はてなキーワード: いであとは
女子同士の下ネタってすごいんだよーって言うから聞いてみたけど彼氏やセフレのセックス程度でたいしたことない
https://anond.hatelabo.jp/20241021004208
典型的な誤解に基づいて書かれた考察があるので叩き台にしてタイトルについて語っていく
その生成AI自体について有用性や仕組みへの誤解についての議論はしない(例えばこの考察は明らかに生成AIの「学習」や「再利用」についても誤解しているがここでは無視する)が、最低限押さえておいて欲しい事を書く
読むのが面倒な人向けに概略を書いておくが勝手に自分の妄想上の西洋とか欧米を使うなよ、という話である
例えばCELSYSのCLIP STUDIO PAINTに生成AIが導入されるという議論の際に強い反発を受けた事を日本の後進性に基づいて言説が展開していたが
しかし、IR情報などを参照すれば解る様にそもそもユーザーの半分以上は海外であり、去年の売上も8割が海外からである
当時のコメントやそれにまつわる言説を読めばグローバルな、特に欧米のユーザーからの反発が最も苛烈であった事が無視されており
最近の例としてProcreateのかなり強硬な反AI声明を見れば明らかな様に現在では海外においては一定の見解として定着している
イラストを扱うコミュニティについて比較すれば国内とアジア圏で筆頭のPixivはタグ付けによる仕分け程度であり、クローズドなSNSの割にかなり寛容な方で
使用者の米国人比率が非常に高いRedditの自作アートの話題を扱うr/Artはかなり初期の時点で生成AIを禁止しているし、DeviantArtでの生成AI周りの導入に纏わる訴訟騒ぎは言うまでもない
そしてその締め付けが進んでいる最も顕著なジャンルであるこの文章を書いたらしい人間が所属している「音楽分野」では演技分野における声の扱いとセットの流れで生成AIは最も警戒されている
これは生成AIがハイプな話題として持ち上がる前史として、2010年代後半から著名な政治家やミュージシャンの声を使ってラップや演説を行ういわば「音楽版のディープフェイク」が流行していた事が要因になっている
例えばオバマ元大統領辺りがかなり厳ついラップをしたりする動画等は簡単に見つかるだろう
そういった事を踏まえた上でハリウッドでは組合による生成AIの脚本利用や俳優組合によるストライキが起こっているし、今年はテネシー州でELVIS法が制定されている
無論これはテネシーの出世頭エルヴィス・プレスリーの名から取られた法で、俳優やミュージシャンの声を財産として保護し無断使用に対して罰則を与える法律である
おそらく音楽分野では早い段階でiZotopeがやっている様にAIを利用したマスタリングツールが早い段階で誕生しているし、サンプリング文化等の下地もあるので
アメリカの音楽界隈は先進的、寛容というイメージを持っているのかもしれないが、個人の創作性に関する部分ではむしろ日本とは比べ物にならない程生成AIに対して強硬な反発をしており大間違いである
総じて生成AIの創作による利用に関して強い反発を行った事でアンタッチャブルになりつつあるのはアメリカとEU(ここでは多くは語らないがAI規制法が今年発効されており、汎用生成AIシステムでは透明性義務が必須となる)を中心とした欧米圏であり
むしろ日本は最近になって声優業界がかなり折り合いをつけた内容の声明を出した程度で、政治的にもAI戦略会議の内容を見れば国家戦略として5Gの使い道として取り込む目的もありかなり推進側にあるのは明らかである
元の文章では何故かパルワールドについて語っているが、これは欧米圏のゲーム文化における「不寛容」な任天堂の問題による
反発が加味されたものなで生成AIやフェアユースの議論の範疇だけで語る事はできない
特にMOD文化や大会開催等においては海外メーカーでは考えられない締め付けや法的措置を取ってくるのでその側面では任天堂の評判は非常に悪く、常に揶揄の対象になっている
それに対して冷水を浴びせかけたパルワールド、という立ち位置からの支持である事は忘れてはならない
元考察では欧米圏で「寛容」な理由として神から与えられたものとして創作の才能を扱っており、使命故に公益的な要素が大きかったという趣旨が語られているが
その要素はむしろパトロネージュにおける文化的な見解を極端にしたものであり、宗教的な原義からすれば真逆の見解を語る事ができる
例えば、欧米圏で「不寛容」な理由としてそういった神から与えられたものが機械で代替できる事への反発が大きいといった様な語りだ
この程度の見解はアブラハムの宗教における人間中心主義の位置付けを考えれば簡単に想定できるし
そもそも上位存在から与えられたものとして芸術を扱うのは欧米圏だけでなくアジア圏でも一般的な事であって固有のものではない
加えて創作論にはあまり踏み込む気はないが、元記事で無警戒に当てはめられている様な現代人の創作に対しての概念は近代以降のものであり
当時の感覚は全く異なっていて個人というよりも職人的に作られており音楽や絵画は信仰を広げる為のメディアとしての役割が非常に大きく、そのまま現代に結びつけて語る事は非常に危うい
自称ではあるが「クリエイターのレベルが高い」筈の分野に所属している人間ですら何故こういった事実や経緯を知らないのか?
