児の一人が声を荒げた。
「そう、ドラキュラ! 彼は太陽の光がダメだから朝は寝ている。でも、あまり騒ぎすぎると……さすがに起きちゃうかもね」
聞き慣れない情報に正直ピンとこなかったけれど、それでも俺たちは震え上がった。
とにかく恐ろしい化け物が、この物置で眠っている。
非現実的で、捉えどころのない存在が身近にいるかもしれないという感覚。
俺たちが怖がるには、それで十分だったんだ。
「さあ! 紙芝居『アリババと350gの野菜』の続き、読んでいきますよ~」
先生は意気揚々と読み始めたが、俺は終始ドラキュラの存在が気になって紙芝居どころではなかった。
結局、モルジアナが熱々の油で野菜をどうするのかは今でも分からずじまいだ。
倉庫室へは、それからも紙芝居の度に足を運んだけれど、俺は何とか卒園することができた。
この話をすると、兄貴は肩を震わせて笑った。
「真顔で何を話すのかと思ったら……それはズルいぞ、お前……」
俺は戸惑った。
せいぜい口元を歪ませるくらいで、それだって手で覆い隠して見えないようにする。
「何がそんなにおかしいんだよ」
「いや、そのつもりで話したんだろ」
「そのつもりって何だよ」
「ん?」
「は?」
「ドラキュラがいるってのは、ガキを怖がらせて静かにさせるための作り話だろう。あの頃のお前が真に受ける分には可愛いもんだが、今のお前が言うとさすがに……可哀想になってくるぞ」
けれども、兄貴の言い方には向かっ腹が立った。
「ドラキュラを見たこともないのに、何でウソだって決め付けるんだよ」
「見たことないから、いないって言ってるんだよ。お前だって見たことないくせに何を根拠に信じてるんだ」
俺は反射的に噛み付くが、マトモな反論は何一つできなかった。
「千歩譲ってドラキュラがいるとして、それが一介の保育園で眠ってる意味が分からない。そんな場所で紙芝居を読み聞かせる先生のメンタルどうなってんだよ」
「ぐう」
ぐうの音を出すのでやっとだった。
「そこまで言うなら証明してやる! 神妙に待ってろよ!」
たまらず啖呵を切って、俺は家を飛び出した。
センセイに言わせると、これは「いずれ起こりうる問題」だったという。
この一件は非常に突発的なもののように思えたが、水面下ではフツフツと沸きあがっていた問題だった。
その沸点を突破したのが偶然あの日で、それに巻き込まれたのが俺というだけ。
結局、この一件が決定打となって栞サービスは終了を余儀なくされた。
店が繁盛してハイになっていたマスターも、さすがに暴力沙汰が起きたとあっては目を覚ますしかない。
「店の雰囲気も悪くなる一方でしたし、対処せざるを得えんでしょう。電車には座席と空調を、ホームには自販機と立ち食い蕎麦を、トラブルにはルールとマナーを。それが無理なら運営なんてしない方がいい。場末のサ店にも同じことは言えるでしょう」
栞サービスがなくなると客足は自然と遠のき、店には古参の常連だけが残った。
こうして、このブックカフェは以前の穏やかな雰囲気を取り戻したんだ。
「個人的にはホッとしたけど、バカがバカやったせいで台無しになるってのも気の毒な話ですね。もしサービスの利用者が健全な人間ばかりなら、終わるにしても“こんな形”ではなかったでしょうに」
「散々オレらが忠告した結果の“案の定”だから同情はしないけどな」
「あのサービスは人々の漠然とした発露欲をくすぐり、悪意の種を蒔く播種機だった。その側面があった以上、ああなることは必然だったといえる。マスターにとっては不本意な話かもしれませんが?」
タケモトさんは悪態をつき、温厚なセンセイも心なしか当たりが強い。
そうはいっても、未だ常連を続けているから情は残っているのだろうけれど。
少なくとも、この件で素っ気なくなった奴らよりはマシだ。
「しかし、パタリといなくなりましたね、あいつら。サービスやめたら文句つけてくると思ったけど」
「別ん所でよろしくやってるようだぜ。隣町のネットカフェで、似たようなサービスやってるみたいで」
「はあ、懲りないなあ」
あのサービスが悪意を育てる手助けをしたのは確かだけど、種そのものは彼らが元から持っていたものだ。
土壌があれば根付き、そこで実となり花となる。