ほとんどの日本人は英語が読めないし読む気がないし経緯や文化を理解する気もないからだ、と言ってしまうと身も蓋もないのだが多分この辺りが原因なのかなと思われる
少なくとも前半部分に関しては多少掘り下げて見てるだけでも幾らでも出てくる話なので、英語読めない以外の理由が思いつかない
それでもこのツッコミどころ満載の言説がなんとなく受け入れられているのは伝統的に欧米から先進的な流れを受容してきた日本、というステレオタイプがあるからなのでは無いだろうか
とりあえず存在しない「西洋の先進性と寛容さ」をでっち上げて議論を行うのは、少なくとも生成AIに関しては大間違いなので今すぐにでも止めるべきである
ポケモンカードのSRやARは、一見するとキラキラして珍しそうな外見をしているが、実際にいくつもボックスを開封する立場になってみれば、なんのことはない、SRはSSRやURが出なかった最上位レア枠のハズレでしかないし、ARはボックスに3枚確定で入っているありふれたカードでしかない。だが、そんな事情を知らないであろうキッズたちとその親御さんを相手に、中古ショップはSRやARといったキラキラして珍しそうなカードで表面を包み、オリパと称してコモンカードの束を抱き合わせて売りさばくのである。では希望小売価格より安く売られている公式パックはどうかというと、1ボックスごとに確定のレア枠を引き切った余りのパックが買い取られ、最もグレードの低いレアやアンコモンカードしか入っていないパックが平然と流れてくるのである。売る方も売る方だが、買い取る方も買い取る方である。これを未必の故意といわずなんというのか。結局のところ、世間のどこを見渡しても、平然と情弱商売をしかけている。さもまっとうな商売でございという外見をしておきながら、実際は情報の不均衡を活かし利ザヤを得ているのである。資本主義である。ユダヤ人である。情報がすべてを左右している。スキルや技術も、要はその情報を知っているかどうかに帰結する。この世界は不完全情報ゲームであり、情報の不均衡を利用して生き抜かなければならない。
我々夫婦は共にゲーマーなのだが好きなゲームのジャンルが全然違うので、隙あらば相手に自分の好きなゲームをさせようと画策している。
洗い物などの家事をする代わりにこのゲームやってよ!と頼み込む始末(釣りと思われるかもしれないがまあいい。お前らは知らないだろうがこういう夫婦もいるのだ)。
そんなこんなで今回も私の苦手なアクションゲームをやらされた。どうやらカンフー映画風の世界らしいので、音声はもちろん広東語を選択。カンフー映画は好きだ。雰囲気はすごくいい。非常にオーソドックスな復讐ものだ。
難易度はもちろん一番簡単なものを選んだ。だからなのか、かなり丁寧なチュートリアルが出てくる。「ここでA!」と要所要所で出てくる感じで、ほとんどQTEレベル。
最初のうちはなんとかなったが、まぁーこれが難しい。ガードが全然出来ないのだ。「直前でLB!」と言われるが、直前っていつだよ。そもそも普段使っている任天堂式のコントローラーと配置が逆なのでパッと対応出来ない。
いつの間にか洗い物をしているはずの夫が後ろに立っており、「そこでLを押すんだよ」などと指図をしてくる。「うん、押してるんだけど…」だんだん元気がなくなっていく。洗い物はとっくに終わったのに、主人公の復讐は始まってもいない。父を殺され、成長していく主人公のオープニング映像がいつまでも終わらないのだ。私のへなちょこプレイのせいである。うわー!素敵な演出なのに完全に逆効果だよ!
なんとか終わらせて自由移動が出来るようになったけど、部屋から出られない。
なんとか倉庫に潜入したけど、もうめちゃくちゃ死ぬ。ずっと死ぬ。
このゲームでは主人公が死ぬと生き返り、その分1年ずつ歳をとっていく。やっと最初の仇を討ち取ったとき、彼女は30歳になっていた。
何をやっても上手くいかず、いつもなぜかタイミングがズレていて、殴り掛かれば「やべえ女が来たぞ!」と罵られ、狭い部屋から出られず右往左往、歳ばかりとって…これって私の人生みたいだなと思った。ちょっと泣いた。
まあいい。私にはちょっぴりウザいが優しい夫がいる。それだけで良しとしよう。
この状況に対処するためには、論理的なアプローチを用いることが効果的です。「間違いであると証明できないなら正しいと考えるべき」という主張は、一般に「証明の責任の転換(burden of proof)」や「無知に訴える論証(argument from ignorance)」と呼ばれる誤謬に該当します。この誤謬に基づく議論に対して、次のような方法で反論することができます。
• 一般的なルールとして、ある主張がなされる場合、主張した側がその主張を証明する責任を負います。根拠がない主張については、その正しさを示すのは主張者側の役割であり、「間違いであると証明できない」ということだけで正しいとするのは論理的に不十分です。
2. 無知に訴える論証の指摘
• 「間違いであると証明できないなら正しい」という論法は、「無知に訴える論証」として認識されています。これは、あることが反証されていないからといって、それが真実であると結論付けるのは誤りです。このような論法は、科学や論理の基本的な原則に反しており、検証が不可能な主張を真実と見なすことができません。
• その主張に対して対立する仮説を提示し、それもまた「間違いであると証明できない」ことを示すことで、相手の論理がどれほど根拠に欠けているかを明らかにします。これにより、証明できないことをもって真実とする考え方の不合理性を浮き彫りにできます。
• 相手の主張に対して、証明できない事柄を正しいと考えるのであれば、他の多くの事柄も同様に正しいと見なされてしまう可能性があることを示します。これにより、その論理がどのように無限に続いてしまうかを指摘し、主張の不合理さを強調します。
例えば、「宇宙人が存在しないことを証明できないから、宇宙人は存在する」と主張された場合、以下のように反論できます:
• 宇宙人の存在を証明できないことが、その存在を証明する理由にはならない。
• 「存在しないことを証明できない」ことを理由に宇宙人の存在を信じるなら、同じ論理で多くの他の未証明の事柄も信じざるを得なくなる。
自分はめちゃ良かったでー。
批判してた人とかそれに対してヨッピーが応答してたことに対しては、外野の「そんなに強く否定しないであげてよー!」って反応が何かめんどくさそうだったので、ほぼ読んでない。
けど、さすがに内容に対してゴミみたいな反応ばかりなのは可哀想と思ったので、ノンアルビール飲みながら感想を書いていくよー。
正直電子書籍で買うから1000円くらいにしてやーとも思ったけど普通に新刊本として妥当な価格ではあると思う。
内容は主に、テクノロジーとか外部サービスで育児の負担をなるべく軽くしようというもので、洋服が好きな自分としてはそんなミニマリストみたいなライフハック無理やーと思いつつリンサークリーナー買った方がいいとか自分が知らなかったことも書いてあったので普通にためになった。
それと、もちろんヨッピーも自分の本だけで育児の悩みが全て解決するとは思ってないので育児本3冊くらいは事前に読んどけよと書いる。
普段から育児についてネットで読み漁ってる人には多少物足りないのかもしれないけど、押し付けがましくこのベビーカーを買え!とか書かずに、スマホは格安プランに入れ!とか書いてるのがヨッピーっぽくて面白いなと思いました。あと、文中からサウナ脳なのが伝わってくるのに疲れたらサウナに入れ!って押し付けてこないのも面白かった。
以下余談、
育児書を数冊読んで思ったのは、お医者さんでも子供の発達に関しては分かってないことが多いってこと。
・新生児科医・小児科医ふらいと先生の 子育て「これってほんと?」答えます
って言う本が読んでて面白くておすすめだけど、これでも育児の悩みなんて解決しないよ!って人の方が多いと思う。
専門家っぽい人が育て方について書いた本ってAmazonでめちゃくちゃ売れてたとしても、主観と経験則(母数不明)によって適当に書かれてることがまじで多いので「はいはいせずに歩かせると上半身の力が育たないから歩き出してもたくさんはいはいさせろ!あと、上半身を鍛えるために室内用のジャングルジムを買え!」とかなんの根拠もなく書かれてたりして、当たり前のように先ほど挙げた本の中で否定されてたりする。
鼻くそほじりながら読む程度の価値しかないものが多い中で、ヨッピーが本の中で紹介してたモンテッソーリ教育の本とか普通に当たりの本で助かったでー。
最後の方に書かれてた子供が生まれてからの心境の変化についても良かった。人の子の親になったヨッピーからのメッセージはお酒入ってたら泣いちゃってたと思う。
我が家は、実家に近い住まいに住んでいるので、季節の変わり目やお盆には、お寺さんが来てくれる。
大体30分から1時間ぐらい。読経して、雑談して、お茶飲んで、だいたい5,000円ぐらい包んでる。(今のところ両親が負担している。)残念ながら宗派は伏せておく。
読経の時間は、瞑想時間に利用している。一定のリズムで詠まれる読経は、瞑想に入るバックグラウンドミュージックとして、とても良い。むしろ大学合唱部レベルの訓練を受けた人の生歌を聴きながら、瞑想できるとは、なんと贅沢なのだろう。
ちゃんとした線香を使えば、心地よい空間が演出できる。個人的な推し線香は白壇である。1,500円ぐらい出せば、ちゃんとした白壇の香りが嗅げるので、スタバのコーヒー3杯分で、100回ぐらい楽しめる。
そう、お寺さんがくる空間というのは、最近のスピリチュアルで推される要素をすべて満たした超良好空間なのである。
そして読経が終わると、お寺さんとの雑談をしている。近所の話題だったり、季節の事柄だったり、仏像の話だったり。
なによりもお伝えしたいのは、お寺さんの傾聴力の高さである。
色んな人と雑談するの仕事みたなものだと思うが、とても柔らかい物腰で聞いてくれる。このレベルの傾聴力があって、仕事できる人は、普通に都内で働いてる人なら、年収1000万クラスは硬いと思う。※某1on1支援企業に勤めている人を知ってるが、その人とくらべても遜色ないどころか普通にレベルはお寺さんの方が上かも。ビジネス的な側面だと1on1企業の方がわかってくれる感はあるだろうけど、一方のお寺さんには、地の利がある点で、わかってくれる感は上にくることがある。
坐禅・瞑想体験は、普通にセミナーに申し込んだら1回5000円~とか。某企業の1on1に申し込んだら普通に1時間数万ぐらいとか。自宅に来てくれた上で、2つセットで受けれるサービスなんで、普通はない。
このライフハックの一番むずかしい点は、接点を持つのが難しいところだ。入会要件が不明だからね。自分もあえて、寺を探そうとはならない。郊外住まいなのだが、いまのお寺さんは、お祖父さんが引っ越しをするタイミングで、本山に相談して紹介してもらったところだそう。
今のお寺さんの先代の人は、読経がうまくなかったので、おばあちゃんから難癖つけられていた。うまく代換わりで、お寺さんガチャに成功しただけかもれない。
お葬式になれば、だいたいちゃんとしたところを紹介してくれるし、変な葬儀会社紹介されてぼったくられるより安心。もし5,000が安すぎると思うなら、そのタイミングで課金すれば良いだけではある。懐事情も相談すれば良い※そういう意味では、お布施の多寡を問わないのは、所得の再分配機能をになっている。とも言える。
自分ひとりの体験では説得力に欠けると思うので、もう一事例を紹介しておく。奥さんの実家はそこそこ田舎なため、高齢化が進んでいる。そういう中で、ちゃんとニーズに合った活動をしていて、エンディングノートをテーマにした講演や、老後の資産活用のセミナーなんかもやっている。お寺で。下手な営業で詐欺に引っかかるよりはまともな人を呼んでくれているので、また信頼感をベースにしたコミュニティが維持されているようだ。
ということで、ライフハックとしてのお寺さんを紹介した。自分はたぶん、このままお寺さんとの関係は続けるだろうし、おそらくどこかでまた代替わりするかもしれない。お寺さんの良さみたいなものが少しでも、伝われば幸いである。
高校までは運動部だったし自転車での長距離通学をしていたから締まった身体(体重は標準より少し重かったけど筋肉質で体脂肪率は低かった)をしていたけど、大学進学で東京に出て来てからは完全にだらけた生活になって、30代半ばの現在は100kgを超えてしまっている。
今の所は健康診断では特に引っかかったりしていないが流石にという事で、食事制限と運動を始めた。これまでも何回も取り組んでは挫折していたのだけど、その反省を生かして「続けられること」をテーマにしていて、そこそこ上手く行っているとは思う。
それでも当たり前だがお腹は空く。
そもそも高校時代までだってかなり大食いではあって、大元をたどればド田舎の農家出身である両親が「出されたものは全て食べろ」「ダラダラ食うな早く食え」「食えない奴は男じゃない」「とにかく米を食べろ」という教育方針だったので、完全にそれが習慣として身についてしまっていた。