それは超自然の摂理であり、今回たまたまマスターの店が狙われたってだけなんだろう。
花粉症の人間には傍迷惑な話だが、これからも彼らは栞のためにページを捲り、巡らせていくのだろう。
階はただ延々続く 話しながら 謳いながら
いりませんNONON 僕ら
あの向こうの もっと向こうへ
僕らの栞を 僕らの言い分を
大げさに言うのならば きっとそういう事なんだろう
気にしないゼ 自分語ろう
気を抜いたら ちらりと わいてくる
僕らは熱さを 僕らは付け込みを
お気持ちの表明と けして枯れない舌先を
大げさに言うのならば きっとそういう事なんだろう
誇らしげに言うのならば きっとそういう感じだろう。
「最初から傾向はあったけれど、ランキング制がその方向性を決定付けたといえる。この星形シールは小宇宙戦争における勲章であり、権威の象徴なのだろう」
俺は栞に何かを書くことも、シールを貼って評価することも、あくまで“本来の目的”に付加価値をつけただけと思っていた。
だが違う、“逆”だったんだ。
彼らにとって大事なものは栞にこそあって、その対価としてシールが存在していた。
本はそのための土台に過ぎない。
食玩のように“本来の目的”は菓子ではなく、おまけの玩具の方にあった。
本のために栞があるのではなく、栞のために本があったんだ。
「あんな星屑のために権力闘争ごっことはな。ナンセンスって言葉はこのために生まれたんだろう」
タケモトさんの露悪的な言動も、事ここに至っては適切に思えた。
「はー……」
自分の「せめて理解しよう」という生半可な歩み寄りは、まったくもって甘かった。
同じ空間にいる同じ人間のはずなのに、異世界に見たこともない生き物が佇んでいるように見える。
むしろ近くで見れば見るほど、その認識は強固になっていくようだった。
彼らは優雅にコーヒーを飲みながら読書を嗜んでいるように見えて、その実は泥水をすすりながら栞と睨めっこしていたんだ。
その有り様は思っていたよりも複雑で、多様で、繊細で、滑稽だった。
様々な感情がない交ぜになり、咀嚼は困難を極め、飲み込むなんて以ての外。
本に張り巡らされた紋様だけの栞と、そこに降り注ぐ流星雨。
「きっしょ……」
一日に二回も“きっしょ”なんて言ったのは初めてだ。
しかし俺のボキャブラリーでは、それ以上に妥当な表現が分からなかった。
「おい、テメー!」
俺が本についた栞を眺めていると、突如として謎の怒号が店内に響いた。
「テメーだったのか!」
店内にいた一人の男が、そう言いながらズンズンこちらに近づいてくる。
「やっと見つけたぞ! ボブ!」
男は俺を指差した。
ボブ……って、まさか俺のことを言っているのか?
「ここで会ったが百年目! 恨みを晴らしてくれる!」
男の様子からして、ただ事じゃないのは確かだ。
しかし俺には全く身に覚えがなかった。
「あの、何に怒っているか分かりませんし、あなたと俺は今日が初対面でしょう。それに俺の名前はボブじゃないんですけど……」
この時、たまたま俺が持っていた栞はボブの物だったらしい。
それで俺がボブだと勘違いしたようだ。
「いや、俺はボブじゃないですよ」
「散々、おれの書くことにケチつけやがって……そのせいで周りまで追従してバカにしてくる。それもこれもテメーのせいだ!」
というか仮に俺がボブだったとして、逆恨みもいいところだ。
所詮このブックカフェ内で起きた小競り合いだし、今まで面識もなかった相手だろうに、なぜここまで怒り狂えるのだろうか。
俺の冷めた視線が男を逆なでしたらしいが、多分どう対応しても無駄だったろう。
完全にノイローゼだ。
「おれをここまで追い詰めた、テメーが悪いんだ!」
男は叫びながら、こちらに向かって猛スピードで突っ込んでくる。
その行動に対し、俺は驚きや恐怖よりも諦念に近い感情が湧きあがった。
俺は溜め息を吐きながら、受身を取る準備をする。
「マスダ、危ない!」
しかし吹っ飛ばされたのは男の方だった。
センセイが間に割って入り、男を天高く放り投げたのである。
投げられた男は勢いよく本棚に突っ込み、崩れ落ちた本に埋もれてしまった。
静観を決め込んでいた他の客も、これにはザワつく。
「センセイ、助けてくれて感謝しますけど、ちょっとやりすぎたんじゃ……」
「相手が武器を持っている可能性も考えたら受け止めるのは危険だった。これがベターだよ」
マスターはブックカフェをより繁盛させるため、更なるアイデアを投入した。
「多くのシールが貼られた栞は、このように目立つ場所に配置して、ささやかながら表彰しようと思うんです」
「何でそんなことするんだ?」
「このサービスを利用している方々は、他人の栞にも興味があるわけです。けれども、お客が増えていくにつれ栞も増えていきます。それらに全て目を通すのは大変でしょう」
「だから店側で、人気のある栞は選別しておこうと?」
「その通りでございます」
嬉々として説明するマスターに対し、タケモトさんとセンセイは難色を示した。
「一人で複数シールを貼ったり、自分の栞に貼るような人もいるんじゃないですか?」
「どれだけ貼っても同じ人なら1ポイントとして数えます。見分けがつくよう客ごとに印もつけるので大丈夫ですよ」
「誰がどの程度シールを貼ったかなんて、ほとんどの奴はちゃんと見ないと思うぞ」
二人は今まで、思うところはありつつも直接的な意見はしなかった。
しかし、この時ばかりは強く反対したという。
「そういう支持システム自体が危ないんだよ。一般社会と異なる環境で、烏合の衆に名声をチラつかせても持て余すだけだ。どれだけシールを貼られようが、そんな物に大した意味はない」
「そうです。有象無象の意思決定は、不必要な自信と愚かな決断にも繋がる。彼らの曖昧な“発露欲”に不必要な価値をつけ、イタズラに煽るべきじゃない」
「各々が思うまま栞に感想を書く。そんな単純な行為を権威付けたら角が立つ」
「そもそも本来のサービス意図から離れてる。栞は読書のための補助グッズであって、ちっぽけな自尊心を満たすための落書き帳じゃないはずです」
二人は説得に言葉を尽くしたが、マスターは「もう決めたことだ」と取り合わなかった。
「お二人の言っていることも分からなくはないですよ。ですがウチだって慈善事業じゃないんです。需要があれば供給します」
「それがワガママな客をつけあがらせるとしてもか?」
「店をやっていくなら、時にそういうことも必要なんですよ。鉄道だってそうでしょう。移動目的だけでいいならば電車に座席も空調もいりません。ホームに自動販売機や立ち食い蕎麦だっていらない」
半ば道楽で経営していたマスターにしては、随分とビジネスライクな考え方だった。
こうして栞サービスにランキング制が導入されたが、二人の予想どおり事態は殺伐となった。
これを受け入れる者も多くいたが、それは悲喜こもごも表裏一体なもの。
上位になれば裏でほくそ笑み、納得がいかなければ暗い情念を宿す。
その渇きがなくなることはない。
栞に「シールを貼ってください」なんていう恥も外聞もない人間もいるほどだ。
納得がいかなくて他の栞に文句を書き連ねたり、レスポンスが極めて悪い媒体なのに議論を試みる者までいた。
中には、一人で同じ本に何枚も栞を貼り付けて、血で血を洗う戦いに身を投じる者もいるらしい。
なるほど、あの本が百足のようになっていたのも、それが原因か。
栞に感想が書かれていることも、貼られている星型のシールについても、既に知っていたこと。
それらが予想の十数倍ほど過剰だっただけだ。
「なんだこれ、どうなってるんだ?」
しかし込み上げてくる拒否感が俺の思考を鈍らせ、なかなか理解が追いつかない。
本と栞という単純な組み合わせ。
それを、ここまでエゲツなくできるという現実が、あまりにも衝撃的だった。
「なあ、マスダ? だから言っただろ」
「君が思っているよりも世の中は狭くて大きいんだよ」
タケモトさんとセンセイが「やっぱりな」といった具合に近づいてくる。
俺がどう反応するかなんて織り込み済みだったのだろう。
「ど、どうして“そんなこと”になるんです!?」
俺は狼狽し、まるで助けを求めるかのように回答を求めた。
「ガリ勉の参考書だって、ここまでゴチャゴチャしていない。複数の人間が読んでいるにしたって、一つの文庫本に挟まっていい栞の数じゃないですよ」
「要因は様々だが、あえて決定的な理由があるとするならば“コレ”かな」