実家には味わって食べるなんていう概念は一切なかったし(今でも気を抜くと一気に食べること自体に快楽を見出してしまう)、祖父母から作った米をいくらでももらえたので少量のおかずで米を掻き込むような食事をしていた。小鉢が並んでいて一汁三菜のバランスの良い食事・・・なんてあり得なかった。
それでも高校までは食った分だけ動いてたから太っていなかったわけだが、大人になってもそういう根本的な所は残っていて、流石に子供のころほどは食べられないにせよガツガツとお腹一杯食べたいという思いは今でも強い。
それと「空腹」の状態が凄く苦手。太ったせいで代謝がおかしくなっている面もあると思うのだけど、空腹の状態は本当にイライラするし、無気力になるし、食欲を満たすこと以外他に一切何も考えられなくなる。はっきり言って人間としてまともな状態じゃない。
別に丸1日食べてないとかじゃなく、お昼に時間が無かったから軽く済ましたとか1時間程度残業したとかその程度でそうなることが普通にある。
だからそういう状態に陥るのが怖くて事前に食べておかなきゃと思って普段から沢山食べるし、いざ空腹に陥るともう歯止めが利かなくなって爆食してしまうという状態だった。
ダイエットを始めてからは満腹感を得たりそれを維持したりしやすいとされるたんぱく質や食物繊維中心の食事を心がけているのもあってか、一応大抵の日は決めているカロリーの範囲内でもなんとか過ごせている。
しかしそれでもどうにもならない空腹に陥って苦しむ日がまだある。昨夜空腹に耐えながら寝たからか今日は特に酷くて、朝ごはんを食べたのに全然空腹が収まらず、いつもは夕方に食べるようにしているヨーグルトを食べてもなお全くダメ、そのまま耐え切れず早めの昼食にしてしまい一気に1,135kcalも摂取してしまった。
一応まだ1日の上限摂取カロリーは下回っているものの、夕食はもうほとんど食べられない計算になる。これを書いている今は16時半過ぎだが、昼食が早めだったせいできっとこのあと同じく早めにお腹が空くだろう。今から頭を抱えている。
今日は疲労を抜くために休養に充てるつもりだったが、運動した方が良いのだろうか・・・しかしそうやってリズムを崩せばまた疲弊して続けられないのが目に見えている。
私にダイエットを強く勧めた人は「空腹は別に不快じゃない」と言う。実際激務な仕事なので終業が22時とかを過ぎるのに、お昼を食べてからそこまで何も食べなくても平気だそう。
だから私が空腹を凄く怖がっているということ、ひいては食を我慢できないということが理解できないらしい。こちらとしてはちょっとぐらい我慢しろと言われても「ちょっと」どころの話じゃないんだけど・・・と思うのだが。
でもまぁおかしいのは間違いなく私の方だろう。世の中の人はお腹が空いたくらいであんな状態にはならないんだろうなと思う。世の中の一般的な人の「普通の空腹感」というのを知りたい。
とはいえもし仮にそれを知って、実は自分と同じように感じていることを知ったら、つまり結局は自分の忍耐力や精神コントロールが不十分なだけだと理解してしまったら、それはそれで怖いとも思う。その時は・・・もう諦めるしかないんだろうな。思う存分食いまくって早死にするか、人生に絶望してすぐに死ぬかのどちらかになりそうだな。
ワイの家は山奥にある。ヤマトで担当している宅配便センタはここから1時間ぐらい離れた町場にあって、いつもヤマトの配達の人はえっちらおっちらそこを来ては、配達してくれている。
ヤマトには通販専用の外部委託している便もあるが、あれもワイのところではやってこないため、宅配便の正規のドライバーが運んできてくれるという状況だ。
さらに、ワイの家はちょっとした坂を登ったところにある。歩くと5分ちょいぐらいかかる坂の上にあるのだが、なんとヤマトのおにいさん、そこを荷物を持って駆け上がってくるのである。
大変申し訳なく思っている。
ワイの家は、ミカン畑の岡の上のようなところにある。道はそのミカン畑の間を縫うようにつづら折りになっていて、舗装はされている(親父が若い頃、祖父と一緒に手練りでコンクリートを練っては、コツコツ舗装したコンクリート舗装の道である)が、2トン車までならギリギリ通れるだけの道幅しかなく、通常の一般道では考えられない急勾配なのであった。とはいえ、慣れていれば登れる、と言うようなところであった。
道を最後まで上がってしまえば、庭はあるので転回はできる。また、普通車どうしなら途中にちょっとよけ会える場所(農作業の時に軽トラを止めとく場所)はある。まぁ、トラックだとどちらかがバックしなければならなくなる構造であるのだが。
とはいえ、ミカンは木の高さを低く育てているために見通しは欲、登ろうとする坂に車がいるかどうかは見ればわかるし、その先にはワイの家しかないので、ぶちあうとしてもワイの家人ぐらいであり、もっといえば今では車を運転するのはワイだけなので何も心配は要らないのである。
と、言うことをヤマトの兄ちゃんに説明をするのだが、安全上のルールなんで!大丈夫です!といって、坂の入口の広い道に車を止めて、元気よく荷物をもって坂を登ってくるのである。
以前、通販で介護用の昇降椅子(80kgぐらいある)を買った時は、ヤマトホームコンビニエンスの家具便で届いた。この時は運転手と荷運び2名で来てくれるというが、流石に運んでもらうのは申し訳なく、坂の下に軽トラを用意して待ち伏せし、そこで移し替えて受け取ったりもした。
タワーマンションでは配達するのに30分かかり、能率が上がらないと言う話があった。それを言ったわワイのところなぞ、1時間かけてきて、さらに往復10分坂を登って、さらに1時間かけて帰るような立地であり、マジ申し訳ないと思うのであった。
まぁワイの家の近くには通販で商売しているパン屋さんがあり、そのパン屋さんは毎日ヤマトで大量のパンを発送するとか、平日には他にも工場があったりで集荷が必ずあるようではある。
仮に時間指定がされていてもサクッと無視して、だいたいそれに合わせて夕方に配達をしてくるので、ワイの家のためだけに来るわけではないのはもちろんなのではあるけれども。
いっそ、道の駅あたりにPUDOのような宅配ロッカーを設置してもらって、そこに取りにいくとかしてくれたほうが気が楽だなと思いながら、先ほどもついつAmazonでポチってしまった。
消防士とか海難救助とか山岳救助みたいな人の命を救うための活動をしてる人でさえ
なのになんで日本って国は可能な範囲を超えて死にかけてる老人を助けようとしてるの?