センセイは落ちた本を拾い上げると、その中から一つの栞を俺に見せた。
「えーと……『この文章で伝わらない人がいるのは不思議だ。これは文化について何が正義かなんて決めようがないという話なんだよ。その儀礼にどのような態度を取るにしろ、その時に正しさを根拠にすべきじゃないってこと』……?」
「この際、書いてある内容はどうでもいい。他の栞との違いを見てみるといい」
言われた通り見比べてみると、確かに他の栞と少しだけ趣が違う。
付箋タイプの栞は見返し部分に貼り付けられ、本の天部分から大きく顔を覗かせていた。
貼り付けられたシールの数も多く、この本を開けば真っ先に目につく栞だろう。
「色んな人にシールを貼ってもらえた栞は、このようになるんだよ」
「つまりマスターの判断で、人気のある栞は目立つ場所に貼られるってこと」
そんなことされても迷惑なだけだろう。
マスターは一体なにを考えているんだ。
「位置を勝手に変えられたら、自分が読んでいた途中のページが分からなくなるでしょ」
「別にいいんだよ。彼らは“そういう目的”で栞を使っていないから」
「はあ?」
説明されればされるほど、俺の頭にはクエスチョンマークが浮かび上がった。
「何事も距離感を大事にしたがる人間に踏み込んだ話をするのは時間の無駄だ」
二人は素っ気ない態度をとって、こちらの質問をウヤムヤにしようとした。
今になって考えると、それが彼らなりの仏心だったのだろう。
しかし、それで引き下がれるほど俺は懸命じゃなかった。
「そんな含みのある言い方しといて、そりゃないですよ。もう少し説明してください」
俺は話してもらおうと二人に食い下がった。
詳しく聞いたところで、正味の話このサービスに肯定的な考えを持てるかは怪しい。
それでも、共感できるか納得できるかなんてのは蓋を開けてみなければ分からないんだ。
初めから蓋を開けなければいいという選択肢もあったかもしれない。
だけど俺が数ヶ月かかえていた“違和感”を払拭するには、せめて理解することが必要だった。
理解できないものを否定したり、受け入れることは不可能だからだ。
「知らない方が身のためのだと思うがな」
何かを分かった気になって腐したり、管を巻いたりするのはガキと年寄りの特権だ。
ティーンエイジャーの俺が、それに甘んじるわけにはいかないだろう。
食い下がる俺に痺れを切らしたのか、センセイはひとつ提案をしてきた。
「どうしても気になるんなら、“あそこ”に行って適当な本を選んでくるといい」
なるほど、確かに言われてみればそうだ。
これまでの背景を二人から聞くより、現状から読み解いた方が理解は早いかもしれない。
俺は最も目立っている大きな本棚に近づく。
タケモトさんによると、人気の本はそこに多くあるらしい。
読書に興味がない俺からすれば、どれも同じようにしか見えないが。
とりあえず最初に目についた一冊を、おもむろに棚から引っ張り出した。
「おおっと」
それはA6程度の薄い文庫本だったが予想外に重く、俺はうっかり滑り落としてしまった。
「うわっ……」
開かれた本から、おびただしい数の栞が顔を覗かせている。
しかも栞には文字がびっしりと書かれ、大量の星型シールで彩られていた。
目がチカチカする。
「きっしょ……」
そんな粗雑な言葉を使ってしまうほど、この時の光景は鮮烈だった。
“きっしょ”なんて言ったの、自動販売機に羽虫が群がっているのを見たとき以来だ。
それは栞の本質を理解しないまま、あのサービスを利用しているのが一因だろう。
だから「栞に何かを書く」ことを享受する割に、それ自体の目的や欲望がハッキリとしない。
善悪や可否すら宙ぶらりんのままだ。
「漠然としている彼らにとって、この漠然としたシールはピッタリなのだろう」
誰かに貶されるわけでもないが、誰かが誉めてくれるわけでもない。
それを明確に可視化し、干渉できるこのシールは彼らにとって刺激的だったんだ。
「ただ……“ニーズに基づきすぎていた”んだろうな」
「どういう意味です、それは」
俺が尋ねると、二人が渋そうな顔をしている。
もちろんコーヒが苦かったら、ではないと思う。
本当に言うべき“何か”を避けて、口を歪ませている感じだ。