これを言うと多分非人道的って言われるかと思うんだけど前提の通り助けようとする立場の人が命かけるのは本末転倒なのよ
例えば相手が自分の親や親戚であれば自分の思いで支援するのは全然いいんだけど
社会の仕組みとして現役世代や若年層が命や将来を削りなから高齢者を生かす社会って果たして正常なのか自分にはわからないんだよね
現代の価値観からすれば自分の言ってることは一般的に受け入れられないであろうことくらいは当然理解してるけど
その現代の価値観っていうのだって決して普遍的なものではないし
こういう意見を議論の余地なく潰すのはそれこそ与えられた価値観になんの疑問も持たず外れたものを潰す時代に迎合するだけの行動で
戦争期には戦争を後押ししてた奴らなんじゃないかと思っちゃうんだよね
ちょっと話はそれちゃったけど安楽死・尊厳死(自分はこれを制度化するなら医師の許可制にする必要はあると思うけど)に関する話をするだけで
※この日記では「やたらと特定の人間に執着し、その人が他の人と2人で遊んでいるのが許せなくておかしくなってしまった人」などのことを便宜上"メンヘラ"と呼称している。
この日記は、現在進行系でメンヘラに付きまとわれていて縁を切りたい人向けに、本当に自分が行ったことを経験談として書いている。先に言っておくと、私がはじめに「こいつとは縁を切ろう」と考えてから1年以上かかっている。今もTwitterアカウントのブロックなどはできていないため、本当に縁を切れているかというと微妙である。
一応順を追って説明していくため、手っ取り早く方法だけ読みたい方は見出しを見て読み飛ばしてほしい。
Aと私はインターネット上でTRPGをする仲だった。わからない人向けに言えば、「通話しながら自分たちのキャラクターを操作して遊ぶ」ということだ。この遊びにはもちろん、Aと私以外にたくさん共通の友人が関わっている。
まだ縁を切ろうと思っていなかった時、私の方からたくさん「一緒に遊ぼう」と誘ってしまい、今でも(放置されているものの)約束として残っているものがいくつかある。
メンヘラと接しているうち、自身も精神を病んでいくことがある。特にメンヘラに依存されるような人間は共感性が高く、人を思いやれるような人間のためそういう事象に陥りやすい。(思ったことを書いたのだが、これだと"私は良い人です"と自慢しているようなものだ。実際そうなのだが)
第一として、メンヘラの相手をひとりでしてはいけない。ひとりであれこれ考えていると、段々「考えすぎかも」「悪いのは自分なのかも」と思うようになる。友人に話すには重すぎる話題に感じてしまった私が相談相手として選んだのは、母親だ。
母親は一貫して「そいつはヤバい」「縁を切りなさい」「連絡を取るな」と主張してくれた。この言葉が無ければ、私はきっと今も嫌々ながら関係を続けていたと思う。相談相手には意思がはっきりしている人間を選ぶと良い。
自分が相手になんと言われているか、悪口を言われていないかと気になってしょうがないと思うが、頑張って我慢しよう。
例えば相手が「貴方はこんなに酷いことをした」というような書き込みをしていれば、当然貴方はショックを受けるだろう。
実際私が行ったのは「今まで使ったことのないプラットフォームでアカウントを作る」ことだ。MisskeyやBluesky、タイッツーでもいい。IDも今まで使ったことのないような言葉で作る。
そこで、今までの人間関係を全てリセットする。フォロー・フォロワー0人の状態で、メンヘラ被害の愚痴を書き込む。良くないことかもしれないが、私はこれで大層気が楽になった。
他のやり方なら、鍵垢でも捨て垢でもいいし、紙に書き殴ってそれをビリビリに破いて捨てるでもいい。私は他人に見られる状態で悪口を言うのが一番スッキリした。(それが目に入った人には申し訳ないが)
相談相手に愚痴れるならそれでもいい。文字を打つのと書くのと、口に出すことではまた感覚が違う。もちろんそれが苦手な人もいるだろうから、自身にあったストレス発散をしよう。
当然だと思うかもしれないが、まずは当然のことから始める。今まで友人として接していた人間のアカウントを突然ブロックするのは難しい。だからこそ私は1年以上かかった。
相手の方から連絡が来た場合は当然無視する。既読もつけない方が良い。何を言っているか気になるかもしれないが、前述した通り気にしてはいけない。見て良いことなんかひとつもないのだ。
無視のハードルが高い、もしくはどうしても返信しなくてはならない場合は、即返信をやめるところから始めよう。最初は数時間、そのうち数日放置し、「トイレ行ってた」とか「気付かなかった」とか言っていればいい。とにかく、"自分はもう貴方の相手をしてくれませんよ"とアピールすることが大事だ。
もしこれで別の友人の方が反応が良いとわかれば、標的がそちらに向く可能性がある。よくないことに見えるかもしれないが、自分が助かればそれでいい。私はそう信じ込んだ。
ちなみに、結局Aが依存相手を変えたかは知らない。もう関係の無い相手なのだから当然だが、情報として記せないことは申し訳ない。
最後に、いわゆる「作業通話」へ行くのも控えた方がいい。別の友人と喋る予定でも、貴方がボイスチャットにいることにメンヘラが気付けば、乱入してくる可能性がある。そうなると今後の予定を取り付けられたりして大変だ。辛いかもしれないが、メンヘラと共通の友人との公開通話は控えよう。
逆に言えば、メンヘラの知らない人、知り得ない場所での通話は大丈夫だ。
私の場合、TRPGという他人も関わる遊びをしていた。だからこそ自分の一存で「やめます」というのは難しい。
まずは「諸事情でAとは距離を取っている」というような連絡をしよう。ここでは「あいつはメンヘラで、今までこんなことがあった」とかそんなことまで書かなくていい。大抵の人間は"諸事情"と聞けば納得してくれる。あとから共有する勇気が出れば、また話せばいい。