「……なあ、お前はどう思う、マスダ」
俺の疑問を他所に、逆にあっちが尋ねてきた。
「何がですか」
「今までの説明を聞いて、現状を見て、このサービスについて、どう思う?」
「……どうもこうもないですよ」
そう答えるしかなかったが、かといって嘘を言ったつもりもなかった。
だって俺がどう思っていようが、それは重要なことじゃないからだ。
例えば、連れ立った相手が服を選んでいる状況を想像してみるといい。
そして、その相手が「どっちの方が似合う?」なんて聞いてくるとしよう。
この時、俺の答えに意味なんてないだろう。
似合うと思う方を答えようが、天邪鬼で違う方を答えようが変わらない。
どっちでもいいと思ってテキトーに答えても同じだ。
いずれにしろ相手は服選びを悩み続けて、結局はこちらの意見と関係ない結論を導き出す。
タケモトさん達の質問も、要はそういうことだ。
一部の常連客の不安をよそに、栞サービスは存在感を強めていった。
「ホットで」
客たちは本を片手にペンを握り、黙々と栞に何かを書いている。
それが当たり前であり、しないほうが変だというくらいの勢いだ。
「近くに座りたくないな。なんか」
「あ、タケモトさん」
「よう、マスダ」
「やあ」
どうやら考えることは同じらしく、そこにはタケモトさんとセンセイもいた。
「そうか、参ったな。他にいい席あったっけ……」
「別に相席でも構わんよ、私は」
「遠慮すんな。“あそこらへん”に座るよりはマシだろ」
「……そう、ですね」
円卓を囲んだ俺たちは、それぞれ年齢も違えば趣味嗜好も違う。
共通の話題として、栞サービスの話を始めることは半ば必然といえた。
「それにしても、あんなに需要があったんですね。あのサービス」
「まあマスターも色々と工夫してるみたいだぜ。例えば、これとかな」
タケモトさんが、おもむろに星型のシールを取り出した。
「それは?」
「これを他の人の栞に貼るんだよ」
「ええ? なんでそんなことを」
タケモトさん曰く、その星型シールはSNSにおける「いいね!」みたいなものらしい。
栞サービス利用者の間で交流を望む人がいて、それに応える形で提供し始めたんだとか。
「何てことないシールだが、ユルく繋がれるってんで意外とウケはいいようだ」
「まあ、悪くないアイデアだと思いますよ。ニーズには基づいている」
「多分ですけどね。彼らは“栞に何かを書くという行為そのもの”には理由だとか是非を求めてないんです」
俺はグラス片手に、二人の会話をただ聞いていた。
個人的には興味のある話ではあったけど、アイスコーヒーを薄めてまで参加するほどじゃない。
「そんな大層なものではなく、より曖昧で、漫然とした、不確かな感情ですよ」
「ハッキリしねえなあ」
「そうです、ハッキリしない。けれど彼らにとって、それは大して重要じゃないんです」
センセイの言っていることは捉えどころがない。
前提の共有もエビデンスもあったもんじゃないが、お茶請けには悪くない持論だ。
「上手くいえませんが……“何かを発露したい”という欲求、といいますか」
「“呟き”……ツイッターみたいな?」
「そうですねえ。昔の偉い人が、そんなことを言っていたような気がします」
それに不思議と、会話の端々に真理めいたものがあるようにも感じられた。
俺の中に漠然とあった違和感、それを治めるのに二人の会話は丁度よかったのだろう。
「で、その心は?」
「つまり当人たちも自分たちが何でそんなことをしているか、実際のところは良く分かっていないってことです」
「はんっ、アホくさ」
いきなりの酷い例えに、俺たちのコーヒーを飲む手は止まった。
「横槍ですみませんが、できれば飲食店にふさわしい比喩表現を」
「おっと……こりゃ失礼」
近くにいたマスターに諌められ、センセイは分かりやすくションボリしていた。
顔を伏せていて表情は伺えないが、俺の席からでも分かるくらい耳を紅潮させている。
センセイは基本的に淑やかな人だが、話に熱が入ると周りを困惑させることが多い。
以前も独身貴族が「結婚は人生の墓場だ」なんてボヤいていた時、「しかし夜は墓場で運動会ですよ」と言って場を凍りつかせたことがあった。