私は「今すぐに予定を取り消すという連絡をするのは難しいから、とりあえずこのまま予定の話を進めないでほしい」と個人的にお願いした。メンヘラ自身にはしばらく忙しいから日程は決められないとか、そういう理由でいくらでも誤魔化せる。例えメンヘラが「本当か?避けているのでは?」と思っていたとしてもそれでいい。避けているのだし。
これを完全にこなすのは難しいので、できる限りでいい。詳細は後述する。
例として私は、まずスマホアプリやSwitchなどのフレンドを解除・ブロックしていった。段階として、「しばらくログインしてないな」というようなものから始めるといい。
ここでの注意点として、できるならSNSへ投稿したフレンドになれる書き込み(IDの貼り付けや、QRコードなど)を削除しておくこと。また、ゲームアカウントのIDを変えたりもしたほうがいい。こちらからフレンドを解除しても、相手の方から申請される可能性があるからだ。そういったところまで潰しておくと、自身も「ここまでやれば大丈夫だろう」という安心感が持てるので良い。
私の場合、このあたりまで来るとほとんど関係を断てていた(相手から連絡が来なくなった)ため、Discordのアカウントをブロックしても問題無いと感じられている。このあたりは完全に人によるから、相談できる人がいるなら相談しながらやるといい。
これが一番難しい。
まず、私は「縁を切ろう」と決めてからもAと何回か遊んでいた。関係の無い第三者もいる中で、遊ぶ日付が決まっていたからだ。
TRPGという遊びには社会人も多い。有給を取ったり他の予定を諦めたりして、優先して私と遊ぶ約束を取り付けてくれている。
できるのなら、その約束を破ってもいい。だが私にはできなかった。
だから、「今決まっているものを最後にする」と決めた。以降約束さえ取り付けなければ、少なくともこれからずっと遊ぶことはなくなる。「この日遊ぼうよ」と誘われても、「ごめん予定があって」などと言って断ればいい。
私にとっては、それが最後の約束まで頑張る理由になった。ゴールが見えていれば人間、頑張れるものだ。
実際、メンヘラは一般人に擬態するのが上手い。だから私は数年間Aと遊んでいてなにも疑問に思わなかったし、傍から見ても誰も指摘しなかった。だからこそ、第三者を交えた遊びの場合は普通にできがちだ。「なんだかんだ楽しかったな」と思える。
ここで勘違いしてはいけないのが、「ならこのまま友達でもいいか」なんてことは無いということ。今まで自分が被ったことを、感じた不快感を忘れてはいけない。
私の話はあくまでも一例である。もちろん全てのメンヘラ被害者がこれで助かるわけではないだろう。
私が、今のところ懸念している点をあげる。
『メンヘラと縁を切る方法』と題しておきながら、冒頭で「本当に縁を切れるかというと微妙」と言ったのはこれが原因である。
Xにはブロック機能があるが、アカウントなどいくらでも作れる。鍵垢にしない限り、本当にメンヘラの目を逃れることはほぼ不可能と言っていいだろう。
私は「みんな私のツイートRTしたいだろうしな」と思って鍵をかけていないアカウントがある。見られていても、それはもう仕方ないと諦めている。
鍵垢にせずメンヘラから逃げるなら、「新しいアカウントを作る」しか無いだろう。しかし、これも完璧とは言い難い。大抵の場合、前まで関係のあった人達とは変わらず友人でいたいはずだ。となると、フォローフォロワーは以前のアカウントと大して変わらなくなる。IDを変えアカウント名を変えても、メンツでバレる可能性がある。
また、貴方が絵を描く人間だった場合、高確率で絵柄でバレる。例えば貴方がイラストでバズったとしたら、絶対にメンヘラに気付かれる。もう、そうなる。
つまり、Xで完全にメンヘラの目から逃れるには、「人間関係を捨てて完全に新しいアカウントを作る」か、「全て鍵垢にする」しか無いと考えられる。
私はそれを諦めた。
私が縁を切ったメンヘラAは、学生時代からの付き合いである。お互いに家を知っているし、電話番号も本名も知っている。つまり、アイツは来ようと思えばいつでもうちに来れるのだ。
私はそれがいつまでも怖い。同じ状況の人がいるなら、引っ越すしかないだろう。
そして、これは私の友人から聞いた話だが"自殺未遂"をするメンヘラがいる。
リストカットなどの自傷行為は恐らくメンヘラたちにとって日常茶飯事だが、「貴方が構ってくれないなら、私は今から死にますよ」と脅すような奴がいるのだ。
この場合はまず、第三者に連絡すべきだと思う。例えばそのメンヘラの家族などだが、大抵私たちはインターネット上での関係にすぎない。相手がどこに住んでいるのか、本名もなにも知らない場合があるだろう。
私には経験が無いので今調べたが、出来ることは110番通報しか無いように思う。
万一相手が本当に自殺したとしても、貴方に罪は無い。しかし罪の意識は確実に生まれてしまう。そうなったら貴方も被害者だ。できる限り未然に防ぎたい。
行うべきは措置入院だが、恐らく現実的ではないだろう。本当に警察に連絡しただけでメンヘラが入院できるとは思えない。
結論として、私が提示できる解決策は無い。誰か相談できる人がいれば、その人に相談してみてほしい。投げやりで申し訳ない。
まず、会話をしなくなった。私の方から避けているし、相手からも連絡が来なくなった。そもそも連絡手段を減らしているし、連絡が来ても断るか無視する。
実は縁を切って数カ月後に「遊ぼうよ」と連絡を受けたが、もちろん断っている。これからも断り続けることが、自分と相手のためになるのだ。
そして、Aは私と繋がっていたXアカウントを消去、あるいは使用しなくなった。それが私と縁を切ったからかはわからないが、少なくともそこから連絡が来ることは無い。しかし、捨て垢でIDメンションとかすればAはいつでも私とコンタクトを取れる。だから、完全に縁を切ったとは言えないのだ。
私はというと、すっかり元気になったというわけではなく、今でも定期的に悪夢を見る。具体的には「誤ってAとの約束を取り付けてしまった」とか「Aと通話してしまった」とか、そういう夢だ。それでも、全くAのことを考えずに済む時間は圧倒的に増えた。メンヘラのことで悩んでいた時期とは1年以上かけておさらばしたのだ。
これを読んでいる、実際にメンヘラ被害にあっている人に向けて綴る。
私は自分でも「縁を切るために頑張った」と思っている。自分のことを被害者だと思っているが、それでも自分が頑張らなくてはならないのは、「暴漢に襲われたら逃げよう」とか、そういうことだ。
なんで私がこんなに気を使って人に連絡しなきゃいけないんだと、何度も思った。でも仕方ない。自分の身は自分で守るしかない。
メンヘラと言うが、実際は病気なのである。病院を頼れよと思うが、人間への依存を解消させるのは難しい。だからこそ互いに頑張らなくてはならない。私が健康であるために、Aが私無しで生きられるように。
メンヘラと付き合うのが疲れたから縁を切ろうと思うのは、全く悪いことではない。メンヘラなしで人と遊ぶことは、貴方にある当然の権利だ。
少なくとも私は、今後10年Aと関わるつもりはない。
普段はリモートワークだが、お客さんと打ち合わせするときだけ、自宅からそれなりに長い時間在来線に乗って都心部に出る。
平日の日中は、どこかにお出かけするご婦人を見かける頻度が多い。お友達とだったり、親御さんとだったり、長期休み中のお子さんとだったり。日中に仕事でなくお出かけする方は(あくまで見た目だけでの判断だけど)比較的裕福そうな方が多い。
ぼんやり座ってると、綺麗な身なりをした品のいいご婦人はやはり目につく。私が乗る電車では50代以降の方が多い印象。お年を召しても変わらずキレイな肌ツヤ、年齢に合わせつつも品の良さや可憐さが伝わる服装、屈託のない小鳥のような話し方。
お金に苦労しまくってきた私の実母とはまた違う、何というのだろう、困った表情や疲れた表情、怒った顔をした経験があまりないであろう素敵なシワの刻み方。
彼女たちを見ていると「きっと親御さんや旦那さんに愛されて、可愛がられて生きてきたのだろうな」と感じる。年齢的に(会話の内容的にも)専業主婦として生きてきたであろう方が多いだろうし、
なんかね、ほんわかぽやんとしてて可愛いの。しっかりした話し方をされてる方もいるけど、なんとなくバリバリ仕事してきた人とは違う、ゆるふわ感。
普段、仕事でバリバリ働いてる人と接してるから余計に珍しさを感じるのか、花のような雰囲気のご婦人には自然と目が惹かれてしまう。
なんか、そーゆー人いない?
「愛されてるご婦人」。
会話の内容も小鳥みたいなの。ハンドメイドの話だとか、先日見た観劇や通ってるお稽古事の話、遠くに住む娘さんの話とか、愚痴愚痴言わない感じ。
そーゆーものを楽しむのに十分な稼ぎのある旦那さんがいて、好きなとこをしてても受け入れてもらえて。
自分の生まれ育った家族とはまるで違うその華やかさがとてもまぶしい。
もちろん、彼女たちがなんの苦労もしてこなかったとは思わない。でも、たくさん愛されてきた人であることは伝わってくる。
私もそーゆーものになりたいなあと思うけど、まあもう無理だろうなーと思う。
いや、旦那さんはすごーーーくわたしのことを愛してくれてるから、まだワンチャンあるかな。めちゃくちゃ共働きだけどな。クライアントとめちゃくちゃ守秘義務の話してるし。なんか、なんかちゃうんよ。
百合が好きなので、なんだか評判のいい漫画『熱帯魚は雪に焦がれる』を読んでみた。
結果として、2巻か3巻の途中で投げ出してしまった。
理由としては第一に、あまり面白くなかったから。第二に、読んでいてだんだん腹が立ってきたからだ。
腹が立った理由は「水族館部」の描写だ。結論から先に言うと、水族館部という珍しい部活をとり上げた理由が「なんかエモいから」でしかないと感じてしまった。
この作品は、主人公が田舎の高校に入学し、気になる先輩が所属する「水族館部」に入ることにして、その先輩と徐々に関係を深め合う、そんな物語である。
この水族館部というのは愛媛県の長浜高校に実在する部活動で、作者も現地へ取材に赴き、実質的に作品の舞台にしたようだ。
まず、水槽が多すぎる。
実際の水族館部もこれぐらい水槽があるのかもしれない。ただ、長浜高校水族館部の部員数は全校生徒の半分以上を占め、2024年3月時点で68人いる(https://www.asahi.com/sp/articles/ASS2W4TLBS2RPTLC011.html#:~:text=%E6%B0%B4%E6%97%8F%E9%A4%A8%E9%83%A8%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%93%A1%E3%81%AF,%E5%A4%9A%E3%81%8F%E3%81%AE%E5%AE%A2%E3%81%8C%E8%A8%AA%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82)。
全国募集で部員数が増える前でも、数十人は下らなかっただろう。
しかし、『熱帯魚は雪に焦がれる』の設定ではなんと部員数は2人。主人公が入部する前は1人だったのだ。
水生生物を飼ったことがないと想像しづらいかもしれないが、水槽の管理はなかなか大変だ。
生体の老廃物や排泄物、食べかすなどで水が汚れるのでフィルター(濾過機)を常時回すのだが、どうしても濾過・分解しきれない物質が増えていくため、定期的に水を換えなければいけない。そしてフィルターも掃除しなければ目詰まりしてしまう。さらに水槽のガラス部分に藻や苔のようなものが付くので、こそぎ落とさなければならない。また、海水水槽の場合は析出した塩を取り除かなければいけない。水温の管理も必要だし、当然、生き物に関する知識を身に付けなければそうした調整もできない。
こうした作業を、数十個の水槽に対して2人で対応していくのは極めて困難だ。
百歩譲って、大量の水槽を2人で頑張って管理していたとしよう。しかしそうなると今度は、ストーリーとの整合性がつかなくなる。