水出しホットコーヒーを飲み終わり、家路に着いて、飯を食って、出すもん出して、ベッドに突っ伏しても、俺の言い知れぬ違和感は払拭されることがなかった。
むしろ、あのブックカフェに通うたび、それは徐々に顕在化していく。
「アイスで」
数週間ほど経った頃、店では緩やかな変化が起きていた。
店内にいる客は平均2~3人だったのが、ここ最近は10人近くまで及んでいたんだ。
「ここも随分と賑やかになったな……」
マスターいわく、最近の繁盛っぷりは栞サービスのおかげらしい。
特に好評だったのが、栞に本の感想を書くという独自の文化だった。
当初は一部の客だけがやっていた行為だったが、それが他の利用者の目にも留まった。
すると本を読む常連客の間で慣習化し、それを聞きつけて新規客も増えているんだとか。
「感想書くんなら、あんな小さい紙切れより、もっといいものがいくらでもあるだろうに」
「まあ、あれくらいコンパクトなものの方が、彼らにとっては丁度いいのかもしれませんね」
タケモトさんの隣席には、同じく常連のセンセイが座っていた。
理解に苦しんでいるタケモトさんに対し、センセイは違う視点から分析を試みているようだ。
「丁度いいって何だよ。ああいうのを他人の目に入るところで書く奴ってのは、自己顕示欲とか承認欲求の強いタイプだろ。短い文章でそれを満たせんのか?」
「うーん、もしかしたら“そこまでのものじゃない”のかもしれませんね」
「あん? どういうこったよ」
俺はひとまず“クエスチョン栞”という命名センスをスルーして、他に気になっていることを質問した。
「この人、店で用意した栞に感想なんか書いちゃってるけど、それはいいのか?」
一冊の本に対してこんな使い方していたら、必然的に栞は使い捨てになってしまい、提供側のコストもバカにならない。
「ウチは提供しているだけで、どう使うかはお客さん次第だよ」
マナーの悪い客が一人でもいれば破綻しそうなサービスだが、マスターの見解は大らかなものだった。
まあ場末のブックカフェだから、そうそう問題は起きないとは思うが。
そこまで本格的なサービスってわけでもないし、多少ユルくても支障はないのだろうな。
「……さあ?」
名付け親にそんな返答をされたのでは、もはやこちらが言えることは何もない。
「どうしたの、何か気がかりなことでも?」
奥歯に物が挟まったような俺の態度を察して、マスターが様子を伺ってくる。
「いや……そうだなあ」
俺は言い淀んだ。
「強いて言うなら……栞は付箋タイプにしたほうがよくない?」
俺は床に落ちたままの栞を、元の場所に戻すことにした。
やり方はこうだ。
まず空いていた穴にペンの先端を通し、掬い上げる。
そして持っていた本を開いて、そこに栞を落とす。
要は“金魚すくい”みたいな感じさ。
「んー、ここでいっか」
どの箇所に挟まっていたかは分からないので、とりあえず真ん中あたりに入れた。
「ページ数とか、この栞にメモしてくれればなー」
栞を落とした自分のことを棚に上げつつ、本を棚に戻す。
「これでよし、と」
俺はそう呟いた。
自分に言い聞かせることで、この栞に対する“違和感”を拭い去ろうとしたのだろう。
「なんで栞が……?」
不特定多数の客が読む本に栞があるというのは、極めて異物感の強いものといえた。
俺は腰をかがめると床に落ちた栞を凝視する。
そして栞を拾い上げるでもなく、そのままの体勢で観察を続けた。
自分でもよく分からないが、直に触れるのが何となく嫌だったんだ。
「気味悪いな……」
パッと見る限り、大きさは15センチの定規くらい。
上部には穴が開けられ、そこに頼りなさそうな紐が通ってある。
何の変哲もない、無地の栞だ。
「裏も同じかな」
予想は外れ、裏面には黒い紋様が施されていた。
それとも、こっちが表面なのだろうか。
最初はそんなことを思った。
「ん……?」
しかし、よく見てみると紋様ではなく、それは手書きの文章だった。
「えーと、なになに……ニックネーム:大脳の壊れたメンヘラ……『前作の主人公を死なせてまでやることが、紋切り型の復讐劇と応援できない敵陣営側の物語じゃあファンは諸手を挙げて賞賛できない。逆張りすれば面白いっていう陳腐な発想でシリーズを台無しにしないでほしい』……なんのこっちゃ」
この“大脳の壊れたメンヘラ”とやらが栞の持ち主で、そいつがこれを書いたのだろうか。
ずっと屈みっぱなしだったから、俺が腹を下したとでも思ったのだろう。
「この本に、なぜか栞があってさ」
「ああ、それはウチのだよ」
「え、じゃあこれはマスターの栞ってこと?」
「いやいや、そういうことでもない」
マスターの説明によると、この栞は店が提供しているものらしい。
なるほど、この本に栞がある謎は氷解した。
「名づけて“クエスチョン栞”!!」
その他の謎は更に深まってしまったが。
店に入ると、マスターが迎えてくれる。
「お、マスダくん。いらっしゃい」
マスターは口ひげを蓄えた壮年の男性で、いつも白いワイシャツに黒いベストを着こなしている。
どちらかというとバーテンダーの方が似合いそうだ、と店に来るたび思う。
「ホットの水出しで」
意味もなく気取ってはみたが、実のところ俺はコーヒーが好きじゃない。
いや、厳密には好きでも嫌いでもないというべきか。
コーヒーは美味いだとか不味いだとかいう次元で語る飲み物ではないからだ。
香りがどうだとか、苦いだとか酸っぱいだとか、厳密な評価基準なんて知ったこっちゃない。
コーヒーはコーヒーでしかなく、後は砂糖が入っているかミルクが入っているかの違いだ。
そんなものをなぜ飲みたがるのかと聞かれても、「コーヒーってそういうもんだろう」としか言いようがない。
「作り置きがないから抽出中だよ。うちの店で水出し頼む客なんていないからね。しかもホットだから尚さら時間がかかる」
言葉の響きだけで選んでしまったが、どうやら「水出し」は時間がかかるものらしい。
深く考えずに注文した俺の責任とはいえ、焦がれてない黒水のために何十分も待たされるのは予想外だった。
しかし「せっかちな人間にコーヒーは飲めない」と言ってしまった手前、今さら注文を取り消すなんてできない。
「暇なら本でも読むといい」
そういえば、ここはブックカフェでもあったんだ。
店内の半分以上が本棚で埋め尽くされているのに、マスターに言われるまで全く気づかなかった。
たぶん読書に関心がなさすぎるせいで、認識の範囲外だったのだろう。
「そうさなあ……」
学校の課題以外で本なんて読みたくなかったが、それでも何もしないよりはマシだ。
俺は重い腰をあげると、恐る恐る本棚の群生に近づいた。
そしてタイトルを読むこともなく、手ごろな厚みという理由で一冊の本を引きずり出した。
「……ん?」
その瞬間、本から細長い紙切れが滑り落ちた。
どうやら栞のようだ。
これを若い頃にやり過ぎてしまうと、いわゆる中二病だとか高二病だとかになりやすい。
かくいう俺も、これに片足を突っ込んでいる状態だった。
周りの人間がどうでもいいことに時間を費やしていて、それがとても愚かしく思えたんだ。
何の気なしにオススメの作品を聞いてきたり、作品一つの解釈で繰言を交わしたり。
意味のない議題に花を咲かせ、前提を共有しないまま漠然とした話を延々と続けたり。
問題にならない問題をあげつらい、ピュロスの勝利を追い求めて駄弁を繰り返したりしている。
皆が全く違う方向を向いたまま、形だけのコミニケーションを成立させているようだった。
その様相を冷めた目で見るなってのは、斜に構えたティーンエイジャーには無理な相談だろう。
勿論それはネットに限った話じゃあない。
むしろ現実の方が、その“エグ味”は尚さら際立っているかもしれない。
あれは確か、衣替えの時期だった気がする。
上着は絶対に必要ないけれど、長袖か短袖かというと悩む、そんな中途半端な気候だった。
そして俺はというと、その日の衣選びを失敗していた。
「……寒いな」
原因は、毎朝みていた情報番組だ。
そこで流れる天気予報は非常に信頼性の高いものだったが、問題はそれを伝える予報士にある。
いつもは中肉中背の男性がやっていたんだが、その日だけなぜか肥満体型の生物が予報士だった。
その時点で勘付くべきだったが、寝起きの頭では難しかった。
当然、この恨み言は八つ当たりだ。
デブの「短袖が丁度いい気温でしょう」を信じた俺に落ち度がある。
あの予報士と同じ体型の人間にとっては、少なくとも嘘じゃないんだから。