この作品は主人公ら2人の仲良くなりたい、でも臆病になってしまう、みたいな繊細な心の動きを描いている。が、2人で何十個もの水槽を管理し、あるいは重い水槽を一緒に持って動かし、生物や水槽管理の知識を教え合い、なんてしていたら心の距離が縮まらないわけがない。ましてや、話しかけようかどうしようだの誘おうかどうしようだのでうじうじする距離感ではなくなる。距離感が近付いた結果仲良くなるか仲が悪くなるかは人それぞれだが、距離感が近付かないということはあり得ないのだ。少人数の部活動というのはそういうものだ。
また、登場人物の水族館部および水生生物へのスタンスも気になる。はっきり言って、2人とも生き物にあまり興味がなさそうなのだ。
主人公は生き物どころか水族館部にあまり興味がないけど流れで入部しているし、先輩も水族館部にいる理由を聞かれて「子どもの頃からそれが当たり前だったから」みたいなことしか言わない。途中で顧問の先生=先輩の父親も出てくるが、その人もちょろっと話を展開させる要因なだけで、生き物への愛情とかは語らない。(なんなら、作者も生き物のディテールや知識は細かく書き込んでおらず、好きではあってもめちゃくちゃ好きというわけではないのだろう。)
水生生物好きとしては「じゃあ誰がこの子(生き物)たちを好きなんだよ!?」と言いたくなる。別にこれが放課後に駄弁るだけのボドゲ部とかだったらボドゲに愛情がなくても構わないのだが、水族館部というのは一応命を預かっているのだ。色々と心配になる。
それでも水族館部の活動を通して、生き物への解像度とか、「生」というものへの関心とか、生きるって何なんだろうとか、そういうことに思いを馳せながら2人の関係にも有機的に絡み合ってくるのかなと思ったら、全然話に絡んでこない。岩陰から出てこないサンショウウオを「自分に似てる」と勝手に自己投影するぐらいである。そして、お互いにどきまぎしながら日々を過ごす傍らで、なんか水族館部の活動もしているっぽいぐらいである。本当に傍らである。
少し話は逸れるが、先輩が部活をやってる理由が想像以上にぼんやりしているのは悪い意味でリアルだと感じた。卒業した先輩の意思を継ぐためとか、水族館部を途絶えさせないためとか、過疎化していく地域のためとか、部員が1人になっても意地で続けていたとか、ベタながら物語映えしそうな理由はいくらでも思いつくのに、そうしたエクスキューズが特にないのだ。まあぶっちゃけ高校生なんてぼんやり生きているのが普通ではあるのだが、学校行事として開館日を設定して、他部の生徒にも協力してもらってまで水族館の地域開放を成立させているような状況でこのぼんやり具合はうそ寒さすら感じる。
ここまで長々と語ってきたが、この作品の水族館部描写の問題点は「リアリティのなさ」とその背景に見え隠れする「リスペクトの希薄さ」に集約できそうだ。
漫画のリアリティで言うと、別に幽☆遊☆白書を読んで「死んだ人間が生き返るわけないだろ!」とか言わないし、NARUTOを読んで「実際の歴史上の忍者と違う!」とか言う人もいない。では『熱帯魚は雪に焦がれる』のリアリティのなさは、なぜ問題なのか。
創作のために多少手を加えたり省略したりするのは許されるかもしれない。しかし、この作品では生き物を扱う苦労を無視してしまっている。こうした過度な美化は、現実の存在をただ作品を飾り付けるためだけに利用してしまっている表象ではないだろうか。
これがボドゲ部や手芸部ならいい。真剣な手芸部もあれば、放課後女子会のような手芸部もあるだろう。他の部活だってそうだ。
手芸部でもなんでもよさそうな内容を、ただ画的にエモいからということで日本で唯一の水族館部に設定してしまうのは厳しいものがある。
水族館デートというのはさまざまな作品で描かれてきた。現実のデートでも定番スポットだし、漫画やアニメ、ドラマで描写するにしても水槽が鮮やかで、でも館内は暗くて、なんかエモい。水族館を訪れる人はそれで十分だと思うし、水族館職員の奮闘に思いを馳せる必要はない。
しかしこの作品では、その水族館を「内部化」することでエモさを恒常的に発生させていて、一方でその現実的な苦労を描いていない。それが「いいとこ取り」で「表面的」にしか思えない描写に繋がっているのだと思う。
以上、水生生物が好きでもないと半分以上理解できない内容ではあると思うが、『熱帯魚は雪に焦がれる』に感じた違和感を記した次第である。
なお、論評するなら最終巻まで読んでからにしろと言われそうな気もするが、連載形式の漫画にそれをする必要性はないと思っている。
この商品をみてほしい。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0C58N3JJ4
まず、この内径*mmという規格の乱雑みがすさまじい。
誰も統一規格を考えなかったのだろうかとシンプルに不思議に思う。
IT界隈ではUSB-CでのPD充電がメインになりつつあり、今後10年にわたり整然とした「充電・給電ワールド」が展開されるだろう
つまるところ土人の反対、貴人のたぐいである(なんのこっちゃ)。
おそらく欧州委員会とかががんばって統一規格にしてくれてるんだろな。しらんけど。
ああいった番組が製作される背景にどんな政治力学が働いているのか私は知らない。それこそ保守団体の肝煎りだったりするのかもしれない。
世界中どこでもやっているような企業努力をわざわざ外国人を連れてきて見学させてスゴイと言わせるみみっちさは、それだけでも馬鹿馬鹿しい。
でも私が日本スゴイ番組を見ていられないのはもう少し別の理由もある。
ある世代から上の日本人は、かつて日本がいくつかの重要な分野で世界のトップランナーだった時期があることを知っている。
ひとりひとりが無意識に誇らしく感じこそすれ、わざわざひけらかすようなムードはなかった。
ソニーがコロンビアを買収したり三菱がロックフェラーセンターを買収したりするのを見て、むしろ「あんまり派手にやってくれるなよ…」と思っていたくらいである。
その世代の一員である私が現代の日本スゴイ番組を正視できないのは、
日本スゴイ番組の存在によって、逆にいやおうなく日本の凋落を意識させられてしまう。元気があった、パワーがみなぎっていた、希望と自信に満ちていた時代が「すでに過ぎ去った」ことを見せつけられているようなのだ。